HOME   >>  労働論・フリーター・ニート論
06 07
2010

労働論・フリーター・ニート論

会社はいつでも安い労働力を使いたい



 NHKスペシャルで南アフリカの移民ラッシュのドキュメンタリーをみた。隣国ジンバブエは経済が破綻してインフレ率が二万五千パーセントにもたっし、南アフリカはこの経済格差を利用して隣国からの安い労働力を移民として受け入れる門戸を開いたそうだ。

 ジンバブエで理系大学を出ても南アフリカではかんたんな作業しか雇ってもらえない青年の苦悩が描かれていた。移民はスラム街を形成したり、不法占拠で空きビルに住みついて強制排除されたり、住民たちの差別や移民排斥運動などに苦しんだりしている。

 これをみて日本でもあてはまると感慨深くなった。移民は日本でのフリーターや非正規などの姿にダブった。本国労働者と移民の安い労働力との格差はダブル・スタンダードとなり、企業や国は移民労働力を歓迎するのだが、本国労働者は安い労働力におされて失業し、不満を高める。会社や国は安い労働力で成長や利潤を増やしたいが、本国の労働者はたまったものではない。

 日本の工場などは中国や東南アジアに安い労働力をもとめて移転する。むかし日本も地方との賃金格差に目をつけて地方に工場を移転していたそうだが、いまはそれが国際的なスケールになった。会社というのはいつも安い労働力を使いたいと思っているものなのである。資本主義というのはいつもこの賃金格差を利用して世界の工場は移動し、そして世界の繁栄や中心は移動してきたのだろう。

 日本はある地点まで賃金が上がりつづけた。安い労働力をいつでも必要とする企業がなぜ賃金を上げつづけたのか。高度成長や経済の拡大をみこめた時代には人が足りなく、上げつづけなければならなかったのだろう。高い賃金をもとめて他社に移ってもらっては困るし、自社にとって会社内での知識やスキルを高めた人材を失うのは痛手だ。しかし原則としては会社はいつでも安い賃金を支払いたいと思うと考えたほうがいい。

 日本人の賃金が上がりつづける一方で、新しいサービス業などは主婦パートや学生アルバイトを安く使いはじめた。正社員のように高い賃金を支払う必要のない人材を使いはじめたのだ。ファミレスやコンビニ、ファーストフードなどはこの戦略で利益を稼いだ。この賃金格差が拡大する形でこんにちの非正規問題は生まれた。

 つまり安い労働力として理由づけがされた主婦や学生という縛りをなくして一般社会人にもそれを拡大したのだ。完全な約束違反や契約反故のようなものだが、労働力のダブル・スタンダードはひそかに進行したのだ。社会はそれを怠けや甘えとしてまともな問題としてとりあげなかった。世論は安い労働力を使いたい企業の思惑の煙幕をはたした。

 給料や保障が増えつづける社会に危機感を麻痺してしまったのだろう、日本でのダブル・スタンダード社会は手のつけられないくらい広がった。企業はいつでも安い労働力を使いたいものだ、この原則を忘れて企業への警戒心を失ってしまったのだ。

 消費者として考えるのなら安い商品を買うのはとうぜんだろう。同じ品質なら高い商品を買うものはいない。新しい技術や新製品が生まれたらさいしょは高くても例外なく値段は下がるものである。どうして労働力や社員の賃金は下がらなかったのだろう。インフレの時代であったからだろうが、上がりつづけた商品やサービスもあったが、モノは安くなるのが常識である。労働力も同じであると考えたほうがいい。

 労働力の賃金というのは外部市場との関係から生まれるものである。人手が足りなくなれば賃金は高くなるし、中国との安い労働力が参入すれば引き下げの圧力にさらされる。賃金というのは能力であったり、スキルであったり、経験や知識で決まると思っているかもしれないが、大きいのは外部市場との関係である。

 日本の労働市場はなぜか市場との関係において賃金や待遇が決まるという市場原理の考えが少ない。勤勉であるとか忠誠心であるとか愛社精神とかそういう精神的な面で決まるように思われている。社会主義的発想とか福祉国家的な考え、または終身雇用の思想に毒されたために、会社との関係を精神的なもので測る習慣が根づいている。

 しかし労働力というのは市場との関係で決まるものであり、賃金もそれにならい、わたしの市場価値もそれによって決まるものである。わたしがリストラされたとしても、賃金が落ちたとしても、能力やスキルではなくて、市場との関係でそういう目に会うのだ。そう考えられないところに、精神的な面でとらえてしまうところに日本人の悲劇があると思う。市場の関係がごっそり抜け落ちている。

 会社はいつでも安い労働力を使いたいものだ。勤勉や努力や忠誠心で給料を上げてくれるわけではない。お情けやがんばりを評価して賃金を上乗せするところではない。安く使いたい雇用者と高く売りたい労働者の契約の場だ。なにか精神的な約束で給料が上げられる場ではないのである。

 会社は安く使い高く利益を上げたいといつでも思っている。あたりまえのことであり、消費者としてならわたしたちもとうぜん同じ考えをするだろう。市場での関係が会社との関係を決める。買い叩きたいと思っている企業との関係をしっかりと認識すべきだろう。一所懸命にがんばっていたら給料を上げてやるという市場関係ではもうなくなったのである。

 ジンバブエと南アフリカの労働関係は原初の市場原理を見せていて、このドライで冷酷な関係で労働市場を見るべきだとの思いを強くさせた。お情けや慈善で企業が給料や待遇を与えてくれるわけなどないのだ。戦後の成長市場、福祉国家的な発想のなかで日本人はそのことをあまりにも忘れてしまったと思うのである。

06 03
2010

労働論・フリーター・ニート論

サバティカル人生をサバイヴァルする

sabatical.jpg



 サバティカル生活にはいって二ヶ月がすぎた。サバティカルは言葉の響きがいいから使っているだけで、わたしのばあいはたんなる失業期間中だ。サバティカルとは通常、恵まれた研究職などの人がとる空白期間だ。わたしはそんな立場からほどとおいが、貯金に余裕があるから転職や明日のことをいっさい考えないまったくの余白生活を送っている。

 いわゆる好きな時間に起きて、好きなことをして、好きな時間に寝るという生活だ。もちろんわたしのばあいは貯金が腐るほどあるというケースからほどとおく、あしたの仕事が約束されているわけでもなく、仕事を探しはじめれば過酷な現実に打ちのめされなければならないだろう。だからこそ貯金に余裕があるまでのあいだ、仕事と明日のことをいっさい考えない自由で気ままな日々を満喫するのだ。

 そんなに給料のいい前職についていたわけではないのだが、わたしはあまりお金をつかわない。本を買うくらいで、あとはバイクのガソリン代くらいしか使わない。近くに大きなショッピングモールができてもなんの用もない。何回かの失業期間中にムダな出費をおさえる極限のミニマムな生活を送ったおかげで、ふだんからソリッドな生活をしている。おかげで何ヶ月かの生活ができる貯金がたまるので、失業してしまうとその余分分をつかいはたすまで仕事を探さない体質が身についてしまった。こんな生活ができるのはわたしがひとりであるからだが。

 世間では履歴書に空白をあけるのはよくないとされる。仕事のやる気がないとされ、敬遠される。わかっているのだが、サバティカル期間の自由と無束縛感の魅力に効し切れなくなって、ついつい空白期間をつくってしまうのだ。働き出したらこんな自由な時間はないとついつい余白期間をのばしてしまうのだ。

 サバティカルを意図的につくる人もいるのだが、わたしは世間にたいしてそんな強い立場や姿勢はもてない。たとえばバックパッカーや長期旅行者なんてそうだろうし、ニートもそうだろう。面接官にどう言い訳をするのだろうかとわたしは心配してしまうタチなのだが、かれらはその成長や成果を仕事に結びつけられると自負しているのだろうか。あるいはさいしょから履歴を問われない期間従業員やアルバイトでいいと腹をくくっているのだろうか。わたしは中途半端な姿勢だからいけない。

 成功者でサバティカル期間をもうけた人には梅田望夫がいる。
知的生産のプロとしての「サバティカル」の決意
創業記念日、13年という歳月、そしてサバティカル明け」などの文章を書いている。茂木健一郎は「ギャップ・イヤー」という名称をもちいてるが、おなじようなものだろう。ギャップ・イヤーはウィリアムズ王子も取得している。郷ひろみなんかも芸能界の活動休止期間をもうけている。

 仕事や集団の所属などをいっさい断った生活をしてみるのだ。そこから見えてくるものもあるだろうし、そもそも自分はなぜこの人生コースや目的を歩いているのだろうかと根本を問うことになる。わたしたちの社会は生まれたときからだれかに人生を決められ、こういう人生を生きなさいと教えられているのだが、はたしてその人生は価値があるのか、正当なのか、人生にとって最善の選択なのか問われることない。サバティカルはわたしたちの決められた人生のありかたを根本から問うのである。

