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04 16
2005

社会批評

非社会性を人はなぜ叩くのか


 われわれの社会では非社会性は非難の的である。犯罪を犯すだの、成長できないだの、就職できないだの、人格に欠陥があるだの、ありとあらゆる陰湿なイメージをふっかけられる。

 どちらかといえば現在で問題なのはその実体よりか、そのメッセージ自体が若者を追い込んでいないかと問うことこそ重要に思える。強迫観念のように若者を追いつめていないだろうか。

 なぜ社会は非社会性をそんなに非難するのか。友だちがいなかったり、おたくであったり、ひきこもりやニートであったとしても人の自由であるし、勝手だし、人にとやかくいわれる筋合いはない。非社会性は人に迷惑をかけるものなのか。ぎゃくにもっとも人に迷惑をかけないひっそりした人たちではないのか。

 非難する人たちは怖れているのだと思う。自分の中のそういう部分を投影しているのだと思う。自分の非社会的な部分を必死に叩いているのだろう。

 そもそもわれわれの社会は経済の効率化やサービス化をめざしてきて、徹底的に非社会的な社会をつくってきたのではないか。いっさい話さずともモノやサービスが買える社会をわれわれはつくってきたのではないか。非社会性をめざしてきたのはだれなのか。

 人間の社交や交流も経済サービス化したために社会性を失わせたのはだれなのか。われわれは人と会わなくても古今東西の有名人の話やお笑い、歌などを本やTV、新聞などで見聞きすることができるのである。人と会うことの魅力の大半はメディア産業に奪われてしまったのである。このメディア産業をブッつぶしてしまえば、われわれは社交というものに強烈に飢えることになるだろう。しかしそれは不可能というものだ。

 このような社会でわれわれは自身の非社会性にやましさを感じ、怖れているのである。そして社会性が育たないことを知っているからこそ、非社会性を非難しなければならなくなったのではないか。社会性が魅力でないサービス化社会の功罪なのである。

 非社会性を非難する人なんか相手にしても仕方がないのだろう。われわれ自身こそがメディアやサービスによって非社会的な社会を押し進めたのである。反省するなら若者を叩くより、産業を問え。この非社会的なサービス社会をわれわれは手放せるというのか。

 そしてそのツケは社会性を育てられない若者の大量出現となって現れたのである。この非社会的な社会をやめられない以上、非社会性に寛容になり、容認し、非社会的でも生きやすい世の中をつくってゆくしかないだろう。そういう社会や若者をもとめてきたのはわれわれ自身ではなかったのか。


08 17
2005

社会批評

賞賛をモノによって満たそうとする人間


まったくそう思う。橋本大也さんのPassion For The Futureの「成長の限界 人類の限界」の書評での言葉である。

 「人が必要としているのは大型車ではなく、とっかえひっかえの衣服ではなく、賞賛や尊敬であり、ワクワクしたり、他人に魅力的だと思われることなのである。もう一台コンピュータやテレビが欲しいのではなく、自分の頭や感情を満たす興味深い何かがあればいいのだ。求めているのは非物質ニーズなのに、それを物質ニーズで満たそうとするといくらあっても不足してしまう。」

 われわれは賞賛や尊敬がほしい哀れな生き物である。そのために人より稼ぎ、人より高いモノをもとうとする。そういう性根が恥ずかしいと見透かせるようになれれば、われわれの競争は落ち着いたものになると思うんだけど。

 勝つことが羞恥プレイとなる風潮はできないものか。といってもそれは老荘思想がめざしたことであり、アジア的停滞とかいって、ヨーロッパに侵略されてしまうのだけど。


08 27
2005

社会批評

高尚と低俗


  Snap_010311.jpg 『電車男』 オタクも人を助ける。

 文学や哲学を高尚と尊び、マンガやオタクを低俗と軽蔑する考えを私たちはもっているわけだが、この基準がいっているのは、性欲や自己満足、利己主義を好きなだけ追究するか、あるいはどれだけ離れるかということなのだと思う。

