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08 30
2017

幻想現実論再読

時間を逃れる言葉――『「無常」の哲学』 谷貞志

4393131010「無常」の哲学」
―ダルマキールティと刹那滅

谷 貞志
春秋社 1996-06

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「およそ存在するものは瞬間的である。例えば、雨雲のように」
        ――ジュニャーナシュリーミトラ『瞬間的消滅論』



 時間を見れば、われわれがどんなに無や非実在の世界にのみこまれてゆく存在であるかわかる。過去は刹那ごとに、奈落の底のようにのみこまれてゆく。しかし、われわれは過去を思い出しては、目の前に存在するかのように泣いたり、悲しんだりできる。それはほんとうに実在しているのか。

 われわれは瞬間、刹那ごとに消滅してゆく存在ではないのか。そのような世界の法則を知ることによって、われわれはこの世界の実相を知るのではないのか。

 本書はなんとなく刹那滅という言葉にひかれて読んでみたが、ダルマキールティの言説もあまり知らなかったのだが、警戒していた仏教論理学の教説だと知って、返り討ちにあった。論理学ほど、わたしの苦手とするものはない。中間あたりから、ほとんどなにをいっているかわからない。

 導入部の著者の死の恐怖からの語り口は、じゅうぶんに興味あるものだったし、時間論にかんしてはもっと学びたいと思うのだが、いかんせん仏教論理学の壁は、わたくしには突破しがたい。ほんと、難解。

 だいたい、この本であげられているディグナーガ(480年–540年)や、ダルマキールティ(600年–660年)といった人は、6世紀や7世紀の人である。日本では、古墳時代や飛鳥時代なのであって、むかしの人は原始人のような頭をしていたという進歩史観がまったくあてはまらないことを思い知らされるのである。

 ひとつ感銘した文としては、言葉というものは存在から時間性を奪ってしまうということである。「私」という言葉も、いついかなるときも「私」なのであって、あの時の私も、この時の私もずっと同じ存在として、抽出されてしまう。しかし、この世の存在に時間の法則をのがれた存在はあるだろうか。

 言葉は、時間から切り離された超存在というべきものを、はじめから打ち立ててしまう。時間を越えた永久に存在するかのような存在を、言葉ははじめから含んでしまう。そして、人は時間性からのがれられないこの世界から、時間をこえた永遠の存在を望んでしまうのではないのか。

 つまり、言葉自体がすでに時間をこえた永遠の世界をもたらしてしまうのである。

 人は後世にのこるものとして、恒常的な石に名前や言葉を刻んでおこうとする。それは言葉自体がもっていた時間の超越性ゆえであって、この世に時間性を逃れ得る存在などなにひとつない。言葉は、われわれから劣化や変化や、消滅からの超越を夢想させてしまうのである。

 われわれは刹那や瞬間ごとに消え去ってゆく時間の中に生きる存在である。いかなる存在といえど、時間性から逃れられない。しかし、言葉は違う。言葉はそれ自身のはじめから、時間性を超越している。それゆえ、われわれは、時間をこえた迷妄や虚妄にさいしょから迷い込まされるのではないだろうか。

 だけど本書は論理学が難解すぎて、なかなか吸収するのがむずかして、論理学というのは、もっとわかりやすく語ってくれたらね、と思うのだけどね。


刹那滅の研究認識論と論理学 (シリーズ大乗仏教)東洋の論理 空と因明岩波講座 東洋思想〈8〉インド仏教 1


08 28
2017

幻想現実論再読

ほぼ感銘なし――『空の思想史』 立川 武蔵

4061596004空の思想史
原始仏教から日本近代へ (講談社学術文庫)

立川 武蔵
講談社 2003-06-11

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 ほとんど感銘をうける文章がなかったばかりか、理解できていたかすらおぼつかない読後感しか残らなかったのだが、どうしてここまで自分にとってピンとこない本となったのだろう。

 思想史となれば外側から見る概括史になりがちだし、事実や対象を語るのではなくて、ほかの学派や宗派の相違や区別を語るために論理学や論証にちかづく。

 論理学や論証はわたくしのたいへん苦手とするところだが、ナーガルジュナの『中論』なんてものは論理学の書物で手痛い目に会ったのだが、仏教の中核には論理学があって、論理学はなにをいっているかほぼつかめない。言葉をハナから否定する禅が勃興したゆえんかもしれない。でも言葉を否定ばかりしても、なにもつかめない。

 悟っているとされる仏教者においても、学派や宗派によって考え方がぜんぜん違ったりするのだから、悟りといわれる一般的な真理なんて存在するのだろうかという気になる。

 この本ではヒンドゥー哲学から原始仏教、チベット仏教、中国仏教、日本仏教における空が、総括的に語られている。

 そして、なにも得ることがなかった空であった。備忘録としてだけ残しておく。


空と無我 仏教の言語観 (講談社現代新書)空と中観 (シリーズ大乗仏教)空の論理「中観」―仏教の思想〈3〉 (角川文庫―角川文庫ソフィア)縁起と空―如来蔵思想批判無の探求「中国禅」―仏教の思想〈7〉 (角川文庫―角川文庫ソフィア)



08 22
2017

幻想現実論再読

われわれはすでに悟っている――『存在することのシンプルな感覚』 ケン・ウィルバー

4393321022存在することのシンプルな感覚
ケン・ウィルバー
Ken Wilber
春秋社 2005-11

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 リスペクトしてやまないケン・ウィルバーだが、ひさしぶりに読んだこの本はあまり刺さるところがなかったなあ。

 過去の著作のアンソロジーであって、一本調子でさいしょからひとつのテーマを語る著作とは違うからだろうか。

 ケン・ウィルバーは90年代後半くらいに集中的に探索していた。言葉や思考が悪者という考えのリチャード・カールソンに出会い、思考を捨てるという知識と格闘していたころだ。西洋科学や西洋哲学には、言葉を悪者にする思想はあまりない。

