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03 19
2017

幻想現実論再読

自我の情けなさ――『グルジェフとクリシュナムルティ』 ハリー ベンジャミン

4795223661グルジェフとクリシュナムルティ
―エソテリック心理学入門

ハリー ベンジャミン Harry Benjamin
コスモスライブラリー 2000-09

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 禅やキリスト教などでよく「自己を落とせ」といわれるのだが、なんのことかよくわからないと思う。この本を読めば、自我の情けなさがあぶり出されていて、自我にしがみつくのはやめようと思える本である。

 この本はおもにグルジェフの思想を紹介したものであり、正確にはその研究であるモーリス・ニコルの『グルジェフとウスペンスキーの教えに関する心理学的注解』から得られたものが主になっているが、翻訳はされていない。

「われわれが自分自身と呼んでいるものは、単に想像上の存在または錯覚にしかすぎない。それはなんら存在しないのである」



 グルジェフはいくつもの「わたし」がぶつかりあっていて、それをなんとか統合して同一のものとしてあつかっているのが、われわれの自己像なのだという。そしてそれは社会的に条件づけられた「機械」にしかすぎず、われわれはこの条件付けをくりかえし反応する機械でしかないという。ほかの覚者がいうような「眠っている、夢見ている状態」のことである。

 それを思考したり、言葉でものごとを捉えたり、過去を思い出したりして反芻していることと捉えていいかもしれない。頭の中の「わたし」はそうやって意識の中心をしめ、人にどう思われているか、あのときにあの人の反応とかを思い出しながら、そういう思考する意識を「わたし」だと思って暮らしている。

 その自我の仕事や存在理由はなにかというと、ハリー・ベンジャミンはこうのべる。

「人間は――どれほど他人によって否認されても――自分が何をしようと、言おうと、あるいは考えようと自分は正しいと自分自身の内部で確認しつつ、暮らしていくのである。

自己正当化の明白な目的は、われわれの士気――われわれが自分だと思っているパーソナリティ=人格の士気――にとって不可欠の、われわれ自身のプライドとわれわれ自身への信念を強めることである。

それは自身に何らの真の価値をもたず、そして基本的にそのことを知っているので、まったく錯覚に基づいた自分自身の価値感覚なしには生きることができないのである」



 そしてその自我がやることといえば、まるで人の頭をのぞいたのかと思えるほどの「頭の中のおしゃべり」というものの内容があからさまにされる。

「われわれは非常にしばしば、他人について、またかれらがわれわれを扱う、またはわれわれを軽んずる、またはわれわれを避けるなどなどの恥ずべきやり方について、しゃべっている。

例えば、われわれは、一定のこと――他人からの敬意など――はわれわれに帰せられる、他の人々はわれわれを好きになるべきだ、われわれは常に幸福であるべきだ、われわれは楽しい仕事、快適な家庭生活、等々を持つべきだ、外部のものごとがわれわれの安楽や楽しみを妨げるべきではない、などなどと思うかもしれない。

内なるおしゃべりの基盤は、どんな形でわれわれに来るにせよ、まさに内なる不平不満なのである。

要するに、内なるおしゃべりを通じて、われわれは自己正当化と自己賛美キャンペーンをおこない、それによって自分自身を最高度の自己評価価値に保つのである」



 頭の中のおしゃべりに覚えはないだろうか。自我というのはじつに情けないことをしている。しかもそれは想像上の産物にしかすぎない。わたしたちはこういう思考や自我をわたし自身だと思い込み、同一化しているのだが、それによって自我に翻弄され、自我の悲哀や悲嘆にくれることになる。この過ちから離れることが、わたしたちに心の安楽をもたらすのである。

 このような自我や思考の働き方を奥でながめている「真のわたし」がいるとベンジャミンやグルジェフはいうわけだが、そうなると宗教的段階になるわけだが、こういう自我からの離脱が、心の平安をもたらすのはまちがいない。

 この本は自我の情けなさから、自我の離脱をめざせるようになるだけで、じゅうぶんに価値ある本だと思うが、ちょっとほかの点でエソテリズム=秘教的すぎたり、グルジェフの独特の宇宙観がのべられていたり、研究書なむずかしさもある。

 人の頭をのぞいたのかと思うほどの情けない自我のありようを記述されるだけで、大きな収穫である。こういう「頭の中のわたし」の同一化はもう避けたいと思えるようになる。それが「自己を捨てる」ということではないだろうか。

 「自己を捨てろ」とあちこちでいわれることがわからないなと思う人は、この本に答えがあったといえるかもしれない。


生は「私が存在し」て初めて真実となるグルジェフ・ワーク―生涯と思想 (mind books)グルジェフから40年―ワーク実践のためのガイドグルジェフ・ワークの実際―性格に対するスピリチュアル・アプローチベルゼバブの孫への話―人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判

03 20
2017

幻想現実論再読

人類の壮大なフィクションが存在しないこと

 映画やマンガは存在しないフィクションであるが、泣いたり、感動したりして感情移入の度合いが深いのだが、それがまったくどこにも存在しない虚構であることには、深く思い入ることもない。

 あんなに感動した物語を、まったくぽっかりと穴の開いたような存在しないものと思いたくない。われわれの人生や世界もそのままである。ぽっかりと穴の開いた虚空だと思いたくない。

 人類は壮大なフィクションをはりめぐらせていて、それを存在しないものと思いもしなくなっている。

 人類の壮大なフィクションの仮構四大物として、「会話」、「思考」、「時間」、「自我」をあげたい。

 会話というのは、だいたいは目の前に存在しないものにたいして交わされるものである。「あの人がどうだった」「きのう、なにがあった」だの、存在しないものをおもにとりあつかう。もはや存在しないものを、あたかも「現実に」、「目の前にあるがごとく」思い込む能力が、人間の会話にあらわれる。そしてそれを「存在しないもの」ともはや思いもしなくなっている。

 「思考」もそうである。存在しない想像力である。しかしあたかも現実にあるかのように、真に迫ったものとして、われわれには認識されるようになっている。思ったり、感じたりしただけのものなのに、それが「絶対の真実」や「ほかに選択肢のない判断」のように受けとるようになっている。

 「過去」も、もはや瞬間瞬間に飛び去ってゆくものなので、われわれが捉えるときにはすでに過去になり、もはや「存在しない」ものになっている。それなのに、過去は「現実にあるもの」、あたかも「目の前にあるもの」のように捉えられる。

 われわれは、存在しないものを現実にあるかのように思い込む認識に覆いつくされているのであって、このような認識のありかたが人間の特徴であるからこそ、映画やマンガの虚構を現実のように感動したり、泣いたり、思い入れができるのである。

