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12 24
2017

幻想現実論再読

言語フィクションの創出――『ニューエイジについてのキリスト教的考察』 カトリック中央協議会

4877501290ニューエイジについてのキリスト教的考察
教皇庁文化評議会/教皇庁諸宗教対話評議会
カトリック中央協議会 2007-04-21

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 カトリック教会による冷静で、客観的なニューエイジについての分析と対応策を考えた150ページほどの小冊子である。

 ニューエイジについてのある程度の批判的見解を読みたかったから手にとったといえるのだけど、冷静な分析のほうが大きかった。

 ニューエイジは自己実現が、東洋宗教や神秘思想と結びつき、キリスト教のような人格神信仰や教団宗教と対立するかたちで、個人主義をめざし、疎外からの融合を説いた運動だといえる。既成宗教のようにはなりたがらず、宗教ともいいがたく、運動も拡散的である。

 人格神や父権宗教に対立するかたちで、無や大海との一体を説き、境界や断絶、二元論といったものからの宇宙的融合を語り、既成宗教の信者の地盤を奪っている。カトリック教会の危機感も感じられるのだが、ニューエイジ的な教えを説く教会もあらわれ、教会のほうも異端宣告のような断罪をおこなおうとはしていないようだ。

 わたし自身も現代の多くの人と同じように科学的な教育をうけてきて、とうぜんに人格神なんて信じることがどうやって可能なのかと思うくらいなのだが、認識の幻想性や唯心論のような見解に出会ううちに、ニューエイジの流れに乗っただけで、神や霊魂といった存在はずっとエクスキューズした場所においている。

 究極的に神秘思想というのは、言語でつくる仮想世界の夢を醒めさせるだけの教義ではないのかと思うのだけど、その思想がフィクションをどんどん利用するかたちをとったのが宗教ではないかと思ったりもしている。

 言語がなければ時間もなく、苦悩もない。過去や未来に端を発した苦悩がないゆえに、その至福の状態を神といったのではないかとさえ思っている。ほんらい宗教は言語的なフィクションの省いた先に、苦悩のない世界を夢見たのだが、言語や思考を人の頭からとり去るのは難しく、フィクションの創出が宗教の座を乗っ取ったのではないかとさえ思う。

 わたしがニューエイジにふれるのは、じつに限定されたかたちだけであって、言語や心象が創り出すフィクションの幻影を暴くといったもくろみが、その主要な関心である。だからなにかフィクションめいたものに出会うときはひじょうに警戒している、というかスルーしている。わたしは宗教から、フィクションの創造をとり除いたすがたを見ようとしているのである。

 スピリチュアルや心霊主義とかいわれたりするのだが、じつは言語的創造力を省いたものこそが、核心ではないのではないかと、わたしは思っている。まあ、といっても人の頭の中は言語的構築力の構造にすっかりとりこまれていて、ひきはがすなんて容易ではないと思うのだけどね。

 人は言語で世界を説明しようとすると、たちまちその存在は実在のものととり違えられる。ニューエイジはその構造と無縁ではないし、宗教はそのはなはだしき実在化と崇拝化の流れに呑みこまれてきたのではないだろうか。

 その言語の根源に注意を向けない限り、ニューエイジも言語フィクションの創出と実在化をまぬがれ得ないと思っている。


ニューエイジの歴史と現在―地上の楽園を求めて (角川選書)ニューエイジムーブメントの危険世界の見方が変わるニュー・エイジの600冊―100のキーワードで21世紀を映しだす知のブック・カタログ (TAKARAJIMA SPIRITUAL BOOKS)ニューエイジ・ブック―新しい時代を読みとる42のニュー・パラダイム


12 23
2017

幻想現実論再読

仏教の相対化――『インド哲学 七つの難問』 宮元 啓一

4062582554インド哲学 七つの難問
(講談社選書メチエ)

宮元 啓一
講談社 2002-11-08

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 インド哲学の流れにおけば、仏教も神秘思想もひとつの学派にすぎないとわかって、それを絶対の教義や世界観と思っている人には、真理の支柱が蹴とばされているように感じるかもしれない。

 魅力的な問いがいくつかとりあげられていて、「ことばには世界を創る力があるのか?」という問いはまさにわたしも考えたかったこと。「無我説は成り立つか?」という問いもあり、「「有る」とは何か、「無い」とは何か?」という問いには唯名論や実在論の解釈が語られている。