 ヨーロッパの若者はむかしからサバティカルであったり、バックパッカーであったり、人生の問い直しをしてきた。むろん若年失業率の十パーセントや二十パーセントという高さの現実が背景にもあるのだろうが、かれらはどこにも属さない空白期間を生きてきたのである。社会や企業がそれを容認してきたのかはわかならないが、一定の人たちが旅立っている。ヴァカンスなどが積極的にとられ、空白期間を毛嫌いする日本とはスタンスがへだたっているようである。

 日本の場合は学校を出て会社にはいってひとつも空白期間をもうけないことがよい人生とされている。そもそもそんな空白期間をもうけるなどとはつゆとも思わない。会社人生になんの疑問もオルタナティヴも抱かないのである。朝太陽が昇るから会社にいくように、夜太陽が沈むのとおなじように仕事を休む人生はありえないと思っている。なぜ仕事や会社が自然現象のようにわたしたちの人生を拘束し、覆ってしまったのだろうか。

 かつての日本人は会社をすぐにやめた。給料のいい会社があればすぐにうつった。お金があれば仕事を休んだ。お酒を飲むお金があれば働かなかった。むろんこのような怠けた原日本人像はこんにちの勤勉日本人のアンチ鏡としてもちだされる歪曲像かもしれないし、そういった労働者は日雇い層や下層であったり、貧困層やスラム街に住んでいた人たちであったかもしれないし、悲愴で過酷な現実を生きていたかもしれない側面も見ないわけにはゆかないだろう。単純な対極像や憧憬像をもてはやしてもシビアな現実からは逃れられない。

 こんにちすこしの空白期間ももうけてはならないと転職アドバイザーなどにいわれている。会社の論理がどうしてここまで強大になったのだろうか。怠けたり、休んだりする欲望の発露が禁止されている。働かないことは悪とされ、自立をしないで親に頼ったり、ニートな生活はタブーとされている。どうして会社側、雇用者側の論理や都合が絶対視され、労働者側、人間としての側面、都合がまったく禁圧された社会になったのだろう。どこか強迫的であり、強権的な労働者社会がわたしたちの上に覆いかぶさっている。人の勝手、人の自由が許されない社会なのである。

 むしろ怠けたり、親に頼ったり、親類、知人にたよれる社会のほうが求職に殺到する人が減って、キビしい労働環境や労働条件が緩和されるかもしれないのに、みんな自立や国民皆労働が奨励される。怠ける人の首を絞めて自分の首も絞めている。みんが仕事を必要とする社会はブラック企業でも劣悪な労働条件でも求職者が殺到してしまうのだ。人があまれば市場原理で給料は下がるし、劣悪な労働条件でも労働者はやめられなくなる。親類や知人にたよれた前社会は食えない人がしかたなく寄宿したケースも多いのだろうが、賃金や労働条件を落とさずにすんだかもしれない。

 サバティカル生活は孤独である。社会とのつながりを断ち切られ、ほとんどの人とのつながりがない無縁な生活を余儀なくされる。専業主婦もしばらくは社会から孤立する孤独に悩むこともあるらしいが、男のばあいはひたすらうちひしがれてしまうのだろう。ニートも平日は友だちが働いているから孤独になるというが、人はこの孤立が恐怖なためにひたすら働く人生から降りられなくなってしまうのだろう。「みんなといっしょ」「みんなとおなじことをしている」という一体感、共同感から降りるのはひたすら恐怖なのだろう。

 どこにも属しないこと、社会から孤立してしまうこと、ふつうの人から外れる道というのがひたすら恐怖なために、あるいは漠然とした恐怖の縛りになってしまうために会社側の都合にのみこまれた労働人生をおくってしまうのだろう。わたしなんか孤独が好きだ。だれとも口をきかない期間が長くても平気だ。何回かのサバティカル期間をへてそういう生活をへてもまたもとの生活や関係にもどれることを知ってしまったからだろうか。もちろん孤独のツラさにやられることもあるが、ひとりで嬉々としてバイクで山にのぼったり、公園で昼寝をしている。充実のネタが尽きてしまうと孤独生活にやられてしまうのだ。

 正直なところ、わたしのようなサバティカル生活はおすすめできない。成功者でもないし、ステップアップでもないし、確実な収入源をみこめるサバティカルではないからだ。ただ自由で、好き勝手ができて、孤独でひとりよがりができる無軌道なスピンアウトにしかすぎないと思う。しかしこんな人としてふつうの欲求、しぜんな望みがまるで得られない社会のほうがどうかしていると思うだけだ。この社会はいったいだれのための、なんのための社会かと疑ってしまう。

 あと数ヶ月すればこのツケを払うべく必死になっているかもしれないが、いまはそんな不安も心配もいっさい遮断したサバティカル生活を楽しむことにしている。クセになってはならないとは思っているのだが。


ギャップイヤー回顧録とわたしの失業生活のダークサイド
思えばギャップ・イヤーばかりの人生だったなあ。
41歳の失業と心の危機


みずからサバティカルを生み出してきた人たち
日本を降りる若者たち (講談社現代新書)旅へ―新・放浪記〈1〉 (文春文庫)エグザイルス (講談社プラスアルファ文庫)荒野へ (集英社文庫)ジャック・ロンドン放浪記 (地球人ライブラリー (014))

05 26
2010

労働論・フリーター・ニート論

「犯罪を犯さなければ負けだと思っている」



 80時間残業しないと基本給にたっしないというブラック企業大庄の過労死裁判で7860万円の賠償命令が出たそうだ。

 24歳過労死 賠償命令…「大庄」と役員らに7860万円 : ニュース : 関西発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)




 七千万という賠償金はすごいが、社長や役員を逮捕するべきだと思う。賠償金ならふところは痛むが、犯罪や刑事罰を犯したという悔恨や恥が社長や社会にめばえることはないだろう。犯罪という意識が経営者にないところにこういう労働ダンビングや長時間労働ははびこるのだ。

 日本は労基法違反にひじょうに甘いというか、ほうったらかしだ。こんなのは氷山の一角というよりか常態化している。労基法違反があたりまえだ。サービス残業や長時間労働は蔓延しているし、有給の取得ができない、社会保険に加入されないなどあたりまえになっている。

 いわば犯罪が放置されて、犯罪が見過ごされているわけだ。労基法違反があたりまえなら経営者はウチもそうしなければソンだと労働ダンピングをしていって、もれなく犯罪を犯した企業がスタンダードになる。日本電産の永守重信なんて弱小企業が勝つために一日二日分働かなければ生き残れないといって長時間労働をスタンダードにさせた。

 この理屈でいえば、生活が苦しいから万引きしなければならないという言い訳が通用するし、それを放置する社会も借金に追われるから強盗もOKということになる。労基法において社会は犯罪をいくらでも放棄してきたのである。いわば犯罪はいくらでも犯していい社会なのだ。みんな犯罪を犯してつかまらないのなら犯罪を犯さなければソンだというふうになっている。長時間労働や保険未加入などあらゆる犯罪の温床になっている。日本は企業に甘い、企業よりになっているからだが、企業が犯罪OKなら市民も犯罪OKということになるだろう。

 ふつう人が万引きを犯せば捕まる。企業が労働者の時間をむりやり奪っても、労基法を犯しても、ときに過労死で人を殺しても捕まることはない。どうしてこんな不公平がまかりとおっているのか。人を監禁すればとうぜん捕まる。企業が労基法時間をこえて社員を監禁しても捕まることはない。残業時間を払わないでも罪に問われることはない。

 食堂でメシを食ってお金を払わなければ警察につき出される。ホテルに宿泊してお金を払わなければ犯罪である。しかし企業のばあいは払わなくていいらしい。企業は市民と違って犯罪が放免されているのである。まるで大金持ちや権力者のボンボンが犯罪を犯してももみ消しにされるようなものである。強盗に押し入っても無罪放免、脅迫や傷害をおこなっても罪に問われることない。

 こんな犯罪が見過ごされる社会にはたしてモラル・ハザードはおこらないのか。犯罪が放免されるものたちがいっぽうでいて、犯罪を犯せばすぐに捕まり、牢屋にブチこまれ、実名でニュースに報道される。こんな不公平があるか。企業は労働者にたいして万引きや窃盗、強盗、監禁、強制労働、魂の殺人、ときに命や身体の殺傷をおこなっているのに無罪放免で、まったくほうったらかしにされている。日本で法律を守る義務なんて守られる必要があるのか。殺到、強盗、殺人があたりまえにまかりとおっている社会に法律を守るモラルなんて必要なのか。

 日本ではクルマのスピード違反は常態化している。守られないほうがふつうで、ときに運の悪いドライバーが場当たり的につかまって罰金をとられる。クルマのスピードは60キロという制限を加えること自体がグレーゾーンだからドライバーのほうにも言い分はあるのだろうが、日本の法律はあってもないかのようだ。わたしもほかにならってバイクでスピード制限など守ることなどないのだが、原付バイクでよく捕まり、罰金をとられて悔しい思いがしたものだ。スピード制限など守られていないのに運の悪いものだけが捕まる。こんな恣意的な法律運営で法律は守られるのだろうか。

