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01 13
2014

社会批評

目の前の人のせいにする前に状況を探れ

 育児にいそがしい主婦は手伝ってくれずに寝ている夫に一生の恨みと不満をいだくようである。夫婦の不和というものはこの家庭の役割分担からはじまるようで、その禍根は一生ひきずるもののようである。

 しかしこれは目の前の夫に不満をいだくものではなくて、「男は外で仕事、女は家で家事をするもの」という文化規範が夫をそのように仕向けているのではないかと捉えることもできる。憤懣を向けるのは寝ている夫ではなくて、男女の役割分担をそう仕向けた文化規範に向けるべきではないのか。

 タレントの遥洋子はフェミニズムを勉強したあとでこういっている。

 

「個々の女性には、自分が個人的に関係する男性だけから抑圧を受けているかのように、つまり抑圧は私事のように見える」



 人は目の前のだれかや個人にツライ目やひどい目に会わされていると思うのだが、それは文化や状況がそうさせている場合も多い。というか、文化や状況が欠落して、目の前の人のせいばかりにする人もいるのではないか。

 状況や文化というものは目に見えるものではなくて、情報や探索によってでないとなかなか得られにくいものである。目の前の人が「犯人だ」「原因」だと思うのだが、「真犯人」は陰に隠れて目に見えない「状況」や「文化」ではないのか。

 人は目の前にいる人の「人格」や「性格」が悪いのだとよういに短絡しやすい。だけどそれはたんに状況や文化を知らない知性の欠如によるものではないのか。

 ひところニートやフリーターは怠けや根性が足りないといった人格論・性格論でたたかれることがあった。だけど経済情勢を見てみると新卒採用は「金の卵」といわれた高度成長期の求人不足はとっくに終っており、就職難の時代がつづいており、非正規や職があっても出世の断たれた道であったりする。このような経済情勢がまったく欠落した上で人格を攻撃するのは知性上の問題があるといわざるをえない。

 これらの人たちはいままででは理解できない新奇な行動をしているように見える。だから人格や性格の問題にされる。落ちついて状況や経済の変化が大きくおこったことがマスコミなどで知られることはだいぶ後になってからである。そのあいだ、かれ自身の人格や性格の原因にされる。時代背景の変化を知らない無知からくるバッシングなのである。世間の人たちのタイムラグはだいぶある。いつまでも時代背景の変化を知らない人だっているかもしれない。

 似たような例としてホームレスや生活保護に陥った人たちにもあてはめることができるし、ひきこもりだって原因をさぐれば個人の問題より社会や状況に求めることができるだろうし、ほかにも状況を見ないで個人的人格や性格が原因にされる例はごまんとあるだろう。

 犯罪者なんて人格が攻撃される最多のものではないのか。かれをそう仕向けた社会や状況は顧慮されない。社会は犯罪者をたたく放免と印籠を両手いっぱいにわたされるのだが、状況や社会がかれをそう追い込んだという原因でみると、かれをゴミクズのように叩く放免をやすやすと手にすることはできないのでないのか。

 人は目の前に見えるものだけに責任をなすりつけやすい。

 だけど人間は世界に自分ひとりだけの責任で、ひとりだけの全裁量をつかって世界に悠然と立っているのではない。多くは状況や社会の「奴隷」や「操り人形」であって、目に見える行動をおこさせているほんとうの原因はこの社会や状況でないのか。

 目の前にいる人だけを叩く人はかれが全世界・全社会を支配している「全能の神」と思っているのか。あなたももちろんこの全世界を支配しているのではなくて、世間や社会の目を気にして、世間や社会の行動規範にのっとって行動しているにすぎないのではないのか。目の前の個人をたたく人はかれが全世界を支配できる神か、かえりみてもらいたいものだ。

 こういってくると教養や社会を知る学問の必要性や重要性はひごろ思っているより大きなもののようだ。社会や状況を知っているものは目の前の人をかんたんには叩けない。だけど社会も状況もなにもつかんでいない人は、目の前の個人しか見えないがゆえにかれに責任をなすりつけたり、ただ目の前のだれかを叩くだけになり勝ちではないのか。

 かれはほぼ盲人と同じである。むろん目の前の人は見えている。しかし社会や状況を見えないのなら、盲人としかいいようがない。教養や状況の知性の欠落は、思った以上に重要な欠陥をもたらすようだ。教養なんてべつに趣味のひとつにしか過ぎないレベルでもいいとわたしは思っていたのだが、状況を知ることの欠落は人を誤った原因に導くことがあまりにも大きいのではないのか。

 女性はこのような状況や経済を捉える目が欠如していて、目の前のだれかを叩きやすいといったら女性差別になってしまうのだが、残念ながら経済や情勢を知らないでもいいといった女性の文化規範があるとしたら、女性は知性の欠落におかれることになりやすい。

 経済情勢を知らないで夫の給料が減ったことに文句をいう女性や、彼氏の年収が低いと嘆いたり、非正規をなかなかやめてくれないといった相談は、社会情勢の変化といったものがまるで考慮に入れられていないのではないのか。人は経済情勢のなかではぼうふらのような危うい存在ではないのかと思うのだけどね。

 目の前の人に責任や攻撃を向けたい気持ちがわき上がったとしたら、その前にまずかれをとりまく社会情勢や経済情勢をたしかめてもらいたいものだ。かれはこの情勢の渦の中に巻き込まれる小さな木片にしかすぎないのではないのか。

 わたしたちは目の前の人が情勢にほんろうされるだけの「奴隷」や「操り人間」にすぎないという基本前提をもつほうがより目の前の人を理解できるのではないのか。いや、そうするべきなのだと思う。


12 07
2013

社会批評

「自然現象」と「イデオロギー」

 友だちや男女つきあいだって思想のもとになされる「イデオロギー」である。自然なものとしてなされるものだが、その行動の基盤にはイデオロギーがある。

 そのイデオロギーの存在に気づかずにいると、ある観念や世界観の条件反射的な情緒だけで反応することになる。「頭」がなくて感情だけで反応する人間を脱することが人間のめざしてきたものではなかったのか。

 友だちづきあいや男女のつきあってってひじょうに自然で、本能的なもの、放ってもいても人は友をつくり、恋人をつくると思われている。自然現象、本能にならった行動だととらえられている。

 だから自然に反した行動をなぜおこなうのか、なぜ自然に背くのかといった問答無用の「盲従の論理」が世間でまかりとおる。

 しかしそれらもある思想のもとに組み立てられた観念によって行動させられているのではないのか。イデオロギーの外に脱したことのない、イデオロギーにそまった人は、この観念に条件づけられていることに気づかない。

 このことで似た例を思いうかべるふたつのものは、慣習や制度にたいする態度と、他人や外界を変えれば自分の感情が修まるという考えかたである。「考え方」や「イデオロギー」、「捉え方」といった心のあり方がすぽーんと抜け落ちてしまって、感情的にだけ情緒的にだけ世界に反応してしまうあり方である。

 子どものころ、わたしは年末年始はなにか「超自然現象」的なすごいことが起きるのだと思っていたのだけど、年をへるにつれ正月はただ「数字の変わり目」にしかすぎないと思うようになったし、「みんながする慣習に盲目的に従う」ということに猛烈に反発を感じていた。正月や慣習というものはひとつの考え方、観念を「頭なし」に従うことである。

 クリスマスなんて近年の勢力をもつ慣習もそうだね。日本人はキリスト教や観念にしたがってその慣習なり行動なりに従事するわけではなくて、情緒的な慣習、「みんながしていること」にただ盲目的にしたがうだけだね。観念やイデオロギーの存在がすぽーんと抜け落ちている。