 ケン・ウィルバーは、言葉や思考を否定する東洋思想の懸け橋となってくれる立場にいた。

 いまは大型書店でもあまりケン・ウィルバーの著作もそろっていないようだが、わたしも一定の著作を読むと遠ざかっていて、その後『万物の歴史』がベストセラーとなっていたときは、遠回しにいて読むこともなかった。

 初期のころの『無境界』や『意識のスペクトル』という著作にものすごく感銘をうけて、あとは『アートマン・プロジェクト』や『眼には眼を』、『空像としてのパラダイム』を読んだくらいだ。その後に出た著作は読んでいなかった。

 ケン・ウィルバーやトランス・パーソナル心理学はいまどのような位置にいて、一般的にはどのように受容されているのだろうか。

 出版元の春秋社の本は手に入りにくくなることが多く、ケン・ウィルバーの著作は西洋と東洋の統合として読まれるべき古典として残っていったほしいものだ。

 あと、ケン・ウィルバーは日本の禅から理解するよりか、ヒンドゥー教のブラフマン概念の一体性から理解するアプローチも必要なのだと思う。ケン・ウィルバーの全体性は、ブラフマン概念である。

 このアンソロジーの中で、刺さったものとしては、すでにわれわれは悟っているというさいごのほうの章である。わたしの既読の本の抜粋もあるのだが、読んだことは忘れていて、あらためて読むとその文章に感銘するというしだいだ。

 わたしたちは悟りや変性意識状態がどこか自分から離れたところ、遠くや明日にあるように思ったりする。しかし、この世界が一体であり、全体であるというのなら、わたしたちはすでにそのものであって、どこか外側に見つけられるものではない。

 探究者はこのワナにかかってしまうのである。そして、それは言葉や想像によってつくられる世界が実在のものと思ってしまうわたしたちの認識の過ちそのものではないだろうか。

 神秘思想やスピリチュアルというのは、究極的には、この一点――言葉と想像力でつちかった虚妄の世界を省けということをいっているのではないのか。想像力を実在のもの、現実のものと思った時点で、いまここの悟りの一体性から、逃走や回避してしまうのである。わたしたちは探求や捕獲しようとして、けっきょくは逃げてしまうのである。

「しかし明日発見する「心」というものは、時間のなかで始まり、時間のなかで消えていくものである。なぜならそれは、今日ではなくて、明日始まるものだからである。厳密に言えば、「永遠」というものに入ることはできない。なぜなら「永遠」というのは、常に現前する「今」だからである」



「エリウゲナが言ったように、「神とは、彼自身が何者であるかを知らない。なぜなら、彼は何か、何者か、ではないからである。ある意味で、彼は自分自身すらとらえがたい。またあらゆる知性によってもとらえられない」



 われわれは知性によってそれを捉えられるのではない。知性は、まさに逃走すること、回避することなのである。回避とは、言葉や想像力で捉えること、知ろうとすること、確保しようとすることではないのだろうか。

 とはいっても、言葉で把握しないことには無知なままである。言葉はつかまれ、いずれ手放さなければならない。言葉こそがそれを阻むものとなっているのである。



無境界―自己成長のセラピー論316n1KylMBL__SL500_BO1,204,203,200_アートマン・プロジェクト―精神発達のトランスパーソナル理論眼には眼を万物の理論-ビジネス・政治・科学からスピリチュアリティまで-

統合心理学への道―「知」の眼から「観想」の眼へグレース&グリット―愛と魂の軌跡〈上〉ワン・テイスト―ケン・ウィルバーの日記〈上〉インテグラル・スピリチュアリティ実践インテグラル・ライフ―自己成長の設計図


08 16
2017

幻想現実論再読

人はなぜ無を恐れて、言葉や虚構を創作するのか

 言葉はどこにも実在しない。しかしあたかもそれが現実に目に前にあるかのように思うことができる。

 過去も瞬間ごとに消え去ってゆくのなら、過去はもはやどこにも実在しない。しかしそれを思い出すと、あたかも目の前に現実に存在するかのように泣いたり、悲しんだりすることができる。

 人は奇妙な現実には存在しない物事にとり憑かれている。そのありさまは、まったく映画やマンガのようなフィクションを楽しんだり、悲しんだり、人生の一大事に思うようなあり方と、まったく同じである。

 つまりわれわれは現実と思うものを、フィクションのようにしか捉えられない。

 フィクションなら、それは現実には存在しない虚構だという約束事が根本的には知られている。しかしわれわれが現実と思う言葉や過去が存在しない「無」であること、「幻想」であることに思い至る人はめったにいない。

 言葉や過去がわれわれを魅了してやまない出来事としても、それが現実には存在しない「無」や「幻想」であるという根本を捉えないと、われわれは大きな過ちを犯す。

 言葉や過去は無なのであるが、言葉を語ったり、過去を思い出すことによって、存在しないそれはあたかも現実に存在するかのように現出しはじめる。

 人間の認識というのは、意識しなければ存在しないが、意識しはじめると存在しはじめるという性質をもっている。身体の感覚だってふだんは意識しないが、意識しはじめると存在しはじめる。なにかの出来事だって意識しはじめると、そこになかったものが存在しはじめる。意識は、創出の性能をもっている。

 われわれの悩みや苦しみだって、出来事や世界の結果によっておこるものだと思っているが、意識しはじめたり、考えたりしはじめると、そこにはなかったものが存在しはじめるものである。

 意識や悩みというのは、そこになにもなかったものを「創作」する性質をもっている。出来事の結果だと思っているのが、それは意識したり考える前はどこにも存在しなかったのだから、意識や思考は「創作」の次元をもっている。

 意識や思考は、なにも存在しない無から、なにかを「創作」するのである。それが悩みや苦しみであったら、われわれはみずから苦悩や苦痛を、みずから「創作」して、「自作自演」していることになる。

 意識しはじめることは、なにもなかったものから、なにかを「創造」させる性質をもつものである。われわれは悩みを思うことによって、みずからを苦しみの渦中に放り込むのである。自分の意識や思考が、創作しているという性質に気づかないからである。


 言葉はなにもないところから、なにか「有るもの」をつくりだす「創作」の性質をもっている。過去は瞬間ごとになくなってゆくのなら、思い出すことは過去をいま現在に「創作」することである。

