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05 16
2016

主体性の剥奪

プロ野球は知りませんが――『教えない教え』 権藤博

B00HYOMZZ8教えない教え (集英社新書)
権藤博
集英社 2010-11-22

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 タイトルにひかれて読んだが、わたしはまったく野球を見ないので、この著者のことをひとつも知らない。98年に中日を優勝にみちびいた監督だそうだ。まったく知らないし、見たこともない。わたしにとって、野球はもう存在しなくなった。

「私は選手ひとりひとりをプロとして認めていた。「プロとして認めている以上、なんで子供のように管理しなきゃならないのか」」

「「やらされていることは身につかない」。…ただ単に「言われたから」とやっているだけの人はプロとしての成長はおろか、人間として成長していくことはないだろう」

「人から押しつけられたものは決して自分の身につかない」

 こういうことを知りたいから読んだだけであって、どちらかというと教えないということはどういうことなのか具体性はとぼしかったかもしれない。

 サラリーマンに向けて一般論を語っていたようだが、同じ話のくりかえしや思いついた話を記述してゆくような感じで、学びはすくなかったかもしれない。

 教えるなといっても、教えないでどうやって人は学べるのか、自発的に学ぼうとしないものはどうなるのか、放ったらかしで人は自発的に成長するのか、いろいろ疑問はわくが、そういうことはこの本からは学べなかった。

 教えることの問題は、なによりも人の自発性をつぶすことである。自発性のない学びはすべて他人事、お客さん、疎遠な記号に終わる。学校教育ってこのカタマリだった。

 そもそも学校って本人の知識成長をうながすことより、知能の基準を測るための「測定器」にしかすぎない。そのために測定のために一定の記憶を試すための機会にしかならない。このような知識観、学問観が植えつけられるために、人は社会に出れば、もう学ぶことをやめてしまう。

 問題や困難があっても、それを知識をもちいて解決しようとする道筋をちっともつけない学びをしてきただけである。二十五年の日本の閉塞感も、知識がまったく現実から乖離してしまった結果なのかもしれない。

 リーダー観もみんなを力でひっぱる人から、サーバント、奉仕や援助するリーダ観に変わってきているという。教えることは人の能力や可能性を伸ばしてきたのだろうか。

 著者はプロ野球の世界に身をおいていために「あいつには勝てる」「あいつには負ける」という「みんながライバルだと思っていた」という考え方をもつ。「競争なきところに繁栄なし」という持論をもつ。こういう世界に生きることに違和感をもった。


教育は教えないこと!―考える力を育てる「教えないから人が育つ」横田英毅のリーダー学「教えない」教育―徒弟教育から学びのあり方を考える上司は仕事を教えるな! (PHPビジネス新書)部下には何も教えるな。

05 19
2016

主体性の剥奪

文化・経済にも関わる問題――『人生の悲劇は「よい子」に始まる』 加藤諦三

4569565824人生の悲劇は「よい子」に始まる
―見せかけの性格が抱える問題 (PHP文庫)

加藤 諦三
PHP研究所 1994-01

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 強制されたものが自発性をつぶす、自分らしく生きさせなくなるというテーマで本を読んでいるのだが、そういう問題は「いい子」や「優等生」にひずみがたまっていると思い、もう二十年前ほどに読んだ加藤諦三の本をひっぱりだしてみた。

 もう、いまは加藤諦三の考えにはかなり疑問をもっている。

 加藤諦三は問題を心理的・性格的なものに帰してしまい、社会関係や考え方、捉え方がまちがっているという次元を見逃している。それは心理的な問題ではなく、考え方の問題で修正できるものではないのか。

 90年代は加藤諦三が問題にしていたようなアダルト・チルドレンやトラウマといった問題が、マスコミや世情をにぎわせた。だけどこれは社会や対人の関係で自分を抑えて、対立を避ける社会関係が世を風靡していて、同じように多くの人に共有されていた性格傾向にすぎないのではないか。

 加藤諦三が依拠していた心理学的バックボーンは交流分析で、ミュリエル・ジェームスやロロ・メイ、カレン・ホーナイやアリス・ミラーといった引用名をよく見かけた。幼少期に精神的虐待や性的虐待をうけて、神経症になるといった理論である。幼少期にさかのぼって問題を見つけ出し、トラウマを見つけ、親を目の仇にし、そのときの感情を生きろといった理論をとなえた。

 しかしその後、過去が問題であるより、いま、どういう考え方をもつかという捉え方の方が妥当と思うようになった。

 アダルト・チルドレンが問題とする自分を抑える、自分に価値がないと思う、他人の顔色や称賛、愛ばかりをもとめて、自分のしたいこと、自分の欲求を抑えつける。こういった性格傾向は親によって形成されたかもしれないが、それはげんざいは、考え方として自分を縛っている。

 たとえば、孤独で孤立することは悪いことだ、人格的に問題があるといった考え方であったり、人から称賛されたり、求められないと価値がないという思い込みをもっていたり、友だちや恋人とうまくいかないのは自分の性格や心理に問題があるといった考え方だ。

 自分を抑圧し、他者に迎合し、自分の価値は他者の愛や称賛にしかないと思い込むことは、考え方の一種にすぎない。その考え方を訂正・修正すれば、そのような性格や生き方は訂正できるのである。認知療法や自己啓発では、考え方の修正がおこなわれる。

 100万部を突破したといわれるアドラーを紹介した『嫌われる勇気』も、人から嫌われる、孤立することを恐れて、ひたすら他者に迎合する、自分を抑える性格傾向への解答として、読まれたものだと思う。これは、考え方の問題なのである。

