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03 19
2017

幻想現実論再読

自我の情けなさ――『グルジェフとクリシュナムルティ』 ハリー ベンジャミン

4795223661グルジェフとクリシュナムルティ
―エソテリック心理学入門

ハリー ベンジャミン Harry Benjamin
コスモスライブラリー 2000-09

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 禅やキリスト教などでよく「自己を落とせ」といわれるのだが、なんのことかよくわからないと思う。この本を読めば、自我の情けなさがあぶり出されていて、自我にしがみつくのはやめようと思える本である。

 この本はおもにグルジェフの思想を紹介したものであり、正確にはその研究であるモーリス・ニコルの『グルジェフとウスペンスキーの教えに関する心理学的注解』から得られたものが主になっているが、翻訳はされていない。

「われわれが自分自身と呼んでいるものは、単に想像上の存在または錯覚にしかすぎない。それはなんら存在しないのである」



 グルジェフはいくつもの「わたし」がぶつかりあっていて、それをなんとか統合して同一のものとしてあつかっているのが、われわれの自己像なのだという。そしてそれは社会的に条件づけられた「機械」にしかすぎず、われわれはこの条件付けをくりかえし反応する機械でしかないという。ほかの覚者がいうような「眠っている、夢見ている状態」のことである。

 それを思考したり、言葉でものごとを捉えたり、過去を思い出したりして反芻していることと捉えていいかもしれない。頭の中の「わたし」はそうやって意識の中心をしめ、人にどう思われているか、あのときにあの人の反応とかを思い出しながら、そういう思考する意識を「わたし」だと思って暮らしている。

 その自我の仕事や存在理由はなにかというと、ハリー・ベンジャミンはこうのべる。

「人間は――どれほど他人によって否認されても――自分が何をしようと、言おうと、あるいは考えようと自分は正しいと自分自身の内部で確認しつつ、暮らしていくのである。

自己正当化の明白な目的は、われわれの士気――われわれが自分だと思っているパーソナリティ=人格の士気――にとって不可欠の、われわれ自身のプライドとわれわれ自身への信念を強めることである。

それは自身に何らの真の価値をもたず、そして基本的にそのことを知っているので、まったく錯覚に基づいた自分自身の価値感覚なしには生きることができないのである」



 そしてその自我がやることといえば、まるで人の頭をのぞいたのかと思えるほどの「頭の中のおしゃべり」というものの内容があからさまにされる。

「われわれは非常にしばしば、他人について、またかれらがわれわれを扱う、またはわれわれを軽んずる、またはわれわれを避けるなどなどの恥ずべきやり方について、しゃべっている。

例えば、われわれは、一定のこと――他人からの敬意など――はわれわれに帰せられる、他の人々はわれわれを好きになるべきだ、われわれは常に幸福であるべきだ、われわれは楽しい仕事、快適な家庭生活、等々を持つべきだ、外部のものごとがわれわれの安楽や楽しみを妨げるべきではない、などなどと思うかもしれない。

内なるおしゃべりの基盤は、どんな形でわれわれに来るにせよ、まさに内なる不平不満なのである。

要するに、内なるおしゃべりを通じて、われわれは自己正当化と自己賛美キャンペーンをおこない、それによって自分自身を最高度の自己評価価値に保つのである」



 頭の中のおしゃべりに覚えはないだろうか。自我というのはじつに情けないことをしている。しかもそれは想像上の産物にしかすぎない。わたしたちはこういう思考や自我をわたし自身だと思い込み、同一化しているのだが、それによって自我に翻弄され、自我の悲哀や悲嘆にくれることになる。この過ちから離れることが、わたしたちに心の安楽をもたらすのである。

 このような自我や思考の働き方を奥でながめている「真のわたし」がいるとベンジャミンやグルジェフはいうわけだが、そうなると宗教的段階になるわけだが、こういう自我からの離脱が、心の平安をもたらすのはまちがいない。

 この本は自我の情けなさから、自我の離脱をめざせるようになるだけで、じゅうぶんに価値ある本だと思うが、ちょっとほかの点でエソテリズム=秘教的すぎたり、グルジェフの独特の宇宙観がのべられていたり、研究書なむずかしさもある。

 人の頭をのぞいたのかと思うほどの情けない自我のありようを記述されるだけで、大きな収穫である。こういう「頭の中のわたし」の同一化はもう避けたいと思えるようになる。それが「自己を捨てる」ということではないだろうか。