 低俗なものがおとしめられるのは、性欲や自己満足がとことん追究されるからだ。自分の利益ばかりを追求する人は嫌悪されたり、非難されたりする。オタクは自己の性欲や愛着をあまりにも忠実に執着しすぎるから、ほかの人に嫌悪されるのである。

 ぎゃくに高尚なものが誉められるのは、自己利益から遠くへだたった行為や趣味をおこなうからだと思われる。政治や哲学、社会について考えるのはこの共同社会の利益に貢献すると思われるだろうし、難解で深遠なことを考えておれば、われわれの社会に利益がいずれはもたらされるだろうと思われるのだろう。

 高尚なものは自己利益から離れ、共同社会に益するものだと思われており、性欲も覆い隠されているがゆえに非難からまぬがれる。自己利益を追求していないように見える。自己利益の倫理が、高尚と低俗という基準にもりこまれているわけである。

 オタクというのは自己の性や愛に忠実でありつづける強さをもっている。性欲を中心に執着するということは、この社会ではいっぱんに嫌悪され、隠蔽されるのである。オタクはそのうえに幻想によって自己の性満足を追究するがゆえに、異性の利益ももたらさないので、この共同社会の風当たりは強くなるのだろう。非難にも耐えて自分の好きなことを追求できることはかなりの強さや技術、あるいは無神経さをもっているのだと思う。

 私は自分の弱さゆえに低俗なものにふみとどまれずに高尚なものへと向かう求心力をもっている。低俗を非難する声にすぐに屈するのである。高尚なものに興味が向かうというのは、自己利益を放棄するということでもあり、低俗への非難に弱いということである。他人の言動に左右されやすい弱さをもっていることになる。

 社会は共同体の利益のために性欲や利己主義を断ち切らせようとする。われわれは低俗という非難によって自己利益を放棄するように訓育されるわけである。

 低俗なものを非難する心をもつことによって、われわれは自分の好きだったことをどんどん放棄させられて成長してゆくことになる。高尚なものが絶対的に善であり、正義や優越だとは私は思わない。それは社会的体面をとりつくろう技術でしかないと思う。

 そういういつわりのペルソナにむしばまれてゆく人生は、かつて反抗した世間体を気にする親たちとなんら変わりはしない。低俗を非難し、高尚という仮面を身につける人生には警戒したいものである。他者の利益に奉仕するだけの人生は他者のあやつり人形でしかないのである。


09 28
2005

社会批評

階層化とお金の幸福


 階層化が新たな社会問題としてクローズアップされ、深刻な問題として懸念されてきたけど、私にはどうも腑に落ちないことがある。だれもが高額所得や、または高い階層をめざしたり、それが幸福だと思ったりするのか、という疑問である。

 だれもが等しく平等に上流階級をめざすのなら階層化は問題だろうけど、みんながみんなトップやエリートをめざしているとはとても思えない。階層というのはなんらかの価値観の一元化がないと、上下の差をつけられないのだけど、みんなの価値観がすべて等しく同じなんてことはありえないだろう。

 お金の多い少ないは端的に上下の順位をつけられるが、たとえば幸福や満足というのはお金のように数値化されない。階層というのは単純に所得のことをいうようだけど、高額所得者がおしなべてすべて幸福で満足しているとはいいきれない。

 階層というのは所得の多さだけで幸福だと決めつける価値観の押しつけのように思える。その位置づけを見て上層にいる人は満足し、下層にいる人は怖れたり、哀れんだりする。

 いわばこの序列順位というのは「もっと金儲けをしろ、働かないと下層階級に落ちるぞ」と脅し、もっと人びとを働かせようとするイデオロギーか、告示板のように思える。金儲け教の天国と地獄の道標なのである。

 このような焚きつけを必要とするのはだれなのだろう? 人々をがむしゃらに働かせようとするのはだれなんだろう?