 つまりは過去というもはや存在しないものを認識することが人間の認識能力だからこそ、映画や物語のフィクションは現実のように感情移入ができるのである。過去がフィクションであるからこそ、われわれは虚構に入れ込むことができる。現実といわれるものが、フィクションとしか認識できないからこそ、映画やフィクションはふつうのように楽しめるのである。

 われわれは、「過去はある」と思って暮らしている。しかし、もはや時間は去っていき、過去はどこにも存在しなくなっている。記憶や回想によってそれは捉えなおされるのだが、もはやそれは存在しなくなっている。フィクションとしか、人間は過去を認識できないのである。

 われわれの社会は、思考というものをとても大切にする。能力や才能や、功績をもたらすものは思考なのだから、もっともっと考えることを奨励される。しかし、思考というのもどこにも存在しないもので、頭の中にしか存在しないものであることは忘れられる。

 思考に集中し、過去をなんども思い出し、反省したり、検討したり、改善したりしようとすることが習い性になっている。そのうちに、思考すること、考えることが、自分という存在であると思い込むようになり、思考以外にわたしはありえないと思い込むようになる。しかし思考というのはどこにも存在しないもので、頭の中にしか存在しないものではなかったのか。

 考えるわたしは、過去に人が自分をどうあつかったか、どのような言動をしたか、わたしはなにをいったかばかり過去を反芻するようになり、羞恥や後悔や、屈辱にまみれてゆく。そういう過去の反芻や思考でのイメージによって、「わたしとはこのような人物」であるというイメージがつくられてゆく。これが「自我」や「わたし」といわれるものである。

 しかし思考やイメージというのは、存在しないものであり、頭の中以外にどこも存在しないものではなかったのか。思考にどっぷりに染まった人間にはもはやそれが存在しないイメージであるということを忘れ、それ以外に自分はありえないと思い込むようになる。

 「イメージ」というのは、わたしなのだろうか。わたしは身体をまとった存在であり、頭の中のわたしとは、このわたしの全部を代表する存在なのだろうか。それは地図を現実の土地のように思い込むまちがいではないのか。さらには、思考やイメージといったものは、頭の中以外にどこにも存在しない。

 私たちは、頭の中で思い描いたものにすぎないものを、現実と思うカンチガイにはまってゆく。宇宙を想像しても、それは現実の宇宙ではない。われわれは宇宙そのものを地球から出て見ることはできない。映像や写真は伝達されるが、それはイメージでしかないもので、現実ではない。

 こうやって、われわれは存在しない壮大なフィクションの世界にどっぷり浸かってゆく。思考や過去など存在しないものが現実であると思い込む世界にどっぷりと浸かる。思い描かれた存在しないものが、現実に存在するものという思い込みにはまってゆくのである。

 虚構の劇場が問題になるのは、それが壊れた機械のように、つらいこと、いやなこと、悲しいことばかり再演するばあいだろう。人は問題や危機となることを再検討するようにできている。問題から逃れることが生物としては大切だからである。そうするとつらいこと、いやなことばかり再現する壊れた機械になってしまう。

 時間は永遠に去ってもはやどこにも存在しないのに、回想や思考はそればかりをくりかえし見るようになる。存在しない悪夢はいつでも再演可能である。虚構の劇場から出れなくなったわれわれは、それが存在しない想像であることに思いもよらなくなっている。

 存在しない想像であることに気づくことは大切なことなのである。

 人間の仮構四大物に加えて、もうひとつ大切なことを忘れていた。人間は外界を変えることでしか幸福になれないという思い込みが現代ではずいぶん強くなったということである。

 その前に思考や判断という自分の考えが自分を傷めつけていることに思いもよらずに、外界が変わらないとその痛みは去らないと思っている。思考は選択できるという知識をもたないと、外界からいつまでも傷めつけられる哀れな外界の犠牲者になってしまう。

 「外界」という仮構物、あるいは初歩的な思い込みによって、われわれはたいそう世界から傷めつけられる存在になった。気をつけたいところである。

 われわれはフィクションにまみれた世界に暮らしている。それが存在しないもの、想像にすぎないことに思いもよらないものになっている。フィクションの中で、悲しんだり、苦しんだり、嘆いたりしている。

 その虚構世界が現実には存在しないこと、ただの想像力にすぎないことに気づいたら、わたしたちはずいぶん苦しみから解放されるのではないだろうか。

 それは存在しない。それは想像にすぎない。しかしわれわれはあまりにも存在しない想像にすぎないものを現実に、リアルに存在すると思い込む世界観に浸かっているために、虚構の劇場の悲劇からは逃れられないのである。


03 22
2017

幻想現実論再読

人は存在しないものに泣いたり、悲しんだり、苦しんだりしている

 想像は存在しないものという実感が強くなると、過去を思い出して泣いている人は、存在していないものに泣いていると見えて驚いた。

 過去の思い出なんて、現在はどこにも存在しないものである。しかしわれわれは現実にあるかのように、目の前にあるかのように過去を思い出して、悲しみに襲われてしまう。われわれのごく一般の反応である。

 われわれは思い出に浸ることを甘美なことであり、よいことだという思い込みに生きている。過去はわれわれにひんぱんに思い出されて、過去は喜びや悲しみをもよおす身近なものである。

 しかし、時間を見てみると過去は瞬間ごとになくなっていき、この地球上から永久に去ってしまう。奈落の底に呑みこまれるように存在しなくなってしまう。

 われわれの過去はもはやどこにも存在しないものである。

 わたしたちが思い出している過去とはなんだろう。もはや心象や回想や、記憶でしかない。そしてそれはどこにも実体や現実のものとしては、存在しなくなったものである。

 人は心象というものを介在させているが、もはやどこにも存在しなくなったものに、泣いたり、悲しんだり、苦しんだりしている。

 われわれは過去を思い出したり、過去を反芻し反省したり、改善することをよいこと、奨励される社会に暮らしている。そして、存在しなくなった過去を現実のように、実体のように思い出しながら、過去をいつまでも再現させる。

 しかしそれはどこにも存在しなくなったものである。まったくの無であり、空っぽであり、どこにもないものである。

 われわれはたいそう映画やマンガなどの物語が好きである。しかしこれも虚構の物語であり、どこにも存在しないものである。

 虚構は虚構とわかりながら、それを楽しんでいる。だけれど、われわれはそれで泣いたり、悲しんだり、人生を揺さぶられるほどの感動を味わったりする。この世のどこにも実体としては、存在しないものなのにである。

 もし映写されたものが見えずスクリーンの板しか見えない映画館を見たら、人々はただ板に向かって泣いたり、笑ったりしているさまが見えるだろう。本にしても、紙の箱にたいして、笑ったり、泣いたりしているさまが見えるだけである。

