HOME   >>  書評 社会学
10 26
2015

書評 社会学

「貨幣」や「商品」のふり――『ファッションの文化社会学』 ジョアン・フィンケルシュタイン

4796702792ファッションの文化社会学
ジョアン フィンケルシュタイン Joanne Finkelstein
せりか書房 2007-09

by G-Tools


 ファッションとはなにか、ファッションはどう読むのかといった本はいがいに少ない。せいぜい鷲田清一の名前が思い浮かぶくらいだ。

 この本はヴェブレンやジンメル、バルト、ボードリヤールなどの社会学などを中心にファッション論を読みこんだ入門書、概括書となっているので、はじめてファッション論にふれる人には参考になる本だ。

 ヴェブレンは「ファッションは社会の中でのその人の地位を明らかにするシステム」であるといった。上流階級はそのファッションを模倣しようとする下層階級とみずからを区別するためにたえず新しいファッション、流行をつくりだしてゆかなければならない。これは「滴り理論」というものだね。

 現代日本では階級によって消費が異なるといった違いを明確にみとめられるわけではないので、ジンメルの議論により近づくと思う。

 ジンメルは流行を他人と異なる個性を見せたい願望と、ほかの人と同じ格好をして所属欲求を満足させる画一化の流れの緊張のなかで生まれるといった。これは現代でも人と違いたいという欲求と、同じ格好をして人と違い過ぎたくないという欲求として、われわれにも実感されることだね。

 だれも知らない都市の中ではわれわれは自己喪失や匿名性、画一性に埋没してしまう。そこで個性や違いをファッションにたくして自己表現や自己優越をこころみようとするのだ。これもまたわたしたちの実感に近いものではないだろうか。

 われわれは「社会的貨幣」のように社会の中でファッションという言語、記号をもちいて、社会での価値や意義を都市の中で示そうとするのだろうね。まるでわたしたちは貨幣の価値をまねて、価値ある貨幣であるかのようにファッションにそれをたくすのである。つまり、「お金になりたい」のである。

 流行やファッションというのはだれにでもわかるというものではない。わかる人だけがわかる記号体系であり、その暗黙かつ厳密なルールを知っている者だけが他人を排除したり、差異を誇示できるものである。ブルデューのいうような文化資本が必要というわけだ。

 ファッションはしばしば言語や記号だといわれるのだが、言語のように定義や概念がさだまっているわけではなく、多義的であり、メッセージも明確ではない。下層階級をバカにしたり区別するための上流階級の流行が中流階級にカッコいいものとして流行ったり、また上流階級を揶揄し、批判するための対抗文化は、中流階級や大量生産の流行の中にとりこまれてゆく。

 ファッションの言語・記号はあるときとある人たちだけに有効であり、時間と人とによってその意味も価値も変わってきて、やがて言語や記号の意味さえなくしてしまうのである。泡沫的・一部的な言語発生がファッションというものかもしれない。そしてそれを読む解く能力と技術も文化資本や情報力によって左右されてゆくのである。

 ファッションとは都市の中でわたしたちの貨幣的な価値や社会的な価値を見せたり、隠したり、それでもあらがいがたく社会のモノサシや価値の目で測られる指標となるものである。

 わたしたちは都市の中で、商品や貨幣の価値としてたえず目踏みされる社会に生きているのでしょうね。そしてわたしの幸福や安心、豊かな気持ちといったものもその指標や変動にゆだねられているのではないでしょうか。


▼巻末の参考文献から
有閑階級の理論 増補新訂版 (講談社学術文庫)モードの体系―その言語表現による記号学的分析衣服哲学 (岩波文庫 青 668-1)儀礼としての消費 財と消費の経済人類学 (講談社学術文庫)

性とスーツ―現代衣服が形づくられるまでキャリア・ウーマンの服装学 (1978年)衣服のアルケオロジー―服装からみた19世紀フランス社会の差異構造 (1985年)


ジンメル著作集〈7〉文化の哲学 (1976年)

衣服の記号論 アリソン・リュリー

09 17
2015

書評 社会学

かつてアメリカを憧れたように――『日本が好きすぎる中国人女子』 櫻井孝昌

日本が好きすぎる中国人女子 (PHP新書)
櫻井孝昌  
PHP研究所 (2013-09-24)



 みなさんも繁華街や観光地で中国人の多さを見たことがあると思うが、かれらの憧れの気もちはどのようなものかと思ったことはないだろうか。

 ことしの夏は中国人の爆買いをテレビはよく放送していたようだが、わたしも心斎橋が中国人ばかりに占領されているのを見て、中国人の日本への憧れのつよさを思い知った。

 ファッションのアフィリサイトを立ち上げたのだが、じつは中国人相手に売りたかった。中国語を勉強して、中国人向けのサイトをつくりたかった。どんなに中国人が日本に憧れているか、肌で知ったからだ。

 昭和に育った人なら、この感覚は知っているだろう。わたしたちはアメリカに憧れ、アメリカ人みたいになりたいと強く憧憬していた。その頃の感覚が中国にうつりかわり、その憧憬の対象が日本になったのだ。

 わたしはこういう図式で理解しているのだが、若いアメリカの憧憬を知らない世代がいるとしたら、こういうくりかえしのパターンが起こっているということを自分の身の上の体験として実感できにくいかもしれない。

 本書で韓流ドラマやK-POPで育った若い世代は、わたしたちがアメリカに憧れたように韓国に憧れるようになる、と恐ろしいことを書いている。わたしたちが文化的なキャッチアップ国だ、後進国だと思っている国がもう憧れの国になっているのである。世代の違いは恐ろしい。

 この書ではこんなに日本に憧れる女子がたくさんいるのにじっさいにもっているテレビやファッション製品は韓国製のものになっており、日本は最大のチャンスを逃しているのだとなんども連呼され、危機感が表明されている。

 日本はかつては製造国のキャッチアップの国であり、しだいに製品の品質が性能が世界でみとめられていったのだが、文化的にはまだまだ発信できる国ではなかった。日下公人が80年代につぎはソフトの発信国にならなければならないといっていたのだが、いつの間にか日本はそういう国になっていたのだ。

 でも日本のソフト発信は70年代からはじまっており、安い価格で買うことができる日本のアニメが世界で放送されることにより、影響力をじょじょに増していたようだ。アニメは子どものものだとか、幼稚なものだという前世代の価値観が、人々にあたえる影響の大きさを理解させなかったのだろうね。

