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03 20
2017

幻想現実論再読

人類の壮大なフィクションが存在しないこと

 映画やマンガは存在しないフィクションであるが、泣いたり、感動したりして感情移入の度合いが深いのだが、それがまったくどこにも存在しない虚構であることには、深く思い入ることもない。

 あんなに感動した物語を、まったくぽっかりと穴の開いたような存在しないものと思いたくない。われわれの人生や世界もそのままである。ぽっかりと穴の開いた虚空だと思いたくない。

 人類は壮大なフィクションをはりめぐらせていて、それを存在しないものと思いもしなくなっている。

 人類の壮大なフィクションの仮構四大物として、「会話」、「思考」、「時間」、「自我」をあげたい。

 会話というのは、だいたいは目の前に存在しないものにたいして交わされるものである。「あの人がどうだった」「きのう、なにがあった」だの、存在しないものをおもにとりあつかう。もはや存在しないものを、あたかも「現実に」、「目の前にあるがごとく」思い込む能力が、人間の会話にあらわれる。そしてそれを「存在しないもの」ともはや思いもしなくなっている。

 「思考」もそうである。存在しない想像力である。しかしあたかも現実にあるかのように、真に迫ったものとして、われわれには認識されるようになっている。思ったり、感じたりしただけのものなのに、それが「絶対の真実」や「ほかに選択肢のない判断」のように受けとるようになっている。

 「過去」も、もはや瞬間瞬間に飛び去ってゆくものなので、われわれが捉えるときにはすでに過去になり、もはや「存在しない」ものになっている。それなのに、過去は「現実にあるもの」、あたかも「目の前にあるもの」のように捉えられる。

 われわれは、存在しないものを現実にあるかのように思い込む認識に覆いつくされているのであって、このような認識のありかたが人間の特徴であるからこそ、映画やマンガの虚構を現実のように感動したり、泣いたり、思い入れができるのである。

 つまりは過去というもはや存在しないものを認識することが人間の認識能力だからこそ、映画や物語のフィクションは現実のように感情移入ができるのである。過去がフィクションであるからこそ、われわれは虚構に入れ込むことができる。現実といわれるものが、フィクションとしか認識できないからこそ、映画やフィクションはふつうのように楽しめるのである。

 われわれは、「過去はある」と思って暮らしている。しかし、もはや時間は去っていき、過去はどこにも存在しなくなっている。記憶や回想によってそれは捉えなおされるのだが、もはやそれは存在しなくなっている。フィクションとしか、人間は過去を認識できないのである。

 われわれの社会は、思考というものをとても大切にする。能力や才能や、功績をもたらすものは思考なのだから、もっともっと考えることを奨励される。しかし、思考というのもどこにも存在しないもので、頭の中にしか存在しないものであることは忘れられる。

 思考に集中し、過去をなんども思い出し、反省したり、検討したり、改善したりしようとすることが習い性になっている。そのうちに、思考すること、考えることが、自分という存在であると思い込むようになり、思考以外にわたしはありえないと思い込むようになる。しかし思考というのはどこにも存在しないもので、頭の中にしか存在しないものではなかったのか。

 考えるわたしは、過去に人が自分をどうあつかったか、どのような言動をしたか、わたしはなにをいったかばかり過去を反芻するようになり、羞恥や後悔や、屈辱にまみれてゆく。そういう過去の反芻や思考でのイメージによって、「わたしとはこのような人物」であるというイメージがつくられてゆく。これが「自我」や「わたし」といわれるものである。

 しかし思考やイメージというのは、存在しないものであり、頭の中以外にどこも存在しないものではなかったのか。思考にどっぷりに染まった人間にはもはやそれが存在しないイメージであるということを忘れ、それ以外に自分はありえないと思い込むようになる。

 「イメージ」というのは、わたしなのだろうか。わたしは身体をまとった存在であり、頭の中のわたしとは、このわたしの全部を代表する存在なのだろうか。それは地図を現実の土地のように思い込むまちがいではないのか。さらには、思考やイメージといったものは、頭の中以外にどこにも存在しない。

