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05 25
2018

幻想現実論再読

中国禅をざっくりと――『禅思想史講義』 小川 隆

4393138023禅思想史講義
小川 隆
春秋社 2015-07-16

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 禅というのは、とっつきにくいのかな。読む本を選びにくいし、むかしの禅僧の話も知らない。現代では鈴木大拙の本が読まれたり、岩波文庫では『無門関』や『臨済録』が出ていたりする。日本の禅僧では、一休や沢庵、道元くらいが知られているだろうか。中国の禅僧などさらに知られていない。

 この本は四章のうち、三章までが中国の禅思想をざっくり紹介されているから、ほぼ中国禅の紹介の本といえる。第四章はおもに鈴木大拙の章である。日本の禅僧はほぼすっ飛ばされている。

 初期の禅、唐代の禅、宋代の禅がおもに紹介されている。

 初期の禅は、頓悟と漸梧の論争がおこり、北宗と南宗にわかれた。頓悟は一時にすべてを悟ること、漸梧は段階的、斬進的に悟ってゆくということ。禅は頓悟がおもなイメージだが、思考の反復は習慣となっているので、この自動習慣はすぐには止めることができないとわたしは思うが。

 唐代の馬祖は、自分の心がすなわち仏であるから、修行もする必要もないと説いた。その批判を巻き起こしたのが、石頭の禅である。

 宋代では国家の制度にくみこまれてゆき、学校のようになってゆき、公案で修養度が見られるようになってゆく。文字禅と看話禅があり、禅理の解明と、体験的な頓悟にわかれる。

 第四章では鈴木大拙にまで飛び、西田幾多郎が同じ年の金沢生まれの学友であり、生涯親友であったことを知る。夏目漱石も修行時の大拙に出会っており、小説『門』のモデルになっていたりする。

 わたしとしては、禅の言語の徹底的否定には感服するが、言葉でなにも説明しなかったらなにも伝わらないで同じ過ちにおちいったままだし、だけど言葉を駆使しすぎることは、言葉の虚妄の世界に閉じこまめれることだと思う。この間の中で、いかにバランスをとるかが、悟りへの道だと思う。

 というか、わたしの禅の理解は、ラジニーシやケン・ウィルバー、クリシュナムルティ方面からの理解であって、それがどれだけ禅と重なり、異なるのかも、正確を期していないだろう。


禅宗の歴史 (読みなおす日本史)禅の歴史禅とは何か―それは達磨からはじまった (新潮選書)禅の思想とその流れ (ぼんブックス)日本禅宗の伝説と歴史 (歴史文化ライブラリー)


05 19
2018

幻想現実論再読

煩悶青年と出会う――『臨済・荘子』 前田 利鎌

4003317912臨済・荘子 (岩波文庫)
前田 利鎌
岩波書店 1990-08-16

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 臨済も荘子もともに好きな思想家だから、岩波文庫だからと手にとってみたが、著者はあとから明治・大正の煩悶青年の系譜に位置づけられる人だと知った。

 東大を出た西洋インテリが禅に救済をもとめた。32歳でこの本を出版し、34歳で急逝したこの人は、西洋インテリが禅や東洋思想にめざめたという驚きをもって迎えいれられたのだろう。漱石門下と関わりのあった人である。昭和14年に岩波書店から改訂版が出て、ベストセラーに近い売れ方をしたそうである。

 明治の国家目標を、曲がりなりにも達成したかのように思われた明治後半、若者には西洋文明や国家にたいする幻滅が大きくおおった。ある若者は左翼運動に走り、ある者は文学や哲学の煩悶青年へとむかった。いずれもそれは西洋文化の範囲内であって、禅や東洋思想にむかうものは、少数だったのだろう。

 その西洋対東洋の対立は、禅や東洋思想の見直しや復興となり、アジア主義や日本主義のイデオロギーへと収斂し、大日本帝国のイデオローグとして呑みこまれていった流れもあったのだろう。どちらかというと、この本はその内容より、著者が生きた時代背景のほうが、興味そそられるものであったかもしれない。

「見よ、哲学者の甘言によって、迂遠なる概念の世界に誘惑せられた青年の生命が、いかに現実世界における活発な弾力と燃焼性とを消失してしまったかを。

…迂遠なる論理思索の礼賛をやめて、強壮な意欲を奪回すると共に、再び古代人の自由人のように、大地を踏みしめて行く力を育まんことを欣求する」



 臨済や荘子は、だれかの解説を読むより、原書(もちろん現代語訳)を読んでもじゅうぶんに益と得るものがあるものである。解説に頼らないでも、原書のほうがじゅうぶんにわかりやすい内容が書かれている。

 この本はまあ、わかりやすくなるというよりか、一青年が禅や東洋思想の解説と理解に挑んだ軌跡を見せられているという面のほうが強いかもしれない。

 漢文や読み下し文がそのまま多く多用されていて、その教養が弱いわたしには、意味を損ねることも多かった。言い回しも難しいスノッブな言葉を連ねることも多い。禅や東洋思想は、わたしなりの読解や理解もあるので、この人の領域とはすこし異なる世界を見ているかもしれないと感じた。