 そして、人はそれが現実には存在しない、「無」や「幻想」であるという根本性質にまったく気づかない。存在しないフィクションの世界にもりもり呑みこまれてゆくことと同じである。

 人は存在しないこと、非実在なことのほうには目を向けない。有ること、創られたこと、目を奪われるものばかりに関心を向ける。それが実在しない無であるという一事にまったく目を向けなくなる。

 言葉や知識は、創造しないことにはなにも気づけない。言葉は巧みな洞察力や観察力を駆使して、賢明で堅実な知恵を蓄積させるように仕向ける。しだいにそれが実在するのか、実在しないかの境界をこえて、ずっと存在しているかのように思うようになる。

 人は脳内にある存在しないものを、現実の地上に存在させることがずいぶん好きである。たとえば、マンガや映画の虚構でしかなかったディズニーランドやユニバーサル・スタジオ・ジャパンのような虚構のアトラクションを現実化させて、おおいに喜ぶ。

 都市や建物だって、さいしょは人間の脳内にしかなかった想像や計画でしかなく、その頭の中にあった現実に存在しないものをこの地上にたくさんつくりだすことを、文明の進歩だと信じて都市や建物をつくってきた。

 人間は想像と現実の区別をつけない。想像されたものを現実に創出させることがずいぶん好みである。存在しない想像を現実に存在させることがずいぶん好みである。

 それはわれわれの認識構造が、想像したものを現実のように見なす認識の根本構造と同じだからではないのか。

 われわれは存在しないものより、存在するものに目を奪われる。創作された豪華で絢爛たる創作物に目を奪われ、おおいに喜ぶ。

 存在しないものより、存在するものである。そうして、現実には存在しないものを創出しては喜び、それが現実には存在しないという境界性をどんどんなぎ倒してゆく。

 虚構の城の下は、「無」であり、「非実在」である。フィクションが現実にあるかのように見えて、それはまった存在しない虚構であるように、われわれの創出したものは、無や幻想を足場に、地下に抱えている。

 神なんてという人格神も、宗教の根本である神秘思想では存在しない無であったり、非二元性や、言葉であらわせないものを表現するものであったはずである。それが現実に存在するあたかも人間の衣をまとったような存在として「創作」されるようになっている。

 われわれは「ないこと」より、「有ること」のほうがずいぶん好きなようである。創造された創作された豪華な建物に目を奪われる。そして、それがまったく存在しない「無」や「幻想」であることをすっかり忘れてしまう。

 じつは、存在しない無や幻想であることに気づくことが、大いなる安らぎや非二元性や、大いなる一体感を感じさせるベクトルに向かうほうではないのか。無や幻想であるベクトルに向かうほうが、安らぎである。

 しかし人は「有」や「創出」されたベクトルばかりに向かう。そうしてどんどん現実の世界から離れ、刹那の瞬間しか存在しないこの世界に、永遠に残る創作や幻想をもとめて、われわれは幻滅や苦悩におちいる。

 われわれは創出や創作のベクトルに向かい、この世界の現実原則、消滅しては消え去ってゆく世界に抗おうするのではないのか。その結果、存在しない世界の幻滅と破滅に襲われる。

 フィクションの世界に魅了されて、その世界に憩い、永遠に抜け出したくないと誓う子どものようである。

 われわれは映画やマンガはフィクションであり、現実には存在しないとわかっているから、虚構から離れられる。しかし、われわれの認識能力は、この現実世界すらも虚構の世界で捉える性質をもっているのではないのか。

 虚構の豪華な建物、ないものよりあるものに目を奪われるわれわれの性質、そして存在しないものに存在させられる意識の能力をもつがゆえに、われわれは虚構のフィクションの世界にずっと捕えられたままではないのか。

 そもそも、言葉や過去が存在しない虚構であるという性質さえ人は気づかない。過去は実在すると思い込む人は後をたたないわけだし、言葉がどこにも実在しないものではないのかといった疑問さえ抱く人もいない。

 われわれは無や非実在であることを、人生の無価値や無意味だと恐れるのだろうね。言葉で出来事で人生の価値と意味をつかみとりたい。さもないと人生の意味はまったく無意味だ。

 そうして、言葉と想像によって、存在しない人生の価値や業績を追い求めるようになる。言葉や想像が、喜びをつくると同時に幻滅やいつわりをつくりだすというもう一方の悪の性質に気づかずに、虚構の建物を追い求めようとするからなのだろうね。

 人は、存在しない虚構の建物という人生の業績や価値を打ち立てようとする。それは意識や思考、言葉でもおこっており、われわれはきょうも存在しない幻想に価値を追い求めようとするのだろうね。

 無や非実在に気づくことは、人の必死な業績を残そうとするあがきに笑えるようになることであり、安らぎに憩えることではないのだろうか。もしそれが無意味や無価値を思わせるなら、まだ言葉や意識の「フィクション性」や「幻想性」に気づいていないということだ。

 われわれは、過去が奈落の底に瞬間に落ちてゆく世界に暮らしている。言語や過去の想起が、現実にはどこにも存在しない世界に生きている。安らぎのベクトルは、この世界の法則に抗う方向にあるのだろうか。


08 09
2017

幻想現実論再読

「わたしはいない」――『意識は語る』 ラメッシ・バルセカール

4864511470意識は語る
―ラメッシ・バルセカールとの対話

ウェイン・リコーマン 編
ナチュラルスピリット 2014-12-19

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 ニサルガダッタ・マハラジの弟子で、師匠のタバコ業者とおなじように、銀行の頭取を定年までやっていた一般の活動が長かった人で、といっても受胎の瞬間からこの世は幻想だと知っていたといい、ほかのグルにも長くついた人らしいが。

 わたしにはこの本には鋭さやものすごいいいという印象はうけなかった。ニサルガダッタ・マハラジの本のようには赤線や感銘した文章に出会いつづけなかったという意味であるが。この人が語り、影響をうけたといわれるニサルガダッタ・マハラジやラマナ・マハラシ、クリシュナムルティを読んでいたり、比べるという意味においてであるが。