 慣習と並行するのが日常の捉え方、感情での対処の仕方だね。他人や外界を変えなければ自分の心は治まらないと思う人が多いのだけど、そこには自分の「考え方」や「捉え方」を変えれば心は変わるという考え方がまったくない。

 自分の「心」の存在が忘れられている。他人や外界を変えなければならないと思い込んでしまうのだけど、そう決めつけ、裁かなければならないとしているのは、「自分の考え方」や「捉え方」ということにまったく気づいていない。

 自分の心の存在を忘れているから、他人や外界を変えないことには自分の心は治まらないと思い込んでしまうのである。かけているメガネを忘れて、メガネをさがすようなものである。

 「他人が自分の感情を害した」と思っているのだけど、その怒りの前提となった「自分の心、捉え方が自分の感情を害している」ということにまったく気づいていない。「責任は自分にはなくて、ぜんぶ他人が悪い」である。

 こういう自分の考え方、観念がすぽーんと抜け落ちたあり方って、科学的世界観の捉え方によって生み出されているのかなと思う。

 「目に見える物体だけを信じる」という科学的精神は「物質主義的」な考えを世に広め、心の軽視や無視を生みだした。心や考え方というフィルターの存在を忘れさせた。

 この世には自分の外側に「客観的世界」があって、心は自分の内側にあるだけで、外の世界まで包含しているわけではないというのが科学的精神のあり方。

 視覚的にはわたしとべつに世界はあるのだけど、考え方や捉え方というフィルターは自分の世界をすべてふくむ。自分の心がものごとの良し悪しや善悪を判断している。それがなければ、わたしたちは自分の感情を起動させることはない。

 人間はもともと「他人が悪い」観にそだって、「自分の考え方が自分を害している」という考え方にはなかなか到達しないのかもね。心って見えるものでもないし、「前提」や「枠組み」という心のあり方を忘れることがふつうの状態かもしれないね。

 人はずいぶんと自分の「考え方」や「イデオロギー」、「観念」といったものを忘れてしまう、知らないのかもしれないね。

 そのイデオロギーの存在に気づかないと、行動なり選択なりが「自然現象」でおこなわれるものと思い込んでしまう。「自然なものだ」「自然に反することをおこなうな」という圧政的・強制的な勢力や慣習を押しつけておいて、疑問に感じることもない。

 わたしたちがお得意な新興宗教バッシングってこういう盲目の服従にたいして世間は強烈にバッシングをおこなうのだが、わたしたち自身が自分の「イデオロギー」という宗教を意識していない当の本人たちでないのか。

 それが「自然現象」であって、あるひとつの「イデオロギー」、「観念体系」であることがまったく意識されていない。外側や外部から客観的に自分たちの奉じる観念や信仰を見れないものこそ、「宗教」というものではなかったのか。世界観を「信じる」ではなくて、「世界はそうなっている」と思い込んでいる時点でもう宗教である。

 わたしたちの身のまわりのすみずみ、てんでたいしたことのない行動やあり方も多くが「イデオロギー」の影響下、支配の統治下にあると見なすことは、「無頭的」なあり方を反省させるだろうね。

 人間の世界の多くには「自然現象」があるのではなくて、「イデオロギー」や「観念」に従った、支配された行動や日常が多くあると気づきたいところだね。


▼だれかが命じたわけでもないの慣習にしたがう不気味さに切り込んだ古典的名著だね。
4560024456個人と社会―人と人びと
オルテガ Jos´e Ortega y Gasset
白水社 2004-05

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▼イデオロギー本といえばこの本かな。
412160086Xイデオロギーとユートピア (中公クラシックス)
カール マンハイム Karl Mannheim
中央公論新社 2006-02

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▼外界と心の関係については自己啓発、ニューエイジが教えてくれるのかな。
4763184431愛とは、怖れを手ばなすこと (サンマーク文庫 E- 45)
ジェラルド・G・ジャンポルスキー 本田 健
サンマーク出版 2008-06-16

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▼国家のイデオロギー装置といえば、ルイ・アルチュセール。
4582767117再生産について 上 イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー)
ルイ・アルチュセール 西川 長夫
平凡社 2010-10-09

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12 01
2013

社会批評

なぜ排斥の恐怖を人づき合いは植えこむのか

 異性とつきあったことのない男は気持ち悪いといった嫌悪感や不快感を組み込まれて、男女はそれぞれに男女交際に駆り立てられ、交際にうながされる。

 むかしは「結婚しない人間は性格的にか性的にかおかしなところがある」といった恐怖で結婚を縛られていた。そういう性格的・性的に異常視される恐怖の穴に落ちないためにいかに多くの人が結婚に駆り立てられたことか。人から名指しで害虫の不快感を貼りつけられるのである。

 ふつうの人間関係だって「ひとりで食事をしている人間は人格失格の目印」や「仲間外れにされた者」といった異端視の恐怖が巻き起こっていて、若者は孤立して食堂で食事をとることができない。

 それは女性にたいしてはとくに厳しく、「ランチメイト症候群」といって食事をする友だちがいなければ食事がとれないといった不安としてあらわれている。都市伝説なみには「便所飯」といった孤立が目立つことを恐れて「個室」で食事をとる若者という風説にも語られる。

 人間関係というのは排斥の戒律・恐怖を植え込むことによって、人を不断に人づき合いに駆り立ているようなものである。

 どうして人づき合いや社会参加という人の自由や勝手にゆだねられている行動に、恐怖という感情を植え込まれなければならないのだろうね。人づき合いなんて人の勝手だろ。

 排斥の恐怖を植え込まれるために人は多くの行動の自由や勝手を奪われる。不行動の選択がゆるされなくて、積極的・能動的な参加や行動をうながされる。それは金銭的にもエネルギー的にもかなり活力を必要とするもので、ちょっとした行動、言動のふしぶしにも排斥の恐怖がのぞかせるわけだから、人がこの不安をとりのぞくための行動コストはなみたいていのものではない。

 ひきこもりはこの行動コストの拒否やエネルギー不足ともいえるかもね。排斥される恐怖へ立ち向かう勇気やエネルギーはもう削がれてしまったのかもしれないね。

 日本人だけが非合理な対人恐怖や社会恐怖といった独特の神経症になるといわれるが、排斥の恐怖というものを言語化、意識化していないだけかもしれないね。神の恐れのような非合理な恐れに日本人はとり憑かれているといえるね。

 なぜ人づき合いなんて人の自由だと思われるものに、排斥の恐怖によって行動参加の強制がこんなに強迫させられる感情を植え込まれるのだろうね。

 不参加というもの自体が、人間関係への拒否や否定、批判を暗黙にふくんでいるものだからだろうか。「あなたたちが嫌いである、不快である」といったメッセージを不参加は表明しているかもしれない。集団は嫌われているという恐れだけではなくて、自分たちが奉じる集団参加の活発さや楽しさ、エネルギー支出といったものの価値観の否定や批判も恐れているのかもしれない。

 不参加は集団全員を「敵」や「否定」に回る側にひとりで対峙する関係をつくりだすのかもしれない。集団もしぜんなつながりの関係ではなくて、人為的な価値観や権力のつどいである。不参加はそれへの否定や拒否である。ひとりで敵に回ったのである。人は恐怖に駆られる前にすばやく集団側につこうとするだろう。

 人への無視は攻撃力をもつものだが、それは顧慮するにも値しないというメッセージを発するわけだが、集団への不参加はこのメッセージを集団に発してしまうのかもしれない。集団は排斥の恐怖をもって人を縛りつけるものだから、その恐怖によって集団から離れているといえるのにね。

 これらは所属集団との関係においてだが、男女交際のように積極的に人に迷惑をかけるわけでもない不参加にどうして嫌悪と排斥の恐怖を植えこむのだろうね。だれかが積極的に被害や迷惑をこうむったのだろうか。害虫あつかいされるほど、迷惑をかけたのか。