 この本を読んで、いがいなところで煩悶青年や右翼、戦争国家へのエポックと出会ってしまった感じがした。西洋対東洋の対立は、戦争国家へのイデオロギーへと転嫁していった流れもある。右翼国家への道にこの本は位置してしまったのだろうかという興味をもった。


臨済録 (岩波文庫)荘子〈1〉 (中公クラシックス)煩悶青年と女学生の文学誌-「西洋」を読み替えて文学熱の時代―慷慨から煩悶へ―日本とアジア (ちくま学芸文庫)


05 17
2018

幻想現実論再読

鎌倉時代の各宗派――『八宗綱要』 凝然 大徳

406158555X八宗綱要 (講談社学術文庫)
凝然 大徳
講談社 1981-10-07

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 あまり参考とならなかったのだが、各宗派のことはよく知らないので、このような宗派の違いを知っておくことも必要かなと手にとってみた本である。

 鎌倉時代の凝燃による各宗派の教科書、テキストのような本で、とうじ勃興していた禅宗や浄土宗は付録のようにすこし加えられているだけであって、いつの時代のものかよくわかるようになっている。

 だいたいは各宗派は、経典をよりどころにすることが多いようである。倶舎宗は『阿毘達磨倶舎論』、成実宗は『成実論』、三論宗は『中論』『百論』『十二門論』、天台宗は『法華経』、華厳宗は『華厳経』、真言宗は『大日経』『蘇悉地経』『金剛頂経』など。これらの経典をおさえれば、各宗派はだいぶわかることになるようなので、手にはとってみたいところである。

 各宗派の要点をまとめたような教科書、テキストはたいがいは専門用語をただならべたような意味がわからない、ぎゃくにとっつけないものになるので、わたしはあまり教科書みたいな本は好きではない。得るものがない。この本もそのような本である。

 仏教経典ははるかむかしにできあがったテキストなので、一般のわれわれにはなかなか届かない。さぞかび臭い時代に古びた考えを展開していそうなイメージをもつかもしれない。だが、中公バックスや世界の名著の現代語訳で読んでみると、はるかに論理的で緻密な現代でもわかる思想がのべられている。古層にうめたままにしたがるわれわれの思いこそが、面喰う。


現代語訳大乗仏典(シリーズ・全7巻)大乗仏典〈1〉般若部経典―金剛般若経・善勇猛般若経 (中公文庫)世界の名著 2 大乗仏典 (中公バックス)


05 13
2018

幻想現実論再読

どこまでいっても言葉――『夢中問答』 西村 恵信

414084082X夢中問答―禅門修行の要領 (NHKライブラリー)
西村 恵信
日本放送出版協会 1998-04

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 現代的な言葉で神秘思想を読みたいのだが、そう見つからなくて、言葉の否定を強くいった禅に帰ってくるしかない。

 この本は、夢窓国師と足利直義の問答を、花園大学教授の西村恵信がNHKラジオテキスト用に解説したものである。

 要点を二点だけ抜き出す。

「ゆえに「有念なれば魔網に堕つ、無念ならば即ち出づることを得」とあるからといって、「無心」を心の無いことと考えることは間違いであるし、そのようなことは人間にできることではない。無理に何も思ぬようにしようとすると、いわゆる「断見の外道」に堕ちてしまうのであり、そういう見当違いの座禅を、古人は「死人禅」とか「枯木寒厳の禅」といって徹底的に批判しているのである。
したがってここで有心とか無心とかいわれている場合の「有」とか「無」は、有無相対の「二元分別心」が有るか無いかということである。有無の分別にこだわればたちまち「有心」であり、有無にこだわらなければ「無心」ということになる」



 むりやりに無心になることを禅はいましめているわけだが、ここの分別はむづかしいね。むりに思考を断ち切らなければ、思考の噴出の習慣は強力なものがあり、初期のころは必要とされるかもしれない。だが、それらが虚像やイリュージョンとわかるような段階になれば、もはやむりやり押し切る必要もない。段階の問題に思える。

「…世界中のすべてのものは実在している、と思うのは迷える凡夫の妄想であり、世界中のすべてを無常なものと見るのもまた小乗的な妄想であります。すべての存在を永遠不滅としたり、あるいは断滅してしまうものだとするようなのは外道の妄想です。そうかといって、すべては幻の如く実体のないものと考えたり、また有るとか無いとかいうことの両方を離れた非有非空の中道だ、とさとるのも菩薩の妄想というものであります。真の仏法は教の外にあるということを教える禅宗のことを知らず、教えだけを最後のものとして頼るのは教宗の人の妄想。「教外別伝」とばかり唱えて、それが、教宗より勝れたものだと自負するのは禅者の妄想であります。
私がそのようにいうことを信じ込み、あらゆる教説がすべて妄想だと信じてしまうのも、また妄想にほかなりません。昔、唐の国の無業国師は、一生涯を通じて、修行者が何と問うてきても、ただ「妄想するなかれ」の一句でこたえるばかりでした」