 私たちは、頭の中で思い描いたものにすぎないものを、現実と思うカンチガイにはまってゆく。宇宙を想像しても、それは現実の宇宙ではない。われわれは宇宙そのものを地球から出て見ることはできない。映像や写真は伝達されるが、それはイメージでしかないもので、現実ではない。

 こうやって、われわれは存在しない壮大なフィクションの世界にどっぷり浸かってゆく。思考や過去など存在しないものが現実であると思い込む世界にどっぷりと浸かる。思い描かれた存在しないものが、現実に存在するものという思い込みにはまってゆくのである。

 虚構の劇場が問題になるのは、それが壊れた機械のように、つらいこと、いやなこと、悲しいことばかり再演するばあいだろう。人は問題や危機となることを再検討するようにできている。問題から逃れることが生物としては大切だからである。そうするとつらいこと、いやなことばかり再現する壊れた機械になってしまう。

 時間は永遠に去ってもはやどこにも存在しないのに、回想や思考はそればかりをくりかえし見るようになる。存在しない悪夢はいつでも再演可能である。虚構の劇場から出れなくなったわれわれは、それが存在しない想像であることに思いもよらなくなっている。

 存在しない想像であることに気づくことは大切なことなのである。

 人間の仮構四大物に加えて、もうひとつ大切なことを忘れていた。人間は外界を変えることでしか幸福になれないという思い込みが現代ではずいぶん強くなったということである。

 その前に思考や判断という自分の考えが自分を傷めつけていることに思いもよらずに、外界が変わらないとその痛みは去らないと思っている。思考は選択できるという知識をもたないと、外界からいつまでも傷めつけられる哀れな外界の犠牲者になってしまう。

 「外界」という仮構物、あるいは初歩的な思い込みによって、われわれはたいそう世界から傷めつけられる存在になった。気をつけたいところである。

 われわれはフィクションにまみれた世界に暮らしている。それが存在しないもの、想像にすぎないことに思いもよらないものになっている。フィクションの中で、悲しんだり、苦しんだり、嘆いたりしている。

 その虚構世界が現実には存在しないこと、ただの想像力にすぎないことに気づいたら、わたしたちはずいぶん苦しみから解放されるのではないだろうか。

 それは存在しない。それは想像にすぎない。しかしわれわれはあまりにも存在しない想像にすぎないものを現実に、リアルに存在すると思い込む世界観に浸かっているために、虚構の劇場の悲劇からは逃れられないのである。


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03 19
2017

幻想現実論再読

自我の情けなさ――『グルジェフとクリシュナムルティ』 ハリー ベンジャミン

4795223661グルジェフとクリシュナムルティ
―エソテリック心理学入門

ハリー ベンジャミン Harry Benjamin
コスモスライブラリー 2000-09

by G-Tools


 禅やキリスト教などでよく「自己を落とせ」といわれるのだが、なんのことかよくわからないと思う。この本を読めば、自我の情けなさがあぶり出されていて、自我にしがみつくのはやめようと思える本である。

 この本はおもにグルジェフの思想を紹介したものであり、正確にはその研究であるモーリス・ニコルの『グルジェフとウスペンスキーの教えに関する心理学的注解』から得られたものが主になっているが、翻訳はされていない。

「われわれが自分自身と呼んでいるものは、単に想像上の存在または錯覚にしかすぎない。それはなんら存在しないのである」



 グルジェフはいくつもの「わたし」がぶつかりあっていて、それをなんとか統合して同一のものとしてあつかっているのが、われわれの自己像なのだという。そしてそれは社会的に条件づけられた「機械」にしかすぎず、われわれはこの条件付けをくりかえし反応する機械でしかないという。ほかの覚者がいうような「眠っている、夢見ている状態」のことである。

 それを思考したり、言葉でものごとを捉えたり、過去を思い出したりして反芻していることと捉えていいかもしれない。頭の中の「わたし」はそうやって意識の中心をしめ、人にどう思われているか、あのときにあの人の反応とかを思い出しながら、そういう思考する意識を「わたし」だと思って暮らしている。