 企業の労基法違反は捕まるものがいないからといってどんどん法律違反がフライングされ、法律を守っていては競争に勝てない、社会のほうもその理屈を容認することもあってどんどんダンピングがすすむ。大庄のような外食産業は店長や社員の長時間労働が常態化している産業で、それでしか維持できない体制をむかしから形成してきたのだが、大庄はそれをはじめからとりこんで織り込みずみにした給与体系をつくったのだろう。犠牲者がその構造から生まれる。

 法律を守っていては負けだと思わせる社会のうえにあぐらをかいてその一歩先をいったのである。生活が苦しいから万引きは見過ごしてやろうという理屈や借金に追われているから強盗はOKだという言い訳がまかりとってきた外食産業で、大庄の残業時間が折りこまれた給与体系は生まれたのだろう。企業は生活苦や借金苦を理由にした犯罪をずっと放免されてきて、おおくの企業が犯罪のモラルハザードを犯してきて、法律を守るほうがソンだ、負けだというブラック企業が蔓延した社会になってしまったのだ。

 企業さまは万引きに窃盗に強盗に脅迫になんでもOKの社会をつくってしまったのである。こんな社会ではニュースで報道される犯罪者はほんとうに悪いのか、たまたま運悪く捕まった哀れなヤツで終わってしまうだろう。警察や国家の権力、法律というものがナメられているのである。あるいは国家も警察も企業の権力とグルだとの見かたもできるが。

 この数年、都心での路上駐車はものすごく厳しくなった。民間の取り締まり会社に委託されて都心での駐車はすぐに摘発されるようになった。バイクもこそっと止めようともすぐに駐禁を貼られていて、わたしもイタい思いをなんどかした。これでドライバーは都心での駐車はちゃんとパーキングに駐車代を払って止める習慣をもつようになった。都心での違法駐車はかなりアナーキーで、問題だった。

 やればできるのである。違法駐車はだいぶ成果をあげてきたので、あの緑色の制服をきた取締り官を労基法違反の取り締まりにふりわけてほしいものである。ちょうどオフィス街の近くをうろうろしているのだから適任だろう。労基法違反は基準局の職員の数の少なさに問題が求められることが多い。ならば駐禁の取り締まり屋を民間に委託すればいいのである。

 犯罪が放っておかれる社会に法律を守る義務や責任など芽生えるだろうか。万引きに窃盗に強盗に殺戮が放っておかれる社会が日本なのである。社会は犯罪を放免するばかりか、推奨したり、あるいはそそのかす結果を導いているのである。経営者や企業ではみんな窃盗に強盗に無賃乗車をしなければソンだ、負けだという社会になっている。国や警察はそのような社会を放任してきたといえるだろう。企業のアナーキー犯罪国家だ。法が守られない社会に腐敗と犠牲者が増えるのはあたりまえのことである。法を犯さなければ負けだという社会に法を守るモラルなど生まれるだろうか。犯罪を犯さなければ負けなのである。


05 21
2010

労働論・フリーター・ニート論

タイ人のゆるゆる労働観が日本を救う!



 タイ人の労働観がかなりゆるゆるらしい。日本の旅行者がバンコクにいくと失業者や旅行者に冷たい目を向けないお国柄からか、現地に長期滞在してしまう「沈没」や「外こもり」とよばれる暮らしにおちついてしまうという。物価が安いから円高差益で日本で稼いでバンコクで遊んで暮す旅行者もいるらしいが、長居してしまうのはやはりそのゆるゆるな労働観にあるのだろう。

「タイ人の怠惰というものは、それはもう日本人からしたら人格の底を失ってしまうぐらい怠惰なのであり、労働時間とか休日といったレベルの問題ではない」



 バンコクでの「沈没」や「外こもり」を紹介する下川祐治の言葉である(『ホテルバンコクにようこそ』 双葉文庫)。

「だいたい三ヶ月から六ヶ月も働くと、彼らの労働意欲も限界に達してしまうらしく、再び、働く気になるか金がなくなるまで休暇に入ってしまうのだ。それも一週間や十日といったハンパな長さではない。一ヶ月、二ヶ月単位に休んでしまうのである」



「子どもができたんです。それまで(タイ人の)妻はなにもせずにぶらぶらしていたんですが、子どもが生まれると、美容師になるから専門の学校に通うっていいはじめたんです。普通、逆じゃないですか」 『日本を降りる若者たち』 講談社現代新書



「仕事もない三十男なのだから、日本なら結婚に二の次を踏むところだが、タイの人々はそういうことをまったく気にしなかった。父親や母親も嬉々として結婚を勧め、式の案内をわざわざバンコクやチェンマイにいる親戚まで配りにいった」



 タイの人たちはかなり労働観がゆるゆるのようであり、日本のように働けだとか無職であることにこだわりがないらしい。熱帯に近く、昼間あつすぎて働けないということもあるが、冬のないタイに穀物や果物に困ることはない風土が北の食べ物やモノを貯めこむという貧しい発想を生まなかったのだろうと下川祐治は推測している。

 日本はアリとキリギリスでいえばアリのような働きつづけているわけだが、日本でも江戸時代まではタイ人にちかい働きをしていたものだと思われる。来日したヨーロッパ人は牛のようにゆっくりとしていると日本人を評した。日本も熱帯のような生き方をしていた。こちらなどを参照に。「反社会学講座 第6回 日本人は勤勉ではない  第7回 続・日本人は勤勉ではない 本当に新しい歴史教科書1」 パオロ・マッツァリーノ

 いま日本はかなり労働の縛りが厳しい社会になった。一生朝から晩まで働くことがふつうの生き方であり、まともな人生であり、褒められることになっており、それ以外の生き方はしてはならないことになっている。高度成長や戦後の復興精神、科学文明社会の夢などがしゃかりきな労働社会をつくったのだろうが、げんざいその縛りが日本人の多くを苦しめていると思われる。

 90年代に経済の曲がり角になり、下り坂やデフレの時代になった。会社の新卒採用は絞られ、フリーターや派遣で暮さざるをえない人も増えた。ひきこもりやニートといわれる不労者も増えた。不労者といえば年金生活者もかなり多くいる。働かない人がこの社会にはかなりたくさんいるのであり、労働の縛りが厳しい社会はこの時代にそぐわなくなっている。もちろん日本が豊かになったこともあるが、労働を厳しく責め立てないと暮せない時代はひとむかし前に終わったのだ。

 しかし厳しい労働規範は日本から去ることはない。おおくの日本人を責め立てて苦しめていると思う。新卒採用の厳しさやニートやひきこもりから抜け出せない人、あるいは再就職がままならない人。厳しい労働観念が日本人を苦しめていると思う。年間自殺者が12年連続で三万人を突破してしまったのも厳しい労働規範にあるのではないかと思う。キツイ労働規範がみずからをさいなますのだ。

 日本人はタイ人のゆるゆるな労働観を学ぶべきだろう。あるいは戻るべきだというべきか。そうすれば救われる人もたくさんいる。内戦状態といわれる自殺者の数も減らせるかもしれない。労働に寛容にゆるやかになることは日本人の厳しさ、ツラサをゆるめる役割をはたすだろう。日本人のセラピーなのである。どこを刺せば、ふくらんだ風船は破裂するのだろう。


タイ人はいかに働かないかブログで読む
[タイ人の気質]|タイ ビジネスコラム
タイ人と働く 微笑みの国タイランド
タイの労働者 ゆっきーの極楽日記030808

■バンコクはいま政情不安だからいかないほうがいいだろうが、わたしもバンコクのゆるさはいちど見てみたいな。

わたしの書評と参考文献
『ホテルバンコクにようこそ』 下川 裕治
『日本を降りる若者たち』 下川 裕治
ホテルバンコクにようこそ (双葉文庫)日本を降りる若者たち (講談社現代新書)外こもりのススメ―海外のほほん生活バンコクで外こもり!---あなたにもできるユル気持ちいい海外逃避生活

05 20
2010

労働論・フリーター・ニート論

なぜ日本人は失業をそんなに恐れるのか?



