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09 25
2018

幻想現実論再読

収穫なし――『エネアデス(抄)』 プロティノス

4121600991エネアデス(抄)〈1〉
(中公クラシックス)

プロティノス Plotinos
中央公論新社 2007-11-01

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4121601009エネアデス(抄)〈2〉
(中公クラシックス)

プロティノス Plotinos
中央公論新社 2007-11-01

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 『バガヴァッド・ギーター』で語られた「ブラフマン」、『老子・荘子』で語られた「道・タオ」、そして多くの神秘思想家に語られた「一なるもの」。ローマ3世紀の哲学者はどう語ったのだろうか。

 『エネアデス』は全体で54篇あり、ここで訳されたのは11章のみである。そして神秘主義的な思想が語られたのは、ここで訳出されたものでは、ほぼ『善なるもの一なるもの』くらいだけである。

 そして言葉で語られる「一なるもの」は、言葉でも感覚でも形でも捉えられ得ないものであって、ここでもとうぜん要領を得ない。そしてほかの訳出された章はほぼ倫理的、哲学内容のものであって、神秘主義に期待したものは得られない。ほぼ収穫なしの残念な結果に終わった。

 ほかの篇は、幸福や悪、徳、エロス、美、グノーシスについて語ったもので、なにか派生的な収穫を得られるかとも期待したのだが、読み進めるだけでも苦痛であった。西洋的弁論術、論理の道筋をたどれる本であるが、そういう内容を期待した者ではないものにとって、得られるものはあまりにもなかったというほかない。

 54篇の要約を見る限り、かなり神秘主義的、あるいは宗教的内容を語ったものもありそうだが、ここでの編集方針は哲学・倫理的なものであって、神秘主義的書物としてはあつかおうとはしなかったように見受けられる。「新プラトン主義」と冠された哲学者にふさわしいと目された内容がよりわけられたのだろうか。

 ローマ2世紀の哲学者、マルクス・アウレーリウスは、判断を捨てることによって心の平安を説き、わたしにはまるで仏教が伝来したのかと思えるほどだった。3世紀のローマの哲学者プロティノスには神秘思想が語られるが、ストア哲学の心の平安についての思想は、あまり継承されなかったのだろうか。


善なるもの一なるもの―他一篇 (岩波文庫)神秘哲学―ギリシアの部シレジウス瞑想詩集〈上〉 (岩波文庫)神を観ることについて 他二篇 (岩波文庫)エックハルト説教集 (岩波文庫)


09 22
2018

幻想現実論再読

パラダイムが違いすぎる――『ブッダのサイコセラピー』 マーク・エプスタイン

4393364848ブッダのサイコセラピー
―心理療法と“空”の出会い

マーク・エプスタイン Mark Epstein
春秋社 2009-05

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 ケネス・タナカの『目覚める宗教』の中でアメリカで評価されているということをはじめて知って読んだ。トランスパーソナル心理学の流れはつかんできたのだが、この人の名はほぼ聞いた覚えがない。ジャック・コーンフィールド、ジョセフ・ゴールドシュタインといった人たちのインサイト・メディエーションの流れで、アーチャン・チャーのテーラワーダ仏教に学んでいる。

 精神分析と仏教の融合であるが、かなりのところ精神分析の度合いが強くて、わたしにはムリと思えた。

 過去を掘り出す強度が強くて、わたしの解釈での仏教は過去をいっさい思い出すなだから、過去の回想や記述が不快でたまらない。この精神科医はけっして仏教を理解していないわけでもないし、読んでいる最中でもそれなりに学べる解釈をもっている。だけど、基本的なフレーム――過去の実在化を避けろという教義が、根底から抜けている。

 認知療法でもそうだが、思考が感情をつくりだすのだから、過去の想起や回想は、不快感や悲しみ、恐れを、再生・強化することである。わざわざ感情的に苦しむことを再度掘り出すのである。その過去の粘着や執着が半端ではなく――精神分析だからとうぜんなんだが、わたしにはこの愚かさが理解できない。

