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01 28
2018

幻想現実論再読

想像力の実在を信じた文明の悲劇

 言語は、「いま・ここ」にないものを言葉にして、そこにないものを実在のものと思わせる作用をもつ。

 たとえば、目の前にいない人のことをしゃべったり、終わった過去のことを話しているとき、いずれもその対象はもう存在しない。存在しないにもかかわらず、それがあたかも実在しているかのように、人は捉えることができる。

 このような実在しないものを現実にあるかのように捉える能力は、映画やマンガなどのフィクション視聴にも活かされて、現実には存在しない物語に、われわれは一喜一憂できるようになる。いっておくが、これは現実にどこにも実在しないものなのにである。

 マスコミでよく言われる言葉に、空想と現実の区別がつかないから犯罪を犯したといわれるのだが、空想と現実のあいだはそうなまやさしいものではない。言葉で話していることは、現実に存在していることより、空想や想像とよばれる範疇のほうが多いのではないのか。

 文明のビルや道路といったものも、物体として現実にあるのは、たしかである。しかしそれはもともとは、人の頭の中にあった想像や設計が、現実に建造されたものである。

 目の前にビルや道路があるのは、現実である。しかし、さいしょは存在しない想像や設計として頭の中にあるだけの状態があって、現実の世界につくりだされた。それの空想と現実のあいだは、どこにあるのだろう?

 養老孟司は、このような脳の中の創造が、現実に創出された状態を、「脳化社会」とよんだ。脳の中で空想されたものが、現実に生み出されるのが、われわれの文明である。

 ディズニーランドは、空想のアニメから生み出された現実のレジャーランドである。物体として存在するものはもちろん現実である。しかし、空想のアニメと現実の創作物はどこで区分けされるのだろう。

 これは言語が、目の前や過去に存在しないものを、あたかも現実に存在するかのように思う状態に似てはいないだろうか。頭で思う空想や想像であっても、現実の実在と区別や線引きもされない状態も、われわれには多いのである。

 たとえば、夫の浮気を疑う妻の疑惑は、ただの空想と思っているのか、もはや現実の事実と思われているのか。たとえば、だれかが自分の悪口をいっているように聞こえて、自分は嫌われているのではないかという思いは、現実なのか、空想なのか。空想と現実の区別は、思いのほか、われわれには明瞭に線引きをされているわけではない。

 この社会に、国家や会社や学校があるのは、あたりまえと思われている。しかし、その国家や会社、学校は建物の中にあるのか、外側にあるのか、壁にあるのか、ある一室にあるのかと問われると、焦点を定められない。こういった国家や会社といったものは、われわれがその機能や役割をおこなう場所という約束があるから、われわれにはそれが国家や会社と思われているだけではないのか。犬やネコに国家も会社もない。これらは空想なのか、現実にあるものなのか。

 われわれは思う以上に、空想と実在の区別をつけていない。空想の世界を実在の世界の中に生み出し、どんどん増殖させて、それを文明の発展や人類の進歩だと思いたがっているようである。そして、空想と現実の区別もあいまいになってゆく。

 空想を現実に現出させ、現実と区別をつけないようになってゆくと、人は実在しない恐れや不安、苦悩といった災厄も、つけくわえるようになった。わたしたちの悩みや苦悩は、現実には存在しない空想された仮構のほうが多いのではないのか。けれども、創造と現実の区別がつなかくなっているわれわれは、その想像上の苦悩に囚われたままである。

 われわれの社会は、空想や想像の価値をひじょうに高くおく。文明や技術の創造と発展の力を生み出したのは、それらの能力である。そして、同時にそれと同じほどの大きな恐れや苦悩も生み出したのではないのか。

 想像と現実の区別はついているのだろうか。たとえば、過去を思い出して、泣いたり、苦しんだりする人が、いないことなんてないだろう。しかし、それはもはやこの地球上のどこにも存在しない。わかっていても、苦しむ。未来を不安に思ったり、将来かならずやってくる自分の死にたいして恐れない人はいないだろう。でも、それってほんとうは、実在しない、まだ来ない空想ではないのか? 空想を脅えているにすぎないのではないのか。想像にすぎないと思っても、不安に押しつぶされる。