 たとえば商品広告というのは、人びとの劣等感や不安を焚きつけることによって高級品やブランド品を買わせようとする。消費社会というのはだいたい人びとの怖れを焚きつけることによって売り上げや儲けを増やそうとするものである。

 階層化をはやしたてるのはたいてい知識人である。知識人はほぼオオカミ少年のように人びとを脅して自分の本を売ったり、または学校教師という知識で食う人たちは学歴競争を焚きつけようとする。企業も階層脱落を怖れる人のがむしゃらな働きをうはうはと手に入れられるわけだ。だいたいは自分たちが上位にいると思う人たちに利益が転がりこむ仕組みになっている。

 私はこの豊かな社会になった現代にこれ以上の所得向上のなにが必要なのかと思う。同時代の人たちと比べるといくらでもミジメさを思い浮かべることはできるが、はたして30年前の人たちや100年前の人たちと比べて、いっそう貧困にミジメになったといえるだろうか。

 これ以上なにを求める必要があるというのだろうか。私たちはぎゃくに所得の多さを競うために労働に会社に拘束される人生の悲惨さにもっと目を向けるべきだと思う。労働ばかりの毎日にいったいなんのために生まれてきたのだろうかと思わないだろうか。

 私たちはお金の階層という図表しかもたない。あるいは社会的地位や支配力の図表のみである。そこではその劣位に位置づけられる者はかわいそうで、情けない落ちこぼれなのである。

 フリーターやニートになる人はその価値観とまったく逆の図表をもっているはずである。ホームレスだってもしかして自分たちを劣等者におく図表ではなくて、自分たちが最高ランクに位置づけられる独自の図表や階層ランクをもっているのかもしれない。ただそれを図表にしたり、知識人のようにうまく階層表にして広告できないだけなんだろう。かれらはそれを「乞食は三日やったらやめられない」といってきただけなのかしもれない。

 たしかに所得が多ければ多いほど幸福を感じるようにデータでは表わされているばあいもある。所得が少なければ不幸だ、悲惨だ、と思うようにイン・プリンティングされているからだろう。それはこの社会がお金がたくさんあれば幸福だ、お金がなければ不幸だ、という図式を信憑しているからであり、または教育されているからだろう。

 現代にこれ以上のなにが必要なんだろうと思う。階層化の怖れを煽る人には、まだそんなにほしいものがあるのか~と憐れんでやりたい。


 ▼「世人は飢えとこごえで衣食にこと欠くのが憂いであることは知っているが、衣食にこと欠かない富める者の方が、いっそう深刻で憂いを抱いていることを知らない。」
菜根譚

10 15
2005

社会批評

豊かな社会の再分配


 現代は過剰にモノにあふれかえった時代になっている。ショッピングモールや専門店にはたくさんの商品があふれかえり、私たちの欲望や所有欲を楽しませる。

 しかしこんなにモノをたくさん買う必要がわれわれにはあるのか。モノをたくさん買いあつめることは、われわれの人生にとって意味あることなのだろうか。なによりも、私たちはたくさんのモノを買うため、または収入を増やすため、人生の多くの時間を労働や会社に捧げなければならない。こんにちの労働に人生の深い意味を見いだせるだろうか。

 私たちはこの社会で生きてゆくためにはとにかく仕事をつくらなければならならい。ほんのわずかな違いの商品であったり、新奇さを競う新製品であったり。そして新しい商品をもっていないためにバカにされたり、みじめだと思わせる価値観をつくりだしたりして、消費者の口にごりごりとモノを押しこめるのである。