 この過去の想起の点で、精神分析は仏教とまったく接合できないと思うのだが、この著者はその点になんの問題も感じずに、過去の掘り起こしと仏教の教説をならべてくる。

 たしかに仏教は、過去の想起をやめることにより、精神分析でいうところの過去の苦悩・出来事にふたをすることに習熟してしまうことになり、瞑想トレーニングの後に個人的問題をかかえて、精神分析の門をたたくということもあるだろう。

 仏教は、過去の問題であっても現在の問題と捉える。精神分析は、過去を実在化している。過去を実在しているとは見なさず、それを現在におこっている想起や感情の問題と捉えるのが、仏教だ。

 時間論のパラダイムが違いすぎており、仏教が否定している過去の実在化のパラダイムの上でしか、精神分析は語れない。だから、わたしは精神分析の方法はとっくに捨てているのだが、この著者はそれを並列的にならべるので、わたしには理解できない。

 仏教のパラダイム、時間論を理解した者には、もう精神分析は受けつけないと思うのだが、この著者はその要の部分をどう思っているのだろう?

 仏教が、過去のトラウマを乗り越えられるのか、その問題にかんしては、わたしも判断をもつわけではない。仏教は、過去は実在していると思うパラダイム、認識こそを変えるのであって、変えてしまったパラダイムの上に立つ精神分析を受けいれるとはとうてい思えない。


仏陀の癒しと心理療法禅セラピー―仏教から心理療法への道自己牢獄を超えて―仏教心理学入門呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想心理療法としての仏教―禅・瞑想・仏教への心理学的アプローチ


09 20
2018

幻想現実論再読

仏教は外から――『アップデートする仏教』 藤田 一照 山下 良道

4344983211アップデートする仏教 (幻冬舎新書)
藤田 一照 山下 良道
幻冬舎 2013-09-28

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 いま仏教本はスマナサーラの本ばかり売れているし、テーラワーダ仏教がずいぶんと入ってきているから、なにが違うのだろうか、どういう状況なのかという興味から読んだ。

 おふたりはアメリカで禅を教え、ひとりはビルマまでいった今日的な潮流に合致した人たち。

 なんでもいまではアメリカでは禅より、テーラワーダ仏教のほうがポピュラーになっており、マインドフルネスの医学的流行はテーラワーダ仏教からきているらしい。わたしはトランスパーソナル心理学の流れで学んできたから、その流れはどうなったの?と思うほど、ふたりの話には出てこない。

 日本にテーラワーダ仏教がさかんに流入しているということは、これまでの中国、日本の大乗仏教が完全否定されて、スリランカや東南アジアにすすんだ小乗仏教や上座部仏教がもてはやされているわけで、日本の伝統仏教は完全無視されるかたちになっている。なにがそんなに違うのか、この本を読んでもまだしっかりとつかめたわけではないが、大乗仏教の否定は興味深い。

 おふたりのアメリカでの経験はすごいと思うが、思いを手放せずにビルマまで飛んだ山下良道氏の体験談には違和感をもった。ずいぶん大げさに大きな発見をしたことにいうことが、たんに「思考はわたしではない」という気づきであることに、わたしはずいぶんと拍子抜けした。

 そんなこともわからなかったの?、禅やビルマの仏教はなにを教えたのかと思えたけど、人がわからなかったり、つまずいたりすることは、人にとってはたいしたことではなかったり、どんなに教えられても当人にとっては実が熟するまでその知識が腑に落ちないこともある。なんだか、わたしが増長しすぎているのではないかと恐縮する思いにとらわれるのだが、トランスパーソナル心理学では「思考の脱同一化」という言葉で、あっさりとひと言で表現されている。

