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09 30
2016

主体性の剥奪

親の呪い――『児童虐待』 池田 由子

4121008294児童虐待―ゆがんだ親子関係 (中公新書)
池田 由子
中央公論社 1987-02

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 1987年、昭和62年に出された児童虐待についてのコンパクトな百科事典のような本である。

 90年代にはアダルトチルドレンやトラウマの文脈で虐待がとりざたされたが、バブルのころまでは児童虐待は世間にどのように捉えられていたのだろうか。

 児童労働や売春人身売買から虐待の歴史がとりあげられて、子どもがまったく尊重されない時代から虐待の問題はかたちを変えて、ずっと存在していたことに気づかされる。

 事例がおおく載せられていて、もうその子どもたちは30年のときをへて、どのような生を送ったのだろうか。かつては小児科が、虐待の存在に気づかされるさいしょの機関であった。

 むかしもいまも、虐待する親は自分を「被害者」のように思っていることは変わらない基本事実ではないだろうか。

「大人の父や母と対等の、悪意ある人間として、親をわざと困らせたり、挑発したり、親にみじめな思いをさせる「加害者」のように捉えられている。親は自分自身を、子どもをいじめる加害者と思っていない。むしろ子どもに困惑させられる被害者と感じているのが特徴である」



 そして、虐待された子は、親を殺したり、あるいはほかの子どもを傷つけたり、殺人をおこしたりする虐待の連鎖はつづいてゆくことになるのである。

「社会が児童虐待という暴力を無視すれば、その社会にいる誰かが後にその負債を支払うことになるのである」



 あるいは、自分を責めつづけて、社会への不信に呪われる人生を送ることになるかもしれない。大人になっても職業を転々とし、薬物中毒になり、母の呪いに勝てず、自分の生を恨みつづけて路上で死ぬことになるかもしれない。

「何故、私だけがこんな目にあわなければならないのか? 何故生みの親がわが子を愛することができないのか? 母親に拒まれた私は生きるに値しない不要の存在なのか?」



 親に否定された子どもは、自己否定する自己像を描きつづけ、他人と世界にたいする不信を投影し、生きづらさをずっと抱えつづけて生きることになる。自己信頼を抱けないことは、かくもこの世界の生きづらさをかたちづくるのである。

 ただ、もしそうだとしても、心理療法が親の呪いや縛りを解けるような知識を与えてくれるよう願いたいところである。親に植えつけられたものだけで、人生が決定されたくないものである。

 
子ども虐待 (講談社現代新書)児童虐待―現場からの提言 (岩波新書)子どもへの性的虐待 (岩波新書)告発 児童相談所が子供を殺す (文春新書)ルポ 消えた子どもたち―虐待・監禁の深層に迫る (NHK出版新書 476)

09 25
2016

主体性の剥奪

日本は基本、性善説――『しつけ』 原ひろ子 我妻洋

61gt1P9cg7L__SL500_SX357_BO1,204,203,200_しつけ (1974年) (ふぉるく叢書〈1〉)
原 ひろ子 我妻 洋
弘文堂 1974

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 本屋の子育て論をみていると個人的に主張された本だけがならび、客観的、全体的に子育てを捉えた本がひじょうに目につきにくい。こんな偏った子育て論ばかり読んでいて、だいじょうぶ?と思うのだけど。

 この本は昭和49年に出された古い民俗学の本であり、むかしの子育て論を広い目でながめるという点でうってつけの本だ。

 ちょっとおカタイ民俗学の調査も見えるが、比較文化論や文化人類学まで目をくばった広範な視野が、なかなかおもしろい部分もあった。

 昭和40年代くらいの比較文化論といえば、ベネディクトであり、甘えの文化論を書いた土居健郎だった。なぜ甘えがあの時代にあんなに人々の口にのぼったのか、労働条件的な厳しさを抑えつける要因でもあったのか、ふしぎでしょうがない。

 この本はカーディナーやフロムといった人まで論じて、文化とパーソナリティ論まで踏みこんでいる。

 基本的に日本のしつけは次のようなものだったと思う。

「人間は、放っておいてもそうわるくなるものではない、いや、あまり小さいときから厳しすぎる育て方をすると、自分は継子ではないかと考えてみたり、ひねくれた人間になってしまう、もっとも、あまり放っておくと甘えすぎる人間になって、あとで本人がつらい目にあうから、しつけたりきたえたりしてやらねばならない」



 性善説である。いっぽう、性悪説にしたがって冷たいしつけで育てられると、世の中や人にたいする基本的信頼が育たず、他人は敵意をもっているように思えるし、たよりのなるのは自分だけだという世をすねた態度を育てるのではないだろうか。

