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![]() | 選ばれるプロフェッショナル ― クライアントが本当に求めていること ジャグディシュ・N・シース アンドリュー・ソーベル 英治出版 2009-07-22 by G-Tools |
専門分野に特化したエキスパートはもうダメで、ディープジェネラリストにならなければならないという本である。
専門性は自動化されたり、ソフトで手に入るようになったり、汎用品に成り下っているといった理由から、エキスパートは専門技能だけではなく、ほかの能力も必要とされている。その素質・性質を紹介したのが本書だ。
「単に知識を持っていて、手法が使えるだけでは、大した価値がないのだ。「もっと深い洞察が提供できること」「共感的にふるまうこと」「クライアントと協同すること」「結果として大きな成果を導けること」などが重要になってくる」
「クライアントは、プロフェッショナルが「適切な質問をし」、「深いだけでなく幅広い知識を提供し」、「分析のみならず大局的な考えを示し」、「一方的に話すだけでなく、こちらの話に耳を傾け」ていることを望んでいるのだ」
「多くのプロフェッショナルは、自分の得意分野を維持し、関連する最低限の読書だけでも手に余ると考えている。しかし、優れたプロフェッショナルの学ぶ熱意は、ビジネス書や、自分たちの専門分野に限らない」「学習時間のおよそ半分を探求的な学習領域、つまり周辺環境と個人的な趣味に費やしている」
ということでこれからのディープ・ジェネラリストに必要な7つの特質が章ごとに紹介されている。
「無私と自立」、「共感力」、「ディープ・ジェネラリスト」、「統合力」、「判断力」、「信念」、「誠実さ」の7つがあげられている。
エキスパートではない歴史的なアドバイザーはどんな人かというと、この本であげられているのはアリストテレス、ドラッカー、マキアヴェッリ、バルタザール・グラシアン、ハリー・ホプキンス、キッシンジャーといった人たちだ。
わたし自身はこのようなクライアント相手に知識や技能を売る職業はまるでムリだと思うのだけど、ブログを書くこともある意味では、このような知識を売る仕事と似ていることがあるという点で、この本を手にとったまでだ。
わたしは本書にも一章割かれている知識の探求だけは身をもってわかる項目が多かったのだが、ほかの実行力にかんしてはまるでダメだ。教えるために自分の知識を整理し、系統立てたものにする作業すらつまずく。
エキスパートはその価値を落とし、答えや専門技能をあたえるのではなく、クライアントみずから答えを見いだせるようなアドバイザーにならなければならない、そのような時代になっているということだ。
アインシュタインはいっている。「コンピュータなんて役立たずだ。答えをくれるだけじゃないか」
必要とされる共感力の項目で医者は、こういわれている。「あんたはケンブリッジから来た、鼻持ちならない医者にすぎない。俺たちを観察して、自分たちは完璧だとほくそ笑むんだ」
知識や技能を売る専門家は変質を迫られている時代に達したということですね。もう、ただの専門家やエキスパートではたんなる出入り業者のようにしかあつかわれなくなっているということですね。





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![]() | キミがこの本を買ったワケ (扶桑社文庫) 指南役 扶桑社 2010-03-02 by G-Tools |
消費の理由について迫った本だが、この本を書いた人たちの行動理由があまりにも自分とかけはなれていると思える本だった。
広告畑のライター集団なのか、広告好きゆえに広告に釣られるような行動が多いのだが、わたし的には?な行動主観が多いように感じられた。オスカー作品賞とカンヌ広告祭、どちらを選ぶと聞かれて、著者は広告祭を選ぶのだが、ふつう人は映画のほうだろう。
著者はカツカレーがとつぜん食べたくなる時があると聞くのだが、わたしは衝動的になにかが食べたいとはあまり思わないほうだし、あったとしてもカツカレーではないし、楽しみにしていた北川悦吏子の「最後の恋」でとつぜん魔法のヴェールがはがれたといわれてもわたしにはわからないし、クラスの四番目のかわいい子がモテるといわれても、ほんとかと思う。なんか主観的な決めつけが押し付けられる感覚がいやな本。
「ディスカバージャパン」で女性たちが旅行に出かけた理由を「暇すぎたんじゃないだろうか」というあたり、がくんと信用を落としたね。もっと、もっともらしい理由を推察できないのか。
100円ショップでバイトの女の子の貧乏な生活を想像してしまって、100円一品だけの買物なんてできないというのだが、わたしはそんなこと一度だって想像したことないぞ。