 その自我の仕事や存在理由はなにかというと、ハリー・ベンジャミンはこうのべる。

「人間は――どれほど他人によって否認されても――自分が何をしようと、言おうと、あるいは考えようと自分は正しいと自分自身の内部で確認しつつ、暮らしていくのである。

自己正当化の明白な目的は、われわれの士気――われわれが自分だと思っているパーソナリティ=人格の士気――にとって不可欠の、われわれ自身のプライドとわれわれ自身への信念を強めることである。

それは自身に何らの真の価値をもたず、そして基本的にそのことを知っているので、まったく錯覚に基づいた自分自身の価値感覚なしには生きることができないのである」



 そしてその自我がやることといえば、まるで人の頭をのぞいたのかと思えるほどの「頭の中のおしゃべり」というものの内容があからさまにされる。

「われわれは非常にしばしば、他人について、またかれらがわれわれを扱う、またはわれわれを軽んずる、またはわれわれを避けるなどなどの恥ずべきやり方について、しゃべっている。

例えば、われわれは、一定のこと――他人からの敬意など――はわれわれに帰せられる、他の人々はわれわれを好きになるべきだ、われわれは常に幸福であるべきだ、われわれは楽しい仕事、快適な家庭生活、等々を持つべきだ、外部のものごとがわれわれの安楽や楽しみを妨げるべきではない、などなどと思うかもしれない。

内なるおしゃべりの基盤は、どんな形でわれわれに来るにせよ、まさに内なる不平不満なのである。

要するに、内なるおしゃべりを通じて、われわれは自己正当化と自己賛美キャンペーンをおこない、それによって自分自身を最高度の自己評価価値に保つのである」



 頭の中のおしゃべりに覚えはないだろうか。自我というのはじつに情けないことをしている。しかもそれは想像上の産物にしかすぎない。わたしたちはこういう思考や自我をわたし自身だと思い込み、同一化しているのだが、それによって自我に翻弄され、自我の悲哀や悲嘆にくれることになる。この過ちから離れることが、わたしたちに心の安楽をもたらすのである。

 このような自我や思考の働き方を奥でながめている「真のわたし」がいるとベンジャミンやグルジェフはいうわけだが、そうなると宗教的段階になるわけだが、こういう自我からの離脱が、心の平安をもたらすのはまちがいない。

 この本は自我の情けなさから、自我の離脱をめざせるようになるだけで、じゅうぶんに価値ある本だと思うが、ちょっとほかの点でエソテリズム=秘教的すぎたり、グルジェフの独特の宇宙観がのべられていたり、研究書なむずかしさもある。

 人の頭をのぞいたのかと思うほどの情けない自我のありようを記述されるだけで、大きな収穫である。こういう「頭の中のわたし」の同一化はもう避けたいと思えるようになる。それが「自己を捨てる」ということではないだろうか。

 「自己を捨てろ」とあちこちでいわれることがわからないなと思う人は、この本に答えがあったといえるかもしれない。


生は「私が存在し」て初めて真実となるグルジェフ・ワーク―生涯と思想 (mind books)グルジェフから40年―ワーク実践のためのガイドグルジェフ・ワークの実際―性格に対するスピリチュアル・アプローチベルゼバブの孫への話―人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判

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03 15
2017

幻想現実論再読

時間の幻想性に気づけ――『人生が楽になる 超シンプルなさとり方』 エックハルト・トール

4199060030人生が楽になる 超シンプルなさとり方
(5次元文庫)

エックハルト・トール
徳間書店 2007-11-09

by G-Tools


 エックハルト・トールのこの本ほど悟りについてわかりやすく書かれた本はないと思う。悟りというか、人間が陥る認識の誤りだと思うのだけどね。

 それには時間の幻想性についてたしかめてみるのがいちばんだ。よく「いま、ここ」に注目しろといわれるが、それには時間の幻想性を知らないとなかなかわかりにくいのではないかと思う。

「これまであなたは、「いま」以外の時に、なにかを経験したり、おこなったり、考えたり、感じたりしたことがあったでしょうか?
「いま」以外の時に、なにかが起きたり、存在したりすることは可能でしょうか?