 「ことばには世界を創る力があるのか?」という問いが本書ではなぜか戒律の話になっていて肩透かしされたのだが、ものごとの捉え方を言語がつくるという意味で限定されたことがらを、わたしは問いたいのであって、これはずいぶんと違うと思った。

 「無我説は成り立つか?」という問いでは、仏陀は輪廻を信じており、明治の日本でそんな迷信を信じるはずはないという説が流行ったそうだが、仏陀は輪廻説をとっていたといっている。

 著者は無我説には批判的であり、そんな論理はめちゃくちゃだ、だから後世になって無我を説いた大乗仏教は奇妙な論理展開をおこなわなければならなくなったと批判的である。ちょっとこの説にイラっときたのだが、わたしもこの無我説を前提に観念にしがみついているのだという自覚も生まれた。

 日本は仏教が大きく広がっていて、インド哲学の流れの中のひとつの学派、宗教としての仏教という見方をもちにくい。仏教の説いた真理も、インド哲学の中では相反する各学派と衝突する論理や見解を説いている。ひとつの学派であるという見方は、真理を揺るがせる。こういうインド哲学の流れの中において、仏教の相対化も必要だね。

 全体的にインド哲学は、各学派との論争のために、論理学や論証学の趣きを強くしすぎていて、そんな議論がムダや無益に思えることも多々、わたしにはあった。論証学というのが難解すぎて、自分には捉えにくいという面もあるのだけどね。禅みたいに、ひとっ飛びに、「喝だ!」と一喝するのもまた問題だろうけど。

 図書館でインド哲学の棚を見ても、インド哲学の古典のたぐいや原典はほぼ見あたらないのだが、これでは仏教の客観視というのはできないだろうなと思う。

 わたしたちに求められるのは、とうぜん仏教の相対化でしょうね。それが信仰ならとうぜんに相対化は難しいのでしょうけど。


はじめてのインド哲学 (講談社現代新書)インド思想史 (岩波文庫)インド哲学へのいざない ヴェーダとウパニシャッド (NHKライブラリー)インド哲学史インド哲学の教室―哲学することの試み (シリーズ・インド哲学への招待)


12 21
2017

幻想現実論再読

言葉という逃避――『秘教の心理学』 和尚 バグワン・シュリ・ラジニーシ

483970080X秘教の心理学
和尚 バグワン・シュリ・ラジニーシ
めるくまーる 1995-02-01

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 ラジニーシのグルや組織の批判を読んだあとにこの本を読んだのだが、ラジニーシはとてもいいことを話していて、わたしには行動や外面的なものはとにかく、思想にかんしては切って捨てられないと思う。

 七つの身体についての説明はフィクションめいているように思えたが、知識の欺瞞性の章は、銘記しておきたい箇所だ。

 言葉で知ることができる。思考の構成物を知ることができる。しかし、それは考えることではない。それは考えることからの逃避だという。

 言葉がないときに実在の中に入っていける、とラジニーシはいう。

 心はどこかほかのところに探しに行けば、深遠なにかが見つかるだろうという。いろいろな場所や教義を探しに出かける。だが、そんなものには騙されてはならないという。真理はすぐ近くにある。あなたの隣人だという。

 ラジニーシは固定的な教義には批判的だ。無意味だ。わたしは反哲学者だという。考える心、疑問をもつ心は知ることができない。師や教義を否定する教えを説ける人こそ、神秘家の信頼できる人だと思う。

 あなたの肉体は外側から与えられたし、思考も外側からやってくる。あなたの自己すら外側から与えられたものだ。あなたはこの外側に同化するのはまちがっていると、ラジニーシはいう。

 ラジニーシは禅の不立文字とおなじことを語っており、言語の仮想世界からの離脱の説明は、やっぱり禅の説明とは一味違ってわかりやすい。言語のなにもない空洞に入ってゆくところの真実はあるのではないだろうか。わたしたちはあまりにも言語の構造に呑みこまれている。


禅宣言究極の錬金術〈1〉古代の奥義書ウパニシャッドを語る究極の旅: OSHO 禅の十牛図を語るTAO 永遠の大河 1: OSHO老子を語る聖なる狂気―グルの現象学

12 18
2017

幻想現実論再読

言語フィクションのゼロ思想と、実在化の思想

 言語は実在しないフィクションの世界をつくりだすのだが、この世界をマーヤーや幻想として斥けようとしたのが、禅や仏教、神秘思想である。

 しかし、言語を斥けようとしてもあまりにも世界観に食い込んでいるために、たいがいの人にはそれがわからない。これを知らせようにも言語をつくらざるをえず、また言語フィクションの世界が無限に増築せざるをえず、またそれを実在化して信じる人が生まれることになる。