 「自己を捨てろ」とあちこちでいわれることがわからないなと思う人は、この本に答えがあったといえるかもしれない。


生は「私が存在し」て初めて真実となるグルジェフ・ワーク―生涯と思想 (mind books)グルジェフから40年―ワーク実践のためのガイドグルジェフ・ワークの実際―性格に対するスピリチュアル・アプローチベルゼバブの孫への話―人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判

03 20
2017

幻想現実論再読

人類の壮大なフィクションが存在しないこと

 映画やマンガは存在しないフィクションであるが、泣いたり、感動したりして感情移入の度合いが深いのだが、それがまったくどこにも存在しない虚構であることには、深く思い入ることもない。

 あんなに感動した物語を、まったくぽっかりと穴の開いたような存在しないものと思いたくない。われわれの人生や世界もそのままである。ぽっかりと穴の開いた虚空だと思いたくない。

 人類は壮大なフィクションをはりめぐらせていて、それを存在しないものと思いもしなくなっている。

 人類の壮大なフィクションの仮構四大物として、「会話」、「思考」、「時間」、「自我」をあげたい。

 会話というのは、だいたいは目の前に存在しないものにたいして交わされるものである。「あの人がどうだった」「きのう、なにがあった」だの、存在しないものをおもにとりあつかう。もはや存在しないものを、あたかも「現実に」、「目の前にあるがごとく」思い込む能力が、人間の会話にあらわれる。そしてそれを「存在しないもの」ともはや思いもしなくなっている。

 「思考」もそうである。存在しない想像力である。しかしあたかも現実にあるかのように、真に迫ったものとして、われわれには認識されるようになっている。思ったり、感じたりしただけのものなのに、それが「絶対の真実」や「ほかに選択肢のない判断」のように受けとるようになっている。

 「過去」も、もはや瞬間瞬間に飛び去ってゆくものなので、われわれが捉えるときにはすでに過去になり、もはや「存在しない」ものになっている。それなのに、過去は「現実にあるもの」、あたかも「目の前にあるもの」のように捉えられる。

 われわれは、存在しないものを現実にあるかのように思い込む認識に覆いつくされているのであって、このような認識のありかたが人間の特徴であるからこそ、映画やマンガの虚構を現実のように感動したり、泣いたり、思い入れができるのである。

 つまりは過去というもはや存在しないものを認識することが人間の認識能力だからこそ、映画や物語のフィクションは現実のように感情移入ができるのである。過去がフィクションであるからこそ、われわれは虚構に入れ込むことができる。現実といわれるものが、フィクションとしか認識できないからこそ、映画やフィクションはふつうのように楽しめるのである。

 われわれは、「過去はある」と思って暮らしている。しかし、もはや時間は去っていき、過去はどこにも存在しなくなっている。記憶や回想によってそれは捉えなおされるのだが、もはやそれは存在しなくなっている。フィクションとしか、人間は過去を認識できないのである。

 われわれの社会は、思考というものをとても大切にする。能力や才能や、功績をもたらすものは思考なのだから、もっともっと考えることを奨励される。しかし、思考というのもどこにも存在しないもので、頭の中にしか存在しないものであることは忘れられる。

 思考に集中し、過去をなんども思い出し、反省したり、検討したり、改善したりしようとすることが習い性になっている。そのうちに、思考すること、考えることが、自分という存在であると思い込むようになり、思考以外にわたしはありえないと思い込むようになる。しかし思考というのはどこにも存在しないもので、頭の中にしか存在しないものではなかったのか。

 考えるわたしは、過去に人が自分をどうあつかったか、どのような言動をしたか、わたしはなにをいったかばかり過去を反芻するようになり、羞恥や後悔や、屈辱にまみれてゆく。そういう過去の反芻や思考でのイメージによって、「わたしとはこのような人物」であるというイメージがつくられてゆく。これが「自我」や「わたし」といわれるものである。

 しかし思考やイメージというのは、存在しないものであり、頭の中以外にどこも存在しないものではなかったのか。思考にどっぷりに染まった人間にはもはやそれが存在しないイメージであるということを忘れ、それ以外に自分はありえないと思い込むようになる。

 「イメージ」というのは、わたしなのだろうか。わたしは身体をまとった存在であり、頭の中のわたしとは、このわたしの全部を代表する存在なのだろうか。それは地図を現実の土地のように思い込むまちがいではないのか。さらには、思考やイメージといったものは、頭の中以外にどこにも存在しない。