 まあ人々は憧れの対象に関心と注視は向けるのだが、キャッチアップ国や後進国に目を向けたり、どんな状況なのか、気にすることはほとんどない。わたしたちがアメリカに憧れているころ、日本の文化がアメリカにカッコいいと認められたことはなかったし、日本の歌手が憧れの地アメリカに海外進出しても、ことごとく玉砕していたから、よくわかるのだけどね。

 この文化伝播のパターンがアメリカから日本へとひきつがれている。文化伝播のパターンはかなり図式的で理解しやすいものではないだろうか。この文化パターンをおおいに利用し、活用すべきだと思うのだが、本書の危機感にもあるように日本企業の進出熱や本気度は韓国に負けるようだ。

 後進国はほんとに興味ないんだよね。安い労働力として使うことには熱心だったのだが、消費の上客としての活用がいまいち盛り上がらないようだ。日本は製造国から文化的に憧れられる、文化的な発信国になったという自覚を強くもつ必要があり、それをしっかりと活用する時期になっている。後進国に関心がないためにこのような努力がおろそかになっている。

 アニメが世界じゅうで愛されていることは多くの人が周知していると思うが、中国では日本の女性ファッション誌が100万部の単位で売れるほど大人気であるということも忘れてはならない。ファッションで憧れられる国になるというのはそうとうのことである。おしゃれやカッコいいと思われる文化になることはなみたいていのものではない。

 中国では中国版の『ViVi』と『mina』が二大売れている派閥になっているようで、『ViVi』派は派手めなファッション、『mina』はそれよりおとなしめになるそうである。


  ViVi(ヴィヴィ) 2015年 10 月号 mina(ミーナ) 2015年 11 月号


 世界各国でも日本ほどおしゃれに自由な国はないと思われているようで、わたしたちが憧れたヨーロッパでも自分たちの街はおしゃでもないし、自由に服を着れない保守的な国と思っているようだ。こんな時代がくるとは思わなかった。

 そして本書で重要なことは、反日感情がさかんになったときでも、筆者は日本が好きで愛する女子やイベントがたくさん存在することを強調していることだ。テレビ報道を見る人は中国人は日本を嫌いなのだ、中国人の中には反日感情がうずまいているのだと思うのだろうが、日本を好きな女子、中国人はずっと健在だ。

 この理由はかんたんで、いっぱんの人たちはポップカルチャーが人生の中心なのであって、国家とか戦争、政治でアタマがいっぱいな人ばかりいるわけがないということだ。テレビや新聞は政治アタマで凝り固まっているのだろうが、一般人や庶民はそんな政治や国家でアタマがいっぱいになるわけがない。メディアの政治アタマはつくづくアホだと思う。

 本書の帯には竹田恒泰の推薦の帯がかかげられているのだが、世界でいちばん愛されているとかのナショナリズムで理解してほしくないと思う。これはナショナリズムのお国自慢の問題ではなくて、文化伝播と文化継承のくりかえされてきたパターンにしかすぎない。

 文化憧憬は「ミズモノ」であって、いま流行っていることも流行歌や芸能ネタのようにあっという間に忘れられ、飽きられる。ごく短いあいだだけの流行やトレンドにすぎない。わたしたちはいまもアメリカに憧れつづけているだろうか。アメリカの生活や文化にとことん憧れているだろうか。

 短いあいだのチャンス、長い歴史のなかで二度とめぐってはこない文化発信のチャンスを日本はいまつかんでいるということだ。

 「日本は日本にしかつくれないものをつくる国だ」と憧れられる国に思われるようになっているのである。



世界カワイイ革命 (PHP新書)日本が好き!本当は日本が大好きな中国人 (朝日新書)日本が大好きでたまらない中国人なぜ中国人は日本のトイレの虜になるのか? - 「ニッポン大好き」の秘密を解く (中公新書ラクレ)

08 25
2015

書評 社会学

女の利己心・自意識を嗤う――『モテたい理由』 赤坂真理



 女性のモテたい欲望、服や格好ばかりの自意識を、ファッション雑誌などの女性誌からあげつらって、斜め上からの視点であざ笑う本ということになるのかな。

 メディアを批判的に読み解くメディア・リテラシーの本である。

 女性の頭のなかにファッション雑誌しかないとしたら、そのような批判的、懐疑的な目が育つことはまずないだろう。商業誌的な視点しか持ちえないのは危機であり、悲劇であり、「喜劇」だと思う。煽られ、踊らされ、カネを使わされるだけの存在であったとしたら、悲劇をとおりこして「喜劇」である。

 バブル崩壊をとおりこして女性にもしっかりとメディアに踊らされるバカらしさは浸透したと思っていたのだが、たとえば雑誌のお仕着せのファッションをしないだとか、ブランド品ばかりまとうのはカッコ悪いとかね。でも2007年のこの赤坂真理の視点では、まだ雑誌に支配された世界は健在なのかもしれないなと思わせる。

 この本は女性の欲望を俯瞰して、まるハダカにして見せて、笑う本ということになるかな。欲望や自意識にかんして、そういう視点をもたないと商業的な欲望に操り、踊らされるだけの存在になってしまう。女の欲望を自身で笑う。

 そのような視点をもって職業的な欲望に踊らされるバカらしさを自覚できるようになるし、自身の無自覚な欲望を客観的にコントロールしたり抑えられるようになる。あまりひねくれすぎると情熱や人生の熱望もうしなってしまうのだが、手放しの欲望や利己主義だけでも商業に食い物にされるし、またまわりとの齟齬もきたしてしまうだろう。

 女性誌がゴルフ雑誌を出せば、男のフォームやスコアは二の次になり、ファッションや格好でどう注目されるかが中心になるし、女性誌がモテや愛され方をとりあげれば、どのような服やしぐさをすればモテるかばかりになる。どう見られるか、どう注目されるかの自分の視点ばかりになる。

 モテや愛されを追求して、ファッションや小技を開発してきたファッション雑誌はついに「男の狩り場」になってしまったのではないかと赤坂真理はいう。スペックや数を競う婚活はけっきょくは、「ヤリたい」だけの男性誌『Hot Dog Press』となんら変わりのない地点に達してしまったのではないか。

