HOME   >>  
05 11
2017

バイク・ツーリング

GWの群馬までツーリング ~軽井沢~東京多摩~静岡篇

 GWの6日間、大阪から群馬までツーリングの足を伸ばしました。日光までいく予定でしたが、時間が足りなそうなのであきらめました。

 噂に聞く軽井沢に寄ったり、東京の福生市で米軍横田基地を見たり、東京都の山奥・奥多摩を見たり、富士山は雲にかかって見えないなどのツーリングを楽しみました。

 最終日は静岡から大阪まで帰らなければならない切羽詰まった状態になりましたが、1号線のバイパスが怖くて、市街地道が見つからなくて、最終日には自宅に帰れず、連休明けの昼からの仕事には、三重から必死に帰りました。

 今回はスマホ・デビューのツーリングでしたので、苦労しまくったネットカフェ探しはすぐにすみましたが、スケール感をつかめずに距離時間でけっこう苦労したかもしれません。

 GWは昼夜の気温の差で服装選びがけっこう難しかったりしますが、平地の昼間がいくら真夏に近くても山上は真冬なので、冬装備は欠かせません。

 緑と自然のシャワーを浴びまくった6日間の記録です。


P_20170503_173317.jpg
高速は乗りたくないので名阪を避けて、津についたのは夕方。風の強いGWなので、波音がざざざーっと鳴っていました。

P_20170504_051246.jpg
ネットカフェは朝の5時くらいに出て、日が照ってくるまでは河川や公園で休憩です。朝焼けの雲が水面にうつっています。明鏡止水の境地にしばし思いにふけります。

P_20170504_082142.jpg
豊田市から山塊に入って、飯田市までののどかな山奥の風景をたのしみます。

P_20170504_102728.jpg
飯田市にかけて桜?のような花が各地を彩っておりましたが、美をもとめる当地の人の気もちがつたわってきました。

P_20170504_110048.jpg
細長く伸びる平地の飯田市から伊那市にかけての風景ですね。ここらの土地には農業の自営業的な創意工夫の風土が垣間見えるところに思えますね。

P_20170504_125234.jpg
いままで何度も長野県に足を運んだのは、このような雪のかぶったアルプスの山岳風景を見たかったからです。はじめて、こんなに鮮やかに見れた気がします。

P_20170504_145645.jpg
関西の人にはきっと違和感のある黒光りする墓石風景は、長野県あたりから東の土地に根づいているのでしょうか。

P_20170504_164817.jpg
茅野市のヴィーナスラインの分岐地点では、どちらを向いても壮大な風景がひろがっていました。大好きな風景ですが、今回は軽く山越えするつもりで、ヴィーナスラインは避けましたが。

P_20170504_172626.jpg
平地に降りるために軽い山越えルートを選んだつもりでしたが、とんでもない高度にまで上げられたメルヘン街道。雪が残るほど厳しい寒さが残っていました。


P_20170505_043629.jpg
佐久市のネットカフェを早朝に出て、河川や田んぼを移動してゆく霧を見ました。不思議な幻想的な光景でした。

P_20170505_062857.jpg
避暑地として名高い軽井沢の公園から浅間山をながめた図です。早朝のツーリングで冷え切りましたので、避暑なんてできません。

P_20170505_083519.jpg
軽井沢から降りてくる山中は緑が鮮やかな新緑がまぶしく、廃線後のハイキングが楽しめるコースもありましたね。

この日は群馬の前橋までいきましたが、3日目の折り返し地点に日光までいく余裕がないと断念して、17号線でずっと東京のほうをめざしました。渋滞に倦んで、青梅市から奥多摩をこえようとしましたが、日が暮れる前に羽村市のネットカフェに撃沈です。

20170506_063055543.jpg
福生市で米軍横田基地を見て回ります。基地の中にふつうに団地があるのですね。米軍カルチャーの文化流入があった土地だと村上龍の本から聞いていました。

20170506_071835289.jpg
東京都にもこんな山奥の風景があると撮りたくて、青梅市から奥多摩の山道を選びました。ここもれっきとした東京都です。

P_20170506_104335.jpg
多摩から富士吉田市にかけては、しずかな山奥の風景をたのしめました。

P_20170506_104342.jpg
こういうのどかな原風景をたのしむためには、関東までわざわざくる必要はないのですけどね。

P_20170506_120908.jpg
ああ。だめだ。きょうは富士山に雲がかかっていて、全景を見れない。

P_20170506_140617.jpg
本栖湖には霧がかかっていて、すごいスピードで移動しているのがわかりました。富士山の高原はいつもかなり寒いですね。

P_20170506_142358.jpg
今回のベストショットですかね。こういう山のうねに幾重も囲まれた山深い風景が、人里から離れた解放感をあたえてくれます。

P_20170506_145902.jpg
富士川も雄大な風景をかたちづくっていますね。どことなく熊野川をほうふつさせる河川の展望です。


連休最終日になってもまだ静岡の島田市。わたしの下道スピードでは名古屋にたどりついていないと大阪に帰れません。ひたすら1号線をひた走るつもりでしたが、バイパス・スピードに恐れをなして、市街地道路をさがしてぜんぜん歩をすすめません。