 基本的信頼感をつちかえた人は、他人も自分に好意をもっているだろうと受けとるし、おたがいに信頼し合って生きる関係をつくりやすい。

 このような因果関係を知らず、厳しいしつけや早期教育がおこなわれれば、どのような子どもになるのだろう。

 基本的に日本は民俗社会的な基盤のうえに、西欧的教育法や知識が移植されて、のみこまれたり、反発されたりして、民俗社会的なものがさいごには勝つような風土があるのではないだろうか。

 昭和49年ころのしつけ観からだいぶ変わったと思うが、民俗社会的な部分は学べるものがある本であった。


しつけの社会学 (SEKAISHISO SEMINAR)ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)日本人のしつけと教育―発達の日米比較にもとづいて (シリーズ人間の発達)日本人のしつけ―家庭教育と学校教育の変遷と交錯教育言説の歴史社会学

09 16
2016

主体性の剥奪

昭和40年代からの俯瞰――『自由を子どもに』 松田 道雄

4004121388自由を子どもに (岩波新書 青版 879)
松田 道雄
岩波書店 1973-12-20

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 昭和48年に出た古い本で、げんざいの子育て観を俯瞰してみるにはいい本。著者は1908年、明治41年生まれだから、明治・大正・昭和の子育て観の変遷が読みとれて、参考になる。

 いいことばかり書いていると思う。社会的な俯瞰もやさしく説明してくれるし、自分が自分の主人になる人生のたいせつさもしっかりと説いてくれる人である。ただ、ぎゃくに自由にたいする反対論者は、たとえば国家主義者であるとか、厳しい教育を説く人からの反論もあわせ聞きたいとことだけど。

 自由を尊重するということは、年下や地位の下からの者の反抗や攻撃も受けることをとうぜんに招く。自由尊重論者はそのような事態にいたったときに、自分のプライドや立場を守らずに寛容にかれらのいい分を聞けるだろうか。自由というのは他人の反抗や攻撃も招き入れるということなのだ。

「二十年も三十年もたてば、子どもたちは今の文化とちがったものをつくるでしょう。今の文化のわるいところを改めてくれるにちがいありません。教育としておしえたことの一部は、否定されるでしょう。…教育は教育を否定するものをそだてるという矛盾をもっています」



 教育も医者と同じように自らの仕事をなくすために仕事をしている。そういう自己否定を意識した職業観をもてる人が、依存や搾取におちいらない関係や倫理観をもてる。

 昭和40年代といえば、学生運動さかんなころで管理教育が批判されていたころだ。管理は管理に都合の悪い子どもを切り捨ててゆく。教育は混同されがちな管理になってはならないというのが著者の考え方だ。学校の群れや友だちというのは、この管理に適応したありかたであって、個人の生をぞんぶんにはのばさない抑圧の適応だと、わたしは思う。

 この本は江戸時代の子育て法も説かれていて、家のしきたりが厳しかったのは、家が私立の福祉施設を担っていたからだと説く。家にたよってさえいれば、生まれたとこから死ぬ時まで、めんどうを見てもらえる。外から来た嫁はその家のしきたりに合わせなければならず、子どもを甘えさせることはゆいいつの息抜きや癒しであっただろう。江戸時代の子どもが世界的にも見て、甘かった理由の一端である。

「昔の家のように整然としたおとなの秩序のあるところでは、体罰は子どもにルール違反への罰としてうけとられますが、一対一でおかあさんとむきあっているときは、おとなのルールとおかあさんの気まぐれを区別できません。親の権威がルールとして確立していないところで体罰をくわえると、たんなる暴力行為としてしか感じません。子どもに屈辱と怨恨をひきおこすだけです」



 この著者はひところよくいわれた親父の懐古趣味のような子どもの遊び場がなくなったことが、子どもの自主性や自分の人生を生きる自立をそだてないと、説く。そこで子どもは、母親の管理から離れて、自分の人生、自分が主人となる行動をそだててゆく。

 子どもは家がたとえ厳しいとしても、母とべったりであったとしても、子どもだけの自由空間の中で、親の厳しさからのクッションや立ち直りを得られたし、自分が自分として生きるための自立を学んだのだという。

 子どもの遊び場はノスタルジーとして、大人の特権や長所として語られるのだが、いまの子どもだって学校が終わった後は子ども同士で遊んでいるのであって、大人になったものには職場地域に縛りつけられているために見えなくなっただけである。ニートとか失業していたら見られる風景であって、勤勉な大人には見えないだけである。どんなに管理が進もうと、親とべったりであろうと、子どもは自分の世界をつくってゆくものだと信じたい。

 それにしても、母とべったりの密室は、子どもにとってそれだけでも抑圧であるとは、このことに気づいているだろうか。

「おとなが子どもの知的な未発達をみくびって自分より一段ひくい人間であるようにかんがえるのは、放漫でしかありません。…自分を完成した人間と思い、おとなであるだけで未完成の子どもを教育する資格があると思いあがっているから、自分にわからないところをすべて未発達のせいにしてしまうのです」



