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04 15
2014

右傾化再考

国民の喪失――『余は如何にしてナショナリストとなりし乎』 福田 和也

433497273X余は如何にしてナショナリストとなりし乎
福田 和也
光文社 2000-09

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 ナショナリストの心性がまったくわからないから、手をのばしてみた本。ちょっと挑発的な煽り本かもね。

 まあわたしは学校教育のおかげか軍国主義をまったく嫌悪しているし、個人主義だし、共同幻想論におおくを学んだし、アナーキズムもいいんじゃないかと思うほど、国家はスルー。報道の歴史問題はふれたくもない。社会や心理からはものを考えたいが、国家や政治からはあまりものを考えたいとは思わない。考える場合は権力批判としての国家。

 そういう人間にたいしてナショナリストからの批判はすこし傾聴に値するかもね。

「自国にたいして何のかかわりももたない客観的な場所に自分がいるかのような姿勢をとることで、自分が自国から超越した、きわめて尊い人間であるかのように振る舞うという「国際派エセ左翼」の病理」



 このことは『ネット右翼の逆襲』という本の対談集のなかで、三橋貴明がわかりやすくいっている。

三橋「日本国民としての国家観の喪失なんですよ。完全に国家観を喪失していると思うんですね。自分が日本国民である、という意識がないわけです。

古谷「社会は~」という言い方しますね。

三橋「国がなければ社会は存在しないですから。…そこには国家とか国とか共同体の枠組みが飛んでしまっている。国家観を喪失した連中…」



 たしかにわたしは「社会人」として生きようとして「日本国民」として生きようとしていない。こういう捉え方をしておれば、報道の歴史問題にかかわらなくてすむ。それでいいじゃないかと開きなることもできるし、反省の材料にすることもできる。

 マイケル・サンデルが問うていたが、まえの世代のおこした問題は何世代後まで責任を負わなければならないのか、と問いたいくらいだ。「国民」をやめたままでいいのか。ふたたび福田からの引用。

「常に自分の成り立ちにたいして意識的であること、すなわち自分という存在がけして独立し自立した個人的な存在ではなく、長い歴史と広範な文脈の中で形成され、そして現在もそのなかで生かされていること…。その意識があってはじめて自分が何者であるかという正確な認識が得られ…。

自分を完全な個、まったく抽象的かつ無色な存在として認識し、そこから議論をする日本的な近代主義者たちの「市民主義」は、まったくナンセンスとしか云い様がありません」



 この歴史の文脈から切りはなされた自己というのは、なにも戦争責任からきただけではなくて、「進歩主義史観」によるものなのだろうね。過去はおろかで、まちがっていて、現在は進歩しつづけており、過去は捨てなければならない。これはナショナリズムとか国家観といったものの一段上の歴史観が、われわれに歴史や伝統からの隔絶をもたらすのだろうね。

 この本のなかでは似非ナショナリストたちも批判されていて、武士道には敵にたいする敬意があり、現代の愛国心にはこれが欠如しており、自己愛と自己肯定、ルサンチマンに満ちているだけと批判されている。

「そのすべてが自己愛の産物、あるいは卑小な自我を守る便利な小理屈にすぎないのに、それが堂々たる正義だと確信している」



 げんざいの愛国心とかナショナリズムはこのような卑劣な隠れ蓑にすぎないのかもね。



ナショナリズムの復権 (ちくま新書)愛国心 (ちくま学芸文庫)日本の愛国心―序説的考察ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)右傾化する民意と情報操作―マス・メディアのモラル・パニック (PP選書)


04 19
2014

右傾化再考

蔑視すれば私は偉い――『侮日論』 呉 善花

4166609548侮日論
「韓国人」はなぜ日本を憎むのか (文春新書)

呉 善花
文藝春秋 2014-01-20

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 じつに冷静でおちついた議論が読める本。韓国人はなぜ反日で、侮日なのか、韓国人の内情に迫れていると思う。

 ヘイトスピーチや嫌韓本の書店での増加といった傾向から、この本を手にとったが、わたし自身はこの件にかんしてはまるで興味がないので、どうしてそういうトピックに興味があるのかという姿勢でこの件にのぞんでいる。

 民族主義というのは生理的嫌悪や反射的蔑視感というものを植えつけてしまうものだが、どうしてこういうパブロフの犬が形成されるのだろうね。この感情のうえでものをいったり、考えたりすると生理的嫌悪と蔑視のすさまじい言葉しか出てこない。この反射回路に巣食われないようにするにはどうしたらいいかを考えるようにしたい。

 反日感情のこの本での説明の大きなポイントはふたつある。中華主義と血族主義である。

 中華主義は中国がもっていた思想で、みずからは世界の中心であり、遠くになるほど蛮族や夷狄の存在する世界になり、文化の優越たる中心国が、夷狄に文化・道徳を教え、支配するという思想である。

 これはヨーロッパの「先進国イデオロギー」と「文明国の使命」と同じ考えである。日本はこの序列で近代を捉えるようになっているのだが、朝鮮ではまだ中華思想の序列観をもっているのか。