 私たちは、頭の中で思い描いたものにすぎないものを、現実と思うカンチガイにはまってゆく。宇宙を想像しても、それは現実の宇宙ではない。われわれは宇宙そのものを地球から出て見ることはできない。映像や写真は伝達されるが、それはイメージでしかないもので、現実ではない。

 こうやって、われわれは存在しない壮大なフィクションの世界にどっぷり浸かってゆく。思考や過去など存在しないものが現実であると思い込む世界にどっぷりと浸かる。思い描かれた存在しないものが、現実に存在するものという思い込みにはまってゆくのである。

 虚構の劇場が問題になるのは、それが壊れた機械のように、つらいこと、いやなこと、悲しいことばかり再演するばあいだろう。人は問題や危機となることを再検討するようにできている。問題から逃れることが生物としては大切だからである。そうするとつらいこと、いやなことばかり再現する壊れた機械になってしまう。

 時間は永遠に去ってもはやどこにも存在しないのに、回想や思考はそればかりをくりかえし見るようになる。存在しない悪夢はいつでも再演可能である。虚構の劇場から出れなくなったわれわれは、それが存在しない想像であることに思いもよらなくなっている。

 存在しない想像であることに気づくことは大切なことなのである。

 人間の仮構四大物に加えて、もうひとつ大切なことを忘れていた。人間は外界を変えることでしか幸福になれないという思い込みが現代ではずいぶん強くなったということである。

 その前に思考や判断という自分の考えが自分を傷めつけていることに思いもよらずに、外界が変わらないとその痛みは去らないと思っている。思考は選択できるという知識をもたないと、外界からいつまでも傷めつけられる哀れな外界の犠牲者になってしまう。

 「外界」という仮構物、あるいは初歩的な思い込みによって、われわれはたいそう世界から傷めつけられる存在になった。気をつけたいところである。

 われわれはフィクションにまみれた世界に暮らしている。それが存在しないもの、想像にすぎないことに思いもよらないものになっている。フィクションの中で、悲しんだり、苦しんだり、嘆いたりしている。

 その虚構世界が現実には存在しないこと、ただの想像力にすぎないことに気づいたら、わたしたちはずいぶん苦しみから解放されるのではないだろうか。

 それは存在しない。それは想像にすぎない。しかしわれわれはあまりにも存在しない想像にすぎないものを現実に、リアルに存在すると思い込む世界観に浸かっているために、虚構の劇場の悲劇からは逃れられないのである。


03 22
2017

幻想現実論再読

人は存在しないものに泣いたり、悲しんだり、苦しんだりしている

 想像は存在しないものという実感が強くなると、過去を思い出して泣いている人は、存在していないものに泣いていると見えて驚いた。

 過去の思い出なんて、現在はどこにも存在しないものである。しかしわれわれは現実にあるかのように、目の前にあるかのように過去を思い出して、悲しみに襲われてしまう。われわれのごく一般の反応である。

 われわれは思い出に浸ることを甘美なことであり、よいことだという思い込みに生きている。過去はわれわれにひんぱんに思い出されて、過去は喜びや悲しみをもよおす身近なものである。

 しかし、時間を見てみると過去は瞬間ごとになくなっていき、この地球上から永久に去ってしまう。奈落の底に呑みこまれるように存在しなくなってしまう。

 われわれの過去はもはやどこにも存在しないものである。

 わたしたちが思い出している過去とはなんだろう。もはや心象や回想や、記憶でしかない。そしてそれはどこにも実体や現実のものとしては、存在しなくなったものである。

 人は心象というものを介在させているが、もはやどこにも存在しなくなったものに、泣いたり、悲しんだり、苦しんだりしている。

 われわれは過去を思い出したり、過去を反芻し反省したり、改善することをよいこと、奨励される社会に暮らしている。そして、存在しなくなった過去を現実のように、実体のように思い出しながら、過去をいつまでも再現させる。

 しかしそれはどこにも存在しなくなったものである。まったくの無であり、空っぽであり、どこにもないものである。

 われわれはたいそう映画やマンガなどの物語が好きである。しかしこれも虚構の物語であり、どこにも存在しないものである。

 虚構は虚構とわかりながら、それを楽しんでいる。だけれど、われわれはそれで泣いたり、悲しんだり、人生を揺さぶられるほどの感動を味わったりする。この世のどこにも実体としては、存在しないものなのにである。

 もし映写されたものが見えずスクリーンの板しか見えない映画館を見たら、人々はただ板に向かって泣いたり、笑ったりしているさまが見えるだろう。本にしても、紙の箱にたいして、笑ったり、泣いたりしているさまが見えるだけである。

