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02 24
2006

労働論・フリーター・ニート論

なぜ働かないことに有能感を感じるのか



 内田樹の研究室で2/22日、「不快という貨幣」でなぜ若者は学ばないことや働かないことに有能感や達成感を得るようになったのかと問うている。この文章に興味をもって一句一句読んで、はて、なんでだろうと真剣に悩んだのだが、なんのことはない、私もそういう論理で生きてきたのである。

 諸悪の根源は物理的の「労働は苦役」を読んではっと気づいた。会社の奴隷労働から逃れていることに有能感を感じているのである。

 この世間は会社という牢獄に支配されている。生活の糧を得ようとしたら、一日の大半を、人生の大部分を会社に拘束されなければならない。この地上のいたるところには見えない監獄があり、私たちはその鎖につながれて身動きもできないのである。

 だからこそニートの若者は働かないことに有能感を感じるのである。いわば授業をサボって校舎裏でたばこを吸ったり、映画や繁華街に遊びに行くようなものである。ほかのヤツらは教室とか教師に拘束されているけど、オレたちは違うんだというわけだ。オレたちだけが自由の特権を得ているんだという優越感である。

 私も二十代のころはバイトをサボって平日の公園をぷらぷらしたり、どこかへぶらっと出かけることに満足を感じたものである。みんな労働に拘束されている社会に私ひとりだけ自由と気ままさを手に入れているんだと悦に入ったものである。

 新聞によると何ヶ月もの失業は恐怖のなにものでもないみたいだが、私にとっては人生の最大のバケーションだったのである。こんなに労働に拘束されない毎日を手に入れているのに、なんで恐怖しなければならないのかと思ったものである。もちろん人並みに仕事が見つからない不安もないわけではなかったが。

 内田樹という人はさいきん人気が出ているようだが、こんなことも知らないのかという感じである。これは世代によっていえることなのか、あるいは優等生と不良の違いなのか。私が内田樹という人の本を一冊も読みたいと思わないのはこういう断絶があるからかもしれない。

 働かない、会社に拘束されない優越感というのは、ずっと昔からあったはずである。ヒッピーやフーテンなんかそうだし、日本人はフーテンの『寅さん』を愛してきたのである。19世紀アメリカにはヘンリー・ソーローという元祖フリーターがいたし、仏教僧や隠遁者の系譜はまさしく働かない、立身出世をめざさない優越感を感じてきたのだろう。

 働かない優越感はべつに目新しいものではない。いつの時代の人も金持ちになって働かない自由を得ようとして、ますます労働地獄に絡み取られるのが世の常というものである。

 この日本はなぜか働かない優越感をもつ文化なり階層なりが昭和や平成に存在しなかったのが不思議である。イギリスでは支配者の価値観に対抗する形で、労働者文化がある。日本では学校に反抗するかたちの不良集団というのは存在するのだが、なぜか社会に出るとぱったりと対抗者文化というものがなくなってしまう。

 おそらくは「標準」や「ふつう」「まとも」などの同調圧力が強かったのだろう。マジメなサラリーマンとして働き、郊外に家を建て、家族で暮らすというライフスタイルから外れることをたいへん怖れた。または高度成長の夢が輝かしかったから、会社の福利厚生に絡みとられたということもあるのだろう。

 ただそれが奴隷労働や監獄としての企業社会という息苦しさが強まるごとに、若者たちはこの社会の脱走を夢見るのである。そして働かないことに優越感や選民意識を満足させられるようになるのである。

 問題は厳しすぎる企業拘束と労働束縛である。大多数の人が金や暮らしのために馬車馬のように働かざるをえない。だから親の扶養に頼れる若者はかれらをバカにして、自分は優越感にひたれるのである。

 若者たちはいっているのである。あなたたちの奴隷労働の哀れなすがたを見てみろと。

 だけど彼らもいつかはこの奴隷労働の社会に入ってゆかなければならないだろう。メシは食えないし、贅沢はできないし、将来人並みの生活ができない怖れもある。しかしそのときに企業社会にもぐりこむことはできるだろうか。

 私としてはこの流れが加速して、大きな集団をかたちづくり、新しい文化や生活なりを生み出してほしいと思うのである。奴隷労働と企業拘束から抜け出す文化や生活をつくってほしいと思うのだ。そのときはこの労働拘束社会はもうすこしはゆるやかな、ゆとりのある、人間らしい生き方のできる社会になっていることだろう。

03 21
2006

労働論・フリーター・ニート論

働かない人生を国家目標にしろ!