 自分が「どう気を引くか」や「他人にどう見られるか」ばかり気にして、女性誌は男性とどう対話するかということを語ってこなかったし、モテたいといいながら、男性への思いやりや共感のかけらもない。男性の好みや興味を考えたこともなく、同性の視線を意識したつばぜり合いばかりくりひろげる。

 女性誌はとことん利己的であり、自分のことしか考えてこなかったのではないか。そういった反省をうながしている本である。

 欲望というのは利己的なのだね。利他的な欲望をもつこともできると思うのだけど、お金の回るしくみは他者に利他的な奉仕をすることだと思うのだが、女性誌は他者を喜ばせる、他者に思いやりをもつという利他の精神をはぐくめなかったようだね。

 この精神をはぐくまないとお金もまた稼げないと思うし、また他者との関係もしあわせになるだろうか。他人から狩るだけの存在は、他人のメリットや利得を尊重しないので、ジリ貧になると思うのだが。それがお金の回り方というもの。

 この本は2007年に出ていて、芸能ネタのエビちゃんとか、『愛される理由』、ハンカチ王子などいささか古びた話題を語っている。芸能ネタは新書の長さには耐え得られないと思うのだけど、きょうびの新書は芸能雑誌なみのサイクルと生命でいいのか。


 赤坂真理はやはり文学者であって、社会学的な冷静さとか説明能力はすこし足りないように思えた。自分はわかっているけど、他人は知らないかもしれないという共通了解のしにくい文章に、わたし的にはいくどと出会った。

 最終章にはとうとつに戦後論や戦争論が出てきて、つながりはあるのか、のちの書『愛と暴力の戦後とその後』の伏線だったかわからないのだけど、これまで展開してきた女性論とどうつながるのだろうとべつの本に迷いこんだ気分で終わった。なんだったんだろう。戦争論や戦後論の文脈としては、興味はあるのだけどね。


愛と暴力の戦後とその後 (講談社現代新書)「モテ」の構造―若者は何をモテないと見ているのか (平凡社新書)電波男 (講談社文庫)結婚の条件 (朝日文庫 お 26-3)オリーブの罠 (講談社現代新書)

08 19
2015

書評 社会学

非モテ街道驀進――酒井順子『オリーブの罠』



 「オリーブの罠」というのは、男のためにモテるファッションではなくて、自分のために自分の好きな服を着るように誘導した『オリーブ』のせいで、「非モテ街道をつっ走てしまったではないか、どうしてくれる!」という感じである。

 『JJ』や『CanCam』のような赤文字系雑誌なら男のためのモテ服で飾っていたらいまごろ結婚できて、子供を産んで、「ちきしょう、オリーブめ」とおっしゃりたいのだろう。

 ただあまりメッセージ色の強い分析ではなくて、オリーブに連載を高校のときから抱えてた酒井のオリーブ愛読者としての回顧録といった風が近い。「なつかしいあの頃のオリーブについて盛り上がりましょう」といったライトエッセイである。もちろん強く影響をうけたオリーブという雑誌はなんだったのかという気持ちが強いのだろう。

 自分のためにファッションを着飾ることは、男のためのモテを志向せずにやがて非モテ街道を邁進してしまうのか、と女性ファッション雑誌のことをよく知らないわたしには、あらたな気づきを与えてくれた。

 オリーブ系のファッションとは、アニメオタクに似ているということになるのか。過酷で残酷な恋愛市場からの解放をもたらしてくれるし、逃避をはかれる。アジールであったといえる。

 しかしファッションに着飾るということはまったく外交的・社交的なことであり、自閉的なアニメオタクとベクトルはまったく逆だと思っていたのだが、ファッションで着飾ることでも、非モテ街道に通じるとは、わたしには気づかない視点だった。

 そしてファッションオタクになることは自分の価値をあたえてくれて、学歴社会からの闘争やアジールになる。ファッションという価値は学業成績というランクからも解放して、自分の価値を高める別の尺度もあたえてくれる。

 そういう意味で学校に露骨に反抗したヤンキーと同じ対抗文化のカルチャーをもっていたことになる。でも戦後の若者文化というのはとことん学校文化に反抗したものから生まれてきたということに気づかされる。アニメやファッション、ヤンキー、お笑いといったものは学校に反抗し、ランクや価値を勝手に決められる学校という権威からの離脱や逃走をもたらした。

 学校というのは、「一大怨恨産業」であり、世の若者の怨みを一心に背負い、だけど逆に創造的文化の母体となった皮肉なものである。ありがとう、学校文化。若者文化をつくってくれて、ということになるのだろうか。

 「オリーブ」は男のために着飾る赤文字系雑誌から距離をおいて、つまり男と結婚して家庭のしあわせに収まるという戦後の女性の生き方、または恋愛至上主義的な闘争からも距離をおく、第三の道をひらこうとした。恋愛至上主義から逃走をはかったという点では、アニメオタクと同じ心情をかかえていことになる。

 「オリーブ」は東京の付属系高校のカルチャーもとりあげていて、でもその中には結婚して家庭におさまる幸福感と、自分のためにファッションを着るといった、この本のテーマである男にモテか、非モテかの葛藤があったということだ。

 ファッションは生き方をあらわすものであり、思想もふくむものなのである。モテか、非モテで自分の道をつらぬくといったことは生き方の思想である。保守的な家庭志向か、自分のために生きる個人主義の生き方か。オリーブはそういった生き方のはざまを、自分のために生きる生き方を女性に教えた雑誌だったということになる。

 オリーブが休刊したのは2003年ということでその後、女性たちの生き方はぎゃくに家庭志向の強い保守的なものが勢力をぶりかえているということになるだろうか。だけどそのパイは少なく困難な道になり、モテの競争や闘争はよりいっそう激しく過酷なものになっているといった内情だろうか。

 いまはあのころのような憧れやめざすものが消滅してしまった、あのころはなつかしい~といった雑誌に「オリーブ」はなってしまったといえるだろうか。


オリーブ少女ライフku:nel (クウネル) 2015年 09月号 [雑誌]モテたい理由 (講談社現代新書)「モテ」の構造―若者は何をモテないと見ているのか (平凡社新書)ファッションの文化社会学

05 29
2014

書評 社会学

「上昇・東京志向」の終焉――『ヤンキー経済』 原田 曜平

ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体
幻冬舎 (2014-03-06)
売り上げランキング: 2,174