まあ、買物の主観的理由があまりにもかけはなれているというか、ズレている話を聞かされる本だ。
クチコミで買うことはないという話や、親切にされると二度とその店にいかない、といった話は参考になるかもしれないが、全体的は違和感を感じることの多い本であることには変わりはない。
人の消費理由、買う理由は人によってあまりにかけはなれていて、主観的世界はそれぞれの筋道が渦巻いているということなのでしょうか。もうすこし客観や大勢の傾向をつかめる本であったほしかったということになるでしょうか。
![「売る」広告[新訳]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/519hKfu4ndL._SL160_.jpg)




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![]() | お客さまの「特別」になる方法 「リレーションシップ・キャピタル」の時代 (角川oneテーマ21) 小阪 裕司 角川書店(角川グループパブリッシング) 2010-11-10 by G-Tools |
お店や企業もお客さんとの絆をつくれという主張の本だが、これはわたしにはすこし受け入れがたい本に思えた。
スーパーのようにだれとも接触せずに買い物をしたい。お店の人と情緒的つながりをもったり、コミュニティに属したいとも思わない。これは駅前のシャッター商店街のような関係にもどれといっているに近いように思える。
あまりにも機械的なショッピングが増えてきたから、ぎゃくにつながりや絆の関係もほしくなったという人もいるかもしれない。だけど、わたし的にはお店の人と濃密な関係をつくりたいとは思わない。タイプ的に欲しているものが違うということはあるかもしれないが。まあ、美容室でしゃべりながら切れられたいか、一言もしゃべらずに切ってほしい人の違いのようなものかもしれない。
店のコンサルタントを手がける藤村正宏も、お店もブロガーのような個人開示をおこなえといっているから、著者の小坂裕司の主張は似ている。
でもこのような絆とか情緒的つながりをもとめる関係というのは、私的・個人的な閉鎖的なつながりには外側の人間にはうつってしまって、外部の人間を遠ざけることにもなりかねない。
こういう主張の裏にはビジネスや広告があまりにも功利的で、信頼されていないという一面があるからだ。
そこで著者は第三章で、利他行為の学術的研究をもちだしてくるのだが、ぎゃくに人が利他行為をおこないたがるのはあたりまえのことだと思うのだけど、著者はこの世界やビジネスがそんなに利己行為、功利だけに満ちていると思っていたことが浮き彫りになる。
商売というのは利己行為だけなのか、利他行為だけなのか。
お客さんの得になること、喜びになることを渡さないとだれもお金を払いたいとは思わないのだから、商売だって、利他行為であるはずである。奪うだけ、相手が得することだけにお金を喜んで払うことはありえない。
ビジネスは利己的行為だ、金持ちや儲かる企業は自己利益だけ求めるものだという考え方は強くあると思うが、利他行為もふくまれないと、人はお金を払ってそのサービスを買うことなんてありえないのだ。得すること、メリットになることがあるからこそ、人はモノを買う。それはお客さんの楽しみや利益を提供するという利他行為がふくまれるからこそ、お客さんはお金を払うのである。
ただ、企業や広告はお客さんから一方的に奪う、誘導・操作しているという反感、不信面が強くなりすぎた傾向はある。
だからその解除には、もっと個人的なつながり、情緒的な絆がその不信面を抑えるという論理ならわかる。
商売やビジネスは利己行為だけというのは違う。喜びやメリットになるものを提供しない限り、お客さんは喜んでお金を払うなんてことはない。それは貨幣によってくみこまれた強制的な利他行為である。
人間には利他行為の喜びがあるという学術的研究をしめさないでも、人は利他行為をしたがるのはあたりまえのことだ。だけどビジネスや商売ではそれは貨幣に強制された利他行為なのだけどね。
具体的な絆づくりとして、ハーレーのイベントやコミュニティがあげられているが、バイクは独特の集団をかたちづくる要素がある。バイクはある種の人たちのようになりたいというモチベーションで乗っているところがもともと大きいからね。
まあ、企業や広告がどれだけ信頼されていないかということが浮き彫りになる裏返しの理論、努力なのかもしれない。
お客のひとりとして、ある店とのべっとりとしたつきあいやフォローアップの関係より、やっぱり都会の無関心さ、放任自由主義を優先したいと思うのだけどね。