 禅は、どこまでいっても言葉にとりこまれてしまうことの危険性を、どこまでも警戒した。なにを説明しても言葉だ。言葉が分けて、分別してしまって、またその言葉の対象を実在させてしまって、言葉の実在の膜の中に収まってしまう。言葉はどこまでいっても、わたしたちをとりこんでしまうのである。

 この本の節に、「「ことば」を実在と思い込む」という表題があるのだが、禅はなぜか言葉の問題であることを、強調しなかった。現代人ならこの方面から入れば理解が増すと思うのだが、言葉を透過して、事物の正否に頭をつっこむのは、あまりにも言語圏の枠内すぎる。わたしたちはあまりにも言語の住人すぎるのである。


夢中問答集 (講談社学術文庫)夢中問答入門禅のこころを読む (角川ソフィア文庫)夢窓夢窓疎石―日本庭園を極めた禅僧 (NHKブックス)仏教を歩く No15 夢窓疎石と「五山文化」 (週刊朝日百科)


04 28
2018

幻想現実論再読

まるで仏教のような語り――『社会構成主義の理論と実践』 K.J. ガーゲン

4888488649社会構成主義の理論と実践
―関係性が現実をつくる

K.J. ガーゲン Kenneth J. Gergen
ナカニシヤ出版 2004-06

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 「言葉が現実をつくる」といった社会構成主義は、これまでの言葉は「事実」を写実的に写し出すことができるという近代・モダンの科学観にゆさぶりをかけ、真理や客観を問題にするのではなく、その言葉でつくられた現実をより良いものにしようという姿勢をみちびく。真理に拘束されて、なにもいえなくなり、抑圧されることは有効性をうしなう。

 ニーチェの権力の意志論や大きな物語の終焉のポストモダンの継承者が、社会構成主義になる。ガーゲンは本書の中で源流を、ヘーゲルやコンディアック、フランスの観念論者、バーガー・ルックマンの『日常生活の構成』やトーマス・クーンの『科学革命の構造』、ピアジェ、現象学的社会学、象徴的相互作用論、ヴィゴツキー、シュッツなどに求めている。

 「言葉が現実をつくる」という指摘はニューエイジや東洋思想にもいわれてきたことであって、禅は言葉自体を捨てることによって安楽と悟りの次元をめざしたのだが、社会構成主義は顕著に言葉の非実在性にはかたくなにすすもうとはしない。言葉は制度や自己を支える基盤なのであって、その上に構築された責任主体や民主政治といった社会の屋台骨もゆらぐ恐れがつよいのかもしれない。

「むしろ、テイラーも言うように、自己を語る言語――自己の道徳性を語る言語を含む――は、「道徳の源泉」である。それなしには、主体としての人間は成立しない。「自己を語る言語を捨てるということは、人間としてのまとまりを捨てること、主体としての人格を捨てることに等しい」



 思考を捨てる教えにたいする拒否感が、そのまま表されたような言葉である。言葉や思考は自我を支える。手放すことなんてできない。しかしそれが東洋思想がいうように幻影の苦悩や苦痛をもたらしているとするのなら、その苦痛をもともに維持してゆくべきなのだろうか。

 本書の言葉の使い方はかなり難しくて、これでは社会構成主義は広まらないだろうなといったような文句をいいたくなるくらいだ。それでガーゲンはのちに一般向けにわかりやすく説いた『あなたへの社会構成主義』という本を書いている。語り口はやさしくしているのはわかる本だったが、やはりそれでも議論はむずかしかったのではないだろうか。

 というか、わたしは言語がつくる現実をさっさと捨てろという東洋思想的立場なので、社会構成主義の議論がまどろっこしくて、あまり学ぶものがあるとは思えないのだけど。

 社会構成主義の批判に答えるという章に、「社会構成主義は現実世界への関心をすべて放棄するのか? 「しかし、世界は実在する」」という問いへの返答があるのだが、これはまさに仏教僧も問いかけられてきた疑問である。坊さんは、この世界が幻想というならと、トラに追いかけられたりした。

「まず、社会構成主義は、爆発、貧困、死を否定しないし、より一般的には「世界の実在」も否定しない。しかし同時に、社会構成主義は、それらの実在も肯定しない。先に述べたように、社会構成主義は、「それは実在するのか」という問いには沈黙する。それがいかなるものであっても、ただそれだけのことだ。…しかしながら、「そこに何があるのか」を明示化しようとした途端、われわれは言説の世界に入り込むことになる。…そして、こうしたプロセスが始動すると、言語が実体化される」



 まるでおシャカさんや仏教僧のような答えである。だが、禅の立場からすると、社会構成主義は空語をずっと費やしつづけているように思える。

「実際には、心理言語が個人内の実際の状態を反映し、描写し、言及するという前提は、様々な心理状態を物象化しているからこそ成立する。すなわち、物象化によって、言語が指示しているように見える対象が、実在している(存在論的実在)かのように扱われている。あるいは、別の言い方をすれば、言語があたかも明確な心理状態を指示しているかのようにみなすことによって、人は、見当違いの物象化という錯誤に陥っている。すなわち、人は、能記があるからには、それに対応して、具体的な対象があるはずだと思い込んでしまっている」



