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11 05
2004

書評 社会学

『お金に「正しさ」はあるのか』 仲正 昌樹


お金に「正しさ」はあるのか
仲正 昌樹

お金に「正しさ」はあるのか

 貨幣についての本というのは魅力的な問いかけがないとなかなかおもしろくならない。貨幣はあまりにも身近にありすぎて、問いかけの必要性があまり感じられなくなってしまうからだ。つまり謎や疑問を長く維持させる問いがほしいわけだ。

 この本はそういう意味では深い興味を示させる問いかけはあまり感じられなかったといえると思う。ただ、ファウストやドラキュラ、村上春樹の『海辺のカフカ』などを分析の対象にしたあたりはおもしろい。ドラキュラが貨幣の支配欲の象徴とも読めるという指摘はなるほどと思った。

 いちばん印象に残った言葉は、世の中にはさまざまな価値観があるが、貨幣というのはその均衡を保つための有効な尺度を提供するメディアであるということである。均一化、画一化できる尺度が貨幣によって生まれたわけだ。

 だが、はたして人と人の価値観が同じ尺度で測れることなどあるのだろうか。自分の価値観を見つけたら人の価値観などにまどわされたくないものだ。つまり「売れる」「高い」「金をたくさんもっている」だけで、ものごとの判断なぞしたくないものである。他人の価値尺度と関係のないところで自分の価値基準を生きたいと私は思う。


「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 「みんな」のバカ! 無責任になる構造 日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界 なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論 ポスト・モダンの左旋回
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11 06
2004

書評 社会学

『物語消滅論』 大塚 英志


4047041793物語消滅論―キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」
大塚 英志
角川書店 2004-10

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 80年代後半にイデオロギーが氷解したあと、物語の因果律が社会を支配するようになったという指摘はたいへんに興味魅かれるところだが、この大塚英志という著者はあまり社会学的な視線ではないのか、なぜか私の好みから外れる。

 あまりにも自分や自分の思考に執着しすぎるというか、これをおたくの特質というのか、自分ひとりだけの穴を掘って満足している気がして、私には意味が了解できないところがたびたび出てきて、言葉についてゆく気をなくすのである。

 「物語消費」やグインサーガのような虚構の物語に埋没する時代を指摘した点にはたいへん興味を魅かれるのだが、この人の探索の仕方、文章の追及の仕方がどうも私の肌に合わないみたいである。

 こういうこともあるが、「大きな物語」の終焉のあとの時代を描こうとした本は、ほかに読んだ記憶でも、ずいぶんと不透明な印象しかのこさないようである。


11 08
2004

書評 社会学

『都市は他人の秘密を消費する』 藤竹 暁


408720264X都市は他人の秘密を消費する
藤竹 暁
集英社 2004-10

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 ほう、そうか、都市が探偵小説を必要とするようになるのかと感心した本である。都会人は探偵的・推理的人間にならざるを得なくなるのである。

 都市が発達するとおおぜいの人が流入してきて匿名性が増し、知らない人だらけになる。そういう密集地では探偵のように人のことを見分けたり、瞬時に推理したり、判断して行動しなければならなくなる。だから探偵小説や推理小説は流行するというのである。

 ニュースやワイドショーの発達もそうである。他人の秘密を読み、行動を読み解くことで、自分の行動も律しなければならない。こうしてうわさ話やゴシップは都会人の必要な情報となるというのである。

 都市はどんどん大きくなる。そして隣の人も街行く人も知らない人ばかりになる。われわれはどう考え、どう行動し、どう世間を渡っていけばいいのかわからなくなる。探偵小説や推理小説、ニュースやワイドショーはそういった不安をやわらげる役割を果たすというわけだ。