 子どもはその年齢で人間として完成しているという著者の考えは、子どもを低く見ている現代からしてみれば、尊敬に値する考え方である。

 著者は明治の後半に生まれ、大正自由教育の恩恵をうけたことを感謝しているとのべる。明治から生きた著者の、げんざいにも参考になる子育て観、社会観のうつりかわりが、ながめられる本である。現代の相対化ができるね。


定本 育児の百科〈上〉5カ月まで (岩波文庫)私は二歳 (岩波新書)私は赤ちゃん (岩波新書)恋愛なんかやめておけ (朝日文庫)

09 13
2016

主体性の剥奪

世界観がこんなに大事なんて――『加害者は変われるか?』 信田さよ子

4480432477加害者は変われるか?
: DVと虐待をみつめながら (ちくま文庫)

信田 さよ子
筑摩書房 2015-02-09

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 児童虐待、DV、性犯罪について語たられた短い文章が合わさった本だが、覚えておきたい箇所が二か所あった。

 一点は、被害者や犯罪で身内を失った遺族の、「なぜ?」や「どうして?」という問うてしまう世界観のことである。

「自らの受けた被害・苦しみに「意味」を与える信念体系を再構築しなければ、被害者は生き続けることすら困難になる。

被害者は、理不尽な事件・できごとによって、世界に対する信念、秩序への信頼を突然、根底から打ち砕かれたのである」



 この世界を説明する世界観はそれほどまでに大切なのだ。たんに説明や言葉にすぎないこの世の捉え方は、人生の生き死にを左右するほどまでに、人間の生に食い込んでいるのである。

 アダルト・チルドレンの批判として、「他人のせいにするな」や「親のせいにするな」という批判を投げかけられるのだが、「あなたに責任はない」といわれることが、「世界が違って見えた」「謎が解けた」と思うほどの衝撃を与えるそうである。

 その理由は、「自分が悪い子だから」という世界観を、かれらが引き受けているからである。親が殴るのも、親がケンカするのも、すべて自分が悪い子だからだ。このような世界観を抱いてしまう理由を、信田さよ子はつぎのように説明する。

「その秘密は、幼児的万能感が形成する世界観にある。三歳から六歳までの幼児期には、子どもたちはあらゆるものの中心に自分がいるという天道説的世界を生きる。せみが鳴くのも、太陽が東の山から上るのも、自分が動かしているとすら考える。快と喜びの経験は「自分がいい子だから」という因果による意味を形成し、そのことにより世界は秩序立ってくる。そこから「よい自分」「生きていい自分」の核がつくられていく」



 自分が殴られたり、父が母を殴っていると、世界は真っ二つに割れてしまう。その不穏な世界は、「自分は悪い子だから」という論理によって、世界の秩序は組み立てられてしまう。それによって、説明可能な世界観は存続するのである。

 そのような「自分が悪い子だから」という世界の責任をすべて自分に収めてしまう世界観は、「生きている価値などあるのだろうか」「この世の空気を吸っていてもいいのだろうか」という疑問も胚胎させる。

 世界観がいかに人間にとって重要であり、根源を担っているかを悟らせるような記述である。この点はもうすこし深く知りたい。

 もう一点は、妻を殴るドメスティック・バイオレンスは、夫の方が「被害者」であり、「正義」であるという論理をもっているということである。

 第三者から見れば、暴力をふるう加害者はなんてひどい人なんだと糾弾されるのだが、かれらは自分が正しい、自分こそが被害者という見方でいる。これは国際間の戦争と同じ論理であって、双方が被害や正義を訴えて、平和の着地点がない状況と同じである。市民社会のばあいでは、警察や法律という権力が裁くことができる。しかし力でねじふせられたものは、納得の理由をくすぶらせつづけるものである。

 これは岡本茂樹の犯罪者の『反省させると犯罪者になります』の同じ論理であって、容疑者は過去にだれからも自分の立場の肯定や容認をうけていない。さらに刑罰によって一方的断罪がされて、自分の言い分は聞いてもらえない、悪と裁断されて、自分のほんとうの気もちをますます隠すことになる。それによって恨みとストレスをためて、爆発のときまで放置される。だれかに容認されてはじめて、自分の心の痛みや他者の痛みが理解できるようになるのである。

 ケンカの最中のおたがいの立場みたいなものである。殴ったから、おまえが悪いと一方的にいわれても、ケンカの本人は納得できない。暴力や犯罪を裁く目線というのは、いつも「自分の言い分」「自分は悪くない、被害者だ」という声を裁断してしまうのである。