 どんなに豊かになっても、新しい商品を買う人や収入が増える人がいる限り、多くの人はみじめでありつづけるのである。

 貨幣経済とはよくできたしくみだと思うが、なぜなら人にサービスをおこなわなければメシが食えないしくみを強制的につくりだすからであるが、一方では、機械的な労働に人生の意味を見いだせるとはとても思えない。人のためにサービスをおこなう人生は利他主義的観点からいえばすばらしいものかもしれないが、巨大化した産業労働にその意味を見いだすのはむずかしいし、自分の人生を生きているという感じがまったくしない。

 貨幣経済のほかに食料やモノが人びとに分配される方法はないものだろうか。私たちはこれらを手に入れるために過剰で無意味な生産や労働をやめられないのである。貨幣の根本的なしくみが、われわれを物質的過剰の社会へと導き入れるのである。貨幣でしか、人類は食料を分配させる方法を見いだせないのものなのだろうか。

 過剰で無意味な人生を送っていると思わせる豊かな社会は、どんどんと生産や労働の根幹の意味を消失させてゆく。無意味さの増大が若者から働く意欲を失わせる。

 そしてどんなにモノにあふれかえろうが、どんなに収入を増やそうが、みじめであわれだと思わせる社会はつづいてゆく。「おまえはもっていない」、「おまえは守られていない」、「おまえはふつうの暮らしを手に入れていない」――社会はいつも新しい基準をつくって人びとを脅しつづける。新自由主義や階層化、パートタイム化で脅しつづけるしか、人々は働く意欲を見いだせないからである。この過剰な社会にこれ以上のなにが必要だというのだろう? 百年前や貧しい途上国と比べたら、われわれはどんなに豊かで贅沢な暮らしをしていることだろう。

 意味ある、価値ある人生とはどんなものなのだろう? 私たちは無意味な労働に駆り立てられ、もっと多くのモノをこれでもかこれでもかと買いつづけなければならない。この生産消費社会で、われわれは意味ある人生を送れているといえるだろうか?

 少ない労働で、少ないモノで満足できる社会に、私たちは方向を見いだせないものだろうか。モノであふれかえり、まだまだカネが足りないと思う社会は、どうも方向を間違っている気がするのである。


11 06
2005

社会批評

マスコミが儲かる「下流社会」


 下流社会 新たな階層集団の出現020550830000[1].jpg「家族」と「幸福」の戦後史―郊外の夢と現実ファスト風土化する日本―郊外化とその病理

 三浦展の『下流社会』(光文社新書)がベストセラーの上位に食い込み、20万部を越えたそうだ。『さおだけ屋はなぜ潰れないか』(光文社新書)が100万部、『バカの壁』が400万部。新書が爆発的に売れる時代になったみたいだ。小説の文庫ばかりが売れた時代より進歩である。フィクションが「教養だ」なんておかしい。

 『下流社会』はインパクトがあるタイトルである。「一億総中流」を耳にたこができるくらい聞かされた世代にとっては、とうとうそういう時代がきてしまったかと嘆かせるに足るネーミングである。

 基本的にこの本は「下流」であることを脅す本である。「生活能力が低い」、「300万では結婚できない」と恐怖を煽る「商法」である。「恐怖商法」というのはマスコミや広告社会の常套手段である。

 というか基本的に商売は人の恐怖を煽ることによって儲けをつくるものである。宗教もしかり、医学もしかり、学校もそうである。だからそういうからくりに過剰に反応しないほうが身のためというものである。たぶんこれからもマスコミが「下流」の脅しで一儲けしようとするのかなあ。

 私の立場としては、「階層」なんかあるのかという考えである。だいたいこの本も階層「意識」というあいまいなもので調査されており、自分は「上中下」のどこに属するか「意識」しているかというやつで、まったく明確な基準ではないわけだ。

 それから階層という価値観の前提もまったく問われていないのが問題だと思う。金持ちや暮らし向きがよいのを「上層階級」とよぶとするのなら、ある程度は豊かになったこの社会において、その序列のモノサシを使いつづけることに意味があるのかと思う。なんだかこれは「3C」(カー・クーラー・カラーテレビ)が憧れだった高度成長時代の古すぎるモノサシである。