 性的な関係は恥ずかしいものをふくむという恐れや性的規範もあるのかもしれないね。結婚なんて公的に毎日セックスする相手を手に入れたという表明でもある。性的なものは公的には隠蔽され、恥ずかしがられるものだが、結婚は公的に性的な関係の表明をするわけである。独身者は内なる性的な羞恥や不快感をなぜかひきおこすものなのか。古キズがうずくようなものである。

 しかしそれだけでは害虫あつかいする不快感、嫌悪感の説明には足りないだろう。積極的に孤立者や独身者は恐れや不快感をもよわせるものでないと、人々が口々に排斥の言動を頻出する理由に足りない。

 やはり人と違うことをする人間は自己の行動への否定や批判をふくむという理由あたりが妥当なのか。結婚や男女交際だって人の行動の自由のなかのひとつの選択である。それも価値観やイデオロギーをふくんでおり、ある権力集団に属するか、属しないのかの選択でもある。

 結婚もひとつの信仰団体に入るということでもあり、非参加の罪と攻撃は強いということだろうか。自分たちと違う行動、信条をもつものは敵であり、攻撃の対象であるということか。結婚や男女交際なんて自然なものとしたら、強制力や強迫力を植えこむ必要なんてない。不自然な人為成分をふくむものだからこそ、強制力は発動させられるものではないのか。

 ひところ恋愛至上主義といった人生で最重要で価値のある行動が恋愛であるといった表明と行動がずいぶん席巻したものである。恋愛主義もイデオロギーや信仰信条とするのなら、非参加への非難ははげしいものになるだろうね。

 世の風潮がはげしいときは、「それをしなければ人間であらず」といった強迫観念が渦巻く。恋愛主義は人々に排斥される恐怖を植え込みながら、その勢力圏や圧力圏を増大させた。

 「それをしなければ人間であらず」といった恐怖はずいぶん恐ろしいもので、風潮やブームというのはこういう強迫観念をドミノ倒しのように人々に感染させながら、その猛威圏を拡大させるものだね。この強迫観念にドミノ倒しされないことが人の自由や自律精神の強さだといえるね。

 勢力や人々の価値体系というのは排斥の恐怖を人々に伝染させながら、その脅威網を拡大させてゆくものだね。おおくの人は排斥の恐怖に落ち込まないためにあわててその行動に駆り立てられる。まるで感染して急に行動と人格が変わるゾンビみたいだね。

 人は集団のなかにおいて不断に「キリシタンの踏み絵」を踏まされているものかもしれないね。ささいな選択ひとつひとつが属するか属しないかの「キリシタンの踏み絵」である。

 しぜんで自由なものだって、行動の選択の自由があるかぎり、それは価値観や信条の表明でもある。人はそういう思想・信条の価値体系によって集団なり行動なりを選択する。そこで違った選択をおこなえば、敵や否定、批判にいつ回ってしまうかわからない。このような敵の恐怖に立たされる前の決断の秘訣は、集団から一刻も離れず、人についてまわり、人とひとつも違うことをしないことだね。でもそれも自分が犬や奴隷のような屈辱感や違和感も感じないわけでもないけどね。

 漠然とした非合理な恐怖というのは、言葉で明確に言語化・意識化すれば、その非合理な恐怖に支配されなくなるものである。幽霊が白日のものにさらされれば、恐怖が薄まるようにね。排斥の恐怖を言語化することは人の自由をもたらすものであり、囚われているかぎり、隷属や奴隷化のわだちからは抜けられないものだろうね。


▼子どもなみに敵国を害虫扱いするのは戦時中もそうだね。
4760111190敵の顔―憎悪と戦争の心理学 (パルマケイア叢書)
サム キーン Sam Keen
柏書房 1994-11

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▼人は排斥を恐れるためにひとりになれないのかもしれないね。
4140019271孤独であるためのレッスン (NHKブックス)
諸富 祥彦
日本放送出版協会 2001-10

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▼人は世論や常識というものになぎ倒されて、「自由からの逃走」に駆られてしまうものだね。その頂点がナチズムやファシズムだったという警告があるね。
4488006515自由からの逃走 新版
エーリッヒ・フロム 日高 六郎
東京創元社 1965-12

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▼対人恐怖は日本人だけの非合理なものといわれていた時期もあったけどね。
431401024X他人がこわい―あがり症・内気・社会恐怖の心理学
クリストフ アンドレ パトリック レジュロン Christophe Andr´e
紀伊國屋書店 2007-03

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11 27
2013

社会批評

恐怖によって社会に隷従しないための感情メソッド

 ツイートの焼き直しになりますが、ツイートはあとに残らないからね。

 京都で女子グループが35歳まで彼女がいない男は気持ち悪いというようなことを話していた。どこの、なにが気持ち悪いのか、分解したくなった。

 モテないことが気持ち悪いのか、女性と積極的につきあおうとしないことが気持ち悪いことなのか。

 この人に恐怖をもよわせる人物評は、けっきょくはだれを縛ることになるのか。恐怖をおぼえた男は女性とつきあう努力を怠らなくなるのか、それとも女性自身が彼氏を継続的に切らさない努力を駆り立てるものか。

 恐怖によって男女交際というものは縛られ、つきあいを強制されるという側面を社会はもっていることになる。

 恐怖によって社会規律を守らせようとする強制力というのはポジティブな理由づけと違って、人を脅しや強迫によって社会規律に服従させる不自然な恐喝力をもっている。

 社会はこのような恐怖によって社会規律を守らせる脅しのテクニック、支配力を行使するものである。脅しや恐喝によって社会に従わせるというのは、あまりにも隷従や従属の屈辱や怒りを感じさせるものだね。

 それはいっぱんの人たちが新興宗教にかんじる怒りとおなじなのだが、「こちら側」のわれわれだって新興宗教とおなじような力学によって社会に支配されていることとなんら変わりはないのではないか。だからわたしは軽はずみな新興宗教バッシングはまったく信用できない。あなたも同じように社会に支配・隷従されているのではないかと思うからだ。

 恐怖によって社会が支配力を行使する例は、幽霊の恐怖にもあてはまる。幽霊というのは罪の意識、あがないの恐れをくみこむ作用をもたらすものだと思う。

 たとえば『四谷怪談』にしても女性を捨てることの報復や恐れを刷り込むものだし、怪談話でおぶっていた子どもの顔がむかし殺した男の顔になったというような話は人殺しの禁忌感情を植え込むものだ。車でひき殺してしまった女の子からドアの前にいるといった電話がかかってくるという怪談話も罪の意識を刷り込むものだね。

 恐怖という感情を植え込むことによって、社会はその規範、禁止を守らせようとする。

 悪いことを感情によって禁止・侵犯しないように反射行動をさせる植え込まれた感情は、悪いことでもないし、いっぱんの社会の規律を守らせるよいはたらきをもたらすのはたしかである。

 ただそこには脅しや恐喝によって屈するという恐怖の支配という不快な側面をもつのは否めないし、恐怖に支配されて服従させられる社会規範というのははたして正当なものなのか。それは人の自由や、恐怖によって隷属させられない人の権利を奪うものではないのか。恐怖支配の社会が理想の社会とはとても思えない。

 だから感情を解く・理解するというセラピーや心理療法は、脅しから社会規律に盲従させられないための自由へのメソッド・方法論としても用いられる用途に使えるものということに気づく。

 宗教者のクリシュナムルティが恐怖から自由になる心理セラピーなどを教えていたのは象徴的で、宗教というのはある意味、既存社会の恐怖社会から自由になる方法を説くものである。