 日本の伝統仏教が葬式仏教やお説教仏教としてもうほとんどの人には相手にされていないことはだれでも知っている。アメリカではセラピーやメソッドとして活用されようとする道がさかんに模索されている。この本ではヴィパッサナー瞑想やテーラワーダ仏教の限界を見据えられて、つぎの段階にいくことがめざされている。それで仏教3.0というヴァージョンが名づけられている。

 オウム事件のあとに、テーラワーダ仏教のアメリカでの流行をつくったティク・ナット・ハンが来日していたそうで、そんな話題はとんと聞いたことがなかった。わたしもそのころは仏教の興味はまるでなかった。

 仏教は、アメリカや東南アジアからの流入によって、ふたたび違う面を見せようとしている。といっても知らない人にはまったく知らない、宗教など嫌悪しかもたない人がいまの日本のおおぜいの趨勢だろう。仏教はよみがえることができるのか。外から入ってくることでしか、目を啓かせられなくなっているのは、たしかでしょうね。伝統があるのに外からだけ。


青空としてのわたし〈仏教3.0〉を哲学する怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)[増補版]手放す生き方【サンガ文庫】生けるブッダ、生けるキリスト 〈新版〉


09 18
2018

幻想現実論再読

仏教とは、思考システムを変えることである

 仏教や神秘思想を、客観的に記述するとこういうことになる。

 心は自然のままに育つと、過去や未来の存在しない時間に入り浸ることになり、思考は存在しない仮構を構築することになり、感情の苦しみはそれによってつくられる。仮構や幻想の苦しみをつくってしまうのが、自然に育つ思考システムである。

 われわれの社会は、言語や思考がないことを無知や動物レベル、服従だと禁忌に追いこんでいる。言語と思考のシステムから逃れることは、この社会では禁忌・タブーである。

 言語・思考システムを使っていると、存在しない仮構、幻想の白昼夢に入り浸ることになるのだが、われわれの社会は、言語・思考システムの放棄は禁止されているので、このシステムの世界外に出ることはできない。

 思考を「わたし」だと思い込むようになるので、思考の放棄や消滅はおこなえない。思考が人生の支配者、制御者になるので、それを手放すことはいっさいできなくなる。思考や自我が、想像上の産物にしかすぎないことは、思考には理解できない。それが自己自身なら、外側から客観的に見ることはできない。しかし思考は物体のように対象である。

 思考は意志とかかわりなく噴出する自動装置になっているので、言語・思考は存在しない世界像を創造しつづける。われわれはこの思考システムの受動者になり、支配下におかれ、システムの奴隷となる。

 この世界の時間の法則は、過去はその瞬間に消滅し、未来はいっさい実在しない。思考システムにおいては、過去も未来も実在のレベルをまとわされて、わたしたちには現実の脅威に思われる。時間の法則から外れた虚構の、蜃気楼の苦悩を、思考システムは負わせる。

 仏教や神秘思想は、この思考システムをとりはずし、言語が世界像を構築しない、刹那に反応する心的システムにすげ替えることである。虚構や幻想の世界像をつくらない、言語の構築がない心的システムに帰ることである。

 過去の想起がなく、思考の後悔や悔恨をくりかえさず、未来の不安や恐れを実在化せず、よって感情の苦悩も悲嘆もない心的システムをとりもどすことである。刹那に生き、過去や想起は崩落する時間の法則に合致し、思考システムの構築をおこなわない。そのことによって、感情の苦悩も悲嘆もない。

 言語による蜃気楼をつくらない心的システムは、時間の法則に合致したなにものも心象をつくらない刹那に反応する心を残すのみである。言語でつくられた苦悩や仮構物をもたない。ただこの瞬間を生き、時間の法則から外れた心象や蜃気楼の世界をつくらない。

 心とは、言語によってつくられた幻の世界である。言語・思考は蜃気楼の世界を構築しつづける。われわれの社会はそれを文明や人間的知性の可能性とよぶ。よってこの言語・思考システムから離れることはできない。存在しない、実在しない苦悩に苛まされることは、文明の代償なのだろうか。