お店や企業に私的な情緒的なつながりを期待するのは、どうも違うように思う。ただ、企業や店を構成するのはただの個人で私人であるのだから、ビジネス・公式だけの面で人と対するのは、おかしいとはいえるけどね。なぜ企業やビジネスは個人や私人であってはならなかったのだろう、とぎゃくにふしぎに思えるね。





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![]() | クチコミはこうしてつくられる ―おもしろさが伝染するバズ・マーケティング エマニュエル・ローゼン Emanuel Rosen 日本経済新聞社 2002-01 by G-Tools |
クチコミの威力や大きさを知らなかったと思う。ふつうマスコミの広告や情報によって人はモノやサービスを買うと思われているが、そのあいだには人々の交わす会話や情報によって、その選択を選ぶ可能も大きいのである。クチコミのありかたをどれだけ明瞭に見えるだろうか。
先に読んだクチコミについての本、マルコム・グラッドウェルの『急に売れ始めるにはワケがある』に比べるとこの本は魅力がとぼしく、おカタいように思われる。なんとなくおもしろくない、魅力だと思わない本である。
でもクチコミについてはもっと知らなければなあと思う。わたしはこの威力や大きさをあまりにも気づいていなかったと思う。
たとえば医者を選ぶとき70%の人は他人のアドバイスにしたがうというし、映画ファンの53%は見た人の推薦を参考にするというし、旅行については43%人が友人の意見を参考にした。
企業や広告より、友人や知人のクチコミをよっぽどわたしたちは信用しているし、参考にしている。いまはネットで消費者の書き込みを読むことができるから、そちらのほうをより参考にしていることだろう。
その広がりや伝わり方をわれわれはどれだけ知っているというのだろう?
「推奨しても何も得ることがないことが、信用の源泉のひとつなのだ」
アフィリエイトやステルスマーケティングといわれるものは、紹介することによって報酬を得ているから、その情報は信頼されないのである。友人や知人の言葉なら、なにも報酬を得ることはない。だから信頼されるのである。同じ消費者、受容者としての情報として信頼されるのである。
アムウェイのようなマルチビジネスが信頼されないわけがこれでわかるというものだろう。友人に売りつけたくないと人は思っているのである。
アメリカの56%の人が個人的なつながりを通して、仕事を見つけたという。企業の流す求人広告より、知人のほうが信頼、もしくは頼れるのだろう。
クチコミのネットワークというのは見えない。見えるのはマスコミによる企業の広告や情報ばかりである。でも水面下でわれわれに多く影響をあたえるのは、友人や知人によるクチコミである。
利益を求める人と、利益を求めないで情報を与えてくれる人の信頼の差を、われわれは鋭く峻別してきたわけだ。
利益を得るものをいかにわれわれは信頼していないかということでもある。
ネットでの個人情報の発信は、その利益を得る人、企業の一方通行の情報シャワー・支配をくつがえす技術の転覆がおこったというわけだ。いまさらいうことでもないことだが。
クチコミというもののネットワークのありよう、姿をもっと絵や図に見えるように理解したいものだ。





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![]() | 私に売れないモノはない! (Forest 2545 Shinsyo) ジョー・ジラード フォレスト出版 2010-04-08 by G-Tools |
![]() | 私に売れないモノはない! ジョー・ジラード フォレスト出版 2004-05-19 by G-Tools |
77年に発売された本だから、もう古典の部類に入る本なのでしょうね。
車のセールスでギネスに載った記録をもつ人の話で、もうここに書かれている手法は企業が採用したり、古くなったかもしれないが、商売にたいする基本姿勢はあいかわらず学ぶことがたくさんつまった本なのだと思う。
このジョー・ジラードという人、1928年にデトロイトの貧しい下町で生まれ、8歳から靴磨きをはじめ、父親から虐待をうけ、おまえはダメだ、刑務所行きだとののしられ、父の正しさを証明するような半生をおくり、35歳で車のセールスに転じ、そこから成功をおさめた時代的な苦労を背負った人である。
この人の考えは「ジラードの250の法則」といっているように、人には結婚式や葬式によぶ人が250人はいるということで、「一人の客に嫌われることは、あと250人の客に嫌われることだ」という信念をもっている。いまはダンバー数といって、150人といわれているが。