 たとえば、嫌われることや孤独になることを正当化したり、積極的に評価する考え方や本を読めば、それが解消するほうへすすめるだろう。幼少期の問題やトラウマが原因といくらあげつらっても、問題は解消しない。


 われわれは外発性によって学校や仕事を強制され、自発性といったものをあまり重視されない時代を生きてきた。そのことによって、自分のしたいことがわからない、ほしいものがない、自分らしく生きられないという悩みを抱えてしまったのではないか。

 そういう外発性で生きてこざるを得なかった人は、世間体や社会的体裁のいい大企業や有名企業にマジメなサラリーマンとして勤めたりして、収入もよく世間でも好評で、しかし、自分のほんとうにしたいこと、自分らしく生きていると感じられているだろうか。

 外面のいい人生を生きると、「いつわりの自己」が問題になる。自分のほんとうに生きたかった人生を生きているだろうか。

 よい子や優等生とよばれる人たちは、体裁のよい成功した人生を生きているが、ほんとうに満たされた人生を生きているのだろうか。

 20世紀の工業社会は強制や外発的動機によって、人々を学校や企業に駆り立てた。しかし創造社会とよばれる楽しみや娯楽が重要になる時代には、なにより自分が楽しむこと、熱中して自発性をひきだす能力が必要になる。外発性で駆り立てられてきた人たちはこの時代にうまく適応できるのだろうか。

 外発的に強制されてきた人たちは、ほかの人が楽しんだり、喜んだりする製品やサービスを生み出せるだろうか。

 外発と自発性という問題は、性格類型のみならず、経済や社会、文化全般にも関わってくる問題だと思う。外発性だけで文化や経済は興隆・成長するだろうか。

 個人や心理の問題と思われていたものは、経済や一国の興隆とも関わる内発エンジンの問題ではないだろうか。

 強制されて、外発で釣られていた教育や労働といった世界でも、この経済社会ではすでに阻害要因となっているのではないだろうか。強制され、むりやり、いやいやさせていた教育や労働で、世界の人たちがほしがる楽しい商品やサービスを生み出せるだろうか。

 強制されるものがいかに社会の創造力や活力を殺してきたか、ひとり人格の問題ではもはやなくなっているのではないか。

 「強制的人間観」といったそのものが問われているのではないかと思う。



人から嫌われたり孤独になっても平気になるための本
嫌われる勇気カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ―(新潮文庫)幸福について―人生論―(新潮文庫)孤独であるためのレッスン (NHKブックス)キリストにならいて (岩波文庫)

05 26
2016

主体性の剥奪

キリギリスで生き残れ――『ハイコンセプト』 ダニエル・ピンク

4837956661ハイ・コンセプト
「新しいこと」を考え出す人の時代

ダニエル・ピンク
三笠書房 2006-05-08

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 21世紀に内発的動機づけの必要性を説いた『モチベーション3.0』を読んだために、いささか古い2004年に出されたダニエル・ピンクのこの本をさかのぼって読んでみた。

 ひとむかし前は知識労働者がもてはやされたが、いまはその中の規定作業や反復手順に還元できる仕事は、もはやコンピューターや途上国に代替されるようになっているということで、第四の波の時代になっていると。

 そういう時代には創造性や感情、全体性がますます重要になるということで、陳腐な右脳タイプの賛美が説かれたりしているが、まあ、その詳細や違いを言葉で知っておくことは必要かもしれない。

 要は詩人や画家になれというか、もはや芸術家の仕事でしか生き残れないといっているのだけど、こういうクリエイティブ志向の未来予測って、世の多くを占めるルーティンな仕事といつも別世界感がある。

 ルーティンな仕事はあいかわらず残りつづけるし、フリーペーパーの求人にはそういう仕事ばかり載っているし、クリエイティブなんてどこの世界?といった仕事や会社組織に属する人も多いのじゃないかと思う。なんか現実と違う感はいつもある。

 先端のトレンドにはそういう動きがあって、創造性でしか生き残れない世界もあるが、また日本もそういう世界経済の流れに押し流されるが、ルーティンも低賃金に落ちながら存続しつづける保守的な想像力も必要なのではないかと思う。

 先端的には詩人や画家で生き残れといわれるのだが、これって、アリとキリギリスの寓話でいえば、キリギリスとして生きろということだ。

 日本はキリギリスにあいかわらず冷たい社会なので、アリ的な労苦賛美のなかで、世界経済の中から凋落する転げ坂から抜け出すことができないのだろう。

 義務や強制でつくられたものに人はもう魅力を感じられなくなっている。その人がみずから楽しんでつくったもの、そういうものが求められ、だからこそアリ的な価値観が、魅力を壊してゆく。

 そういう創造社会のなかで、もっと人を動かすエンジンの交換の必要性を感じたダニエル・ピンクは、内発的動機づけの重要性や必要性を強く感じたのだろう。20世紀は外発的動機づけで働かせても、成果をのぞめる生産物の時代であった。しかし創造社会において、外発的動機は、内発エンジンを壊してゆくばかりだ。義務教育はメモリチップの100円の価値しかないといわれる時代に、内面の部分の大きな転換はできるだろうか。

 終章のモノより生きがいの章、人生の意義を探す世界的な傾向も感慨深く、物質的に満たされた工業社会の終わりには、人々はそういうものを強く求めるのだろうと思った。

 人生の意義や自己啓発を探すということは、もはや「宗教の時代」といってもよいと思う。創造の社会は、宗教の時代でもあるのだ。科学的世界観を通過した後には旧来の宗教理解と違ったものがあらわれると思うが、世界観はより主観的に、唯心論的に変わってゆくのだろう。

