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10 27
2017

幻想現実論再読

ブラフマンとの共通点――『神を観ることについて』 ニコラウス・クザーヌス

4003382315神を観ることについて 他二篇 (岩波文庫)
ニコラウス・クザーヌス
Nicolaus Cusanus
岩波書店 2001-07-16

by G-Tools


 神秘思想は世界共通のことを語っていたのだと思う。文化や表現のしかたによって、あらわれ方が異なっている。そういう立場をとったのは、ケン・ウィルバーや井筒俊彦だろう。

 キリスト教というのは、人格神を前面に押し出しており、仏教とはまた異なる表出の仕方をしている。仏教は空や幻想を説き、虚妄から離れることを説くのだが、キリスト教は神への信仰や帰依をおもに説くようになっている。仏教からすれば、虚妄を説くことの難しさをあきらめて、信仰から悟りへと近づかさせる手段をとったように思えるのだが。

 神秘的詩人としてのシレジウスの瞑想詩集は、神や愛などの表現が、仏教言説とかなり異なるのだが、比喩がちがうだけで、同じようなことを語っているのだという読み方ができる。

 このクザーヌスもそういう読み方を期待してためし読みしてみたのだが、かなりのところ、撃沈である。

 神の無限性や表現のできない性質は、インドのブラフマン概念とおなじことを語っていると思うのだが、この論理性をかみくだいて理解するのは、かなり難しい。ソーカル事件のように、それらしき言説をならべたレトリックとさえ疑いがもたげるほどだ。

「私が極めて高く引き上げられる時には、私はあなたを無限性として観ます。それゆえに私はあなたを、近づくことができず、理解できず、名付けることができず、多重化できず、観ることができないものとして観るのです。

知性がどうして無限性であるあなたを把握できるでしょうか。知性は、自分が無知であることと、無限性であるあなたが把握されることは不可能であることを知っています。

なぜならば、知られえないものが知られ、観られえないものが観られ、近づきえないものが近づかれる場合のみ、あなたが知られうるものであるということを、知性は知っているからです」



 インドの宗教書『バガヴァット・ギーター』に書かれたようなブラフマン神と、共通のことを語っている。キリスト教の神秘思想が、インドの宗教神とウロボロスのようにつながっているのである。

 しかし、ここに書かれていることの論理性はかなり把握がむずかしく、わたしの手には負えなかった読後感がのこった。


 あと小編が二編収録されているのだが、『オリヴェト山修道院での説教』は、あたらしく修道院に入った若者に規律をしめす説教であるが、上長への従順が説かれており、自我の放下としては理にかなっているのだろうが、それが集団や組織に奉仕させられるときは、危険な教えだと思った。

 この説教を聞かされた若者は、弱さによって鞭打たれて天国の旅立ったことになっている。これを美談に回収してしまうところが、恐ろしい。


バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)シレジウス瞑想詩集〈上〉 (岩波文庫)霊操 (岩波文庫)エックハルト説教集 (岩波文庫)学識ある無知について (平凡社ライブラリー)

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10 20
2017

幻想現実論再読

禅のラディカルさ――『世界の名著 18  禅語録』  柳田 聖山 編集

41M-FKHn-nL__SX331_BO1,204,203,200_世界の名著 18  禅語録 (中公バックス)
柳田 聖山 責任編集
中央公論新社 1978-08

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 禅というのは、いちばんラディカルである。

 言葉や観念、概念を否定する急先鋒である。さらにはみずからの言説、理論さえ蹴とばしてしまうのだから、支離滅裂、どなる、なぐるのパワハラ道場になってしまって、大半はわからない。

 たまにマジメに理論的に語る言説によって理解をようやく手にするのだが、それすらも蹴とばさなければならない。

 禅の古典というのは、現代人はどれだけ知っているのだろう。岩波文庫で『臨済録』や『無門関』が出ているのだから、これくらいか。あと、道元の『正法眼蔵』とか。

 中公バックスは禅の古典を現代語訳でまとめてくれているのだから、ありがたい。ここで収められているのは、『菩提達磨無心論』、『六祖壇経』、『臨済録』、『洞山録』、『祖堂集』である。

 『菩提達磨無心論』は、ただ心がないということをいっていて、意外にあっさりしたものだった。でもこれこそが人が捉えがたいものであり、見過ごしてしまうものだからね。

 『臨済録』はワケのわからない禅問答が多くて、どなる、なぐるのパワハラ道場のオンパレードなのだけど、大マジメに理論を説く章は、たいへんに感銘させられるものであった。でも、この理論も蹴とばさなければならないのだけどね。