 いずれ、無に帰してしまう人間は、自分の一個の生をこの世に刻印しようとして、生きた証しを残しておこうとする。言語は記録を残しておこうとする。文明はビルや建造物をつくり、後世に残しておこうとする。人は有名になって後世にまで名を残しておきたいと思う。それらは、想像力の巨大な建造物ではないのか。そして、想像というのは、実在しない空想ではないのか。虚無や無ではないのか。

 時間の流れは、川の流れのように一時もとどまることはない。わたしたちの一瞬一瞬は過去になってゆき、いずれわたしたちの生命は終わり、文明もがれきや砂に帰すだろう。わたしたちは時間の流れの中で、一時も時間も事物もとどめておけない世界に住んでいるのではないのか。問答無用で、命も文明も時間のかなたに吹き飛ばされる。

 しかし、わたしたちの言語は違う。過去も未来も、あたかも現実に存在するかのようにふらふらと時間の無常からさまよいだす。ビルや建造物、文字や文書、写真や映像に残せば、あたかも時間を超越できるように思う。しかし、いずれは悠久の時の流れには、太刀打ちできずに、塵芥と化すだろう。

 わたしたちは、想像力の文明の飛躍と、想像力の巨大な恐怖や苦悩も知ってしまったのである。想像力がなければ知らなかった死の恐怖や、想像力の恐怖を知ってしまった。そしてまた想像力の助けを借りて、その恐れを埋めようとする。言語や文明はそれを助けてきたのではないのか。そして、流れ去る時間になんとか抵抗しようとする。

 人は想像力を手に入れた時から、とてつもない恐怖も同時に抱え込んだのである。自分の命の終わりという想像を。そして、時間を打ち消せるような回想であったり、文明であったり、記憶に、みずからの生命の永続を頼るようになったのではないのか。

 もし、その想像がまったく無いものだとしたら、まったく存在しないものだとしたら、われわれは巨大な苦悩も背負わず、また文明や創造もおこなわなかったかもしれない。

 想像力がまったく存在しない虚無だとわかったとき、われわれはただ流れてゆく時間の中で、苦悩も創出ももたない安らぎの中で暮らせるのだろうか。



4480084398唯脳論 (ちくま学芸文庫)
養老 孟司
筑摩書房 1998-10-01

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4588099116シミュラークルとシミュレーション (叢書・ウニベルシタス)
ジャン ボードリヤール Jean Baudrillard
法政大学出版局 2008-06-01

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4839700079般若心経―バグワン・シュリ・ラジニーシ、色即是空を語る
バグワン・シュリ・ラジニーシ スワミ・プレム・プラブッダ
めるくまーる 1993-08

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01 27
2018

幻想現実論再読

認知システムに当てはまるかたちで――『神はなぜいるのか?』  パスカル・ボイヤー

4757101740神はなぜいるのか?
パスカル・ボイヤー Pascal Boyer
NTT出版 (叢書コムニス 6)
2008-03

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 言語が創作するフィクションとしての宗教にはわたしは信をおかないのだが、言語を否定した神秘思想や禅も宗教としてくくられるのだから、言語で創作された宗教にも手を伸ばさないわけにはいかない。

 そういうことで、人類学者が書いた認知科学と進化心理学を応用した2001年のこの本を読んでみた。人類学者だから、キリスト教のような世界宗教だけではなく、未開民族の悪霊や祖先信仰のような宗教も、ここではたくさんふくまれている。

 宗教は従来、説明を与える、安らぎを与える、社会に秩序を与える、認知的錯覚だとかいわれてきた。その通説にたいして反論や疑問を呈するのが本書である。

 宗教は安らぎを与えるだとかいわれてきたのだが、霊や神は恐れや不安をもよわせるばあいも多い。

 本文428ページで、二段組みの多い文量であるが、論証の手際の鮮やかにすらすらと読ませる書物であると思うが、わたしには議論が錯綜してきて、森の中のラビリンスにあちこち巡らされたうえに、元来た道がわからないといった、最後に結論はなんだったんだ?となる書である。

 まあ、人間には存在カテゴリや推論システムといった心の認知システムがあって、このシステムに適合するかたちに宗教的説明があてはまり、宗教はその形態に寄生するのだといった説明のようである。