 キリギリスと宗教がのびのびと生きられる社会に、日本は変わってゆけるのだろうか。従来、禁止されていたものを多く破ってゆくチェンジが必要な時代だといえそうだ。


モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか (講談社+α文庫)人を動かす、新たな3原則 売らないセールスで、誰もが成功する! (講談社+α文庫)ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉新 クリエイティブ資本論---才能が経済と都市の主役となるテクノロジーが雇用の75%を奪う

05 27
2016

主体性の剥奪

自分の行動の結果が見えていますか?――『子どもが育つ魔法の言葉』 ドロシー・ロー・ノルト

4569660231子どもが育つ魔法の言葉 (PHP文庫)
ドロシー・ロー・ノルト
レイチャル ハリス
Dorothy Law Nolte
PHP研究所 2003-09

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 強制と自発性というテーマで本を読んでいるので、人を伸ばす、人を育てるという面では、子育てに話にもつうじるので、このような子育て論にも手をのばしている。

 われわれは自分がおこなった行為や言葉が、他人やまわりのどのような結果をもたらすのか、よくわからずに行動するのかもしれない。

 子どものときに親にしつけられたり、言われた言葉に対して傷ついた気持ちはよく覚えていても、自分が親の立場になると、自分の言葉が子どもにどのような気持ちをもたらすのか、もう押しはかれなくなっている。

 受け手はいつも送り手にされた気持ちをしっかりと覚えている。だけど送り手になると、受け手がどのような気持ちを抱くのかすっかりわからなくなっている。

 それで、ドロシー・ロー・ノルトが書いた詩篇「子は親の鏡」のような親の行った結果の因果を教えてもらわなければならなくなる。

 この詩篇は、アメリカン・インディアンの言葉として加藤諦三に紹介されていて、ドロシー・ロー・ノルト自身が迷惑そうにはじめにで断りを入れている。

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる
子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる
励ましてあげれば、子どもは、明るい子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる



 自分のおこないや言葉が、子どもにどのような影響や結果を与えるか。人はそれが見えなくなっている、あるいは見えないものなのかもしれない。

 子どもに注意ばかりしていると自信をうしなった人の顔色ばかりうかがう臆病な子どもになるかもしれないし、人と比べてばかりいたら他人を羨むばかりで自分に価値がないと思い込んだり、欠点ばかり注意していると、世の中の悪い面ばかり見る子どもに育つかもしれない。

 子どもは鏡のように親の行動や言葉を写し、その内面もそっくりひきついでしまう。

 こういう子育て本は、自分もしっかりとした大人に育っているか、ちゃんとした道徳律をもっているのかといった試金石の役割もはたす。子どもの矯正以前に、自分はちゃんとした大人として成長しているのか、そういったことも試されているのだと思う。自分は大人としての関門を通過しているのだろうか。

 わたしのぼんやりした問題意識では、強制されたものがいかに自分を疎外するかといったことや「いつわりの自己」問題の方に関心があるのかもしれない。

 親から独立して、一人の人間として大人として自立して、自分らしく自分のしたいことをする人間に成長できているか。この点でいえば、自立や反抗の問題をあまりとりあつかっていない本ということができるかもしれない。

 大人、ひとりの人間として自立する話は、それを疎外され成長や自立をはばまれた毒親の方こそ問題が見えるかもしれないということで、つぎにはそっち方面の本を読みたいと思っている。

 外発性や強制で育ってきたわれわれは、自立や自分らしい生き方をできるように成長しているのだろうか。思春期に親に反抗して自立心を育てる青年はたくさんいる。だけど世間や企業の常識などに縛られて、そこから自立や成長できない人はたくさんいるのではないだろうか。

 世間や企業からも反抗して、自立することが、われわれの時代には求められているのではないだろうか。われわれはもはや教育や親からのキャッチアップでは成長できない創造と実験の時代を生きなければならないからだ。


10代の子どもが育つ魔法の言葉 (PHP文庫)毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)不幸にする親 人生を奪われる子供 (講談社+α文庫)毒になる母 自己愛マザーに苦しむ子供 (講談社+α文庫)母がしんどい

05 30
2016

主体性の剥奪

虐待親と20世紀工業社会の労働観のつながり――『毒になる親』 スーザン・フォワード

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)毒になる親
一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

スーザン・フォワード

講談社 2001-10-18
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 親からのトラウマやアダルトチルドレン問題はなんでも親にせいにすると訴えられたりして、もう一巡したと思うが、いまはどうなっているのだろう。いまの毒親問題はより人間関係的なものにシフトしているように見受けられるが。

 わたしは内発的動機づけをとりもどすという文脈からこの本を手にとったので、言外の読み方ができないかという読み方をしたかった。

 エドワード・デシは内発的動機づけの本に「いつわりの自己」問題にも多くのページを割いたが、じつはこの毒親や支配する親というのは同じ問題の違う面をとらえているだけではないのか。親から自立できないという問題が、これらの問題の核心だろう。

 このような支配したり、暴力をふるって思いのままにする親というのは、20世紀工業社会の外発的動機づけで行われてきた労働観や教育観とも重なるのではないだろうか。労働や教育でも、支配者や為政者から自立できないのだ。そしてそれは毒親の子どもが不全感や自己破壊傾向をしめすように、労働者や学生も、真の労働や勉強をできないようにさせるのではないか。

 外発的動機づけや強制的な労働や教育は、本人がどう思うが、どう感じ、行動したいと思おうが、関係なしである。強制や罰則でも、ルーティン作業やマニュアル作業は可能だからだ。子育て観も、この20世紀工業社会の強制的人間観をひきずいっているために、こう残虐で残酷な結果におちいってきたのではないのか。

 子どもやそれを受ける相手がどう思うが、どういう影響をうけるか、効果は考慮にない。それは20世紀の強制的人間観で間に合った工業社会の要請でなりたってきたものではないのか。