 宗教というのは、既存社会の恐怖洗脳を解くという役割の側面も担っているものなのだろう。仏教も世俗からの脱俗を説いてきた意味では、既存社会の価値感・支配イデオロギーからの洗脳脱却の用途もあるわけだ。もっとも「こちら側」のわれわれはそれが宗教団体の隷属なのだと非難するのだけどね。おたがいは隷従を非難するけど、おなじような隷従方法をくみこまれているという構図だね。

 クリシュナムルティの感情脱却のメソッドは感情を言葉や怒りによって抗うものではなく、自然に衰えるまで無視する・スルーするという方法を提唱している。感情を抗うものとして見なしてしまうと、感情は力を与えられ、感情の力はますます強まってしまうという側面があるからだ。

 感情を無視するという方法はその先の怒りや感情をもたらした思考や認識のありかたまで問うようにさせるもので、はたして思考や認識といったものは「存在」するのかという問いまでもたらす。思考や認識って現実に存在するものなのか。頭の中だけにある「虚構」や「幻想」ではないのか。

 人間の思考というものは「自動機械」のようなもので、放っておけば思考は自分の意志とかかわりなく自然に無限にわきあがってくる自分の意志と関係のない「機械」のようなものである。人はその思考の噴出に支配されているというのがクリシュナムルティであるとか、神秘思想家のグルジェフが考えた人間の思考隷従である。

 これは禅や仏教が考えることをやめてひたすら頭を空っぽにする方法とおなじであり、禅や仏教も思考や言葉の支配から脱却する方法をめざしていたものだ。思考や言葉に支配されているありかたから脱却させるものが禅や仏教なのである。

 恐怖も感情を解くこの方法によって、同じように解けるはずである。宗教者は既存社会の隷従を解く方法を教えてきたと考えることもできるのである。もっとも宗教の隷従にまた囚われてしまったら元も子もないのだけどね。

 思考や感情からの自由は、自然な感情として無意識にくみこまれた社会規律からの自由もふくんでいるものなのである。恐怖からの自由は社会支配からの自由ももたらすものなのである。


▼幽霊の罪の意識はこちらの本から。
4794212666日本人はなぜいつも「申し訳ない」と思うのか
長野 晃子
草思社 2003-11-21

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▼クリシュナムルティ
4892032840恐怖なしに生きる
J. クリシュナムルティ J. Krishnamurti
平河出版社 1997-03

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08 28
2013

社会批評

藤圭子という日本の神話――日本的土着の貧困からアメリカナイズされた豊かさへ

 藤圭子が亡くなられた。わたしが生まれて間もないころに活躍されたから、リアルタイムのすがたをほぼ知らない。




 気になるのは藤圭子が活動した1969年から1979年の時代背景と彼女の位置づけである。

 いぜんにふたつの記事を書いた。

 「昭和の歌は暗かった
 「『銭ゲバ』と70年代の貧困

 昭和のヒット曲の中にはものすごくクラい歌がいくつもあって、悲しみをこれでもかこれでもかといった競うような曲が歌われ、それが社会に共有され、共鳴されていたことが不可思議に思えてならなかった。こんにちに社会的な悲しみが共有されるということはなくて、せいぜい失恋の悲しみが表出されるくらいで、みんなで抱えもった悲しみというのはほぼなくなったのではないかと思う。

 社会はいっしゅの悲しみの競争やうつ症状ともいえる状況をみんなでもとうとしていたのではないかと思えるほどだ。






 そういった時代背景には貧困の共有という状況があったと思われる。ただしすべての人が貧困ではなくて、ときは高度成長まっただ中で、成長率や豊かさが加速していた時代のさなかである。時代においていかれて、とり残された人たちのやり場のない怨恨や悲しみがくすぶっていたようなのである。

 「60年代はみんな貧乏、80年代はみんな裕福」。

 そのはざ間において豊かさにとり残された人たちの情念がうずまいていて、多くの人がおかれたそういう状況を社会的に慰める必要があったようなのである。

 『あしたのジョー』も『巨人の星』、『タイガーマスク』も藤圭子がデビューしたころに世に出た。いずれの主人公も貧しさを抱えもっており、そこからはいのぼる話である。『子連れ狼』といった子どもをつれて放浪する男や、成功の頂点から転落する『砂の器』や『飢餓海峡』といった作品も生まれている。

 貧しさからはいずりだしたり、貧困をみんなで悲しむといった情動や物語が社会に必要とされていたようなのである。

 藤圭子というのはそのような時代背景にあらわれてきた時代の悲しみ・情念を歌った存在なのではなかったのか。

 藤圭子の出自をみると浪曲師の父と目の不自由な三味線奏者の母のあいだに生まれ、みずからも貧しさの中で地方のドサめぐりをしている。「旅芸人」や「河原乞食」といったかつての芸能につきまとった差別と貧困の「物語」をじゅうぶんに背負った存在である。

 『伊豆の踊子』を書いた川端康成は藤圭子のファンだったというし、この作品は旅芸人の憧憬と差別を書いたといわれるものだ。藤圭子はとうじの日本人がえがいていた「貧しさから豊かさ」の物語・神話を背負うのに的確な人物だったのではないか。「日本的土着神話」をまとい、「アメリカナイズ」された先進の文明につきすすむ物語のなかに藤圭子という存在ははめこまれたのではないか。

 その先のアメリカナイズされたアメリカン・ポップさは娘の宇多田ヒカルが二十年のときをへて果たした。日本的土着は母子二代にわたってアメリカナイズの夢を果たしたのである。

 しかし目標の達成は目標の消滅であり、日本は「大きな物語の終焉」いこう、目標も目的も見出せないから、失われた二十年やデフレ経済から脱却できずにいるのではないか。そう考えると藤圭子の運命は目標を達成して海図をさししめせずにいる日本のすがたそのものではないのか。

*


 70年代は政治闘争の時代であったが、幻滅の季節はすぐにやってきた。貧困からはいずりだす物語や青春に熱中する若者たちの物語がおおく描かれたいっぽう、はやくも「シラケ」とよばれるそれらの熱中や競争に一線を引き、醒めた目で見る流れも大きくなった。政治のような大きな敵と闘うのをやめて、小市民的な身近な消費や娯楽でたのしもうという流れが主流になる。

 80年代になると若者は政治や教養について語るのをやめて、マンガやポップ・ミュージックに耽溺し、アイドルや消費に埋没する政治から切りはなされた生活を志向するようになる。

 この時代に「ネクラ」から「ネアカ」の変換がなされ、暗くてマジメは話はご法度になり、明るく生活を楽しもうという時代風潮に切り替わった。政治や生活の根源を問わないで、日常を消費によってたのしめという生活が至上命令になった。漫才ブームからはじまり、お笑いタレントがメディアの全面を制する時代がこのころからはじまって、こんにちまでつづいているのである。アイドル文化は恋愛至上主義という女性向けドラマに合流し、「政治や国のために死ぬ」人たちに変わり、「恋人のために死ねる」という人たちの時代になった。

 大きなものを切りはなし、そのなかで日常と消費を謳歌することが至上命令という制限された時代を生きることになったのである。

*


 日本は会社と仕事がいちばん重要な価値となる国になった。「生産マシーン」とよばれ、中流階級は消費と娯楽だけをたのしむ政治や思想から切りはなされた市民的幸福を生きる社会になった。会社とビジネスと消費しかない国になった。

 その曲がり角は70年代ころにあったと思う。政治や思想、「これかあれか」といった根源の選択はこの時代に再考できたはずである。ただカネと消費、会社だけの選択にしない余地は70年代ころにあったのではないかと思う。