 われわれは存在しないものにたいして、虚空なものにたいして、ずいぶんと感情を揺さぶられる生き物なのである。

 そして時間が瞬間ごとに去ってゆくのなら、現実というものも瞬間に存在しなくなるものであり、われわれが捉えている現実というのは、もはやどこにも存在しなくなったものである。それはなんだろうか。過去の心象であり、記憶であり、想像された、頭の中にしか存在しないものである。

 われわれの現実というものこそが、虚構であり、想像であり、どこにも存在しないもの、無や虚空ではないだろうか。

 われわれは過去を思い出したり、考えたり、思ったりすることを、現実に存在しない絵空事とは捉えない。現実に存在しているリアルなものと思って暮らしている。

 人はだれかに過去にしてもらったこと、過去に言われたこと、過去の約束などを、人と守りながら、この社会で暮らしている。過去は「実在」しているものである。だからこそ、われわれ自身も過去の実体性を再現しながら、社会のルールを生きている。

 われわれは存在しない記憶や過去、考えたり、思ったことを「実在化」しなければならない社会に生きている。それがこの社会のルールである。

 しかしそのことによって過去の実体化は、われわれに何度も悲しみや恐れを無限に再現される苦しみになったりする。過去はもはや終わり、どこにも存在しなくなったものに、それは際限なくわれわれを追いつめるものになった。

 過去はいつまでも終わってはならないものになった。過去は目の前に、現実にある物体のようにリアルに存在するものになった。

 われわれは解除しなければならないのかもしれない。それが悲しみや苦しみをいつまでも引き起こすなら、それがまったく存在しない空っぽなものであることを、ときには思い出さないといけないのかもしれない。

 人に思ったり、考えたり、世の中について思うこと、捉えるということもすべて、「実体」としてはどこにも存在しないものである。それは想像や空想や、観念として頭のなかにあるだけである。地球上のどこにも存在しない。

 われわれはずいぶんと想像にすぎないものを現実に存在するものとして暮らしている。それを存在しないものとしてつねに心に刻むようにすれば、われわれはずいぶんと観念に追い込まれるものから解放されるのではないだろうか。

 われわれは存在しないものに泣いたり、悲しんだり、苦しんだりしている。それはなにもない空っぽで、奈落の底のように存在しないものなのである。


03 24
2017

幻想現実論再読

インディアンの共同幻想論「トナール」――『気流の鳴る音』 真木 悠介

4480087494気流の鳴る音
―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)

真木 悠介
筑摩書房 2003-03

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 考えることに価値をおいてきて、「付け足すこと」ばかりに向かってきた人には、はじめて出会う「そぎ落とす」ことの衝撃に出会える本だろう。

 メキシコ・インディアンの呪術師ドン・ファンから教えをうけた人類学のカスタネダが著述したものを、社会学者の真木悠介が要約した本になっている。

 これは「共同幻想」や「個人幻想」の解除の仕方をまなんだのであり、メキシコの呪術師はどこでそんな知識を獲得したのだろう。そういう人間の虚構世界の構築を、「トナール」という言葉で表現している。

「人は世界はこういうものだぞ、とおまえに教えてきたことさ。わかるか、人はわしらが生まれた時から、世界はこうこうこういうものだと言いつづける。だから自然に教えられた世界以外の世界を見ようなぞという選択の余地はなくなっちまうんだ。

いったんこのような「世界」のあり方が確立されると、われわれはそれを死ぬ日までくりかえし再生しつづける。たえまないことばの流れによって。

「わしらは自分のなかのおしゃべりでわしらの世界を守っておるのだ。わしらはそれを新生させ、生命でもえたたせ、心のなかのおしゃべりで支えているんだ」」



 みごとな共同幻想の構築の仕方を語っている。その「トナール」はインディオの守護霊であり、特定の動物に結びつけられているのだが、われわれの拘束されている世界像以外のなにものでもない。

 このような共同幻想にとりこまれていると、人は現在の充実より、時間ののちの成果や目的にとり憑かれるようになる。そうして人生の意味や明晰にこだわるようになり、「ナマの現実」からずっと疎外されてゆくことになる。トナールの対比として、「ナワール」という言葉がつかわれる。