 なぜ言語フィクションの実在化の理解がこれほどまでに難しいかということ、言語や思考の活用こそが善であり、人類の栄誉や進化だと思われているからだろうか。

 人は、実在しないものであっても、言語にするとたちまちそれを実在しているものと見なす。映画やドラマのフィクションは、この世界のどこにも実在しないフィクションなのであるが、それを見るとたちまち現実にあるかのように泣いたり、笑ったりでき、あたかも現実の目の前にあるかのごとくに思えるようになる。このようあり方こそが、われわれの認識のあり方なのである。

 われわれは過去を思い出しては、悔恨や後悔にまみれる日々を送っているが、過去はもはやどこにも存在しなくなったものである。だけど、映画のフィクションと同様に存在しないそれに泣いたり、笑ったりできる。それが存在しないことを、もはや自覚することもなくなる。

 言語というのは、実在しない世界を構築して、その世界からいろんな角度のものの見方や洞察を重ねるものである。それが人間の知識の有効性や進歩性をかたちづくってきたのもたしかであるので、言語や思考の非実在性は省みられることがない。

 その言語フィクションの排斥や自覚をうながしてきたのが、仏教や神秘思想なのであって、苦悩や悲嘆は、その言語フィクションの実在しないものであるという究極のセラピーを説いた。

 けれども、言語フィクションの非実在性・ゼロはたいていの人には理解しがたいことなので、言語フィクションの創造に開き直ったのが、キリスト教の神や浄土宗のようなあの世の極楽・地獄はないだろうか。

 ほんらい宗教は言語フィクションの実在化をやめよといったゼロ思想を伝えてきたのではなかったのか。それが現在では、神というフィクションを信仰するから、科学信奉社会からは不信の目で見られている。

 科学社会や西洋世界というのは、言語フィクションの疑問やゼロ思想をもたない社会である。言語フィクションは善であり、進歩と思う社会である。それゆえに言語フィクションの苦悩の実在化に打ちのめされる。

 キリスト教は言語フィクションの実在化に開き直った宗教であると思う。神の実在を信じ、神に従うことを是とする宗教である。日本人の宗教観はこのキリスト教によってつちかわれたので、仏教の伝統が言語フィクションの抹消に励んできた思想であることを見ない。

 逆説的に言語フィクションの実在化を信じる立場が宗教と思われて、科学はそれに対立すると思われている。しかし、ほんらいは仏教や神秘思想は、言語フィクションの抹消・ゼロをめざしてきた思想である。科学は、言語フィクションの実在化をどんどん広げてゆく世界である。

 神のようなフィクションを信じるなんて理解できないと、われわれ科学社会は思うのだが、われわれの社会というものも、さまざまな言語フィクションを打ち立てる社会であって、宗教と同じようにフィクションの実在を信じる社会である。

 たとえば、わたしたちは国家や会社や学校があると思っている。しかしそれは「機能」や「約束」がわたしたちの社会に共有されているだけであって、建物の中に実在するわけではない。「機能」や「約束」が共有された実在しないものが、国家や会社や学校なのである。言語のフィクションはこのように、われわれの社会に現出させられる。

 これは神を信じる社会も、このような「機能」や「約束」に近いものと思われないだろうか。教会や寺社にあるのは、神が存在するという「約束」や「共有」があるだけではないだろうか。

 社会というのは言語でフィクションを打ち立てて、それがほんとうに実在するのかと疑問に思われることがあっても、その実在性を担保しつづける社会である。言葉で創造されたものは、よういに実在のレベルに引き上げられる。そうして、言語フィクションの実在に覆われる社会は、継続しつづける。

 言語フィクションによって創造されたものが実在すると見なすわれわれの認識は驚異的なものであって、言語でかたちづくられたものを容易に実在すると見なすようだ。言語は実在をどんどん浸食し、覆うのである。思考は実在化するのである。

 言語フィクションのゼロ化や抹消というのは、われわれには遠い道なのだろうか。


12 17
2017

幻想現実論再読

氷上の滑走路――『「実在」の形而上学』 斎藤 慶典

4000258273「実在」の形而上学
斎藤 慶典
岩波書店 2011-12-23

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 実在とはどういうものかということを問いたかったから、手にとったが、まったく意味も有益さもつかまえられない読書に終わった。