 まるで仏教や神秘思想のそのものの語りであり、これこそが言語が根本的に抱える問題である。だから仏教やそんな幻想や夢から目を醒ませというのだが、社会構成主義は、研究書のように言葉の現実を――幻想を組み立てつづける。

 社会構成主義は、仏教や神秘思想と対話してほしいと思うほど、同じような事柄を語っているのだが、本書ではそのような知識群はひと言もふれられていない。

 社会構成主義は、「関係性が現実をつくる」ともいっているのであって、個人や個人の心というものも、「社会的構成の産物」だとみなす。わたしたちは個人といった確固たる主体があるのではなくて、「社会的制度の産物」だといった批判もおこなう。神秘思想がいうのなら、人間は機械だといった言葉に相当する。わたしたちは社会に訓育された心を社会的に植え込まれているのである。

 社会構成主義は、精神医学も写実理論の批判から見るようになるので、真理を外された心理学言説をもそれがもたらす社会関係を、第三者的にながめるようになる。セラピーの社会学のような目線である。言葉は真理を写実的にあらわすことができると思いこまれているままなら、その言説に権力性にわれわれは抗えないのである。

 もうすこし社会構成主義をさぐってみたいと思う。


現実の社会的構成―知識社会学論考科学革命の構造あなたへの社会構成主義生活世界の構造 (ちくま学芸文庫)現象学的社会学 (文化人類学叢書)


04 25
2018

幻想現実論再読

本が書き上がりました。目次です。

 本が書き上がりました。二月から書きはじめて、四月いっぱいの三か月かかりました。原稿用紙、334枚分です。

 まだ手を加えられるところを変えたり、ごっそり節を書き替えたり、通読して訂正できる箇所をさがす期間を、長めにとりたいと思います。寝かす期間も必要かなと思っています。まだ草稿を書き上げた段階ということにします。

 テーマは禅や仏教、神秘思想で学んだことを、宗教的要素を排除して、心理学的に、現代的感覚で言語化できるかぎりに、言葉でうきぼりにしてみました。タイトルもまだ決まっていませんので、『思考を捨てる安らかさ』にしようかなとも迷っているのですが、もうすこし広範なタイトルにしたほうがいいかなとも。

 書くことによって、だいぶ自分の頭が整理できたところもあります。これは人間の認識がなぜ間違うのかを指摘したことになるわけですが、言語や過去、心の実在視の過ちを、言葉であたうかぎりの言語化をおこなったということになります。

 キー・ポイントは、過去は存在しなくなるということで、その対比において、過去を思い出しては悩んだり、悲しんだりする実在化の過ちがなぜおこってしまうのかということを、あぶり出したということになります。過去は存在しなくなります、けれどもなぜ人はそれが実在しているかのように悩むのでしょうね?

 ここから敷衍して、人は存在しない言葉や概念、観念、過去・未来などを実在視していることがうきぼりになります。この過ちを言葉で理解できように言語化したのが、本書ということになります。

 心の実在視の過ちの言語化に、挑戦したことになりますね。仏教や禅、神秘思想は、宗教的な神の崇拝に理解されることが多いですが、それらを省けば、心や言葉、想像力の実在化の過ちを指摘していたのだという理解が導けます。心の壮大なトリック、錯誤に気づかせようとしたわけですね。

 もっとうまい表現や文脈が書けないのか、と思うこともたびたびありましたし、難しくなりすぎないように平易に表現しようとして言葉を削りすぎた感もありますし、なにより自分の説明することの引き出しの虚無感も、多々感じました。

 いちど書き出せば、文脈に拘束されて、その文脈論理にろくでもない文章に導かれることもありましたし、唸ってもその先が出てこないこともありましたし、やっぱりもっとうまい説明方法はなかったのか、という疑惑に戻されますね。出てこないんですよね、ということよりか、なにも頭の中に思いつきません。自分の頭は疑問を解くためのスタイルになっているために、説明するための引き出しがぜんぜんつくられていないのを実感しました。

 この言葉や過去の実在視の過ちという人間の認識の錯誤は、どれだけの人に届くのでしょうね。まったく理解できず、ちんぷんかんぷんという方もいると思いますし、禅や仏教、神秘思想のちょっとした素養がないとまったくわからない分野かもしれません。届くのでしょうか。

 この本によって悟りといわれるものにだいぶ近づけると自負したい部分もありますし、まったく届かないのではないかという思いもあります。悩みや苦しみの根本的な解決方法を知ることができるようになるかもしれませんし、あるいはまったく反発や不快感をさそって心に響かないかもしれません。なにより、なにいっているかひとつもわからない懸念もないわけではありません。これらの言語概念に慣れていないと、まったくつかみかねる世界ともいえますからね。

 草稿段階では、目次は以下のようになります。節のタイトルでどのようなことが書かれているかは、だいたいは想像できると思います。興味をもたれた方は完成まで本書を期待していただきたいと思いますし、さっぱりなにをいおうとしているか、つかめないと思う方は、縁遠い方なのかもしれません。
 
 あと一、二ヶ月は推敲する時間をいただきたいと思います。




 目次

 序章 心を誤って捉えている
壮大な認識の過ち
過去を終わらせられない
想像力で補う世界
言葉はあるのか
創作される心
この本の思想的背景

 第一章 思考を捨てる
瞑想のすすめ
火に油をそそぐ思考
思考が感情をつくる
言葉は世界をつくる
気分も思考がつくりだす
思考を手放す

 第二章 感情は外界からもたらされる?
感情はだれのせい?
不快感情をいつまでも囲いつづける
身体の内と外
内と外の分断の逆襲
科学と物質
感情は交換できるものか?