20170507_074240375.jpg
連休最終日、ようやく浜名湖到着。1号線とバイパスを避けるとろくに距離を稼げません。最終日に大阪につかなければならないのに困った、困った。

20170507_081743875.jpg
遠州灘のサーファーがいる海岸。バイパスを避けているのに、高速スピードのバイパスを走らされたりして、ほうほうのていになりました。

P_20170507_114237.jpg
名古屋への23号線もバイパス・スピードがすごくて、直角の知多半島ルートを通るしかありませんでした。碧南市の矢作川で疲れ果てていました。この日はなんとか三重県の津にたどりつきましたが、連休最終日に自宅につけないなんとも残念な結果になりました。

P_20170508_063051.jpg
仕事は昼からなので、早朝に三重県の津のネットカフェを出て、連休明けの平日の三重の山の中を走りました。朝からとってもよい景色。Googleでは3時間でつけるというのですが、5時間かかりました。


 こんかいは1号線や23号線のバイパスの高速スピードに悩まされて、急ぎ足で帰れませんでした。タイヤもすり減っていて、事故ればあの世行きのバイクで、高速スピードで走りたくありませんでした。時間の余裕のできるツーリング日程が必要だと思いました。

 1日目 大阪→名古屋市
 2日目 →長野県佐久市
 3日目 →東京都羽村市
 4日目 →静岡県島田市
 5日目 →三重県津市
 6日目 →大阪

 費用はネットカフェ利用で、だいたい三万以内におさまりましたね。


関連記事
04 29
2017

幻想現実論再読

「見るもの」と「見られるもの」の分離――『意識のスペクトル』 ケン・ウィルバー

316n1KylMBL__SL500_BO1,204,203,200_意識のスペクトル 1 意識の進化
ケン・ウィルバー
春秋社 1985-05

by G-Tools


21zbHXe__HL__BO1,204,203,200_意識のスペクトル 2 意識の深化
ケン・ウィルバー
春秋社 1985-12

by G-Tools


 この本の後に出された『無境界』がコンパクト版であり、簡明版であり、本書はもっと詳細で、ところどころ難解であり、見出しも少なくて長い文章につかれるところもある。

 構成はおなじ順番で、悟りの世界が描かれ、つぎに自我と影、身体と環境といった狭められた自己の境界がのべられ、さいごに悟りの世界にもどってくる構成になっている。

 悟りの世界の説明や多くの引用にうちのめされる貴重な紹介書となっており、ケン・ウィルバーの論理を極めた文章にはじめてその世界の詳細を知りえた気持ちになれるのだが、実感や腑に落ちた感がともなわない欲求不満を感じてしまう本である。

「このように、われわれが知る世界が、世界そのものを見るために構築されるという事実からわれわれは逃れられない。だが、そのためにはまず、少なくても見る状態と見られる状態とに、世界そのものを分断しなければならないのは明白である」 スペンサー・ブラウン



 わたしたちは世界を見るためにまず世界を分断する。「見るもの」と「見られるもの」の分断をもたらして、はじめて世界は「知られるもの」となる。

「ページという別の感覚を知覚するわたし自身と呼ばれる感覚が、存在するわけなどないのだ! 一つの感覚が、あるだけなのである。そして、客観的にアプローチされたものを、われわれは「ページ」と呼び、主観的にアプローチされたものを「自己」と名づけている。実際に、それらが外部にあると感じる分だけ、われわれは幻想にとらわれている。つまり、すべての対象は幻想であり、頭の産物なのである」



 覚者のいう世界は、見るものと見られるものが分離されない一体の、ひとつながりの世界である。人は、そこに「見るわたし」「おこなうわたし」を導入して、世界を分断する。その間隙のスキ間がどんどん広がっていったのが、わたしたちの生であるというのである。

 恐怖や怒りをおぼえたとき、わたしたちはなんとかしなければならないとして、それを改善したり抑えようとする。しかしそれは失敗する。「体験」しかないところに、体験「者」を導入してしまって、新たな引き裂かれ抵抗する状態をつくり、もとの感情を長引かせてしまう。わたしたちは感情という体験を、ただ起こせるに任せ、終わるのに任せるしかないのである。わたしたちの認識の誤りは、こんなところにも顔をのぞかせる。