 語られるのは、ハイデガーやレヴィナス、パトチカ、西田幾多郎といった西洋思想家であり、奇怪な現象学的用語を駆使して煙にまかれる。ゆいいつ、わかりやすかったのは最終章の「時」についてだけ。

 現象学はまったくスケートリンクをすべっている気持ちになる。文章の滑りはいいのだが、つるつる滑るだけで、意味や内実に手が届かない。もうカンベンしてくれという感じになる。

 現象学的用語でイタイ目に会った人にはこの本も要注意です。竹田青嗣を読みましょう。

 わたしが実在について問いたいのは、小学生でもわかるような「実在すること・実在しないこと」のあいだをもっと明瞭化することである。

 たとえば、わたしたちは言葉でしゃべった対象をぼんやりと実在するものと素朴に見なしている。それが実在しているのか、と問われることはまずない。ことばって、実在するのか? ことばとはどのように実在するのか。

 わたしたちが目の前にいない人のことをしゃべっているとき、その人はどのように実在しているのか、わたしたちが話すことの実在とはほんとうにあるのか。ほかにニュースや事件を知ったり、話すとき、その事件はどのように実在しているのだろうか。わたしたちがニュースを話すとき、それは実在の対象そのものに届いているのか。わたしたちが言葉で思い描いているものは、たんに頭の中で想像した像にしかすぎないのではないのか。

 たとえば、わたしたちは過去をしょっちゅう思い出しては、後悔や悔恨や羞恥にまみれる日々を送っているのだが、いちどでもそれが実在しているのかと疑問に思ったことはあるだろうか。わたしたちが思い出しているのは過去の像であって、もう現実にはどこにも存在しなくなってしまったものである。なぜ、存在しなくなったものに、はげしく感情を揺さぶられるのか。それはもはやどこにも存在しなくなった心象や像にしかすぎないものではないのか。

 そういってしまえば、わたしたちの心も、思考も、頭で考え、思うこと、感情といったものも、実在が疑わしいことに見えてくる。心や心象といったものは、どのように実在しているのか。心象の対象というのは、頭の外に存在しているのか、頭の中だけとしたら、その像は実在しているといえるのか。

 わたしたちがあたりまえに「ある」と思っている心の思いや思考というのは、じつにその実在が危ういものである。そのはかなさやあやうさを思うときに、わたしたちがふだん抱く思いや気持ちといったものの「実在性」は、霧や煙のように消えてゆくかのようだ。

 喜びや楽しみも消えていってしまうかもしれないが、苦悩や悲嘆といった苦しみも、それによって消えてゆくのだ。これを究極のセラピーや癒しとよんでいいのではないだろうか。

 実在の明瞭化でめざしたいのは、このようなことである。

 著者がいう形而上学や現象学には、このような考えにヒントを与えてくれる考察はなかった。



時間の非実在性 (講談社学術文庫)改訂版 なぜ意識は実在しないのか (岩波現代文庫)なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)意識は実在しない 心・知覚・自由 (講談社選書メチエ)実在とは何か? (別冊日経サイエンス 186)


12 15
2017

幻想現実論再読

醜悪なグル列伝――『聖なる狂気』 ゲオルグ・フォイアスティン

4393291417聖なる狂気―グルの現象学
ゲオルグ・フォイアスティン
Georg Feuerstein
春秋社 1999-06

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 ケン・ウィルバーやクリシュナムルティを出している春秋社から出ているから、トランスパーソナル心理学の範疇の本だろうか。

 アメリカでは90年に出されていて、日本では99年に出されているから、95年のオウム事件は言及されていない。

 悟りや霊的修行における醜悪で極悪なグルの顔をさまざまに見せる本で、それは自我や社会的道徳を剥ごうとするのだからとうぜんにグルからそのような仕打ちをうけるのであり、またグルのエゴの拡大とそれが区別できないこともあいまって、弟子の境遇や人権はさんざんな目に会う危険にさらされやすい。

 グルジェフは人間は機械であり、社会的に刷り込まれた反応を反射しているに過ぎない存在だといったのだが、だからその機械をショック的な仕打ちによって壊そうとする。エゴをあけ放ち、無我をめざすのだから、ときにはグルのエゴや強欲と重なって、弟子はひどい状況におかれるかもしれない。