 2009年に失業者の自殺者が増えたそうである。日本人は失業を情けないこと、恥ずかしいこと、隠したいことと思うようであり、じっさいの生活苦より精神的な責め苦のほうが失業者にとっては苦しいことのようである。

 日本人はなぜそんなに失業を隠したいと思うのだろう。失業したサラリーマンが出勤していた同じ時間に家を出てハローワークに出勤し、会社が終わるころに帰ってくるという話をよく聞いた。妻に隠したかったり、ご近所に知られたくないということもあるだろう。ご近所や世間体に悪いのである。

 なんだかお金を稼いで生活費を得ることより、サラリーマンが働く時間にあてはまる行動や規範からはずれることがいけないこと、悪いことだと思っているようである。規格品の人生というか、定型的な時間割からはずれることを恐れるかのようである。

 こういう恐れを抱く失業者には夜中働く人や朝早く働く人、休日は平日という働き方をしている人もたくさんいることを知ったらいいと思う。平日昼間ぶらぶらできない人はあたかも自分がそんな時間帯で働いているふりをすると気持ちは安らぐのではないだろうか。みんなが働いている時間にわたしは遊べるのだ、自由な時間をもっているのだと優越感を抱けばいいものをみんなが働く時間に自分は仕事がないと自分を責めさいなますのである。あるいは組織や集団から外れることのさみしさ、かなしみか。

 失業を恐れたり、かわいそうなことと思う人が多いようだが、失業保険や貯金があったり、妻の稼ぎが少々あれば遊んで暮すことができる。バカンスであり、働いていたら得られない長期バケーションなのに、喜べない。仕事から解放されること、会社という因習的組織から離れられるこんな解放的で自由なことはないのに日本人は失業をとことん恐れるようである。

 なぜ日本人はそんなに失業を恐れるのだろう。徹底的に洗脳されたみんなや人と違うことをひたすら恐れるからだろうか。みんなと違うことをしていることは恐怖であり、罰則であり、罪悪かのように刷りこまれているからだろうか。

 働かないニートにはこの恐怖の縛りから自分は逃れられているという優越感があると思う。みんな盲目に恐がっていることの呪縛から自分は外れているのだと自負を抱けるのだ。ガッコをサボるワルの優越感である。みんなが朝太陽が昇るからガッコにいくみたいな自然状態、自動機械みたいな行動をバカらしいと蹴飛ばしているのである。そんな縛りや呪縛はかんたんに外せる、鎖なんてどこにもないというひらめきである。

 日本人は労働に対しての恐怖症のようなものをもっている。なんでこんな病気になってしまったのだろう。仕事がなくなればすぐ食べる金に事欠くとか、飢えたり、家を追い出されたり、命の危険にかかわるということはないだろう。それまでまじめに働き、長年の貯金やたくわえがあるのなら当面はそんな心配は必要ない。あるいは収入分をすべて使い果たすようなライフスタイルならべつだろうが。

 だいたい失業がオソロシイ~オソロシイ~とプロパガンダしているのは新聞社っぽい気がする。記者なんてそうとうの高年収をもらっているはずなのに失業のそなえの貯金もないというのか。消費者金融のCMに出てくるような計画性のない人ばかりの集まりなのか。新聞社の記者からの目には失業が地獄か悲惨の角度からしか見れないようである。終身雇用とか年功賃金の高保障をえられる新聞社や大企業の人たちはこういう恐怖にとらえられやすいのだろうか。

 守るものがあまりにも大きいから、失えば得られないと思っているから、崖っぷちの恐怖になってしまうのか。高収入や大企業の人たちほど失う恐怖やとりかえしのつかなさを抱いているのかもしれない。公務員とか国からの保障がえられるポジションはハシゴの上にいるような気持ちがするものだろうか。中小零細に勤めるものは失うものも保障も少ないから、転職は気軽でカンタンである。キャンディーをつかんで抜けないサル状態なのか。

 たしかに組織というのは年功序列である。年をとってゆくごとにポジションが上がったり、役職がつく立場になることはほかの実力指標や能力指標より穏便でカドが立ちにくい。もし年齢階梯がなかったら、ほかの能力や実力の闘争やケンカの場になってしまいやすいだろう。解決には年齢階梯がいちばんで不公平感もただよいにくい。年下の上司が出世してゆく会社なんてすぐブラック企業になってしまうだろう。会社がこういう年齢階梯で構成されておれば、外部からの新参者はポジションを得にくいだろう。そういう実情で会社というものを理解してきたものはなおさら途中で会社に入ることのむづかしさを思うのかもしれない。年齢ピラミッドの会社は転職がひらかれていない社会になりやすいのだろう。

 高度成長期に成功した年功賃金と終身雇用のしくみは低成長時代にそうとうのむづかしさを経験するようである。高度成長ロケットから振り落とされる人がどんどん増えてゆくのだ。座席がないことのツラさを味わなければならない。

 面接で数多く落とされれば自分が否定されたかのような、自分が不要な存在、社会から必要とされないとり残された存在のようなつらさを味わうかもしれない。しかし自分は自分のために生きているのであり、社会のためではないと思い込むことも必要なのだろう。自分に対する無根拠な自信や信頼はずっともちつづけるべきなのである。社会からことごとくから拒絶されても自分は社会のために存在するのではなく、自分のために存在するのだと思い込むことも大切なのだろう。社会の用途や機能のためだけにわたしは存在しているのではない。

 外部環境の厳しさを思うことも必要である。失業のときには自分を責めたり、自分を悪くいう傾向はいっさい排除したほうがいいだろう。ただでさえめげそうなときであるから、ぜんぶ社会や経済の客観的な責任にするほうが精神的には健康なのだ。有効求人倍率が1.0倍を切っているのなら落ちるのはとうぜんだし、採用枠も絞られているのならだれもが入れるわけではないのはとうぜんのことである。経済は右肩下がりで、景気も悪いし、この先かつての繁栄のような時期は見込めないのである。時代や状況がこうであるから、自分を責めたり、悪くいうのは、みずからドブにつっこむものと同じである。

 失業中はことさら自分を責めたり、自分を落ち込む精神状態にもっていってはならないのである。無礼講や免罪符をあたえないと精神状態は坂道を転げ落ちてしまうだろうから、なおさら自分に「許す」ことが必要なのである。

 「失業セラピー」といったジャンルはまだできていないようであるが、カネーギーの『道は開ける』やうつ病にたいする認知療法のようなものはあっていいと思うのだが、まだあまり開発されていないようだな。もっといろいろな方法や考え方があると思うのだが、熟慮が足りないようのでこのへんで。


わたしの失業時に落ち込んだときの気持ち。 どんどん拍手ボタンが増えているのですが、わたしの失業時はたいがいノー天気で、働かないでいい幸福な自由な時間をすごしているのにダークサイドだけを切りとった記事だけが注目されるのは本意ではありません。働いているときは失業の自由な時間ばかり恋しくなってしまいます。

 41歳の失業と心の危機


失業時のお守り
道は開ける 新装版マーフィー 人生は思うように変えられる―ここで無理と考えるか、考えないかで… (知的生きかた文庫)〈増補改訂 第2版〉いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法積極的考え方の力―ポジティブ思考が人生を変える (Life & business series)大きく考えることの魔術―あなたには無限の可能性がある

05 13
2010

労働論・フリーター・ニート論

ギリシャ危機とヨーロッパの若年失業率



 ギリシャの財政破綻によって世界経済危機の第二幕が上がったとの危機がささやかれている。2008年のリーマンショックは沈静化したとの見方もあるが、株価が大暴落したのだからおおくのところに不良債権をのこしたと考えるべきだろう。金を貸したまま返ってこない焦げつき先は世界じゅうにひろがっている。

 日本も株価バブルが崩壊した91年から大手銀行や大手証券が倒れる97年まで6年のタイムラグがある。隠したり、知らなかったりして日増しに不良債権は積み重なってゆき、手のつけられないところまでにふくらんだ。時限爆弾を――それも日増しに増えるものを――かかえているようなものだった。銀行がばたばたとつぶれれば、国民の預金はふきとび、企業も連鎖倒産する。しかたなく国の公的資金注入によって銀行は救われることになった。

 同じようなことが2008年の世界株価大暴落によって世界中にひろがっていると考えたほうがいいのだろう。こんどは国家財政のほうがヤバイ、国自体がヤバイということになっている。ギリシャを筆頭にスペイン、ポルトガル、アイルランドなどが次の破綻先だとささやかれている。国が国内の経済を救ったり、高福祉のために財政が破綻したり、あるいは税制減少のために借金がふくらみ、たちいかなくなっているのだろう。日本のバブルの場合でいえば、銀行のみが危なくなったのではなく、銀行を救おうとした借金まみれの日本政府が破綻するようなものである。日本の財政破綻がそれほどまでにまだ深刻になったことはないが、ギリシャやヨーロッパでは現実におこっているのである。

 国というのはゆるぎない金持ちの奥の金庫だと思われてきたふしがあるのだが、国が破綻すれば一気にそんな幻想ははがれてしまう。国の金庫は泉のようにこんこんとわきつづけると思ってきた近代の人たちは年金や生活保障を国にまかせる高福祉の社会をつくった。そんな国の金持ち幻想が崩壊しているのかもしれない。福祉国家バブルがヨーロッパで崩壊しているのかもしれない。金のない国にだれも助けられない。貧乏父さんにはもうすがれない。