 しかし人びとはその選択から目をそむけ、ネアカや市民的小幸福といった選択をなし、生産マシーンと消費の曲がり角に来てもその道の行く末、再考の機運も生み出せずにいる。70年代になにかを失ってしまったのである。

*


 藤圭子は日本的土着の貧困といった神話を背負い、成長や繁栄からとりのこされた庶民たちの暗い情念を歌った。このめざす先は娘で果たされたようにアメリカナイズされたポップさ、豊かさだった。

 じつのところ、そのような成功を日本はバブルの期間に達成し、その後はその目的の再考・再選択の期間に入ったと考えるべきではないのか。バブル崩壊を経験して、日本はオルタナティブな道を再考する時期にとうに入っていたのではないか。アメリカナイズされた宇多田ヒカルの大ヒットとは、もしかして失われた成功の後悔の時期に、もう一度アメリカナイズドの成功の夢を回顧させられただけではないのか。日本はこの夢を達成して、もう終っていたのである。

 村上龍が近代の目標は終焉したから、寂しい大人が増えているといっていたころだ。藤圭子の夢は遅れたころに娘にひきつられてやってきたが、日本はその夢を達成して途方に暮れているころだった。だからこそ、自分たちの夢よもう一度、夢はまちがっていなかったと信じたかったのではないか。宇多田ヒカルの大ヒットにはそのようなかつての夢の再演のような響きがあったのではないか。

 「圭子の夢は遅れたころに開く」だ。

*


 日本はもう一度、70年代の選択を再考しなければならないのだろう。会社や消費、生産マシーンといった選択か、それとも暗さや政治をひきうけ、選択をとことん考えるべきだったのか。

 わたしたちはポップと消費の市民的幸福を選んだために大きな選択肢やその動かし方といった民主的機能も失ったのではないかと思う。民主政治の放棄の代わりに消費と享楽の市民的幸福を手に入れたのではないのか。

 わたししたちが手にしなければならないのは暗さと根源をねばり強く考える根気ではないのかと思う。わたしたちの選択はこれでよかったのか、もし違うなら変える方法を手にすることではないのか。ネアカと消費と享楽の40年はツケを迫られている。

 藤圭子と宇多田ヒカル母子は、戦後日本がめざしてきた成功神話を母子二代によって完遂してわれわれに見せたのではないか。その先のどこにもいけない、あてもなくさまようさまは藤圭子のさいごにあらわれているといえるのかもしれない。


08 10
2013

社会批評

感情は「人間らしさ」?、「災厄をもたらすもの」?――インド映画『ロボット』を見て

 アメリカ映画や日本のマンガでロボットは感情を知らない「人間らしさ」をもたない悲しい機械とえがかれるのがふつうだったのだが、インド映画の『ロボット』では感情や愛をもつことは「災厄をもたらす」ことと描かれているのがおどろいた。

 インドというのは感情を否定する考え方、風土をもっているのだろうか。



▲後半40分の増殖ロボットのアクションシーンは見る価値あり。

Gyao!で9月4日まで無料で見られます。三時間の濃すぎる映画だけどね。『ロボット


感情の賛歌と侮蔑の歴史

 アメリカ映画では感情をもたないロボットは感情をゆたかにもつ人間の対比としてえがかれ、それゆえに感情をもつ人間はすばらしいという「感情賛歌」がうたわれるのがふつうである。ロボットが人の涙を見て、「なぜ涙を流すのか?」といった質問をするシーンはおなじみだろう。だからこそ人間の感情はゆたかで幸福なのだと。

 感情は自分でコントロールできないがゆえに「自分らしさ」、「自分独自の個性」をあらわすものだとこんにち考えられている。感情こそが人生の基盤という考え方はこんにちの社会をひろくおおっている。

 しかし近代は違ったはずである。「感情」は動物や非理性的なものに属するもので、「理性」や「知性」をもつことが人間を「人間たらしめているもの」、「文明をもつ人間の条件」とされていた。「感情」をもつことは劣った、遅れた人種がもつものだと考えられていた。

 だからいまでも女性は「感情をおもに生きる」人としてとくに侮蔑の対象となる。理性的にことを運べない動物だという侮蔑である。

 「理性」と「感情」は、「文明」と「未開」の差別図式として近代の進歩史観のなかでながらく力をもってきた。感情は理性にたいして排除すべき、軽蔑されるものとして、近代には追いやられていた。だからこそこの図式は、感情は自分でコントロールできない「自分らしさ」の元であるという根拠をつくったのではないのか。


感情革命

 しかし60年代あたりを境に理性より感情を主体に生きる人生観が台頭してくる。ヒッピーやカウンターカルチャーの風潮のなかから生まれた流れだろうか。

 SFドラマの『スター・トレック』は66年からはじまったが、ミスター・スポックが感情をもたない理性的なバルカン星人として、感情をゆたかにもつカーク船長やドクター・マッコイらと対比されて、笑いをさそっていた。スポックは感情をもたないゆえに感情のわきあがる沸点をつよく感じさせたのである。理詰めの論理や理性が感情と対決させられたのである。

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 ▲感情をもたない理性の人ミスター・スポック

 この時代あたりから理性や知性の正義が疑われはじめ、感情こそが人間らしさ、人生をゆたかに生きる土台だと考えられるようになってゆく。それは知性や教養の崩壊ももたらしたのだろう。

 感情ゆたかにたのしんで生きるといった人生観は、テレビのお笑い番組の興隆などで本格化した流れになった。「ネアカ」と「ネクラ」などといった対比で、知性や教養は「ネクラ」なものとして放逐された。

 ロボットは感情をもたない悲しい機械だ、だから感情をもつ人間は情動ゆたかな潤いのある人生を生きられるのだといったテーマが映画やマンガでおおく語られることになった。

 感情は侮蔑され、動物として差別されるものから、「人間らしさ」「自分らしさ」をつちかう人生の重要な基盤として祭り上げられるようになったのである。

 もはや「文明の進歩」といった図式のなかでわれわれは生きていない。ひとむかしまえなら「動物」や「未開人」として軽蔑されていた感情のなかに人生のゆたかさ、自分らしさを見出す時代になったのだから。「動物」を生きているのである。


西欧の進歩図式とインド映画『ロボット』

 インド映画の『ロボット』は西欧の進歩図式のなかから外れているのか、よくわからない。しかしここでは愛や感情をもつがゆえにロボットは悪や破滅に向かってすすんでゆくのである。

 感情は「災厄をもたらす」ものなのである。愛や感情をもったがゆえにその叶わない気もちは破壊や戦争状態になってゆく。

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 ▲愛を得られないがゆえに殺人や略奪に手を染めてゆくロボット

 われわれがなじんでいたロボットの図式がここではえがかれず、感情や愛をもたないロボットは哀れで悲しいという捉え方はない。感情は破滅の図式なのである。これはヒンドゥー教や仏教の禁欲や脱俗の精神からくる考え方なのだろうか。

 感情こそが世の中に災厄をもたらすもの、破壊や戦争をもたらすものという考え方がこのインド映画『ロボット』にえがかれているのではないのか。

 西欧の進歩図式にいるわれわれはこの愛や感情の否定のメッセージにどう向き合うのか。


感情は捨て去る・変えられるという考え方

 感情は人生の基盤だと考える流れのほかに、感情はコントロールすべきだ、捨て去るべきだという考え方もアメリカの精神世界のなかで生まれてきた。

 感情を主体に生きてしまうと感情の荒波のなかにもまれる小舟に翻弄される人生を余儀なくされてしまう人も増えてしまう。感情賛歌の時代の犠牲としてうつ病の増加はあるのではないのか。

 認知療法ではネガティブな考え方をポジティブに書き換えるセラピーが教えられるし、自己啓発やニューエイジの流れでは感情を捨ててしまえといった仏教やストア哲学のリニューアルの流れも興隆してきた。