 35年の日本統治で反日になったのではなく、古くは李朝にさかのぼるこの中華思想が日本蔑視の根源にあるということである。どうも韓国は植民地支配から日本に批判をくりひろげていると思われているが、劣等の対比としての文化と平和の自民族があるという思想のようである。

 まあ、民族とか国家の優劣感というのはこういうたんじゅんな図式をもってして、自国民を鼓舞したり、自負するのは常套手段である。優越感にひたるには蔑視の対象が必要である。こういうイデオロギーで優越感をもつというのは、劣等をないものにして、国家や民族で優越感を感じたいという需要が大きいのだろうね。

 蔑視によって保たれる優越感なんて、ろくなものではないと思うのだけどね。はたから見ていて人をバカにする人のどこが偉いのかと小学生でも見透かされるのじゃないか。

 韓国人は公的には反日であり、私的・個人的には親日であるというのが実情であるらしい。国家や民族では憎めても、個人にたいしてどう憎めばいいのかというのもあるのだろうね。

 もうひとつのポイントは「身内主義」であり、血族が絶対的な善であり、正義であり、この繁栄を犯すものは絶対的な悪という儒教の思想が韓国には根づいているということである。家族以外は容易には信じないアカの他人だと思っている。

 また韓国は子孫は先祖のうけた被害をどこまで覚えていて、恨みを晴らさないければならないという「恨の多い民族」だといわれている。この身内主義・家族主義が民族や国家まで拡大されて統一されたのが韓国だということである。

 韓国では友だちであったら、勝手に筆でもボールペンを使うのが親愛のしるしらしい。日本では勝手に使われたらいやな顔をされるので、先に「貸してくれる?」というものである。これをされたら驚くだろうね。

 嫌韓本の台頭は反日にたいする反発からおこってきたものといわれているが、他民族の蔑視感は日本人は世界でももっとも薄いと著者にいわれている。韓国人のほうが世界的にいってかなり強いらしい。

 嫌韓やヘイトスピーチの台頭は日本の右傾化の逆戻りとしておそろしい感を抱かせるのだが、たんじゅんな自国の優越や自尊心を保つための隣人の蔑視といった図式にのっかかる人が多いのかもしれないね。

 蔑視していればわたしはそうではない、偉い人間だと本人には思えるかもしれないが、本人はほかの優越や自尊心をのばす努力や方向をまるでもっていないのではないかと思う。足をこんなことにすくわれてはならない。



なぜ「反日韓国に未来はない」のか(小学館新書)スカートの風 日本永住をめざす韓国の女たち (角川文庫)悲しい日本人(イルボヌン オプタ)悪韓論 (新潮新書)呆韓論 (産経セレクト S 1)


04 26
2014

右傾化再考

連続した戦争状態――『戦時期日本の精神史』 鶴見 俊輔

4006000502戦時期日本の精神史
―1931‐1945年 (岩波現代文庫)

鶴見 俊輔
岩波書店 2001-04-16

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 1979年から80年にかけてカナダの大学でおこなわれた講義録のおこしで、翻訳文体がすこしヘンなところがある。カナダでこんな日本のくわしい話をだれが聞いていたんだろうと思うけど。

 わたしは戦時期の歴史をあまり知らないので、知識人中心の精神史はいろいろ学ぶところがあった。ただ、重要度の高い項目やトピックについては焦点をしぼりにくく、全体としてはなにを語っていたのかはあいまいになりやすい本との印象。

 1931年というのは満州事変がおこった年で、鶴見俊輔によるとこういう戦闘状態が日本人にはべつべつのかたちで入ってきて、ひとつの連続した戦争として捉えられていなかったという点で、「十五年戦争」の概念を提唱している。

 鶴見は中国との戦争に負けたのだとはっきり言い切っているが、いまも日本人は認めていないとか。そのために連続した十五年戦争という見方をしたがらないのだと。

 この戦争のはじめは石原莞爾の「東亜連盟」の構想からはじまったのだが、東條からの追放により、責任者不在であり、また37年からの戦争に石原は反対するようになっており、戦闘状態を終らせる能力が欠如していたために太平洋戦争の泥沼に落ち込んだのだといわれている。

 テーマとしては「転向」「鎖国」「大アジア」「朝鮮」「非スターリン化」「玉砕」「戦時下の日常生活」「原爆」といったテーマで語られている。

 わたしは大アジア主義とか日本のなかの朝鮮人といったテーマに興味をひかれたという感じかな。

 大アジアには日本が戦争をはじめるきっかけになる構想はなんだったのかという思いがある。日本は西欧=白人からのアジア=黄色人種の解放という連帯の思想があったようなのだが、いちぶのアジアの独立運動家には支持されたそれは、こんにちでは占領や支配の国家犯罪という認識がつよくなっている。この図式はどうだったのかという思いがある。

 もうひとつのトピックで日本のなかの朝鮮人の歴史で、35年の朝鮮併合の時代で自分たちからきた人たちと戦時中の強制連行のかたちで連れてこられた人たちの歴史に哀切を感じる。残った人たちは差別をうけるのだが、終戦時にきびしい労働で手に入れた財産をほとんど手ぶらで帰らなければならなかったという事実はどうなるんだと思う。長時間労働、日本人の賃金の半分といったきびしい労働条件を押し付けられた人たちを見ないふりをできるのか。