 虚構世界はわれわれに感情をもたらし、後悔や悔恨、羞恥や悲しみをいつももよわせ、そうして人生の悲劇や苦労ばかり味わうようになる。

「わしには履歴などないのさ。履歴を消してちまうことがベストだ。そうすれば他人のわずらわしい考えから自由になれるからな」



 われわれは過去を思い出し、過去を反芻し、他人が自分にいったこと、自分がおこなったこと、いやな気分や不快になった出来事ばかりしょっちゅう思い出している。そのために人生は辛酸や陰惨な出来事で満たされる。これもトナールとよばれる個人幻想なのであって、時間機制という共同幻想が、われわれをいたぶるのである。

 カスタネダは「だれが、そんな望みをもつの?」と叫ぶ。かれは自分の履歴に愛着を感じていて、家系の源は深く、「わたしの人生の連続性も目的もなくなってしまう」と嘆く。それこそが、トナールのもたらす世界なのである。

「おまえは生活の意味をさがそうとする。戦士は意味などを問題にしない。

生活はそれ自体として充全だ。みちたりていて、説明など必要とせん」



 わたしたちは言葉や意味の世界にとらわれている。そのほかの世界も思いもよらなくなっている。トナールの世界から一歩も抜け出れなくなってしまうのである。

 禅や仏教も、この「トナール」からの脱出をもくろんでいるのであって、一般人にはそれが届かないようになっている。仏教は道徳による服従を教えられるものであり、政治的に服従する民なのだという見方で、遠ざけられる。まあ、トナールから抜け出すのはいかにむずかしく、人はどこにいてもトナールの囚人ということだね。


ドン・ファンの教え (新装版)力の話(新装・新訳版)イクストランへの旅(新装版)分離したリアリティ (新装版)未知の次元―呪術師ドン・ファンとの対話 (講談社学術文庫)


03 29
2017

幻想現実論再読

人生を変える本NO.1――『楽天主義セラピー』 リチャード・カールソン

4393710312楽天主義セラピー
リチャード・カールソン Richard Carlson
春秋社 1998-12

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 この本を知らずして、どうやって心の健康を保てるのかと疑問に思えるほど、すばらしい内容の本なのだが、絶版状態のまま文庫本にも回収されないのがナゾに思えて仕方がない。

 二十年ほど前にうつ病寸前のわたしはこの本を読んで心の革命を経験して、自分がしてきたことの愚かさをようやくわかった。それまで自己啓発のウェイン・ダイアーやノーマン・ピールの「思考は現実ではない」という意味の理解をなんとか自分のものにしようとしていたが、この本こそまさに求めていた本そのものだと思った。

 その後、リチャード・カールソンの『小さいことにくよくよするな!』は全米で500万部のベストセラーとなり、日本でも98年に170万部のベストセラーとなった。だが、この本の薄さ、軽さは、この思考の原理について説明した『楽天主義セラピー』にはとうてい及ばないもので、こちらこそロングセラーとなるべき本だと思うのに、軽い自己啓発のコラムニストとして消費されて終わってしまったのかもしれない。カールソンの45歳というとつぜんの早逝が惜しまれる。

 カールソンは思考が感情をつくっており、悲観的な気分のときに考えるとますます悲観的な思考をよびだして、よりいっそうみじめな気分になるということを、論理的に詳細に説明してくれた。われわれはこの原理さえ知らず、いや思考があることすら忘れているのではないのか。

「彼は、自分が思考を生み出していること、そしてその思考が不幸の源であることに気づいていませんでした。彼は、思考は自分の中からではなく、まわりの出来事から生まれると感じていました」



 われわれの社会は、手放しの思考を推奨する社会であり、思考しないことは痴呆であり、隷従だと教えられる社会である。思考は賢明であり、知性を付け足すものであり、すべてのものごとや過去は思考の検討をおこなわなければならない。そのことによって、思考が感情や気分を生み出すことを知らないわたしたちは、否定的で悲観的な感情をずっと自分に浴びせつづけることになるのである。

 思考と感情のつながりを知らないばかりに、わたしたちは世界の犠牲者のように思い、自分の思考が自分を傷つけていることを知らずに、他人や世界の責任にしつづける。思考と感情の因果を知らないことは目隠しをされて、自分で自分をつついているようなものだ。

「重要な点は、想像によって再現された喧嘩は、あなたが現に生きている今では、たんなる思考であり、頭の中で創られた出来事にすぎないということです。

思考は現実ではないということ、つまり、思考はたんなる思考でしかなく、思考そのものが自分を傷つけることはないのだとわかってくると、あなたの人生は今日から変わりはじめます」