 いま、リバタリアンの本をいろいろ物色中だが、リバタリアンは国家の介入を減らせば自由な商業がおこなえて自由になれるという。う~ん、なんかね、経済の放任にそんなに自由があるのかと疑念に思うところもある。私は会社で働くことほど不自由なところはないと思うからだ。

 そもそも20世紀に人々が社会主義のとりこになったのは、働かない悠々自適の人生がおくれると宣伝されたからではないのか。人が金持ちになりたがるのは働かないで贅沢な暮らしができると夢見ているからではないのか。基本的に人は働かない人生を一度は夢見たことがあるはずだ。

 ホンネのところでは働かない人生を夢想しておきながら、この社会はどんどん労働から降りられない社会をつくってきた。ますますカネが必要になる社会になっている。グルメやらファッションやら、家電やら海外旅行、マイホーム、車、そして健康保険や年金。人が生きるためにますますカネと労働の重荷が必要な社会になってしまったのである。少子化はこの重荷の帰結だともいえる。

 私たちは贅沢な暮らしを手に入れようと思えばますますカネが必要になり、ますます働かざるを得なくなり、夢見た働かなくてもよい人生はどんどん遠のいてゆくばかりだ。私たちは贅沢だけどそれを楽しむ時間もない労働の人生か、それともそんな贅沢より働かない人生のどちらのほうが望みだったのだろうか。

 私は会社に生涯を拘束される人生より、贅沢はできないが自由な時間がたっぷりある人生のほうを選びたい。会社で仕事ばかりしていたら、いったいなんのための人生かと実存的に悩まなければならなくなる。必要なカネだけが稼いだらあとは休むといった生活が理想なのだが、現実問題としては転職先がないのでひとつの会社に長時間拘束されるしかない。

 私たちはなぜ目標をまちがえてしまったのだろう。生涯を保障されているけど、金ぴかのバカ消費と奴隷労働の人生をなぜ選びとってしまったのだろうか。ひとえに私たち自身の肥大した欲望のなせる業である。自分のあれもこれもほしいと欲張りが通ってしまう民主政治と福祉国家のせいである。私たちは自分の欲望の重荷にたえかね、そしてみずからの首を絞めているのである。

 私たちはもう一度働かない人生が目標になるような社会を生み出せないものだろうか。いまの二十代やニート、フリーターならおおかた賛成してくれるだろう。もちろん国家や企業が保障してくれる人生なんかまちがっても望むべきではない。それは家畜と奴隷への道である。私たちは人生のモラルとプライドにおいて自分の生活の糧は自分で得るべきである。なおかつ働かない時間をおおく手に入れる。そんな人生や思想が生み出せないものだろうか。

 国家は民衆にカネをもっと稼いでもらわないと税収でうはうはの生活ができないから、消費振興と労働主義イデオロギーを押しつけてくるのはまちがいない。国家とは他国との競合のことだからだ。国家は民衆をぎゅうぎゅう働かせて血税をむさぼりとることしか考えないから信用できない。

 私たちはカネで得られる楽しみを減らしてゆくしかない。そうすることでしか自由な人生は得られない。消費と保障の人生は奴隷の人生である。私たちは豊かだけど、どうしようもなく陰鬱で重苦しいこれまでの世代をたっぷり見てきた。このような人生のわだちを踏まないためには、なにかを失わなければならないのである。どっちみちこれからは保障が不可能な世の中になるから、自由を選ぶしかないと思うのだけど。


04 30
2006

労働論・フリーター・ニート論

NHK『就職 4年目の私』の感想。


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 NHKのETV特集『就職 4年目の私』をみた。大卒離職率が35%、週60時間以上働く若者やフリーター、ニートが増えている中、ディレクターの宮本麻衣子が就職4年目の卒業生を追ったドキュメンタリーである。

 宮本麻衣子さんはエライ。働くことはなんなのだろうと違和感や疑問を真正面から問おうとしていたからだ。しかし討論会のゲストの顔ぶれをみると、経営者や派遣会社の連中であり、たんなる自己啓発セミナーに宿命的に終わるしかない。若者は甘い、忍耐のあとにやりがいや充実が待っているという話だ(一理はあるけど)。

 社会改革や労働争議の道筋がまったくない。個人の選択の問題に帰せられて、社会全体の問題としてほかの選択肢が考えられることはない。「就職したら人生終わりだと思っている」という学生の気分があらわすように、社会は労働が人生を収奪してしまういまのシステムを終わらせてしまうべきなのだ。その道筋を真正面からとらえないかぎり、若者はずるずると崩れ落ちてゆくだけだろう。

 かつては貧しさゆえに会社を辞めるということは難しかった。いまは豊かになり、会社を辞めるというオプションも可能になった。そんな時代に人生の多くの時間を奪う会社や労働時間のあり方に拘束される切迫感はないのである。若者が耐える問題ではなくて、社会のほうが変わるべき問題なのである。

 社会はなぜこの問題を真正面から向き合おうとしないのだろう。なぜ労働が人生を奪うシステムは存続しつづけるのだろう。労働と会社のみに拘束される人生がまともな社会人という社会意識は、てこでも動こうとしないのだろう。そういう方向から若者の離職率やフリーター・ニートを考えないかぎり、若者は「まともな人生」から脱落しつづけるばかりである。労働に人生を奪われるサラリーマンのほうが「まとも」なのか。常識を疑う。

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 おなじくNHKで『一期一会キミにききたい』という番組をみた。就職活動中の自分に自信がまったくもてない女子大生と学生企業家に出会うというエピソードである。いやぁ~、私もその気持ちがよくわかる。

 学生が企業社会に自信をもてるわけなどないのだ。学校という企業や大人社会から閉鎖されてきた学生が、いきなり就職活動で対等に渡り歩けるわけがない。カン違いのうぬぼれで自分をだますしかないだろう。誠実に自信のなさを客観視することはいまのシステムの責任を自分ひとりの肩に背負うことである。