「では、わたしのなかにあって、眺めたり、見たり、読んだり、聞いたり、考えたりしているのは「何か」? 見ているのは、わたしの主観的な自我的自己であるはずがない。なぜなら、それは見られうるものだからだ。ファン・ボが述べているように、「知覚されるものは、知覚できないことを思い出してもらいたい」。換言すれば、わたしの「自己」は知覚されるゆえに、知覚している当体ではありえないのだ」



 見る目が目自体を見ることができないように、手が手をつかむことができないように、わたしたちは見ている主体をつかむことはできない。それこそが、真の主体だと覚者たちはいうのである。そしてそれは、絶対に見ることはできない。


 ケン・ウィルバーはこのような二元論の発生する源として、言語や共同幻想を「偉大なるフィルター」として名づけるのだが、ケン・ウィルバーの述べる意識のスペクトルはいささか「空間論的」であって、われわれはまずこの壮大な「空想の体系」というものを、事細かに詳細に知る尽くすべきなのではないかと思う。

 存在しない架空の構造物にわれわれは浸食され、支配され、現実のリアリティにいっさい触れられないようになっている。

 その空想や観念に逃げ込むように仕向ける「時間の発生」について、ケン・ウィルバーは秀逸な論考を発揮しており、時間を知ることにより、有限な生を知った人間は、安全をもとめた「観念」の世界にどんどん逃げ込むのである。

「つまり、第二の二元論の葛藤において、死を受け入れられない人間は、死ぬべき運命にある自らの有機体を捨て、「単なる」肉体より「確実」で傷つきにくいもの、すなわち観念に逃げこむのである。死を避ける人間は、無常の身体から逃れ、一見、死なないかに見える観念上の自分自身に同一化するのだ」



 記憶を現在から切り離し、現在と違った過去があると思い込むようになり、それを未来にも敷衍する。そしてあらわれる有限の生という空想によって死を恐れるようになる人間は、ますます観念や空想になかに逃げ込むようになる。空想が怖れさせて、ますます空想になかに逃げ込むといったからくりである。

「永遠とは果てしなくつづく時間的な持続ではなく、無時間性というヴィトゲンシュタインの指摘は、繰り返す価値がある。…永遠とは果てしなくつづく時間でも、一秒の断片でもない。むしろ、それは時間をもたず、まったき今に存在する日付も期間もない瞬間なのである。この現在の瞬間は、過去も未来も知らないために、それ自体無時間的である。そして、時間をもたないものは、永遠である」



 わたしたちは分断につぐ分断によって、有限で限られたものを恐れて、どんどん空想のなかに逃げ込むという構造があるのかもしれない。もし、分断のないひとつながりの世界だけがあるとしたら、わたしたちは恐れのない世界を体験できるかもしれない。分断を生み出すものは、想像力や空想である。存在しないものである。

「人間のアイデンティティはトータルな心身の有機体から、イメージとしての自分自身、自我へと移行するが、この自我は、皮肉にも、もっぱら過去を基盤とするため、まぎれもなく死んでいる。つまり、人間は、死の幻想を回避するために、自らを徐々に殺す羽目になるのである」




 ケン・ウィルバーや覚者のいうような分断も分離もない一体の世界をわたしは実感も体験もすることができず、「見るもの」と「見られるもの」の分離と、モノで隔絶された世界以外のものの見方ができない世界に閉じ込められている。

 ケン・ウィルバーのさししめす二元論のない世界のことをいくら読んでみても、はがゆい欲求不満が残るだけである。しかし、もしかしてそうかもしれないと思う地点にいる。空想と想像力がつくりだした恐ろしいほどの壮大なフィルターを、すこしは崩すことができてきたからだ。

 わたしたちは言語や空想というフィルターによって、知覚する世界すらゆがめて見ているのかもしれない。分断も分離もない世界を体験することができるだろうか。


無境界―自己成長のセラピー論存在することのシンプルな感覚実践インテグラル・ライフ―自己成長の設計図統合心理学への道―「知」の眼から「観想」の眼へインテグラル・スピリチュアリティ


関連記事
04 21
2017

幻想現実論再読

世界から切り離された自己――『無境界』 ケン・ウィルバー

4892031143無境界―自己成長のセラピー論
ケン・ウィルバー 吉福 伸逸
平河出版社 1986-06

by G-Tools


 西欧の知識や学問ばかりたてまつっている人にははじめて仏教や悟りがなにをいっていたのかわかる本になるだろうし、なにより西欧的などこまでも説明つくそうとするスタイルは、日本的な仏教とちがって、われわれにもっとなじみ深くなっているだろう。

 ケン・ウィルバーは西欧的な心理学――フロイトやユングから、東洋的な宗教までをひとつの階層として統合しようとした人であり、この本を読むことによって総合的に心理領域の知見をもっと広めることができるだろう。

