HOME   >>  
09 07
2017

幻想現実論再読

まずは言語的懐疑から――『コスモスとアンチコスモス』 井筒俊彦

4766420799コスモスとアンチコスモス
一九八五年 ― 一九八九年(講演音声CD付き)
(井筒俊彦全集 第九巻)

井筒 俊彦
慶應義塾大学出版会 2015-02-17

by G-Tools


 神秘思想をイスラームなどの世界的視野で読み込み、学問的水準で読み解き、また言語的フィルターに懐疑のまなざしを向けつづけた人は井筒俊彦しかいないと思って、拾うように全集も読もうかと思っているのだが、言葉使いがむずかしいこともあって、あまり得るところがなかったかな。

 この人はこんにち的な文脈でいえば、スピリチュアリストとよばれてもおかしくない神秘主義者なのであるが、岩波文庫に『意識と本質』が収録されているように、学問的にも認められているようである。

 岩波文庫は世界の宗教書や、禅の西洋的解釈の西田幾多郎の本も収録しているように、宗教にかんしては、寛容のようである。学校やテレビのように、科学対宗教のたんじゅんな二元論に落とし込まない。

 神秘思想は、神や超越者との合一を説くのだが、その以前に言語的懐疑が貫いている。言語というフィルターを外した世界はどのようなものか、また言語がつくりだす人間の苦悩といったものが実在しないのではないかといった人間の根源のありかたを問う。

 われわれは言語というフィルター、道具を無自覚に使うために、さまざまな苦悩をわざわざ「創作」して、それを「実在」のものとカンチガイしているだけではないのか。

 そういった言語使用の過ちや錯誤を指摘しているのは、神秘思想だけである。神との合一といった怪しげなものは、脇においておくほど、神秘思想は重要な人間の根源的なありかたを問うているのだと思う。

 この本に収録されている論文の中でいちばん気になったのは、「創造不断」という章だが、ちょっと言葉がむずかしすぎて、深くつかめたとはいいがたいのがおしい。

「いつでも、永遠不断に、時は「現在」として熟成し、その度ごとに存在が新しく生起していくのだ。瞬間ごとに新しく生起する存在の連鎖は、切れ目のない時間の連続体を構成しない。一つの現在が次の瞬間に、一つの存在生起が次の存在生起に移る、その移り目に、すべては、一度、無に没落しなければならないからだ。たとい、その無の間隙が、目にもとまらぬ速度で起るとしても、である。このような存在・時間の脈動するつながりを、イブヌ・ル・アラビーは「新しい創造」(「創造不断」)と呼ぶのである」



 存在が一瞬ごとに無になり、その無の中から一瞬にして新しく生成してくる。このような世界観、時間論を、井筒俊彦はイブヌ・ル・アラビー、道元の言葉を借りて、語るのである。わたしにはとうてい、つかみがたい。

 「コスモスとアンチコスモス」という論文は、1987年ころの現代思想のブームをとりこんだような言説で、丸山圭三郎の世界観と近いことを語っている。言語的秩序とその解体が現代思想的ブームの渦中にあった。

 ほかにサルトル哲学との出会いや、エリアーデ追悼の文などが興味をひいた。イスマイル派の暗殺団については当時の時事的状況だと思って、読み飛ばした。

 わたしは学問的探求より、この世界や自己のありようをもっとセラピー的な要素でくみとりたいので、たまに井筒俊彦の問題意識と重ならないなあと思うけど、図書館で全集を読めることもあって、つぎはどの本に手を伸ばそうか。


スーフィー―西欧と極東にかくされたイスラームの神秘ルーミー 愛の詩言葉とは何か (ちくま学芸文庫)存在認識の道―存在と本質について (1978年) (イスラーム古典叢書)井筒俊彦 (言語の根源と哲学の発生 増補新版)