 はてな界隈でひとしきりふってわいたマイルドヤンキー論。「なんだ、ただの地元志向」ではないかと感じて、ネーミングのウソっぽさに不信感を思っていたのだけど、ふとブックオフで手にとってみるとおもしろかったので読んでみた。

 なにがおもしろかったというと、「東京上昇志向のアンチ、終り」を見せつけられたからだと思う。この「マイルドヤンキー」とくくられてしまった一群の人たちはとにかく「地元」から離れたがらない。

「だから、なんで(東京に)行かなきゃならないんですか? だって、僕、加古川の人間ですよ?」。「いや、だから僕、兵庫県の人間なんで、どうして大阪に行く必要があるんですか?」

 「東京・都市志向」がまったくない「地元族」の主張に笑ってしまった。選択肢とすら存在しない都市・中心主義。

 これは「東京上昇志向の終焉」といいたくなるのだけど、ぎゃくであって、むかしから存在していたけど、その東京・上昇志向がゆるくなってしまって、消費のターゲットとして地元族が浮上してきた、可視化されてきたということではないかと思う。

 ほんと大マスコミは「高学歴・都市志向」の人間ばかりとりあげてきて、あたかも「低学歴・地元志向」の人間は存在しないかのような放送をずっとくりかえしてきたからね。東京・上昇志向が弱まって、全国一律の消費市場が成立してしまったことにこの議論の浮上はあるのだと思う。

 このマイルドヤンキー論は、はてな界隈では「地方・ウチの田舎論」に収束したようにわたしには見えたのだけど、大マスコミの時代にはそれすらとりあげられなかった「地元感覚」というものが、個人も発信できるネットによって浮上しただけに思えた。

 このマイルドヤンキーと「名づけられてしまった」人たちは地元の小中学の友だちとつるむことをなによりも重要事項におく。だからこのマーケティングを志向した本において、こういう社交に重点をおいた消費販促をこころがけよと説く。

 だけどこの友だち志向は二十代だからこその行動であって、結婚や育児を境に遠ざかってゆくものではないかとわたしには感じられた。家族ぐるみの交際をいつまでもつづけてゆくものだろうか。

 こういう同調圧力にうんざりして地方や田舎を抜け出したいと思う人はたくさんいただろうし、田舎からの脱出願望が上昇志向の回路につながってきたのではないのか。地元族はその同調圧力をいつまでもこころよいものとして享受しつづけるのだろうか。

 ヤンキーと名づけられるにはもうムリだと思った若者たちの言葉がこの本にあげられている。「ルールは破りたくないっす」、「人に迷惑をかけたくないっす」、「警察に捕まるのは嫌っす」。これはヤンキーとくくるにはあまりにも反抗心が欠如しているだろう。「地元族」でしかない。

 この本は消費者をつかまえるためのマーケティング本なのであって、DQNな家庭環境とか下流とか非正規、地方や人生の停滞といったダークサイドの問題はほぼとりあげられていない。地元族は仲間との「無限ループ」の毎日を志向しているのだが、そこに問題はないのか、いつまでも継続できるものかという深みはないように思われた。

 このマイルドヤンキー論というのは、「上昇・東京志向」の終った地点で、これから社会はどこに向かうのかといった問いの題材に投げ出された材料なのだと思う。「下り坂」の社会において、次世代の人はどこに向かうのか。

 「無限ループ」や「終りなき日常」といった批判からではなく、それを享受し、いつまでもつづくことを願う地元族は、「停滞・下り坂日本」においてひとつのロールモデルとして提供されたわけだが、はたして多くの人はこの舵取りに満足するのだろうか。

 これはヤンキーすらでないと思ったのだけど、ヤンキーの終焉は「上昇志向圧力・強制」といったものが終焉をむかえたがゆえに反抗する敵を失ったがゆえの同じ面かもしれないと思える。ヤンキーというのは上昇志向に刃向かったロー志向主義・アンチ上昇志向をずっとめざしていたのかもね。

 「世界の頂点」をめざしたかった一群の人たちはこのローカルの地元志向の人たちをもう一度、世界競争に組み入れたいという野望をもつのだろうか。そしてそれは可能なのだろうか。


▼マイルドヤンキーのテーマ曲にふさわしい曲なんだそう。


▼郊外論とヤンキー論とつながったところに『ヤンキー経済』はあるのかもね。
地方にこもる若者たち 都会と田舎の間に出現した新しい社会 (朝日新書)さとり世代    盗んだバイクで走り出さない若者たち (角川oneテーマ21)「東京」に出る若者たち: 仕事・社会関係・地域間格差ファスト風土化する日本―郊外化とその病理 (新書y)まぼろしの郊外―成熟社会を生きる若者たちの行方 (朝日文庫)

02 22
2014

書評 社会学

スポーツに懐疑や疑問をもてているか――『スポーツとは何か』 玉木 正之

4061494546スポ-ツとは何か (講談社現代新書)
玉木 正之
講談社 1999-08-20

by G-Tools


 スポーツ・ジャーナリズムって選手の活躍や勝利をつたえるだけで批判や懐疑をもたないものと思っていたけど、そうでもないのだね。

 この本を読んで「あたりまえ」すぎるスポーツに疑問や異化の目をなんらもたなかったことを思い知らされたね。スポーツを「あたりまえではないもの」、「奇妙なもの」、「おかしなもの」、「なぜこんなものがあるのか」といった疑問や懐疑をもていないとスポーツになんら問うものをもてないし、言葉にすらできないだろう。

 メディアにもたまに出ている著者、玉木正之はいっている。

「報道・批評という活動は、元来、アウトサイダーでなければできないことである。…メディアが当事者になると、当然のことながらアウトサイダーではなくなる。そうなると、みずから主催するイベントやみずから所有する団体の批判ができなくなる。それどころか、みずから関わるイベントや団体の単なる宣伝媒体に堕落してしまう。さらに、社会と社会に暮らすひとびとの幸福よりも、メディアの事業の利益を優先することになりかねない」



 日本のプロスポーツ・イベントを主催しているのはたいていマスメディア。日本のお寒い状況を思い知らされるね。宣伝機関を批判する目をもてないとだれがメディアの批評の役割をもてるのか。メディアと企業がむすびつくと露骨に企業利益が優先されるのだが、批判的な目はだれがおしえつたえることができるのか。日本の消費状況とメディアの関係にもいえることだね。