 ギリシャでは暴動がおこった。もはやヨーロッパの先進国とは思えない情景である。財政融資のひきかえに公務員優遇や福祉国家の削減がもとめられ、反対がおこったのだ。フランスでも近年労働改正法による若者の暴動がおこり、もはや先進国は先進国の地位をすべり落ちてるのだろう。スペインやポルトガルといったら、かつてのイギリス以前の覇権国であり、こんにちのアメリカのようなスーパーパワーの地位をたもった国であった。江戸時代の南蛮貿易といえばポルトガルであったのである。過去の栄光の時代の順番に落日が激しいのだろう。

 ヨーロッパでは以前から若者の失業率がひどかった。10%や20%はざらで、イタリアにいたっては35%に達していた。それがこんかいの危機でスペインの若年失業者率が48%にはねあがっている。ふたりにひとりである。しかも職があっても競争や脱落の恐怖はもっと厳しいだろう。若者というのはすぐに中年になり、もはや若者の問題とはいえない一国全体の問題になるのだが、この言葉にはまやかしがふくまれているのだろう。若者の雇用というのは未来の雇用の状況をあらわしている。つぎのグラフをごらんください。

gn-20100111-05.gif
ヨーロッパの失業率も10%台に・若年層はより深刻な20%超へ - livedoor HOMME - livedoor ニュース

 もはや先進国には雇用がない状況なのだろう。どうやって若者が社会に受け入れられるようにするかという議論がさかんだが、もはや雇用自体がないと考えるべきなのだろう。先進国には仕事がないのだ。もうほとんど雇用がないというよりか、社会が崩壊しているといった状況ではないのか。

 このような状況の中で若者はどうやって生きているのだろう、社会や世間はどう思い、社会規範や人生観はどうなっているんだろうかと思うが、日本のマスコミがそれを流すことはない。ヨーロッパのこんにちの姿はあしたの日本の姿だと思うのだが、どうして先進国の黄昏に学ぼうとしないのか深い疑問がわきあがる。なぜヨーロッパ先進国の若者の声が入ってこないのだろう。かれらはわれわれの先輩になり、導き手になるのではないのか。

 ヨーロッパには長い間の富の蓄積や家族のゆとりがあったりするのかもしれない。自立志向の強かったヨーロッパの若者も日本のパラサイトシングルといわれたかたちに似てくるのかもしれない。貧困者やホームレスが大きなかたちで出てくることになるのだろうか。ヨーロッパの問題、雇用なき社会状況がルポされないのが不思議でならない。日本のマスコミ、ジャーナリズムはなにか致命的な欠陥をかかえているのか。

 わたしがヨーロッパの高失業率で書かれた本をもっているのは2005年に出た白川一郎の『日本のニート・世界のフリーター』(中公新書ラクレ)だけである。ざっと本屋をみわたしてもそのような本は見かけない。もっともあったとしてもお金のない私は買えないかもしれないが。

 先進国は雇用のない時代に突入しているのだろう。工業社会が終わってしまって、次なる時代の雇用の受け皿をつくれないでいるのである。工業社会の雇用は中国や東南アジアにうつってしまった。ヨーロッパはなにで食っていくのか。ヨーロッパ自体にも見つけられないでいるのだろう。そしてヨーロッパでも福祉国家や既得権益者を守る風土が強く、若年者の参入が容易でない状況は高まるばかりである。これは日本のこんにちの姿、あしたの姿でもあるのだろう。

 どうしてヨーロッパに学ぼうとしないのだろう。どうしてヨーロッパを見ようとしないのだろう。

 ギリシャの財政破綻はスペインやポルトガル、イタリアなどに波及してゆくかもしれない。リーマンショックは民間企業の破綻をひこおこしたが、国家の財政まで破綻させることはなかったから、こんかいのギリシャショックはもっと深刻だという見方もある。国がダメになれば公務員や福祉国家のサービスはいっきょに削られることになり、超貧乏な生活しかできなくなる。高福祉国家や公務員優遇のゆとりが見事に仇となるのである。

 ヨーロッパはいったいどうなってゆくのだろうか。イスラムはかつて世界の栄華をほこった時期もあったのだが、こんにちのイスラムのようにヨーロッパもなってゆくのかもしれない。先進国や文明の技術とすこしかけ離れた文明圏を形成することになるかもしれない。

 2008年のリーマンショックは世界大恐慌の再来だと恐れられた。ギリシャショックをひきがねにほんとうの恐慌期に突入するのかもしれない。企業ではなく、国の破綻である。1929年の大恐慌もその恐ろしさが知れ渡るまでけっこうタイムラグがあったのかもしれない。日本のバブル崩壊も深刻さが知れ渡るまでけっこう時間がかかったというよりか、経済に無頓着な人は自分やまわりがイタイ目に合ってはじめって知ったということもあるかもしれない。危機に備える覚悟が必要かもしれない。もっともこんな言説は恐怖を煽って一儲けをたくらむ輩の戯れ言だと一蹴すつこともできるが。


日本のニート・世界のフリーター―欧米の経験に学ぶ (中公新書ラクレ)フランス ジュネスの反乱―主張し行動する若者たちルーマニア・マンホール生活者たちの記録 (中公文庫)本当にヤバイ!欧州経済

ユーロが世界経済を消滅させる日~ヨーロッパ発!第2次グローバル恐慌から資産を守る方法移民社会フランスの危機フランス暴動----移民法とラップ・フランセ2012年、世界恐慌 ソブリン・リスクの先を読む (朝日新書 237)

05 11
2010

労働論・フリーター・ニート論

長時間労働の安売り合戦



 長時間労働はなぜなくならないのか。こういう問いかけだけでは長時間労働のメリットや享受者側の利益が見えてこない。反対や規制はそのメリットや享受を奪いとろうとするから失敗する。メリット側から考えてみなければならない。経営者や会社側だけではなく、労働者のメリットもあると考えなければならないだろう。

 ■一日二日分働け

 経営者側の代表選手として日本電産の永守重信はこう発言している。「人は「怠けるカメ」と思え」

 …モータメーカーとしては後発組で、実績も信用もない。もちろん人手もないし、設備もなければ資金もない。こんな、ないないずくめの会社が、大手の同業他社と競争して1つでも勝てるものはないかと考えたときに、思い浮かんだのが時間であった。…

 つまり、他社が8時間働いているのなら、わが社は倍の16時間働く。そうすれば、他社のセールスマンが得意先を1回訪問する間に、われわれは2回訪問できる。また、他社の納期が2ヶ月かかるところなら、われわれは1ヶ月で納めることが可能になる。要するに、求められるものは半分で、与えるものは倍というのがこの法則の精神で、わが社の伝統としていまも受け継がれている。



 一日を二日分働けということである。そうすれば他社との競争に勝てる。労働基準法や人権などまるで頭にない考えであり、労働者に自由も家庭も子どももいないかのような発言であり、だいたいは経営者はこう考えるだろうし、日本ではこういう発言や発想が法律違反やご法度だという考えがなく、大手をふってまかりとっているわけだ。ちなみにわたしは日本電産ととりひきのある会社で働いていたことがあるが、休みや遅い時間にムリをいう大迷惑な会社であった。

 この一日を二日分働けという発想はファーストフードや外食産業でもいかんなく発揮されており、名ばかり管理職のように労働時間規制のない役職で切り抜けるという方法がおこなわれる。経営者や会社にとっては時間は使えば使うほど利益や稼ぎが出るものと思っている。こういう論理や発想のところに労働時間の規制や禁止をさしこんでも、サービス残業や残業がまかりとおるだけだろう。

 ■顧客優位

 コンビニの24時間営業や外食やドンキホーテなどの深夜営業のおかげでスーパーの深夜営業化もはじまっている。店は長時間や深夜に営業すると儲かったり、利益が得られると思っている。たとえばスーパーで働くパート女性の夜の食事の用意などまるで考えられていない。顧客の要望やニーズにどこまでも応えるということなのであるが、労働者や人間としてのふつうの暮らしやゆとりはまるで排除されている。そういう人間としての歯止めがない。日本では顧客優位や営業優位が人間としての暮らしの論理がまるで吹きとばされているのがふつうなわけだ。

 かつての自営業の店やスーパーは夜の7時や8時には閉まっていた。正月や盆は休むものであった。不便であったが、働き手にも夜の時間があったのであり、買い物はそれまでにすますものであった。外食やコンビニがそういう論理をつぶしていった。夜も深夜も関係なくなった。お役所や郵便局、銀行だけが旧来の営業時間を守っているが、時間の関係のないサービスが提供される規制緩和はほんとうにいいものだったか働く側として再考しなければならないだろう。

 ■社員のメリット

 社員側としても長時間労働にメリットがないと考えるのは早計である。世間が早く帰ろう帰ろうというほど、会社に残る社員の価値や忠誠心は評価されるしくみになっている。世間も心情もふきとばす忠誠心と会社を思う気持ちがあるのだとアピールできる。残業規制や割り増し残業になればなるほどかれの働きぶりが評価されるというのは皮肉なことである。みんな帰りたがっているのにオレは会社のために残るというわけである。