 霊や神は、見えない恐れである捕食者に似ているのではないかという説が出てきているが、見えない捕食者を「過剰検出」する認知の構造が人間にあって、その形態に宗教はあてはまるのではないかと。

 また、神や霊との関係には道徳的応酬の関係があるが、ほかの推論システムと統合されておらず、そのスキマに一見荒唐無稽な宗教説明であったとしても、あてはまるとかいわれている。

 人類がこの世界で生き残るために発達させてきた推論システムや認知システム、道徳的関係、集団関係などの要因が重なって、宗教説明がその認知構造にあてはまってきた、ということではないかと思う。

 いや、前述のとおり、よく把握できていないので、興味をもたれた方は本書にあたるのがいいでしょう。

 わたしの関心興味は、言語の非実在性のほうにあるので、この本のテーマは現在のわたしには強い関心をひかれるテーマではなかった。

 宗教は、神秘思想や禅のように言語を否定し、その非実在性を剥がしてゆく行為も中核にあったわけで、言語で創出してゆく神や霊概念がどうしてひとつの宗教としてくくられてきたのか、そちらのほうにわたしには関心がある。

 なんで言語創出と言語否定の行為が、神や霊という概念で結びつけられたのでしょうね?



宗教を生みだす本能 ―進化論からみたヒトと信仰解明される宗教 進化論的アプローチヒトはなぜ神を信じるのか―信仰する本能神は妄想である―宗教との決別21世紀の宗教研究: 脳科学・進化生物学と宗教学の接点


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01 21
2018

幻想現実論再読

「中論」と「霊操」の比較――『禅仏教とキリスト教神秘主義』 門脇 佳吉

4000287869禅仏教とキリスト教神秘主義
(岩波人文書セレクション)

門脇 佳吉
岩波書店 2014-10-16

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 わたしは禅が言語とその実在を否定した教えであるにたいし、キリスト教は言語とその実在を信じたうえでの言語上でのセラピーだと見なしている。

 言語の否定と肯定はほんらいは同居できないはずなのだが、言語の実在を肯定したキリスト教にしろ浄土宗にしろ、同じ宗教として括られるのはずいぶん疑問である。

 言語の実在を肯定したキリスト教では、言語否定をおこなう禅や神秘思想と、同じ地点にたどりつけるのだろうか。言語表象は、無や空をとなえた地点と、過程はあまりにも違うが、同じ神秘体験にたどりつけるのだろうか。

 著者はカトリック教の修行や学問をへて、禅の修行や学問もおこなった東西宗教の境界に立てる人であり、比較宗教をおこなっている。主観的で内的な体験もへたうえでの比較宗教であるから、かなり貴重な人だといえるのではないだろうか。

 エックハルトの研究もそうだし、ナーガルジュナの『中論』と、イグナチオ・デ・ロヨラの『霊操』の共通点と相違点を比較する視点はすごいと思う。

 最終章にこの著者がキリスト教と禅をへた自叙を書いているのだが、これはいったいだれの理解力に向けて書かれているのかと思うほど、言語に込めた意味のひとりよがり度もなかなかのものである。イグナチオ的霊的自己とか、アリストテレス的表層意識なんてだれが理解するのだろう。

 まあ、難解なこともあるが、ナーガルジュナとロヨラの修行の過程には興味あリ、もう一度熟読しないと理解に達せられないと思うのだが、まあ、いまのわたしにはこういう険しい山の向こうになにかを見つけたいわけではない。


 なお、同じような本として、鈴木大拙の『神秘主義 キリスト教と仏教』という本も読んだのだが、得るものがあまりにもなかったので、割愛させていただく。エックハルトや輪廻について語ったり、妙好人について詩を載せているのだが、感銘させられるものがほぼなかった。鈴木大拙のリスペクトがないというわけではないのだけど。

4000233904神秘主義 ーキリスト教と仏教ー
鈴木 大拙 坂東 性純 訳
岩波書店 2004-02-27

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中論「改訂版」霊操 (岩波文庫)ある巡礼者の物語 (岩波文庫)哲学コレクション〈4〉非神秘主義―禅とエックハルト (岩波現代文庫)自己認識への道―禅とキリスト教


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