 われわれは存在しないものにたいして、虚空なものにたいして、ずいぶんと感情を揺さぶられる生き物なのである。

 そして時間が瞬間ごとに去ってゆくのなら、現実というものも瞬間に存在しなくなるものであり、われわれが捉えている現実というのは、もはやどこにも存在しなくなったものである。それはなんだろうか。過去の心象であり、記憶であり、想像された、頭の中にしか存在しないものである。

 われわれの現実というものこそが、虚構であり、想像であり、どこにも存在しないもの、無や虚空ではないだろうか。

 われわれは過去を思い出したり、考えたり、思ったりすることを、現実に存在しない絵空事とは捉えない。現実に存在しているリアルなものと思って暮らしている。

 人はだれかに過去にしてもらったこと、過去に言われたこと、過去の約束などを、人と守りながら、この社会で暮らしている。過去は「実在」しているものである。だからこそ、われわれ自身も過去の実体性を再現しながら、社会のルールを生きている。

 われわれは存在しない記憶や過去、考えたり、思ったことを「実在化」しなければならない社会に生きている。それがこの社会のルールである。

 しかしそのことによって過去の実体化は、われわれに何度も悲しみや恐れを無限に再現される苦しみになったりする。過去はもはや終わり、どこにも存在しなくなったものに、それは際限なくわれわれを追いつめるものになった。

 過去はいつまでも終わってはならないものになった。過去は目の前に、現実にある物体のようにリアルに存在するものになった。

 われわれは解除しなければならないのかもしれない。それが悲しみや苦しみをいつまでも引き起こすなら、それがまったく存在しない空っぽなものであることを、ときには思い出さないといけないのかもしれない。

 人に思ったり、考えたり、世の中について思うこと、捉えるということもすべて、「実体」としてはどこにも存在しないものである。それは想像や空想や、観念として頭のなかにあるだけである。地球上のどこにも存在しない。

 われわれはずいぶんと想像にすぎないものを現実に存在するものとして暮らしている。それを存在しないものとしてつねに心に刻むようにすれば、われわれはずいぶんと観念に追い込まれるものから解放されるのではないだろうか。

 われわれは存在しないものに泣いたり、悲しんだり、苦しんだりしている。それはなにもない空っぽで、奈落の底のように存在しないものなのである。


03 24
2017

幻想現実論再読

インディアンの共同幻想論「トナール」――『気流の鳴る音』 真木 悠介

4480087494気流の鳴る音
―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)

真木 悠介
筑摩書房 2003-03

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 考えることに価値をおいてきて、「付け足すこと」ばかりに向かってきた人には、はじめて出会う「そぎ落とす」ことの衝撃に出会える本だろう。

 メキシコ・インディアンの呪術師ドン・ファンから教えをうけた人類学のカスタネダが著述したものを、社会学者の真木悠介が要約した本になっている。

 これは「共同幻想」や「個人幻想」の解除の仕方をまなんだのであり、メキシコの呪術師はどこでそんな知識を獲得したのだろう。そういう人間の虚構世界の構築を、「トナール」という言葉で表現している。

「人は世界はこういうものだぞ、とおまえに教えてきたことさ。わかるか、人はわしらが生まれた時から、世界はこうこうこういうものだと言いつづける。だから自然に教えられた世界以外の世界を見ようなぞという選択の余地はなくなっちまうんだ。

いったんこのような「世界」のあり方が確立されると、われわれはそれを死ぬ日までくりかえし再生しつづける。たえまないことばの流れによって。

「わしらは自分のなかのおしゃべりでわしらの世界を守っておるのだ。わしらはそれを新生させ、生命でもえたたせ、心のなかのおしゃべりで支えているんだ」」



 みごとな共同幻想の構築の仕方を語っている。その「トナール」はインディオの守護霊であり、特定の動物に結びつけられているのだが、われわれの拘束されている世界像以外のなにものでもない。

 このような共同幻想にとりこまれていると、人は現在の充実より、時間ののちの成果や目的にとり憑かれるようになる。そうして人生の意味や明晰にこだわるようになり、「ナマの現実」からずっと疎外されてゆくことになる。トナールの対比として、「ナワール」という言葉がつかわれる。

 虚構世界はわれわれに感情をもたらし、後悔や悔恨、羞恥や悲しみをいつももよわせ、そうして人生の悲劇や苦労ばかり味わうようになる。

「わしには履歴などないのさ。履歴を消してちまうことがベストだ。そうすれば他人のわずらわしい考えから自由になれるからな」



 われわれは過去を思い出し、過去を反芻し、他人が自分にいったこと、自分がおこなったこと、いやな気分や不快になった出来事ばかりしょっちゅう思い出している。そのために人生は辛酸や陰惨な出来事で満たされる。これもトナールとよばれる個人幻想なのであって、時間機制という共同幻想が、われわれをいたぶるのである。

 カスタネダは「だれが、そんな望みをもつの?」と叫ぶ。かれは自分の履歴に愛着を感じていて、家系の源は深く、「わたしの人生の連続性も目的もなくなってしまう」と嘆く。それこそが、トナールのもたらす世界なのである。

「おまえは生活の意味をさがそうとする。戦士は意味などを問題にしない。

生活はそれ自体として充全だ。みちたりていて、説明など必要とせん」



 わたしたちは言葉や意味の世界にとらわれている。そのほかの世界も思いもよらなくなっている。トナールの世界から一歩も抜け出れなくなってしまうのである。

 禅や仏教も、この「トナール」からの脱出をもくろんでいるのであって、一般人にはそれが届かないようになっている。仏教は道徳による服従を教えられるものであり、政治的に服従する民なのだという見方で、遠ざけられる。まあ、トナールから抜け出すのはいかにむずかしく、人はどこにいてもトナールの囚人ということだね。


ドン・ファンの教え (新装版)力の話(新装・新訳版)イクストランへの旅(新装版)分離したリアリティ (新装版)未知の次元―呪術師ドン・ファンとの対話 (講談社学術文庫)


03 29
2017

幻想現実論再読

人生を変える本NO.1――『楽天主義セラピー』 リチャード・カールソン

4393710312楽天主義セラピー
リチャード・カールソン Richard Carlson
春秋社 1998-12

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 この本を知らずして、どうやって心の健康を保てるのかと疑問に思えるほど、すばらしい内容の本なのだが、絶版状態のまま文庫本にも回収されないのがナゾに思えて仕方がない。