 まあ、国家と個人としてのわたしの語りのズレと、責任をどれだけ負うのかという「自分の範囲」と「国家との同調」はわたしのなかではうまく統合されていないのだけどね。「国家人」としてのアイデンティティを放棄してきたほうだから、「国家がうんたらこうたら」という話はどうも自分との同調を感じないウソくさい語りになって困る。

 あとひとつ社会主義者の弾圧や殺されてきた歴史をもうすこしくわしく知りたくなったかな。思想が危険なものとして弾圧された歴史に知識の公認性と毒のふたつの要素をどう見たらいいのだろうか。

 ぜんたいとしては十五年戦争というのは西欧の先進と後進という文明のイデオロギー序列の図式の中で見てみる必要があるのではないかと思った。



戦後日本の大衆文化史―1945‐1980年 (岩波現代文庫)神国日本のトンデモ決戦生活 (ちくま文庫)戦前の生活: 大日本帝国の”リアルな生活誌” (ちくま文庫)竹内好「日本のアジア主義」精読 (岩波現代文庫)日本の失敗―「第二の開国」と「大東亜戦争」 (岩波現代文庫)


04 28
2014

右傾化再考

ウヨ系とサヨ系のよって立つ自尊心的基盤を暴く

 国家のほこりや栄光のために不名誉なことはいっさいなかった、存在しなかったとするウヨ系の歴史認識を見ていて、なぜそのような心理的な作用がはたらくのか考えたくなった。試論のようなもので、推論を重ねてみた。客観性をもつためにサヨ系も俎上にのせてみた。わたしはサヨ系のほうなんだけど、自己反省もえぐってみた。


 「国家はえらい」というウヨ系の人はほこりのほかの見たくないもの、そむけたいものを否定したいようだ。それを「ないもの」のすれば完全無欠の「ほこり」がえられると思っているようだ。

 「国家はひどい」というサヨ系、カウンターの人はひどいと言い立てることによって「自分は違うんだぞ、自分は偉いんだぞ」といいたいかのようだ。

 つまりウヨ系の人は国家の肯定のために不都合なものを見ないことによって自尊心を完全なものにし、サヨ系の人は国家をおとしめることによって自己の優越性・自尊心を確保する。

 国家にあらわれる自尊心はそのまま個人の自尊心の機能にあらわれるとしたら、人間の自尊心の育成の仕方ってこのふたつしかないのだろうか。肯定だけを見て否定のない自尊心、他者批判による自己優越の自尊心の二本柱である。

 ウヨ系の人たちの否定を見ないという傾向は先の戦争に突出してあらわれたように、負けるとわかっている太平洋戦争につっ走り、止める手段をもたなかったという現実逃避の認識にもあらわれ出たはずなのだが、ウヨ系の人はまた同じわだちをふもうとしている。

 サヨ系の人たちの欠点は批判や悪い面は鋭く認識できるのだが、建設や代替案に優れているわけではなくて、頭でっかちで計画に合わないものは追放やなきものにしてごまかし、なおかつ批判した当のものとさして変わらない権力の横暴や独占をにぎり、頭脳主義の政策も失敗するという社会主義国の歴史で露呈させた。

 現状を肯定する自尊心は現実を見ない、批判による自尊心はべつに代替策が優れているわけではなくて、似たような過ちを犯す。人の自尊心や優越感というものは、国家という大きなものでその欠点をさらに大きく写し出すようだ。

 ウヨ系の人たちはどうして現実無視の現状肯定という自尊心を必要とするのだろう。悪いことを見なければ完全無欠になれるといった心理より、どちらかというとほこりや自尊心という心理的安心を欲するがゆえに欠点に目をふさいでしまおうという心理的序列に思える。自尊心先にありきのための不都合なものを隠す。

 サヨ系の人たちはとにかく現状が不満である。叩きたくてたまらない。相手の地盤が低くなれば、自動的に自分の地盤が上がるという寸法であり、濡れ手に粟、棚からぼた餅的な自尊心を手に入れる。「貶めれば自分は違う」。

 ウヨ系の人たちは国家をタテに「おれのいうことを黙って聞け」。サヨ系の人たちは「おまえの権力をおれに寄こせ」。

 サヨ系の人たちは時間の先にある「ここにないもの」の理想を追いかけ、現状を否定する。自尊心は未来や想定の上にあり、現状否定はその「想定上の未来」や「ここではないところ」のためになされる。つまり現実否定の計画・想像上の場所がわたしの自尊心というわけである。

 ウヨ系の人の理想は現実にあるのだが、さまざまな否定もある事はふまえないわけにはゆかないので、それを「なきもの」にしたい。現実に目をふさぐことによって「地上の楽園」をつくりだす。否定されるものを否定することによって、理想と崇高の現実をつくりだす。

 いずれも自尊心というものが完璧には生み出せないために、どこかに「否定」をはさまなければならない「自尊心」というものの本質があらわれているのかもしれない。いっぽうは穴をつくって否定をふさぎ、いっぽうは未来に理想をつくって現状を否定する。どこに自尊心をおくかで、自尊心の防備の仕方が違っているというわけである。