 第三章 過去を捨てる
過去にまみれた心
過去はどこにある?
存在しないものに感情する
過去を手放してもよい
許すということ
心の平安さが第一の目的
「いま・ここ」にあること
過去を捨てよ

 第四章 創作される心
あなたが気分の創造者
「願えば叶う」
感情の力
言葉と存在しないもの
言葉が立ち上げる世界
過去と流れゆく時

 第五章 存在しないものに目を向ける
苦悩は実在するのか?
悩みの存在の仕方
言葉と存在
想像力の現実化
言葉による幸福と死
言葉による安らぎ
恐怖は存在するのか?
恐怖の実在化
恐怖の支配構造

 第六章 「わたし」とは何なのだろう?
思考はほんとうに「わたし」なのか?
思考は奴隷をまぬがれる砦?
自分を大切にすればするほど苦しむ
わたしの範囲とは?
死の恐怖と自我
記憶としての「わたし」
内なるおしゃべり
概念以外のわたしとは?

 第七章 なぜ認識をまちがうのか?
過去の実在化
言葉の現実化
意志の働かない思考
想像の現実化
歴史に名を残す
無からの逃走
無になる恐れ
言葉と概念がつくる世界
無の安らかさ
無に抗うもの

 第八章 知識を捨てる
観念にしがみつくな
言葉の実在化
無知を賛美するのか
言葉にだまされるな




【追記】
 引用参考文献ものせることにしました。この本の内容がよりよくわかると思います。

 引用がかなり多くなりましたが、無名のわたしがなにかをいうよりか、名の通った著名な方に語ってもらうほうが、より銘記性も信憑性も高いと思うからですね。なによりわたし個人の考えだけではなく、著名な方が語っているということと、わたしの考えは多くの著名な方の思想によって構成されているとあらわしたかったからですね。


 引用参考文献

『人生に生きる価値はない』 中島義道 新潮文庫
『自省録』 マルクス・アウレーリウス 岩波文庫
『楽天主義セラピー』 リチャード・カールソン 春秋社
『世界の名著13 キケロ・エピクテトス・マルクス・アウレリウス』 中央公論社
 『どう生きるか、自分の人生!』 ウェイン・w・ダイアー 三笠書房知的生きかた文庫
『無境界』 ケン・ウィルバー 平河出版社
『意識のスペクトル』 ケン・ウィルバー 春秋社
『道徳の系譜』 ニーチェ 岩波文庫
『愛と怖れ』 ジェラルド・G・ジャンポルスキー VOICE
『ピダハン──「言語本能」を超える文化と世界観』 ダニエル・L・エヴェレット みすず書房
『新約聖書 福音書』 岩波文庫
『道は開ける』 D・カーネギー 創元社
『超シンプルな悟り方 人生が楽になる』 エックハルト・トール 徳間書店5次元文庫
『気流の鳴る音』 真木悠介 ちくま学芸文庫
『ものぐさ精神分析』 岸田秀 中公文庫
『「自分」を生きるための思想入門』 竹田青嗣 芸文社
『脳・心・言葉 なぜ、私たちは人間なのか』 栗本慎一郎 澤口俊之 養老孟司 立川健一 光文社カッパ・サイエンス
『シレジウス瞑想詩集』 岩波文庫
『般若心経 金剛般若経』 岩波文庫
『20世紀の神秘思想家たち』 アン・バンクロフト 平河出版社
『ブッダのことば スッタニパータ』 岩波文庫
『世界の名著18 禅語録』 中央公論社 中公バックス
『グルジェフとクリシュナムルティ エソテリック心理学入門』 ハリー・ベンジャミン コスモス・ライブラリー
『〈私〉の心理学的探求 物語としての自己の視点から』 榎本博明 有斐閣
『般若心経 色即是空を語る』 バグワン・シュリ・ラジニーシ めるくまーる
『世界の名著4 老子 荘子』 中央公論社 中公バックス
『世界の名著2 大乗仏典』 中央公論社 中公バックス
『自我の終焉』 J・クリシュナムーティ 篠崎書林



04 14
2018

幻想現実論再読

がっかり――『ナラティブ心理学セミナー』 ミシェル・L.・クロスリー

4772411011ナラティブ心理学セミナー―
自己・トラウマ・意味の構築

ミシェル・L・クロスリー
金剛出版 2009-10-06

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 「言葉が現実をつくる」という社会構成主義から発展したということで、ナラティブ・セラピーについて興味をもって読んだのだが、言語を基礎に立脚した禅や神秘思想とぜんぜん違うところに向かっていて、がっくりときた。