 私は推理小説とかほとんど興味がないのだが、社会学はたいそう好きである。やはりこの都会の中でどう生き、行動すればよいかわからないからだろう。

私は読書ばかりしていて、たまに自分が行動するより観察ばかりしていると思うときがある。人生の当事者であることからあまりにも逃避しすぎているきらいがなきにしもあらずだ。探索はあくまでも手段であることを忘れないようにしよう。


11 28
2004

書評 社会学

『ファスト風土化する日本』 三浦 展


4896918479ファスト風土化する日本―郊外化とその病理
三浦 展
洋泉社 2004-09

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 いまや地方のほうが消費バカ天国になったと指摘する本である。そしてジャスコのある地域にはなぜか犯罪の多発を見出している。

 地方のロードサイドには大ショッピングセンターやファーストフード、ファミレスなとが並ぶ、どこにでもある画一的な風景がひろがっている。もはやのどかでのんびりとした田舎の風景は幻想でしかなく、固有の地域性がうしなわれた画一化したロードサイド・ショップがならぶばかりである。

 この三十年間は大都市の中流社会を地方に実現しようとめざしてきて、完成したのが、地方の画一的な風景であり、消費の天国であり、そして地域性の崩壊である。もはや地方は消費にしか楽しみを見出せず、退廃の兆しは激しいのかもしれない。

 地方は総郊外化したわけなのだが、郊外が病理的なのは人の働く姿が見えず、消費と私有の世界しかないことだ。郊外というのはまったくぞっとするところだ。人の働く姿がまったくなく、理路整然とマイホームや道路は区画されているのだが、人の生き生きとしているところやなまなましさがまったく払拭されており、生き物としては死んだ町も同然である。そんなところで子どもが育ってゆくと、目標や希望、労働観がまったくはぐくまれない。

 生業の風景は住宅地にとりもどされる必要がある。住宅地だけを隔離して分離したところで子どもが育つと、大人の働き、生産するすがたがまったく見えず、実社会の現実の姿とまったく切り離されてしまい、消費とメディアしか知らない、労働という大人に一番必要な活動を知らずに育つことになってしまう。消費することのみで育ってきた子どもが将来生産の場で役に立つことができるのだろうか。郊外の隔離はまったく病理を含んでいるといわざるをえない。

 郊外というのは消費と享楽の場であって、子どもはとうぜんの延長として将来はフリーターやニートとして育ってゆくのである。いや、そうなるよう育てられたとしかいいようがない。


01 26
2005

書評 社会学

『自由という服従』 数土 直紀


4334032869自由という服従
数土 直紀
光文社 2005-01-14

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 タイトルにインパクトがあるのだが、つまらなかった。

 ゲーム理論だとかサッカー選手だとか、OLなんて題材は自由や権力という不穏なものにあいふさわしくないし、もっと抽象的で思索を積み重ねるような随想のようなかたちのほうがおもしろかったのではないかと思う。

 自由が服従に転嫁するさまを恐ろしく描かれていたらもうすこし魅力的な本になったのだと思うが。

 さいごの建築労働者が一人前と認められるまでの話だけはおもしろかった。新しい職場で仕事を教えてもらえない雰囲気のところってけっこうあると思うが、それは「見込みのある人間」を選抜するシステムなのだという。

 だれもが基本的な仕事をマスターするよう教育すると、のちに見込みのあるなしが判断できなくなる。だから新参者には仕事が教えられないという。私もこういう職場で仕事をきちんと教えたほうがメリットがあるのにと思っていたのだが、この本を読んではじめてその理由を知った。集団に受け入れられることは残酷な過程を含んでいるものである。


02 09
2005

書評 社会学

『マンガと「戦争」』 夏目 房之介


4061493841マンガと「戦争」
夏目 房之介
講談社 1997-12

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 マンガの一シーンをのせた解説本はかなり好きである。そのヒトコマが栄える。印象に刻まれる。またマンガの読み方もわかって、マンガを読まなくなった私にもメッセージを知ることができて、かなりおトクな気がする。