 ここで捉えられている図式は感情は思考によって生まれ、その思考をコントロールすることによって感情は変えられるという考えである。感情を主体においてしまうと感情はコントロールできないばかりか、感情の激流にのみこまれてしまうことになってしまう。

「「自分は損害を受けた」という意見を取り除くがよい。そうすればそういう感じも取り除かれてしまう。「自分は損害を受けた」という感じを取り除くがよい。そうすればその損害も取り除かれてしまう」



 ストア哲学のマルクス・アウレーリウスの言葉だが、思考をとりのぞけば感情もなくなってしまうことが語られている。苦痛や災厄は私たちの判断、考え方のなかにしかないという仏教と同じ考え方が語られている。

 ここでは感情はわたしの主体でもなく、人生の醍醐味でもなく、とりのぞくものとして考えられている。感情のあるうるおいのある人生は目標ではないのである。


感情とどう向き合うべきか

 われわれの社会では感情のない人間は非人間的で、犯罪者のような人格になると思われている。思いやりや同情といった感情が人を救い、憂愁に満ちた人生の実りをもたらすのだと。感情のない人間はロボットである。

 しかし感情にたいする捉え方は近代の「理性/動物」図式では侮蔑されるものとして考えられてきたし、うつ病の増加は感情を主体に生きる時代の産物ではないのか。感情は手放しで賞賛されるものとはかぎらないのである。『ロボット』はインドからの西欧の感情賛歌にたいする挑戦ではないのか。

 わたしも感情は虚構をもとにした虚構の絵空事だと思っている。それは映画や漫画の「虚構」と同じレベルの、じっさいには存在しない「仮構」の出来事に一喜一憂しているだけと考えている。「空想」の世界に感情しすぎなのである。

 感情賛歌の時代にインド映画『ロボット』は挑戦してきた。愛すらも否定する宗教的メッセージを送っているのかはわたしにはわからない。

 わたしは感情を主体におき、人生の基盤にする考え方は危うくて仕方がないと思うのだが、憂愁の感情に愛着をおく感情賛歌、感情主体の時代を人びとはまだこれからも生きるつもりなのだろうか。


4790706389感情の社会学―エモーション・コンシャスな時代 (Sekaishiso seminar)
岡原 正幸 安川 一 山田 昌弘 石川 准
世界思想社 1997-03

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07 08
2013

社会批評

少子化は経済の本質ではないのか

 『ルポ 産ませない社会』(小林美希)という本が出ているね。

 でもこれって経済の本質であって、生産に参加しない子どもは消費や浪費でしかないわけで、経済の帰結というのはもともと子どもを産ませないようになるのではないかと思うね。

 子どもは19世紀なら安い労働力として経済にくみこめた。でもいまはほぼ20歳まで教育をうけて消費するだけで労働力にならない存在。そういった存在をだれが経済社会で歓迎するのかという話になるね。

 経済は人と人のあいだにおいて交換するものに価値があるのであって、交換できない子どもの価値は、親や家族のあいだにしかない。しかも成人したところで価値の大部分は企業にもっていかれるし、老後に親の面倒をみてくれるという家族の形態もこわれた。経済的にはだれがトクするのかということになるね。

 経済は人と人とのあいだで交換するものに価値があるのであって、お金をみずから稼いで回すわけではない子どもの金銭的価値は低い。

 消費社会は生命の継承に価値をおくより、みずからの人生、一度限りの人生に価値をおき消費を一代でたのしむ人生観にシフトしている。

 生命の継承より、個人の人生を輝かせるほうが消費経済を回すのに好都合なのだろう。人と人とのあいだの「つくられるもの」「欲望を牽引するもの」に価値がおかれると、出産・育児といった自然な営みより、モノをはなばなしく消費する女性や独身時代の価値のほうが魅力的になる。消費経済は生命の継承、生命を殺して行くようだね。

 企業も出産・育児で時間をとられる女性より、長時間労働、何時間でも残業にたえうる男性のほうが働き手として好都合だ。日本ではこの男性の長時間労働が標準なので、女性の働きは標準以下、基準以下の働き手となる。よって女性の立場は肩身が狭く、子どもをもつ早く帰る母はなおさらだ。

 けっきょくのところ、経済に特化しすぎた社会は共同体や種の存続という生命にとっていちばん大切なものをないがしろにするようだね。種の存続を至上価値におかない社会や種はその生命をいずれ枯渇させる。「企業栄えて、人類滅ぶ」だ。愚かな帰結である。

 種の存続という生命にとっていちばん大切な目的を経済は殺してしまう。このコストはだれがひきうけ、だれが分担すべきなのか。

 企業が生命の再生産に加担しないで、労働マシーンの男だけを労働力にすることでなりたってきたのが日本国家である。ために共同体の存続、人口の増加という生命の大きな目的を殺してしまった。戦後の日本が軍事力というパワーを超大国に依存したように、生命の存続という課題もどこかに丸投げしてしまった。

 丸投げしたのは金銭労働から排除された女性たちだったのか。しかしそのような男の経済力によって女性の出産・育児をささえるという形態も、男性の収入減、非正規化によって不可能になりつつあるのが現在だ。この丸投げの再生産も崩壊の危機にたたされているのである。

 解決策はあるのだろうか。子どもが稼がない消費するだけの存在だとしたら、児童労働の復活という方法もある。道徳的忌避観もつよく、タブーとしてふみこめない領域であるが、子どもが稼げないことによって親の生活費、教育費を稼ぐ労力はなみたいていのものではないだろう。子どもの成人するまでの期間がどんどん長くなってきたわけだが、逆流の可能性も視野に入れないと少子化はとどめようがないものかもしれない。

 企業も社会的存在として、子どもの再生産、養育にまったくノータッチでいいものか。企業はこれまで労働力というしぜんに育ってくると思われていた人間の成育をタダで手に入れてきただけではないのか。負担してきたのは親だけである。もちろん企業は福利厚生として家族手当などもつけてきた。しかしそのような負担も競争激化という名目のもとに減少させられている。

 企業も大人たちも子どもの再生産という負担・重荷からみんな逃走しようとしている。共同体も国家もこのままでは存続できるわけがない。

 子孫の存続が共同体の最大目的という社会や思想を中心に組みなおすべき時期にきているのかもしれないね。「人はパンのみにて生きるのにあらず」。

 経済や企業を中心にした枠組みではこの最大目的は殺される。生命の存続を殺してゆく経済が共同体の目的や基軸であっていいわけがない。愚かすぎるというものである。


ルポ 産ませない社会少子化論: なぜまだ結婚・出産しやすい国にならないのか少子社会日本―もうひとつの格差のゆくえ (岩波新書)人口学への招待―少子・高齢化はどこまで解明されたか (中公新書)シャドウ・ワーク―生活のあり方を問う (岩波現代文庫)


02 16
2013

社会批評

情報社会における「もつもの」と「もたざるもの」との闘争

 映画業界も音楽業界のようにネットによる無料視聴の波に呑みこまれようとしている。CDがぜんぜん売れなくってチャートにアイドル歌手しか並ばなくなったように、映画業界も壊滅してしまうのか。この流れはとどめられるべきなのか、抗いようがないものか。

 公開中の映画 違法投稿相次ぐ NHKニュース


 いまおこっていることは情報発信の民主化である。情報発信というのは電波や放送のようにほんのひと握りの者だけが独占して影響力を駆使できたものである。われわれは独占権力に指示されたり、操作されたり、踊らされる時代を生きてきた。

 といってもかれらは魅力的であり、憧れられる対象であったから、そう批判的で否定的な目ではみれないだろう。ただのちの時代には独占権力の下の虐げられた人々という図式も可能になっているかもしれない。