 質問者にたいして、すべて「観念だ」と指摘するくだりはいいと思う。

「バルセカール 観念でないものがありますか?
質問者 至高の現実は観念ではありません。
バルセカール もちろん、観念ですよ!
質問者 本当に?
バルセカール はい、本当に! この意識が「私は在る」の中へ突然爆発する前は、何の観念もありませんでした。観念の必要性がなかったのです。なぜなら、何かに気づく誰もいなかったからです。この「私は在る」の意味において、私が何を言っても、それは観念です」



 人は事実や至高の存在を思い描いては、その頭で描くものを現実化しはじめる。バルセカールは、その時点で観念化の指摘をする。人はいつもこの過ちに陥る。いっているそばから、現実化しはじめる。この指摘は、とても重要だと思う。

 バルセカールのいっていることの全体から受ける印象として、「誰もいない」「自分はいない」「個人はいない」という指摘の要素が多かったように思う。仏教の無我とか自己を捨てることと同じ意味だが、この指摘はさいきん遠ざかっていた。

 だから、個人がいないという意味で、よく「肉体精神機構」という言葉をバルセカールは使う。全体やその連関のなかで生かされて、行動されている、個人や自分がないという意味での肉体精神機構という言葉。

「ですから、ただ目を閉じて、リラックスして、本当は「誰」もいないことを理解してください。その「誰」は単に想像された観念です。「誰」もいませんし、探求すべき「何」もありません。どんな「誰」も、どんな「何」もないことが、知的ではなく、あなたに感じられ、本当に理解されるとき、そのときには途方もない何もない感覚、完全なる自由の途方もない感覚、現在の瞬間、永遠の瞬間を感じます。実際、永遠の瞬間、現在の瞬間こそが、その経験なのです」



 個人や自己という感覚が、さまざまな観念や想像をかたちづくる。そこから世界はひろがり、その世界は実体や実在のものと感じられるようになる。人はそこにしがみつく。自己の観念から広がった世界像。

 たしか、ラマナ・マハラシは「私は誰か」と問えといっていた気がするが、「わたしはいない」ことを知ることが大切だったわけだ。「自分」を自分の中に探していっても、どこにも自分は見当たらない。

 他人から見た印象や自分から見た印象があるかもしれないが、それも観念や記憶という実在しないものだ。自分のなかには身体感覚があるかもしれないが、それも実体のあるものではない感覚だ。われわれはじつに実在の怪しいものを基盤にしている。

 そして、この世界が幻想であり、実在しないというメッセージもとても大事だと思う。

「基本的には、悟りはたった一つのことを意味しています。現実に見えたことが、実は非現実であるという当然の理解です。そのときあなたは非現実を現実として経験します。突然の超越の感覚、超越のヴィジョンがあるのです。すべては夢であるということが、もはや観念ではないのです。それは現実になります。仮に肉親の死別があったとします。その死別に対する肉体精神機構の反応がありまるが、深いところで、その死別もまた夢であるという理解があります」



 バルセカールはさまざまな箇所で、この現実と思われているものは夢であるといっているのだが、わたしに理解では、言語や想像で捉える現実はそれ自体ではなくて、実在しないものであるということであると思う。わたしたちが認識するものはすべて実在するものではない。

 わたしたちは認識したもの、思い描いたものを、現実にあるものと思い込む機構に囚われている。想像したものは、実在はしない。だけど思い描くことは現実にあるかのように思われてしまう。人間の認識や想像力というのは、そういうものである。覚者はこの認識の誤りをいっているのだと思う。

 バルセカールは、時間も空間も観念にすぎないといっている。わたしたちは時間も空間も実在するものと思っているのが、そこから人間の認識の誤り、実在しないものを実在するものと思い込むカンチガイははじまるのではないだろうか。

 「明け渡し」という言葉もひさびさに聞いた。人は悟りを努力やほしいものとして求めると遠ざかる。意志という個人を創作させるものを立ち上げてしまうからだろうか。まだ個人という幻想は消えていないのだ。

 神秘思想や宗教を読んでいると、ますますたんに人間の認識の誤りについて指摘しているだけに思えてくる。人はドクサの認識をつくってしまうのだ。

 個人があり、わたしがおり、そこから立ち上げられ、紐づけられる言葉と観念の世界。そしてそこには、なにひとつ実在も実体もない。「意識は語る」という題は、唯心論を語っているように思うが、それにさえ実体はない。

 この世界は瞬間ごとになくなってゆく。生命がこの世界を捉えるために、時間に抗して記憶で知覚をつくったことによって、その世界を実在すると思ったのではないだろうか。世界は瞬間に変化する。記憶をもとに知覚されたこの世界はなんだろう。

 おまけに人は言葉や観念、想像で世界をたちあげ、それも実在するものとカンチガイする。その最たるものが、わたしや個人の観念で、この個人概念が強力にこの幻想世界に絡みとる。

 ん? バルセカールは自分はいないと無我を説くのだが、師匠のマハラジは「私は在る」と説いていたな。マハラジの言葉をよく理解していなくて。


誰がかまうもんか?! ―ラメッシ・バルセカールのユニークな教え―人生を心から楽しむ―罪悪感からの解放アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話あるがままに―ラマナ・マハルシの教え最初で最後の自由(覚醒ブックス)


08 06
2017

幻想現実論再読

思い出は賛美すべきものか、否定すべきものか

 恋愛映画などでは、思い出は失ってはならない大切なものと訴えられるのがふつうである。恋人は思い出の共有がいくつも積み重ねられて、より深い絆に育ってゆくといわれる。

 思い出の共有ができない悲恋ものとして、『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』という物語があるのだが、思い出を共有できないが、この瞬間だけの出会いを大切にするといったニューエイジ的メッセージも見受けるようになった。

 過去は変えられない、だけど変えたいという願いはタイムリープの物語としていくつもつくられてきたのだが、日本の伝統文化は、禅のこの瞬間を大切にする教えを中心に広がっており、それは武道や茶道、弓道などでも実践されてきた歴史がある。