一人の客にうしろには250人もの知人が控えており、ひとりもおろそかにできないのだ。ぎゃくにいえば、「満足した顧客を作ることが新しい顧客を見つける手っ取り早い方法なのは明らかだ」というように、ひとりの客の満足は250人の知人に伝達される。ジラードはそれをねらっている。
ジラードはクチコミのネットワークの強さを知っているから、顧客を紹介してくれた人に報酬を払う。この手法はいまは商品のプロモーションにたまに見かける手法だが、ジラードは売り手の紹介より、知人の情報を人は信頼してモノを買うということを知っていたのだろう。
この方法ってアフィリエイトとまったく同じなんだよね。アフィリエイトは企業ではなく、知人や消費者の言葉を信じる購買者の心理を突いたものだろう。ジラードは自分の販売を、自分より信頼される客の知人にさせていたわけだ。
ジラードの基本姿勢は、客のつながり、情報のネットワークというものを重要視することから、導かれたものなのだろう。
「私は客を長期の投資だと思っている。車が一台売れればそれでよく、あとは気に入らなくても知ったことか、という売り方をしない。私は、客がこれから買うすべての車を私から買ってもらいたい。…
私は、どの客も自分の生涯年金のようなものになるかもしれないと思って接している。そのためには、彼らに満足してもらわなければならないし、信じてもらわなければならない。…
高く売りつけたセールスマンが、いざ車の調子が悪くなり助けを求められたときに逃げたり隠れたりすると、客は何をされたかを悟る。セールスマンに一度でも背を向けられれば、客は自分が食い物にされ、金をしぼり取られ、だまされたことに気づくのだ」
そして、「ジラードの法則」が効いてくるというわけだ。「客は頭に来て、その車、店、セールスマンの悪口を言いはじめるだろう」。ジラードによれば250人の知人に伝わり、その知人はさらに多くの人に話すだろう。
だからさいしょの話に戻って、ジラードはひとりの客に生涯、信頼されるような接客をおこなうというわけだ。この姿勢がジラードをセールスNO.1に押し上げたのは明白だ。セールスや商売というのは、人間関係の「道徳」とおなじである。
それと「商品の「におい」を売れ」という章も重要だと思った。
「勝つためには、ステーキではなく、ジュージュー焼ける音を売らなければならない」
車のばあいは試乗させ、奥さんや子ども、近所の人に見られるようにすることだ。もう前のポンコツ車に戻りたくないと思うはずだということである。
ジョー・ジラードの方法、考え方はいまも古びることはないのでしょうね。企業や広告を信頼している人なんて、そういないでしょう。ますますみんな企業や広告を信頼しなくなっているのではないでしょうか。
そのかわり人が信頼するのは友人や知人の体験や経験であり、消費者の率直な意見である。ジョージラードはこのことを知っていたのでしょうね。だから目の前の客をどこまでも大切にする。満足した顧客は250人に評判を伝え聞かせ、顧客をつれてくる、あるいはだれにも行かせないようにすることだってできるのだ。
ジョー・ジラードは人の「伝達力」に売っていたのでしょうね。
「古典」たりうるべき本なのでしょうね。



![影響力の武器[第三版]: なぜ、人は動かされるのか](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51cb7nbpZnL._SL160_.jpg)
![[新装版]商いの道 経営の原点を考える](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41D83VSQD7L._SL160_.jpg)
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![]() | 急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則 (ソフトバンク文庫) マルコム・グラッドウェル SBクリエイティブ 2007-06-23 by G-Tools |
舌を巻く本である。いったいなんの本かわからなくなる。各論が深堀りしすぎていて、全体を俯瞰できなくなる。わたしの脳の情報処理能力を超えた本だね。
なんの本かというと、商品が一気に爆発的にひろがるメカニズムやクチコミの様相を探った本になるのだろうけど、あつかう題材が梅毒感染からニューヨークの犯罪率減少や、アメリカ独立革命での伝承、「セサミストリート」の徹底的精査、ニューヨークでのチンピラ相手の殺人の背景の力、読書会から生まれたベストセラー、ミクロネシアの自殺連鎖、若者の喫煙の誘惑など、各論が詳細に検討しすぎているために、全体の話がなんだったか、さっぱりわからなくなる。