 若者が学卒一括採用というこれまでのシステムが機能しなくなったところで、ひとり自分の自信を失うという不備に落ち込みつつある。本田由紀の本でも読んだら気持ちが楽になるかも。問題は自分の自信のなさではなくて、企業が若者の労働力をかつての金の卵といったように欲しがらなくなったところにある。

 それにしても大学は彼女らの置かれている状況を説明してやらないのだろうか。社会の変動をもろにかぶっている若者に必要な情報を提供しているのかおおいに疑問だ。

05 25
2006

労働論・フリーター・ニート論

ニート、人の勝手でしょ。


 報道特捜プロジェクト ニート特集

 http://www.youtube.com/watch?v=OqzItpNiVCk
 http://www.youtube.com/watch?v=iHPcRqlWtNY
 http://www.youtube.com/watch?v=DvrPhM0yfUI

 id:rahoraho(鈴木さん)自らがTouTubeにアップしたそうである。

 人の勝手である。好きなように生きて人にとやかく言われる筋合いはない。メシが食えるのなら働く必要なんてない。

 私も自分の好きなことだけして生きたい。本を読んだり、HPをつくったり、ぶらぶら野外を散策したりしたい。毎日労働の日々なんかに拘束なんかされたくない。できないのは社会に通用しない労働力になることを恐れているからだけだ。職探しでいままでなにやってたんだと人に詰問されるのはツライ。

 そもそも人はなぜ働かない若者を非難するのか。嫉妬だけである。嫉妬の正当化がおこなわれてよいものか。そんなことをするくらいなら、矛先を自分に向けて、なぜ自分が毎日労働に拘束されなければならないのか、ニートの若者に非難するくらい自答するべきだ。みずからが労働の日々をつくっているのだ。自分を責められない弱さを他人への非難に転嫁するな。そのからくりを見抜くべきだ。制度にもたれかかる人間は制度に利用されるだけなのである。

 ただニートはいつかメシの食えないときが来る。働き口はを見つけるのはかんたんではないだろう。ただしいつの世もなかなか求人の集まらない人気のない会社はあるので、そういうところにもぐりこめばいいのだ。好況のときならなおさら仕事は見つけやすいだろう。仕事のキツさやひどさはソートーなものだろうが。あるいはネットの稼ぐ方法を見つけるか。

 労働して毎日会社に拘束される人生がマトモたどいう感覚自体が問われる必要があるとあらためて思ったしだいである。

05 26
2006

労働論・フリーター・ニート論

社会の方向性と人生の満足


 内田樹がいぜんに「フリーターが危ない」という文章を書いていた。昇進をすすめられて辞めた若者や正社員の申し出を断るフリーターがたくさんいるとのこと。

 一方ではフリーターは正社員になりたいけどなれないという話もよく聞く。若者は機能的な仕事を避けたがるけど、つかざるをえない「いいわけ」をフリーターという立場で保留するのである。

 つまりは全人格的に捧げざるを得ないと思っている「正社員」において、こんな職業につきたくないと思っているわけである。「私はこの程度の人間ではない」という表示をフリーターという立場によっておこなっているのである。

 われわれの時代というのはサブカルチャーや頭脳に価値がおかれる時代である。そういう価値においてヒエラルキーの上位をめざしたり、称賛されることをのぞむ時代であり、社会やマスコミをそれを宣伝・教育・洗脳しつづけている。だから社会の機能的な仕事――モノをつくったり、運んだり、売ったりする仕事に何の価値もないと思ってしまうようになっている。

 このことは重要なポイントなのだろう。われわれの社会はたいそう文化に価値をおいている。しかしわれわれが現実につける仕事いうのはそういうものではなくて、機能的な仕事ばかりである。そういう人生に価値も意味も見い出せない若者が漂流するのはとうぜんの帰結というものである。

 社会機能に人生の満足を見い出せなくなっているのである。それを自立できないだとか、社会貢献しなさいだとか、大人になれないというのは、レベルの低い非難である。人はそれぞれ人生の満足をめざし、納得のできる人生を生きたいとのぞむのは、だれだって認めたい生き方だろう。それをはぎとろうとする人たちは、自分のように社会機能に生きた不幸な人生のわだちを踏めといっているようなものである。ともかくメシを食うためだけに社会機能に生きる人生は、新しい段階の若者には忍耐すべき事項に思えないのだろう。

 人生の満足という点から見ると、われわれの多くが生活のためにつかざるを得ない仕事は、人生の多くの時間を奪われるに値しないものなのである。そこで若者はフリーターやニートになったりする。人生の満足を模索した結果なのである。

 これまでの社会というのはともかくメシの食える社会にすればいい、みんなの働き口がある社会や富が平等に分配される社会にすればいいというシステムでやってきた。食えればいいというレベルの話で、人生の満足は二の次だった。社会機能や社会分配があまりにも重視されすぎた社会は、人生の満足をおきざりにしてきた。そこで若者はこの機能社会から降りざるを得ないのである。いったら高いレベルをめざしたのだが、社会はそこまでついてきていないということなのである。

 これからの人生の満足という点では、安定した会社勤めも評判のいい大企業も、世間でのその会社の地位も社内のポストも魅力のあるものではない。これはすでに人生の満足をもたらすものではない。もう終わってしまったものである。カネや安定をむりやりほしいだろうといって口に押し込めるのはもうまちがっている。若者は文化的な価値において評価や価値をほしいと思っているのである。たぶんにいつの世の若者もそうであって、現実のわだちにのみこまれざるをえなかっただけだと思うけど。