 罰則や強制で人間が従う、変わるとそぼくに思われる人間観などが、工業社会の前提にずっと横たわってきたのではないか。そんなわけはないのである、禁止や罰則は怨念やほかの方法をさがすように人間をつき動かす、人間を動かすことは逆説だらけである。

 このような強制的支配観をもった親が、支配的・虐待的な毒親になるのではないだろうか。つまり20世紀の外発的動機づけや強制的労働観などに支配されているのである。それは職場や人間関係でも発揮され、本人の意思や心情、成長などおかまいなしである。強制によって壊されてしまう内発性というのは、そのまま親子関係では、自立と成長のフェーズでもある。

 毒親問題、虐待問題などの神経症的文脈に読み取られる親子関係は、20世紀の強制的労働観や教育観とそのまま同じ文脈をひきずっているのではないだろうか。


 もうひとつ、この本を読んでずっと反発を感じていたことがある。そぼくな唯物論で世界を見ていて、唯心論的な見方をほとんどもたないことである。

 唯物論、科学観というのは、自分の外側に世界や人々がいて、自分はその外界から感情を受けとるものだと思っている。だから自分が悲しんだり、怒ったりすることはすべて他人や外界のせいで、それらを変えないと自分の感情は解消されないと思いっている。

 だけど、唯心論というのは、自分の感情は自分の考えがつくりだしたものであり、感情の責任はすべて自分にある。他人や外界のせいではなくて、自分がどうとらえるか、どう思うかは、自分の責任なのである。

 他人や外界は自分の心のうちにふくまれ、つまり唯心論というわけで、他人のせいばかりにする唯物論をもっている人は、みずから自分を「被害者」に仕立てている人ということになる。

 この無意識にある世界観の前提の違いによって、世界はまったく変わってくる。この前提に無知であるばかりに、いかに自分が他人や世界の被害者であると思い込む人が多いことか。

 親や他人の感情に自分の責任がある、自分の感情は他人のせいだと思い込んでいる人は、このそぼくな唯物論をもっていて、その被害者になっていることにまったく気づいていない。

 わたしがいう唯心論を唱えている人というのは、エピクテトスやマルクス・アウレーリウスなどのストア哲学者、ウェイン・ダイアー、ジェラルド・ジャンポルスキー、リチャード・カールソン、ジョセフ・マーフィー、引き寄せの法則などを念頭においており、つまり自己啓発であり、ニューエイジであり、心理学者はここまでつっ込んで理解している人はあまりいないように見受けられる。

 そぼくに自分の感情の責任は他人にあると思う世界観をもっている人は、無知ゆえの世界観の被害者になりつづける。自分で殴っているのに、他人のせいにしつづける。自分で殴るとは、自分の考え方がそのような感情をひきおこすという因果を知らないということだ。

 毒親や虐待親、トラウマ子どもというのは、この唯物論・科学観の世界観で他人のせいにしつづける因果応報というようにも思える。


人を伸ばす力―内発と自律のすすめ自省録 (岩波文庫)どう生きるか、自分の人生!―実は、人生はこんなに簡単なものモチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか (講談社+α文庫)マーフィー 人生は思うように変えられる―ここで無理と考えるか、考えないかで… (知的生きかた文庫)

06 05
2016

主体性の剥奪

欠点や弱点の矯正という病――『母という病』 岡田 尊司

4591137775母という病 (ポプラ新書)
岡田 尊司
ポプラ社 2014-01-08

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 生きづらさや神経症の問題から読むのではなく、主体性や自発性を奪う他人というテーマでこられの毒親本を読もうとしている。人を動かすというテーマである。子育てほど、自他の境界もなく、他人が侵害する関係はないから、よけいに問題がうきぼりになる。

 基本的に母や親だけに問題があるというトラウマ系の説には否定的である。いまの考え方を修正するほうがより実効的であり、現実的であるし、終わった過去は変えられないばかりか、ネガティブな過去ばかり想起することになってしまう。また、唯物論的なパラダイムも疑問である。

 親は社会や文化的な考え方や信念によって子育てをおこなったともいえるし、経済や社会情勢的な影響もうけている。心理学的なトラウマ理論は視野狭窄的すぎる。

 それらを省き、無意識に行動パターンとして沁みついて、なぜ自分がそう行動してしまうかわからないといったものが、コアな毒親問題として解かれなければならない習性なのだろう。

 問題ある母親に共通したこととして、人の気持ちをくみとり、理解するのが苦手という点があげられている。人がなぜそう行動するのかわからないし、自分が行った行動の結果が子どもにどう出るのか、どう感じるのかわかっていない。さらに理想や義務の枠組みがあったり、自分の都合、気持ちしか考えていない親なら、子どもの気持ち、影響などハナからどうでもいいだろう。

 親は子どもの行動や言葉を直すことが仕事だと思っていたり、否定することが、子どもを育てることだという信念や行動パターンをもった人も多いようだ。否定されてばかりいる子どもが自信をもったり、自発性をもったりできるだろうか。やがて自己を否定ばかりする破壊的行動をおこすようになるのは自明の理だ。

 欠点や弱点を直すのが子育てや教育と思われていた時代もあって、それらの人も子どもの否定やネガティブ面ばかり見て、叩くことになってしまう。そのような親を内面化する子どもは、自分を否定してばかりいて、幸福や自分らしさを生きられることもできなくなるだろう。20世紀工業社会の教育観も、欠点の矯正ばかり向いていたのではないか。