 前述の世界観の重要性については、J.L.ハーマンの『心的外傷と回復』が重要な書らしいが、高い本なので、図書館で借りてみようかな。


4622041138心的外傷と回復 〈増補版〉
ジュディス・L. ハーマン 中井 久夫
みすず書房 1999-11-25

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09 09
2016

主体性の剥奪

世間はどれだけ理解しているのか――『魂の殺人』 アリス・ミラー

478851320X魂の殺人 新装版
アリス・ミラー
新曜社 2013-01-17

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 約二十年ぶりの再読である。いぜんは神経症やアダルト・チルドレンの文脈で読んだが、こんかいは親が子どもをつくる、親から子へひきつがれる虐待や無意識的な教育の連関についての文脈である。

 この本が出たのは80年、日本で訳されたのは83年である。その後、虐待やアダルトチルドレンの問題はいっぱんの人にも知られるようになり、問題意識が共有されるようになったと思う。しかし残酷な闇教育についてや、殺人犯と幼少期のかかわりなど、いっぱんに深く浸透したとはいいがたい状況が広がっているのではないか。

 この本の衝撃は、教育学者がいかにも残酷で攻撃的な方法で、子どもの意志や自己主張を早いうちにつぶすことが最高の教育だと、高らかに歌っていることだろう。18、19世紀の教育者がいかに残酷に子どもの心や内的生活を奪ってきたか。日本ではこの残酷な教育について、おおくの著作で啓蒙されているとはいいがたい。アリス・ミラーがすすめたブラウンミュールといった反教育学者の著作は訳されていないわけだし。

 この本では60年代の終わりにいく人もの少年を殺害した猟奇的殺人犯の成育歴が披露されるのだが、幼少期にうけた親からの虐待や学校での残酷な体罰などが、その殺人において再現されているということが、明らかにされている。日本でも残酷な殺人事件がおこったとき、幼少期の虐待が原因であるという説が、いっぱんやマスコミで広く啓蒙されることはいまだにない。

 幼少期にうけた親からの虐待的な、意志や自己主張をつぶす厳しいしつけや教育が、その成長した子どものうちに迫害者や加害者としてふたたぶ社会に戻ってくるのだ、とこの因果関係がひろく世間に共有されているとはいいがたい。

 たんじゅんに、「やられたものは、やり返す」という人間の基本法則として覚えておいてほしいのだが、子どもや人は親から虐待や厳しいしつけをされると、親にたいしては従順でいうことを聞くすなおな相手になるが、弱いものや自分が親になったときは、かつての親がそうであったように、冷酷な支配者や加害者として返ってくる。この法則が、世間にひろまっていないという驚きが、こんにちの状況であると思う。

 残酷で冷酷な殺人や犯罪がおこったとき、日本では心の闇があいかわらず喧伝されるのだが、かれはおそらく幼少期にそのような目に会っており、親や教育者に復讐を返す代わりにほかの代替者や弱者に向けたのだという因果関係が、世間に理解されているとはいいがたい。

 アリス・ミラーの本は大部で、けっして安くない値段でひろく世間に広まっているとはいいがたく、また文学的な表現で単純化や簡素化して覚えられるような著作でないことが残念である。

 こんにちでは長谷川博一の『殺人者はいかに誕生したか』や『お母さんはしつけをしないで』、高橋和巳の『子は親を救うために心の病になる』などの文庫本に、アリス・ミラーの主張と同じ因果を見ることができるのだが、マスコミにはまだ届いていないようだ。

 こんにちでも子どもが問題を犯せば、甘かった、もっと厳しくしつけるべきだと合唱されるのだが、厳しい暴君や支配者として子どもに恐喝や暴力で立ちふさがる親は、その子どもに対しては従順さをひきだすかもしれないが、その子どもはきっと「やられたことを、やり返す」。親ではなくて、弱い子どもに向かったり、自分の子どもに向けて。どうして厳しい残酷な親の面を、子どもは模倣しないと思えるのだろう。暴君や支配者としての親の顔を、子どもは確実に学んでとりいれるのである。この因果がまったく見えていないのが恐ろしい。

 この社会自体が、徹底的に人の意志をつぶして服従を教え込む教育がどこまでも蔓延しており、そのために子どもの悲劇や被害はまったく目をふさがれているのだろうか。社会は、服従者を欲しているのである。

 親はある時期まで完全な服従者を手に入れらるかもしれない。しかし思春期に親に歯向かう子どもになったり、ほかの者に対して虐待者として立ちふさがることになるかもしれないと、どうして思えないのだろう。伝達されるのは従順な服従者だけではなく、気まぐれで残酷な暴君や虐待者が模倣されるのである。

 アリス・ミラーのこの本は虐待やアダルト・チルドレンの心理学書としてだけ理解されているかもしれない。だけど、この本は教育学においてもっとも読まれなければならない著作であり、教育が魂を殺し、その継承はえいえんとつづいてゆくということが、いちばんに理解されなければならないことのように思う。


新版 才能ある子のドラマ―真の自己を求めて子ども時代の扉をひらく―七つの物語殺人者はいかに誕生したか: 「十大凶悪事件」を獄中対話で読み解く (新潮文庫)文庫 お母さんはしつけをしないで (草思社文庫)子は親を救うために「心の病」になる (ちくま文庫)