 スポーツ用語があいうえお順にならんでいる構成なのだが、それは価値の優劣をしめさない事典的な並列方法なので、価値の優劣をあらわす順列を採用したほうがいいと思うのだが、内容のほうは文化的・社会批評的、歴史的なしっかりしたスポーツ批評に届いていると思う。

 明治に欧米からスポーツが流入していらい、日本ではスポーツは文化とは見られなかったという。

「身体を鍛えるための(強い兵士をつくるための)「手段――すなわち「体育」と見なされつづけたのである」

「日本では、長い間体育(身体教育としてのスポーツ)とスポーツが混同されつづけ、スポーツは、それ自体を楽しむ(そして人生を豊かにする)ものではなく、身体を鍛えて、その身体を他の目的に活用するためのもの、と考えられつづけた」



 富国強兵、軍国教育としてのスポーツ身体、もしくは工場・企業労働に適した身体のためのスポーツと捉えつづけられているのだろうね。ほんらいスポーツは、非実用的なそれ自身のために追求される「遊び」のはずなのである。

「議会制度が発達する以前の社会では、支配者(権力)の交代は、主として「暴力(戦争)」によって行われた。議会制度化とは、政治がいわばゲーム化したことを意味している。…この時代から生じたスポーツは、このゲーム化する政治的歴史を、身体に移してモデル化したものだった。つまり近代スポーツとは<イギリス地主階級の「議会制度化」の対応物>といえるのだ」



 近代スポーツはそのほとんどをイギリスの発祥といわれるのだが、審判も主審があらゆる判定をくだし、アメリカのスポーツでは複数性の審判がもちいられるのだが、イギリスでは絶対王権的な思考システムがスポーツによってひろめられたともいえるね。

 いっぽうではスポーツは近代社会の労働者の差別、機械化による人間疎外からの抵抗として身体を動かす行為がもとめられたという見方もできる。ラッダイト運動や工場のための土地強制収容にたいする農民の暴動などと連動する、機械化(人工化)にたいする「身体(自然)」をもちいた抵抗と見ることもできる。

 工場、企業労働の不満やうっくつがスポーツを通して国家の管理の下で放出の方法をみいだされ、それが他国への憎しみや対立というガス抜きへと導かれるのだろうね。安保時代の岸信介とか政府官僚はこういう考え方をしていたようだね。韓国や中国での反日教育のガス抜きと同じ構造だね。スポーツは労働の怒りなのか。

「オリンピックのスローガンでもある「より速く、より高く、より強く」という近代スポーツを象徴する言葉は、そのまま産業革命(と、その後の植民地獲得競争)のスローガンにほかならない」



 スポーツを健全で健康的なあたりまえのものとしてみる目線は甘すぎることに気づく。国家、ナショナリズム、権力、政治といったあらゆる力の関係でできあがった社会の産物である。われわれはそれをあまりにも「あたりまえ」のものとして受け入れ、「奇妙なもの」、「おかしなもの」、「異常なもの」という疑惑・批評をいっさいもてないでいる。

 つまりはメディア・リテラシーをもてずにいる、自文化、自権力の構造にあまりにも無自覚でいる「眠り」の状態にあるといえる。権力のパブロフの犬から自由になることが知識の効用である。



▼巻末にあげられている参考文献その他
スポーツと帝国―近代スポーツと文化帝国主義文明としてのスポーツ―ヒーローの心理学 (1978年)ナチ・オリンピック (1976年)スポーツと現代アメリカ (1981年) (Books’80)

アメリカスポーツの文化史―現代スポーツの底流近代スポーツの社会史―ブルジョア・スポーツの社会的・歴史的基礎 (1980年)空から女が降ってくる―スポーツ文化の誕生 (Image Collection精神史発掘)スポーツとエロス (叢書ラウルス)

権力装置としてのスポーツ―帝国日本の国家戦略 (講談社選書メチエ)帝国日本とスポーツスポーツと文明化〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)問題としてのスポーツ―サッカー・暴力・文明化 (りぶらりあ選書)


02 15
2014

書評 社会学

権力・ステレオタイプ・国民性のすりこみ――『メディアスポーツ解体』 森田 浩之

4140911484メディアスポーツ解体
―“見えない権力”をあぶり出す (NHKブックス)

森田 浩之
日本放送出版協会 2009-12

by G-Tools


 G.R.テイラーの『歴史におけるエロス』を読んで、「男らしさに向かう社会、女らしさに向かう社会」という区分に興味をもった。そして『日本の男はどこから来て、どこへ行くのか』という本を読んで、関口久志「体育・スポーツにみる「男らしさ」培養の歴史」によって、スポーツと国家権力に興味をもった。

 スポーツと国家権力の関係についてはまえにこの著者、森田浩之の『スポーツニュースは恐い』を読んでいて、この本の国民性のステレオタイプにずいぶん驚かされた。でもこのようなスポーツと国家権力の関係の本はあまり出ていないので、探究のつづきをできなかった。

 スポーツは健全なものと思われていて、国民性や他国との競争意識・好戦性をすりこまれているという恐れがあまりにも微弱なのか。ぎゃくにこのくらいのガス抜きは必要なのか。戦争やファシズムの警戒は怠らない国なのに、どうして日常にくりひろげられるスポーツ・ナショナリズムは警戒されないのか。せめてスポーツではなにが語れているか批判的に見るメディア・リテラシーの能力が必要だと思う。

 人間の成長って文化規範からも客観的になれて、自由になることだと思うのだが、すりこまれる文化規範にパブロフ反応しているだけではロボットや獣と変わらない。

 この本はもちろん『スポーツニュースは恐い』とおなじような内容が書かれている。およそ二年後に書かれているので、その深化版を期待していいのだろう。

 この本では「ジェンダー」と「神話・ステレオタイプ」の章がいちばん興味深かった。

「女性のスポーツの特徴は、なわとびや石蹴りなど、古くからある女の子の遊びに共通するものがある。…自分の成功が別の子の失敗につながることもほとんどない。女の子の遊びは「競争よりも協調」という女性の社会的行動に望まれる表れとみることもできる」



 女の子の遊びからして、女の子らしさの文化的コードが習得されてゆくのだね。

「男性は自分の成功と相手の失敗を、みずからの力と才能で獲得していると位置づけられていた。これに対して女性は、自分の力以外のものが成功に結びついたことにされがちだった。たとえば「運」「感情」「家族の支え」などである」