 言語が存在しない世界像の苦悩や後悔をつくっているという理解をもたないかぎり、この言語・思考システムの反省や大幅改良はおこなわれないのだろう。



09 17
2018

幻想現実論再読

漢文・古文の引用多し――『無心ということ』 鈴木 大拙

4044076014無心ということ
(角川ソフィア文庫)

鈴木 大拙
角川学芸出版 2007-09-22

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 無心についてということだから前から読みたかったのだが、Kindle本で78%OFFの177円だったので、思わずポチッとな。いつまでやっているかわかりません。

 読後感は、かなり曖昧蒙古とした禅的な話を聞かされて、しかも漢文、古文はそのまま引用だから読めずに、あまり有益な知識を得られたとはいいがたい。まだ、ちくま文庫の『禅』のほうがわかりよかった。

 真宗の信者の前で話したものだから、浄土についてどう話すかと思っていたら、禅的ないま・ここがすなわち浄土のようなことをいうので、禅者の面目は崩さなかったようだ。

 鈴木大拙は、浄土宗やスウェーデンボルグに親近感をいだいていたようで、言語が幻想をつくることに否定的な禅者がなぜかと思っていたのだが、ここではうまくかわしていた。方便的な捉え方をしているのだろうか。

 論理ではなく、信心が仏者のいうような世界を現出させるのだといったり、キリスト教のように「神のままに」といった神まかせの受動性が無心なのだといったり、ほう、そういうことをいうのかと感心した。

 無我や無心は、社会秩序や道徳をこわしてしまうのではないか、無心は動物や幼児のように本能だけにまかすことではないのかといった疑問も考えられており、この考えには参考になることがあった。有心でも無心でもないところに、人間的無心を認めたいという。

 どちらかというと、究極の無心は見えてこない本に思えた。本を書いたわたしは、わたしなりの固い論理がもうじゃまをする。


禅 (ちくま文庫)新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)浄土系思想論 (岩波文庫)スエデンボルグ (講談社文芸文庫)思考を捨てる安らかさ


09 16
2018

幻想現実論再読

Kindle本『思考を捨てる安らかさ』、一ヶ月後の販売報告です。売れてません。

 初のKindleセルフ本、『思考を捨てる安らかさ』の発売から一か月たちました。販売報告や、ランキングについての報告をいたします。


 
思考を捨てる安らかさ
(2018-08-14)
売り上げランキング: 13,997



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▲無料注文数です。


 発売と同時に、おおくの人に読んでもらいたいために、無料キャンペーンの告知をおこない、数日後に2日間実施しました。おかげでおおくの方にダウンロードしていただき、2日間で233冊ダウンロードされました。

 Kindleストア全体でも、無料TOP100の4位にもランクインされることになりました。 

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▲Kindleストア、無料TOP100(1位の本にはなにも申しますまい)


 けれど、有料販売数になると、単位が違うほど落ちました。無料での需要しかなく、おそらく後ほど出てきた関連本の表示を見る限りでは、無料マーケットにかかわる人たちが多かったことが推測されます。ジャンルのまったく関係のない本がたくさん表示されましたからね。


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▲有料注文数です。


 日に一冊か二冊しか売れていませんね。一ヶ月のトータルは、25冊です。売れてません。

 無料の100単位のグラフで比べると、なにも見えません(悲笑)。

 アマゾンではランキングが自著ページに表示されるようになっていて、このランキングを競いたい気持ちにさせられますね。サブカテゴリの新着では1位をとれても、売れ筋ランキングでは上位には食いこみにくいという感じですね。

 日に一冊や二冊だけだからとうぜんなんですが、それでもサブ・カテゴリの新着ランキングの上位にランキングされますから、まあ、あまり在庫は動いていないのでしょう。

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▲自著ページに表示される売れ筋ランキング。


 新着ランキングの表示は、一ヶ月を過ぎれば表示されなくなりますから、ランキングにふれる機会はきょくたんに減ることが予想されます。事実、売れ筋ランキングはかなり落ちてゆく一方です。アマゾンは一ヶ月目までが勝負なのでしょうね。