09 05
2016

主体性の剥奪

親から子にひきつがれるもの――『虐待』 保坂渉

4006031149虐待―沈黙を破った母親たち (岩波現代文庫)
保坂 渉
岩波書店 2005-05-17

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 虐待の親子関係で興味深いのは、親子関係の因果が子どもにひきづがれてゆくということだ。親子であった関係と葛藤が、子どもとの関係にかたちを変えて再現されてゆく。

 とりわけ、親は子どもの意志やわがままに腹を立てるようで、おそらくは親自身も自分の意志をつぶされていたからこそ、子どものわがままに腹を立てるようになっている。つまりは自分の意志の抑圧の方法がそのまま子どもにも向く。それは自分自身の心のあり方、葛藤の機構そのものである。

 この本は2005年に岩波現代文庫入りしており、少々古くて、ジャーナリストの手によるもので心理学者のような解説はちょっと期待できないかもしれない。それでも四人の虐待母のエピソード、成育歴から、典型的な虐待や親子の連鎖を読むとることができるのではないだろうか。

 第一章では娘を殺してしまうことになる母親がとりあげられている。母はいじめを苦に自殺を考えるような少女時代をおくり、17歳で結婚するのだが、入籍した日から暴力をふるう夫になる。娘を生んだが、離婚。結婚相談所で、連れ子のある男と再婚。

 連れ子の絵美が新しい継母にいたずらをする試し行動のようなものが行われ、母が注意すると子どもが噛む付くようなケンカの関係になり、やさしさから体罰の厳しいしつけに変えて、虐待はエスカレートしてゆくことになる。夫から家政婦をしていたらいいといわれ、自分には居場所がない、夫に愛されていないと思い詰め、娘に向かう暴力が止まれなくなっていた。

 二章ではアル中の父に脅えて、自分を抑えてまわりに合わせるアダルトチルドレンの女性が主人公で、父のガンの看病で疲れているところに娘のわがままが出てきて、虐待をおこすようになった母親の話である。

 兄は母の気もちをくみとるよく気が付く子だったが、娘はわがままをいい、虐待をおこなうようになる。娘は自分のせいだと思うようになり、柱や壁に頭をぶつけて自傷行為をおこなったり、生まれてこなければよかったというようになる。娘にひきつがれた自己否定の継承がかわいそうである。自分の抑えつけた人は、子どものわがままが許せない。自分のそれが許せないように。

 第三章ではキリスト教信仰の家庭に生まれ、優等生として育ったが、とちゅうで息切れした女性の話。手のかかる娘と仕事の疲れに音をあげて、夫のいらだちやストレスをためて、娘に虐待が向かうようになる。

 夫と別居後も虐待やネグレクトはつづき、乳児院にあずけるようになる。自助グループによってようやく光が見えようとしている。

 四章では、母が子ども返りをするように夫に感情をぶつける女性の物語が描かれる。子ども時代に感情を抑圧すると大人になってどのように噴出するかの劇を見ているかのようだ。

 ヴァイオリン一筋で育てられた女性はその後挫折、結婚に期待をいだく。しかし夫はマザコン男で、母のいいなり。感情を爆発させるのだが、いっぽうでは夫が死んでしまうのではないか、ひとりになるのではないかと恐れ、また私のことを見て、私のいうことを聞いてのような子ども返りのようなことも夫に要求するようになる。

 子どものわがままは自立の障害であり、子どもの力で出てくるものではなく、親がしつけたり指導しなければならないと、この母は思っていた。次男が難病で親の甘えるのが上手な割に、長男は自己主張をして甘えるのがヘタだった。ためにいらだちが長男に向かうのだった。

 虐待というのは親子関係の再現であり、継承である。これら四人の女性のドラマを読んでいると、その因果や反復の構図が見えてくる。心理学者の筆によるもののような明確な因果を見抜くのはむずかしいのだが、親にされたことが、子どもに向かってゆくさまが垣間見えるのではないだろうか。

 自分の抑圧された心の機構は、わがままや自己主張をおこなう子どもにとりわけ激しい怒りとなって向かってゆく。人の意志をつぶすことが虐待であり、親のしつけや教育の役割はこのようなものと思い込んだ母が、虐待に向かってゆくといえるのかもしれない。意志や自己主張とどう関わるかのドラマだといえるのかもしれない。


ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)子ども虐待 (講談社現代新書)虐待の家-「鬼母」と呼ばれた女たち(中公文庫)ネグレクト―育児放棄 真奈ちゃんはなぜ死んだか (小学館文庫)虐待と非行臨床

08 31
2016

主体性の剥奪

虐待で欠如した人としての基本――『誕生日を知らない女の子』 黒川 祥子

4087453820誕生日を知らない女の子
虐待――その後の子どもたち (集英社文庫)