 二十年ほど前にうつ病寸前のわたしはこの本を読んで心の革命を経験して、自分がしてきたことの愚かさをようやくわかった。それまで自己啓発のウェイン・ダイアーやノーマン・ピールの「思考は現実ではない」という意味の理解をなんとか自分のものにしようとしていたが、この本こそまさに求めていた本そのものだと思った。

 その後、リチャード・カールソンの『小さいことにくよくよするな!』は全米で500万部のベストセラーとなり、日本でも98年に170万部のベストセラーとなった。だが、この本の薄さ、軽さは、この思考の原理について説明した『楽天主義セラピー』にはとうてい及ばないもので、こちらこそロングセラーとなるべき本だと思うのに、軽い自己啓発のコラムニストとして消費されて終わってしまったのかもしれない。カールソンの45歳というとつぜんの早逝が惜しまれる。

 カールソンは思考が感情をつくっており、悲観的な気分のときに考えるとますます悲観的な思考をよびだして、よりいっそうみじめな気分になるということを、論理的に詳細に説明してくれた。われわれはこの原理さえ知らず、いや思考があることすら忘れているのではないのか。

「彼は、自分が思考を生み出していること、そしてその思考が不幸の源であることに気づいていませんでした。彼は、思考は自分の中からではなく、まわりの出来事から生まれると感じていました」



 われわれの社会は、手放しの思考を推奨する社会であり、思考しないことは痴呆であり、隷従だと教えられる社会である。思考は賢明であり、知性を付け足すものであり、すべてのものごとや過去は思考の検討をおこなわなければならない。そのことによって、思考が感情や気分を生み出すことを知らないわたしたちは、否定的で悲観的な感情をずっと自分に浴びせつづけることになるのである。

 思考と感情のつながりを知らないばかりに、わたしたちは世界の犠牲者のように思い、自分の思考が自分を傷つけていることを知らずに、他人や世界の責任にしつづける。思考と感情の因果を知らないことは目隠しをされて、自分で自分をつついているようなものだ。

「重要な点は、想像によって再現された喧嘩は、あなたが現に生きている今では、たんなる思考であり、頭の中で創られた出来事にすぎないということです。

思考は現実ではないということ、つまり、思考はたんなる思考でしかなく、思考そのものが自分を傷つけることはないのだとわかってくると、あなたの人生は今日から変わりはじめます」



 わたしたちは思考にすぎないものを、現実やリアルに迫るもの、真実や実体あるものとして経験している。この実体視をはがして、思考は思考にすぎない、たんなる考えや想像にすぎないと心の底から実感するには、ずいぶんとこの考え方をなじませるまでに骨を折らなければならないほど、思考のリアリティの世界で生きている。

 わたしはこの「思考は思考にすぎない、たんなる想像にすぎない」ということを実感するために、その後トランスパーソナル心理学や禅・仏教などの書物を漁らなければならなかったのだが、それだけ思考の実体化という習慣にどっぷり首まで浸かっていたわけだ。この思い込みに気づかないまま、一生を送る人だってたくさんいることだろう。

 この本は仏教でいう「悟り」をどこまでも言葉と論理で説明しきった本といっていいかもしれない。わたしたちは思考の現実視という過ちから、かんたんには抜け出せないのである。

 思考は思考にすぎない、たんなる想像にすぎないということから、落ち込んでいるときにその問題や解決をはかるために思考をもちいれば、よりいっそう火に薪をくべるようなことになるという原理も、カールソンは教えてくれる。「悟りの説明書」のようなものである。

 そのような歴史的な重要書と思われるものが、いまでは絶版になって文庫本ですら手に入らない。どういうことなんだろうと思う。

 できれば、小学校のころから思考と感情の因果、思考が見せる現実はじっさいには存在しないことを教えられていたら、わたしのその後の苦悩多き思考好きな人生はいくらか救われたものになっていたかもしれない。

 大多数の人は思考の現実視とそのリアリティの苦悩の世界に閉じ込められているのではないのか。感情は他人や出来事からやってきて、自分の思考がそれをつくりだしているということを知らないし、気づかない。苦悩の泥沼に閉じ込められたままだ。

 われわれの社会は思考しないことは痴呆であり、隷従と脅される社会である。そうやって自分を責めさいなます思考の世界のとりこになって、思考の実体化に囚われて、苦悩の泥沼におちいる。

 思考を捨てることは、自己啓発や新興宗教のアブナイ教義である。「思考こそがわたし」、あるいは「感情こそが自分のアイデンティティの核をつくる」と信じている社会である。カールソンが指摘するような思考と感情の過ちのループに閉じ込められたままだ。

 科学や物質消費社会というのは、思考の存在を忘れて、外界や物質の改善にしあわせを求める社会である。モノを買ったり、物質の改善をおこなうことが人類がしあわせになる唯一の道である。そうやって思考がもたらす苦悩については等閑に付される。

 われわれはハンドルのないクルマに乗せられているようなもので、あちこちにクルマをぶつけて、おまえが悪い、おまえが変わるまでわたしの心は晴れないといっている。こういった過ちに陥らないためには、思考と感情の原理というものをしっかりと知っておかなければならないのである。

 この本ほど人生を変える本はないと思う。


最初で最後の自由(覚醒ブックス)愛とは、怖れを手ばなすこと (サンマーク文庫 E- 45)どう生きるか、自分の人生!―今日を後悔しない生き方 ダイアー博士の「生活哲学」 (知的生きかた文庫)存在の詩 和尚 OSHO人生が楽になる 超シンプルなさとり方 (5次元文庫)

04 14
2017

幻想現実論再読

過去の蓄積の全否定――『自我の終焉』 クリシュナムルティ

4784101306自我の終焉―絶対自由への道
J.クリシュナムーティ  根木 宏訳
篠崎書林 1980

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4864511713最初で最後の自由(覚醒ブックス)
J・クリシュナムルティ  飯尾順生訳
ナチュラルスピリット 2015-07-22

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 クリシュナムルティをはじめて読んだ人は、いままで聞いたこともないような言葉のつながりに面喰うと思うが、一、二度読んだだけで理解できるようなシロモノではないと思う。

 明晰さを極めているのだが、最後の最後には人に教えられたこと、知識として本で読んだこと、自分の体験したこと、考え、過去や思考といったもの、クリシュナムルティのいったこともすべて否定した地点に、自分の足でたどりつけというのだから、言葉や観念に道しるべを求めてきた人には、そうとう混乱する。

 言葉や観念によって導かれるものは、過去や思考の投影したものでしかなく、「未知なもの」、「新しいもの」、「真の実在」といったものには出会えないのはとうぜんだというのである。