 文化的な価値を高めること。政府は公共事業にカネをつぎこむのではなくて、せめて若者の文化的活動をバックアップするインフラを提供するのがいいだろう。働き口も大事なのは変わりはないが、それ以上に人生の満足が重要になっている時代なのである。マンガにアニメにロックに映画にファッションに趣味に、人生の多くを捧げられるようになれば、この国の若者の人生の満足もだいぶ大きなものになるだろう。


 
06 08
2006

労働論・フリーター・ニート論

金儲けをなぜ悪と思うのだろうか。


 無意識のうちに私の心の中には金儲けを悪いことだと見なしている向きがある。金儲けは利己的で、貪欲で、狡猾であり、お金に固執することは汚いことだと思っている。

 だけどこの世の中はお金がないことには回らないし、日々の生活も住居もままならないことになってしまうだろう。お金がないことには生きてゆけないのだが、またお金を稼ごうとすることにも罪悪感や嫌悪感がある。この相反する気持ちはなぜ私の中にあるのだろう。

 私たちは金持ちや狡猾な企業を嫌ったりするが、かれらは社会に利益をもたらしたからこそたくさんの金が集まったといえるのである。だれも自分の利益や便益に反することにお金を払ったりしない。金持ちや企業は社会に利益をもたらした分だけ、儲けるのである。つまりは社会貢献や個人の利益の分だけ、かれらは金持ちになるのである。どうして私たちはかれらを貪欲で汚いと思ったりするのだろう。

 私は企業を信用していない。人生の多くの時間を企業に奪われることをひじょうにいとわしく思っている。こういう条件で会社に雇われるようないまの時代がはやく終わってほしいと思っている。だけど会社は確実に私の生活や生存を保証しているのである。もうすこし少ない労働で生きられるのではないかといつも思うが、会社は多くの私の時間を拘束するのである。

 仕事というのは客の利益に貢献することによってお金が支払われる。金儲けというのは利己的な金儲けであるが、他人の利益に貢献する利他行為をおこなわなければお金が客から支払われることはない。スーパーやコンビニや家電は私たちの利益に貢献するからこそ儲けたのであって、利己心や貪欲さだけで儲けたのではない。なぜ金儲けは悪といえるのだろうか。

 私たちはその貢献分を見ないで、個人が儲けた分だけ見る。金持ちの資産を見てあくどいことをして儲けたに違いないのだと思う。かれらは泥棒や詐欺や悪徳で儲けたわけではないのだけど。

 金儲けを悪くて貪欲なことだと見なす風潮があるのに、どうしてサラリーマンは勤勉て実直でまじめな社会人だと見なされるのだろう? まともな社会人だといわれても、じつはかれらは利己的で貪欲な金儲けを昼間しているのである。かれらはなぜ悪徳マンと見なされないのだろう?

 私はもしかして社会主義の思想の影響かなと見る。この日本は70年代ころまで社会主義的理想が信じられていた向きがあり、社会主義は資本主義――つまり金儲けは悪いことだと見なしていた。だから国家が富を平等に分配したり、資本家の不正を正さなければならないと思われていた。つまりはこんにちの福祉国家や大きな政府は金儲けのあくどさを是正するために生まれたのである。それで私たちは必要以上に金儲けを悪と思うようになっているのではないかと思う。

 政府がいろんなものを保障してくれる社会は、金儲けは悪いことだという風潮を助長するのである。貪欲に利己的に儲けることは富が平等に分配される社会の敵である。貪欲な資本家や企業家になるより、まじめなサラリーマンになるのがいいという社会になる。つまりは大企業や政府から与えられる仕事と給料で満足する人になりましょうということだ。

 経済学の面からいうと、これは社会のニーズや利益をくみとってゆこうという動きにならない。個人の金儲けの利益は、他者の利益の増進につながっている。客が満足するサービスを見つけたからこそ、かれは金をおおいに儲けるのである。金儲けを悪と見なしていたら、社会の堀りこおされないニーズは放ったらかしにされたままだ。私たちは金儲けのこのような面を無視して悪と見なしてきたのである。

 金儲けというのは利己心と利他心の入り混じったひじょうに複雑な社会的行為である。私たちはその悪い面を多く見がちである。いっぽうではお金がないと私たちは生きてゆけないし、すこしでもお金はほしいと思っているけど、また利己的であくどい人とも思われたくないと思っている。そして社会に貢献しているという要素をすっぽり見落としてしまうのである。

 若者の労働観の変遷や衰退にはおそらくこの金儲けは汚いという意識が横たわっているのだと思う。富を平等に分配しようとする社会は金儲けを忌み嫌い、しまいには若者の勤労意欲を奪ってしまう。労働には社会貢献という面があるのだが、いまの若者にはたぶん仕事の利他行為という要素がまったく見えていないと思う。自分の評価という利己心が強すぎるのである。金儲けというインセンティブを失ってしまっているのである。