 日本の無我が、戦争時の全体主義に利用された歴史は、とうぜんに警戒しておかなければならない出来事である。

 自分で無我を悟ってゆく過程と、人からむりやり自我やエゴを奪われる過程は、あまりにも違いすぎる。しかしグルという導き手を必要としてきたこの界隈は、危険で醜悪な世界も生み出してきたのである。

 だいたいはインドやチベット、日本の伝統宗教の事例や、現代ではグルジェフ、クロウリー、ラジニーシ、チョギャム・トゥンルパ、ロゾウィック、といった人たちの醜悪で極悪な指導方法やエゴと区別のつかない過酷な方法がのべられている。

 一章をさかれて描かれるグルは、ダー・ラヴ=アーナンダという人で、日本ではあまり知られておらず、グルジェフのような人は適役ではなかったのだろうか。

 どうやったら犯罪者と、正当な聖者と区別できるのだろうか。

 この本ではラジニーシは悟っていないまがい物といわれており、クリシュナムルティには犯罪者とまでいわれる文章が引用されている。わたしはラジニーシは深いところまで洞察した人と思っていたのだが、アメリカでの組織的犯罪にまでいたった経緯には目をつぶっているとしかいいようがない。

 わたしはエゴの破壊より、認識の幻想性とか、虚構性という方面から理解をつむいできた者であり、また読書と瞑想のみを体験してきた者なので、グルや師匠との関係がどのようなものかわからない。そのような意味で、この本はひっ迫性を感じさせるものではなかったが。基本的に人に教えられるのはニガテで、自分のペースと読書の独学をなにより好むタイプであるからして。

 スピリュチュアルや神秘思想が語ったことは、エゴや自我のあり方が問題であるというよりか、言語や心象といったものを実在すると見なす素朴なドクサ自体が、人間のひじょうに大きなつまずきであると、わたしは認識している。この認識の過ちを知ることは言語でもおこなえるのであって、醜悪なグルがむりやり自我をあけ放たせようとせずにできることではないのかと、わたしは思うのだが。

 どうも一般に信じられている神とか、グルであるとか、機械的な社会反応に従事させるシステムを存続させたいだけではないのかと思いたくなる。

「神、すなわち究極の実在は、素朴な人々が抱きがちなイメージとは全然ちがうということをはっきりさせるために、エックハルトはしばしば神をまったくの無として語った。しかし、大乗仏教の「空」を思わせるこの説は、一三二九年に教皇ヨハネ二二生によって異端宣告を下された」





ラジニーシ・堕ちた神(グル)―多国籍新宗教のバビロン自我と無我―「個と集団」の成熟した関係 (PHP新書)OSHO:アメリカへの道―砂漠の実験都市・ラジニーシプーラムの誕生と崩壊の真相霊と金―スピリチュアル・ビジネスの構造 (新潮新書)<スピリチュアル>はなぜ流行るのか (PHP新書)


12 08
2017

幻想現実論再読

神に隠されたもの――『シレジウス瞑想詩集』 アンゲルス・シレジウス

4003381912シレジウス瞑想詩集〈上〉
(岩波文庫)

A. シレジウス Angelus Silesius
岩波書店 1992-03-16

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4003381920シレジウス瞑想詩集〈下〉
(岩波文庫)

A. シレジウス Angelus Silesius
岩波書店 1992-03-16

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 岩波文庫以外に評論をあまり見かけない中世の神秘主義詩人なのであるが、象徴や暗喩に富んだ詩は、世界共通の神秘思想家とおなじことを語っており、ひじょうにすぐれた神秘家であると思う。

 なにより、やさしく読みやすい二行詩だから、すいすい入ってくる。だけど、解釈や受容は、その人の段階におうじて理解できるものが変わってくると思う。さいしょはわからないものが大半だとしても、神秘思想になじむにつれて、ほかの人も語っていた同じ象徴を読みこめるようになる。

 このキリスト教神秘主義者に、禅者やインドのブラフマン、老荘のタオを読めるようになる。

 キリスト教は人格神のイメージが強いのだが、シレジウスでは神は状況や状態といったひとつの場をあらわすように思える。神はあなたであるという表現も見られ、これは神秘家の語ることと共通である。

 シレジウスを読めば、神というのは至福の状態を擬人化したものだという感が強くなる。

 人格神を創作としか思えないわたしでも、神をそのような象徴や暗喩として読み込む解釈をしている。けっきょく、神というのは言葉でつくられた苦悩や現実といったものがない沈黙の状態が至福であるがゆえに、そう名づけられると思える。