 透徹した明晰な心理学者につれられて、最終的にたどりつく地点は、禅僧の公案のような次元である。

 だから瞑想のような訓練や鍛錬でみちびかれるものも否定するのであって、意志の力でなされたものは、自我の拡張でしかないと喝破される。

 精神の働きを凝視して、自己認識をへた先にようやく「真の実在」はむこうからやってくるのだという。

 われわれがおこなう意志や思考、観念のよる努力はすべて逃避や回避でしかなく、自我の拡張でしかないのである。たえまない精神の凝視と理解の先にしか、あるがままに出会えないというのが、クリシュナムルティの核である。

 けっきょく、それは自我の安心や満足を求める行為でしかなく、そこに未知なものや真の実在には出会えないのである。

 過去の蓄積や持続、過去や思考からの投影では出会えない世界こそが、クリシュナムルティの導こうとしている先である。

 言葉や観念によってわれわれは導かれようとするから、未知なものに出会えない。これがむづかしすぎて、わたしなんか意志と観念による無思考の状態に安寧を求めてしまう。すくなくとも表面上には波風たたない安寧の状態がひろがっているように見えるが、クリシュナムルティによれば、それは死んだ状態にすぎないといわれる。

 クリシュナムルティの次元はたいそうむづかしく、わたしにしてきたことは、意志と観念による操作にすぎないということになる。

 意志や観念による操作もある地点まではいけると思う。クリシュナムルティの明晰さ、思考の論理性も、言葉による誘導であって、それがすべて反証の材料となって、過去の蓄積のない絶え間ない精神の凝視となって結実してゆくのだろう。

 クリシュナムルティの方法は、理知的な考察の果ての断罪やあきらめの地点につれてゆくことなのだろうか。このアプローチが合わない、むずかしすぎてたどりつけないという人もおおぜいいるだろう。

 わたしは自己啓発のウェイン・ダイアーの「思考は現実ではない」という言葉に目覚め、リチャード・カールソンの「思考は悲観に導く」、ジャンポルスキーの「他者や外界はわたしである」という道筋に理解をもとめてきた。ハリー・ベンジャミンの「自我は自画自賛のキャンペーン」であるということに、自我の情けなさも感じてきた。

 基本的に自己啓発系統は、言葉や観念による操作や誘導をおもとするものである。思考のリアリティーやヴァーチャルの世界を、言葉によって理解したり、消し去ろうとする意志をもつアプローチ法である。

 この方法にはたしかに心理セラピーの強力な面をもつのである。しかしクリシュナムルティは最終的にはこの方法も否定して、過去の蓄積なしの凝視に求めるわけだから、この地点でつい戸惑ってしまう。わたしはたんに心理的な安寧や満足を求めているにすぎないのか。それこそが、回避や逃避だと、クリシュナムルティの鋭利な眼は洞察するのである。

 意志や観念による操作によって得てきた心理的安寧をクリシュナムルティにとりあげられて、その心理的充足も手放せないなあ、とクリシュナムルティのまえで立ちすくむのである。

 わたしはまだ「想像力が存在しない」という理解を求めているのだが、それでは未知なものには出会えないのだろうなあ。

 なおこの本はイギリスで1954年に出されたクリシュナムルティのいちばん古い本で、その後は講演をあつめたものが多く、まとまった内容の本としては、この本がいちばんなのかな。さいきんは異なったタイトルで再訳されている。

 クリシュナムルティはほかに何冊か読み、『生と覚醒のコメンタリー』全四集は三冊まで読み、あと一冊はもっと理解が増してから読もうと中断したままだが、クリシュナムルティの理解はそれほどむづかしいということである。


スタンフォードの人生観が変わる特別講義 あなたのなかに、全世界がある既知からの自由思考の限界 ―知性のまやかし―静けさの発見―二元性の葛藤を越えて (クリシュナムルティ著述集)生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈1〉

04 21
2017

幻想現実論再読

世界から切り離された自己――『無境界』 ケン・ウィルバー

4892031143無境界―自己成長のセラピー論
ケン・ウィルバー 吉福 伸逸
平河出版社 1986-06

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 西欧の知識や学問ばかりたてまつっている人にははじめて仏教や悟りがなにをいっていたのかわかる本になるだろうし、なにより西欧的などこまでも説明つくそうとするスタイルは、日本的な仏教とちがって、われわれにもっとなじみ深くなっているだろう。

 ケン・ウィルバーは西欧的な心理学――フロイトやユングから、東洋的な宗教までをひとつの階層として統合しようとした人であり、この本を読むことによって総合的に心理領域の知見をもっと広めることができるだろう。

 人間は境界を打ち立てるから、その対立や闘争に駆り立てられるのである。境界のために分断された向こう側からたえず復讐や攻撃をうけるように感じてしまう。

 われわれは自分の欠点や劣等感を隠そうとするが、その隠そうとしたことが境界を打ち立て、いつまでもぬぐいきれない神経症的症状や、どこまでいっても排除できない嫌悪する他人となって終始、自分につきまとうように感じられてしまう。

 自分にとって不都合な像を抑圧しようとしたために、浮上しようとする片割れは、自分を責め立てるようになってしまう。これが人間が最終的に打ち立ててしまう「仮面と影」のレベルである。われわれは自分のよからぬ面を抑圧したり隠そうとして、その「非自己」から追い立てられることになってしまう。

 われわれは最終的にはこの「仮面と影」の自我にいきついてしまうわけだが、その前には自分から身体を切り離して、あたかも身体は自分ではなく、自我によって操縦される乗り物のような感覚になって、身体を分断してしまう。

 そしてこの論でいけば、環境すらも自分から切り離した「自己」であったということになる。人は「自己であらざるもの」としてさまざまなものから、自己を切り離して外界をつくってゆくわけだが、仮面のレベルにいきつくまでにさまざまな切り離しがあったというのが、ケン・ウィルバーや宗教の主張するところである。

 ケン・ウィルバーは境界という空間的な見方でこれを説明するのだが、わたしは空想や幻想というアプローチで進んできたこともあって、すこし空間的な捉え方をするケン・ウィルバーには違和感がある。

 唯物論的な分断、自己の切り離しから、すべては心だという唯心論に帰る見方だという理解のほうが、わたしにはわかりやすい。

 他者がわたしに悪いことをしたからわたしの不快な気分はつくられたのだといった見方や、他者の悪い行いや言動を変えない限りわたしの心は晴れることはないといった捉え方は、自己と他者・外界を切り離した考えからおこる。

 対象もわたしの考えや思いであり、それによって自分の感情は変わり、考え方を変えればその感情は変わるし、さらにその思考をなくせば、そもそも感情すらない。「外界はわたしではない」という捉え方のまちがいは、このアプローチのほうがわかりやすい。