 定給のサラリーマンにとって残業代、それも割り増しの残業代は魅力的だろう。稼ぎを増やすのは残業代しかない。稼ぎを増やしたかったら、残業するしかないのである。残業を減らすために残業が割り増しになればなるほど残業代が魅力になるのは皮肉というものである。罰則がかえってサラリーマンの欲や必要に火をつけるのである。

 出世したいものと評価されたいものが会社に残ろうとし、残業代の魅力も合流して長時間労働派がふえる。内心は早く帰りたい派も働く気がないのだとマイナス評価をされたくないから残業として残ることになる。そして早く帰れない、残業が常態の会社になる。早く帰ることが悪い、気が引ける会社になる。

 ■時間の安売り合戦

 時間を安売りしているわけだ。社員は残業の時間を売れば評価されると思っているし、会社は時間を売れば利益が出ると思っているし、会社は社員の時間を無限に使ってもよいと考えている。だれもが時間は水と空気のようにタダと思っているし、儲けの源泉と考えている。政府や世論が時間規制をかければかけるほど時間の価値が上がるというのは皮肉なものであるが。

 時間しか売るものがないというのはそれほどまでに差別化ができないということである。日用品のように安売りすることでしか競争の方法や差別化がない。時間はどんどん安売りされて、バーゲンされてゆく。

 消費者はいつでも、どこでも、いますぐを求める。それにムリして応える会社と社員が営業に勝つと思い込む。時間はどんどん売られてゆき、労働者の自由とゆとりある時間は奪われてゆく。かれに時間は営業と仕事と会社に奪われて、ほかの時間を得ることができない。自分の貴重な時間は二束三文で売られてゆく。またそういう自分の全時間を売ることが優秀な社員、会社に貢献する社員だと思われるところに悲劇がある。時間をすべて売り渡すのが優秀社員なのである。

 ■歯止めはどこに

 いったいどこに歯止めがあるのだろう。人間の時間はどこにも逃げ場がない。力のあるものに時間を出せ、おしみなく出せ、隠せるところはないと迫られたら、どこに助けを求めたらいいのだろう。時間はタダで、無限に使っていいものと思われている。ほかの論理や事情は通じない。24時間さしだせるものが勝者であり、それ以外のものは敗退だ。

 時間の安売りで勝負しなくてもよい差別化やニッチ戦略に向かうべきなのだろうか。日用品のように安売りでしか勝負できないものではなく、ほかと競争できない強みやほかにない特徴をもたなければならないということか。人がたくさん集まるところでは混雑して競争が激しくなり、安売りするしかない。合理的な差別化戦略がどこまでも大事だということか。人と違う道を見つけ、違うところをめざせということか。

 労働者としてカネも安定も出世もあきらめてしまうという方法もあるだろう。フリーターや日雇いとして生きる道である。しかしこれには貧困と不安定がつきまとう。都合のよいようにこき使われ、搾取され、捨てられるという弱みもとうぜんある。

 まあ、時間の安売り以外の戦略が必要ということだ。ほかの戦略で勝つことをめざさなければならない。労働時間の規制はぎゃくに長時間労働のメリットをつくる面がないわけでもないが、規制の歯止めはしっかりかけてゆくべきなのだろう。経営者や世間に労働者の時間を無限に使ってよいという意識がまかりとおっているようだが、この認識の警告もあたえるべきなんだろう。それは法律違反や犯罪であるという認識がいきわたる社会でなければならないのだろう。時間の安売り合戦は日本を不幸にしてゆくばかりである。


04 28
2010

労働論・フリーター・ニート論

マスメディアに社畜批判は語れない



 ネットでたくさんの社畜批判やブラック企業を語る人が増えた。いままでマスメディアだけの情報でこのようなあからさまな企業批判が語られたことはあっただろうか。われわれは労働者として企業にはいり、その驚きや不満を感じていながらも社会の片隅で「ものいわぬ労働者」や「従順な労働者」として働かざるをえなかった。社畜批判を語る場もなかったし、マスコミがわれわれの不満をすくい上げてくれるわけでもなかった。

社畜!社畜!!社畜!!! ニートの海外就職日記
日本的経営が社畜を生んだ理由 - Rails で行こう!
社畜はいかにして生まれたか - 池田信夫 blog(旧館)
なぜ日本ではブラック会社が淘汰されないのか - Zopeジャンキー日記
社畜マラソンwww - 新東大卒ニートばいお日記



 こんにちの官僚バッシングのもととなったカレル・ヴァン・ウォルフレンが日本人を「物言わぬ従順な中流階級」と名づけたが、われわれはどこにも批判や不満を上げる先がなかったのだ。マスコミが民衆の味方として企業批判をおこなうべきだったのだろうが、マスコミはその責任をはたせなかった。政治家は政官財の鉄のトライアングルでとっくにわれわれの信頼をうしなっていた。マスコミはなぜわれわれの不満をすくい上げれなかったのだろうか。

 内田樹がいっていたが新聞社の没落は個人の意見ではなくて、組織や企業の顔で語るから信用をうしなったのだといっていた(マスメディアの凋落 (内田樹の研究室))。公共や公式の顔でしか語れなくなってしまった。だれもそんなオフィシャルな声を聞きたいのではない。ホンネや気持ちを聞きたいのだ。組織や企業の見解で語った声などおおよそ個人のホンネではなく、感情でもない。タテマエや公共のお題目である。マスメディアがわれわれから見放されたのは、組織や企業の顔しかもちえなくなったからだ。

 マスメディアはたとえ個人が書いていようと公共や企業の顔として語る。企業の内部において企業批判や社畜批判を語れるだろうか。経営批判や長時間労働を批判して語れるだろうか。われわれが企業の中で上層部や労働のありかたをおおっぴらに語れないようにかれらも同じ立場だ。テレビでじっさいに番組をつくる制作会社は下請けの境遇や長時間労働、非正規酷使の実態を放送で流せるか。組織や企業の顔として黙っているか、なにも語れないだろう。マスメディアというのは個人でも人間でもなくて、まさに組織や企業であったのだ。

 ネットというのは個人の意見や気持ちが自由に語れる場だ。組織や企業の立場でものを語る必要もないし、個人の立場でものがいえる。これまでのマスメディアの時代にはそんなメディアはいっさいなかった。政治というのはメディアがない、伝達の手段がないということで、専門職が代替するという形態だ。政治家は企業や営利団体と結びついた。個人と労働者は政治システムのどことも結びつけられないでいた。回路がないままに政官財のトライアングルは生産マシーン国家をつっぱしってきた。このシステムでは個人や労働者の不満や意見はすこしも反映されなかったのだ。ただ生産至上主義、企業中心主義でつっぱしるしか道をみいだせなかった。

 ネットの登場によってはじめて個人や労働者は公共の場で不満や批判を語れる場を手に入れた。個人や市民は不満や批判を公共のどこにも語る場がなかったのだ。マスメディアや政治は組織や企業の顔でしか結びつけられないシステムであった。公共や公式の言葉でしか結びつけられないシステムであった。個人や労働者が抑圧されるシステムであった。なぜかと思うが、それは公共や権力が結びつく場であったからだろうか。

 ネットの登場によって「ブラック企業」という名称が生まれた。それまでのメディアではこんな言葉は生まれなかっただろう。われわれが知りえるのは事件や不祥事をおこした危険な企業か、成長や株価の高い優良企業か、リクルート用の美辞麗句の一般企業の情報だけだった。労働者にとって都合のよい情報、メディアなど手に入らなかったのだ。ネットによってわれわれははじめて企業の暗部や労働者としての不都合な情報をはじめて手に入れることができるようになったといえるだろう。ブラック企業という名称は新しい勢力の誕生も告げているのだろう。

 労働者、市民がはじめて世論や意見をつくれる場所をもったといえるだろう。労働者を批判する発言や酷使する立場はたちまち叩かれる。奥谷禮子が「過労死は自己責任」といえばたちまち叩かれるし、日本電産社長の永守重信が「休みたければ辞めろ」といえばいっせいに非難が集中する。王将のカルトめいた新人研修が放送されると非難ごうごうの声が集まった。われわれはかつてこんな声を発する場や勢力、世論をもったことはなかったのである。いままではおそらくこんな非難の声はどこにも達せず、メディアのありがたいお言葉として民衆はうけとっていると思われてきたのではないだろうか。

 企業中心主義、生産至上主義の目標は1985年ころに終えて、社会はその生産マシーン国家の鎧を脱ぐときであったのだろう。そのシステムを脱落させることができなかったから、のちにバブル経済がおこり、多大な不良債権をのこして日本経済は急落しつづけた。若者は生産マシーン国家の規範についていけず、ひきこもりやフリーターになり、ニートを生み、晩婚化や少子化によってしずかなサイレント・テロをおこなっている。過剰な生産システムに追随する意味も価値も見いだせないのだ。それはひとえに個人や労働者、若者の声をすくいとれない政治システム、メディアのありかたに問題があったのだろう。頭と胴体の部分はとっくにひきちぎられた迷走がこんにちの停滞社会の要因なのだろう。