要は、爆発的感染を社会的にもたらす要因をさぐった書物である。その爆発的増加をもたらす一点をティッピング・ポイントといい、それが単行本刊行時のタイトルである。
ただ、とりあつかう題材が伝染病から犯罪、自殺、テレビ番組と横断的にジャンルをこえて並べ立てられるので、もうなんの話かつかめなくなってくるのである。
それぞれの題材はとても興味魅かれるもので、スリリングな謎にすっかりとりこまれる書物である。各論でなにかいいたくなることがたくさんになってしまうので、全体のテーマが飛んでしまうという書物である。
この本のさいしょの意図、目的は、商品はどうしたら多くの人につたわり、買われるようになるのかといったクチコミのメカニズム・過程をえぐり出そうとした本だと思うのだが、あまりにも広がりのある各論のために、その根本のテーマがすっかり棚上げになって各論にのめりこんでしまう。
まずは、ある商品なり、ものごとが人々につたわり、認知され、買いたくなったり、ほしくなったりする過程や伝染における不思議や謎を強烈に刻み込まないと、この根柢のテーマへの粘りつきが出てこないと思う。
そのクチコミの伝染力を伝染病の事例や犯罪のとつぜんの減少などに重ねるから、なんの本かわからなくなるのである。
わたしは各論に沈没しすぎるから、全体の俯瞰能力を失ってしまうのである。各論のテーマが興味つきなく、スリリングな謎解きすぎるからね。
とくにニューヨークでチンピラ相手に射殺した犯人は、その本人の資質が犯罪をなさしめたのか、なにもかも荒んだ地下鉄の環境のせいだったのかという議論は、わたしの興味を強く誘った。人が犯罪や変貌をおこす理由は、その個人的資質であるよりか、背景や環境の力によるとことがかなり強いのではないかと思う。人は犯罪を裁きやすくなる理由からか、本人の資質に帰したがるのだけどね。
ニューヨークでの1990年代に入ってからのとつぜんの犯罪率減少の話もとても興味魅かれるもので、それだけでさいしょのテーマがすっかり飛んでしまう。これは「壊れ窓理論」が功を奏したのだろうか。
まあとにかく販売や広告の人が商品の爆発的に売れる感染力のティッピングポイントをさぐろうとして読んでも、迷宮の森に誘い込まれてしまうような本だね。もう鳥の目を失って、虫の目でしか目の前の対象しか見えなくなる。
ぜんたいの展望はかすんでしまうが、各論のスリリングで謎に迫ってゆく文章は飽きさせないし、ぐいぐいとひっぱってくれるから、けっしてムダになる読書体験ではない。
だけどどうしたら爆発的に商品を売れるようにできるかという簡便な方法は、とてもひっぱりだしてくれる本ではないだろうね。この本を書いた人と、この本の全体的展望をたえず手放さずに俯瞰できる人は、きっと脳の情報処理の能力が優れているのだろうね。





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![]() | 買物欲マーケティング ―「売る」を「買う」から考える 博報堂買物研究所 ダイヤモンド社 2007-10-19 by G-Tools |
たしかにあるでしょうね、買物欲。
それと対比していわれるのが「モノ欲」であって、機能や用途で必要とされるモノで、安く素早く買えることが重要になる。日用品とか、テレビとか洗濯機みたいなものを買うことである。
合理的で効率的な買い物がされればよく、コンビニやスーパーはそのかたちに沿ったもの。どこで買っても同じだから、安さ勝負しかなくなる。
それに対しての買物欲は買物欲自体を満足させることが目的なので、これからはこの満足をめざすべきといわれている。
具体例としてはフリーマーケットやスターバックス、ヴィレッジヴァンガード、ドン・キホーテなどがあげられている。
買物は買物自体にそれ自身の満足があるばあいがある。
「買物が「自分らしさを知る」という自己確認行為だとすれば、買物欲は「潜在的に持っている自分らしさを知りたい」「まだ見ぬ自分らしさに出会いたい」という欲求である。
実は私たちの、買物したいという欲求は、「より素晴らしい可能性を秘めた自分らしさに気づき、出会いたい」という欲求なのである」
「よい買物をした」と思えるときは、買物を通して新しい自分、大切な自分、愛せる自分と出会えたときなのである。だから充実感に溢れ、気持ちが前向きになり、意欲が生まれるのである」
もうほしいモノがないし、買う前に商品を知り尽くしてしまうし、フリマやネットオークションで売る側になったことが、買物欲の台頭をもたらしたといわれる。
買物欲を満足させる視点は、鮮度、驚愕、行動連鎖、異世界感、体感・直感、参画性、などがあげられている。