 自著ページでのカスタマレビューは二件いただいておりますが、ネットやSNSでのレビュー、書評はまったくありませんので、売れる機会以前に知ってもらうチャンスすらないような状態ですね。書評ブロガーに献本でもするべきだったのでしょうか。ただ高評価を強制するようで、気が引けますね。

 SNSで自著の宣伝はなんどもおこないましたが、あまりやりすぎるのも迷惑なので、バランスがむつかしいですね。だれかが推薦してくれればいいのですが、どうもそういう声はどこからも現れないようです。沈黙に沈んでゆく感じですね(冷笑)。

 この数日は販売数ゼロがつづいておりまして、売れ筋ランキングも落ちつづけて、ランク圏外ももう間近、手のほどこしようがない感じですね。

 ただ、アンリミテッドは堅調な感じがしますね。定額有料の読み放題サービスですから、お金を払う価値があるか見極めにくいセルフ本には、ハードルが低い相性のいいサービスなんでしょう。

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▲アンリミテッド(読み放題)などの読書ページ数です。


 アンリミテッドは堅調に読まれているといっても、ランキングから見えなくなると、そうもいえないかもしれません。ロイヤリティは、一回目に読んだページ数だけに支払われますから、改善の余地はあるのでしょうね。

 ランキングが落ちて、残された楽しみは著名人とともにランキングされることが、慰めてくれますね。

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 アルバート・エリスやニサルガダッタ・マハラジの本とならべられることの光栄を味わせてもらいました。たんに同じ電車のとなりに乗り合わせただけともいえますが、この電車のチケットは、Kindle本を書いた人だけに贈られるものですね。ほぼ、ワープロを打てたら電子書籍化はそうむづかしいものではありませんので、挑戦の機会はおおくの人に開かれています。

 ロイヤリティは、70%を選択しましたので、280円の定価にたいしての割合で支払われることになります。なんか通信費が必要だとか、アンリミテッドの支払いはいくらになるかよく把握してませんが、一ヶ月の報酬は以下のようになりました。

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▲一ヶ月のロイヤルティ


 よい本を書き上げた自負はありますが、思った以上の注目はないようです。

 価格を半額にするとかプロモーションをどうしようとか、読んでもらうことを目的にするなら0円でおいておくことも考えますが、まだ決めていません。販売数を上げたいのなら無料プロモーションは貢献度はなかったのかもしれませんね。

 70%のロイヤリティにたいしてアマゾンの独占販売が義務づけられていますから、契約が切れる三ヶ月目以降は、ロイヤリティを35%にして、ほかの書店でも販売を広げようかとも考えていましたが、いまは未定です。

 いちど本を書き上げてしまえば、要領を得るので、また本を書きたいという気持ちがくすぶりますが、これはかなり長いスパンでの検討事になりますね。

 「思考を捨てる」ということは、おおくの人にとっては思ってもみてはないことなので、その前段階の思考や言語がどのように悪で、病なのか、知らせることがステップとして必要だと思うのですが、あまり注目されないと、とうしょの期待が気持ちを押し上げてくれることはないですね。

 以上、赤裸々な報告になりましたが、どういう態度でのぞめばいいのか、定まらないものになりました。


09 13
2018

幻想現実論再読

読解不能――『西と東の神秘主義』 ルードルフ・オットー

440903037X西と東の神秘主義
―エックハルトとシャンカラ

ルードルフ・オットー
人文書院 1993-03

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 インド哲学のシャンカラと、キリスト教神秘主義のエックハルトを比べるのだから、期待はあったのだけど、ほぼ読解不能の状態にさいごまでおかれた。