黒川 祥子
集英社 2015-11-20

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 虐待されている子どもは親から引き離せばそれで助かると思われているが、虐待された子どもはそれから長きにわたって、「虐待の後遺症」をひきずることになり、その克服に悩まされることになる。

 養護施設や里親の代わりに、ファミリーホームという家族形態が、2009年から事業としてはじめられている。そのファミリーホームの少人数で家族のあたたかさを知った虐待された子供のその後を追ったのが、このルポである。

 虐待は、人が育つうえでの基本のどういう部分やなにが欠落するのかを教えてくれる。ぎゃくに人として育つには、根本的になにが必要なのかをうきぼりにする。

 虐待をやめられない母親は、自分も虐待された経験から、気づく。「私が娘にしてしまうこと、たぶん、私は誰かにされている。娘に思うことも、私が誰かに思われたこと」

 これは人間形成の基本法則のようなもので、人にこのような法則を読むことが、人間を理解することのように思える。ある人がおこしてしまった行為や犯罪はその人の責任にされがちなのだが、その人はだれかにやられて学んだことを人に返している。この基本形を理解することが、人の理解にはひじょうに大事だと思う。

 感情の形はドミノのように人に移植され、人はその感情パターンや行為のパターンに従って、行為される。殴られたものは、だれかをなぐる。だれかに罵られたものには、だれかを罵る。相手ではなくて、弱いだれか他人である。人格や行為というものは、こういう外形的なパターンが移植されて、できあがるものではないだろうか。

 たとえば犯罪者は独立した個人として裁かれるが、かれは自分の衝動や暴力性の源を知り、制御できるといえるのだろうか。多くの人も自分がなぜこのような人格で、なぜこのような行為をおこない、なぜこのような性格になったのか、わからないことも多いのではないだろうか。感情や行為のドミノ形成は、どうも独立した人格形成というものに疑問を突きつけるような気がする。とくに虐待の連鎖を見ると。

 この本では五人の印象的な虐待の後遺症を引きずった子どもたちが、一章ごとに描かれ、感情を消したり、固まったりする子ども、力で支配する関係をまなんだことなどが、ライフヒストリーとして追われてゆく。

 養護施設で育った子どもは、ベルトコンベアーのように育てられて、自分が呼ばれても自分が呼ばれていると思わず、自分で選択する、選ぶという経験をせずに、大人になってゆく。ただ、生きている状態として大人に育つ。ファミリーホームの個人的な親密なかかわりを受けて、はじめて、人が家族で育つことの経験をひとつひとつ重ねてゆく。

 養護施設では上下関係や支配と被支配の関係しか学ばず、力で生きてゆくしかない弱肉強食の世界で育つ子どもも、たくさんいるようだ。人との関係をそれだけしか知らず、恐さや強さだけで支配する関係を踏襲しようとする。まさしく、人はされたことを、人に返すのである。

 四章までは虐待された子供たちのその後が痛々しく描かれるが、第五章では成人し、子どもを虐待してしまうことになった母親が描かれる。被害者として悲惨な境遇を育ってきたその女性は、やはり子どもを虐待してしまう手を止められない。まるで別人や鬼、鬼畜のような顔になる。そしてそのような人でも一方的な被害者の悲惨な過去をいくえも背負っているのである。

 かわいそうな顔、鬼のような顔、ふつうの人である女性、いろんな顔が極端のように別人になる。子どもが瞬間瞬間を生きるように、虐待された感情を殺してきた子どもは、統合した自己を育てにくい。虐待された女の子はその瞬間に、夢の世界を夢想して自分を守るすべを身につけたことが、のちの人格の統合を困難にしてゆくのである。

 やさしく自分を守ってくれるはずの母親や父親に殴られたり、恐い思いをする存在でしかないとしたら、子どもは安心と信頼のベースを育めず、自分がなぜ生まれてきたのかもわからないし、生きてゆく価値も自信も育てられない。愛と恐怖、愛と憎悪はおなじひとつの対象である。

 人はそのような大切な記憶や基盤があるからこそ、生きてゆく自信やいきてゆく源のようなものを養える。それが欠落した子どもたちにとって、人生はいかに生きにくいものになるか。虐待の後遺症は、人が育つうえでの生存の基本的条件をうきぼりにするのである。

 この本は、開高健ノンフィクション賞受賞作である。虐待はなにを欠落させるか、そして人が育つ基本にはなにが必要か教えてくれる本である。


「生存者」と呼ばれる子どもたち  児童虐待を生き抜いてルポ 保健室 子どもの貧困・虐待・性のリアル (朝日新書)消えたい: 虐待された人の生き方から知る心の幸せ (単行本)ネグレクト―育児放棄 真奈ちゃんはなぜ死んだか (小学館文庫)虐待の家-「鬼母」と呼ばれた女たち(中公文庫)