 それこそ精神科医や岡田尊司も精神病理的な面ばかり見て矯正し、平均的や正常な線に戻すことをおもな業務にしていたのではないか。長所やできる面を伸ばそうというループをもっていなかったのだ。そういう悪い面ばかり見ることが、子どもをつぶし、大人になっても自己破壊から抜け出せない原因なのではないか。

 フロイトやユングはどうして病理面ばかり見たのか。子育てする親も、欠点や弱点ばかり見ていたのではないか。労働観においても自発性など問題ではなく、外発性や強制ばかりでおこなわれてきたのではないか。他者の内面や結果が存在しない他者観が、20世紀の工業社会には共通していたのではないか。

 軽んじてられていたニューソートやニューエイジといった自己啓発的流れだけが肯定面や積極性をひきだそうとして、精神医学もようやく認知療法やポジティブ心理学をとりいれるようになり、病理面や欠点だけを直す考え方から脱却しはじめたのではないか。毒親問題はそのとり残された流れに位置するものだ。

 20世紀の工業社会というのは業務の流れやルーティンは決まっていて、そこに当てはまる規格的人材が求められたという面がある。しかし創造社会とよばれる時代には、自発的な創造力が必要になる。社会の要請が、自発性や幸福な人材からつくられるものを必要とはじめたのだ。だから、ようやく強制的に内面をつぶすような子育て観、教育観も、転換を余儀なくされているのではないか。

 外側の強制的な行動が必要だった工業社会の統制理論が、子育てや教育においても子どもの内面を破壊し、主体を引き裂くという愚をおこなってきたのではないか。
 
 毒親問題というのは、工業社会の問題であり、その要請に応えるべく外側の強制力だけが人間は育てられ、破壊されてきた内面が、問題として浮上してきたのではないかと考えられる。

 心理学だけを見ていると、こういう社会全般の問題に目が向かない視野狭窄的なものになる。


愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)(051)父という病 (ポプラ新書)不幸にする親 人生を奪われる子供 (講談社+α文庫)毒父家族 ―親支配からの旅立ち私は私。母は母。〜あなたを苦しめる母親から自由になる本

06 07
2016

主体性の剥奪

学ぶのは暴力支配と支配・従属の関係――『お母さんはしつけをしないで 』 長谷川博一

4794218044お母さんはしつけをしないで (草思社文庫)
長谷川博一
草思社 2011-02-05

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 これはなかなか衝撃的な本だな。

 教育熱心、きびしいしつけ、優等生やよい子、よい母をめざすことが、逆説的に子どもを追いつめ、非行や犯罪をおかす子どもにそだててゆく。親の熱心さや期待が、ぎゃくに子どもをダメにしてゆく。そういったパラドックスを説いた本である。

 かつて17歳の少年犯罪が世間をにぎわせたことがあったが、それらの少年に共通することは親の厳しいしつけや教育熱心さ、ときに親が教師であるという共通項があったということである。優等生やよい子の暴走、しつけの暴走がそこにあったと著者は見る。

「母親はいまでも、自分のした子育ては「しつけ(愛情)」だと信じて疑っていません。しかし拓也くん(強盗傷害事件で少年刑務所に入っている少年)が母親から学んだのは、暴力を用いて、相手を思い通りに従わせるという人間関係だったのです



 一方的で暴言や体罰をもちいて子どもをコントロールしようとするしつけは、子どもに主従関係をつくり、支配と従属の関係を教えてしまう。「子どものため」や「よい子になってほしい」「いい大学に入ってほしい」という熱心な教育やしつけは、子どもに奴隷と服従する暴力的な関係を教え、それは対人関係でも、またその子が親になったときに同じ関係がかたちづくられてしまうのだろう。

 すこし疑問だが、犯罪に走った少年の親ほど「うちは子どもをきびしく育てた」という傾向があったそうである。叱られてばかりいる子どもは、「自分はダメな子供なんだ」という信念を育て、こんどはその信念に従って行動してゆくことになる。

 親は熱心さや愛情、期待の大きさから、子どもに過剰なしつけや教育をおこなってしまう。しかしその期待と裏腹に、子どもにつたえられ、学ぶことは、支配と服従の関係であったり、暴力や力で人をコントロールすることであったり、自尊心の低下による自虐や犯罪的暴力であったりする。

 親の期待とは違い、しつけの熱心さは、上下関係を学ばせ、上の人が下にいる人を思い通りに操るという関係を教えてしまう。自分のしたことの結果、影響、言外の意味を読み損なってしまうのである。

 逆説、パラドックスなのである。子どもにかける熱心さや過剰な思いが、ぎゃくに子どもの自立や自主性をつぶしてゆき、子どもの健全な成長を壊してゆく。子どもは自分と違った別の人格であり、別の目標や好みをもち、自分らしく自分の好きなように生きてゆくという子育ての自立という最終目的が、それによって疎外されてゆく。

 この本は解決策として、「あきらめる」「開き直る」といった熱心さをやめる逆説的な方法が教えられるが、これはまるで老荘思想だと思った。老子と荘子は、逆説的に人の努力や計画をとん挫させ、やめさせる方向に説く。人の有為というのは、かならず想定外の失敗や結果をもたらすのだ。ぎゃくになにもしないほうが、よい結果をもたらす。これは計画経済、社会主義の失敗として、市場主義にまかせるほうがいいという流れにも重なる。

 熱心さ、過剰さ、大きな期待が、逆説的にどんどん子どもを破壊してゆく方向にすすむとは、いいことをしていると思っている親には想定外のことだろう。しかし小さく、無力な子どもにとって、強権的な親は、傍若無人のかぎりをつくすどこかの独裁的君主と変わりはない。反抗や抵抗をできない無力な子どもは、強権や強制に一方的に従って自分を破壊してゆくほかない。