 禅や神秘思想は、言語の徹底否定や滅却をおこない、物語や現実を虚偽や迷妄としてしりぞけ、それらの仮構の世界がなくなったあとの安楽や一体感を説く。言語が苦しみを仮構するのだから、それさえなくなれば、安心安寧の世界がひろがるというのが、禅や神秘思想の立場だ。しごく単純といえるすじ道である。

 社会構成主義もナラティブ・セラピーも、言語の構築という立場から理論を立ち上げるのだが、言語の滅却には向かわずにひたすらナラティブ(物語)へと寄り添う道は手放さないようだ。

 言語はたしかに、社会的な制度や基準といった社会の基盤を維持している土台である。もしそれらがなくなれば、制度も基準もなくなるという恐れがあるのだろう。

 だが、物語が人を苦しめるなら、なぜ物語を滅却させようという一直線の方法をとらないのだろうか。この本では応用編として、性虐待者やエイズ患者のナラティブが語られる。あくまでも言語が構築する物語を手放そうとしない。

 禅や神秘思想の立場では、そのような物語を語ること自体が苦しみを創造するのであって、それすらも捨てろというのだが、このナラティブ・セラピーはポストモダンをへた思想であるはずが、まるで近代のフロイトの精神分析に戻るかのようだ。傷をふたたびえぐり出すような記憶の想起が、ふたたび人を感情的に苦しめるという認識にどうして到らないのか。

 西欧では、言語を手放すことの禁忌が強力にはたらいていて、言語なき世界は想像すらもタブーがかかっているのかさえ思えるほどだ。そのことによって、東洋的な安らぎの境地は、うかがい知ることもできない。わたしはたとえ強力な宗教的禁止が入っていようが、一足飛びで言語滅却の安心の境地にたどりつきたい。

 もう少しナラティブ・セラピーの可能性を探ってみるかも知れないが、早くにその動向を手放しそうだ。


ナラティヴ・セラピー・クラシックス―脱構築とセラピーナラティヴ・セラピー──社会構成主義の実践心理学とポストモダニズム―社会構成主義とナラティヴ・セラピーの研究ナラティヴ・セラピーの冒険物語としての家族[新訳版]


04 06
2018

幻想現実論再読

共同幻想論の社会学版――『あなたへの社会構成主義』 ケネス・J ・ガーゲン

4888489157あなたへの社会構成主義
ケネス・J. ガーゲン
Kenneth J. Gergen
ナカニシヤ出版 2004-11

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 共同幻想論にずっとこだわってきたのだが、社会学にひとつの学問として成立していたことをはじめて知る。

 社会構成主義は、「言語が現実をつくる」や「意味や現実は社会的構成である」といった説をとなえている。わたしはこれを自己啓発の「思考は現実ではない」というウェイン・ダイアーの言葉で知って、ずいぶんと格闘したわけだが、社会構成主義というのは、その社会学版である。

 この本は著者のケネス・ガーゲンが一般向けにやさしく社会構成主義を説明した本で、入門書として書かれたものだ。

 科学の真理や事実の写し絵理論のようなパラダイムが近代をおおっていたわけだが、社会構成主義は、それらもふくめて、言語が現実をつくるという相で捉える。真理のような客観的な世界観は消え去って、ただ言語がどのような現実をつくりだしているのかだけが問題になる。それは客観や事実ではなくて、言語で構成されたものだ。真理という覆いをとりはらわれれば、絶対的な真理の機制もその力を失う。

 ポストモダン思想が、この社会構成主義に結実したといえるのかもしれない。客観的世界を( )に入れるのは、フッサールの現象学からもおこなわれている。

 はじめて知ったといったが、共同幻想論を探っているころ、シュッツの現象学的社会学やガーフィンケルのエスノメソドロジー、廣松渉の世界の共同主観的存在構造や、ゴフマンの演技論的自己呈示などの本はよく読んでいたので、源流は知らなかったわけではない。マンハイムの知識社会学、クーンの科学革命、フーコーの権力論も、そのパラダイムにふくまれる。

 わたしは自己啓発の思考は現実ではないという言葉を契機に、トランスパーソナル心理学や仏教、神秘思想に、日常や通常の意識においての幻想やフィクションとしての考察にうつっていった。だから、社会構成主義はいかにも歯がゆい。言語で現実や社会構成を守ろうという防波堤の意識が強く、禅のような言語否定にはまったく踏みとどまる。

 言語が現実をつくるのなら、それはフィクションや虚妄であって、そんなものは存在しない砂上の楼閣だ、捨て去ってしまえというのが、禅や神秘思想の立場である。

 社会構成主義は、あくまでも言語が現実をつくるのなら、その考えを書き換えようという思想に収まる。まだ未読なのであるが、社会構成主義から発展したといわれるナラティヴ・セラピーもその立場を出ていないようなので、いかにも歯がゆい。

 社会制度としての言語をあくまでも死守しようとするのが、社会構成主義である。これには言語を捨てれば、無知や狂気におちいり、文明を捨て去るという禁忌が強く働いているからだろうか。