安値競争で不毛な消耗戦を強いられるより、こういった買物欲を満足させることがこれからの小売りやメーカーに求められてゆくということである。
買物はただ安くて素早く買えれば、それでいいものだろうか。買物のプロセスを楽しんだり、買物で得られるコミュニケーション、探す楽しみ、選ぶ楽しみ、自分のほしいものを見つける意外性や自分らしさ、そういったものを探しているのではないでしょうか。
買物をただ素早く、安く手に入れるだけのものと思っていると、低価格競争に消耗し、消費者に見向きもされなくなるのでしょうね。





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![]() | 安売りするな! 「価値」を売れ! 藤村 正宏 実業之日本社 2011-12-08 by G-Tools |
「モノを売るのではない、価値を売っているのだ」というとらえ方はひじょうに大事だと思う。モノを売っていると思うとスペックとか価格でしか勝負ができなくなり、差別化を図れないそれは消耗戦におちいる。
価値を売るということから、この本は「個」を出せ、お客さんとの個人的な関係をつくれというのだけど、それをやりだしたら個人的なつきあいとなにが変わらなくなるのかと思う。企業や店はこれまでどうして個人や顔を出してこなかったのかも疑問に思う。
このお店の販促本を読んでいて、ブログとおなじことに思えて仕方がなかった。店の中の人が顔を出し、個人的な情報や役に立つ情報を発信し、好きなことや趣味を発信しろという提言はまるでブログとおなじである。
店や企業の人が顔を出して発信するようになると、クレームが減ったということである。店や企業は個人の顔を出してこなかったから、対人格的な相手というイメージがないから、クレームも激しくなったといえるかもしれない。
店は個人ブログのようになれといっているように思える。
数ある店や商品のなかで、あなたの店や商品が買われる理由はなんだろうか、なぜこの店で選び価値があるのか、そう考えてたどりつくのが、個性や個人の顔を出すという、まるで友だちのような関係である。
オフィシャルで顔のない関係であった企業対お客さんの関係を、個人的な友だちのような関係につくりだしてゆくこと。それで選ばれる理由や価値が生み出されるというのである。
この本では手書きのニューズレターのような個人的な味を出したベタな方法がおおくとられているのだが、それが個を出す、顔を出すということなのである。
好きを発信する個人ブログがアフィリエイトするようなものになれというのだろうか、と思えてならない方法を提唱しているわけである。
また、この本はブログをどう売り込むか、読ませるかの方法論としても読める。お店の販促法か、ブログのアクセスアップの方法か、ときにわからないほど混乱してくる。
ブログと読者の距離も、お店とお客さんの距離感に近いからかもしれない。ブログもお店も、不特定多数の人に情報を発信して、この店、このブログを選んでもらう。ブログとお店は、読者もお客も同じ距離にあるのかもしれない。
そういう意味でお店もブログも同じような方法を模索するということになるのだろう。
なお、著者の藤村正宏氏ははてなブックマークのエントリでもたしか読んだことのある人気ブロガーでもあるといえるね。
■藤村正宏氏のはてなブックマークエントリの検索結果。ぜんぶが氏の記事ではありませんので注意。





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![]() | 明日のコミュニケーション 「関与する生活者」に愛される方法 (アスキー新書) 佐藤尚之 アスキー・メディアワークス 2011-10-11 by G-Tools |
いまはだいぶ落ち着いたのだが、ソーシャルメディアにおおいに期待されていた2011年に出た、ソーシャルメディア時代の広告のありかたを論じた本である。
著者はさぬきうどんの本で目にしたかもしれないさとなお氏である。95年からホームページを開いていたという最古参のネット先駆者だろう。
マスメディア時代とソーシャルメディア時代の広告を恋愛にたとえる話しはわかりやすい。マスメディア時代の広告はひたすら自分を褒めちぎり、自分の自慢ばかりして口説いた。それでお見合い結婚が成立した。
ソーシャルメディアではウソも見栄もすべて見抜かれてしまうから、「愛すべき仲間」や「ロング・エンゲージメント」を築く恋愛関係にならなければならないということである。
ネット時代の広告はむづかしいと思う。ネットは消費者や生活者の個人発信のネットであって、基本、マスコミや広告と敵対関係にある。さらにマスコミ時代に広告や宣伝の操作や踊らされている感じ、操られている感じに強烈に腹を立てていた人も多いだろうと思う。ネット時代に広告はほんとうに「招かれざる客」だと思う。