関連記事
09 04
2017

幻想現実論再読

実在しない世界のしっぺ返し――『不滅の意識』 ラマナ・マハルシ

4931449468不滅の意識―ラマナ・マハルシとの会話
ポール ブラントン  ムナガラ ヴェンカタラミア 記録
ナチュラルスピリット 2004-09-01

by G-Tools


 ニサルガダッタ・マハラジになんどか言及されていたので、二冊目のラマハ・マハルシ。

 悟った人にたいして、わたしは多くを理解できているわけではなく、おこがましいのだが、ラマナ・マハルシにたいしてはすこし物足りなさを感じる。切れ味や緻密さには欠けると思うのである。

 クリシュナムルティのような論理性、ケン・ウィルバーのようなどこまでも説明しようとする意志、ラジニーシのような広い知識、といったものと比べるとすこし遜色を感じる。まあ、悟っていない人間がなにいっているのかと思うが。

 ラマナ・マハルシは、言葉や想念の非実在性に気づきなさい、となんどもいう。これは、わたしもわかってきたことだ。人は頭で考えて、創作したことを実在のものと見なし、その「夢」の中で苦悩する。

「それ自体としては、われわれが「心」と呼ぶことのできる実体は存在しない。想念が生ずるがゆえに、われわれはそれから想念が生じてきた何ものかがあると想定し、そしてそれを心と名づける。それが何であるかを知ろうとわれわれが探るとき、そこには何もないことを発見する。心がそのように消え失せたあとに、永遠の平和が残る」



 われわれは、ずいぶんと騙されている。言葉や思考で考えたことが実在するものと思い込む。そして、目の前にないもの、過去として消滅したことを、現実に目の前に存在しているかのように、泣いたり、悲しんだりできる。でもそれは、どこにも実在しない。架空の、虚構の、フィクションの世界に騙されているのである。

 ラマナ・マハルシはそれを映画にたとえるが、言葉や観念はほんとうに映画だ。

「真我を実現した人は、あたかも普通の人びとが劇場でのスクリーン上のシーンや登場人物が架空のものであり、現実の生活の中に存在するものではないことを知っているように、世界の中での対象物や身体(人びと)が架空の外観であることを知りながら生活し仕事をする」



 この文章は、言葉や思考の世界と、知覚世界の混同をきたしそうだが、わたしが理解するところでは、言葉や思考の世界は実在しないといっているだけで、知覚世界にかんしての実在性は、わたしにはまだ解けない。言葉や観念の非実在性はわかる。だけど知覚世界の非実在性には、自信をもてない。

 「わたしは身体ではない」という言葉の意味ももうひとつわからない。

「誤りは、「私」は何かであるとか、「私」はそうではないと考えることの中にあるのです」



 われわれが意識する身体自身がすでに、想念や観念をふくむもの、観念で表象されたものであり、ゆえに実在しないものであるということなのだろうか。

 ラマナ・マハラシは努力や達成するものはなにもないと説く。

「何か達成されなければならないものは、実在ではなく、真実ではない。われわれはすでに実在であり、真実である。本当に得るべきものは何も存在しない。それは今、ここにある」



「あなたは誤った「私」を除去する必要はありません。どのようにして「私」が自分自身を除去することができるでしょうか。あなたがする必要のあるすべてのことは、その起源を見つけだし、そこにとどまることです。それはあなたの努力の及ぶことのできるところまでです。そうすれば、その先は、それ自身が面倒を見るでしょう」



 多くの人が陥っているのは、言葉や観念、わたしや感情が、物体のように実在すると思い、それをむりやり排除したり、除去しようとすることである。緊張を止めようとしたり、恐怖を止めようとしてもっと恐怖に追いつめられたり、われわれは非実在のものを実在すると思い込むがゆえに、幻想の除去で、よけいに自分を追いつめるのである。この経験は身に覚えがありませんか。

 われわれはあまりにも、非実在性という性質に思いをいたさせないために、言葉や観念を実在するものと思い込み、この世界の性質からしっぺ返しを食らっているとしかいいようがない。