 この本はそういう上昇志向がなくなった時代の問題を、すべて「下流階層」に押し込めているヤバさを感じる。「夢のなくなった時代」「ほしいモノが新たにつくれない時代」のいいわけを、下流階層に転嫁してしまっている。こういう時代になぜ階層という問題を問われなければならないのか。マルクス・エンゲルス的階級観というものが新聞記者や学校教師あたりにいまだにウケるからなのか。

 問題は下流社会が生み出されることではなくて、豊かになった時代の「生き方」や「目標」、「哲学」なのである。階層という古い問題に足をひっぱられるのは、ポストモダン社会には大迷惑である。若者は新しい価値観をつくらなければならないのに。

 階層という問題が人びとに怖れをもよわせるのは、人間の社会が権力や地位を競い合う世界だからである。それはマイカーやマイホームや会社によって競われてきた。「中流社会」や民主政治、平等が平和だったのは、そういうむき出しの権力闘争が覆い隠されてきたからである。

 もしみんなが同じという幻想が崩れ去れば、むき出しの権力闘争があらわれることになるだろう。「下流社会」のインパクトはそののろしなのである。平均化されえない、多様化された価値観の競争はたいそう疲れることだろう。アナクロでもいいから階層の古巣にもどりたいということである。

 ▼参考リンク
 若者は「脱所有」「脱消費」をめざすのか 01/9/30. 三浦展は団塊ジュニアの脱所有を支持したのではなかったのか。

大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史41210124961.jpg「負けた」教の信者たち - ニート・ひきこもり社会論067450791.jpg希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く

12 14
2005

社会批評

高学歴者は権力志向なのか


 学歴でまったく理解できないことは、高学歴の者はすべて社会的地位や権力ある立場をめざすのかということである。

 優秀な大学を出れば、とうぜんのように大企業とか成長企業、中央官庁をめざすものだと思われているが、頭脳優秀な者はそんなに権力志向なのか疑問である。

 私の学生時代を思いだせば、成績のよい者はとてもリーダー格や集団を率いるトップに向いているようには思われなかった。かれらは教室の隅にいる従順なおとなしい存在にしか見えなかった。生徒にバカにされたり、いじめられたりするおとなしい教師にダブって見えてしょうがないのである。

 成績順に社会のヒエラルキーがつくられたりしているが、私は学生の人気企業のどこに魅力があるのかさっぱり理解できなかった。なんか株価や利益の大きい企業が人気のトップに踊り出ていたように思うが、そういう価値基準がまったく魅力的に思えなかった。

 人の価値観はまったく多様である。たとえば将来、芸術家やプロスポーツ選手、タレントなどになりたいと思っている者には、大企業のヒラエルキーや官庁の番付のようなものはまったく魅力がないだろう。トップや権力をめざさない者にも、世間でいっぱんに流通する企業のヒエラルキーもまったく魅力にうつらないだろう。いったいだれの価値基準に従って、世間のヒエラルキーができているのか不思議でしょうがなかった。

 権力や業績で企業や官庁のヒエラルキーはできていると思うのだが、たまたま学校で成績がよかった者はおしなべてすべてそのような組織に属するのが当たり前なのだろうかと思う。学歴優秀な者はみんな権力志向やトップ志向に染まっているとは思われない。たまたま学力に秀でていたばかりに、トップの権力集団に属さなければならないというのはかれらの性質や価値観に合致するものなのだろうか。

 学力の優秀さと社会の権力は重なり合うものなんだろうかと思う。従順な学歴エリートと、力や押しでのさばるような権力者は、かなりかけ離れた存在のように思う。学歴エリートは権力者の資質があるのか、というよりか、かれら自身権力の中枢に座ることをのぞんでいるものなんだろうか。学歴と権力はかなり異なったもののように思えるのだが。

