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05 19
2018

幻想現実論再読

煩悶青年と出会う――『臨済・荘子』 前田 利鎌

4003317912臨済・荘子 (岩波文庫)
前田 利鎌
岩波書店 1990-08-16

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 臨済も荘子もともに好きな思想家だから、岩波文庫だからと手にとってみたが、著者はあとから明治・大正の煩悶青年の系譜に位置づけられる人だと知った。

 東大を出た西洋インテリが禅に救済をもとめた。32歳でこの本を出版し、34歳で急逝したこの人は、西洋インテリが禅や東洋思想にめざめたという驚きをもって迎えいれられたのだろう。漱石門下と関わりのあった人である。昭和14年に岩波書店から改訂版が出て、ベストセラーに近い売れ方をしたそうである。

 明治の国家目標を、曲がりなりにも達成したかのように思われた明治後半、若者には西洋文明や国家にたいする幻滅が大きくおおった。ある若者は左翼運動に走り、ある者は文学や哲学の煩悶青年へとむかった。いずれもそれは西洋文化の範囲内であって、禅や東洋思想にむかうものは、少数だったのだろう。

 その西洋対東洋の対立は、禅や東洋思想の見直しや復興となり、アジア主義や日本主義のイデオロギーへと収斂し、大日本帝国のイデオローグとして呑みこまれていった流れもあったのだろう。どちらかというと、この本はその内容より、著者が生きた時代背景のほうが、興味そそられるものであったかもしれない。

「見よ、哲学者の甘言によって、迂遠なる概念の世界に誘惑せられた青年の生命が、いかに現実世界における活発な弾力と燃焼性とを消失してしまったかを。

…迂遠なる論理思索の礼賛をやめて、強壮な意欲を奪回すると共に、再び古代人の自由人のように、大地を踏みしめて行く力を育まんことを欣求する」



 臨済や荘子は、だれかの解説を読むより、原書(もちろん現代語訳)を読んでもじゅうぶんに益と得るものがあるものである。解説に頼らないでも、原書のほうがじゅうぶんにわかりやすい内容が書かれている。

 この本はまあ、わかりやすくなるというよりか、一青年が禅や東洋思想の解説と理解に挑んだ軌跡を見せられているという面のほうが強いかもしれない。

 漢文や読み下し文がそのまま多く多用されていて、その教養が弱いわたしには、意味を損ねることも多かった。言い回しも難しいスノッブな言葉を連ねることも多い。禅や東洋思想は、わたしなりの読解や理解もあるので、この人の領域とはすこし異なる世界を見ているかもしれないと感じた。

 この本を読んで、いがいなところで煩悶青年や右翼、戦争国家へのエポックと出会ってしまった感じがした。西洋対東洋の対立は、戦争国家へのイデオロギーへと転嫁していった流れもある。右翼国家への道にこの本は位置してしまったのだろうかという興味をもった。


臨済録 (岩波文庫)荘子〈1〉 (中公クラシックス)煩悶青年と女学生の文学誌-「西洋」を読み替えて文学熱の時代―慷慨から煩悶へ―日本とアジア (ちくま学芸文庫)


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05 17
2018

幻想現実論再読

鎌倉時代の各宗派――『八宗綱要』 凝然 大徳

406158555X八宗綱要 (講談社学術文庫)
凝然 大徳
講談社 1981-10-07

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 あまり参考とならなかったのだが、各宗派のことはよく知らないので、このような宗派の違いを知っておくことも必要かなと手にとってみた本である。

 鎌倉時代の凝燃による各宗派の教科書、テキストのような本で、とうじ勃興していた禅宗や浄土宗は付録のようにすこし加えられているだけであって、いつの時代のものかよくわかるようになっている。

 だいたいは各宗派は、経典をよりどころにすることが多いようである。倶舎宗は『阿毘達磨倶舎論』、成実宗は『成実論』、三論宗は『中論』『百論』『十二門論』、天台宗は『法華経』、華厳宗は『華厳経』、真言宗は『大日経』『蘇悉地経』『金剛頂経』など。これらの経典をおさえれば、各宗派はだいぶわかることになるようなので、手にはとってみたいところである。

 各宗派の要点をまとめたような教科書、テキストはたいがいは専門用語をただならべたような意味がわからない、ぎゃくにとっつけないものになるので、わたしはあまり教科書みたいな本は好きではない。得るものがない。この本もそのような本である。