 王権や貴族制の時代にはなにが虐げられ、民主制の革命はおこされなければならなかったのか。

 イギリスの産業革命の時代は、王や貴族の着ていたインドからの舶来品である木綿の服が階級をこえて庶民たちにも着てみたい憧れの品になったから、木綿製品の大量品・廉価品からイギリスの産業革命がおこったのではないかという考察を読んだことがある。庶民が王や貴族のような格好をしたがり、なんども「贅沢禁止令」が出された。

 ファッションは王や貴族の贅沢品であるものから、庶民も真似して着たがる大衆の品になることが産業革命の曙だった。その機械化の過程においてクルマや家電などの大量機械製品が生まれてきたのではないか。

 いわば独占されていたファッションや機械品が大衆にも行き渡る「民主化」が、産業革命や近代の大量生産・消費時代をつくったのではないか。この時代、人はファッションやモノによる顕示にとりつかれて、その民主化が近代の産業化をおしすすめてきたのではないか。機械化と大量生産がその民主化のためにもとめられたのである。

 二十世紀の大量消費の時代において魅力や憧憬はマスメディアの有名人や俳優にうつった。人々に憧れられたり、魅力を独占するものはブラウン管やスクリーンの人物たちになった。かれらは憧憬される人たちであるから、かつての国王や貴族のような打倒されるべき独占権力者ではない。しかしもし人々の「もちたい」欲求をおしとどめるようなことをおこなえば、たちまち弾圧者、独占支配者に転嫁しないだろうか。

 モノによる顕示より、マスメディアにあらわれることの魅力や憧憬が大きくなったのが戦後の時代ではなかったのか。モノによる顕示がずっと憧れとして長らくつづいてはきたが、所有欲の減退や顕示の魅力の減退は若い世代ほど感じている。

 かわってあらわれたのがインターネットであり、憧憬や魅力のあるメディアの人物のようになりたいとみずから情報発信できる時代になった。情報発信が独占されていたものが、「民主化」されはじめたのである。そういう人々の欲求がないかぎり、ネットというインフラがこれほどまでに急速に発展することはない。

 メディアをもつということは大きな力である。より多くの人に魅力をつたえたり、影響力や支配力をおよぼすことができる。ファッションやモノは目に見える人だけに見せることができ、情報をつたえることができるが、メディアのようにもっと多くの人々や距離のある人に見せることはできない。この落差、格差の違いを人びとはひしひしと感じてきたのではないのか。

 だからこそ人びとはこぞってネットでみずからを情報発信するのである。われわれの時代の格差とはモノの所有ではなく、情報発信の格差であり、階級である。

 民主化がおこなわれるとき、旧来の独占権力、既得権益者がみずからの利益を守ろうとすると、城壁にとじこもったような国王や貴族層のようになってゆくだろう。魅力や憧憬の分配がおこなわれないとき、人の恨みや憎悪をいちばん買うのである。その人たちは権力や利権を独占した悪の帝王のようにイメージされることになるだろう。

 金を守ろうとしたら、じつは憧憬や魅力の独占もおこなうように思われるだろう。人々が分配されたいのは金であるよりか、魅力であり憧憬である。カッコよく見られたり、憧れられたりする情報発信の力である。閉じたり、囲うことはこの民主化の奔流においてひじょうに危険なことではないだろうか。憎っくき独占権力者の顔をますます強めるだけにならないか。

 憧憬を分配できないものは、テキになるか、衰退してゆくだけだろう。モノの民主化の時代においていちはやく大量生産の技術と分配の方法をつくったものが成功者になったように(ぎゃくに閉じたり、禁止しようとしたものは没落した)、こんにちの成功もメディア発信の分配力に負うことが大きくなるのだろう。

 より大きなマーケットに広がるためには小さく閉じるメディアはその役割を終えてゆくか、衰退してゆくものでしかないだろう。大量生産の時代に手工業にとどまったように、または格差の縮小の海の中にうもれてゆくのである。

 既得権益者たちはこの時代にいかに自分たちの金銭を確保しながら、魅力や憧憬の分配をおこなってゆくべきだろう。コンテンツそのものはかんたんにコピー、アップ・ダウンロードできるインフラの時代になってしまっている。音楽が一度きりの場所が限定されたライブでしか収益を稼げないといわれるように、そのような道をさぐるしかないだろうか。

 もうメディアを独占できる時代は終ろうとしているのである。それはさながら王や貴族が権力を独占したころのように、情報革命が完了した時代に思われるようになっているだろう。


▼歴史を動かしてきたものはなにか。
4582760082洒落者たちのイギリス史―騎士の国から紳士の国へ (平凡社ライブラリー)
川北 稔
平凡社 1993-06

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4061594400恋愛と贅沢と資本主義 (講談社学術文庫)
ヴェルナー・ゾンバルト 金森 誠也
講談社 2000-08-09

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4480084169有閑階級の理論―制度の進化に関する経済学的研究 (ちくま学芸文庫)
ソースティン ヴェブレン Thorstein Veblen
筑摩書房 1998-03

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4837956564歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間
Francis Fukuyama
三笠書房 2005-05

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06 17
2012

社会批評

この四十年でおこった変化

 四十半ばまで生きてきて、四十年間も生きた気もちがまったくない。四十年もたったなんて信じられない。わたしは変わらず、時間という概念だけが飛び去っていった感がひとしおにするだけである。

 子どもの時には四十年前はすごいむかしに思えるのだろうけど、本人には四十年の月日の重みはまったくない。生まれる前の時間はものすごくむかしに感じるのだろうけど、生きて過ごした期間はあっという間というか、四十年という月日の積み重ねを感じさせるものではない。

 四十年というのはひとむかし前、あるいは二十年をひとむかしと考えるとふたむかしも年月がたったのだなあ。むかしの常識やあたりまえの風景を知っているものとして、三十年、四十年前の常識がどのように変貌したのか、その点をぬきだして考えてみたい。

 コンビニができはじめたのは三十年前ほどである。駅前にできないでぽつりと駅からはなれた辺境にコンビニができたときはどう関わっていいかわからない存在であった。小学校近くの文房具屋や近所のパン屋に近い存在であったか。駅前の商店街から離れたところに店ができるという感覚がわからなかった。

 この十年、二十年の大変化というのは繁栄の中心が鉄道の駅から、クルマのロードサイドに店の繁栄が移ったことである。クルマとモータリゼーションが駅前の繁栄地図を変えてしまった。駅前の商店街がまさかシャッターロードになるとは思わなかった。

 スーパーももっと品揃えが充実していた気がするのだが、いまは食品中心の店が多くなって衣料とか雑貨は都心の中心街・専門街で買うことが多くなった。イオン・モールのような郊外型のロードショップの繁栄はひとむかし前では考えられなかったことだろう。アメリカのようなモータリゼーションがこの狭い日本でこれほどまでに浸透するとは思わなかった。

 ジュースの自販機が町のあちこちにおかれるようになったのもこの数十年のことだろう。子どものころは家でいれた麦茶のボトルを持ち歩いたものだ。どこへいっても喉の渇きを感じればそこで携帯できる飲み物缶が買えるというのは新しい行動形態だろう。飲み物の心配を家を出る前にしなくていいのだ。むかしは喉が渇いたときは喫茶店で休んだり、あるいは自分でもって出かけたものだろうか。

 駅前の本屋がなくなったのもこの数十年の大きな変化だろう。大型の古本屋が郊外にたくさんできるなんてことも考えられなかった。マンガの古本がこんなにかんたんに手に入るようなことはむかしはなかった。