 こういう目でスポーツ報道をみてみると、そういう事例をたくさん目にすることになるのだろうね。こういう客観的な目で、スポーツ報道を見ること、気づくことができていただろうか。

「女性アスリートを矮小化するべつの手段が、プライベートな領域に追いやるというものだ。誰かの娘、誰かの妻、誰かの母としてアスリートを描く」



 たったひとりの力で勝利も成功もえられず、依存的な支え、関係があってはじめて女性は存在できるのだといつもいわれているかのようだ。


 人種のステレオタイプについてはジョン・ホバマンの『アメリカのスポーツと人種』を読みたくなったが、七年前に出てすでに絶版、アマゾンで万がつく高値になっている。廉価版として中公新書の『人種とスポーツ 』(川島浩平)が解説本として機能しているのか。

「黒人のスポーツに対する執着が生み出す最も破滅的な結果が「知的野心の拒否だ」だ。…学校の成績を『民族の誇り』につながるものとは考えなくなっている。…勉強を「白人っぽい」ことだと思うようになる。…黒人は身体能力における優越性を誇示することによって、知的な面では劣等者であるというレッテルをみずから貼ってしまう」



 これは学校に反抗して男らしさを強調して、下層階級・労働者階級にみずから再生産されてゆくイギリス労働者階級の青年の行動を分析した『ハマータウンの野郎ども』とまったく同じ構造だね。

 身体能力の優越性は知性の劣等性をひきだし、「文明と野蛮」「先進国と後進国」という序列と侮蔑のヒエラルキー図式が適用される。「身体能力は高い=知的には劣る」という図式によって、黒人は社会のヒエラルキーの底辺におしこまれてゆく。スポーツの黒人の優秀性はいたるところで見られるのだが、それがその対照としての「文明と知性の欠如」をあぶりだしていたとはね。

「代表チームは肉体をもった国家だ。人びとが代表チームのとるべきスタイルを議論するとき、彼らは往々にして国家がめざすべき姿を議論している」 サイモン・クーパー(ジャーナリスト)



 日本のチームのばあいは「組織力」や「団結力」が強いといったステレオタイプがいつももちだされてくるのだが、はたしてそれは実証されたり、検証されてきたのだろうか。

 ただ日本経済、日本企業のステレオタイプ、あってほしい理想、押しつけられる団体主義・集団主義にしかすぎないのではないのか。わたしたちはこのステレオタイプによって集団や会社の犠牲や下支えになる精神と規範をうえつけられているだけではないのか。


 スポーツメディアの権力言説の分析には目を啓かせてくれるのだが、おしいことに、なぜか類書の出版はひじょうにお寒い状況といわざるをえない。

 フーコーが狂気や監獄、性といった領域で国家権力の浸透や規律など詳細に分析しており、アルチュセールが「国家のイデオロギー装置」といった本を書いているのに、身近なスポーツの国家権力作用については詳細な分析、探究がおこなわれていないのはなぜなのだろう。

 国家権力というのはごく身近で、ありふれたものにおおくふくまれて、規律訓育やすりこみがおこなわれているのではないのか。身近なナショナリズムを推奨して、まったく警戒や批判能力がなければ、表で表明している大声明って横断幕の隠れ蓑といわざるをえないのではないのか。まあね、経済ナショナリズムの強力性があったのだから、なにをいわんかだけどね。


アメリカのスポーツと人種人種とスポーツ - 黒人は本当に「速く」「強い」のか (中公新書)現代メディアスポーツ論 (SEKAISHISO SEMINAR)スポーツの魅惑とメディアの誘惑―身体/国家のカルチュラル・スタディーズハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)


10 19
2013

書評 社会学

「なにかありそうだ、なにかありそうだ」――『移行期的混乱』 平川 克美

4480430253移行期的混乱: 経済成長神話の終わり (ちくま文庫)
平川 克美
筑摩書房 2013-01-09

by G-Tools


 停滞と閉塞感のただようげんざい、これからどこに向かうのか、なにをめざすのかといったことがまったく定まっていない。この本はそのようなことを問い直す一冊になるのだろうね。

 平川克美という人は出自がいまいちわからなかったのだけど、かつて内田樹と翻訳会社をやっていて、その関係とビジネス関係の知識から出てきた人のようだね。

 日本のいま立っている場所とこれからのゆくえというテーマはさいきん忘れていた。停滞とか閉塞感に慣れすぎたのかな。戦後の労働とか消費とかの歴史的回顧をしながら、その問いに答えようとしている本かな。

 あまりこの問いにのめりこめなかったためか、読後感はあいまい。「何かありそうだ、なにかありそうだ」という口調でずっとつづくのだが、なにも導かれなかったという残念な感がのこった。まあね、わたしのテーマに熱のこもっていない姿勢のせいもあるのだけどね。

 何点か書き残しておきたいこと。

 1973年は食費にあてていた家計が三割を切る分水嶺にあたっている。「食うために働く」時代はそこで終り、労働のエートスも変化し、人びとは生活を豊かに、楽しむために働くようになる。

 この分水嶺と断絶を理解していない昭和の人が多いらしくて、「働くことは人生」と思い込む人が制度設計をしていることが後続者に苦痛をもたらしつづけていると思う。もうね、労働が全人生をおおう、奪う時代は終らないといけないと思うのだけど、長時間労働はますます増えているという皮肉な逆説はなにを意味するのだろうね。「食うために働く」人生はもうテイクオフしたはずなんだけどね。

 86年に日下公人が『さらば! 貧乏経済学』といっているのだけどね、いまだに「生きることが労働」の縛りが席巻しているのは国のゆくえを誤るだけだと思うけどね。もうそういう経済的・文化的ポジションにいたら、世界の段階からスルーされるだけと思うんだけどね。

 宮本常一は東広島市で川岸の石工たちに日本人の労働エートスを見る。「誰にも見られず、誰にも褒められもしないかもしれないにもかかわらず「仕事」に打ち込むという職人の不合理なエートスにこそ心を奪われているのである」。わたしはこういう不合理な労働エートスはもう日本人の首をしめるだけで、幸福には寄与しないと思うのだけどね。

 人口減少や高齢化の危機が叫ばれるのだが、国民ひとりあたりのGDPのトップは人口50万人に満たないルクセンブルクであり、三位が人口500万人に満たないノルウェーであることは、人口減少からGDPを憂う必要はないということがわかる。――以上。

 日本のゆくえにかんしてだけど、日本は長時間労働の慣行を排して、生活や文化を楽しむスタイルに移行すべきで、成熟国家はその道しかないと思うのだけど、労働が人生の多くを奪うままの現体制では成熟国家の魅力を内外に知らせることなんてできないと思うのだけどね。

 もう享楽的国民にならないと後進国に魅力を発進できない際どい段階になっていると思うのだけど、「食うために働く」人が多いために日本は世界からスルーされてゆくのだろうね。「クールジャパン」を労働行政がつぶしていると思わないのかい?