 人間は境界を打ち立てるから、その対立や闘争に駆り立てられるのである。境界のために分断された向こう側からたえず復讐や攻撃をうけるように感じてしまう。

 われわれは自分の欠点や劣等感を隠そうとするが、その隠そうとしたことが境界を打ち立て、いつまでもぬぐいきれない神経症的症状や、どこまでいっても排除できない嫌悪する他人となって終始、自分につきまとうように感じられてしまう。

 自分にとって不都合な像を抑圧しようとしたために、浮上しようとする片割れは、自分を責め立てるようになってしまう。これが人間が最終的に打ち立ててしまう「仮面と影」のレベルである。われわれは自分のよからぬ面を抑圧したり隠そうとして、その「非自己」から追い立てられることになってしまう。

 われわれは最終的にはこの「仮面と影」の自我にいきついてしまうわけだが、その前には自分から身体を切り離して、あたかも身体は自分ではなく、自我によって操縦される乗り物のような感覚になって、身体を分断してしまう。

 そしてこの論でいけば、環境すらも自分から切り離した「自己」であったということになる。人は「自己であらざるもの」としてさまざまなものから、自己を切り離して外界をつくってゆくわけだが、仮面のレベルにいきつくまでにさまざまな切り離しがあったというのが、ケン・ウィルバーや宗教の主張するところである。

 ケン・ウィルバーは境界という空間的な見方でこれを説明するのだが、わたしは空想や幻想というアプローチで進んできたこともあって、すこし空間的な捉え方をするケン・ウィルバーには違和感がある。

 唯物論的な分断、自己の切り離しから、すべては心だという唯心論に帰る見方だという理解のほうが、わたしにはわかりやすい。

 他者がわたしに悪いことをしたからわたしの不快な気分はつくられたのだといった見方や、他者の悪い行いや言動を変えない限りわたしの心は晴れることはないといった捉え方は、自己と他者・外界を切り離した考えからおこる。

 対象もわたしの考えや思いであり、それによって自分の感情は変わり、考え方を変えればその感情は変わるし、さらにその思考をなくせば、そもそも感情すらない。「外界はわたしではない」という捉え方のまちがいは、このアプローチのほうがわかりやすい。

 「外界や他者はわたし」なのである。それは自分の心に属するがゆえに、わたしの感情や気分を決定する。外界は自分の心ではないと思っていると、他者や世界が変わるまでわたしの心が晴れることはない。それは自分の思考という原因を見極めないばかりに、他者の言動やおこないに終始、犠牲者にされる哀れな被害者になることである。

 それは素朴な「認識の誤り」というものでしかないものである。宗教というのは、たんに人間が陥ってしまう認識の誤りを訂正するにすぎないのではないかと思える。

 人は世界から切り離された分離した自己という捉え方を打ち立てる。そのことによって根絶やしにしようとした「自分ではないもの」にたえず復讐されたり、襲撃されるように思う事態におちいってしまう。外界との分断、切り離しが、われわれにさまざまな不幸をもたらすのではないのか。

 なにかを見よう、分析しようとしたとたん、体験や経験から切り離された自己が生まれる。体験そのものの経験から、それを見ているわたしという分断が生まれる。そうして世界から切り離された自己という強固な思い込みはどんどん成長してゆくことになるのではないだろうか。

 われわれは自我から不都合な影を切り離したように、身体を切り離し影にして、また環境も自我から切り離して、外部の影にしてしまったというのが、ケン・ウィルバーや宗教の主張するとことである。

 こういう世界観が信じられないとしても、途中のレベルではずいぶんと癒しや強力なセラピーとなるものである。とくに思考や感情に同一化しているわたしたちにとって、それらからの脱同一化は、われわれをずいぶんと安らかな境地におく。西欧心理学や自己啓発でこのレベルのセラピーを教えてくれることはまずない。

 ただケン・ウィルバーは思考が幻想や虚構であること、それが存在しないことといったアプローチからはあまり説明してくれない。過去の想起や思考が幻想であり、存在しないこと、この実感がより自身を癒してくれるセラピーになる。

 われわれは目の前に存在しない言葉や思考、会話をもつことによって、ずいぶんと幻想や虚構の世界に生きている。このことの理解のほうが、わたしにはもっと強く望まれる知見なのである。

 われわれはたえず「あるがまま」や「いま、ここ」といったものに「抵抗する」。悟ろうと意志することすら「抵抗」である。思考や想像というのは、目の前にない世界への飛翔である。わたしが融けてなくなってしまうことを恐れてしまうのだろうか。



万物の理論-ビジネス・政治・科学からスピリチュアリティまで-万物の歴史インテグラル・スピリチュアリティ存在することのシンプルな感覚統合心理学への道―「知」の眼から「観想」の眼へ


関連記事
google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top