 子どもはほんとうはなにをほしがっているのだろう、なにをしたがっているのだろう、なにを思っているのだろうと無心に子どもの気持ちを察したことはあるだろうか。子どものありのままを見つめたことはあるだろうか。ニューエイジの思想でありのままの心を見つめるといった教えをよく聞くが、アタマでっかちな親自身は、自分のありのままの心に耳を傾けたことさえない本心を無視した生き方を生きてこざるをえなかったのだろう。

 子育て論はそれこそ人の数、人の性格の数ぶんだけある玉石混沌の世界であり、ほんの数冊しかわたしはふれたことがないので、もう一方の厳しいしつけ、スパルタな教育論の言い分は欠けている。しつけが不足して甘えが横行するとルール無視の忍耐や努力の足りない子どもができると反対派はいうだろう。

 それらの言い分も確かめたいところだが、この臨床心理士・長谷川博一の論理や説得性には、腑に落ちるところがたくさんあった。東ちづるのカウンセリングや宅間守との接見をおこなったことのある犯罪臨床心理学者のようである。

 子育ての信条や方法はそれこそ家庭の数ほどあるといっていいと思うが、いまは教育、しつけ熱心、愛情過多の親が多いことだろう。そのことの逆説はしっかりとくみとられる必要があると思う。子どもは自分独自の魂を育てるために生まれてきたと考える方が妥当に思える。

 人の熱心さの逆説は、社会主義や民主主義の理想が、逆説的に大量虐殺の悪夢を生み出してきた歴史という事実と重なって見える。


殺人者はいかに誕生したか: 「十大凶悪事件」を獄中対話で読み解く (新潮文庫)子どもを虐待する私を誰か止めて! (光文社知恵の森文庫)お母さん、「あなたのために」と言わないで 子育てに悩むすべての人への処方箋魔法の「しつけ」 (PHP文庫)平井信義のしつけ無用論―自主性と思いやりを育てるために

06 12
2016

主体性の剥奪

親だけの問題?――『不幸にする親』 ダン・ニューハース

4062814811不幸にする親
人生を奪われる子供
(講談社+α文庫)

ダン・ニューハース
講談社 2012-07-19

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 基本的に親の責任だけの問題にするトラウマ理論はもうあまり信憑していない。いまの考え方を訂正や変更する自己啓発的な考え方の方がよほど有効だと思うし、文化や世間の風潮に親もおおくの影響をうけていて、どうしてそれを親だけの問題にできるのかと思う。

 たとえ親から歪んだ考え方を植えつけられようと、訂正することができるし、世間から植えつけられた考え方も、大人になった自分なら検討して、変えることもできる。ただ、無意識な行動パターンとして植えこまれたものは意識化されないかもしれないが、それも言語化された本を読むことによって、自分の行動パターンの歪みやひずみを知ることができる。親を憎んだところで、問題はもう親の手を離れている。だからトラウマ理論や毒親問題には否定的である。

 このような毒親本を手にとったのは、他人が他人を動かす、他人が他人を支配する、または強制する関係といったものを、検討したかったからだ。やらされ感や強制されるものについて、いまだにわたしは強い反発心を抱いている。そこから自由になる方法はないかと、人が人を強制する関係や支配する関係がいちばん露骨に境界線なしにあらわれる親子関係に、問題の所在を探ってみたくなったのだ。だから、もはやトラウマ理論だけを問題にしているのではない。

 このような毒親本というのは、歪みをもった親にされたことの言語化、意識化にはとても役に立つと思う。歪んでいたり、まちがっていたり、愚かな親というのは、人間である以上、犯してしまう過ちや間違いであるだろうし、すべてに完璧で最高な親や人間などいるわけがない。親だって、世の中も自分もよくわからないで体だけ大人に成長した子どものようなものだ。大人になって、そういう実感はひしひしと感じているだけに、親に完璧やまちがいのない完成した大人を求めるのは、不可能な望みというものだ。

 こういう心理学書というのは、どうして文化的な考え方や世間の一般的な風潮といったものを、無菌室のように無視するのだろうと思う。親は時代の子育て論や一般的な育て方に影響をうけているので、体罰や虐待的な子育ては、現在よりはるかに寛容というか、推奨されていた時代すらあっただろう。なぜ社会や時代は、責任を追及されないのだろう。まるで非正規や貧困が個人の怠けのせいにされる風潮とおなじようなものだ。

 子どもをコントロールしたがる親というのは恐れていて、あるいは自己中的な自分を守る、自分の楽しみや喜びのために子どもを使うようなところがあって、親自身はそういった人間関係の歪みを自覚していない、もしくはほかに有効な方法を知らないで、自分自身すらもがいているのかもしれない。人間関係にすべてに完璧で、トラブルも問題もおこさない人間などいるだろうか。

 コントロールしたがる親が恐れているものは、

①欠陥人間と思われることの恐れ ②力がないと感じることへの恐れ ③人から認められていないと感じることの恐れ ④非難や攻撃を受けやすい弱さを感じることの恐れ ⑤感情のコントロールを失うことへの恐れ



などがあげられていて、これらの恐れから親や子どもをコントロールしようとするのである。親も弱さや恐れの対処法がわからずに、もがいているのである。

 毒親というのは、親自身のために子どもがいる、自分自身の喜びや楽しみのために子どもを使うようなところがあって、これは子どもを育てることの基本理念をあやまって、またはそれ以外の方法を知らないともいえるかもしれない。子どもは自分と違った独立した性格と個性をもち、自分独自の個性や考え方、生き方を尊重され、親によってサポートされ、伸ばされる一個の人格であるという考え方がまるで存在しないのだろう。それによって、子どもは自分自身の成長と個性をつぶされる。これは考え方や捉え方の問題ではないのか。