過去には、なにひとつ起こっていません。
起こったのは、「いま」なのです。

未来には、なにひとつ起こりません。
すべては「いま」、起こるのです」



 時間というのは奈落の底に呑みこまれるように、瞬間瞬間、終わってゆく。それなのに過去の想起や思考がいつまでも過去を終わらせない。そのことによっていつまでも過去の後悔や羞恥や屈辱にさいなまされる。もはや永遠に存在しなくなった幻想の過去をいつまでもむしかえすのが思考である。

 しだいに人は「思考はわたしである」と思い込むようになる。「思考こそがわたし」「思考こそがすべて」「思考のないわたしは存在しない」「思考のない者は奴隷か、痴呆だ」と思い込むようになる。

 しかし思考というのは、もはや永久に失ってしまった過去の後悔や悩みをいつまでも存在させるものである。そのことによって、われわれの苦悩や苦痛はしじゅう再演されるようになる。人間の苦悩の構造は、思考による過去の再演や時間の想起にあるのである。

 エックハルト・トールを読むと、われわれの社会や学校がいかに思考を奨励し、思考を崇拝させる社会か、思い起こさせる。考えたり、計画したり、反省したり、改善するために思考を使いなさいと教えられる社会である。

 思考に悪を見たり、害悪を見ることは禁止されるか、もしくは思いもよらない社会になっている。そのために思考に自分のアイデンティティを重ねた人は、思考による苦悩、苦痛から逃れられなくなり、思考による病のうつ病になっても、その原因や解消策に気づけない。もはや思考が感情やうつ感情を生み出していることに思いもよらない社会になっている。

 あなたが苦痛や苦悩にまみれていまの状況や現実にさいなまされているときに、エックハルト・トールはたずねる。

「しかし、「いま、この瞬間」に、なにか問題がありますか?」



 わたしたちは思考や時間の幻想性にまったく気づけずに、思考や時間のフィクションにずっと苦悩を背負い込まされているのである。

 そして、思考がわたし、自分自身になった人には、思考が害悪をもたらしているとは思いもよらなくなっている。

 ほかに、「大いなる存在」の一体感については、わたしはわからない。「インナーボディ」という存在にも気づけない。

 エックハルト・トールは、感情の痛みを「ペインボディ」という言葉で表現しているのだが、これは「たとえ」であって、まちがって「実体化」して捉えてしまわないかと危惧する。エックハルト・トールがいっているのは、外界を自分の外側だと捉えたために、自分の思考の被害者になっている状態に気づけないことだと思う。これはウェイン・ダイアーやジャンポルスキーのほうがわかりやすい。

 人間は時間はあると思い、思考に自分を重ねている。そのことによって永久に去ってしまった過去をいつまでも再現し、苦悩し、悲観に暮れる。だが、そんなものは時間とともに永久に去ってしまったのだ。思考や想起の能力があるために、人は永遠の苦悩をいつまでも「呼び出し可能」になった。時間を見ると、そういうたんじゅんな認識のあやまちがわかりやすくなる。

 思考というのは、それ自体が幻想であり、存在しないものである。しかし人は思考を使いつづけて、それが「現実」や「実体」としてあるように思うようになる。思考こそがわたしであり、それ以外の認識形態はないように思うようになる。苦悩はいつでも再現可能の地獄を見るようになるのだ。

 たんに大脳新皮質の思考する・想像する能力による過ちに思える。これを現実化、実体化してしまった人間の悲劇を、われわれ自身が治せなくなっている。でもそうすることが「宗教」だといわれてしまうのだから、われわれの社会は、認識のあやまりや思考に同一化することに意地でもしがみたい社会らしい。メリットが大きすぎて、害悪を見ないのである。

 宗教ではなくて、たんに認識の誤りであると受け入れられるようになるのはいつのことだろう。


さとりをひらくと人生はシンプルで楽になるわたしは「いま、この瞬間」を大切に生きますニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-最初で最後の自由(覚醒ブックス)DVDブック マインドとの同一化から目覚め、プレゼンスに生きる ―「覚醒」超入門(覚醒ブックス) (<DVD>)

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