 記憶にこだわることは、速やかな、なめらかな行動や実践において、意識をとどこおらせ、停留させる阻害物として考えられてきた。日本の伝統文化は、記憶を障害として排斥してきた流れがあったのである。

 戦後の社会は、過去の後悔や過去のやり直しをたえず願ってきた社会である。過去の後悔こそが自分のアイデンティティだといった様相を見せるほど、過去のメランコリーに深くのめりこんできた印象がある。過去の後悔や憂いこそが、人生をまた深く思い入れの強い、味わい深いものとして感じさせてきた。

 アメリカのカウンターカルチャーや禅・東洋宗教の流入により、過去を排斥して、いま・この瞬間だけを大切にするといったニューエイジの流れも、ちまたにはよく聞くようになった。マインドフルネスのムーヴメントはもちろん、いまこの瞬間を大切にする運動である。

 思い出と過去の排斥はどのように共存しているのだろうか。どちらかがバランスを崩して、一方的に席巻することはあるのだろうか。

 ニューエイジや神秘思想の考えでは、過去は実在しない、すでになくなった、どこにもないものである。過去はこの瞬間も奈落の底に消えてゆくものである。したがって、過去や思い出にひたることは、もうすでに存在しなくなった幻想や幻を愛惜することである。そういった実在しないものを否定するのが、ニューエイジや神秘思想の考えである。

 過去はこの地球上から消え去ってしまった。思い出を愛するということは、もうまったく実在しなくなった記憶や心象にしがみつくことである。それはマボロシや幻影を追いかけ、失った苦しみや悲しみを生み出すものである。ニューエイジは過去の郷愁を許さないのである。

 なによりも、時間がこの瞬間も奈落の底にすべり落ちているとしたら、過去を思い出すことは、実在しないものをあたかも現実にあるかのような錯覚や過ちに陥ることである。

 そして、神秘思想というのは、このような実在しない心象や思考を削ぎ落としてゆく実践のことである。われわれの日常意識は、過去をひんぱんに思い出し、思考することによって、存在しない夢を見ている同じ状態だと、神秘思想家は語ってきたのである。

 過去の思い出を大切にするということは、実在しない心象や記憶を大切にするということであり、存在しないものと現実にあるものの区別を失うことである。

 過去の存在しなくなった記憶や心象をいつまでもくりかえし見るということは、夢見ている状態となんら変わりはないのではないか。わたしたちは過去や思い出を大切にするということは、現実と実在しないものの区別を失うことである

 思い出主義というのは、存在しなくなったものをあたかも現実のように悲しみ、憂えるものである。わたしたちはそういった存在しないものの悲しみや憂いによりとり憑かれてきたのではないのか。

 過去はどこにも実在しない、存在しないものといった見解が、ちまたで語られることは少ない。思い出主義は、そういった存在しなくなったものの悲しみや憂いにいつまでもとり憑かれることではないのか。

 過去の記憶や思考といったものは、より実在性のある実体のものであるという捉え方が、広がっている。

 記憶や思考がどこにも実在しない幻影のようなものであるという理解が、世間にはない。そのことによって過去や思考はより実体性のあるものとして、わたしたちを苦しめている。

 わたしたちは、思考や心象といったものを、存在しないものとは思わずに、リアルに実在するものという思いに疑いをさしはさむことはない。おかげで、われわれは過去や思いといったものを実在するもの、動かしがたい現実だとして、われわれにのしかかっている。

 恐怖症や神経症といったものは、実在しない思考や感情を現実に厳然とあると思い込む素朴な認識の常識によって起こっている。

 恐怖や感情は、実体ある物体のような存在になっている。それが幻影や頭の中の心象であったり、感覚であるという事実に気づかなくなっている。そのことによって、よりリアルな恐怖や感情は自分から離れられないものになった。

 神経症の療法としてもちいられる森田療法は、不安があっても行動するといったあるがままの状態を実践することをすすめるのだが、いまいちその感覚がわかりづらいのは、感情や不安といったものが実在しないものだという理解をもたないからではないだろうか。

 感情や心象をリアルに実在するものと思い込むと、物体のように力づくで動かそうとしてしまう。感情というのは存在しないものを起因にして体に発生するもので、それをむりやり止めようとすることは、またべつの系統から感情を力づくで動かそうとする作用を働かせ、神経の亢進を生み出してしまう。

 感情というのはしぜんに収まり、ピークを越えてしぜんに収斂してゆくものであるという理解より先に、その感情を止めようとして、より激昂した感情世界を亢進させてしまう。

 感情や心象を実体化したことによる、認識の誤りに陥っているのである。

 うつ病だって、思考や感情の実体視という過ちに気づかないために、どこまでも感情の波に呑みこまれることではないのか。

 わたしたちは、存在するものと存在しないものの区別をできていないのである。存在しないものをどうにかしようとして、べつの方面から力を入れてしまい、わたしたちはその感情のフィールドに囚われるのである。

 思い出主義は、存在しないものの実体視や現実化をともなうものである。それが導くものは、実在しないものに対する実在視をもたらし、われわれにする必要もない苦悩をつけ加えている。

 わたしたちは、最初の一歩でつまづいてしまっているのに、その過ちに気づかない。

 思い出主義というのは、実在と非実在の分岐点につながる最初のレールではないのか。過去というもう存在しなくなったものを、あたかも現実にあるかのように郷愁するということは、非在の世界にふらふらとさまよい出してしまうことである。

 われわれはちっとも、それが存在しないもの、記憶や心象だといった存在であることをすっかり忘れてしまう。分岐点のレールですべり出したわたしたちは、実在するものをなにひとつつかまないままに、その世界を走り出していってしまうのではないだろうか。

 思い出は、幽霊や亡霊、サンタや妖怪が実在する世界と同様のものである。存在しないもの、存在するものの区別がつけられない幻影や幻想の世界である。

 思い出を大切にするといった第一歩は、最初から実在しないレールの分岐点に乗りこんでしまうことではないだろうか。



こころの達人―生きる意味を問い、語りかける達人たちのメッセージ (NHKライブラリー)リチャード・カールソンの楽天主義セラピーぼくは明日、昨日のきみとデートする (宝島社文庫)日本の弓術 (岩波文庫)神経質の本態と療法―森田療法を理解する必読の原典