08 26
2016

主体性の剥奪

生と自己の自信の欠如――『新 凍りついた瞳』 椎名 篤子

4087461300新 凍りついた瞳
―「子ども虐待」のない未来への挑戦 (集英社文庫)

椎名 篤子
集英社 2007-02

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 虐待は右肩上がりにふえているのだが、いぜんのように関心をもたれなくなった。90年代にトラウマや心理学のブームがあり、生きづらさの原因を虐待や親の関係に求める機運が高まった。バブル崩壊の経済ダウンや非正規・不安定雇用の増加を、心理面に求める人が多かったのだろう。

 この文庫は2007年に出されている。わたしの関心としてはトラウマの流れではなくて、親目線、人づくりの面から見た虐待という人が生きること、存在することを否定されることが、人が成長する際にどのような悪影響をおよぼすのか見てみたい。虐待は人が育つうえで、なにを欠如させるのだろうか。

 だいたいは四章までに虐待されたひとりの子どもを主人公にルポが描かれる。

 第一章では、虐待で殺されてしまった女の子のルポで、転居をくりかえすために関係機関が命を助ける時点はなかったのかという視点で描かれる。女の子のさいごの言葉は、「何か食べたら、治るから」である。

 第二章「サウナの家」では、親に捨てられた子どもが乳児院、養護施設で、ひとりの大人にたいして愛着行動を定着できずに、問題行動をおこすさまが描かれている。

 親の代わりにひとりの保育士に母親のように愛着をしめすのだが、法律によって養護施設の移転によってその中を引き裂かれる。保育士を独占しようとし、わがままをいい、「ぼくのことをまた捨てるんじゃないですか?」という「試し行動」がおこなわれる。

 養護施設では、親に否定された自己の存在を証明するために、周囲を支配しようとしていた。そして、日雇いでしのぐ父にひきとられ、サウナを放浪するような生活にまきこまれる。施設に帰ってきたときにはワルのような目をしていた。

 第三章「長い家路」では、自立援助ホームに入ってきた女子高生が、非行や問題行動をくりかえすさまが描かれる。

 第四章「母子治療」は、「イグアナの娘」を思わせる娘嫌悪症の歴史がひもとかれる。自傷行為をおこなう娘と、娘をヘビみたいと嫌悪をもよおす母親。

 兄二人はふつうに育てられるのだが、娘だけは育てられずに養護施設にあずけられる。このふたりも登校拒否をおこなうようになり、父の支配と虐待の家庭のすがたがうきぼりになる。

 そして母は、子どものときに養子に出されていて、姉や兄といっしょに暮せない疎外感をいだいていた。その喪失体験を見ないために、娘を嫌悪しておれば、捨てられた自分と向き合わずにすんだのである。娘は、捨てられた価値のない自分そのものであったのである。

 大人になって、子ども時代の生育環境を再現してしまうふしぎさに圧巻である。

 生まれたことを否定され、ほんらいはいちばん愛されるはずの母や父に否定される経験を味わって育った子どもには、どのような心のひずみやゆがみが生まれるのだろうか。その欠如したものに、人間が成長するためにいちばん必要な土台をつちかうように思われる。生きていていい自信、生きてゆく自信、そういったものは、母の承認からでしか授けられないもののようである。


凍りついた瞳が見つめるもの―被虐待児からのメッセージ (集英社文庫)親になるほど難しいことはない―「子ども虐待」の真実 (集英社文庫)家族「外」家族―精神科に駆け込む子どもたち (集英社文庫)新 凍りついた瞳 (集英社文庫―コミック版)虐待で傷ついたこころのための本

08 22
2016

主体性の剥奪

日本の理不尽な権力構造を支えるもの――『体罰はなぜなくならないのか』 藤井 誠二

4344983149体罰はなぜなくならないのか (幻冬舎新書)
藤井 誠二
幻冬舎 2013-07-28

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 2016年の現在時点で、体罰が大きな関心や問題と思われていることはまったくない。

 2012年12月におこった桜宮高校のバスケ部主将の体罰による自殺事件が騒がれ、女子柔道ナショナルチームの監督から体罰をうけていた告発がなされた一連の騒動は、いまではまったくなかったかのごとく沈静化している。

 この本はそんな影響下にあった2013年7月に出され、例のごとくマスコミから問題が忘れ去られるとともに、忘れられた一冊の本になっていったのだろう。事件のときだけ世間は騒ぎ、問題にする体質はどうにしかならないかと思う。あの騒動以来、この日本社会から体罰は一掃されたといえるのか。日常や通常な状態に問題こそを感じるべきなのだとつねづね思うのだが。

 子どもを死に追いやった体罰教師であっても、地域の保護者や世論は、その教師を守ろうとする風土があいかわらず残っている。保護者は、体罰を用いてでも子どもを強くしてくれた、勝たせてくれた、子どもに有利な結果をのこしてくれたと、体罰・暴言教師は「いい先生」になるのだ。