 いぜん金儲けはえげつないものだという意識が私から消えることはないと思うのだが、それだけではないことにようやく私も気づきつつある。


07 25
2006

労働論・フリーター・ニート論

NHKスペシャル『ワーキングプア』を見た。


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 きのう、NHKスペシャルの『ワーキングプア』を見た。働いても生活保護水準以下の貧困層のことをいう。400万世帯あるともいわれ、正確には把握されていない。

 感想はむずかしい。私ももしかして生活保護ていどしか稼いでいないかもしれないが、私はもともと会社に拘束される人生にずっと反発を抱いてきたから、とうぜんの収入レベルだと思っている。それに二十代のフリーターのときにお金を使わない生活にすっかり慣れたので生活が苦しいということはない。ただ朝から晩まで働かなければならない生活からは抜け出せていない。結婚してもみじめになるかなと思っている。

 この番組を見て思ったのは、このワーキングプアという問題はいぜんからあった貧困とどう違うのか、新しい貧困のかたちなのか、そこらへんがはっきりしないと思った。もうひとつ、こういう貧困層がくくられてピックアップされるのはやはり市場主義化への異議申し立てからなのかということだ。私はどうも福祉国家の精神的軟弱さが好きではない。

 30代のホームレスの男性がふたり登場していたが、若者切り捨ての現場はここまできたかという感じだ。50代のガソリンスタンドでバイトする男性も出てきたが、日本社会は基本的に20代までの労働市場しかない。その欠陥が強烈にあらわれていると思った。成功した年功序列社会が、路線から外れる人を強烈にはねつけるのだ。

 この日本社会はいまふたつの給料体系ができあがっている。社会保障と年功賃金のある正社員と、基本的にそれらのいっさいない非正規雇用だ。非正規雇用や賃金の削減の影響をもろに受けているのが若者たちだ。そして三十代までに安定した職につけなければ、ホームレスにさえなってしまう社会になってしまったのである。

 これは小泉改革や橋本改革が生み出したものではない。おそらくは大量生産の工業社会が終わったり、製造業がなくなったせいだ。専門知識の必要のないだれにでもつける仕事が減ったのだ。それからモノへの欲望や需要も減ったから仕事の絶対量も減ったのだろう。

 仕事があるときにだけ雇用する短期雇用も増えた。大量生産の時代なら仕事が継続的にあり、従業員は会社にストックしておくほうが得であったが、仕事の増減やモデルチェンジが増えると、必要なときだけ雇用したほうが得になる。むかしから建築はこういう注文請負であったが、その業種が増えたのだ。会社にストックされない人たちは明日の計画もたてれず、安定した暮らしができない。若者は会社に守られた旧世代と違って、こういう時代を生きはじめているのである。

 こういう人たちの惨状を見ると、だれだって政府に福祉を要求するだろう。しかしそれはだれのカネなのか。政府はかれらをほんとうに救えるのか。私は一度政府に福祉を要求するという発想は捨てるべきだと思う。福祉というのは経済論理をぶち壊してしまうからだ。たとえば最低賃金を上げれば、企業は高い給料で人を雇う気をなくし、失業者をひとり増やしてしまう。福祉は安いものを高く買わせようとして、いつも失敗するのだ。

 といっても市場原理がちゃんと働く底値のところまで人は我慢しなければならないのかといったら、人は生きていけないかもしれない。市場原理を唱える人はそこらへんの窮状をどう説明するのだろう。

 たぶんに人材の値下げ競争、価格破壊がおこっているのだろう。若者はその波をもろにかぶっている。いっぽうでは会社に正規雇用された人たちはこれまでと変わらない中流の安定した暮らしを営める。この二極化が進行しており、いっぽうはいっぽうの実情をまったく知らないという状況がおこっているのだろう。

 市場原理社会ではだれが貧しい人たちを助けるのだろう。政府がやることは、市場の流れの逆行をつくりだしてしまい、失敗するという説明がいまは言論界を牛耳っている。底値まで貧しい人たちは放っておかれた方がいいのだろうか。価格が上昇するまで貧しい人は待てるのだろうか。

 ここでひとつ問いたいのは、私たち個人は政府の力ではなく、自分の力で貧しい人たちを助けられるかということだ。自分のお金や行動でホームレスや貧しい人たちを助けることができるかということだ。たいがいの人は自分のことで精いっぱいで他人のことなど助けられないだろう。

 社会とか世間とかはもともとそういうものではないのか。私たちは非力で無力である。誰も助けられないし、救えない。こういう人たちの集まりの中で、どうして政府だけが人を助けたり、救ったりすることができるのだろうか。政府にばかりどうかしろというのは、自分の責任や行動を回避したいがためという気がする。そういう人たちの集まりなら、なおさら政府の福祉もうまくいかない。

 政府に問題を棚上げできる時代は断ち切られようとしている。自分個人で他人を助けられるかという問題から考えなければならないのかもしれない。私たちは自分の身のまわりに相互扶助や慈善の機会をとりもどす時期にきているのかもしれない。政府になんでもかんでものの時代は政府の管理や横暴を許す時代でもあったのだ。

 あとひとつ、貧しさには貧しさの知恵というものがあったはずだ。むかしの人は少ないお金でもやりくりしたり、楽しく暮らす知恵というものをもっていはずだ。お金が少ないからといって、即悲惨だと考えるのはまちがっていると思う。お金がなくとも、明日の計画が立てられなくとも、そんなことが当たり前な時代を長く生きてきたはずだ。貧しいからこそ、明日が見えないからこそ、今日を楽しむという発想もできると思う。明日が決まりきった社会を「終わりなき日常」といって、その息苦しさをずっと感じてきたのではないのか。貧しさを自慢話や笑い話に変えられる強さをもちたいものだ。