 難しい文章ではないのだけど、捉えがたい内容やなにをいいたいかわからないような文章になっていて、神秘主義の内容も難解であって、容易に読解をゆるすような書物ではなかった。なんだか微妙なところでわかりにくて、文章の脈絡はたどれるそう難しい文章でないのだが、どことなくいつの間にか置き去りにされるような文章だった。残念で惜しい。

 シャンカラはこの世界は幻想だといったインド哲学者であって、エックハルトは見るものと見られるものの同一が、禅と同じだといわれる神秘主義者。

 この本は1926年に出版されたもので、オットーはヌミネーゼという言葉が有名な『聖なるもの』(岩波文庫)を主著にもつ宗教学者・神学者である。

 高野山にも明治の終わりに講演をおこなっており、井筒俊彦が参加したエラノス会議にも参加している。これくらいしかのべることがなくて、残念だ。


聖なるもの (岩波文庫)エックハルト説教集 (岩波文庫)ウパデーシャ・サーハスリー―真実の自己の探求 (岩波文庫)禅と神秘思想神秘主義 (講談社学術文庫)


09 10
2018

幻想現実論再読

学者でありつづけた人――『意識の形而上学 (井筒俊彦全集 第十巻)』

4766420802意識の形而上学 一九八七年 ― 一九九三年
(井筒俊彦全集 第十巻)

井筒 俊彦
慶應義塾大学出版会 2015-05-23

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 井筒俊彦は、93年の1月に、78歳で亡くなっている。その晩年の著作や対談がおさめられたのが、本書である。八千円もするので、図書館でとうぜん借りた。

 この本には、『意識の形而上学』や『マーヤー的世界認識』、『TAT TVAM ASI(汝はそれなり)』、『アヴィセンナ・ガザーリー・アヴェロエス「崩落」論争』といった論文がおさめられている。

 井筒俊彦は、どこまでも言語で区分けや仕分けをおこなった人で、禅や神秘思想の悟りは言語を手放すことをすすめるので、禅者であったというより、学者であったということがいえる。悟りをめざさなくてもよいのかという気もするが、明晰な言語分析は、おかげであとからきた人たちへの細やかな道しるべとなる。

 『東洋思想』では、東洋思想の根本的な座標軸を、「言語不信」であるといっている。

「まず、コトバは、その存在分節的意味機能によって、いたるところに存在者(事物事象)を生み出していく、と考えること。次に、こうして生み出された個々の存在単位は、すべて、個別的な語の意味が実体化されたものにすぎない、とすること。存在者が言語的意味の実体化にすぎないのであれば、すべての事物事象は、臨済の言うように、「みな、これ夢幻」であって真実性はではない、ということにならざるをえない。自分自身をはじめとして、自分を取りまく一切の事物事象を、そのままそこに存在する客観的対象であると思いこんでいる人びとは、だから実は、「いたるところに空名を見」ているのみだ、と臨済は言うのである」



 東洋思想は、徹底的に言語否定をおこなった。それに対して、西洋思想は言語の懐疑をほぼもたないのであって、この絶対的信頼性は、物質主義の地平にひろがり、心や感情の自律性を失って不幸におちいることも多いのだが、物質的豊穣さ、物質的軍事力をもたらして世界を支配するにいたった。聞き分けの悪い子どものほうが勝つとは、皮肉なことである。

 『マーヤー的世界認識』は、わたしの知りたい論文であったが、こんなことをいっている。

「しかも、本来的に神に内属するマーヤーの力は絶大である。客観的な存在世界、そこに現れる一切の存在者、神羅万象、がこの幻力の所産であるばかりではない。神自身すら――つまり全宇宙の絶対的主宰者としての至高神までもが――実はマーヤーの所産なのである。神は「自分自身の幻力によって」神という限定性を帯びて自分自身を仮現させる。ある意味であは、神は自分のマーヤーによって迷わされるとも言うことができる。要するに、万有を迷妄的に現象させるマーヤーの力は、神を眩まし騙すほどまでに劇烈であるということだ」



