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09 06
2020

神秘思想探究

思考にとりこまれない方法――『すでに目覚めている』 ネイサン・ギル

  

 レオ・ハートンの『夢へと目覚める』があまりにもすばらしかったので、すでに悟っている系の知識と思って、この本もアマゾンで購入。

 この本もすでに悟っている系の知識もあるが、メインは「思考の脱同一化」であった。ネイサン・ギルはそれを「劇」や「ストーリー」、「登場人物」といった名称でよんでいるが、私にも覚えのある思考の脱同一化にしか思えなかった。

 ただ思考の脱同一化といっても、思考の範囲を見抜くのはむずかしく、「人生」や「自分の過去」といったものもただの思考にすぎないと気づくのはかなり骨の折れることであって、ネイサン・ギルは思考の脱同一化を超えて、「思考の風景化」をうながしていると思えた。「自分」や「主体」といったものを抜きにした、自然現象や自動的におこなわれる世界があるだけだ、という自己にまつわる風景化をうながしている。

 この本ではほとんど言及されないのだが、まさに瞑想の「言語化」であり、瞑想のしていることの意識化にほかならないと思った。瞑想では、自分の思考を雲が流れるように受動的にながめろといわれる。ネイサン・ギルは、それを「劇」や「ストーリー」、「登場人物」という名によって、思考の「風景化」をおこなっているのである。

 人は自分であるとか、この世界を理解するときに「物語化」して把握している。ネイサン・ギルがしていることは、まさに物語化された思考の脱落、脱臼である。人は自己を物語化しているという認識は、私は榎本博明の本で学んだり、似たような知識としては、ナラティブ心理学があるし、交流分析の「人生脚本」、広義には言葉が自分の人生を創っているという自己啓発も語っていることである。それと神秘思想の合体が、このネイサン・ギルの認識にうかがわれた。

 この物語、ストーリーに気づくことと、すでに悟っている知識が合体して、理解しようとする試みさえネイサン・ギルは必要がないというのである。その理解しようとしている人こそ、まさにストーリーの中の「登場人物」がしていることだとネイサン・ギルは指摘するのである。つまり、「私」を消したり、なくそうとしたり、脱落をめざす必要などない、それがストーリーにほかならないことを「見抜くこと」が大切だとネイサン・ギルはいう。

 瞑想では思考の脱落や消去が説かれる。しかしそうすれば、また「私がそれをとりのぞかなければならない」という「自己の物語」に知らず知らずのうちに呑みこまれてしまうのである。そういうすべてを思考に呑みこまれてしまう「ワナ」に警戒することが、ネイサン・ギルに指摘されている。ほんとうになにかの教えを聞くと、私たちは「~をしなければいけない」という自己の物語、思考の範囲の中の試みに、また絡み取られてしまうのである。

 この本は、思考と物語に巧妙に呑みこまれるカラクリの暴露といったものかもしれない。

 そういったなにかを探究しなければならない、つかまなければならないという「私の物語」が脱落したところと、すでに悟っている教えが合体するところから、ネイサン・ギルは語る。

「まったく単純です。あまりにも単純なので、ほとんどいつも見落とされています。「自分」が消える必要などありません。観照とか知とかそういったややこしいことを考える必要はじつはないんです。どこまでいってもあるのはこの知だけ、一体性だけで、それはいつでもじかに経験していて、いつだって今ここにあります」



 ストーリーにとりこまれて夢中になっているから、いまあることに見えなくなっているだけだとネイサン・ギルはいう。単純なんです。「何でもないもの、あるゆるもの、一体性があるだけなんです」。すでに目覚めだけがあるのです。目覚めがなかったら、ここにあるどんなものもあらわれることがありません、とネイサン・ギルはいう。

 なんでしょうかね、それ? この意味がわからないから、また思考の探究に呑みこまれる。

 なお、ネイサン・ギルは2014年に53歳の若さで、病気を苦にして自死を選んだようである。この本の中で痛みにたいする苦しみの取り除き方も語られているが、それは功を奏しなかったのだろうか。あるいはもう身体にも自己にも囚われなかったとも考えることもできる。解釈によって、ネイサン・ギルは悟っていたとも悟っていなかったとも、どちらにも転ぶことができる最期だった。





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08 28
2020

神秘思想探究

探求がやめられない人に――『夢へと目覚める』 レオ・ハートン

  