 「外界や他者はわたし」なのである。それは自分の心に属するがゆえに、わたしの感情や気分を決定する。外界は自分の心ではないと思っていると、他者や世界が変わるまでわたしの心が晴れることはない。それは自分の思考という原因を見極めないばかりに、他者の言動やおこないに終始、犠牲者にされる哀れな被害者になることである。

 それは素朴な「認識の誤り」というものでしかないものである。宗教というのは、たんに人間が陥ってしまう認識の誤りを訂正するにすぎないのではないかと思える。

 人は世界から切り離された分離した自己という捉え方を打ち立てる。そのことによって根絶やしにしようとした「自分ではないもの」にたえず復讐されたり、襲撃されるように思う事態におちいってしまう。外界との分断、切り離しが、われわれにさまざまな不幸をもたらすのではないのか。

 なにかを見よう、分析しようとしたとたん、体験や経験から切り離された自己が生まれる。体験そのものの経験から、それを見ているわたしという分断が生まれる。そうして世界から切り離された自己という強固な思い込みはどんどん成長してゆくことになるのではないだろうか。

 われわれは自我から不都合な影を切り離したように、身体を切り離し影にして、また環境も自我から切り離して、外部の影にしてしまったというのが、ケン・ウィルバーや宗教の主張するとことである。

 こういう世界観が信じられないとしても、途中のレベルではずいぶんと癒しや強力なセラピーとなるものである。とくに思考や感情に同一化しているわたしたちにとって、それらからの脱同一化は、われわれをずいぶんと安らかな境地におく。西欧心理学や自己啓発でこのレベルのセラピーを教えてくれることはまずない。

 ただケン・ウィルバーは思考が幻想や虚構であること、それが存在しないことといったアプローチからはあまり説明してくれない。過去の想起や思考が幻想であり、存在しないこと、この実感がより自身を癒してくれるセラピーになる。

 われわれは目の前に存在しない言葉や思考、会話をもつことによって、ずいぶんと幻想や虚構の世界に生きている。このことの理解のほうが、わたしにはもっと強く望まれる知見なのである。

 われわれはたえず「あるがまま」や「いま、ここ」といったものに「抵抗する」。悟ろうと意志することすら「抵抗」である。思考や想像というのは、目の前にない世界への飛翔である。わたしが融けてなくなってしまうことを恐れてしまうのだろうか。



万物の理論-ビジネス・政治・科学からスピリチュアリティまで-万物の歴史インテグラル・スピリチュアリティ存在することのシンプルな感覚統合心理学への道―「知」の眼から「観想」の眼へ


04 29
2017

幻想現実論再読

「見るもの」と「見られるもの」の分離――『意識のスペクトル』 ケン・ウィルバー

316n1KylMBL__SL500_BO1,204,203,200_意識のスペクトル 1 意識の進化
ケン・ウィルバー
春秋社 1985-05

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21zbHXe__HL__BO1,204,203,200_意識のスペクトル 2 意識の深化
ケン・ウィルバー
春秋社 1985-12

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 この本の後に出された『無境界』がコンパクト版であり、簡明版であり、本書はもっと詳細で、ところどころ難解であり、見出しも少なくて長い文章につかれるところもある。

 構成はおなじ順番で、悟りの世界が描かれ、つぎに自我と影、身体と環境といった狭められた自己の境界がのべられ、さいごに悟りの世界にもどってくる構成になっている。

 悟りの世界の説明や多くの引用にうちのめされる貴重な紹介書となっており、ケン・ウィルバーの論理を極めた文章にはじめてその世界の詳細を知りえた気持ちになれるのだが、実感や腑に落ちた感がともなわない欲求不満を感じてしまう本である。

「このように、われわれが知る世界が、世界そのものを見るために構築されるという事実からわれわれは逃れられない。だが、そのためにはまず、少なくても見る状態と見られる状態とに、世界そのものを分断しなければならないのは明白である」 スペンサー・ブラウン



 わたしたちは世界を見るためにまず世界を分断する。「見るもの」と「見られるもの」の分断をもたらして、はじめて世界は「知られるもの」となる。

「ページという別の感覚を知覚するわたし自身と呼ばれる感覚が、存在するわけなどないのだ! 一つの感覚が、あるだけなのである。そして、客観的にアプローチされたものを、われわれは「ページ」と呼び、主観的にアプローチされたものを「自己」と名づけている。実際に、それらが外部にあると感じる分だけ、われわれは幻想にとらわれている。つまり、すべての対象は幻想であり、頭の産物なのである」



 覚者のいう世界は、見るものと見られるものが分離されない一体の、ひとつながりの世界である。人は、そこに「見るわたし」「おこなうわたし」を導入して、世界を分断する。その間隙のスキ間がどんどん広がっていったのが、わたしたちの生であるというのである。

 恐怖や怒りをおぼえたとき、わたしたちはなんとかしなければならないとして、それを改善したり抑えようとする。しかしそれは失敗する。「体験」しかないところに、体験「者」を導入してしまって、新たな引き裂かれ抵抗する状態をつくり、もとの感情を長引かせてしまう。わたしたちは感情という体験を、ただ起こせるに任せ、終わるのに任せるしかないのである。わたしたちの認識の誤りは、こんなところにも顔をのぞかせる。

「では、わたしのなかにあって、眺めたり、見たり、読んだり、聞いたり、考えたりしているのは「何か」? 見ているのは、わたしの主観的な自我的自己であるはずがない。なぜなら、それは見られうるものだからだ。ファン・ボが述べているように、「知覚されるものは、知覚できないことを思い出してもらいたい」。換言すれば、わたしの「自己」は知覚されるゆえに、知覚している当体ではありえないのだ」



 見る目が目自体を見ることができないように、手が手をつかむことができないように、わたしたちは見ている主体をつかむことはできない。それこそが、真の主体だと覚者たちはいうのである。そしてそれは、絶対に見ることはできない。


 ケン・ウィルバーはこのような二元論の発生する源として、言語や共同幻想を「偉大なるフィルター」として名づけるのだが、ケン・ウィルバーの述べる意識のスペクトルはいささか「空間論的」であって、われわれはまずこの壮大な「空想の体系」というものを、事細かに詳細に知る尽くすべきなのではないかと思う。

 存在しない架空の構造物にわれわれは浸食され、支配され、現実のリアリティにいっさい触れられないようになっている。

 その空想や観念に逃げ込むように仕向ける「時間の発生」について、ケン・ウィルバーは秀逸な論考を発揮しており、時間を知ることにより、有限な生を知った人間は、安全をもとめた「観念」の世界にどんどん逃げ込むのである。