 禅や神秘視思想では、自我を捨て去れというわけだから、盲従や隷従への恐れも強い。仏教や神秘思想は、言語がマヤカシや虚偽の世界をつくるのであって、そんな夢から立ち去れといわれるのだが、言葉が現実をつくるという出発点が同じであっても、その帰結と方法は、社会構成主義やナラティヴ・セラピーとずいぶんちがう。

 わたしはもう禅や神秘思想の説に感銘しているので、社会構成主義もナラティヴ・セラピーも肩入れるするほど乗りこめない気がする。現代社会学や現代心理学がなにを語っているのか、参考や参照の域を出ないかもしれない。でももうすこし社会構成主義が共同幻想論をどう語っているのか見ないわけにはいかない。

 西欧というのは、言語をぜったいに手放そうとしない社会なんだなとあらためて思う。インドやアジアはずいぶんと言語の放棄はおこなってきた。言語は理性の砦であって、文明の閾だという禁忌が強いのでしょうね。ために言語がいかに砂上の楼閣をつくってきたという反省がうながされない。それは物質文明の砦でもあるのでしょうね。


社会構成主義の理論と実践―関係性が現実をつくる心理学とポストモダニズム―社会構成主義とナラティヴ・セラピーの研究現実の社会的構成―知識社会学論考ナラティヴ・セラピー──社会構成主義の実践生活世界の構造 (ちくま学芸文庫)


03 29
2018

幻想現実論再読

むづかしさの理由――『生の全体性』 J. クリシュナムルティ

4892031038生の全体性
J. クリシュナムルティ
デヴィット・シャインバーグ  デヴィッド・ボーム
平河出版社 1986-02-01

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 ごぶさたしております。本を書くことに時間を使いたいので、読書もブログも二の次になっております。原稿用紙240枚書き上げましたが、書くたびに煮詰まることが多く、けっこうむづかしいんだなと思っております。人に自分の考えを説明するために、どの要素を出してくるかというひっぱりだす能力の不足を感じております。

 クリシュナムルティの『生の全体性』は、クリシュナムルティとはじめて出会った本です。独特の語法や言葉使いでずいぶん面喰う本だと思います。ずいぶん久しぶりに読み返しました。

 「悲しみは、時間と思考の結果である」とか、「観察者と観察されるものとの分裂は、葛藤のもとである」といった言葉は、読んだことのない人にはなにをいっているかわからない類の文章だと思います。

 この本の半分は対談集です。量子力学者のデヴィッド・ボームと精神分析医のデヴィット・シャインバーグとの対談です。この対談集はずいぶんクリシュナムルティの強引なところがめだち、あまり好きではないのですが、後半の講和をあつめた第Ⅱ部がすばらしいと思います。

 ひじょうに心理学的洞察に満ちていると思うのですが、宗教書と思われるのが残念です。

 クリシュナムルティの言葉がむづかしいのは、言語や思考の根底を話すことにそのむづかしさの要因があるのだと思います。言葉で語れない領域を、言葉で語ろうとしたむづかしさだと思います。目を近づけすぎて、見えない状態に似ていると思うのですが、禅なんかではもう語ろうとしなかった領域を、言語で明晰に語ろうと努力したのが、クリシュナムルティだと思います。

 「なせなら思考は、記憶、経験、知識の生み出したものであり、つねに過去から生じるものであり、したがって時間に制限されたものだからである」

 時間という定義を飛ばして語っているので、独特のわかりにくい文章になっていると思います。

 「恐怖は、思考の運動である。量、測定としての思考の──。恐怖は時間である。思考は記憶、知識、経験からくる反応である。それは限られている。それは時間の運動である。もし時間がなければ、恐怖はない。私は、いま生きているが、死ぬかもしれないと恐れている。私はそのうちに死ぬかもしれない──。思考によって生み出された時間の感覚がある。しかし、もしまったく時間の間隔がないなら、恐怖はいっさいない」

 これはけっきょくは、想像したものは存在しないといっているわけですが、言語や感情が想像したものから生み出されているという方面から語っていないことが、わかりにくくしているのかなと思います。想像力や空想、あるいは心象という物体でないものを、現実にあると思う勘違いが、わたしたちには根差していて、その自覚がないところに、言葉や感情の実在視がおこります。

 想像力や言語が実在しないという一点から語りはじめれば、理解の助けになったかもしれません。わたしたちは、想像力の力を軽視しすぎていて、想像力が現実と思われるわたしたちの認識に、あまりにも無自覚です。

 クリシュナムルティは、これまで開拓されていなかった領域を、独自に自分の考察で切り開いたために、独特の言葉使いになっているのだと思います。禅や仏教も語ってこなかった詳細な領域だと思います。言語での明晰化をめざしたために、人に通じにくい文章になっているのだと思います。

 ほかの領域からの理解も必要になると思うのですが、わたしはそれは想像力の範囲やカテゴリーをもっと広げることや、言語や過去が実在しないという考察を深めることに、その理解の穴があると思っています。