 聞いたことのない著者であり、ネットでもほぼ評判はあがっていないのだが、私にとってはすばらしい本であった。

 いわゆる「あなたはすでに悟っている」の現代的解説文なのだが、それをいくつもの方向で現代的に説明してくれる本とはいままで出会ったことはなかった。それゆえに、自分にとってはかなり学びのある本になった。

 外側をつぎつぎと探し回って探求がやめられない人、本や概念を探し回る人、よくいわれるようにベクトルを自分のほうに向けることができないなと思う人には、この本は探し回ることを止めるきっかけになる本だろう。

 「あなたはすでにそれである」

 「悟りはそもそも成就可能なものではなく、悟りを自分のものにできる個別的幻想が取り除かれることを通じてそれ自体を明らかにする」

 自分が個別的にいるという感覚がつづくかぎり、悟りは得られない。またなにか劇的な意識覚醒がおこるという超常現象もレオ・ハートンは否定する。なにも変わらない。個別的な私がいるという感覚が脱落するだけだというのである。

 こういわれば、また人は私の自我を取り除くという目的と探求に必死になり、いつものワナにはまってしまう。犬が自分のしっぽを追い回すような自分が自分の自我を落とそうと必死になる堂々めぐりに終始するだけである。

 「あなたは完全に今ここにいようと大変な努力をするかもしれないが、どこか別の場所にいることはたとえそう望んだところで可能なのだろうか。…自分が今いる場所まで何歩で行けるか考えてみよう。この瞬間に到着するのにどれほどの時間がかかるだろうか」

 知らないことはどこか別の場所やなにかを獲得すれば知ることができるという思い込みにわれわれは縛られている。だから外側に探し回る。獲得や到達の目的にはまってしまう。このベクトルを止めることが、本書ではくりかえし語られる。

 「実際にあなたはすでにこの<意識>なのであり、すでになっているものになるために何かをする必要はない。自分はまだそこにいない、自分は修行をする必要がある、「悟りという約束の地」にたどり着くために浄化や鍛錬をしなければならないという強いこだわりだけが、この認識を妨げている」

 では、すでにそれであるの「それ」とはどんなものだろうか。禅や仏教ではこれをあまり聞くことがないと思うのだが、レオ・ハートンはヒンドゥー教のブラフマン概念に近いものを提示する。

 「あなたは本当にこの意識なのだ!…もし<一なるもの>しか存在しないのであれば、それが存在するすべてであり、あなたはそれでしかありえない――それの一部(離れるもの)ではなく、そのものだ! 千の湖に映る月という魔法の幻影の催眠にかかってはならない。あるのはそれでもひとつの<自己>であり、それが多として現われているだけだ」

 レオ・ハートンはそれならわれわれは自由意志を奪われた操り人形でしかないのかと西洋人らしい疑問を呈するのだが、無力さを経験する個人はいないのだから、それはたんなる思考にすぎないと喝破できるとしている。

 「私は生きているが、それは私ではなく、キリスト――永遠のロゴス――が私の内で生きておられるのだ(ガラテヤ書)」

 レオ・ハートンはこのブラフマン的関係を、電気と家電製品のたとえで表しており、このたとえが私的には納得しやすかったが、電気は家電製品を通して動力をおこすが、家電は故障しても電気はなにも変わらない。<純粋意識><生命エネルギー>とよばれるそれは、このような関係ですべてのものに浸透しているとされる。

 私にはこれが悟りというより、ひとつの生命観の違いに思えた。個別的な生命が生きているという生命観が当たり前だが、それはたったひとつの生命エネルギーがすべての生命形態の中に生きており、個別的生命はいないという生命観だ。ただ見ている「観照者」というただひとつの存在が、すべての生命の中に生きている。これは生命観ではないのか。

 悟りの世界観は、この決して見ることのできない「観照者」「一なるもの」に気づくことだというのだが、それを宗教や修行としてではなく、なぜ生命観のひとつとして発達することはなかったのだろうかと疑問に思えた。粘菌のかたまりのようなものが、かたまりから個別に芽生えていって、そのひとつひとつに個別意識が芽生えるという生命観としてイメージできるのではないかと、私は思うのだけど。

 この世界観は、個別の自己という概念を消し去って、神や純粋意識といった存在が、「私」であるという自己変容をとげることが悟りといわれるものかと思いそうになるが、これでいいのだろうか。「私」はいなく、ただ「見ているもの」があるだけである、私の身体や行為とあらわれるものも一時的な、「私」ではないものである。「私」の脱同一化である。この理解で合っているのだろうか。

 ともあれ、外側を探究していつまでもやめられない私に、大きな転回を与えてくれる本であった。もう一度思考をなぞりたいと思うのだけど、一読しても自分の中に悟った、わかったという意識は芽生えない。なんだろ、それでも悟れないのである。

 いくら学んでも、言葉や概念、思考にからみ取られてゆく自己撞着にまた拘泥してしまったのかもしれない。悟りの道はたしかにワナと迷路だらけである。言葉で対象化してゆく時点で、また不可能な試みがくりひろげられる。対象化できないものをつかむ。いや、そもそもつかめないものである。それをどうして知るというのだろうか?