09 16
2006

労働論・フリーター・ニート論

企業は社会保障の廃止をめざすのか


 関西しかやっていないだろうけど、『雇用破壊~格差社会にもの申す』(アンカーSP)という報道番組を14日深夜にみた。おもに製造業の偽装請負や非正規雇用の問題をとりあげていた。宮崎哲哉や片山さつき、仙谷由人、小島典明(阪大)、脇田滋(龍谷大)、雨宮処凛といった人たちが出ていた。

 派遣というのは一年後に直接雇用に移行しなければならないから、偽装請負が横行しているという違法行為が叩かれていた。請負というのは派遣先の正社員から指示・命令をうけてはならないらしい。実態は派遣であり、企業は直接雇用をどこまでも避けたいらしい。

 工場などの製造業は派遣や請負がどんどん進行している。派遣や請負はそこの会社に属してながら、よそ者のような気持ちを味わわせるものである。そして給与は社員の半額程度であり、昇進もないし、社会保険が支払われることもめったにない。つまりは非正規雇用であり、アルバイトである。不安定雇用であり、使い捨て労働であり、結婚も子どもも持つことがむずかしいだろう。

 いまの日本企業は従業員に生活や人生の保証をするといった温情主義・家族主義的な、かつての日本企業のイメージをどんどん捨てつつある。まだ多くの人はそうであろうけど、企業は生涯を保障してくれるというあたたかくて、やさしいイメージを抱きつづけているのだろう。

 だからこそ、かつての日本人は企業に忠誠心をつくし、愛社精神をもち、長時間残業をいとわず、企業につくしてきたのである。滅私奉公には見返りがあった、もしくはそう好都合に考えてきたのである。そして会社人間や社畜とよばれるものになった。

 そんな都合のいい話があるわけがない。企業は経済論理で動く。好調なときにはそのような約束はできるが、、調子が悪くなるとたちまちその約束は捨てられる。それが経済やお金というものである。それなのに日本人は企業に聖人君子のような温情主義を期待してきたのである。この異常な観念の源泉には、年金や健康保険によって人生が保障されるというメルヘン的な依存心の育成があるのだろう。

 企業はこのメルヘン的な人生保障の約束をどんどん反故にしつつある。そのメルヘンは大企業や専業主婦、または多くの日本人の脳裏の中にのこっているのだろう。現実には非正規雇用の急激な伸びによってそのメルヘンがどんどんつき崩されているのだが、おおくの日本人はまだまだその現実を認めようとしないのである。

 企業は従業員の生涯保障なんてしたくないのである。必要なときだけ雇用したいのが企業というものであり、経済論理である。たとえば私たちは住まなくなった家の家賃を払いつづけるわけなどないし、乗らなくなった電車の定期券を買いつづけるわけなどない。企業も同じである。これが当たり前すぎる当たり前のことなのだが、どうも日本人は人間は違うといって、住まない家賃や乗らない定期券を払いつづけることを正当なことだと、人間の権利やとうぜんの保障だと思い込んできたようである。企業に生涯の保障を抱え込ませて、有利さを企業の長期雇用にあるようにひっぱってきた。労働市場を育てることのほうが重要だと思うのだが。

 企業は社会保障をどんどん捨てたい。国家の社会保障は見捨てられたかたちになっている。国民は社会保障にしがみつきたい。企業は給料を下げたい。そのような要求が絡んで、いまの企業の中には正社員や派遣、フリーターといった雇用形態が混在している。その格差は競争やがんばりのモチベーションとして利用可能かもしれないが、そこには年功賃金のような多くの人がしぶしぶ納得するような格差の正当な理由などまったくないのである。同じ仕事をしていて、だれが正社員とフリーターの違いを納得させることができるのだろう。

 なし崩し的に企業の社会保障は人々から奪われている。そして温情主義的な企業関係の中で労働者はすっかりおとなしくなってしまっている。待遇も給料も低くても、社会保障がなくても、フリーターや非正規雇用者はなにもいえず、黙ったままである。社会も政治家も世論も声を上げず、沈黙したままに、この給与ダウンと社会保障の喪失はどんどん進行しつつあるのである。ものすごく大きな日本人の生き方の転換につきあたっているというのに、人々は傍観か、無視しているだけである。

 なにが必要なのか。どうなればいいのだろうか。まずいちばん大事なことは企業と国家は社会保障をどうするのかコンセンサスを得るべきだ。企業は社会保障をどんどん捨てているのに、国家はそれを違法と見なすのか、取り締まるのか、それとも合法か、はっきりすべきだ。国家は企業が社会保障を与えないことを奨励するのか。

 これまでは企業が従業員の社会保障の支払や手続きは肩代わりしてきた。この役割を企業に放棄させることは、事実上の社会保障の廃止に近い。つまりは企業のみならず、国家も社会保障を廃止するのかということだ。非正規雇用の問題とはとどのつまりこのことである。社会保障は廃止なのかということだ。社会保障は一級国民だけのものになるのか、そうすればほかの人たちは税金も払わないし、国家と無関係に生きようとするし、戦争は一級国民だけの義務になる。

