FC2ブログ

HOME   >>  書評 社会学
12 23
2018

書評 社会学

超おすすめ――『反逆の神話』 ヒース+ポター

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか
ジョセフ・ヒース + アンドルー・ポター
エヌティティ出版 (2014-09-24)


 反権力や反権威、アナーキスト、左翼系の思想の人にはとくに、自己反省の意味で超おすすめします。

 私もカウンターカルチャーの時代に憧れて、いまの社会はどうしてこうおとなしくなり、反抗精神がなくなったのかと、ブラック企業の横暴にたいして思っていたから、反権力やアナーキーな思想にはとくに魅かれてきた。だけど、反逆や反抗がいっこうに効果をもたらすことはなく、しまいには反逆や反抗は「ファッション消費」でしかないのではないかと思うようになっていた。(「ケルアックはたんなる「ライフスタイル消費」なのか」)

 この本では見事にそのナゾを解いている。反大衆や反順応、反画一化がめざすものは、たえず差異化や優越化を志向して、けっきょくはそれは人と違う消費主義へと呑みこまれてゆくのだという逆説を、見事にあぶりだしている。反逆こそが、消費主義の原動力なのだ。

 「あんな従順で画一的なやつらにはなりたくない」という反抗心は、かれらと違う消費やライフスタイルをめざす原動力になる。大衆や画一から逃れよう逃れようとすれば、人とは違った消費スタイルを選ばざるをえなく、それこそ流行や流行り廃りをもたらす根底になるものだ。だから反抗がいっこうに世の中を変えず、ひたすら労働に呑みこまれる消費社会をつくってしまうのだ。

 ポール・ウィルスは似たようなことをいったのだが、学校社会への反抗がかれらを学歴落ちこぼれに追いこみ、だから労働者階級の固定化がおこってしまうのだといった。ポール・ウィルスは反逆に、下流化の固定をみたのだが、この本の著者のヒース+ポターは、差異化の消費主義の原動力をみた。私はこの著者の指摘のほうがよりしっくりくるのだが、カウンターカルチャーは下流化をもたらしたのか、それとも金持ち消費の上昇をもたらしたのか、どちらなのだろう?

 反逆は、抑圧の少ない異文化をもとめて、エキゾチシズムに希望をみいだす方向に流れがちで、観光や精神世界において東洋や禅が西洋に流入した理由もそこにあると著者はいう。ルソー以来の「自然の楽園」は外国にみいだされることになり、順応や画一にはなびかないオレたちはほかのやつらと違うといって、外国に優越をみいだす戦略がずっとくりひろげられることになる。医療においても代替医療や東洋医療がもとめられ、「わたしたちはやつらと違う」運動はたえずくりひろげられて、体制医療との軋轢をもたらす。

 ちょっとこの本は早口で論理が飛んだ文脈をまくしたてるのか、よくわからなくなるところもあるのだが、人間は優越や卓越をたえず競争する存在なのだと軸をしっかりとつかむべき本なのだろう。そのヒエラルキー競争こそが、終わりなき消費主義をもたらす。わたしたちはだれかの生き方やあり方を批判し、やつらのようになりたくはないといって、オルタナティブな消費をずっとくりかえすことになる。カウンターカルチャーはそうやってずっと消費の差異化の原動力になってきたのではないのか。

 あなたがなにをやろうが、自己の優越化の競争にとりこまれてしまい、消費運動のひとつの奔流として呑みこまれる宿命なのである。あんなやつらにはなりたくない、ダサい、カッコ悪い、下層だという批判が、消費や優越化の競争の発火装置になってしまうのである。あなたはなにをやっても、呑みこまれる。他人と違おうとすることが、消費社会の原動力にほかならないのだから。そうして流行や新しい技術の開発はつづいてゆく。人間たるわれわれの限界を見るようだ。

 大衆社会批判こそが、消費主義の原動力となってきたのである。下層や落ちこぼれを恐れる気持ちも、もちろん消費主義の競争に呑みこまれる原動力となってゆく。人には負けたくない、人より勝ちたい、世の中の役に立ちたいという自我の欲求は、この社会の消費システムと分かちがたくドッキングしている。そういった原初的な欲求を抜き去って、われわれは消費主義をやめることができるのだろうか。みんなが悟って、比較や競争をしなくなるような人間社会が到来することは、とうてい望めそうもない。

 この本を読み終えてできることはせいぜい、人と違おうとすることこそが消費主義をもたらすという逆説にたいしての繊細な反省をたえず思い返すくらいなのだろう。反逆や反抗がなにをもたらすのか、そのくりかえしの反省を忘れないでいることくらいしかできない。なにをやっても、優越化や地位の競争を、人間は避け得ることはできないのだ。

 あと、反抗やアナーキーの先に抑圧なき社会がたとえ訪れようとしようと、ルールや規範なき社会は、人間には可能なのかという反省を忘れてはならない気にさせられた。反抗的な人間は破壊や撤廃だけをのぞむが、そのあとに秩序ある人間社会は可能なのか。自由をもとめて女性はかえって守られるべき紐帯を打ち壊したという逆説も指摘されているが、自由はほかのなにかから守られない弱さもむき出しにしてしまうかもしれないのである。多数者や権力者に順応することは人間のなにを守ってきたのか、こちらの評価も忘れてはならない気にもさせられた。