「世間でも出世間でも、いっさいの存在は、実体もなければ、また生ずることもない。すべて空しい名称にすぎず、名称もまた空しい。君たちは、そんなつまらぬ名称を固定化して実在だと考えこむ。とんでもない心得違いだ」



 これが基本の基本であって、これをつかまないと、禅の意味はつかめない。

「仏が語った十二種の経典は、すべて表むきの説明にすぎないのに、学生たちは知らないで、表むきの名目について分別を起す。いずれも仮りものにすぎず、因果関係におちこんで、三つの迷いの世界に生まれたり死んだりすることを避けられない。

三つの方便や十二種の経典にしたところで、すべて糞ふき紙にすぎぬ。仏は幻想であり、祖師はおいぼれ坊主である。君たちは、いったい母の胎から生まれたのか。君たちが仏を探すなら、すぐに仏という魔につかまってしまう。君たちが祖師を探すなら、すぐに祖師という魔のとりこになる。君たちは何かものを探すなら、すべて苦しい」



 禅は、聖なる経典や権威ある知識さえも、蹴とばしてしまう。おとしめる。理論の固定化が、また真実にふれることを妨げるからである。禅は、理論を立てては、その積み木を崩さなければ、真実に出会えない。だから、つぎのような宗教や権威とはまさに逆の、過激な言葉が生まれる。惚れ惚れする。

「仏に出会ったら仏を斬りすて、祖師に出会ったら祖師を斬りすて、羅漢に出会ったら羅漢を斬りすて、父母に出会ったら父母を斬りすて、親族に出会ったら親族を斬りすてて、君ははじめて解放される」



 わたしたちの学校や権威の社会では、権威や教師を蹴とばせという言葉を聞くことはほぼないのではないだろうか。禅をつかむには、権威の固定化につかまらないことが、基本の基本なのである。

「真の仏は姿がなく、真の存在は特徴をもたない。君たちは、幻想のまわりに恰好をつけてばかりいるが、たとえ何かを捉えても、すべて老狐の精にすぎぬ。断じて真の仏ではない。外道の考えにほかならぬ。およし真実に道を学ぶものは、けっして仏をもちあげないし、ボサツや羅漢をもちあげない。三つの迷いの世界の中の功徳をもちあげることもない。

あらゆる存在は固形の形をもたず、動いているときは存在するが、動かないときは何も無い、三つの迷いの世界は単なる心の変化にすぎず、あらゆる存在は単なる意識にほからなぬからである。『夢と幻覚のあだ花を、何でわざわざつかめることがあろう』」



 禅は、言語や概念の無化をいちばんラディカルにつきつめた流れだろう。権威や理論さえ、おとしめる。言語の固形化をそこまで警戒して、言葉の積木はゆるされない。

 しかし、禅問答はなにをいっているか、とんとわからない。さいしょは言葉と理論によって説かないと、なにもつかめない。なにもつかめないまま、ひたすら言葉の否定をされても、なにもつかめないと思うのだが。理論である程度、高いところに行かないと、禅の効用なんてないのではないか、とわたしは思うのだけどね。

 『祖堂集』は禅僧の列伝で、釈迦も説かれているのだが、神格化がはなはだしく、臨済のような仏を斬り捨てろという立場ほどラディカルではない。ここに出てくる禅僧は、だいたいは6世紀から9世紀にかけての人が多いのだが、禅はそんなむかしから、ずいぶんとラディカルなことをいっていたんだなと思う。

 そのラディカルさが途絶えて、現代の世の中は言語と理論のもちあげが最上級にいたっており、迷妄の世界にまたはまってしまっているのは、どういうことか。


臨済録 (岩波文庫)無門関 (岩波文庫)碧巌録〈上〉 (岩波文庫)禅と日本文化 (岩波新書)六祖壇経 (タチバナ教養文庫)


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10 14
2017

幻想現実論再読

無と恐れ――『般若心経』 バグワン・シュリ・ラジニーシ

4839700079般若心経
―バグワン・シュリ・ラジニーシ、色即是空を語る

バグワン・シュリ・ラジニーシ
めるくまーる 1993-08

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 ラジニーシは段階的にしかわからないのだと思う。

 わたしのばあい、さいしょ読んだときは西洋哲学ばかり読んでいる中で手を伸ばして、ほとんどいっていることをつかめなかったと思う。つぎに思考の弊害や害悪に気づいて、思考を捨てることの知識に熱中した。

 こんかい、この本を再読するにあたって、「無」という言葉がいちばん響いてきた。

 思考を捨てるということはまだ思考の力が強く、抵抗しなければ抗せない状態である。しかし、いまは思考の虚構性や非実在性をより実感している。そういう中では、無が実在であるという言葉がいちばん刺さってくる。