 もうひとつは正社員と非正規雇用の格差問題である。給与や生涯賃金で二倍~四倍ほど格差のある関係はこのまま放置されるべきなのだろうか。もし同一賃金同一待遇をめざすのなら、正社員のレベルが引き落とされるべきなのか、非正規雇用が上げられるべきなのか。正社員が落とせないから非正規が生まれたといえるので、非正規雇用を上げるしかないのだろう。といっても政府にも労働局にも実行力は皆無だろう。このままこの状態はつづき、人手不足がやってこないかぎり、非正規雇用のレベルが上ることはないのだろう。

 私がずっと思ってきたことは企業なんか信用するなということである。いくら生涯が保障される終身雇用が約束されたからといって、全人格的に企業に人生を捧げるなんてまちがっている。私たちは会社で働くためだけに生まれてきたのではない。人生を謳歌するためには必要以上に企業や労働に人生を捧げてはならないのである。

 企業は冷酷で、残酷で、非人情的なものである。それが経済やお金の論理というものである。そういう面から出発して、企業とのつき合い方を決めるべきなのである。メルヘンな終身保障なんて期待して、全人生を企業に捧げるべきではないと思う。ほんらいは非正規雇用の関係が企業とのふつうのあり方くらいに考えるべきなのだろう。そうすると企業とのドライで一面的な関係やつき合い方も見えてくるというものである。企業とは敵対して、闘争する関係なのである。温情的な関係を期待しておとなしくなるべきではないのである。


09 29
2006

労働論・フリーター・ニート論

『論争 格差社会』 文春新書編集部


論争 格差社会
文春新書編集部

論争 格差社会

 多くの人の論文が集められているからおもしろいかなと思ったけど、さしたる感興のわく本にはならなかった。たぶん格差社会論自体にあまり興味をいだかなくなったからだろう。私は格差社会の序列を恐れることより、なんでみんな好き勝手に自由に生きられる世の中にならないんだろうと思う。あいわらずヒエラルキーを気にした横並び社会なのである。

 おさめられた論文は『日本の不平等』の大竹文雄、『希望格差社会』の山田昌弘、斉藤環、さいきんブログを閉鎖した本田由紀、小谷野敦、『不平等社会日本』の佐藤俊樹など、対談に森永卓郎や日下公人、渡部昇一などが出ている。まあ、豪華な本だが、内容のほうはいまいち。

 対談でひきこもりの支援活動をおこなう二神能基という人の言葉がひびいた。
 「戦後ずっと日本がやってきた経済主義、所得で幸せが分かれる格差社会論みたいなものとは全く違う価値観で世界を見る若者たちが、生まれてきています」

 「うちの若者を見ていると、物余りの中で「生産拒否症候群」(木田元の命名)で、ものをつくるのはいいことじゃないという感覚が広がっています。大量生産、大量消費でやってきた日本への懐疑ですよ。正社員になって、たくさん稼いでたくさん税金を払いましょうという方向に対して、それも違うなという連中が増えてくれば、これは非常に大きなレジスタンスになりえます」

 ――そうなんですよね、私も労働や会社ばかりの人生からずっとオサラバしたいと思ってきたのだが、35歳以上の求人減のカベにぶちあたって、いまは安定を欲した働き方に擬態するしかないのである。

 あいかわらずあっけらかんとした日下公人は、渡部昇一とひとむかしまえの上流階級のいやみったらしい話をしたあと、いっている。「~パトロンがやってきた福祉は、役所が代わりにやっている。これだと心が通わない。基準をつくり、型どおりにお金を配るから、貰った者もあまり有り難みを感じない。~それで日本には、パサパサした、乾いた人間関係が蔓延しました」

 日垣隆も自立に関していいことをいっている。「入試や就職試験も、キミたちのためにあるのではない。採る側の都合で、それらの関門がある。
 自分が合格するかどうかは、もちろん個人にとっては人生の重大事であるが、企業にとっては全然肝心なことではない。相手の都合で入試や就職試験があると認識できないことと、恋心を抱いた相手に対してストーカーになってしまうこととは、まったく同じ構造だ。
 家族以外の社会というものは、およそ自分の都合では決まらず、他者の都合の総和で成り立っているという事実と向き合うことが、自立のイロハである。
 ~自己都合中心の仕事観は放漫である~」

 ――この意味もいまではよくわかるようになったが、若いころというのは自分の好きなことや才能で食って生きたいと思うものなんだな。仕事が他者の都合や必要によってはじめて生じているということがなぜか認識できない。仕事や世界は自分の好きなことや才能のためにあるべきだとどこかで思い込んでいる。

 それは子どものときに教育や消費ですべてお客さんだったという事情も関係しているのだろう。20年前後も自分のための教育や消費ばかりおこなってきておいて、急に社会に放り出されて、仕事というのは他人の必要や都合を満たすためにあるということなんてわかりっこない。それで他人の都合を満たすためだけの人生に剥奪感や無意味感を抱くというわけである。この180度の転換をどうなしとげるかが、ニートと会社人間の別れ道になるのだろう。あるいはどうやって自分の都合を大事にできる社会をつくってゆけるかだ。