 わたしたちは思考にすぎないものを、現実やリアルに迫るもの、真実や実体あるものとして経験している。この実体視をはがして、思考は思考にすぎない、たんなる考えや想像にすぎないと心の底から実感するには、ずいぶんとこの考え方をなじませるまでに骨を折らなければならないほど、思考のリアリティの世界で生きている。

 わたしはこの「思考は思考にすぎない、たんなる想像にすぎない」ということを実感するために、その後トランスパーソナル心理学や禅・仏教などの書物を漁らなければならなかったのだが、それだけ思考の実体化という習慣にどっぷり首まで浸かっていたわけだ。この思い込みに気づかないまま、一生を送る人だってたくさんいることだろう。

 この本は仏教でいう「悟り」をどこまでも言葉と論理で説明しきった本といっていいかもしれない。わたしたちは思考の現実視という過ちから、かんたんには抜け出せないのである。

 思考は思考にすぎない、たんなる想像にすぎないということから、落ち込んでいるときにその問題や解決をはかるために思考をもちいれば、よりいっそう火に薪をくべるようなことになるという原理も、カールソンは教えてくれる。「悟りの説明書」のようなものである。

 そのような歴史的な重要書と思われるものが、いまでは絶版になって文庫本ですら手に入らない。どういうことなんだろうと思う。

 できれば、小学校のころから思考と感情の因果、思考が見せる現実はじっさいには存在しないことを教えられていたら、わたしのその後の苦悩多き思考好きな人生はいくらか救われたものになっていたかもしれない。

 大多数の人は思考の現実視とそのリアリティの苦悩の世界に閉じ込められているのではないのか。感情は他人や出来事からやってきて、自分の思考がそれをつくりだしているということを知らないし、気づかない。苦悩の泥沼に閉じ込められたままだ。

 われわれの社会は思考しないことは痴呆であり、隷従と脅される社会である。そうやって自分を責めさいなます思考の世界のとりこになって、思考の実体化に囚われて、苦悩の泥沼におちいる。

 思考を捨てることは、自己啓発や新興宗教のアブナイ教義である。「思考こそがわたし」、あるいは「感情こそが自分のアイデンティティの核をつくる」と信じている社会である。カールソンが指摘するような思考と感情の過ちのループに閉じ込められたままだ。

 科学や物質消費社会というのは、思考の存在を忘れて、外界や物質の改善にしあわせを求める社会である。モノを買ったり、物質の改善をおこなうことが人類がしあわせになる唯一の道である。そうやって思考がもたらす苦悩については等閑に付される。

 われわれはハンドルのないクルマに乗せられているようなもので、あちこちにクルマをぶつけて、おまえが悪い、おまえが変わるまでわたしの心は晴れないといっている。こういった過ちに陥らないためには、思考と感情の原理というものをしっかりと知っておかなければならないのである。

 この本ほど人生を変える本はないと思う。


最初で最後の自由(覚醒ブックス)愛とは、怖れを手ばなすこと (サンマーク文庫 E- 45)どう生きるか、自分の人生!―今日を後悔しない生き方 ダイアー博士の「生活哲学」 (知的生きかた文庫)存在の詩 和尚 OSHO人生が楽になる 超シンプルなさとり方 (5次元文庫)

04 14
2017

幻想現実論再読

過去の蓄積の全否定――『自我の終焉』 クリシュナムルティ

4784101306自我の終焉―絶対自由への道
J.クリシュナムーティ  根木 宏訳
篠崎書林 1980

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4864511713最初で最後の自由(覚醒ブックス)
J・クリシュナムルティ  飯尾順生訳
ナチュラルスピリット 2015-07-22

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 クリシュナムルティをはじめて読んだ人は、いままで聞いたこともないような言葉のつながりに面喰うと思うが、一、二度読んだだけで理解できるようなシロモノではないと思う。

 明晰さを極めているのだが、最後の最後には人に教えられたこと、知識として本で読んだこと、自分の体験したこと、考え、過去や思考といったもの、クリシュナムルティのいったこともすべて否定した地点に、自分の足でたどりつけというのだから、言葉や観念に道しるべを求めてきた人には、そうとう混乱する。

 言葉や観念によって導かれるものは、過去や思考の投影したものでしかなく、「未知なもの」、「新しいもの」、「真の実在」といったものには出会えないのはとうぜんだというのである。