「われわれは無から出現し
われわれは無であり
われわれは無の中に消え去ってゆく」



 人間が無であるというのは、なかなかつかみがたい。しかし言葉や思考は「あること」、「実在」の世界の夢の中に生きている。頭の中で描いたに過ぎない思考や心象を、実在のものと思い込んでいる。しかし、そんなものは「実在しない」のだ。それを実感できれば、われわれは無であるという宣言が、胸に迫ってくる。

 人はふつう、なんで肉体や物体が満ちあふれたこの世の中や自分が、どうして無なのかと思うだろう。「あること」「有」がとうぜんで、確実だと思う世界に生きている。わたしたちはこの思い込みをどうしても落とせない。

 時間や過去を見れば、いちばんよくわかるかもしれない。過去は瞬間ごとに消え去ってゆき、この地球上のどこにも存在しなくなる。しかし、わたしたちは過去を思い出しては、目の前にあるかのごとく、嘆いたり、悲しんだりできる。存在しないものに、感情するという状態は、いったいどういうことなんだろう?

 われわれは、実在しないもの、無のうえで、仮構の心象や思いによって感情を立ち上がらせているだけではないのか。それが幻影や幻想といっていいものなら、わたしたちは無のうえに立っているのではないのか。

 眠っているときも、われわれは無に帰す。あると思っていた心や言葉も、無のうえに立てられた幻想ではないのか。われわれはずいぶんと無に親しい。

「この<無>こそまさに中核、ハートだ
あなたの実存のハートそのものなのだ

死とはあなたがそれでできているまさにその実体だ
<無>こそまさにあなたの実存なのだ」



 わたしたちは死を恐れる。自分に無に帰してしまうことを恐れる。自分の一生がなんの価値も証ものこさずに、無に帰すことを恐れる。そうして、価値や意味を打ち立てようとする。

 しかし、その価値や意味は、言葉や思考で打ち立てられた幻想ではなかったのか。わたしたちは、幻想で人生の価値を打ち立てようとして、そして無から遠ざかり、目をそむけようとするのではないのか。

 これは、恐怖症のメカニズムと同じである。恐ろしいから目をそむけ、回避し、逃れようとする。そうすれば、もっと恐くなり、しまいにはあらゆることを恐れるようになって、家からも出られなくなる。

 回避が恐ろしさをつくる。だから、認知行動療法や暴露療法では、恐さに直接向かってゆき、恐怖が幻想であることの実感をつかまなければならない。

 だけど、当の本人にとっては、恐怖は実体のありありとある現実である。恐怖なんか逃れようがないと思って、恐怖を避けつづける。身体が恐がること、回路づけられた恐怖を回避することに夢中になってしまって、その体験がピークを越えるとしぜんに収まってゆく体内活動であることに思いもいたらない。

 われわれは無を恐れて、言語や思考で幻想の回避をしつづける存在ではないのだろうか。無を回避したいから、言葉や思考の煙幕で無をふさいだつもりになっている。有しか見ない。幻想や無であることに目をつぶりたい。

 われわれは、「実在論者」になることによって、この世の無から目をそむけたい。実在論者になることによって、恐怖や感情の実在を信じ、その牢獄から逃れられない。感情や心象が実在しないという実態から、目をそむけたいのである。

 そうして、われわれは感情のジェットコースターやメロドラマの白昼夢にひたりつづけ、幻想の中で生きることになる。

 人間は認識の錯覚におちいっていると思う。正視したくないのは、無を恐れるからだ。人生の価値や有意義を打ち立てたい人は、とうぜんにこの無の教えを嫌悪するだろう。無は人生の虚無であり、空しさなのである。


 ラジニーシはたくさんの本が出ていて、どれが代表作や主著とよべるのか、わたしにはよくわからない。『存在の詩』がさいしょに紹介された著名な書物になっている以外、どれがおすすめされているのか、わからない。

 だいたいは、経典や人物に的を絞った講和集が出されている。そのとりあげた題材の重要度にしたがえば、いいのだろうか。

 ラジニーシはたとえが多く、話は長く、冗長である。簡潔に簡明にというわけにはいかない。やさしい言葉で語りかけているとはいえる。

 この人はどうして簡明で体系的な著作を書かなかったのだろう。禅のような生や人物同士のライブこそが実在という思想があるからなのだろうか。主著や代表作とよばれるものがあれば、的をしぼって読みやすかったのにね。


存在の詩 和尚 OSHOTAO―老子の道〈上〉隠された神秘究極の旅―和尚、禅の十牛図を語る覚醒の深みへ―和尚 講話録 (タントラ秘法の書)


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