格差社会の結末 富裕層の傲慢・貧困層の怠慢 教育格差絶望社会 日本とフランス  二つの民主主義 行動経済学 経済は「感情」で動いている インターネットの法と慣習 かなり奇妙な法学入門
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12 16
2006

労働論・フリーター・ニート論

年功序列の常識を厳しく問え


 城繁幸の『若者はなぜ3年で辞めるのか?』は会社のつまらなさを年功序列にもとめていた。年功序列の中では下積みの仕事や安い給料も、将来の賃金アップやポストによって報われなければやってられないのだが、すでに高成長経済もなく、ポストも中高年が長蛇の列をなして待っている。若者には年功序列の見返りは期待できないのである。

 現代の若者は報われない仕事をやらなければならず、そんな会社にいや気をさして辞めてゆく。しかも年功序列を維持しようとする年長者たちは、年功序列から排除した仕組みとしての派遣やフリーターを導入して、年功序列をもちこたえさせようとしている。つまり自分たちだけは年功序列の見返りはちゃんといただいて、これからの若者は一生ポストも賃金も上らない非正規雇用に後釜をひきつがせるのである。

 こちらの賃金カーブの国際比較(社会実情データ図録)を見ていただきたいのだが、日本男性の賃金カーブはブルーカラー、ホワイトカラーともに急上昇をとげている。ほとんど上らないスウェーデンやドイツと比べると一目瞭然である。ちなみに女性の賃金カーブはほぼ上らない。

 この急激な賃金カーブを維持するためには毎年売り上げか伸びなければならないし、業務やポストは拡大してゆかなければならない。1990年代からの長期不況と低成長時代になっても年功賃金は維持され、そのために新規採用は抑制され、非正規雇用が拡大された。つまり年功序列の維持にはすべて若者に犠牲が押しつけられたのである。非正規雇用の若者の賃金は半分であり、社会的信用も将来の安定もない。

 考えてみたら、年功賃金とはおかしなものである。お客にしてみれば、その人が長く勤めたからといって、高いお金を出してモノやサービスを買うことはない。ポテトチップスやカープラーメンを買う際に、つくった人が長く勤めたからといって新人のそれより高い金を払って買うことはない。客にはまったく関係のないことなのだが、日本の社会にはそのような常識がまかりとおっているのである。

 年功序列が成立したのは高度成長の時期に重なったからだろう。市場や売り上げが伸びつづけた時代に、賃金やポストを増やしつづけることが可能であったのである。90年代の長期不況と低成長の時代になってそれは不可能になった。けれど企業と社会の風土には色濃く年功序列の常識がのこりつづけている。ひとつの会社に長く勤めつづければ、賃金とポストは上がりつづけると思い込む常識はいまだに根強い。

 年功賃金は長期勤務者には好都合のシステムであったし、企業側にしてみればベテランや熟練者をながく企業においておくことができた。しかしそれは同時に中高年の賃金高騰をまねき、中高年の転職市場を閉ざした。げんざいでも求人の年齢制限が35歳にあるのは、この経済社会には根強く年功賃金があるせいだろう。年齢で給料を決めてきた企業に、いきなり中高年の新人に中高年の賃金を払うことはできないし、それなら安い若手を雇おうということになる。高い年功賃金は同時に中高年の転職市場を殺してもきたのである。

 われわれの社会はながく勤めつづければ賃金やポストが上りつづけるものだという思い込みが強い社会である。常識にさえなっている。降格や賃金カットは屈辱的なものである。そのような常識を支えるために、非正規雇用は増大してきた。つまり給料は上がりつづけるものだという常識が、給料の上らない非正規雇用を生み出したのである。自分たちの常識を守るために、常識の「埒外」におかれる人たちを生み出したのである。

 たぶんにわれわれはこの給料やポストは上り続けるという常識を廃棄しなければならない時代に来ているのだろう。それを維持するためにはその恩恵が受けられない犠牲者を極端なかたちで生み出さなければならない。社会すべてで年功賃金の常識の終焉を共有する必要があるのだろう。低成長の時代にはそれがスタンダードとなるのである。

 年をとるごとに会社での地位や給料は上りつづけるという常識はひろく社会に共有されている。バブルが終わったころに、あるいはバブル以前にこの常識は高度成長の産物にすぎなかったと社会に共有されるべきであったのかもしれない。おかげでげんざいの社会は年功序列の恩恵にあずかれる人とそうでない人たちを生み出した。同じ仕事をしていてもその差異が適用されるのだから、その差異の説得性はまったくないまま、ずるずるとここまできた。年功序列は大なたで切られる必要があったのである。それができなかった社会は世代間や同世代間の不公平感を醸成しつつある。

 げんざいの会社員の年功賃金や年功ポストは落とすことができるものなんだろうか。このしくみのままでは若者はなんの希望もないし、報われる見込みもないし、犠牲にされるばかりである。そればかりか、非正規雇用のようにはじめから年功序列から排除された人たちをも生み出したのである。労働倫理も勤勉の論理も生み出されることはないだろう。若者はやる気やこらえ性がないと若者のせいにしたり、ニートやフリーターを非難する正当性はないだろう。かれらこそ自分たちの常識の維持のための犠牲者なのだから。

 年功序列という常識を厳しく反省しなければならない時代に来たということである。


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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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