 わたしはこの世界がすべてマーヤーかどうかはわからないし、神という言葉さえ実在のものとしてあつかう気はない。人間のマーヤーは、言語や想像力、記憶がつくりだすものであって、これをはがしてゆけば、世界についてはまったく語りえるものをもたなくなる。つまりは、ただある状態だけに満足する。このような状態であれば、もう世界や神を語る必要もない。それこそ、禅でいう「糞ベラ」ではないだろうか。

 『~「崩落」論争』では、ガザーリーの時間論がいちばん共鳴できた。

「人間の心にはいろいろ異なる機能が認められるが、時間観念の源となるのはそのうちのどれか。ガザーリーは、それはワフムであると断言する。アラビア語の「ワフム」は、大体において我々のいわゆる「想像力」に当たる。時としては、むしろ「妄想」「妄念」と訳すことが適切である場合もある。とにかく一般的に言うと、心の外側に客観的に実在していない事物や事態を、形象喚起的に心の中で作り出す能力である。時間はそのような性質のものである、というのだ」



 人間の認識というのは、実在していない事物を、言語や想像力でつくりだす能力がある。時間はそのうちのひとつだと思う。そして、こういう実在していない事物に、人間のまわりは囲まれているのである。それは、過去が永久に存在しなくなっても、思い出せば、現実にあるかのように泣き笑いできるわれわれの認識のあり方がしめしているのである。

 『大乗起信論』は物資的存在は心がみだりにつくりだす妄念であるというすごい書物であるが、それを論じた本書の『意識の形而上学』は、べつに私の心に刺さるものを書かれていなかった。


東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 (中公文庫)存在の概念と実在性 (井筒俊彦英文著作翻訳コレクション)井筒俊彦の東洋哲学ルーミー語録〈イスラーム古典叢書〉 (岩波オンデマンドブックス)老子道徳経 (井筒俊彦英文著作翻訳コレクション)


09 04
2018

幻想現実論再読

ビートニクが仏教徒?――『目覚める宗教』 ケネス・タナカ

490542528X目覚める宗教(サンガ新書)
ケネス・タナカ
サンガ 2012-11-27

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 この本には団体や寺院、センターからみたアメリカでの仏教という視点があって、個人の読書家としてしか仏教を学ばないものには、その点が違和感があった。宗教団体、宗教宗派としての目が強いアメリカ仏教のあり方という本になるだろうか。

 アメリカへの仏教流入の歴史を、ホイットマン、ソローから説いて、ビートニクを紹介するあたりには、さらに違和感が強まった。この本でもナイトスタンド・ブディストや仏教共感者、個人化といわれるように、仏教徒や仏教宗派として仏教に接触しているのではなく、あくまでも個人的な知識のひとつとして接している感覚が強いからだ。かれらは、仏教徒として仏教に出会ったのではないだろう。

 わたしもアメリカの逆輸入型で、トランスパーソナル心理学をへて、仏教に近づいて、仏教徒の観念なんかまるでないし、団体に属したいとも思わない。こんにちの人は、仏教徒や仏教宗派の一員として、仏教に出会いたいと思うものなんだろうか。

 団体や組織としてくくられることに、ビートニクやヒッピーは喜んで入っていったのだろうか。この本はずっと仏教団体としての目で、アメリカへ流入した仏教者の活躍をのべているから、終始違和感しか立たなかった。

 このような本を読みたいと思ったのは、さいきんスマナサーラやアーチャン・チャー、ティック・ナット・ハンといった上座仏教の人たちの本が読まれるようになっているから、どういう流れなんだろうという興味で読んだ。

 マインドフルネスといわれて医学界でもとりあげられるようになったものは、ヴィパッサナー瞑想とよばれるテーラワーダ仏教の方法だということがわかった。

 テーラワーダ仏教と精神分析の融合ということで、マーク・エプスタインという人の著作も、専門家で高く評価されていることを知った。

 いま、アメリカで仏教やマインドフルネスを学んでいる人は、仏教徒としてくくられることをのぞむのだろうか。わたしは仏教徒としては、仏教を学びたくない。あくまでも哲学やサイエンスとならぶひとつの知識にすぎなく、信仰の宗教としては摂取したくない。