 有害な親の8タイプがあげられていて、かまいすぎて子どもを窒息させる親、子どもの幸せを取り上げる親、完全主義者の親、カルトのような親、支離滅裂な親、常に自分の都合が優先する親、身体的な虐待をする親、責任を果たせない親、があげられていて、勝手で身勝手な親が多いのだが、優しさや思いやりが過剰充満した親も、また問題としてあげられるのである。

 基本的に、自己中心的で、他者の尊重をできない人の特長を備えているタイプのように思える。他者を尊重できない態度は、子どもに向けられる。自己中心的な性格もあるのだろうが、子育てには甘やかすと規範や禁止事項を守らない大人に育つと思われていたり、弱点や欠点を矯正することが教育だと思っていて、子どもを責め、折檻することが正義だと思っていた親と時代だってあるだろう。子育てって、他者である子どもを尊重しない考え方がもともとあったのだ。

 そして、他者や自主性を尊重しない教育観や労働観はこの社会を覆っていて、親自身も強制ややらされ感を抱きつつ、働いたり、学んだり、あるいは家庭すらそのようなやらされ感や強制観で運営しているかもしれない。自主性や自発性が尊重された社会ではないのである。労働や教育は、強制されたものでないと成り立たない。そういう社会の中で子どもも押しつぶされ、その影響に声がようやくあげられだしたのが精神医学圏であり、労働界や教育界においては、いまだに強制的、強権的支配の制度はつづいており、そのくびきから自由になれる人は少ない。

 われわれの社会自体が強制や強迫でないと運営されない社会といえるかもしれない。強制や強迫なしで、社会は運営されて、独自に回るということはあるのだろうか。人は強制を失うと、自発的に学び、働き、社会に貢献したいとする心と行動を育てられるのだろうか。人は強制しないと動かない、そういった人間観が、この問題圏の根底にあり、そのことによって自分の人生、自分独自の個性や趣向といったものを伸ばせないで生きることを余儀なくされている。問題は、この社会のあり方そのものではないのだろうか。


毒になる母 自己愛マザーに苦しむ子供 (講談社+α文庫)文庫 他人を支配したがる人たち (草思社文庫)長女はなぜ「母の呪文」を消せないのか ―さびしい母とやさしすぎる娘子どもを虐待する私を誰か止めて! (光文社知恵の森文庫)「わが子」の気持ちが分からない! (PHP文庫)

06 19
2016

主体性の剥奪

ファッション雑誌的マザー――『毒になる母』 キャリル・マクブライド

4062816229毒になる母
自己愛マザーに苦しむ子供 (講談社+α文庫)

キャリル・マクブライド
講談社 2015-10-21

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 自己愛マザーというのは、ファッション雑誌や女優、タレントに憧れるような女性たちのことだろう。

 見栄えや見た目がなにより肝心で、世間体がだれよりも重要だ。そのために娘の人格や主体性、価値といったものはないがしろにされる。具体例として出されている母親の心ない発言はひどいものだと思う。

 しかしこれは個人的な性格の問題より、見た目やファッションをなによりも重要視する文化・社会的な問題という気がする。そういう成功や功績を追い求める母親にトロフィーや道具のようにあつかわれた娘はどう成長するかという話である。

 2014年あたりに毒親、母が重たいといったテーマが話題になったようだが、90年代は神経症や虐待といった問題で親のあり方が問題になっていたが、いまはより一般的なふつうの関係にも、その問題が認知されてきたと考えてよいのだろうか。

 新しい問題と思われる向きもあるかもしれないが、毒母は童話で山のように出てくるようにはるか昔から問題にされてきた。「白雪姫」や「シンデレラ」、「三枚のお札」などを思い出してもらえば、じゅうぶんだろう。童話のテーマは子どもの自立である。現代はそれだけいくつになっても母の支配と呪縛から抜け出せない関係が増えたと見るべきか。

 第3部からは「回復の5つのステップ」が教えられるが、これは母との親子関係を抜きにして、対社会的・対文化的なセラピーだけを問題にしてもよいようにも思われる。文化・社会的に植えつけられた価値観や基準を、自分から抜き去るためのステップのようにも思える。洗脳主や目に見える価値体現者が、目の前の母親であっただけで、文化・社会的な価値観と闘うのだ。

 そういう娘は結婚相手も、外見やイメージで決めようとする。収入やルックス、恥ずかしくない職業。ここですすめられるのは、内面はいいか、感情をコントロールできるか、共感や愛情を示せる人かといったポイントで選ぶようにすすめられる。ファッション的価値観からの離脱をすすめられており、これって現代社会の価値基準からの離脱である。毒親はそういう現代社会の価値観を象徴的に体現した自分を押しつぶす人である。

 母親からの離脱と独立をめざして、すすめられるほんとうの自己というのは次のようなものだ。

・さまざまな深い感情を、生き生きと自発的に感じられる能力
・自分には適切な権利や資格がある、と自分で認められる能力
・自分を活性化させ、表現できる能力
・自分で自分を尊重できる能力
・つらい感情を自分で慰められる能力
・親密な関係を結べる能力
・ひとりでいられる能力



 自己愛の強い母は、呑み込む母親か、無視するかの両極端にあらわれやすいという。そして娘は、頑張りすぎる娘か、自己破壊する娘の両極端になりやすい。

 支配され呑み込まれた娘は、自立や自分を育てられずに、母の支配と価値を背負って不全感を生きつづける。それは母の価値観であると同時に、文化・社会的な価値観でもある。

 いわば世間の価値観に呑み込まれた状態で、自分というものや自分らしい価値観というものを育てられずに、自分の人生を生きていることも価値観も感じられずにいる。世間の価値観に反抗も、自立もできないのである。世間への反抗期も、思春期の次に定義づけられる必要があるのではないかと思う。