 私の好きなマンガ解説本は藤本由香里『私の居場所はどこにあるの?』や宮台真司ほかの『サブカルチャー神話解体』などである。でもなかなか良著にめぐりあわないのが残念である。

 手塚治虫や水木しげる、滝田ゆうなどまでは戦後体験は濃厚である。しかしそれ以降の『ゴルゴ13』や『デビルマン』、『アキラ』、『風の谷ナウシカ』などにはほぼその体験は払拭されている。もはや日本の戦争など語っていないのだ。

 『気分はもう戦争』のように「気分」で密航船にのりこみ、「あ…れ…?」と撃たれるくらいのリアリティでしかない。TVのニュース映像か、ゲームのリアリティとしか感じられない。そこまで戦争体験は遠くなっているのである。

 『僕らはみんな生きている』ではTVリポーターやキャスターの「正義」をまとった人たちが、悪者にされる日本の商社マンとなんら変わらないと風刺されていて、小気味よさを感じた。

 水木しげるの戦記マンガは戦争の死を劇的なものではなく、偶然なものとして描く。ふつうの人たちが病気や輸送船の撃沈などでふいに転んだように死ぬ。『総員』の主人公もだれにも見とられることなく、忘れられて死んでゆくのだなあとつぶやく。そこには英雄主義も犠牲行動の賛美もない。

 夏目房之介という人はふだんマンガは時代を映すという反映論を批判して表現論をおこなっているようたが、やっぱり反映論でないとおもしろくないんだな。たしかに作品と時代にはなんの関係もないといえる部分もあると思うが、生理的気分があらわれるマンガには時代の変化を読んでほしいんだな。


03 05
2005

書評 社会学

『模倣される日本』 浜野 保樹


4396110022模倣される日本―映画、アニメから料理、ファッションまで
浜野 保樹
祥伝社 2005-02

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 日本のアニメが世界中で受け入れられているのはだれでも知っていることだろう。だけどその影響や浸透のあり方が日本の私たちにはまったく実感できないのである。現地の人のように感じ、捉えることがまったくできないのである。

 だからこういう本を読む必要があるわけだ。ただなにか目新しいことを知るというよりか、確認のために読んだという感が強い。

 こういう本は日本人が書いたものより、ちょくせつ影響をうけた現地の人が書いたものを何カ国も集めた本のほうが適しているのではないかと思う。それも活字よりテレビや映像のほうが適しているかも。

 この本の目玉はハリウッド映画も日本アニメを模倣するようなったということだろうか。でも知っている人はすでに知っているだろう。黒澤明の影響力もあらためて確認させてもらったが、べつに目新しいことではないしね。

 「模倣する」「模倣される」というタイトルにインパクトがあったかもしれない。われわれはここまで来たのかという感をもたらした。模倣の折り返し点にわれわれは来たのだろうか。

 この本の後半部分では模倣する日本の西欧コンプレックスや屈辱的な日本否定や日本嫌いの歴史がのべられていて、自文化をまったく恥のように破壊してきた日本の近代化の歴史に後悔や嘆きを感じさせるものだった。しかしどちらの気もちもわかるものだから、極端に振れるべきではないというしかないだろう。

 さて、日本は<経済大国>から<文化大国>へと転換を計れるだろうか。経済大国への目標はもうなくしてしまったのだから文化大国への転換はおおいにもとめられるところだ。

 でもね、日本のオヤジって時間をなくして仕事だけに邁進することを理想としてきたから、かれらがこれから文化大国の主になれるわけがない。かれらはあまりにも時間抹殺の労働機械なのであり、監獄と思わない労働の檻から抜け出すのは不可能に思える。遊びや文化から仕事が生まれるということは、労働主義者には禁断の考えなのである。