 ネットはその穴を埋めるメディアや勢力となってゆくだろうか。個人や労働者がひとつの勢力や権力として結集してゆくことができるだろうか。われわれははじめて個人や労働者として公共の場で語られる手段、権力を手に入れたのだ。政治システムやメディア権力から疎外されてきたものたちである。長時間労働や社畜のありかた、ブラック企業の暗躍を是正し、正してゆくことができるかもしれない。

 社畜を批判し、長時間労働に疑問を呈し、企業のあり方を問うてゆけば、われわれは個人や労働者のための社会を手に入れられるかもしれない。日本は権力と個人のあいだに「中間集団」がないといわれる。権力のあいだのクッションや障壁がなく、権力からハダカのまま酷使されたり、蹂躙されたりする。ネットの世論や勢力がそのような権力の不在を埋める「第五の権力」になりえるだろうか。かつてマスコミは立法、行政、司法につづく「第四の権力」といわれたが、「第五の権力」は個人や労働者の声を代弁する権力に育ってほしいものである。あれ、企業の権力は何番の権力なのだろうか。

 みんなで社畜や長時間労働、企業中心社会のありかたを激しく非難してゆくべきである。閉塞感や不満はそのことによって解消されてゆくのかもしれない。

04 25
2010

労働論・フリーター・ニート論

「非正規悲愴観」と社畜逃亡とのねじれ



 派遣切りやフリーターの実情が知られるにつれ、非正規は怠けバッシングから悲愴感にそめあげられ、みんな正社員になりたい、政治的に正社員にひきあげることが社会の流れになった。

 だれもが終身雇用の正社員になりたいという世の中になったのだが、いぜんは「終身刑」のサラリーマンになりたくない、「社畜」になりたくないという世の中ではなかったのか。終身雇用や年功序列の「閉塞感」から逃れたいという若者が多かったのではないか。それなのにこんにち、非正規はみじめであわれで逃げ出したいものになり、みんな正社員になりたい、終身雇用の特権の中に入れてくださいという世の中になった。この「ねじれ」はいったいなんなのだろう。


こういう流れですかね。
フリーター亡国論ニート―フリーターでもなく失業者でもなく (幻冬舎文庫)パラサイト・シングルの時代 (ちくま新書)社会的ひきこもり―終わらない思春期 (PHP新書)下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

    ↓ 「社会病理」から「貧困・犠牲者」へ

若者が『社会的弱者』に転落する (新書y)ワーキングプア 日本を蝕む病(ポプラ文庫)ネットカフェ難民と貧困ニッポン (日テレノンフィクション 1) (日テレBOOKS―日テレノンフィクション)ルポ 正社員になりたい―娘・息子の悲惨な職場若者はなぜ正社員になれないのか (ちくま新書)


 若者はフリーターやパラサイト・シングル、ひきこもりになってしまうという「社会病理」が強調されていた時代から、ネットカフェ難民やワーキングプア、弱者だという「被害者説」、「犠牲者説」という流れが大きくできあがった。「病気」から「貧困」になり、派遣切りでは「ホームレス」や「命のキケン」となり、みんな「正社員になりたい」「終身雇用をのぞむ」という世の中になった。

 「怠け」や「病気」とバッシングされている世の中から、企業が正社員として雇わなくなった、非正規のイスしか用意しなくなったという構造説、犠牲者だというとらえ方はたしかに妥当で必要なものだったんだろう。しかしかつて「自由」や「多様性」の道をもった非正規は、「みじめ」で「あわれ」で、「逃げ出す」ものになった。恐ろしさを煽るあまり、かつて閉塞感や社畜の代名詞であった終身雇用や正社員にもどりたいと願うようになったのは皮肉というものである。「檻から出たい」といっていたものが、「檻に入れてくれ」という世の中になった。

 フリーターや派遣が低賃金で雇用の調整弁であるというキケンは強調されるべきであったのだろうが、かといって正社員の長時間労働や滅私奉公の「社畜的」な働きに戻るべきだというのも行きすぎだろう。非正規が差別され貧困におちいっているというアジテーションは労働条件の改善やひきあげには強調されてしかるべきだが、人を恐れさせすぎるとみんな「終身雇用礼賛」にかたむいてしまって、自由や多様性は殺されてしまう。

 「非正規悲愴説」をとなえるとトクをするのはだれなんだろう。非正規本人側からすると労働条件がひきあげられる契機になるからトクなんだが、ほかの人はみんな非正規を恐がって逃げ出す。会社側にしてみれば、勤労意欲をうしない、やる気がなく、三年で辞めてしまう若者にムチ打てると喜んでいるだろう。新聞社は非正規はソンだ、ヒサンだ、あわれだと煽ることになんのトクがあるのだろう。なにか自分たちの特権や正当性を主張したいように思われる。みずからの社畜や隷属のやましさを打ち消したいかのようである。

 「非正規悲愴キャンペーン」はロストジェネレーションあたりが支持して、労働組合系がバックアップして、「あわれだ」「コワイぞ~」と煽ったのだが、けっきょくそのプロパガンダは後続世代を恐れさせて「非正規難民」というイメージで世間を脅かした。恐がった若者は「終身雇用」と「社畜」の誓いを立てるという皮肉な結果をみちびいた。非正規難民になりたくないから、長時間労働や社畜にしがみつかないと奈落の底が待っているという脅えを生み出したのではないだろうか。

 日本に必要なのはかつての長時間労働、ワーカーホリック、社畜的な働きから自由で多様性のあるゆとりある働き方に変わることだろう。「生産マシーン国家」や「「労働マシーン」の人生から抜け出すことだ。「非正規難民」観ではかつての滅私奉公的な働き方へのゆりもどしを生み出してしまう。非正規の自由や多様性のよさをすこしはもちあげるべきかもしれない。

 「非正規難民観」だけではようやく選択肢やオルタナティヴが育ってきた男の生き方の閉塞を生み出すだけだろう。男の生き方にも正社員や労働至上主義の生き方だけではない、多様で自由な選択肢がひろがるべきなのだ。「非正規悲愴観」だけではその門戸を閉ざしてしまうだろう。抜け道や寄り道、オルタナティヴがたくさんある社会をつくるべきなのだ。「社畜マシーン国家」に戻ってはならない。

 若者は終身雇用や年功序列の主流的なコースだけではない生き方をいろいろ模索してきた。マスメディアに頼ると日本人はあたかも正社員-終身雇用の人生を生きてきた人ばかりだとイメージしがちだが、この道から逃れようと模索してきた若者もたくさんいるのだ。「非正規ヒサン観」はこの大きくなった流れにクサビを打ちたいのか。

 古くはヒッピーやフーテンのような流れもあったし、パンクやミュージシャンをめざしてのフリーター、季節労働で国内を旅行しつづける若者、あるいはバックパッカーや外こもりといわれる海外長期旅行者(逃亡者?)、パチプロで生きようとした人もいただろうし、作家の前職なんて転職だらけだったし、ニートといわれる生き方をした人もいるだろう。日本人はイメージされるようなサラリーマンとしての主流の生き方をして人ばかりではない。そういった勢力が同居できる、生産マシーン国家だけではない社会をつくってゆくべきなのだ。「日本人=農耕民族観」は社畜のプロパガンダだった。

 なぜ日本はサラリーマンや正社員しか存在してはならない、窮屈で画一的な生き方をそんなに称揚するのだろう。自由で人間らしい生き方が「犯罪」とされたり、「禁止」される社会の異常さや専制国家の非情さを疑問視するべきなんだろう。社会は主流の生き方だけではない多様で自由な生き方が許容されるべきで、そういう社会のほうがまともで幸せな社会だといえるだろう。

 年間三万人といわれる自殺者は正社員やひとつの会社に長く勤めるしか生きる道がないと思い込んできた人たちの悲劇が生み出したものだと思う。大手企業が倒れた1998年からどっと自殺者は増えている。ホームレスも急激に増えた年だ。「日本型社会主義」や「国営的」な生き方にクサビが打ちこまれた年だ。自殺者の多い国には旧社会主義圏の国が多いのだ。男の生き方がもっと多様で自由であったなら追いつめられなかったかもしれない。

 正社員や終身雇用でなくてもハッピーでゆたかな生き方ができる社会を築いてゆくべきなのだ。「非正規悲愴観」があまりにも煽られるともとの社畜国家に戻ってしまうので、疑問を投げかけて、多様で自由な生を称揚すべきなのだろう。

04 21
2010

労働論・フリーター・ニート論

労働からの自由、会社からの自由、貨幣からの自由



 人はときに仕事なんかやめたい、会社から自由になりたいと思う。しかし会社をやめれば収入が入ってこなくなり、生活ができなくなるので会社をやめるわけにはゆかない。それで長時間労働に巻き込まれて自分の時間と人生を失う。