「神は純粋な無である。いついかなるところでも神に触れることはできない。神をとらえようとすればするほど、神はあなたから遠ざかる」



 言語で捉えたところを離れることが、神とよばれるのではないのか。

「神はここにもそこにもいない。神を見つけ出そうと求める者は、手と足、肉体と霊魂に縛れることになる」



 言葉というのは、ことごとくフィクションや幻想を立ち上げてしまう。むしろ、それがないことこそがリアリティではないのか。

「場と言葉は一つであり、もし場がなければ、(それは永遠にそうであろう!) 言葉も存在しないだろう」



 この言葉に、時間も、また心もつけ加えたいのだが、人があまねくもってしまう実在化の過ちをいっているのだろう。 

「あなたの中からあなた自身を注ぎ出してしまえばしまうほど、神はますます神性をあなたの中に注ぎこむにちがいない」



 今回、シレジウスを再読したくなったのは、この言葉を読みたかったからだ。言葉や心象ではなく、無になればなるほど、至福の状態に近づける。

「出ていきなさい、そうすれば神が入ってくれる。死になさい、そうすれば神に生きる。存在することをやめよ、そうすれば神が存在してくれる。何もするな、そうすれば神の教えが行われる」



 この世で人がおこなうすべては言葉による幻想やフィクションを追ってしまうのではないだろうか。

「神から遠ざかれば遠ざかるほど、人は時間の中に深く入りこむ。だから悪魔的な者には一日が永遠なのである」



 あなたは過去を思い出しては、苦悩や悲嘆にくれる。地獄の毎日である。それがほんとうに実在するのかと問うことによって、地獄は薄れてゆくのではないか。

「あなたを不安にしているのは人間でも神でもない。(おお、愚かなことに!)あれこれ思い悩んで、自分で自分をあなたは不安にしている」



 人は言語によって、または記憶や心象によって、苦悩や悲嘆をつくる。それは自分自身で創造しており、それを事実やじっさいにあるものと思い込んでいるだけではないのか。

「世界があなたを牢獄に閉じ込めているのではない。あなた自身が世界であり、この世界は自分を閉じこめている牢獄なのだ」



 言葉や心で思ったことをじっさいにあると思い込むわたしたちは、自分で牢獄をつくり、その牢獄から出られないと叫んでいるあわれな囚人のようだ。

「永遠のあの世ではあらゆることが同時に起こる。時間の支配するこの世のような前や後ろはない」



 わたしたちは過去が実在すると思い、未来が実在すると思い込むことによって、実在しないそれらにとりこまれてしまう。


「すべてこの世のものは煙である。あなたが煙を家に入れようものなら、あなたの魂の眼をきっとだめにしてしまうだろう」



 この世に固定的で物質的なものが堅固にあると思い込むことによって、とどまることを知らない流れの中で、固定的なものをつかもうと、流れに逆らおうとするのである。

「もしあなたが大海の中で一つ一つの水滴の名前をあげることができるなら、大いなる神の中にあるわたしの魂を、あなたは見分けられるだろう」



 荘子の万物斉同説やインドのブラフマンのような「一なるもの」、区切りのつけられないひとつながりの世界をいっているように思える。

「わたしがまだわたしになる以前、わたしは神の中で神であった。だから、わたしがわたしのために死にさえすれば、また再び神になることができる」



 子どもでなければ神の国に入れないといっていることと同じである。言語の巨大な構築物が打ち立てられる前に帰ること。



 シレジウスが語ることごとくは、神や愛といった信仰のことばをいっているにせよ、わたしには言語の創造力や実在化の比喩や象徴をいっているように思える。

 わたしたちは、言語の、心象の創造力や実在性というトリックに騙されているのである。それを宗教時代の人たちは、比喩として、暗喩として、神という言葉をもちいた。そういう表現で人をひきつけるしかなかった時代だったということができる。

 しかし、現代人は言語のそのようなマヤカシをトリックを比喩なしに理解できるほど熟しているはずだと思う。


キリスト教神秘思想史 (1)エックハルト キリスト教神秘主義著作集 6ヤコブ・ベーメ キリスト教神秘主義著作集 <13>禅仏教とキリスト教神秘主義 (岩波人文書セレクション)エクスタシーの神学: キリスト教神秘主義の扉をひらく (ちくま新書)