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08 16
2020

書評 労働・フリーター・ニート

人が鬼となる実例――『おさえておきたい パワハラ裁判例85』 君嶋 護男

  

 裁判例として読むより、職場においてどのようなパワハラが発生し、どんな陰惨な人間関係が巻き起こり、追いつめられたのかという実例が読める本として、参考にしたい本だった。

 裁判としてどのように裁かれたのかというより、当事者たちはどのような心理状況に追い込まれ、どうすればそこから抜け出せたのか、どう対処すればそのような目に会わずにすんだのか、事前の対処論のほうが大切に思えた。

 自殺まで追い込まれてたとえ裁かれようと、もう命は帰ってくることはない。自殺にまで追い込まれれば、生涯賃金を数千万円のレベルで被告は支払うことになるのだが、命を失った側、経済負担をかぶる側、どちらにとってももうとり返しがつかない。

 ブラック企業ではとうぜんパワハラが頻出すると思われるのだが、ある意味このパワハラ裁判例はブラック労働の見本市のようなものである。

 自衛隊での暴力事件は多く、役所でも見かけ、飲食店では長時間労働のうえに暴行や暴言がおこり、コンビニではパワハラの集大成のような事件がおこったり、またヘッドハンティングされた会社での社長のパワハラに会ったり、農協ではノルマを達成できずに自殺にまで追い込まれていたりする。

 履歴書にグラフィックデザインの過剰な自己PRを書き、能力不足でパワハラや罵倒をうけて、訴えた例は身につまされる。この例ではパワハラを認められていない。

 派遣会社で7000万円の損害金を要求され、暴行をうけ、警察に相談したが、自殺した例もあった。被告会社は数千万円の逸失利益、慰謝料、弁護士費用を判決されている。

 飲食店店長は、上司から暴行やパワハラをうけたり、女性との交際に口をはさんだり、使い走りもされ、自殺している。数千万円の逸失利益や慰謝料を請求されている。裁判で事後的に裁かれるより、この人はこの惨状からどう抜けだせばよかったのだろうか。

 貨物会社では新入社員が、長時間残業や罵倒をくりかえされ、半年余で自殺した例もある。数千万円の支払いを命じられている。消火器販売会社でも入社8ヶ月で自殺した例もあり、数千万円の判決。だが、ここまで追いつめられる前にせめて会社から逃れてもよいのだ、ほかに選択肢があるという知識がすこしでもあれば、命を断つことはなかったのにと思う。

  護岸工事の所長が工期の遅れやミスによって、発注先から罵倒され、自殺を図り、うつ病と診断された例もある。

 農協でのノルマ未達成によるパワハラはこの本に何例か出ているのだが、支店長から暴力をふるわれ、「自殺するなよ」と笑って言われ、最期に車で地方を旅して自殺した話は、壮絶である。旅に逃れることができたのなら命を断つことはなかったのに思うのだが、会社の業務と自分のアイデンティティや責任を切り分けることができないほど、仕事と自分の一体化があるのだろう。

 ちょっと古いところでは共産党員であることの差別への裁判も数例しめされており、企業にとって共産党がそんなに脅威なのか、私にはうかがいしれないところがある。

 パワハラやセクハラは言葉で出せば軽い印象がもたれるが、じっさいの当事者にとってはうつ病や自殺にまで追い込まれる壮絶な体験である。人間の恐さ、恐喝や脅し、暴力などの人が人と思えない残虐な心理が迫ってくる壮絶な思いをするものである。

 できればこんな経験はしたくないし、もしそのような目に会いそうになれば、どうやって対処し、逃れたらいいのか、その対処策を知られるほうがもっと大事だと思う。人間関係の相克や争い、悪化はどこでも転がっている。どこでそういう目に会ってしまうかわかったものではない。裁判で裁かれるより、渦中において対処法がもっと知られるほうが、人の救いになると思う。対処法の啓蒙がもっと広がってほしいものである。






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プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

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