08 05
2017

幻想現実論再読

「大乗起信論」のナゾ――『意識の形而上学』 井筒 俊彦

4122039029東洋哲学覚書 意識の形而上学
―『大乗起信論』の哲学 (中公文庫)

井筒 俊彦
中公文庫 2001-09-01

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 『大乗起信論』というのは、とてつもなくナゾを掻きたてる言明をしている。

「一切の現象はみな心からおこるもの、すなわち心が妄りにはたらくことから生ずるものである。したがって、すべての判断というのは、自分の心を自分で判断しているにすぎない。もし、自分の心が自分の心を見ることをやめれば、そこにはいかなる相のとらえられるものとてないからである。
…世間の一切の認識対象は、すべてこれ衆生の根本的無知にもとづく妄心のはたらきによって現象しているのである。それ故、一切の現象は、鏡の中に現れる影像と同じく何ら実体のあるものではなく、ただ心が現し出しているだけで虚妄である。何となれば、心がはたらきをおこすと種々の現象が生じ、心がはたらきを止めれば、種々の現象もまた消滅するからである」



 心が消滅することはありえるのだろうか。外界の対象が消滅することはありえるのだろうか。

 知覚の対象をいっているのか、それとも言語や概念の対象が消滅するといっているのか、虚妄世界の宣言をたからかに歌った『大乗起信論』はナゾの書物でありつづける。

 その『大乗起信論』を井筒俊彦が読み解いたのが本書である。

 井筒俊彦は、イスラーム学者や神秘主義者でありながら、正当な学問として認められた大家と評価されているようである。

 私的には繊細な世界をここまで言語化できる学者はいないだろうと思っているが、そもそも神秘主義者で、アカデミズムに認められている人はそういないだろう。

 西田幾多郎などの禅の西洋哲学解釈の学派がいないわけではないが、題材を世界の神秘思想に求めたり、緻密な言語化能力を駆使した学者はほかにいないだろう。鈴木大拙のような海外に活躍の場をもった学者である。

 本書は、残念ながらあまり感銘を受けたわけでも、おもしろいと思えたわけでもない。

 『大乗起信論』を図式的に理解しようとした試みに思えるが、悟りや真如の世界をめざそうとする立場に思えないことが、必要性を感じさせないのだろうか。

 言語のない一体の世界、言語の網がかけられた世界を円形であらわしてみたり、アラヤ識が肯定か否定かさぐられていたりする。人はどうやって一如の世界から汚れてゆくのかといったメカニズムもうきぼりにしようとする。

 でもこの書の意図が、悟りや開明に近づけることを目的にしているようには思えない。ずっと言葉の世界に立ち上がることではないのか。文句いう以前に解読の忍耐もキツイのだけどね。

 170ページほどのさらりと読めてしまう本で、ちょっと満足しなかったので、井筒俊彦の著作はまだまだ読みたいと思う。繊細な言語化で、ここまで神秘思想を語った学者はいないと思うからだ。それに日本的な仏教的言語よりか、西洋概念的な言語でそれを理解したい気もちが強い。

 ただ、利用図書館の全集が貸し出し禁止になっていて、思う存分に井筒俊彦の世界にひたれないのが残念。


大乗起信論 (岩波文庫)『大乗起信論』を読む瞑想の心理学―大乗起信論の理論と実践神秘哲学―ギリシアの部アラビア哲学―回教哲学

08 04
2017

幻想現実論再読

論証学ムリ――『夢幻論』 重久 俊夫

4895141799夢幻論
―永遠と無常の哲学

重久 俊夫
中央公論事業出版 2002-05

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 仏教のこの世界は幻想かというテーマを探究しているから興味をひかれた本だが、論証学の本だから、わたしの苦手とするジャンルであってもどかしい。

 著者は在野の研究者なのか、高校の教師とかの情報があった。大森壮蔵や西田幾多郎にインスパイアされた人のようだ。

 論証学は、わたしはほんとうに理解しがたく、事実についてのべようとするのでなく、思想間の議論の違いとかをえいえんと議論するので、わたしはこの方面の理解力がかなり足りない。ナーガールジュナもとりあげられているが、内容は似ている。

 ということで、この本についてほぼのべることはない。

 経典の引用がいちばん気になった。これ、すべてを語りつくしているのではないかと思えたほどだ。

 一世紀の『フリダヤ・スートラ』という経典と書かれてあったが、『般若心経』のことですね。気づくまで似ているけど、こっちのほうがわかりやすと思ったが、『般若心経』であると気づくまでの時間が恥ずかしい。

もしも、思いをこらしてこの世界を見きわめることができたならば、
知がきわまり、虚妄の奥が開かれる時、
私は知るだろう。
この世界が形ある存在のままで同時に、
どこまでも透きとおった幻であったということを。
その時、よろこびも憂いも、もはや実体としてあることをやめるだろう。
求道者たちよ。
去来する一切の現象は、全て不生不滅の永遠の幻想なのだ。
不生不滅の永遠の幻想という形でそれらは存在しているのだ。
物も心も、何もかもがそうなのである。
求道者たちよ。
全て存在するものは幻想であって、
新たに生じることもなく消滅することもない。
形ある存在でありながらどこまでも透明であり、増えることも減ることもない。
このゆえに、夢幻の世界にあっては、
物はそこに存在していながらどこにも無い。
意識も、意志も、感覚も、そこに存在していながらどこにも無い。
視覚も、聴覚も、嗅覚も、味覚も、触覚もなく、
見るものも、聞くものも、味わうものも、香るものも、触れるものも無い。
世界もなく、意識も無い。
無知の闇も無く、無知の闇がなくなることも無い。
老死も無く、老死が尽きてなくなることも無い。
解脱への道のりも無く、知るものも得るものも無い。
実体として執着すべきものが何もないと分かる時、
虚妄を越えた知があらわになり、心にとらわれも無く、恐れも無くなるのだ。
虚妄を遠く離れた知によって真相を達観し、私は夢幻の世界に自らを憩わせる。
そして無限の知にいだかれて、
私は憂いを越えた世界に到達したことを悟るだろう」