 クリシュナムルティは宗教者というより、心理学者だとも思っています。言語や思考が立ち上がる繊細な根源に立ち向かった心理学者だと思います。まだ読まれていない方は、ぜひクリシュナムルティの著作に当たって、面喰ってほしいと思います。


既知からの自由最初で最後の自由(覚醒ブックス)恐怖なしに生きる時間の終焉―J.クリシュナムルティ&デヴィッド・ボーム対話集全体性と内蔵秩序


03 04
2018

幻想現実論再読

おすすめのガイド本――『20世紀の神秘思想家たち』 アン・バンクロフト

489203073220世紀の神秘思想家たち
―アイデンティティの探求 (Mind books)

アン・バンクロフト
吉福 伸逸訳
平河出版社 1984-01

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 神秘思想がどんなものか知らず、なにを語っているのかも知らない人は、ぜひ手にとってもらいたい神秘思想の魅力的なガイドになるおすすめの本です。

 原著は1976年に出版されたかなり古い本だが、神秘思想は年月で古びるものではない。

 神秘思想というのは、言語や思考でつくられる世界を虚偽や幻想として、斥けようとした思想である。母語が世界像を規定するといったサピア=ウォーフ仮説のその先をいった思想だと捉えても、まちがいはないと思う。

 言語でつくられた世界像をわれわれは信じてしまって、実在でないそれを現実にあるものとして、われわれは勘違いしている。これは言葉を捨てさせようとした禅とおなじ思想である。

 神秘思想はその先に神や超越的存在の一体感をめざす思想があるから、宗教とクロスするわけだが、禅はその言葉すらも排斥するから神秘思想ではないといった考え方もある。

 神秘思想はともかく言語を落としてゆく思想である。言語で神や霊を語ってしまうと、そのフィクションでしかない存在を現実のものと勘違いする過ちがまた発生してしまって、言葉は堂々巡りしてしまう。禅はとにかくそのことを警戒した。

 言語をまったく落としてゆく神秘思想と対立するかたちで、言語で創作や象徴を打ち立ててゆく流れもあって、それは本書では、ダイアン・フォーチュンやルドルフ・シュタイナーのオカルトとして紹介されている。この言語で神や霊の信仰世界を積極的に創造してゆこうとした流れが、世界宗教などのこんにちのおもな宗教である。

 この本では西洋に東洋思想を導入しようとした人たちを「橋を架けた人々」として、オルダス・ハクスリー、アラン・ワッツが紹介されている。ラム・ダスがないのはなぜだろう。翻訳では原著にあったマハリシ・マヘッシ・ヨーギやダグラス・ハーディングなどが、独断で割愛されている。

 クリシュナムルティやグルジェフ、カスタネダも紹介されているのだが、本書のいちばんの醍醐味は、ラマナ・マハリシの思想解説に極まると思う。

「ヒンドゥー思想は誤った同一視は無知に起因すると唱えてきた。自分の本性を誤解して、肉体的感覚や衝動と同一視し、あらゆる肉体感覚を「私のもの」と呼んでしまう。この所有欲にもとづいた考え方を超え、「私は誰々と呼ばれるこの肉体である」という感覚を超えて見ることができれば、われわれの直感には至福と解放の兆しが伴うようになる。
…肉体が自己であると思うがゆえに、世界がそれぞれ別個の自己をもつ多種多様の肉体で構成されていると思ってしまう。外見のみ注意をはらい、惑わされて、名前と形態からなる宇宙に思考を支配されてしまうのである。
ヒンドゥー教は、世界を支える創造力が名前でも形態でもなく、意識そのものだと教えている。われわれひとりひとりこの意識を体験するには、あらゆる認識の対象、つまり肉体中心の世界と自分を同一視することをやめればいいのである」



 西洋文化の科学的物質観の世界観をもっているわれわれには、このような思想は面喰うわけだが、より唯心論的な世界をここではじめて出会うという人も多いだろう。西洋は、物質と言語をあまりにも信じた世界に生きていて、その非実在性を考えた思想に入ってゆくことはない。それこそが、西洋の落とし穴だと思う。

 ラマナ・マハリシはこの本に啓蒙されて、本人の本も読んだことはあるが、あまりぴんとこなかった。

 この本ではほかにマルティン・ブーバーやテイヤール・ド・シャルダンも紹介されていて、マザー・テレサはかなり違和感があるが。

 神秘思想は神や超越的存在の一体感をめざすかなり怪しい思想もあるのだが、言語で創造された世界の虚偽や虚構性を鋭く指摘して、破壊をめざしたことに深い意義があると思う。わたしたちは、あまりにも言語に創作された世界の夢に埋没しているのである。

 神秘思想を怪しいと思う人も、これからもっと神秘思想を知りたいと思う人にも、とても魅力的なガイドとなってくれる本である。外側から抱いていた神秘思想のイメージを覆してくれる導き手となる本である。おすすめ。


トランスパーソナル・セラピー入門トランスパーソナルとは何か神秘主義 (講談社学術文庫)トランスパーソナル心理学トランスパーソナル心理学入門 (講談社現代新書)


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世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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