 私は世間のヒエラルキーというものがまったく理解できない。そもそもトップに位置する価値観をまったく共有しないからである。私にとってまったく価値のないものがトップに階層づけられるなんてことが、とうぜん私の理解をはばむ。この世間で流通するヒエラルキーというのはいったいだれの価値観に従っているのだと思う。

 世間に宣伝・洗脳するのがうまい連中がおそらくそのヒエラルキーをつくっているのだと思う。しかし私にはそういう価値観を共有しないから、この価値基準がてんで理解できないし、そんな基準でがんばろうとか勝ちたいとかもまったく思わないのである。

 世間にあるヒエラルキーはほんとうに人びとの魅力や憧憬にかなうものか、はなはだ理解に苦しむのである。


12 23
2005

社会批評

学歴と幸福はいっさい関わりない


 戦後の日本は一流大学に入りさえすれば、幸福になれるという単純なモノサシを信仰してきた。そのために人間のランクや序列がかんたんに測れるという単純きわまりない世の中ができあがっていた。

 一流企業に入ってたくさんの金や安定が手に入れば幸福になれると思っていたし、ランクや名誉も上るものだと信じられてきた。カネと学歴さえあれば幸福であるというきわめて単純な図式を人びとは信憑してきたのである。

 しかしご存知の通り、そんな単純なモノサシは崩壊した。一流企業に入ってもリストラされたり汚職にまみれたり、長時間労働の地獄であったり、人権無視の会社であることはざらであるし、得るものより失うものが大きいのではないかと人びとは気づきはじめてきた。

 価値観の多様化も大きい。そもそも人の幸福や満足は各個人それぞれにたいへん違っているのが当たり前である。それがたったひとつのカネと学歴のモノサシだけで、幸福が決められてきたのである。こんなバカな話があるか。

 この人たちのモノサシというのは、権力欲や名誉欲、強欲の権化みたいな人たちの価値ランクである。おおくの人はそんな欲望ばりばりの生き方なんかめざしたいとは思わないだろう。ほとんどの人はそこそこでいいと思うものではないのか。

 みんながみんな強欲の果てに得られる地位やランクなんかほしいとは思わないだろう。それなのに戦後の日本はその強欲のモノサシで幸福のランクが決められると信じてきたのである。いわば権力の権化のランクを信仰してきたのである。

 ひじょうに間違っていると思う。われわれの多くはそんな権力も権勢もほしいとは思わないだろう。それなのに権力のランキングが幸福であるという信念や規範をわれわれは固く信じてきたのである。

 いったいだれがこの単純なモノサシを洗脳したり維持してきたのだろうか。単純極まりないランキング装置としては、やはり学校の洗脳や選別の力が大きいのだろう。単純に一本の線の上に人間を序列できるそのモノサシは、あたかも人間の幸福のランクがあるように見せかけるのに十分であっただろう。戦後の日本は学校業界のマーケットの犠牲になったのである。

 そして戦後の社会主義のせいでもある。社会主義というのは平等をめざすためにモノサシを一本にしなければならない。でないと比較もできないし、平等も測れないからである。社会主義は人びとのモノサシをただ一本だけつくったのである。カネと幸福という単純な一本のモノサシだけを。

 さっこん流行の民営化はこのようなモノサシの崩壊も導くものである。政府の宣伝する一本だけのモノサシも解体されるということなのである。

 このようなモノサシを信仰しておれば、上の序列からかんたんに人間の幸福の序列もつくられる。低いランクの人たちは不幸でみじめだという物語はかんたんに流布される。どうやらそうではないという気分はバブル前後あたりから深く進行していたのだろう。エリートの崩壊はその帰結にすぎない。

 幸福というのは人の序列によって決まるのではない。それは強欲者たちの信念にしかすぎない。幸福は人の序列の外にあるものである。序列比較は人の幸福を壊すものでしかない。おそらく自分ひとりの楽しみや喜びを知っている人は、そのことをしっかりとわきまえているはずである。