12 03
2017

幻想現実論再読

「幻想現実論再読」 エッセイ記事まとめ

 「幻想現実論再読」というテーマのもとに書いたエッセイ記事をまとめました。

 まとめると、わたしたちは実在の錯覚におちいっているということですね。言葉の実在を信じ、過去の実在を素朴に信じ、心の実在を真に受けています。

 そういったものの実在は錯覚や思い込み、トリックにすぎないと気づくことが、わたしたちから苦悩や悲嘆から救い出すということですね。

 参照にしたものは、神秘思想や禅、仏教、インド哲学、スピリチュアルといったもので、こんにちの科学的教育からは信憑性の低いものとされているものですね。

 たしかに怪しくて、いかがわしくて、フィクションや崇拝が過剰な部分がありますが、そういったものはそぎ落として、現代的に価値あるもの、心理学的に活用できるものだけを抽出することも可能だと思います。

 この神秘主義的探究はしばらくはやめていたのですが、ハラリの『サピエンス全史』のフィクション論に啓発されて、ことしずいぶんと追究してみました。

 まだ道半ばですが、わたしたちがいかに幻想やフィクション、実在のワナや錯覚にはまっているかを知ることができれば、ずいぶんと安らかな知恵を手に入れられると思います。


 「クロ現」の「サピエンス全史」特集 フィクションを信じる力の意味

 「フィクショナライズ・サピエンス=虚構する・猿」定義の提唱をします!

 人類の壮大なフィクションが存在しないこと

 人は存在しないものに泣いたり、悲しんだり、苦しんだりしている

 言葉が実在しないことについて

 人類の壮大なミステイク――言葉の非実在性

 思い出は賛美すべきものか、否定すべきものか

 人はなぜ無を恐れて、言葉や虚構を創作するのか

 心は実在しないと見なしたほうが、人生ラクになれる

 ことばは仮想現実である

 フィクションと実在



▼極めつけのおすすめの本
自我の終焉―絶対自由への道存在の詩 和尚 OSHOアイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話無境界―自己成長のセラピー論リチャード・カールソンの楽天主義セラピー


12 02
2017

幻想現実論再読

西洋思想のいま・ここ――『瞬間を生きる哲学』 古東 哲明

4480015140瞬間を生きる哲学
<今ここ>に佇む技法 (筑摩選書)

古東 哲明
筑摩書房 2011-03-16

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 「いま・ここを生きろ」とよく聞くようになったのだが、それがなんなのか、なぜそれがむづかしいのか、よくわからないことがあると思う。

 それをスピリチュアルや仏教ではなく、西洋思想の系統から読み解こうとしたのが、本書である。

 過去に耽溺した作家だと思っていたプルーストが意外にも、この永遠の一瞬を求めていたとはじめて知ることができたし、アガムベンの「むき出しの生・ゾーエー」と「社会的な生・ビオス」の区別で、むき出しの生のほうが良い意味であることを知った。

 わたしたちはこの瞬間の生に生きることを、社会的に禁じられる。明日の成功や成果のために、今日いま、この瞬間を生きることを禁じられる。あしたのために、今日を犠牲にして、ずっと先延ばしにされるのが、われわれの生であり、勤勉思想である。

 ポール・ヴィリリオはそのような前のめりの人生をドロモロジーと名づけ、現代社会に警鐘を鳴らした。わたしたちはこの瞬間、いまの充足を刹那主義や快楽主義として、社会的に禁じられるのである。

 時間にはこの瞬間しかなく、この瞬間の充溢や幸福をめざした思索の数々が、西洋思想の中から探られるのだが、プルーストやアガムベン、ニーチェやマルクス・アウレーリウス、詩や芸術などにその試みがおこなわれていたことを知ることができるのが本書の効用である。

 古東哲明はハイデガーの思想にもそのようなことを求めているっぽく、東洋思想ばかりを頼みにしていたわたしには意外だった。

 ただ全体としてすこし違和感があったのは、古東哲明がこの瞬間の生の充溢や幸福を必要以上に求めていて、瞬間に生きることは枯れ木死に灰のような無感情が至福に通じる道だと思っていたわたしには、承服できかねるところがあった。

 感情的な体験をするためではなくて、感情的な生がいちど死んだところに、この瞬間はあるのではないか。感情というのは、クリシュナムルティのようにいうと、時間であり、過去から生まれるものだ。時間機制の中に、永遠の一瞬はない。

 感情というのは、言葉や心象といった死した仮想やフィクションから生まれるものだ。感情はそのスキマから生まれる。観念や感情の幸福をめざしてしまうと、あいかわらず「時間機制」に囚われてしまうのではないか。現時点のわたしではそう思う。