 透徹した明晰な心理学者につれられて、最終的にたどりつく地点は、禅僧の公案のような次元である。

 だから瞑想のような訓練や鍛錬でみちびかれるものも否定するのであって、意志の力でなされたものは、自我の拡張でしかないと喝破される。

 精神の働きを凝視して、自己認識をへた先にようやく「真の実在」はむこうからやってくるのだという。

 われわれがおこなう意志や思考、観念のよる努力はすべて逃避や回避でしかなく、自我の拡張でしかないのである。たえまない精神の凝視と理解の先にしか、あるがままに出会えないというのが、クリシュナムルティの核である。

 けっきょく、それは自我の安心や満足を求める行為でしかなく、そこに未知なものや真の実在には出会えないのである。

 過去の蓄積や持続、過去や思考からの投影では出会えない世界こそが、クリシュナムルティの導こうとしている先である。

 言葉や観念によってわれわれは導かれようとするから、未知なものに出会えない。これがむづかしすぎて、わたしなんか意志と観念による無思考の状態に安寧を求めてしまう。すくなくとも表面上には波風たたない安寧の状態がひろがっているように見えるが、クリシュナムルティによれば、それは死んだ状態にすぎないといわれる。

 クリシュナムルティの次元はたいそうむづかしく、わたしにしてきたことは、意志と観念による操作にすぎないということになる。

 意志や観念による操作もある地点まではいけると思う。クリシュナムルティの明晰さ、思考の論理性も、言葉による誘導であって、それがすべて反証の材料となって、過去の蓄積のない絶え間ない精神の凝視となって結実してゆくのだろう。

 クリシュナムルティの方法は、理知的な考察の果ての断罪やあきらめの地点につれてゆくことなのだろうか。このアプローチが合わない、むずかしすぎてたどりつけないという人もおおぜいいるだろう。

 わたしは自己啓発のウェイン・ダイアーの「思考は現実ではない」という言葉に目覚め、リチャード・カールソンの「思考は悲観に導く」、ジャンポルスキーの「他者や外界はわたしである」という道筋に理解をもとめてきた。ハリー・ベンジャミンの「自我は自画自賛のキャンペーン」であるということに、自我の情けなさも感じてきた。

 基本的に自己啓発系統は、言葉や観念による操作や誘導をおもとするものである。思考のリアリティーやヴァーチャルの世界を、言葉によって理解したり、消し去ろうとする意志をもつアプローチ法である。

 この方法にはたしかに心理セラピーの強力な面をもつのである。しかしクリシュナムルティは最終的にはこの方法も否定して、過去の蓄積なしの凝視に求めるわけだから、この地点でつい戸惑ってしまう。わたしはたんに心理的な安寧や満足を求めているにすぎないのか。それこそが、回避や逃避だと、クリシュナムルティの鋭利な眼は洞察するのである。

 意志や観念による操作によって得てきた心理的安寧をクリシュナムルティにとりあげられて、その心理的充足も手放せないなあ、とクリシュナムルティのまえで立ちすくむのである。

 わたしはまだ「想像力が存在しない」という理解を求めているのだが、それでは未知なものには出会えないのだろうなあ。

 なおこの本はイギリスで1954年に出されたクリシュナムルティのいちばん古い本で、その後は講演をあつめたものが多く、まとまった内容の本としては、この本がいちばんなのかな。さいきんは異なったタイトルで再訳されている。

 クリシュナムルティはほかに何冊か読み、『生と覚醒のコメンタリー』全四集は三冊まで読み、あと一冊はもっと理解が増してから読もうと中断したままだが、クリシュナムルティの理解はそれほどむづかしいということである。


スタンフォードの人生観が変わる特別講義 あなたのなかに、全世界がある既知からの自由思考の限界 ―知性のまやかし―静けさの発見―二元性の葛藤を越えて (クリシュナムルティ著述集)生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈1〉

04 21
2017

幻想現実論再読

世界から切り離された自己――『無境界』 ケン・ウィルバー

4892031143無境界―自己成長のセラピー論
ケン・ウィルバー 吉福 伸逸
平河出版社 1986-06

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 西欧の知識や学問ばかりたてまつっている人にははじめて仏教や悟りがなにをいっていたのかわかる本になるだろうし、なにより西欧的などこまでも説明つくそうとするスタイルは、日本的な仏教とちがって、われわれにもっとなじみ深くなっているだろう。

 ケン・ウィルバーは西欧的な心理学――フロイトやユングから、東洋的な宗教までをひとつの階層として統合しようとした人であり、この本を読むことによって総合的に心理領域の知見をもっと広めることができるだろう。