 学歴と幸福はいっさい関係がないという社会の世論、コンセンサスができあがる必要があると思うしだいである。学校業界の餌食から早く脱することが必要なのである。

12 24
2005

社会批評

企業社会の不満が下層化に隠蔽される流れ


Snap_01281.jpgnewgeneration6_photo3111.jpg下層化のプロパガンダ男たち

 山田昌弘がTVに出ていて思ったのだけど、ニートやフリーターを「下層化」にとりこもうとしている流れや策略みたいなものを感じてしまった。

 かれらは不況や構造的要因で働けないのもあるが、ほんとうのところは企業社会への不満が根深いところにあるからだと思う。「社畜」や「会社人間」になりたくない、「監獄企業」に入りたくないという怒りが若者にあるはずである。

 「働いたら負けだと思っている」というニートの若者の気分が代表するように、若者はこの生産マシーン国家を全身で忌避したいと思っているのだ。

 山田昌弘や三浦展が煽っていることは、このサラリーマン社会への不満を隠蔽して、その不満層を、下層化や貧困層の転落へとすりかえているのである。

 私の信頼する愛すべき学者たちがこういう策略を意図的におこなっているとは思いたくないが、政府のプロパガンダ御用学者に陥っている情けなさを感じている。この人たちは一度も奴隷のようなサラリーマン社会に不満や怒りを感じたことはないのだろうか。

 かつては佐高信やカレル・ヴァン・ウォルフレン、奥村宏のような人たちが、少ないけれど、企業社会への批判をおこなっていた。企業への滅私奉公や宗教化の批判をした佐高信、「人間を幸福にしない日本というシステム」「生産マシーン国家」などの名称で鋭く批判したウォルフレン、「工場の前で民主主義は立ちすくむ」「会社本位主義は崩れるか」といった奥村宏などがいたはずである。

 若者はこの怒りをもっと肌や気分で感じていたはずである。フリーターやニートはそのような気分の帰結としてあらわれたのである。

 ちかごろの若者の下層化の論説の流れを見ていると、この怒りを忘却して、若者は下層化に落ちる哀れな層というイメージにとりこまれていると感じる。不満を社会全体の問題としてとりあげるのではなくて、あくまでも下層化する連中だけの問題に押し込めようとしているかのようだ。

 ふーん、学者とはこのようなことをするのかと思った。社会全体の問題を、下層連中の問題にお蔵入りさせてしまうのだ。この問題は企業中心化されすぎた日本という国家全体の問題のはずである。それが下層連中だけの問題に棚上げされてしまうのである。この学者たちは意図的にやっているのだろうか。それとも問題の所在をカネだけの換算にしてしまったから、不満が見えなくなってしまったのだろうか。

 この情けない男たちのプロパガンダにだまされてはいけない。問題は大手をふって暴虐の限りをつくす企業社会のあり方である。私たちはこの強大になりすぎた権力を抑制する手段を、どこかにみいだすべきなのである。その調停役を国家がとりおこなわないから、不満は若者にニートやフリーターとして蓄積するのである。

 いままで政府は企業の監督であり、リーダーであり、個人の味方ではなく、敵であった。だから労働者や個人、消費者は守られなかった。新興の発展途上国はこういうかたちをとるものである。これから政府は企業と個人のレフェリーとならなければ、だれからも信頼されなくなるばかりである。

 いったいつになったら、企業権力の抑制策はおこなわれるようになるのだろうか。みなさんは若者の下層化を煽る連中にだまされないでください。

 ▼日本企業社会批判
 kabu1.jpg人間を幸福にしない日本というシステム CIMG00011119.jpg日本 権力構造の謎〈上〉

01 06
2006

社会批評

貧しさと豊かさの世代の対立



 貧しさから出発した世代と、豊かさから出発した世代では、とうぜん必要なシステムや目標は違ってくる。その貧しさの世代がつくりあげたシステムがいまの世の中にまったく不釣合いになっているのにそのシステムを変えることができないのが現代の不幸である。