 あと、もう一点、この瞬間を生きることに必要な点が欠落していると思うのだが、言葉や思考の懸念や害悪の警告がない。感情の充溢をめざすことは、言葉や観念のうえにおいてであり、その充実は悲嘆や苦悩が立ち上がる場所を、もっと繁栄させることにつながる。

 わたしはこのような思考と感情のつながりにおける悲嘆や苦悩の警鐘から、この瞬間に生きる思想を学んだのが、古東哲明は、この瞬間の生の充実をのぞんでいて、それは落とし穴に思えるのだが。

 たとえば、自己啓発のウェイン・ダイアーとかリチャード・カールソンからはそのような警告をおおいに学んだ。だから枯れ木死に灰はその瞬間に生きるためにいちど通らなければならない道だと思っている。

 全体として本書はこの瞬間の生を生きる西洋思想の系統を知ることができるので、学びは多くあったと思う。ただ、スピリチュアルや神秘思想、仏教などから学ぶことを避けているからか、充実を求める方向に違和感をもった。

 さいごに古代ギリシャの存在驚愕(タウマゼイン)の思想は、この世界の神々しさを浮き上がらせる思想として重宝したい思った。

 「万物は無くてあたりまえ、無いことこそオリジナル、在ることがむしろ異様、なのに在る」。この世界や自分が存在することがふしぎなこと、あることが驚異であるということ、それを思えば、この世に生きていることが奇跡であり、祝福であることがうかびあがる。

 生まれる前の膨大な時間と、自分が死んだ後の膨大な時間の中に、ぽっかりと人はつかの間の人生を生きるが、ほぼ無である長大な時間の中で奇跡的にこの意識ある生を生きている。それだけが驚異であり、祝福である。この世は失われていることが当たり前の状態の中で、奇跡的にこの生を生きている。無から浮かび上がったつかの間のわれわれの人生。

 この世界があることが驚異であり、神秘だと思えることは、この人生の奇跡性を祝福することである。一期一会の思想に通じるものだが、この世界は二度と経験できない時間の中で、この瞬間や出会いを生きている。失われているもの、ないものが当然の中で、この瞬間を愛でることの大切さが、生まれてくる思想ではないだろうか。



〈在る〉ことの不思議ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)現代思想としてのギリシア哲学 (ちくま学芸文庫)他界からのまなざし (講談社選書メチエ)瞬間の君臨―リアルタイム世界の構造と人間社会の行方


12 01
2017

幻想現実論再読

科学の崖――『エゴ・トンネル』 トーマス・メッツィンガー

4000050966エゴ・トンネル
――心の科学と「わたし」という謎

トーマス・メッツィンガー
岩波書店 2015-06-13

by G-Tools


 トーマス・メッツィンガーという人は、神経科学や意識研究をとりいれた科学寄りの心の哲学者であって、たまに科学寄りの見解も読まなければということで読んだが、まあ、あまり得られることは多くなかった。

 エゴ・トンネルというのは、人間の認識や感覚はトンネルのように限定されているということで、本書では自我がないということが主張されていて、そうならば社会が宗教化してゆき、知的な倫理性や誠実性はどうなってゆくのかと問われているようだ。

 神秘思想や宗教などのあやしい知識にかんたんにつっこめるわたしにはべつにたいした問題には感じず、科学への強い思い入れをもった人の危惧感は、わたしにはたいして共感できなかった。

 宗教のような怪しくて、古い知識だとしても、現代的に信憑や翻訳できる部分だけを抜きとり、あとのフィクションや崇拝のひどい部分は差し引いて、摂取すればいいのだというのが、わたしの態度である。

 著者は対外離脱も経験しており、それが意識研究へと向かわせる動機のひとつであったようである。

 意識の問題として、なぜわたしたちは素朴実在論者なのかと問うているが、言語や思考の実在化ははなはだしく、そのトリックにもほとんどの人は気づかない。それが神秘思想としていわれるのもナゾである。

 まあ、わたしは科学の崖から落ちまいとするより、さっさと向こうの陣地には飛びつける。人間の実在化の作用を、神秘思想からもっと学びたい。


心の哲学: 新時代の心の科学をめぐる哲学の問い (ワードマップ)科学の世界と心の哲学―心は科学で解明できるか (中公新書)心の哲学―心を形づくるもの意識と脳――思考はいかにコード化されるか〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義


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