 人間は境界を打ち立てるから、その対立や闘争に駆り立てられるのである。境界のために分断された向こう側からたえず復讐や攻撃をうけるように感じてしまう。

 われわれは自分の欠点や劣等感を隠そうとするが、その隠そうとしたことが境界を打ち立て、いつまでもぬぐいきれない神経症的症状や、どこまでいっても排除できない嫌悪する他人となって終始、自分につきまとうように感じられてしまう。

 自分にとって不都合な像を抑圧しようとしたために、浮上しようとする片割れは、自分を責め立てるようになってしまう。これが人間が最終的に打ち立ててしまう「仮面と影」のレベルである。われわれは自分のよからぬ面を抑圧したり隠そうとして、その「非自己」から追い立てられることになってしまう。

 われわれは最終的にはこの「仮面と影」の自我にいきついてしまうわけだが、その前には自分から身体を切り離して、あたかも身体は自分ではなく、自我によって操縦される乗り物のような感覚になって、身体を分断してしまう。

 そしてこの論でいけば、環境すらも自分から切り離した「自己」であったということになる。人は「自己であらざるもの」としてさまざまなものから、自己を切り離して外界をつくってゆくわけだが、仮面のレベルにいきつくまでにさまざまな切り離しがあったというのが、ケン・ウィルバーや宗教の主張するところである。

 ケン・ウィルバーは境界という空間的な見方でこれを説明するのだが、わたしは空想や幻想というアプローチで進んできたこともあって、すこし空間的な捉え方をするケン・ウィルバーには違和感がある。

 唯物論的な分断、自己の切り離しから、すべては心だという唯心論に帰る見方だという理解のほうが、わたしにはわかりやすい。

 他者がわたしに悪いことをしたからわたしの不快な気分はつくられたのだといった見方や、他者の悪い行いや言動を変えない限りわたしの心は晴れることはないといった捉え方は、自己と他者・外界を切り離した考えからおこる。

 対象もわたしの考えや思いであり、それによって自分の感情は変わり、考え方を変えればその感情は変わるし、さらにその思考をなくせば、そもそも感情すらない。「外界はわたしではない」という捉え方のまちがいは、このアプローチのほうがわかりやすい。

 「外界や他者はわたし」なのである。それは自分の心に属するがゆえに、わたしの感情や気分を決定する。外界は自分の心ではないと思っていると、他者や世界が変わるまでわたしの心が晴れることはない。それは自分の思考という原因を見極めないばかりに、他者の言動やおこないに終始、犠牲者にされる哀れな被害者になることである。

 それは素朴な「認識の誤り」というものでしかないものである。宗教というのは、たんに人間が陥ってしまう認識の誤りを訂正するにすぎないのではないかと思える。

 人は世界から切り離された分離した自己という捉え方を打ち立てる。そのことによって根絶やしにしようとした「自分ではないもの」にたえず復讐されたり、襲撃されるように思う事態におちいってしまう。外界との分断、切り離しが、われわれにさまざまな不幸をもたらすのではないのか。

 なにかを見よう、分析しようとしたとたん、体験や経験から切り離された自己が生まれる。体験そのものの経験から、それを見ているわたしという分断が生まれる。そうして世界から切り離された自己という強固な思い込みはどんどん成長してゆくことになるのではないだろうか。

 われわれは自我から不都合な影を切り離したように、身体を切り離し影にして、また環境も自我から切り離して、外部の影にしてしまったというのが、ケン・ウィルバーや宗教の主張するとことである。

 こういう世界観が信じられないとしても、途中のレベルではずいぶんと癒しや強力なセラピーとなるものである。とくに思考や感情に同一化しているわたしたちにとって、それらからの脱同一化は、われわれをずいぶんと安らかな境地におく。西欧心理学や自己啓発でこのレベルのセラピーを教えてくれることはまずない。

 ただケン・ウィルバーは思考が幻想や虚構であること、それが存在しないことといったアプローチからはあまり説明してくれない。過去の想起や思考が幻想であり、存在しないこと、この実感がより自身を癒してくれるセラピーになる。

 われわれは目の前に存在しない言葉や思考、会話をもつことによって、ずいぶんと幻想や虚構の世界に生きている。このことの理解のほうが、わたしにはもっと強く望まれる知見なのである。

 われわれはたえず「あるがまま」や「いま、ここ」といったものに「抵抗する」。悟ろうと意志することすら「抵抗」である。思考や想像というのは、目の前にない世界への飛翔である。わたしが融けてなくなってしまうことを恐れてしまうのだろうか。



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