 この世界は実体がなく、すべて幻想である。言語や観念がつくりだした世界を実体あるものとわれわれは見なしているし、知覚世界も生物が外界を知覚するための模造や創出された絵にすぎないのだ。そこに言語の網の目がかぶされて、われわれは実体のない世界を現実のものとして暮らしている。そういうことではないだろうか。 

 この知覚世界の確実性を、われわれは疑い得にくいわけだが、この世界の基盤である身体感覚すら、感覚という実体なきものを基盤としているので、われわれの世界というのは、じつに怪しいものではないだろうか。

 もうひとつ引用したい文章。補注が『ガンダビューハ・スートラ』とサンスクリット語だったので気づかなかったが、『華厳経』である。これは華厳経そのものだなとは思ったのだけど。

「小宇宙は同時に大宇宙であり、大宇宙は同時に小宇宙である。
広大無辺の世界はすなわち一点の世界であり、一点の世界はすなわち広大無辺の世界である。
一の世界は無限の世界にほかならず、無限の世界は一の世界にほかならない。
すなわち、夢幻の世界は一なる世界に含まれ、一なる世界は無限の世界に含まれている。
不浄の世界は同時に清浄の世界であり、清浄の世界は同時に不浄の世界である。
一つの毛穴の中には一切の世界があり、一切の世界の中には一つの毛穴の本質がある。
ただ一瞬の世界からすべての世界は生み出され、
それらすべては、まるで虚空のように透きとおって存在しているのだ」



 これはこの世界のことをいっているように思うが、言語がなければ区切りや境界がなく、境界がないものは大であり小であるという言語の無効を説いているのだと思う。境界がなければ、すべて同じである。

 いや、ただ言語のまえに知覚・物質世界の境界や輪郭、形があるわけで、そういう認識には違和感がある。この分離された物体の世界は、言語によって生み出さるのではなく、知覚によって与えらえるものではないのか。このへんがまだよく呑みこめない。

 この論証学の本も、驚くほど言語についての懐疑や不信がなくて、存在していないものを実在に見せかける言語という道具に対する警戒や不信がないのである。

 言語はひとつのマヤカシの世界をつくりだし、それが現実にあり、地図にすぎないものを現実のものと見なす作用がある。わたしたちが想像したり、思い描く世界は、対象そのものではなく、描かれた像にすぎないということを、おうおうに人は忘れてワナにはまるのである。

 言語の世界は、実在しないし、存在しないし、どこにも実体あるものとして存在しているわけではない。過去も奈落の底のようになくなる。言語と過去は、存在していないものとして共通しているのだが、それが想起や思考されたとたん、現実に存在するものとして、われわれは認識してしまう。その過ちのワナに、たやすくわれわれはすくわれてしまうのである。


時間幻想―西田哲学からの出発世界史解読―一つの進化論的考察夢幻・功利主義・情報進化般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)現代意訳 華厳経 新装版

07 30
2017

幻想現実論再読

神秘思想がなぜわからないのかのクソ・サンプル――『無の比較思想』 新形信和

4623028496無の比較思想
―ノーヴァリス、ヘーゲル、ハイデガーから西田へ

新形 信和
ミネルヴァ書房 1998-02

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 いっていることがぜんぜんわからないと読む進めてゆき、さいごのほうにはなぜこの書はこんなにわからないのかという読み方しかできなくなった本である。

 ノーヴァリスのさいしょの章で、神秘体験に近づきそうなのだけど、その経過ばかりをひたすら記述して退屈の極みに達したうえに、ヘーゲルやハイデガーは、わたしの西洋哲学の読解能力のなさも加わって、よけいにわからなく、クソ本だとしか思えなくなっていった。

 最終章の西田幾多郎の章で、どうやらこれは神秘思想を言葉やテキストのうえだけで論証しようとした過ちにおちいっているのではないかと気づいた。

 この人は実体験抜きで、神秘思想を言葉と論理で理解しようとした人なんだと思えた。いわば、神秘思想を言葉だけで理解しようとした壮大な失敗をサンプルとして見せている本だなということである。

 この人は、言葉や思考という道具の欠陥をいちども考えたことがないのだと思う。言葉の実在性や虚構性にいちども懐疑をもったことがない人のようだ。だから、ひたすら言葉と論理で、語れないものとしての神秘思想を理解しようとして、虚妄の推測世界を立ち上げる。

 人がなぜ神秘思想を理解できないかのサンプルとしては、活用できる本である。言葉の実在性を疑ったことがなく、その虚妄性にいちども気づいたことがない人が、神秘思想に近づくと陥る論理展開のまちがいを記述したサンプル本ということになるだろう。

 言葉を否定することは、反知性や反理性の非合理主義だと、われわれの文明ではとうぜん考えられている。それゆえに思考と論理を手放したくない気持ちはわかる。

 だが、言葉は存在しないものを存在すると思わせ、虚構の非実在性に人間をずっと閉じ込めておく認識のワナである。神秘思想はそれに気づいて、その虚妄世界からの脱出口をしめす思想なのであって、けっして反知性や反理性をめざすわけではない。この根本的なことがわかっていないから、本書はどこまでも思考のロジックをもちいた神秘思想理解というラビリンスに向かってしまうのである。

 思考を捨てるというメソッドや、思考がつくりだす虚妄世界という根本的な一点をつかまないばかりに、神秘思想にぜんぜんたどりつけないひどいサンプルになってしまった悪例である。

 言葉や思考こそがゆいいつの真理を知るための完璧な道具と信じているかぎり、言葉を捨てようとした神秘思想はぜったいに理解できることはないだろう。ただただ、言葉や思考にどんな欠陥があるかの知識がないばかりに、永遠に理解にとどかない地点にとどまってしまうのである。