 おたがいの自尊心の相性は悪い。よって立つ自尊心の立ち方が双方の根本を削る役割になるからだろうか。サヨ系はウヨ系の理想を否定し、ウヨ系はサヨ系の否定を否定したい。おたがいの自尊心を立ち上げるために、双方はけなしあわなければならない関係性にある。

 人間の自尊心というものを穴をつくってなかったことにして自尊心をたちあげるか、現状を否定して「ここではないどこか」に自尊心を想定するしか方法はないのだろうか。

 いずれも理想や完全無欠の世界がないために、なんとかつくろわなければならなかった自尊心のふたつのあり方である。現実を否定する自尊心、現実を見ないことにする自尊心。人間の自尊心というのはこの両極端のあり方でかたちづくられるのだろうか。

 ウヨ系の人たちは「大きなもの」の一体感にほこりと栄光を感じ、個人の犠牲や痛みは無視する。「大きなもの」が即自分であり、自身の滅却をたいしたことと考えておらず、大きなものの栄誉のためには個人の犠牲はおかまいなしである。

 サヨ系はケースによって違うが、基本的に個人に自我をおき、個人の心情やアイデンティティを大事にする。個人を押しつぶす「大きなもの」「強いもの」に対する反発と反逆を心情にもつ。権力の否定による「権力」がかれのお好みであり、もし権力をにぎったばあいは批判していた当のものとたいして変わりのないまちがいや腐敗をおこす。

 ウヨ系が大きなものの栄光とほこりのために否定面に目をふさぐように、サヨ系の人たちにとって現状や大きなものは否定され、個人の自我と自尊心がよりどころとなる。

 ウヨ系はげんざいある大きなものの自尊心のために個や否定面を隠蔽し、サヨ系は未来という時間軸の自尊心によって立つために現状や国家を否定する優越感を保持する。自尊心と優越感の源泉、よって立つ基盤が違うためにそれぞれの追究したい、見たい世界のあらわれかたが異なる。

 「大きなもの」と「未来」という自尊心の源泉はおたがいの自尊心を否定する、対峙する立場に向き合う。自尊心のために見たい世界が異なるためにおたがいを否定しあう。

 ウヨ系は現状の権力、大きなものを肯定したいがために現実の否定面を滅却する、サヨ系は現状の権力を否定することによって未来にたくした、もしくは想定上の優越した自尊心に自己をたくす。よってその重なり合う部分で衝突し、おたがいを否定しあう。

 目先の違いに目を向けるより、それによって自尊心や自己はどんな利益を得るのか、メリットがあるのか、個人の心理的心情の源泉を求めるほうが、不毛な対立より有益かもしれない。

 ナショナリズム、右翼の心理学、左翼、権力批判の心理学はどのくらいの研究の蓄積をもっているのだろう。


社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学社会主義の心理学経済倫理=あなたは、なに主義? (講談社選書メチエ)右翼と左翼 (幻冬舎新書)右翼と左翼はどうちがう? (河出文庫)


04 30
2014

右傾化再考

人はどうして国家主義者なんかになれるのだろう?――『日本の右翼』 猪野 健治

4480420509日本の右翼 (ちくま文庫)
猪野 健治
筑摩書房 2005-04

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 人はどうやったら国家主義や全体主義のような思想にのめりこんでゆけるのかといった疑問から、一連の右翼思想の本を読んでいる。わたし自身はまったく個人主義だから、そのような論理や心情に迫れないかという試みであり、魅惑や憧憬を感じての読書ではない。

 ジャーナリストの著者は『ヤクザと日本人』という本を書いており、右翼はそういったくくりの中の部類にふくまれるものと戦後されてきた。「暴力団の別名」のように思われている。たいていの人には街宣車で軍国的な歌を流すイメージしかない。

 それがさっこんでは嫌韓やヘイト・スピーチ、右傾化といった傾向がいわれるようになって、わたしとしても右傾化について懸念を感じざるをえなくなってきた。

 わたしはこういった問題は避けてきたので、このさいだから右翼思想に頭をつっこんでみようと思ったしだいである。それもなるべく危険な思想で、キナくさい思想がとくに読みたいというのはわれながら悪い趣味であるw 思想の中でも深いところ、神秘的で難解なものを好むのは知識の醍醐味といったものだろう。

 思想に興味をもってきたものとしては、近代の警察や政府に弾圧されたり、殺されたりしてきた近代の思想がどのようなものだったのかもっと知っておきたいという思いはある。右翼と社会主義、軍国主義はどう絡み、どう違っていたのかといった切り分けも知りたい。

 この本は1973年に出され、2005年の文庫化にあたり、大幅に加筆・訂正されたの記述がある。もう四十年も前の本である。

 第一部では「歴史と変遷」、第二部では「人物と思想」がとりあげられている。

 右翼のことなどまったく知らず、人物の顔も知らないし、おおよその流れもほとんど関知してこなかったことがらなので、記憶と概括の定着がむづかしいのだが、まあひととおり読んでみたといったくくりになる本だろう。