 「貿易は映画に続く」をアメリカ政府はスローガンとしたが、日本も「貿易はアニメに続く」とするべきだろう。

 そしていちばん大事なことは文化とは時間と暇が必要なことである。時間がなければ、裾野の広い文化大国はぜったいに生まれない。時間を労働だけにあてるようなげんざいの経済大国化時間表では確実にムリである。フリーターがのぞむような自由な時間のある社会が、文化大国の基礎に必要なのである。


03 06
2005

書評 社会学

『嗤う日本の「ナショナリズム」』 北田 暁大


4140910240嗤う日本の「ナショナリズム」
北田 暁大
日本放送出版協会 2005-02

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 もっとやさしい言葉を使えよと思った。「アイロニー」だとか「シニシズム」だとかそれだけで意味がわからなくなったし、言い回しはもって回ったように難渋だし、広告とかテレビとかネットなど身近な話題をとりあげているのに理解しにくいもどかしさが多く目立った。学術雑誌にのせているのではないから、一般の読者にわかるように書けよと思った。

 内容は広告とかメディア論とか、テレビ論、ネット論など興味惹かれるものが多くあった。メディアに向かう態度のようなものを描いているわけなのだろうか。理解があやふやだから個別的なトピックには興味を魅かれたが、全体的なもの、テーマの目的がよくつかめていません。

 連合赤軍の反省ばっかりする態度から、糸井重里の「抵抗としての無反省」、田中康夫の抵抗が抜け落ちた「無反省」、つながることが自己目的化した社会への変遷が描かれているようである。

 なんだか反省のありようが消費社会においてどのように移り変わってきたかを主題にしているわけだろうか。たしかに60年代の怒れる若者からそれ以降の従順な消費バカの若者にはずいぶん落差を感じたものだが、その説明をしているのだろうか。

 個別的なトピックとしては、消費バカの80年代に10代を送った私には連合赤軍は興味をもてない、糸井重里が過激派だったとは知らなかった、『元気が出るテレビ』からテレビの裏側を見せる番組がはじまったことは覚えておきたい、2ちゃんねんはつながることが自己目的化しているからメディア批判は話のネタにすぎない、近頃もりあがったナショナリズムもそういうことではないのか、等々ひとつひとつのトピックはかなり興味の魅かれるものだった。

 でも使う言葉が難しいから深く理解したいと思う気にならない本だな。個別の題材はもっと追究したい、知りたいと思わせるものは多くあったのだけど、なにぶん基礎用語がわからない私が悪いのか、著者の排他的態度が悪いのか。まあ、メディア論、ネット論としてはたいへん興味を魅かれる題材をあつかっている。

 著者は71年生まれでもうこの世代がたくさん本を出しているのだと思うと、67年生まれの私のなにも生み出してこなかった日々が少々後悔の念を刺激されるのである。


04 24
2005

書評 社会学

『人生相談「ニッポン人の悩み」』 池田 知加


4334032966人生相談「ニッポン人の悩み」 幸せはどこにある?
池田 知加
光文社 2005-03-17

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 かなりおもしろい。悩み相談の変遷のなかに見事に日本社会のありようを浮き彫りにすることに成功している。悩み相談は日本社会の鏡でもある。

 人生相談のなかに私も自分と同じ境遇を見出したり、状況を解説するキーワードを発見したりしたものである。ただ回答者の価値観の押しつけはよく反発したものだが。

 この本ではおもに女性の家庭や離婚の悩み、男性の仕事観の変遷、学校の意味の変化などがとりあげられていて、その移り変わりの鮮明さにたいそう感心した。主婦の忍耐から離婚をすすめる価値観への変化、余暇志向と求職難の時代のフリーターやニートの状況、そして人間完成のために学校に行くという考え方から勉強がよい将来に結びつくとは考えられない現在への変遷など、人生相談が現代社会学の教科書のようになっている。

 個人のナマの悩みの声だからこそ、社会の変遷はリアルさをともなって読者の心に響いてくる。悩み相談とは優れた社会学書になるものである。こういうところに目をつけた著者の目は鋭いと思う。著者の卒業した桃山学院大学の社会学部は私も行きたいと思ったのだが、不本意ながらほかの経済学部を選んでしまい、自分の好きなことを見つけるのが遅くなってしまった。