 駅前とか商店街、近郊の店がつぎつぎと閉まっていったのはロードショップに繁栄を奪われたというのもあるだろうが、それよりか高齢化によって店主や後継者をうしなったことも大きいのだろう。平日の昼間に高齢者が公園にたむろするという風景はひと昔前には見なかったものだ。

 二十年前は日本のクルマや家電は世界を席巻して、世界の繁栄の中心に躍り出るまさにそのときだという雰囲気が充満していたのだけど、いまは見る影もなく没落のあきらめと受容の雰囲気をこうむりつづけている。若者が未来の希望や夢を抱けなくなった転げ落ちる時代というのももう二十年も月日を重ねている。

 この数十年の変化の中でいちばん大きな萌芽はインターネットの出現とケータイの普及だろう。変化は個人のメディア化という状況を現在も拡大中である。この変化が後の社会にあたえる影響は後年でないと計り知れるものではないのだろう。

 ネットは鉄道やクルマがあたえた変化ほどの大きさで社会を変えてゆくのだろう。鉄道や車は空間の編集をおこなったのだが、ネットは空間やモノを移動させないで情報を移動させるだけで変化や結果を変えるインパクトをあたえる。モノや空間に付随していた情報を、情報だけの移動ですませることができる。空間を移動しなくても情報を知ることができる変化は大きな変貌をもたらすだろう。

 四十年という月日は変わったことと、変わらないことの比重はどちらが大きいかと問うと、たぶん変わらなかったことのほうが大きいと思う。育った街をひさしぶりに訪ねてみると駅前は大きく変わったとしても、街のつくりやありようの根本は変わった感じがしない。四十年は長い気もするが、変化は少ないと思う。

 四十年という月日ははるかむかしのことなのか、短い期間なのか、わたしの中ではうまく定まっていない。四十年は長い期間なのか、短い期間なのか、ただ年月のたつ早さに呆然と立ちつくすだけである。浦島太郎の気分がよくわかる。


生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)明治大正史 世相篇 新装版 (講談社学術文庫)なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学大人の時間はなぜ短いのか  (集英社新書)

05 05
2012

社会批評

なぜ知識社会には物質と労働の軽侮がおこるのか

 社会でひとつのことに価値がおかれるとその原理にしたがって社会は秩序・階層づけられる。その価値をもつ者が社会の権力者・統治者として祭り上げられ、その価値にしたがった序列が社会にいきわたる。

 物質が尊ばれた時代は、金持ちやモノをたくさんもつ者が権力をもったり尊称される対象となる。社会はその価値が最大化される方法とテクノロジーを編み出し、最適化される。

 物質の時代には人とモノが一箇所の都市に集まるように航路や鉄道、車道が全国にくまなくはりめぐらされる。モノを生産し、流通するしくみが社会の至上目的になり、物質にあふれた時代を生み出す。モノをつくりだす労働と勤勉に価値がおかれ、人々はその物質過剰社会にむかって規律づけられる。

 知識は物質社会において物質の生産や流通の効率化のための道具として発達する。印刷技術、電話、ラジオ、映画、音楽、マンガ、テレビ、インターネット。

 物質を生産・流通するための道具として発達した知識・情報はやがて権力と価値をもちはじめる。知識・情報が目的化されはじめ、知識をもつもの、情報や影響力を伝達・配布できるものが勝者になってゆく。物質の道具にすぎなかった知識にこそ価値があるという思いや認識がめばえ、知識の伝播が目的化される。

 知識が至上化されると、物質が軽侮されたり、貶められたりする。物質の価値に煩わされると、知識の価値を追えなくなるからである。

 とくに物質時代には勤勉と労働に価値がおかれるので、知識を享受する時間がない。物質時代は物質の生産と流通が社会正義なので、その他の活動の価値や意味を許されなくなる。物質と知識の価値と権力のつなひき・こぜりあいがくりかえされ、やがて知識が権力や価値をもつような時代がくるのだろう。

 知識は物質をないがしろにする価値を生み出す。主観や内面が大事になり、物質や外界に関心をそらしているようでは主観や内面の価値を追えなくなるからである。

 物質の時代には知覚の細密さが求められ、知覚の客観性が大切になる。主観や心に依存する外界や物質の条件があっては困るので、主観や心は無化されるか、外界から切り離される。心の状態に左右されない外界や客観があってはじめて、物質の細密さ・正確さは図られる。数量化・計量化される客観世界がそれゆえ物質時代には重要になる。

 知識の時代にはぎゃくのことがおこる。物質を軽侮する価値観がおこり、客観的な細密さや正確さは重要でなくなり、物質にふりまわされない、もたない、物質に欲望をもたない価値観が奨励される。物質は主観や内面を乱す・惑わせる忌避するもの・悪魔になる。

 物質に価値をおかない中世には清貧や隠遁の思想・生き方が流行したり、社会の価値観や階層を決定づけた理由がそれでわかるというものである。知識に価値がおかれるとシーソーのように物質の価値が貶められる。

 物質が軽侮・忌避されるようになると物質の生産・流通に必要だった勤勉や労働にも価値がおかれなくなる。労働は知識の享受の時間を削り、主観や内面にひたる時間を奪うからである。労働は物質時代には社会的善や正義であったが、知識に価値がおかれる時代がくるとその至上価値を失墜させる時期がくるだろう。労働は物質が神である時代の祭司に捧げる生け贄である。

 心に対する認識も変わる。物質時代には主観の外に主観にかかわらない客観的世界や外界があると思われる。心を切り離して、外界に客観的世界があると考えられる。この心と外界の分離は、心の責任を外界や物質と直結する考えに結びつく。わたしの不満や不足は外界や物質を変えないと満たされないと考える思い込みをつくる。客観的世界はわたしの心に左右されないという前提・基本があるからである。

 主観や内面を重視した知識時代には、外界や世界も主観にふくまれると考えるようになる。考え方や思いがわたしの感情や気分を変え、解消する唯一のものだと考えられるようになる。わたしの不満や不足は外界や物質の改善によって満たされるのではなくて、ただ心の考え方を変えたり、滅却したりして解消がめざされるようになる。物質に惑わされたり、左右されない心が至上化される。

 物質時代は「唯物論」であり、知識時代には「唯心論」になる。物質時代は物質を変えることで心の充足がめざされ、心自体での充足は求められない。心は忘れられる。物質だけがわたしや世界を変えられるという信念をもつ。

 反対に知識時代には心を変えることで心の充足が求められるので、物質の希求や改善をのそむことは心の敗北であり、軽侮されることになる。物質をのぞむことは恥や敗走なのである。

 物質と知識はシーソーのような関係にある。こんにちは物質に価値がおかれ、金持ちが尊敬され、権力をもつ時代である。そのなかで部分的な知識権力の奪回や回帰、爆発もおこなわれながら、知識の権力の向上や発展が進行しつつある。

 知識が社会の権力を握り、知識層が権力の司祭になり、社会全体が知識・主観に向かってのヒエラルキーや価値観が完全に樹立されるのはいつになるのかわからない。

 しかしそのときには金持ちと物質に価値がおかれた社会のテーブルはひっくりかえり、知識を至上においた価値観の転覆がおこることだろう。そのときには金持ち時代の価値ヒエラルキーとまったく異なった社会が生まれていることだろう。

 中世ヨーロッパの教会や聖職者が権力を握った時代、日本の仏教や僧侶が権力の階層をかけあがった時代と似たような価値観・ヒエラルキーの時代が、知識社会とよばれる将来にやってくるかもしれない。そのときには知識の原理・原則に社会は方向づけられるだろう。


▼知識社会・工業社会
知価革命―工業社会が終わる 知価社会が始まる (PHP文庫)第三の波 (中公文庫 M 178-3)評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っているヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)清貧の思想 (文春文庫)


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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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