 人物では行動や行跡がおもにとりあげられていて、思想面をもっと期待したわたしにはすこしものたりなかった。もっとも右翼は思想より、行動を重んじるということだが。

 べつになにか感慨をうけた一節というのはあまりなくて、むかしの右翼には北一輝のような社会主義者もふくまれており、頭山満とか宮崎箔天のようなアジア主義者もふくまれるのがふしぎである。では軍国主義はどこにふくまれ、位置するのかと思う。テロをおこした青年将校たちは右翼であったのか、社会主義者であったのか、軍国主義であったのか。

 わからないことだらけだし、記憶もなかなか定着しないし、魅惑を感じての読書でもないから吸収力はかなり劣るのだが、もしいまいちど右傾化の流れが増すのなら、この一連の思想の流れに学んでおくべきだと思うのである。



思想としての右翼右翼の林檎―“禁じられた”思想の系譜を飲み下すために昭和維新試論 (講談社学術文庫)増補 民族という虚構 (ちくま学芸文庫)超国家主義の心理と行動―昭和帝国のナショナリズム


05 16
2014

右傾化再考

アジア主義と戦後思想――『日本とアジア』 竹内 好

4480081046日本とアジア (ちくま学芸文庫)
竹内 好
筑摩書房 1993-11

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 竹内好という人をぜんぜん知らずに読んだ。わたしは日本の戦後思想というものをまったくスルーしてきたからね。

 タイトルからすれば人類学的な学問書かなと思うのだけど、戦前のアジア主義や戦争責任といった問題がおもになった書。論文は1948年から65年にかけて書かれたもので、そのとうじの問題意識がみえてくる。

 わたしがアジア主義について読みたくなったのは日露戦争まで日本は西欧支配からのアジア解放の盟主とおもわれていたのに侵略や支配の憎しみの対象になった過程をたどりたいという思いからなのかなと思う。戦前の一時期、日本はアジアの解放をたすけるアジアの希望の星だったことがあり、孫文などのアジアの独立運動家をたすけていたのである。

 この本は470ページのぶあつい本なのだが、さいしょのいくつかの論文がいちばん濃縮されているかな。

 とくにさいしょの「中国の近代と日本の近代」という論文がいい。

 日本では観念が現実と不調和になると原理は捨てられ、新しい原理がすげかえられる。古いものがダメだったら、新しいものに交換すればいい。これによって過去は捨てられ、反省されることもなく、失敗もない。このような原理や主体のなさは、日本の西欧化の変わり身や受容のしやすさにあらわれていて、ために自分でつくるような中国は近代化が遅れた。芯がないのである。

 日本は世界が追いかけてつかまえるもの、外にあるものとして観念されているが、主体や中心が自分にないからである。

 追いつき、追いこせが日本の標語であり、それをささえる「優等生文化」は自分たちは優秀で選ばれたものであり、遅れた劣等生を指導しなければならない。これは「文明の帝国意識」であり、「文明のヒエラルキー」である。日本ファシズムの根はこの優等生文化にあり、日本文化の構造そのもにあると竹内好はいう。

 つづく「日本人の中国観」では、文化の名において日本の侵略の手先をつとめた対支文化事業部と、そのスローガンである「日支親善」を中国人がどんなに憎んだかを、戦後の日本人もちっとも感じていない、知らないでいるとのべられている。

 文明のヒエラルキー意識は先進と後進によって中国を侮蔑するのだが、マルクス主義は生産力という物質で歴史の価値を測るのだから、中国の近代化の遅れを「科学的」に立証することになった。学問というものは、優越と侮蔑を科学的におしすすめるのである。

 丸山真男もジョン・デューイも中国には華夷思想があり、固有のものをもち、伝統の力がつよいのだが、日本は借り物であり、伝統の力が弱かったために近代化はよういにおしすすめられたといっている。

 「東洋の日本人観」では日本の変節と裏切りがテーマ。東洋人でただひとりのノーベル賞受賞者であったタゴールは1916年から三度来日しているのだが、孫文が1924年に神戸でおこなった講演同様、日本がアジア独立の希望から支配と侵略の手先にかわるふしめを体感したアジアの人たちであったかもしれない。

 ほかの数編の論文によって戦後間もなくの戦争体験や戦争責任などがどう考えていたかということがうかがい知ることができる。

 わたしはこんにちの右傾化の心配から右翼思想をたどってみようという気になり、そしてこのアジア主義を概括できるような本を読むにいたったのであるが、右傾化の反省は戦後思想におこなわれていたのであって、戦後思想の本を読めばいいのだとこの本で気づいた。

 わたしは80年代のニューアカ・ブームの現代思想から読書をはじめ、社会学や心理学を興味の中心にしていたから、日本の戦後思想もちっとも知らず、マスコミが話題にするような戦争責任といったキナクサイものは避けてきた。こんにちの右傾化といった心配から手の伸ばすとこの界隈のテーマにつながってきたとはね。戦争とか戦争責任といったテーマは避けてきたのだけどね。


▼そうか、右傾化の問題は戦後思想を読めばいいのか。
戦後思想の名著50戦後思想は日本を読みそこねてきた―近現代思想史再考 (平凡社新書)戦後思想を考える (岩波新書 黄版 142)近代日本思想論III 丸山眞男と戦後思想 (近代日本思想論 3)戦後日本の思想 (岩波現代文庫)