経済成長という病 (講談社現代新書)経済成長神話の終わり 減成長と日本の希望 (講談社現代新書 2148)経済成長がすべてか?――デモクラシーが人文学を必要とする理由成熟ニッポン、もう経済成長はいらない それでも豊かになれる新しい生き方 (朝日新書)日本経済はなぜ衰退したのか: 再生への道を探る (平凡社新書)


05 18
2013

書評 社会学

承認と自由は対立するもの―『「認められたい」の正体』 山竹 伸二

4062880946「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)
山竹 伸二
講談社 2011-03-18

by G-Tools


 深い考察がたのしめる本であったと思う。著者は学術書系集者をへて、現象学とか竹田青嗣とかかわりのある活動をしてきたようだね。

 この本は身近な人間の承認が重要度を増しているといい、小集団の恣意的な価値観に承認をもとめる結果、まわりに迎合して「自由」をうしなってしまう「空虚な承認ゲーム」の時代を問題視している。

「小集団の価値観やルールは、それを批判するメタレベルの価値規準が存在しない現在の状況では、集団メンバーの合意やリーダー格の人間の判断によって、容易にルール変更が生じやすい。そのため、絶えずリーダー格の人間や他のメンバーの言動に留意し、それなりに調子を合わせる必要性が生じてくる」



 こういう小集団の承認をもとめる動きというのは、大衆社会論で危機感をもって語られてきた画一化の流れと重なる。オルテガ、フロム、J.S.ミル、ニーチェ、リースマン、リップマンといった人たちが語ってきた画一化・水平化する大衆の脅威という恐れ。

 まわりの人に承認されようとしたらみんな同じにならなければならないんだね。人と違っていたら受け入れられないし、排斥される。承認のために自由ってものすごく追いつめられていないか。

「「自由への欲望」と「承認への欲望」の間に葛藤が生じやすい。

(承認の欲望を満たすために)、ある程度まで自由な行動を抑制する。逆に、相手の批判や軽蔑を怖れず、自分が思ったとおりに行動するなど、他者の承認よりも自由への欲望を優先させる場合もある。

一般的に、承認に対する不安が強い人間ほど、他者に承認されるための過剰な努力、不必要なまでの配慮と自己抑制によって、自由を犠牲にしてしまいやすい」



 一時期アダルト・チルドレンという言葉が流行ったが、これは親から抑圧されているというより、自分の属する社会や集団によって抑圧されているといったほうが当っていると思ったのだが。こういう他人の配慮により自分を押し殺す性格類型から脱出しようとしたこころみに、中島義道の『カイン』では、逆噴射型の「超絶自己チュー人間」になるという方法が提示されたこともあった。

 身近な狭い人間の承認だけに釘づけられる解決策として、著者は「一般的他者の視点」の確立をすすめる。

「「一般的他者の視点」が十分に成熟していれば、多くの人々に自分の行為が「価値あり」と承認されるか否か、ある程度まで自分の力で判断することができるし、その分だけ周囲の人間の承認に依存しないですむ。「まわりの連中が何と言おうと、自分のやっていることは正しいはずだ」「自分が責められるいわれはない、ちゃんと見る人が見ればわかってくれる」」



 リースマンは『孤独な群集』のなかで伝統指向型、内部指向型、他人指向型とわけたのだが、げんざいは身近な他人に承認をもとめる他人指向型となっているのだが、「一般的他者の視点」は内部指向型に近いといえるかもしれない。小集団の価値感だけではなくて、一般的社会の価値観もしっかり内面にインプットされているわけね。身近な人の承認だけになれば、会社組織の犯罪に抗することもできなくなるし、一般的なルールが介入しない個人・小集団特有の偏ったヘンな価値観にそめあげられるだけになってしまうね。

「たとえば同じ職場で仕事の価値観を共有していても、ちょっとしたコミュニケーションの齟齬や行き違いで、たちまち緊張関係が生じ、仲間はずれ、揶揄、陰口、といった事態が生じてしまう。まして仲間や友だち関係のように、共有された価値観が最初から曖昧で流動的な場合、その都度の状況ごとに、相手が好む行為かどうか、仲間が共感してくれる行為かどうかが、仲間の承認を維持する上で重要になる。

こうしていま、個人が葛藤する対象は「社会」から「身近な人間」へと移っている。そのため、親や所属集団など、身近な人々の言動に対する同調や迎合を繰り返す人も増えているのだが、こうして状況が長く続けば、周囲に迎合している自分に嫌気がさし、「偽りの自分」を演じているように感じられ、自分が本当は何をしたいのか、あらためて問い直すことになる。

現代の「自分探し」は、こうした親や所属集団の抑圧から「本当の自分」を解放しようとする試みであり」



 友だちや仲間集団の承認というのはものすごく恣意的で、流動的なものだね。しかも局所的・偏向的な価値観にこりかたまっているものであり、一般的基準が入ってこない世界である。だからこそ小集団の承認というのは社会的な一般的な価値を志向するものにとってはものすごく居心地が悪いものだね。

 わたしもこの小集団の承認・迎合という距離感にすっかりこじれてしまったのだけどね。本を読むとか、ネットに書くというのは、そのような閉鎖的で偏向的な所属集団からの解放と脱出がこころみられているのだろうね。

「カール・ロジャーズは、「他者による評価は私の指針にはならない」という言葉を教訓に挙げているが、これは周囲の人々の評価(承認)ばかり気にして行動していれば、やがて素直な感情を押し殺し、「本当の自分」を見失ってしまう、ということを意味している。「本当の自分」が抑圧される原因は、周囲の人間の評価に対する過剰な自意識なのである」