 この本でいちばん驚いたデータは「一生懸命勉強すれば、将来よい暮らしができるか」という質問で(2002年)、父親母親ともの七割が「そう思わない」と答えていることである。こりゃあ、学校が早晩終わってしまうと予感させるデータである。本当の勉強とはいえないと思っている親も六、七割に達しているのである。

 「日本の将来は明るいか」という質問では高三の七割が「そう思わない」と答えているが、奇妙なことに「幸せか」と聞かれると九割が「幸せ」だと答えているのである。身近な友だちとその日を楽しく過ごせればいいと思っている若者には、日本の閉塞状況や将来設計はもはや視野の外にあるのである。見事に江戸時代のその日暮らしの庶民に戻ってしまったようだ。

 この本は悩み相談とデータにより見事に日本社会の変遷やありようを垣間見せくれる本である。そして悩み相談のなかに自分の現在の境遇や将来の悩みを見ることになるだろう。われわれはここから自分の人生を考えることもできるのである。

 そして人生モデルや規範がなくなった現在、自分で選択して決断しなければならないと回答者に迫られるようになり、解決も責任も自分にゆだねられるようになった。大きなものに頼れる時代の郷愁を捨てなければならないのである。


09 10
2005

書評 社会学

『オレ様化する子どもたち』 諏訪 哲二


4121501713オレ様化する子どもたち
諏訪 哲二
中央公論新社 2005-03

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 かなり問題に感じる本であった。教師にとって、八十年代なかばに理解できない他者としての生徒があらわれたそうだ。そのような変貌を著者は農業社会から産業社会、消費社会への変化にみる。

 子どもたちはすでに消費主体として教師に「等価交換」をもとめるようになったという。中年の経験ある教師にたいして対等であろうとする、その自信と強さはいったいどこから来ているのであろうかと、著者は驚いている。

 教師は権威が否定され、いうならばコンビニの店員やどこかの営業社員のようにみなされるようになったのだろう。80年代に学校にいっていた私としてはこの気持ちがよくわかる。サービスを買ってもらっているお客なのにどうして偉そうにされなければならないのか、そういう反抗の論理をひねりだしたものである。

 この社会は経済の利害だけでものを考える社会になっている。商品交換の発想が人の関係にまでおきかえられる。公共性がたちあがるまえに、バラバラのむきだしの経済主体としての「個」が登場してきたのである。

 80年代の校内暴力は成績の悪い生徒たちの扱いに対する教師へのお返しであったというのはなるほどだと思った。ただし、そのころの中学生はなにごとかをいったのだが、それをうまく言葉にできなかった。教師の権威が消失し、等価交換がもとめられる時代のはじまりを告げていたのである。

 そして新しい子どもたちは全能感をもったまま、社会化されず、「オレ様」化されている。自分は自分にとって「特別」であるが、他人にとってはそうでないということを理解しない。主観を叩かれた経験がない。外からの評価を異常なほどに恐れている。

 著者は学校という現場から生徒のこのような変化を報告するのだが、私も生徒側としての気もちがよくわかったし、その変化の意味にかなり問題を感じた。消費社会においてつくられたであろう全能感や評価を恐れる気もちを私もかなりもっている。これは子どもの変化というより社会の変化である。私も職業への侮蔑感に現実に着地できない全能感の不満を感じてきたものである。

 生徒に等価交換がもとめられる学校は共同体のルールを教え込むことができるのだろうか。あるいは徹底的に顧客の主体性にまかせたら小学校はどうなるのだろう。経済利害だけの世の中で共同体というものはどうなってゆくのだろう。いろいろな問題を感じた著作である。ただ家庭でのオレ様化が問題になっていないなあ。


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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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