ネットというのは金銭や広告のない関係のなかで、ひたすら無償の発言や交流がおこなわれる場所である。そんなところに「これ買って」「これがすごい」と押し売りされても総スカンを喰らうだけだろう。
この本に提唱されているような「愛すべき仲間」になったとしても、さいごに保険の勧誘をして、それが目的? いままでの楽しい時間はそのため?と思われると、よりいっそう嫌われてしまう。広告はひたすら自己の利益を消し去って、有益かつ愉快な仲間であることを要求されてしまうのでしょうね。このありかたはもう広告ですらないかもしれない。
そういう意味でブログのアフィリなんて、消費者や生活者の無償発信でありながら、広告の紹介料でいくらか小遣いを稼ぐという形態は、広告がどこまで消費者目線にならなければならないかを語っているのでしょうね。むしろため込んできた購買観察や選別知識がこのうえもなく有利にはたらくことになっている。
まさにトフラーのいっていたプロシューマー(生産者と消費者をかけあわせた造語)がいま生まれているのだね。ネットのできる前にトフラーを読んでいたものにはいっそう感慨深いものがある。
マス広告の意味のない駄じゃれみたいなシリーズとか、イメージだけのCMというのは、そういう時代を反映しているわけかな。
ソーシャルメディアは2010年ころはずいぶん期待されていたようだが、いまはどうなんだろ、たいした力を発揮していないように思える。
アラブの春もあったし、著者は鳩山ツイッターをプロジェクトしたり、震災プロジェクトを企画したりしたが、もうソーシャルメディアの力はだいぶ落ち着いてきたように思える。もうそんなに力も、変化もないんじゃないかといまは思えているところなんだけど。
まあ、確実に変えたものはあるだろうけど、いまはあたりまえにふつうにあるものになりすぎたのかもね。
広告やマスメディアは生活者や消費者にとって、どれだけ嫌われてきたか、うとまれたきたかという自覚から、ソーシャル時代をはじめなければならないのかもしれないね。権力や上から押しつけの放漫さと手を切らないと、かえってソーシャルメディアでよりいっそうの嫌われ度を発揮するかもしれない。
広告はチャラチャラした、ただ目立ちがり屋の伝達者や煽動者にしか思われないのかもね。しかも自分の都合のよいこと、得になることしか話さない信頼のおけない抜け目のないやつでしかない。
ソーシャルメディア時代には広告やマススメディアは徹底的に痛めつけられて、その放漫な権力や鼻をいちどへし折られないと、「愛すべき仲間入り」なんかさせてもらえないようにしか思えないのだが。
だけど一般発信者も、このソーシャルメディアの時代に自身も広告やメディアの役割をまとってゆくことになるのだから、広告やマスメディアのありかたに学ぶことも多くなるだろう。ブログやツイッターであなたも広告やマスメディアとして発信することになり、嫌われた広告やマスメディアの性質も身につけなければならない時代になる。おたがいさまの嫌われ広告メディア。





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![]() | キズナのマーケティング ソーシャルメディアが切り拓くマーケティング新時代 (アスキー新書) 池田 紀行 アスキー・メディアワークス 2010-04-09 by G-Tools |
2010年に出された少々古い、SNS時代における広告やマーケティング戦略について書かれた業界人・企業向けの本である。
わたしは97年のホームページ開設以降、完全に趣味で無料の生活者・消費者としての発言をずっとおこなってきた。だからこういう広告やマーケティングの目線からの戦略眼というものをまったくもっていない。この業界についてなにもエラソーなことはいえない。
広告業界者や企業にとっては2010年はソーシャルマーケティング元年だったようで、「クチコミが爆発する」「低コストで何倍もの効果が得られる」「商品がバンバン売れる」と話題沸騰だったようだ。
だが、売れない。とうぜんである。ネットやSNSは消費者や生活者としての自由な発言や交流がメインであって、そこに金銭や企業戦略がまぎれこんできたら総スカンを食らう場所であったのだ。
でも企業サイドではそんな無料圏で、マス広告に変わって低コストの宣伝媒体を見つけられたと大喜びしたのだが、そんなわけがない。ここは消費者天国の、生産者・金銭関係お断りの世界である。
2010年の時点で著者が講演をおこなった広告関係者のなかでは、ブログやツイッターをやっている人はだいたい10%しかいなかったという。広告にたずさわっている人は10人に1、2人ほどしかソーシャルメディアを使っていなかったのである。まあ、かれらは広告で自己表現や自己創造といった満足をうることができるからだろう。