 ショーペンハウアーは『幸福について』で名誉欲(承認欲)をさっさと引き下げるといっているのだが、そういう言葉による設定だけでもずいぶん承認欲を抑えることができるのだろうね。トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』も人の評判や承認に傷ついたり、気に病んだりする人のために、「神の承認」という設定をおけば気が休まるという方法論を提示しているのだと思う。神の信仰を便宜や方法と考えることだってできる。

「マズローは承認欲望を自己実現欲求より下位に位置づけているにすぎず、この問題にあまり踏み込んでいない。ユングやロジャーズにおいては、自己実現を周囲の視線から「本当の自分」を解放することと捉えており、他者の承認に固執することは他者に同調した「偽りの自分」を演じることになる、むしろ自己実現から遠ざかってしまう、と考えられている」



 自己実現欲求はさっさと承認欲を駆逐していたのね。人の承認欲や名誉欲というのはひじょうに強いと思うのだが、マズロー、ユング、ロジャーズにおいては、その問題は軽くのりこえられていたのだろうか。


 承認というのは人間の大きな問題だと思うのだが、いがいに学術的にはとりあげられることが少ない問題だとわたしの範囲をみて思っている。

 この本では承認は「偽りの自己」を演じさせたり、「ほんとうの自分」を抑圧するものだといった問題を中心にとりあつかわれている。社会学の問題と思ったら、心理学の問題だったのね。

 いま多くの人が半径三メートルの狭い承認に「犬のように釘づけられている」(リップマン)状態だと思う。自覚的に問題すら感じず、周囲の同調だけをくり返している人も多いのかもしれない。「自由からの逃走」は半径三メートルでおこっているのかもしれないね。


▼参考文献
カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ (新潮文庫)孤独な群衆 上 (始まりの本)幸福について―人生論 (新潮文庫)キリストにならいて (岩波文庫)もうひとつの愛を哲学する ―ステイタスの不安―

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)自由からの逃走 新版自由論 (光文社古典新訳文庫)善悪の彼岸 (光文社古典新訳文庫)

01 22
2013

書評 社会学

比較とか他者の目から逃れよ?―『「上から目線」の構造』 榎本 博明

4532261392「上から目線」の構造 (日経プレミアシリーズ)
榎本 博明
日本経済新聞出版社 2011-10-12

by G-Tools


 なにをいいたかった本なのか。とちゅうから日本的自己論の話になっていって煙に巻かれて、最後には要点をつかめなかった。

 「上から目線」になる人は「上か下か」や「勝ち負け」のような人との比較にこだわるから、そこから抜け出して自分との比較に視点をうつす「理想的自己」をめざすようになれば、「上か下か」とか「見下される不安」を抱かなくなるといっているのか。

 「理想的自己」と「現実の自己」のギャップを癒すことがカウンセリングの目的だというカウンセリングの立役者のロジャースのような人もいるんだけどな。

 この本は上司の指導にも「上から目線ですね」と反発する若者や、フリーターのように職場を転々として「自分はこんなところにいる人間じゃない」とか「いまは仮の姿」という上から目線の若者はなぜ生まれるのかといった問いを立てている。

 そのような人は「上か下か」とか「勝ち負け」などの人との比較や序列だけで人を見ている。上から目線でアドバイスされると自分が「下」に感じられ、「見下される」不安をいだく。そんな「見下された」現実の自分を見るのがいやで、上から目線に反発を感じたり、みずから虚勢を張って「上から目線」にならないと自信のなさを露呈してしまうヒミツが暴かれている。

 でもね、その上から目線な人の虚勢が暴かれたとしても、横暴で尊大な人の対処法って導かれるのでしょうかね。上からや優位から見下しつづける人の内面の秘密を知ったところで、その人の行動が変わるわけでもない。こういう理論的な本は、ハウ・トゥや自己啓発のような対処法がわからないから、理論を知る意味ってなんだろうと思ったりするね。

 この本はとちゅうから上から目線の話からはずれて、ずっと「空気読み社会」とか「他人の目線に敏感な日本人」といった日本的自己論になってゆく。上から目線の話がどうしてそういう話になるのかと思っていたが、「他人の目に映ったものが自己である」というクーリーの「鏡像自己」や、他者のかかわりのなかでしか自分を出せない日本的自己といったものから、比較や序列に過剰に敏感になる「上から目線」の若者が生まれるのだといっているのか。日本の宿痾だといいたいのか。

 比較や序列を気にしない方法は、仏教や隠遁者が「脱俗」や「脱世間」といった方法で追求していないわけでもない。仏教は世間から「落ちこぼれること」により、最底辺に下落することにより、世間の序列から抜け出すという方法を教えさとしてきた。こういう方法をつかめといっているのだろうか。

 ショーペンハウアーは他者に評価される空しいあがきに蝕まれるより、認められようとする認知欲をできるかぎり引き下げろといっているし、キリスト教のトマス・ア・ケンピスは人にどうこういわれることが気になるのだったら、神の評価だけを気にしろといっている。まあね、人との比較や序列から抜け出す方策はいろいろと考えられてきたわけだ。

 榎本博明という人はいぜんに「自己とは物語である」「自己とはフィクションである」といったいい本を出していた(『私の心理学的探求』 有斐閣)。わたしはそれによってグルジェフの「自我は空想の産物」というメッセージの意味がよく理解できるようになったのだが、自己が物語ならいくらでも書き替えが可能であり、変えることも可能だということができると思う。

 性格や人格というのはしぜんに形成されるものというより、考え方や自己の物語によって演技づけられた、方向づけられたものだということができるのではないか。それなら自己は固定したものではなく、考えや物語を変えれば自己は変えられるということではないのか。「フィクション」だものね。

 上から目線の人は他者からの評価だけが自分になってしまっているという日本的自己から端を発しているというのが著者の問題意識なのだろうか。そういう日本的自己から抜け出そうというのが本書のメッセージなのだろうか。

 こういう「物語」は書き替えたいね。その前に自己が捉われている「日本的自己」の物語の意識化・言語化というものが必要で、でもその無意識の自覚化がむづかしいんだね。


「上から目線」の扱い方 (アスコムBOOKS)「上から目線」の時代 (講談社現代新書)敬語で解く日本の平等・不平等 (講談社現代新書)「私」の心理学的探求―物語としての自己の視点から (有斐閣選書)グルジェフとクリシュナムルティ―エソテリック心理学入門

google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top