 朝、会社に行かずに休めば自由な自分の時間が広がっている、会社をやめれば自分が好きに使える時間と自由がひろがっているのに人はそれができない。会社に雇用されていないと生活できなくなることを予期するからであり、会社に長期間雇用されることがあたりまえになれば、会社や国家の制度からもらう休日とのこりの時間だけの自由時間に満足するように慣らされてゆく。しまいには会社や制度から離れた自由の時間がまったく想像できなくなり、かれは自由な時間の使い方がわからなくなってしまう。

 ニートやひきこもりは会社にいくすぐそばに自由の時間がひろがっていることを垣間見させようとするのだが、会社から離れる人生がこの世にひろがっていることを想像できない人からは理解できない。会社から離れることはこの世でない世界にふみいれることであり、真空のように息ができない世界がひろがっているとかれらは思いこんでいるのかもしれない。ニートはこういう隙間から自由がすぐそばにあると主張したいのだけれど、会社と制度に絡みとられた人たちにはまったく理解されない。かれらはさぼることを知らないのである。

 日本では会社からの自由、労働からの自由を訴える人はほとんどいない。会社や労働から離れれば食っていけないと思っているからだ。また安定した収入や継続した収入から離れられない。マイホームであるとかマイカーローン、教育費や社会保険料が払えなくなるからだ。貨幣経済で食っていくためには自由はないとあきらめている。生きてゆくためには自由は夢想してはならないものだ。制度や会社からの外部、自由はないとかれらは悟っている。

 労働や会社からの自由をなぜ日本の人たちは問おうとしないのだろうか。自由とはなんなのだろうか。ジョン・スチュアート・ミルが説いた自由は多数者の専制からの自由といった精神的なものだ。フリードリッヒ・ハイエクやミルトン・フリードマンがのぞんだ自由は政府や国家からの規制や干渉がなくなることであった。かれらの自由とは国家からの自由であり、労働や企業からの自由を考えたわけではない。労働者からみればボスが会社になろうが国家になろうが隷属は変わらないのであり、こんなのがほんとうに自由なのかとわたしは思うのだが。カール・マルクスが考えた自由とは資本家からの自由であり、労働からの自由なんてまるで考えなかったようだ。レーニンなんかは労働三時間で金ぴかのトイレをのぞんでいたのだが。

 わたしは労働からの自由を考えてほしい。会社からの自由を希求したい。さらには貨幣からの自由を考えたい。労働から解放されるには会社から解放される必要があり、会社から解放されるには貨幣から自由にならなければならない。会社から解放されたいと思う人も貨幣からの自由を想像することはない。貨幣からの自由を模索してみようという試みはなぜ考えられないのだろう。自分たちがもちいて、使っている制度からどうして人は自由になれないのだろうか。

 労働や会社からの自由の方法として短期労働や日雇い労働を売るという方法があったり、あるいは独立し、自営や起業で食っていくという方法がある。短期労働では職がないときがあり、安定収入がとだえることがあり、高収入はムリだし、長期安定雇用のヒエラルキーからは差別され、侮蔑される。高齢になれば雇われ口がなくなり、生存してゆくことすら困難な状況におちいる危険がある。ネットカフェ難民やホームレス予備軍として怖れられている。自営や起業では会社の労働よりもっとハードな労働や拘束が待ちかまえている。大金持ちになってリタイヤという自由をえるのは何年も先のことであり、ワーカーホリックになってしまったかれには労働からの自由をもはや喜ばないだろう。

 消費やお金のかかかることから離れて労働や会社からの自由を模索する方法もある。新製品や新商品をほしがるから会社や労働に深く拘束される結果になるので、そういうものをはじめからあきらめてしまうのだ。所有からの自由だ。戦後の人は所有することの憧れや喜びに満たされるために働いてきたのだが、成熟経済のこんにち、もはや所有のモチベーションは貧弱である。貧困や所有の欠乏から戦後の日本人はよく働いたのだが、それらの自由はほぼ達成されてしまった。そうすればツライ労働や会社に拘束されるモチベーションはほぼなくなる。

 若者がニートやフリーターになったり、三年で会社を辞めたり、ひきこもりになってしまうのは、拘束され、キツイ労働に囚われる強い意味やモチベーションがないからだ。となれば労働や会社からの自由をのぞむ場所から近くにいるのだが、貨幣からの自由はのぞみようがないので会社に拘束されるしかないのだ。会社からの拘束は弱い糸でつながっているだけなのだが、貨幣からの拘束はいぜん強いままなので、会社から離れるわけにはゆかない。若者のクルマ離れや消費離れが騒がれたりするのだが、かれらは会社からの自由に近い位置にいるのだが、貨幣経済からの拘束からは逃れられないので終身雇用をのぞむのだ。

 日本はふしぎなことに自由をのぞまない。ニートやフリーターがのぞむような労働からの自由をのぞまない。長時間労働や企業からの拘束から逃れられることは人々の自由をひろげることだと思うのだが、社会からはバッシングされる。ふしぎな社会であり、奴隷根性がしみついてしまっているのか、自分たちが奴隷でがまんしていることがばれてしまうからか。人類はフリーダムをのぞみ、社会は国家や王、資本家からの自由や権利の獲得の進歩の歴史だと習ったはずなのだが、かれらは権力支配と奴隷の世界にもどりたいらしい。貨幣経済からは逃れられない、ゆえに会社からも逃れられないと思っているからだろうか。ニートはつながれた鎖が見えない鎖であり、自分からすぐにはずせることを教えようとするのだが、世間は重い荷物と石を背中にのせる生き方しか許容しないようである。

 われわれは労働からの自由をのぞんでいるのではないか。それとも会社や貨幣経済からの拘束からは逃れようがないので、労働に縛りつけられるしかないのか。もし貨幣経済から逃れられないとしても、貨幣=会社の拘束ではないだろう。会社の長時間拘束をされないでも貨幣を得ることができるはずなのだが、日本人は貨幣=会社と考えたいらしい。どうして自由をのぞまないのだろう。三食付の刑務所から逃れたいと思わないのだろうか。ムショから出ることは即メシが食えないことだと思う日本人はムショからの自由を知らないし、のぞむこともないのである。たしかに日雇い労働者の自由だけれど、ネット難民やホームレスになる末路は迎えたくないだろう。

 せめて労働や会社からの自由がのぞまれる社会になってほしいものである。貨幣からの自由などのぞみようがないから、会社からの自由ものぞまれないのだろうが、会社=貨幣ではない。日本人は自由を想像すらできないものだから、希望も実現ももてないのである。労働からの自由、会社からの自由があると知るだけでも、自由に一歩近づけるのかもしれない。

 人間は貨幣からの自由をのぞみえないものなんだろうか。貨幣からの自由を夢想も想像もできないものなんだろうか。貨幣の外部はありえないのか、想像もできないものなんだろうか。狩猟採集であるとか、自給自足では貨幣からの自由はのぞめる。しかし会社経済や貨幣経済にがっぽり呑みこまれたわたしたちにその生き方をのぞむのはむづかしいというものである。

 人は貨幣を稼ぐことばかりと闘うのではなく、貨幣から逃れることを考えるべきなのだろう。マネーは人を幸せにしたか。マネーの近代は消費社会や文明社会、高度な分業社会を切り開いたのだが、かならずしもわたしたちに幸福で、のぞむ社会を与えてくれるわけではない。カネを主人にしてはならないだろう。われわれはカネの主人になり、カネのコントロールの主体になるべきである。カネの奴隷や隷属があるからこそ人は高度な労働社会を築きえたのだといえるが、自由や幸福をより多く与えてくれたわけではないだろう。貨幣の外部を考えるべきであり、想像もできえないものは実現することもないのである。

 労働や会社からの自由をのぞむことがあたりまえで、正当な要求であると認められる社会になってほしいものである。こんにちの常識では王からの自由や独裁者からの自由、奴隷からの自由は正当であたりまえの権利や要求だと思われている。労働や会社からの自由も同等なはずである。しかしこの社会ではその権利や要求はのぞんではならないものなのである。まるで王や独裁者の支配、奴隷制を認める社会と同じではないのか。それは貨幣からの自由が夢想も想像もできないからで、貨幣からの鎖をだれも外せないからだろう。貨幣からの自由をせめて夢想でもしなければ、この地上に実現の可能性はゼロなのである。

 労働からの自由、会社からの自由の要求が社会の目標や正当な要求だと認知される社会になってほしいものである。それにはやっぱり貨幣からの自由が思い描かれる必要があるのだろう。


 「労働廃絶論」 ボブ・ブラック

労働からの自由、貨幣からの自由
怠ける権利 (平凡社ライブラリー)森の生活 (講談社学術文庫)働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち怠惰への讃歌 (平凡社ライブラリー)オブローモフ〈上〉 (岩波文庫)

エンデの遺言―「根源からお金を問うこと」 シルビオ・ゲゼル入門―減価する貨幣とは何か自由地と自由貨幣による自然的経済秩序貨幣の思想史―お金について考えた人びと (新潮選書)貨幣の哲学

google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top