「つまり、第二の二元論の葛藤において、死を受け入れられない人間は、死ぬべき運命にある自らの有機体を捨て、「単なる」肉体より「確実」で傷つきにくいもの、すなわち観念に逃げこむのである。死を避ける人間は、無常の身体から逃れ、一見、死なないかに見える観念上の自分自身に同一化するのだ」



 記憶を現在から切り離し、現在と違った過去があると思い込むようになり、それを未来にも敷衍する。そしてあらわれる有限の生という空想によって死を恐れるようになる人間は、ますます観念や空想になかに逃げ込むようになる。空想が怖れさせて、ますます空想になかに逃げ込むといったからくりである。

「永遠とは果てしなくつづく時間的な持続ではなく、無時間性というヴィトゲンシュタインの指摘は、繰り返す価値がある。…永遠とは果てしなくつづく時間でも、一秒の断片でもない。むしろ、それは時間をもたず、まったき今に存在する日付も期間もない瞬間なのである。この現在の瞬間は、過去も未来も知らないために、それ自体無時間的である。そして、時間をもたないものは、永遠である」



 わたしたちは分断につぐ分断によって、有限で限られたものを恐れて、どんどん空想のなかに逃げ込むという構造があるのかもしれない。もし、分断のないひとつながりの世界だけがあるとしたら、わたしたちは恐れのない世界を体験できるかもしれない。分断を生み出すものは、想像力や空想である。存在しないものである。

「人間のアイデンティティはトータルな心身の有機体から、イメージとしての自分自身、自我へと移行するが、この自我は、皮肉にも、もっぱら過去を基盤とするため、まぎれもなく死んでいる。つまり、人間は、死の幻想を回避するために、自らを徐々に殺す羽目になるのである」




 ケン・ウィルバーや覚者のいうような分断も分離もない一体の世界をわたしは実感も体験もすることができず、「見るもの」と「見られるもの」の分離と、モノで隔絶された世界以外のものの見方ができない世界に閉じ込められている。

 ケン・ウィルバーのさししめす二元論のない世界のことをいくら読んでみても、はがゆい欲求不満が残るだけである。しかし、もしかしてそうかもしれないと思う地点にいる。空想と想像力がつくりだした恐ろしいほどの壮大なフィルターを、すこしは崩すことができてきたからだ。

 わたしたちは言語や空想というフィルターによって、知覚する世界すらゆがめて見ているのかもしれない。分断も分離もない世界を体験することができるだろうか。


無境界―自己成長のセラピー論存在することのシンプルな感覚実践インテグラル・ライフ―自己成長の設計図統合心理学への道―「知」の眼から「観想」の眼へインテグラル・スピリチュアリティ


05 16
2017

幻想現実論再読

自己と世界の合一――『世界の名著 (1)  バラモン教典 原始仏典』

412400611X世界の名著 (1) バラモン教典 原始仏典  (中公バックス)
大河内 一男
中央公論新社 1979-02

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 ケン・ウィルバーの「境界なき世界」、「ひとつながりの世界」、「見るものと見られるものの同一」は、仏教というよりか、ヒンドゥー教やバラモン教により近い。

 ということで、『ウパニシャッド』と『バガヴァッド・ギーター』が所収されたこの本をひっぱりだして読んだ。バラモン教といえばなんとなくなじみが薄く感じられるが、インド哲学であり、仏教の生まれ出た世界観を内包している世界観である。

「見ることの背後にある見る主体を、あなたは見ることができない。聞くことの背後にある聞く主体を、あなたは聞くことができない。思考の背後にある思考者を、あなたは思考することができない。認識の背後にある認識者を、あなたは認識することはできない。この(見・聞・思考・認識の主体としての)あなたのアートマンが、万物に内在しているのである。これ以外のものは災いがある」



 『ウパニシャッド』からの引用である。

「聡明な者(アートマン)は生まれもせず、また死にもしない。これはいずこから来たのでもなく、まただれかになったこともない。この太古以来のものは、不生、恒常、永遠であって、たとえ身体が傷つけれても傷つけられはしない。
…原子よりもさらに微さく、大きいものよりもさらに大きいアートマンは、この世の被造物の胸奥におかれている。
…アートマンはすわっていながら遠くにおもむき、臥していながらあらゆるところに至る。
…このアートマンは教えによっては得られない。知性によっても、聖典をひろく学ぶことによっても。これが選ぶ人によってのみ、それは得られる。その人にこのアートマンは自らのすがたをあらわす」



 言葉による分別や分断はないという意味なのか、霊魂のような存在を想定しているのか、わたしにはよくわからない。この個我であるアートマンと、宇宙に偏在するブラフマンが同一であることを説くのがバラモン教の特徴であって、それは「わたしは世界であり、世界はわたしである」という宇宙の合一とおなじことである。仏教はえてして、この根本目的が見えないことがある。

「彼のすがたは目に見えず、だれも彼を目で見ることはない。彼は心によって、思惟によって、思考力によって表象される。このことを知る人々は不死となる。
五感の知覚も思考力も静止し、理性も活動しないとき、それを人々は最高の帰趨という。
…ことばによっても、思考力によっても、視覚によっても、それ(アートマン)は得られない。それは「ある」という以外には、どのようにして理解されよう」



 知覚によって知りえないものをどうやって知りえるというのだろうか。霊魂の離脱のような状態をいうのかもしれないが、そのような存在を現代に信じてよいものだろうか。宗教はなぜにそのような目的を現代でも持ちえるのだろう。

「非顕現の形相をもつわたしによって、この世界は満たされている。一切万物はわたしのなかに内在するが、わたしはそれらのなかには存在しない。
かといって、万物はわたしのなかに内在しない。…わたしの本体は万物を支え、万物の創造者であるが、本来、万物のなかには存在しない。
あたかもいたるところに吹く強力な風が、つねに虚空のなかに存在するように、一切万物はわたしのなかに内在すると知れ」



 『バガヴァッド・ギーター』からの引用である。世界に遍在するブラフマンの説明であるが、存在するが存在しないような不可思議な説かれ方をする。

「はじめがなく、中間がなく、終わりがなく、無限の力をもち、無限の腕をもち、日月を眼とし、火炎をあげる祭火を口とし、自己の光明をもってこの全世界を熱するおん身を、わたしは見ます。
なぜなら、天と地とのあいだのこの空間、およびあらゆる方角は、おん身によって満たされていますから」