 世界の実在性、あるいは非実在性の区別をつけられるようになったとき、わたしたちには安心の境地が広がるのではないだろうか。

 それにしても、この本は章ごとにラマナ・マハルシの腰布一着のハダカばかり写されているのだが、無一文や無所有を象徴するのかもしれないが、それは強調されることかと思うw



ラマナ・マハルシとの対話 第1巻あるがままに―ラマナ・マハルシの教えラマナ・マハルシの言葉アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話


関連記事
08 30
2017

幻想現実論再読

時間を逃れる言葉――『「無常」の哲学』 谷貞志

4393131010「無常」の哲学」
―ダルマキールティと刹那滅

谷 貞志
春秋社 1996-06

by G-Tools


「およそ存在するものは瞬間的である。例えば、雨雲のように」
        ――ジュニャーナシュリーミトラ『瞬間的消滅論』



 時間を見れば、われわれがどんなに無や非実在の世界にのみこまれてゆく存在であるかわかる。過去は刹那ごとに、奈落の底のようにのみこまれてゆく。しかし、われわれは過去を思い出しては、目の前に存在するかのように泣いたり、悲しんだりできる。それはほんとうに実在しているのか。

 われわれは瞬間、刹那ごとに消滅してゆく存在ではないのか。そのような世界の法則を知ることによって、われわれはこの世界の実相を知るのではないのか。

 本書はなんとなく刹那滅という言葉にひかれて読んでみたが、ダルマキールティの言説もあまり知らなかったのだが、警戒していた仏教論理学の教説だと知って、返り討ちにあった。論理学ほど、わたしの苦手とするものはない。中間あたりから、ほとんどなにをいっているかわからない。

 導入部の著者の死の恐怖からの語り口は、じゅうぶんに興味あるものだったし、時間論にかんしてはもっと学びたいと思うのだが、いかんせん仏教論理学の壁は、わたくしには突破しがたい。ほんと、難解。

 だいたい、この本であげられているディグナーガ(480年–540年)や、ダルマキールティ(600年–660年)といった人は、6世紀や7世紀の人である。日本では、古墳時代や飛鳥時代なのであって、むかしの人は原始人のような頭をしていたという進歩史観がまったくあてはまらないことを思い知らされるのである。

 ひとつ感銘した文としては、言葉というものは存在から時間性を奪ってしまうということである。「私」という言葉も、いついかなるときも「私」なのであって、あの時の私も、この時の私もずっと同じ存在として、抽出されてしまう。しかし、この世の存在に時間の法則をのがれた存在はあるだろうか。

 言葉は、時間から切り離された超存在というべきものを、はじめから打ち立ててしまう。時間を越えた永久に存在するかのような存在を、言葉ははじめから含んでしまう。そして、人は時間性からのがれられないこの世界から、時間をこえた永遠の存在を望んでしまうのではないのか。

 つまり、言葉自体がすでに時間をこえた永遠の世界をもたらしてしまうのである。

 人は後世にのこるものとして、恒常的な石に名前や言葉を刻んでおこうとする。それは言葉自体がもっていた時間の超越性ゆえであって、この世に時間性を逃れ得る存在などなにひとつない。言葉は、われわれから劣化や変化や、消滅からの超越を夢想させてしまうのである。

 われわれは刹那や瞬間ごとに消え去ってゆく時間の中に生きる存在である。いかなる存在といえど、時間性から逃れられない。しかし、言葉は違う。言葉はそれ自身のはじめから、時間性を超越している。それゆえ、われわれは、時間をこえた迷妄や虚妄にさいしょから迷い込まされるのではないだろうか。

 だけど本書は論理学が難解すぎて、なかなか吸収するのがむずかして、論理学というのは、もっとわかりやすく語ってくれたらね、と思うのだけどね。


刹那滅の研究認識論と論理学 (シリーズ大乗仏教)東洋の論理 空と因明岩波講座 東洋思想〈8〉インド仏教 1


関連記事
google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top