05 21
2014

右傾化再考

リスペクトしない人の伝記本を読んでもね――『石原莞爾』 青江 舜二郎

4122019206石原莞爾 (中公文庫)
青江 舜二郎
中央公論社 1992-07

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 時期尚早すぎたのか。あるいはこのような伝記本は入門書としては適さないのか。思想や一般概念をこのむわたしはどうも個人の個別的な行動を追うのが苦手である。

 この本を読むにいたったのはさっこんの右傾化の心配から右翼思想の本を読んでみようということになり、そういうこころみはおのずから戦争へといたった経緯をも問うことになった。

 石原莞爾は満州事変をはじめ、満州国建設といったのちの戦争へとかりたてるきっかけをつくった軍人の思想家である。

 伝記を読むというのはふつうリスペクトであったり、親しみがさいしょにありそうなのだが、感情移入できない人の伝記を読むというのは没入できない一線をひいた。

 石原莞爾のさいしょの構想では満州の人たちと協同でアメリカに対抗するために満州国をたちあげるといった目論見をもっていたそうだが、満州国は日本の独占支配のかたちになり、一国では対抗できないと考えていたアメリカと日本は戦争をはじめる道を選んでしまい、石原莞爾はそのことを批判しつづける立場になったということである。

 戦争の主導者であったのだが、思っていたかたちに協同戦線がまったく機能しないので、そのあり方を批判しつづけたのだが、軍部や国は石原の構想をたどるかのようにアメリカと対戦をはじめてしまったということになるようである。

 石原莞爾はアジアの人たちと共同して西欧支配からの解放をめざしたアジア主義の軍人だったということになるのだろうか。だが軍部は協同ではなく支配と植民地の西欧化の道を選んでしまい、個別では勝てないと見込んでいたアメリカとの対戦に軍部・日本はつきすすんでしまった。

 青写真は失敗してしまって、だけどその青写真をちがったかたちで日本がひきついだということになるのだろうか。

 伝記本を一冊読んだのだけど、基本的な知識がないためによくわからなかったといわざるをえない。北一輝とか大川周明も伝記本が出ているのだが、これらの本を読んでも同じ目にあうのだろうか。

 日本はどうして国家主義・右傾化したという問いは戦後思想の人たちが問いかけた問いではないのかと戦後思想を概括する本にめぼしをつけたいと思う。というか、明治以降さいしょから日本はこの道をめざしていたのではないかということもできるのだけどね。日露戦争以後まちがったのではなくてね。


最終戦争論 (中公文庫BIBLIO20世紀)戦争史大観 (中公文庫BIBLIO)石原莞爾 その虚飾 (講談社文庫)「昭和」をつくった男―石原莞爾、北一輝、そして岸信介石原莞爾―満州国を作った男 (宝島SUGOI文庫 A へ 1-41)


05 25
2014

右傾化再考

戦後思想のまとめ本が少ない――『戦後思想は日本を読みそこねてきた』 鈴木 貞美

4582855016戦後思想は日本を読みそこねてきた―近現代思想史再考 (平凡社新書)
鈴木 貞美
平凡社 2009-12

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 げんざいの右傾化の懸念から右翼思想を読んでみようと思ったけど、右傾化の反省なら戦後の思想家たちがしたはずだから戦後思想で本をさがしてみたが、教科書的な本もすくなく、ブックオフでもほぼ見つからない。右傾化の懸念は感情的な嫌悪だけで防ぎえるのだろうか。

 西欧の思想は読んできても、日本の思想はさっぱりスルーしてきた。右傾化という懸念から近現代思想に入るこめるとは、このさいだから日本の思想史を読んでみたい。この本は近現代思想のブックガイドとして活用したい。

 また右傾化の道すじでだけではなく、こんにちの問題意識の思考の道すじはすでに近代におこなわれてることがあって、こっ恥ずかしいというか、おなじまちがいの修整にもなる。ただ入手困難の本もおおいだろうから、どこまですすめるか。

 どちらかというとこの本は戦後思想の分量が多いというよりか、おもに戦前までの近代思想をとりあつかったものが多い。「読みそこねてきた」ことにたいして、正統とされる思想すらよく知らないので判別もできない。覚えておきたいことを断片的な抜き書きで。

 開戦直前の『中央公論』での座談会、『世界史的立場と日本』が皇戦、聖戦の意義を説いており、反響が大きかった。

 全体主義に批判的だった竹山道雄は神がかりナショナリズムがあらわれた例として、哲学界の大御所だった井上哲次郎、筧克彦、上杉慎吉といった人の名をあげている。こういった「ある苦笑をもって見逃されていた思想」こそ、のちの神がかりを主導したものだという。大正や昭和はすでにたっぷりとヨーロッパの洗礼をうけたあとの時代であったのだが。筧克彦の『皇国精神講和』(1930)はクーデターをおこした青年将校の教科書となった。横光利一も筧の著作に感銘。

 竹山道雄の『昭和の精神史』(1955)はげんざい、中公クラシックスで手に入る。ただ竹内好は価値論が混入していると批判。日中戦争期に日本はおかしくなったという。明治の終りには「東西文明の調和」がとなえられ、第一次世界大戦後には国際的に平和ムードが高まったのだが。ときの浜口首相は軍縮化に協力して、右翼に銃撃。