 西洋哲学というのは、言葉と思考に無条件の信頼と完璧性をもとめる知的態度をもつ。言葉や思考を捨てることは、野蛮や反理性であり、ケモノレベルである。

 言葉がどんな弊害や悪弊があるかの懐疑をぜんぜん抱かないで成立している知識なのである。

 その一線を分けるのは、言葉の実在性を信じるか、信じないかの境界だと思う。西洋哲学は、オバケやサンタの実在を疑ったことがないような、言葉の実在性をちっとも疑わない知性のうえに成立している。

 というわけで、いちばん神秘思想に語ってはならない人が、初歩的なまちがいに気づかないままに、思考と言葉で神秘思想を語ろうとしたクソ・サンプルを読まされたということになる。

 ネットでは著者に対する批評はまるで書かれていないのだが、禅や神秘思想を理解する人はわたしの見解に賛同してくれるだろうか。


▼神秘思想を理解するためにはまずは言葉の実在性を疑ってみましょう。
どう生きるか、自分の人生!―今日を後悔しない生き方 ダイアー博士の「生活哲学」 (知的生きかた文庫)リチャード・カールソンの楽天主義セラピー愛とは、怖れを手ばなすこと (サンマーク文庫 E- 45)言語が違えば、世界も違って見えるわけ意識のスペクトル〈1〉意識の進化 (1985年)


07 28
2017

幻想現実論再読

知の固定化にドロップキック――『禅仏教の哲学に向けて』 井筒 俊彦

4906791247禅仏教の哲学に向けて
井筒 俊彦
野平 宗弘訳
ぷねうま舎 2014-01-23

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 井筒俊彦は、言語化の極みに達した人である。よくぞここまで言語化できたと繊細なひだの区分け能力に驚かされる。

 図書館では全集のほかの著作を読みたかったのだが、貸出禁止だったので、イスラーム哲学の井筒氏が禅をどう語っているのか知りたくて読んでみた。

 しかし井筒氏は、父が禅の実践者だったために子どものころから教えられていたそうだ。言語化の深みは、言語学者として出発したゆえんもあるのだろう。

 ひさびさに禅の本を読むと、いかに自分も知の固定化や局限化に凝り固まっていたか、思い知らされる。後ろからドロップキックを喰らったようなもので、固定化されて自信につながりそうな知識が、ぼろぼろとつき崩される。

 基本的に、神秘思想は人間は幻想や認識をあやまって捉えているというなら、なぜそのような過ちを犯すのか、どういうふうに間違っているのか、心理学的に、認知的に詳細に記述するほうがわかりやすいと思う。

 こういう説明なら理解が深まると思うのだが、井筒氏は専門化しすぎていて、一般の読者に届くようにやさしくいいかえるような工夫はまるでしていないようだ。神秘思想というのは、心理セラピーとして一般の人にいちばん届くべき知識であると思うのだが。

 禅は、この世界はすべて自分の心だといった唯心論的立場をいっているように思うときもあり、その知識に慢心すると、うしろから飛び蹴りを喰らう。

 

「動いているのは風ではない。旗が動いているのでもない。尊敬する同胞よ、実際にはためているのはあなた方の心だ!」



 

「雨はお前の眼に落ちている! お前の鼻に浸みている!」



 これは唯心論的・唯識論的な心をいっているに違いない。だけど、こうもいわれる。

 

「…唐突に地蔵禅師が、庭の石を指さしながら法眼に言った、「私はお前が、全世界は単一の心であるという教義を信奉していると分かっている。では、この石は心の内側にあるのか、それとも外側にあるのか?」 法眼は答えた、「もちろん
心の中です」。すると、地蔵は述べた、「なんと邪魔な心の中に持っていることか! 何の因果で、心の中にそんな重い石を持ち歩かなければならないのだ?」



 知識は理解しないとそこにはいけない。しかしそこにいくとその知識すらも虚構の実体なきものとして棄て去らなければならない。固定した知識の信奉こそが、禅が跳ね飛ばそうとするものである。

 通常は、言葉による知識をたくわえること、いつまでも覚えていることを賢明とするのだが、禅においては、それが実在を遠ざける障壁として喝破される。ひさしぶりに禅を読むと、この慢心に蹴りを入れられて、忘れていた衝撃を喰らう。

「人はまず、「自分の自我主体を忘れること」を学び、自身を完全に水へと吸収させなければならない。その時、人は流れる川として流れるようになるだろう。そこには、もはやいかなる自我の意識もないだろう。また、いかなる水「の意識」もないだろう。それは、人が水になり、水として流れる事態でさえないのである。なぜなら、そのような次元では、何かになるために実在する自我はないからである。ただ単に、水が流れ続けている。それ以上でも以下でもないのだ」



 人の意識というのは、焦点化やフォーカスの特徴をもっている。たとえば、怒りや悲しみに同一化してしまうと、それ自体、それのみとなり、世界はそこから見られるものになる。だから感情自身にならないために、その起因となる思考の脱同一化が、瞑想でめざされる。

 わたしたちが夢中になったり、対象に没入しているときは、我を忘れている。

 この我を忘れた状態は悟りの状態といえるのか、それとも狭隘化の悪弊といえるのか、混乱する。

 禅や神秘思想は、頭や言語で観念してつくりだす世界の、虚妄性や非実在性を悟らせようとする知識である。わたしたちは言語や頭でつくった世界を現実にあるものと思って暮らしている。その誤りを悟らせようとする知識である。

 そしてそれに気づくのが、身近にありながら、気づくのがとてもむずかしいものになっている。宗教にしても神という存在を創作してしまって、その知識を実在のものと思い込むベールが囲んでいる。

 非実在のワナに気づいても、またしてもその知識の固定化によって、また虚妄と非実在のワナにかかる。言語とはまことに巧妙なベールである。

 禅は、知識をたくわえた慢心に、後ろからの飛び蹴りを喰らわすのである。


東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 (中公文庫)井筒俊彦: 言語の根源と哲学の発生 (KAWADE道の手帖)井筒俊彦―叡知の哲学神秘哲学―ギリシアの部意味の深みへ 一九八三年 ― 一九八五年 (井筒俊彦全集 第八巻)


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