 これは母との関係との問題なのか。世間との関係の問題なのか。親や世間の承認をのりこえて、自分らしい価値観をつかんだときに、母と世間から自立はようやく果たされるのだろう。世間への反抗期が、あまりにも認知されないで、世間の価値観に従順な人が多すぎるのである。


▼見栄えだけで生きた母の壮絶な終わり。われわれの時代の反省を迫っているのかもね。
 VERY妻になりたかった母の死から学んだこと アルテイシア


モテたい理由 (講談社現代新書)サヨナラ、学校化社会 (ちくま文庫)自己愛過剰社会(085)自己愛モンスター: 「認められたい」という病 (ポプラ新書)母を棄ててもいいですか? 支配する母親、縛られる娘 (こころライブラリー)
06 21
2016

主体性の剥奪

親を責めても止まらない――『子どもを虐待する私を誰か止めて! 』 長谷川 博一

4334785751子どもを虐待する私を誰か止めて!
(光文社知恵の森文庫)

長谷川 博一
光文社 2011-02-09

by G-Tools


 虐待が報道されるたびに虐待母への世間の非難やバッシングが巻き起こるのだが、そういう非難や禁止は、虐待を止める効果をもたないばかりか、よりいっそう母親を追いつめてしまうことがわかる本である。

 彼女たちは子どものころに親から責められつづけられて、無意識に親と同じように子どもを責めつづけ、さらにそのうえに世間から責めつづけられる。世界から罰せられるために、自分が存在するかのような人たち。

 「親子連鎖を断つ会」に参加した虐待をしてしまう母たちの生々しい告白の数々に、身が悶えるほどの衝撃と苦痛を覚える本である。トラウマになりそうな壮絶で、悲惨な話ばかり聞かされて、心が弱い人は覚悟して読まなければならない本である。天を見上げて、ため息をつきたくなるエピソードの数々。

 世代連鎖を知ることは、「虐待する親は悪い」と決めつけ、非難することで虐待が止まるという考えを改めさせる。なにより、自分でいけないことだとわかっていても、虐待をおこなって責めつづける本人に、癒しをもたらす。自分の責任だと責めつづけていた心に、自分のせいではなく、親から虐待をうけていたからだという責任の所在を教えるからである。

 「虐待を受けた人は、虐待をおこしても責任はないのか」と短絡的な疑問は、被害者を守れなかったことがのちの加害者を生んでしまっていたという世代連鎖を見逃している。

 虐待者は自己嫌悪や自責の念でいっぱいである。それでも虐待をしてしまう自分にさらに嫌悪と自責の念を抱く。さらに世間からよい親と虐待する親への非難もつけ加わって、もっと追いこむ。責めつづけられる体験が、もっと責めつづけられるブラックホールのような体験を生み出してしまう因果や皮肉。

 長谷川博一は、しつけに支配と従属の関係を読むこむのだが、愛情やしつけが、コントロールの完璧さをめざすがゆえに、関係は支配-隷属関係になってしまう。厳しいしつけ、完璧な子育てというのは、ヴィジョンや理想があるために、本人の資質や愛着の関係を見ずに、ただ支配者、虐待者の相貌を得てしまう。専制君主や暴君、虐殺王のような存在になるのである。

 子どもは理想の子どもになるのではない。支配者や暴君にかしずき、その期待に対応する従順でよい子の面をつけ、将来大人になると、その暴君のような支配者のすがたをあらわすだけである。親の支配者としての姿をしっかりと反復・模倣するだけなのである。

 ただ、わたしは虐待は貧困が生み出すのではないかと思っていたから、そういう面がまったくとりあげられたなかったのは、すこし疑問に思った。貧困に親が追いつめられて子どもにネグレクトをおこすという事件も多いように思う。この本では、ほかの背景や原因があまりにも考慮されなさすぎる。

 虐待された子供のうち、子どもの虐待した親の割合は、長谷川氏がおこなった調査によると、男子が69.4%、女子が81,1%となっている。たしかに高い。

 だけど、虐待されなかったが、子どもに虐待してしまう親の割合は、男子32.9%、女子41.7%と、けっして無視できる割合ではないのである。この人たちの事例をカットしたような世代連鎖の原因だけで、虐待をとらえてよいものだろうか。

 虐待連鎖の事例をなまなましく見ていると、友人にかけられたという言葉と同じような立場をわたしもとりそうだが、連鎖にたいしてはいえそうにもない。

「あなたまちがっていると思うよ。実の親にどんな影響を受けて育ったかなんて問題じゃないわ! 要は当の本人がどういう意識で生きていくかでしょ? 自分の人生だもの、自分の責任で生きなきゃ! 他人(親)の責任にして逃げるなんて卑怯だよ」

 ただ、連鎖の鎖がどんなに強いとしても、虐待者の自己叱責の声は、まるでアルコール中毒者の心と似ていて、自分を責めつづけるためにその行為からぎゃくに離れられないメカニズムが同じである。この自己叱責の声を消すことは、現在志向のセラピーでも可能なはずである。でも、やっぱり自己否定の声を払しょくできる強力な説得や理由付けを、世代連鎖の理論はもたらしてくれるのかな。



殺人者はいかに誕生したか: 「十大凶悪事件」を獄中対話で読み解く (新潮文庫)断ち切れ!虐待の世代連鎖―子どもを守り、親をも癒す児童虐待―現場からの提言 (岩波新書)親になるほど難しいことはない―「子ども虐待」の真実 (集英社文庫)消えたい: 虐待された人の生き方から知る心の幸せ (単行本)

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世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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