 岡倉天心『日本のめざめ』、『東洋の理想』は東洋精神文明の発揚や日本の精神性の高さを西欧に訴えかけたものだが、日本のナショナリズムにどう作用したのか。

 土地に根ざした神秘思想を象徴誌に表現したイェーツやブレイク、タゴールといった思想は帝国主義本国では体制の反逆になり、植民地においては民族独立の運動とむすびつく。しかし日本では体制に組み入れられ、それを支えるものになってゆく。

 大正のころには宇宙の生命エネルギー論や生命主義がさかんになった。エマソン、ホイットマン、トルストイは「神は生命である」といい、ショーペンハウアーは「宇宙の意志」を問題にし、ニーチェの思想など。

 幸田露伴は商売堅気の変質をかぎとり、相互扶助こそ社会の原理であるべきと説いた。資本の圧力に対して個人の自体をたもつことになんの危険思想があるのかといっている。帝国主義への批判もおこなっている。『修省論』(1914)。『努力論』(1912)もベストセラーでロングセラーに。

 1923年に関東大震災がおこったが、財界から「近年、贅沢と放縦に慣れ、危険思想に染まりつつある国民に対する天罰である」といった「天譴論」がとなえられた。

 1930年ころには「日本精神」という言葉が流行った。紀平正美の『日本精神』(1930)がきっかけ。

 倉田百三の『出家とその弟子』(1917)は大ヒット、賀川豊彦の『死線を越えて』(1920)とならぶ人気。しかく倉田はファシズム革命運動の昭和維新に傾倒してゆく。吉川英治も青年将校のテロに共鳴し、堕落した日本人に希望と信念を与え、民族的な血液を輸血するために『宮本武蔵』(1935)を書く。

 石原莞爾は対米英戦争の対抗として大東亜共栄圏を考えていたようにいわれるが、それは神話という。石原は中国戦争を終結し、世界大戦には不参戦の漁夫の利を得よといっていた。

 大東亜共栄圏はソ連の五カ年計画、ナチスの四ヵ年計画を参照にした方式である。シュペングラーの『西欧の没落』(1918)が話題をよび、文化圏を生命体になぞらえた説から、ヨーロッパ共同体(EC)設立の提案がなされた。大東亜共栄圏はこの構想に対応するものである。

 以上、要点書きのノートのような引用終り。近現代思想の活用法むづかしそう。ブックガイドとして利用しようと思っても、手に入らない本は多いだろうしね。


▼近代デジタルライブラリーでチェックしてみたい本をリンクしてます。


06 04
2014

右傾化再考

丸山真男の本ははじめて読んだ――『日本の思想』 丸山 真男

400412039X日本の思想 (岩波新書)
丸山 真男
岩波書店 1961-11-20

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 1961年に出版されて、2013年で97刷、108万部をこえた岩波新書のロングセラー本だね。

 わたしは現代思想とか社会学を中心にした読書をこのんできたので、政治とか民主主義といったことがらをあつかった丸山真男とほとんど接点がなかった。

 書き下ろし本ではなくて、雑誌に掲載されたものを集めたもので、この本が評価を永らえているのはこの本自体か、中のどれかの論文、講演なのか、よく知らない。

 レビューにもよくあるように論文調のⅠ、Ⅱはちょっと読みとりにくいところがあって、Ⅲ、Ⅳの講演はだいぶわかりやすい。

 やっぱりいちばん感銘をうけるのは、Ⅳの「「である」ことと「する」こと」だろうね。民主主義の警句はこんにちでも守られていない、はっとするものだった。

「自由は置き物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです」



 自由とか権利というのは行使や主張を日々おこなっていかないとなくなってゆくもの。労働法が守られていない現状はまさにこの間隙に落ちてしまったものではないのか。

「およそタブーによって民主主義を「護持」しようとするほどこっけいな倒錯はありません」



 反対意見や議論を自由に交わすことが民主主義であるのに、タブーによって封じられれば、おおよそ民主主義ではありえない。どうも議論政治というものが、ひらかれているようには思われない。

「民主主義とはもともと政治を特定身分の独占から広く市民にまで解放する運動として発達したものなのです」



 こんにちでは特定政治家や専門的な政治家が政治にかかわるべきだと思われていないか。おおよそ民主主義の根本がこの国では実施されていないように思われるのだが、いかがだろうか。

 この本ではⅠの「日本の思想」がいちばんの主題のように思われるのだが、強くは感銘をうけなかった。日本の思想は流行だけで論争が終わるとつぎにはまたゼロからはじまるといったことや、日本の中間勢力の弱さといったものがとくに目をひいたかな。とりたてて、目からうろこという箇所には出会わなかった。


忠誠と反逆―転形期日本の精神史的位相 (ちくま学芸文庫)〔新装版〕 現代政治の思想と行動丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)翻訳と日本の近代 (岩波新書)文明論之概略を読む 上 (岩波新書 黄版 325)