そこで「魔法の杖」ではないソーシャルメディアの使い方や要注意点がるるのべられるのが本書である。しかしこういうマーケティング・広告論はどうしてこう言葉が専門的で、微に入り細にうがち、細かな世界に入ってゆくのだろう。もっとたんじゅんにわかりやすく、短くしろと思うのだけど、専門ジャンルを高度化しないと信頼されない、専門家として認められない弱さでもあるのかと思う。なんだか、しろうと意見だが、虚構の塔みたい。
ちなみにこの著者の会社でイケダハヤト氏が短い期間、はたらいていたことがあるそう。イケハヤ氏はゲラまで手伝ったという記述をネットで見つけるくらい深くかかわっている。イケハヤ氏はこういう目線でブログをとらえているわけだ。
マーケティングは「お見合い結婚」から「恋愛結婚」になったというが、マス広告はせいいっぱいおめかしをして、自分の長所をアピールしておればよかったが、SNSはよいところも悪いところもすべて見透かされる消費者が強い時代になったということだ。
上からマス広告で自社の都合のよいこと、いいところ、長所ばかり宣伝しても、もうだれも見向きもしなくなった。高い商品ならネットで徹底的に検討され、調査される。マス広告のように自分の都合のよいことだけをむりやり視聴者にゴリ押しなんてできない時代になったのである。
これは消費者として生きている人には十分わかりきった話だろう。もう企業からのマス広告とか踊らされること、美辞麗句にうんざりしている。
この本の読者に向けられた言葉はまるで消費者の気分や感情がまるでわからない、知らない世界の住人向けに書かれているかのようだ。そこまで企業人は消費者からかけ離れ、消費者ではなく、生産者・供給者のみの存在だったのだろうか。
ブログはむかし金銭関係のまったくない発言や意見主体だったが、いまはアマゾンアフィリエイト、グーグルアドは当たり前のように貼られるようになった。お小遣いていどの金銭授受は容認される流れに動いてきた。
でもこの人たちはほんとうにお金を得ることや儲けることをちっともめざさない記事目的、承認目的だけの「聖人」なのだろうか。ブログでメシを食いたい、ブログで儲けたいという金銭目的の流れもだいぶ増えてきたり、自覚されるようになってきたのではないか。
というか、そこまで戦略的、マーケティングに考えないと、もうたくさんのブログやツイートの中から自分の発言が注目されなくなっているのではないか。効果的に結果を目的にした戦略を立てないと、勝てるフェーズではなくなってきたのではないか。
そういう意味でネットでの消費者だった創作者は、もう生産者・供給者側にうつっているのではないか。ソーシャルマーケティング、広告脳といったネットで嫌われてきた存在に、頭を浸潤されている時期なのかもしれない。
ブロガーやツイッターも、もうマーケティングや広告戦略の目線が必要になってきた時代なのかもしれない。
「これはすばらしい商品だ、こんなに優れている、買ってくれ」とマス広告でいってきた企業・広告も、ネットの世界で消費者に歩み寄らなければならない。
そこでこの本ではソーシャルマーケティングをあつかう担当者・企業は、トモダチからはじめなければならないと説く。上から押し付けて、ゴリ押ししてもだれも買ってくれないし、興味もしめしてもくれない。まずはネットでのトモダチにならなければならないというわけだ。それがタイトルの「キズナのマーケティング」というわけだ。
販売とか営業の本ではもっとかんたんに書かれている。「売り込むな」、「信頼を得る前に売り込むな」という二点である。このかんたんなことをこの本ではむづかしい、迂遠な表現で300ページも書かれているのではないのと思います。
企業は売ってやる、広告で長所をアピールすればバカ売れという時代ではなくて、ひたすらトモダチや共感の輪をひろげてゆかないと、自社商品の長い顧客になってくれないというメディアの時代にさまよいこんだということである。
企業はトモダチや消費者としての顔で、相手が興味をしめしてくれるまでひたすら待たなければならない。いや、カネと量のマス広告でゴリ押ししてやるという気持ちにたえられなくなるかもしれない。でもそうするとネットでゴリ押しだ、と見透かされて批判される。
企業や広告は生産者・供給者の顔を捨てて、ひたすら消費者、生活者の顔をしなければならないのでしょうね。そうやって信頼されてやっと買ってもらえる。むりやり売り込んだり、長所をひたすらアピールしても、だれも買ってくれない時代になったのでしょうね。営業や販売の最前線ではとっくに肌感覚になっていることにすぎないのではないでしょうか。