 分断も分離もされないブラフマンという存在。わたしたちは多様性のある物体の世界を生きているのだが、バラモン教はそれを否定する。

「それ(知られるべきもの、ブラフマン)は、あらゆる方向に手と足をもち、あらゆる方向に眼と頭と口をもち、あらゆる方向に耳をもち、またすべてを包んで、この世界に存在している。
それは、すべての感覚器官をもつかにみえて、しかもすべての感覚器官をもたず、執着を離れ、すべてを保持し、成分をもたず、しかも成分を享受する。
それは万物の外にあり、また内にあり、不動であり、また(身体と結合して)動く。微細であるために認識されず、遠方にあると同時にまた近くにある」



 ブラフマンはあまり人格とされない神といったものかもしれない。あらゆるところに偏在し、あなたはそれであるといわれるブラフマンやアートマン。神の原始的形態はこのようなものだったと思われるのである。


 この本はほかにバラモン教典として、『ヨーガ根本聖典』やシャンカラの『不二一元論』、『バーガヴァダ・プラーナ』などが収められている。

 原始仏典では『ミリンダ王の問い』が秀逸で、あなたや車はどれなのかと問うてゆく展開は参考になる。輪廻の主体はなにかという問いにつながるわけだけど。


 バラモン教のブラフマンとアートマンの合一は、悟りの目的のあり方を、かんたんなかたちで明確にあらわしていると思う。仏教になると合一の目的が見えず、道徳や心の安寧だけが表面に見えるようになったりして、根本目的がおうおうにして見えなくなっていることがある。ということで、バラモン教、ヒンドゥー教、インド哲学は、基本的な哲学としておさえておきたいと思わせるものだ。



ウパニシャッド (講談社学術文庫)はじめてのインド哲学 (講談社現代新書)バガヴァッド・ギーターの世界―ヒンドゥー教の救済 (ちくま学芸文庫)インド哲学へのいざない ヴェーダとウパニシャッド (NHKライブラリー)インドの「一元論哲学」を読む―シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待)


05 20
2017

幻想現実論再読

仏教では根本目的が欠落していないか?――『インド哲学へのいざない』 前田 専学

4140841265インド哲学へのいざない
ヴェーダとウパニシャッド (NHKライブラリー)

前田 専学
NHK出版 2000-12-13

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 図書館ではじめて借りて読んだ。赤線が引けないので、スマホのクリア・スキャナーというアプリで、明記したい文章をなんどもパシャパシャ撮った。でも赤線引きたかった箇所をふくめ、全体の把握がむずかしいなあ。

 この本ではおもにヴェーダとウパニシャッドが紹介されていて、ヴェーダが神話であり、ウパニシャッドが哲学であることがわかった。

 バラモン教やインド哲学にひかれたのは、ブラフマンとアートマンの合一であり、「世界はわたしであり、わたしは世界である」という悟りの境地を、わかりやすいかたちで説いているからである。

 仏教になると人格道徳が表に聞こえてきたり、心を清浄にする瞑想が表に立っていたり、世界との合一という目的が見えにくかったりする。この根本目的を見失った仏教は、ほんらいの役割を果たせているのか。

「プルシャより上には、何ものも存在しない。それより繊細なものは何ものもなく、これより広大なものは何ものもなし。唯一者は木のごとく確乎として天にある。このプルシャによって万有は満たされている。
この神は、万物の顔・頭・頸である。万物の心の中にかくれ、万有に遍満する。それゆえにかれは一切処に存在するシヴァである。
プルシャは千の頭があり、千の眼があり、千の足があった。かれはあらゆる方角にわたって大地を覆い尽くして、なお十指の長さを残して立っていた(『リグ・ヴェーダ』)。



 ここではプルシャやシヴァとよばれているが、区別はよくわからないが、インドではブラフマンとよばれているものに相当するだろう。世界や宇宙はそれによって満たされており、あなたはそれである、というのがバラモン教やインド思想の根本思想である。

 そういう全体の方向から指したものがブラフマンであり、個人の側から指したものがアートマンになる。それは同一のものと説かれる。どちらから見ても、それは「ひとつの同じもの」と説かれる。

 わたしたちは個体であり、ひとつの身体をもった有限の存在であると認識するのはごく当たり前の感覚なのだが、インド思想では世界はひとつの身体、ブラフマンという神の身体であることが説かれる。日常の感覚ではまったく垣間見えない世界なのであるが、それはどのようにしたら認識できるようになるというのだろう?

「声なく、触覚もなく、形もなく、消滅することもなく、また味もなく、常住であり、また香りもないものであり、始めもなく、終わりもなく、大いなるもの(個人の本体)よりも高く、恒存するもの(宇宙の本体)、――それを思念して、死の神の口から解き放たれます」



 言葉の分節や境界のない世界を指し、それは不死であり、生もないということだろうか。思弁による世界の否定が、われわれを解放するということなのだろうか。

「それだからアートマンは「…ではない、…ではない」といわれる。それは把握され得ない。なんとなれば、それは把握されないからである。それは破壊され得ない。なんとなれば、それは破壊されないからである。それは無執着である。なんとなれば、執着しないからである。それは束縛されず、動揺することなく、害されることはない。
…じつに偉大な、不生であり、不老不死で、死んだことのなく、恐怖のないアートマンは、ブラフマンである。ブラフマンはじつに恐怖のないものである。このように知る人は、恐怖のないブラフマンとなる」



 把握されないもの、知覚されないもの、認識されないものと一体になることにより、人間は憂いのないものになる。そもそも把握できないものに、それはどうやって把握されるというのだろうか?

「これこそ心臓の内に存するアートマンである。それは米粒よりも、あるいは麦粒よりも、あるいは芥子粒よりも、あるいは黍粒よりも、あるいは黍粒の核よりもさらに繊細である。
しかし、また心臓の内に存するわがアートマンは、大地よりも大きく、虚空よりも大きく、天よりも大きく、これらのもろもろの世界よりも大きい」



 アートマンは極細であり、極大である。それは全宇宙にあまねく遍在するブラフマンであり、おまえはそれであると説かれる。

 インド思想では個体として存在するあり方は仮象であって、全宇宙は一体としてのブラフマンであると説かれる。そしてブラフマン、アートマンはひとつであるから対象をもたず、対象をもたないものは把握も、知覚もされないとする。ずいぶんとジレンマにおかれる説明の体系である。

 仏教思想ではこのブラフマンとアートマンの合一が、すっぽりと抜け落ちて伝わっていることが多いように感じられる。その意味で世界の一体を説くインド思想、バラモン教の知識をしっかりと保持することは大切だと思う。

 まったく咀嚼できない世界観なのであるが、世界との合一がじつにつたわりやすい世界観だと思う。


はじめてのインド哲学 (講談社現代新書)インド思想史 (岩波文庫)ウパニシャッド (講談社学術文庫)ウパデーシャ・サーハスリー―真実の自己の探求 (岩波文庫)バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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