06 12
2014

右傾化再考

明治維新はどこで失敗したのか――『日本近代化の思想』 鹿野 政直

41UUD3wVU-L__SL500_AA300_131.jpg日本近代化の思想 (講談社学術文庫)
鹿野 政直
講談社 1986-07

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 幕末や明治維新は西洋近代化を切り開いたヒーローたちを輩出した正義の時代と思われているようだが、「ほんとうにそうなのか」といった疑問を思いうかべさせてくれる本。いい本。

 講談社学術文庫では絶版になっているようが、どこかで復刊されるべき、再考に値する本ではないのか。

 明治維新は「上から押し着せに与えられた民主主義」であって、「下からわきあがって勝ちとられた民主主義」ではない。ゆえに「民富民権」路線にならずに、「国富国権」路線になる。

 民衆が自治的に運営する国家ではなくて、中央集権化によって運営される強権的な国家になる。

 「生活本位・住民本位・はたらくもの本位・生命本位」といったものが主体となる国家をこの国が形成しているといえるだろうか。

 そういう意味で、「明治維新はどこから失敗したのか」と問う意味は大きい。著者の鹿野政直は「その可能性がいかに抑えこまれていったのか」といった視角でこの本を書いたようだ。自治や国民主体といった「民主路線」である。

 わたしの歴史知識の少なさや明治初年代あたりの言葉の読みとれなさなどで、この本を噛みくだけたとはとてもいえないのだが、この本にはもっと吸収すべきたいせつな知識がつまっているように思われた。

 似たような史観として、色川大吉をあげられると思うのだが、色川大吉の民衆史観はすこしイデオロギーかかった偏りが感じられたのだけど、鹿野政直のこの本にはあまりそれは感じられなかった。色川は民権運動を追いすぎて民衆をヒーローとしてもちあげすぎていたかもしれない。

 富国強兵路線は松方財政で決定され、農民の収奪をつうじて国家の蓄積の基本路線は決まったと著者はいっている。街には工場労働や日雇いで搾取される貧民窟が形成され、女工たちの稼いだ外貨は国富に蓄積され、それが軍事化の資金につぎこまれた。

 日露戦争時期において、国民担税能力の限界をほとんど無視したかたちでおこなわれた。「一等国」の」虚名に酔いしれ、大国化・軍事化がおこなわれる中で、国民たちの困窮や貧窮はその犠牲となりつづけた。富国強兵、一等国の栄光・名誉は国民に負担を強いつづけたのではないのか。

 集権化は近代化の効率をたすけたが、国家の圧倒的な優位をも保障したのである。

 「世直しいまだ成らず」の心情がこの本の基底にあって、幕末におこりかけていたそれがいかに抑えられていったのかと問うことがこの本の意図のように思われる。

 民権運動は西欧志向ゆえにめざめたのであったが、それゆえに多くの人たちの生活上の実感をとらえることができなかった。変革の内在的な契機をとらえ損なったのである。戦後のマルクス主義の変革をのぞんだ若者たちも、農地解放によろこぶ農民に改革を説いて支持を得られなかったという話と同じ例を明治に見ることができるかもしれない。

 教育も日本人の国家主義化・画一化をおしすすめるイデオロギーの役割をはたしたのであり、国民の自治・自立を抑圧する方向にみちびいたことも忘れてはならない。自発性にもとづく多様性はそこでは許容されない。

 司馬遼太郎、半藤一利などの歴史観によって、明治の志士たちは偉くて、大正・昭和の指導者たちはおかしくなって「奇胎の40年」を生み出したという説を信じる向きも多いのだが、これは戦後の経済復興をはたすさいに再興を正当化するための都合よいイデオロギーになってきた感がする。

 福沢諭吉はさいしょ朝鮮の人民自身の開花を期待していたが、つぎに顧問として介入することを考え、さいごには軍事力介入による変化の強制を思うようになっている。昭和ファシズムからおかしくなったとされる軍国化の路線は明治の福沢によってすでに構想されていたのではないのか。そもそも富国強兵、植民地主義は明治からの路線ではなかったのか。

 ちなみに福沢諭吉は民衆の一揆を無智文盲の民ほど憐れみべきものはなく、自分の無智で貧困におちいったのに富める人を怨み、徒党をくんで一揆を図り、恥を知らない連中だと非難している。福沢がどの立場に立っているかよくわかる言葉である。

 軍事大国化をめざす明治国家とはげしく対立した内村鑑三は、大国化が軍事階級に権力の不当な賦与をもたらしたのではないかとのべる。内村は日清戦争を義戦とたたえたゆえにそれが掠奪戦にすぎなかったことを悟ると、日本人の罪悪を助けた恥辱のうえに明治政府の弁護の任にいっさいあたるまいと誓った。

 わたしの知識のなかでは明治からの歴史・近代からの思想といったものはつぎはぎだらけで、正確な像をもてているとはとうていいえないし、それゆえにこの本の多くの知識をとりこぼさざるをえないのだけど、明治維新は民衆や自治といった下からの民主主義ではなかったという楔は強く残った。


日本の近代思想 (岩波新書)近代日本思想案内 (岩波文庫 (別冊14))近代国家を構想した思想家たち (岩波ジュニア新書)歴史のなかの個性たち―日本の近代を裂く (有斐閣選書)現代日本女性史―フェミニズムを軸として


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世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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