 貧しさの世代はとにかく会社にたくさんのサポート体制をのぞんだ。年金やら健康保険やら、退職金やら、または解雇されないこと、そして会社を家族やふるさとのような共同体に仕立てることをのぞんだ。

 これが豊かさの世代にはまったく裏目に出てしまった。すべては拘束や重荷に転じてしまったのである。古い世代にはそれはユートピアに見えるかもしれないのだが、新しい世代にはそれが労働や会社の牢獄としか見えないのである。

 サポートが多くあれば多いほど恵まれた会社と思う世代にとっては、この転落にはまったく気づかない。欠乏の時代に人格形成をした人はそのときの考え方の枠組みで年が止まってしまうようである。

 会社に雇用を保障されない時代に人格形成した者たちは、つぎつぎとボーナスのように出る会社の福利厚生にかなり喜んだのだろう。そのときの喜びの記憶が、この古い世代には「正社員」や「定職」という確実な安定を保証するものとして脳裏に刻み込まれ、いまでも子どもに「正社員になれ」とくりかえすことになるのである。

 豊かさから出発した世代はこれが当たり前の時代に育ち、そしてそれが人生の拘束や重荷となる現実を見てきたのである。また安定した職のない欠乏を経験したこともないがゆえに、会社に継続雇用されつづけるありがたみもまったく理解できない。古い世代が切望したものは、新しい世代にはもう不要なものなのである。

 豊かさに育った世代にはもう旧世代のようなモノの消費に喜びを感じるような感性も少なくなっている。モノの消費は目新しいものではなくて、ありきたりのつまらないものなのである。消費はせいぜい友だちでの優劣を競う道具立てか、コミュニケーションを助けるツールくらいでしかない。豊かさから出発した世代はもうモノの消費は目標ではないのである。

 そうなるととうぜんなんのために働くのかわからなくなる。フリーターやニートになるのは消費の目標もないし、会社に手厚くサポートされる必要も感じないし、なんで毎日クソしんどい労働に縛られなければならないのかと思う若者のあたりまえすぎる行動の結果にほかならない。

 豊かさの世代は貧しさの世代が当たり前と思った目標をひとつももたない。それなのに貧しさの世代がつくりあげた旧態依然とした企業社会が待ちかまえているだけである。生活のために働かざるをえないから働くのだが、こんな人生楽しいともおもしろいとも思えない。だけどどうしようもない。毎日会社に通うしかない。

 こういう世代間の断絶が亀裂のようにこの社会に走っているのに、上の世代はネズミ講の下の層を担う若者がごっそりいなくなっていることにまったく気づいていない。自分たち貧しさの世代のようにこのシステムを切望しつづけ,担いつづけると思い込んでいる。

 豊かさの世代はもう人生のサボタージュか、ひきこもりになるしかない。上の世代が若者はまったく変わってしまったと気づくまで、若者は人生の生気をどんどん失ってゆくばかりだろう。

 貧しさをサポートするためのシステムをどんどん解除してゆく必要があるのである。それは豊かさの世代には拘束と束縛と重荷のほかのなにものでもない。それはぎゃくに人生をつまらないものにする大きな足かせになってしまっている。たしかにそれには安心と安定がサポートされているように見える。だが同時に若者はそれに重苦しさを感じている。サポートするものが人生の重荷になると感じている。人生のサポートだけにそれをなかなか捨てられない。

 豊かさの世代は貧しさの世代と違ったこれからの世の中を生きてゆかなければならない。カネやサポートの損得だけでは人生の楽しさを測れない時代を生きてゆかなければならないのである。だから貧しさの世代の指針はなんの頼りにもならないし、ときには幸福の阻害要因でしかない。こういう世代の断絶を世の大人たちが知らないということは嘆かわしいことであり、情けないことである。

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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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