アメリカ仏教なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学テーラワーダと禅――「悟り」への新時代のアプローチブッダのサイコセラピー―心理療法と“空”の出会いザ・ダルマ・バムズ (講談社文芸文庫)



09 01
2018

幻想現実論再読

弁論巧みであるが――『告白』 アウグスティヌス

4003380517告白 上
(岩波文庫 青 805-1)

アウグスティヌス
岩波書店 1976-06-16

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4003380525アウグス ティヌス 告白 (下)
(岩波文庫 青 805-2)

アウグスティヌス
岩波書店 1976-12-16

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 アウグスティヌスの時間論が気になっていたのと、信仰とはどのようなものかと思って、読んだ。

 アウグスティヌスは、弁論の教師をやっていたこともあって、キリスト教に懐疑にたいする巧みな言葉使いや、秤で疑問を比べてゆくような言葉の裁き方は、感嘆ものである。この文章の魅力は、内容いかんにかかわりなく、読む価値があるのかもね。

 信仰にかんしては、わたしはまったく人格神を信じることはできないので、共感をうることはなかったが、どのような論理でそれを信じることができるのかという興味で読んだが、その解答もこの本でも得られることはなかった。

 上巻は、キリスト教に懐疑をもつアウグスティヌスがキリスト教に回心するまでが描かれ、下巻からはがらりと変わって、記憶、時間、創世期についての哲学的、弁論術的な考察にうつる。

 時間に対する疑問や考察は、現代でもまったく通じる考察をおこなっており、このような明晰な論理術をもつ人が、わたしには理解できないキリスト教の信仰に投じる論理の整合性が、わたしにはつなげることができない。

「すなわち過去のものの現在は記憶であり、現在のものの現在は直覚であり、未来のものの現在は期待である」



 わたしたちは、過去を思い出す際、過去を過去「そのもの」と思ってしまう。過去の記憶は、「現在」に思い出している記憶の心象にすぎない。だけど、過去「そのもの」に勘違いしてしまう。アウグスティヌスは、その違いをしっかりと峻別している。

 わたしたちは、過去が存在しなくなったことを忘れて、過去の心象を過去「そのもの」と思い、悲しみ、嘆き、地獄を見る。存在しなくなったものなのに、なぜ嘆き悲しむのか。この「存在しない」という過去の性質をしっかりと峻別しているアウグスティヌスは、普通の人が陥るような感情の落とし穴には落ち込まないのだろう。

 わたしはこの本に、神秘思想的な神を期待して読んだのだが、アウグスティヌスにはそのような要素はあまりないようだ。神秘思想的な神というのは、言葉でもかたちでもとらえることができず、目や触感などの感覚ではとらえられないものであるという。つまり、人間の言語や感覚をこえている。老子でもバガヴァット・ギータ―にも出てくる超越的存在のありようである。そのような世界観こそ、宗教の根源にあるものだと思う。人為をあきらめた世界こそ、帰るべき場所である。

 ということで、このアウグスティヌスの『告白』は、わたしにはあまりうるものがなかったようだ。キリスト教の信仰を知ろうとして、ロヨラの『ある巡礼者の物語』も読んだこともあるが、わたしには感銘を得ることはなかった。キリスト教信仰って、なにによって成立しているのか、わたしにはいまだにわからない。


神の国 1 (岩波文庫 青 805-3)神学大全I (中公クラシックス)エネアデス(抄)〈1〉 (中公クラシックス)ある巡礼者の物語 (岩波文庫)神曲 地獄篇 (河出文庫 タ 2-1)


▼わたしの初のKindle本発売中。いままで知らなかった心の扱い方に出会えます。
 
思考を捨てる安らかさ
(2018-08-14)
売り上げランキング: 3,819



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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

 

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