 仏教経典ははるかむかしにできあがったテキストなので、一般のわれわれにはなかなか届かない。さぞかび臭い時代に古びた考えを展開していそうなイメージをもつかもしれない。だが、中公バックスや世界の名著の現代語訳で読んでみると、はるかに論理的で緻密な現代でもわかる思想がのべられている。古層にうめたままにしたがるわれわれの思いこそが、面喰う。


現代語訳大乗仏典(シリーズ・全7巻)大乗仏典〈1〉般若部経典―金剛般若経・善勇猛般若経 (中公文庫)世界の名著 2 大乗仏典 (中公バックス)


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05 13
2018

幻想現実論再読

どこまでいっても言葉――『夢中問答』 西村 恵信

414084082X夢中問答―禅門修行の要領 (NHKライブラリー)
西村 恵信
日本放送出版協会 1998-04

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 現代的な言葉で神秘思想を読みたいのだが、そう見つからなくて、言葉の否定を強くいった禅に帰ってくるしかない。

 この本は、夢窓国師と足利直義の問答を、花園大学教授の西村恵信がNHKラジオテキスト用に解説したものである。

 要点を二点だけ抜き出す。

「ゆえに「有念なれば魔網に堕つ、無念ならば即ち出づることを得」とあるからといって、「無心」を心の無いことと考えることは間違いであるし、そのようなことは人間にできることではない。無理に何も思ぬようにしようとすると、いわゆる「断見の外道」に堕ちてしまうのであり、そういう見当違いの座禅を、古人は「死人禅」とか「枯木寒厳の禅」といって徹底的に批判しているのである。
したがってここで有心とか無心とかいわれている場合の「有」とか「無」は、有無相対の「二元分別心」が有るか無いかということである。有無の分別にこだわればたちまち「有心」であり、有無にこだわらなければ「無心」ということになる」



 むりやりに無心になることを禅はいましめているわけだが、ここの分別はむづかしいね。むりに思考を断ち切らなければ、思考の噴出の習慣は強力なものがあり、初期のころは必要とされるかもしれない。だが、それらが虚像やイリュージョンとわかるような段階になれば、もはやむりやり押し切る必要もない。段階の問題に思える。

「…世界中のすべてのものは実在している、と思うのは迷える凡夫の妄想であり、世界中のすべてを無常なものと見るのもまた小乗的な妄想であります。すべての存在を永遠不滅としたり、あるいは断滅してしまうものだとするようなのは外道の妄想です。そうかといって、すべては幻の如く実体のないものと考えたり、また有るとか無いとかいうことの両方を離れた非有非空の中道だ、とさとるのも菩薩の妄想というものであります。真の仏法は教の外にあるということを教える禅宗のことを知らず、教えだけを最後のものとして頼るのは教宗の人の妄想。「教外別伝」とばかり唱えて、それが、教宗より勝れたものだと自負するのは禅者の妄想であります。
私がそのようにいうことを信じ込み、あらゆる教説がすべて妄想だと信じてしまうのも、また妄想にほかなりません。昔、唐の国の無業国師は、一生涯を通じて、修行者が何と問うてきても、ただ「妄想するなかれ」の一句でこたえるばかりでした」



 禅は、どこまでいっても言葉にとりこまれてしまうことの危険性を、どこまでも警戒した。なにを説明しても言葉だ。言葉が分けて、分別してしまって、またその言葉の対象を実在させてしまって、言葉の実在の膜の中に収まってしまう。言葉はどこまでいっても、わたしたちをとりこんでしまうのである。

 この本の節に、「「ことば」を実在と思い込む」という表題があるのだが、禅はなぜか言葉の問題であることを、強調しなかった。現代人ならこの方面から入れば理解が増すと思うのだが、言葉を透過して、事物の正否に頭をつっこむのは、あまりにも言語圏の枠内すぎる。わたしたちはあまりにも言語の住人すぎるのである。


夢中問答集 (講談社学術文庫)夢中問答入門禅のこころを読む (角川ソフィア文庫)夢窓夢窓疎石―日本庭園を極めた禅僧 (NHKブックス)仏教を歩く No15 夢窓疎石と「五山文化」 (週刊朝日百科)


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