 体罰で子どもをなくした遺族がその教師を裁判で訴えたりすると、地域からの非難や批判が巻き起こることがあるそうである。自分の子どもが体罰によって、「殺された」としても、地域の声に協調できるというのだろうか。

 日本には、理不尽なものを受け入れて強くなるという精神文化をもっている。理不尽な体罰や暴言、過酷なトレーニング、厳しい約束に耐える力こそが、社会に出るための重要な訓練だと思われている。

 まるでブラック企業や理不尽な労使関係に耐えるための訓練かのようであり、日本は学校教育からして、徹底的に理不尽なブラック企業に貢献できる人材を量産しているかのようだ。学校教育も、ブラック企業も地つづきなのである。そして保護者もそれを擁護するなら、家庭にも虐待やブラックな権力関係がにじみだすというものである。

 生徒自身は、理不尽な体罰や暴言に耐え抜いた自分をほめ、耐え抜いたことがまちがいでなかったと、体罰教師をいい先生だったと郷愁するようになる。そしてその論理が逆転すると、耐えられずにやめていった仲間、トラウマになって苦しんでいる仲間、体罰で死んでしまった仲間にたいして、根性が足りなかった、我慢が足りなかったと、負け組の烙印を押す精神構造ができあがってしまうのだ。

 理不尽や体罰や暴言に耐えること、ブラックな労働環境に耐えてものいわず働きつづけること、こういった精神は一連なものとして、学校と企業間をつないでいる。上下関係の絶対化を理不尽なまでにからだに覚えさせられ、それに一言も文句も、疑問ももってはならない従順な企業戦士ができあがる。

 そしてそれを、親や保護者ものぞんでいるという日本の精神風土。

 体罰問題が騒がれて、またなにごともなく沈静化していった背景には、日本の権力構造、上下関係の浸透具合が、いかに深いものかを思い知らしめるものなのだろう。

 権力をふるうもの、ふるわれるものの共犯関係、保護者までそれを擁護する関係に、日本の権力構造の日常の潜み方が、垣間見えるというものだ。

 体罰や暴言をゆるしてしまう日本の教育現場に、日本の権力構造の深い根がしっかりと日常の隅々にまで浸透しているのだ。社会問題論として体罰の重要性が組み込まれていない現状こそ、疑問に思わなければならないものかもしれない。

 上の者が絶対的な権力をふるう現場こそ、われわれの権力関係の根底をになっているものではないのか。


学校と暴力: いじめ・体罰問題の本質 (平凡社新書)先生、殴らないで!―学校・スポーツの体罰・暴力を考える体罰の社会史 新装版しつけと体罰―子どもの内なる力を育てる道すじ「指導死」

08 18
2016

主体性の剥奪

虐待を描いた小説・映画――『愛を乞うひと』 下田 治美

4041873010愛を乞うひと (角川文庫)
下田 治美
角川書店 1993-04

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 虐待を描いた映画として見たかったのだが、見る機会にめぐまれず、小説のほうを読んだ。

 長野方面の6日間のツーリング中、休憩がてらに読みつづけて、けっこうひきこまれた。

 孤児院で育った少女が、10歳のときに母にひきとられ、それから8年間、暴力的虐待をうけつづける。月に二、三度ほどの頻度で虐待をうける。

 高校卒業後、働きだしてひとり暮らしのお金が稼げることに気づいて、まだ貯まったいないのに母の暴力がはじまったのをきっかけに逃げ出して、それから30年母と会っていない。その後、結婚して夫を交通事故であっけなく亡くし、娘とふたりで幸せに暮らしている。

 虐待のようすは凄惨なのだが、意外に冷めた、冷静な目で記述されていて、なんとなく違和感をおぼえた。

 その後の話は結核で亡くした父のお骨探しにルーツの台湾にまで飛ぶ話になり、この小説は、在日二世のアイデンティティ探しのような話になってゆく。この小説は、そういった政治的次元もふくむのか。

 虐待の連鎖の話を読んできた身としては、この女性が娘に虐待をおこなわず、幸せに暮らしていることに、どうやって心身の傷をのりこえ、母のようにならなかったのかという疑問やつながりの問いが、希薄に思えた。

 また母がなぜ虐待をくりかえし、娘を愛することもなかったのかという掘り下げもなかった気がする。父に愛された、かわいがられたという経験と記憶が、彼女を守ったのだろうか。

 1992年に書かれた小説であり、その後、虐待にかんする連鎖やトラウマはもっとふかく追究されるようになり、いまこのような小説が書かれると、もっと虐待の影響が深刻に描かれることになったと思う。

 映画では、原田美枝子の虐待や毒親ぶりはどのように描かれていたのだろうか。大原麗子が映画化したいと願った作品だったそうだが、なにを見出したのだろうか。
 



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