 ある意味、保守主義的な批判や反省にもつながってくるのだが、この本は左翼への批判とも活用される本なのでしょうね。左翼の欠点や自己反省の書である。もっと類書は出てないかな。


資本主義が嫌いな人のための経済学ルールに従う―社会科学の規範理論序説 (叢書《制度を考える》)ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)ブランドなんか、いらないヒップ アメリカにおけるかっこよさの系譜学 (P‐Vine BOOKs)


11 16
2018

書評 社会学

社会学は名著の宝庫だ――『社会学の名著30 』 竹内 洋



 むかしは新書による名著シリーズは中公新書から出ていた。私は『60冊の書物による現代社会論』や『社会学の名著』、『世界の名著』などから読みたい本を見つけて、読み漁っていた。入門書や教科書のような本がきらいで、ガイドブックのような本から当たりをつけるほうがよほど私には合っていた。

 ちくま新書から同じようなシリーズが出たときはどんな本を選んでいるのかと気になってはいたが、読まずじまいだった。このたびは図書館を使うようになって、ちょっと心にひっかかっていた本書を読みほどくことができた。

 この本のなかの名著で読んでいるのは半分くらいだが、読んでいる本はますますすばらしく感じられた。ただ読んでいない本は、何冊かは除いては、あまり読みたくはならないほうだった。

 すばらしいと感じたのは、『監獄の誕生』、『大衆の反逆』、『孤独な群衆』、『メディア論』、『消費社会の神話と構造』、『ディスタンクシオン』、『行為と演技』、『ハマータウンの野郎ども』、『脱学校の社会』などであった。社会の見方をがらりと変えたそれらの本は、解説文だけ読んでもすばらしい。

 著者の竹内洋は、近代の学歴エリートや立身出世の内容にこだわった人で社会学全般の紹介に適しているのかとは思ったけど、杞憂だった。ただ一般的な話で、紹介を導入してくれるのだが、なんかあまり共感がわかなかったな。あまりメジャーでないお世話になった先生を紹介するのも、すこしいただけない。

 私はこういう名著のガイドブックによって、その世界をひろげることができた。中公新書に、講談社現代新書では現代思想の紹介書の力にもあずからせてもらった。教科書や入門書より、よほど興味をかきたててくれるし、なにを読むべきかの自分の羅針盤をチェックすることができる。

 いま私がこのような本を手にとったのは、名著シリーズにどんなラインナップが追加されたのかということだったのかもしれない。いままでこだわっていたテーマを手放して、しばらくは興味の鉱脈を見つけるまで放牧だ。



現代社会学の名著 (中公新書)60冊の書物による現代社会論―五つの思想の系譜 (中公新書)現代思想の名著30 (ちくま新書 1259)心理学の名著30 (ちくま新書)


01 25
2017

書評 社会学

80年代の問題意識――『お金と愛情の間』 ナタリー・J. ソコロフ

158458.jpgお金と愛情の間―マルクス主義フェミニズムの展開
ナタリー・J. ソコロフ
勁草書房 1987-12

size="-2">by G-Tools


 タイトルはエッセイ風のやわらかいものだが、内容はサブタイトルのほうがふさわしいおカタくて専門的なもので、読みとるのにだいぶ苦労するレベルの本である。

 87年の古い本だが、お金が払われている関係とお金が払われない関係のあいだの転換点に興味があるわたしは思わずダメもとで注文したが、内容にかなった書物ではなかったようだ。

 お金はどうも「自発的なもの」には自分で払い、「強制的なサービス」にかんしては賃金をもらうという関係があるようである。だから好きで結婚するなら女性は家事を無償でおこなう役割になるし、おなじように好きな趣味で働くなら低賃金でもかまわないだろうとなるし、やりがいがあったり、技能実習生のように教える関係があったなら、賃金が消滅する方向にはたらく。

 自発的になることはお金を払う側にたまらなく近づくことであり、もらう側から払う側へと切り替わる瞬間に近づくことである。労働者としてお金を必要とする者にとっては、気をつけなければらない転換点であり、好きなことを仕事にしたいというさっこんの思いは、なにをもたらすのだろう。

 本書はさいしょ、地位達成の理論や二重労働市場の理論が検討されており、ここがとっつきにくい。現実を分析する一次的資料はわかりやすいのだが、それを検討する二次的資料はややこしいものになるのだという関係ない気づきを得た。教科書のような本のことね。

 初期マルクス主義フェミニズムと後期マルクス主義フェミニズムも検討されるのだが、女性はなぜ低賃金で男性支配の家父長制や資本主義に閉じ込められているのか、家事は無償なのかといった説が検討されてゆく。

 女性は男性にくらべて劣位におかれている、搾取されているとなんどもいうのだが、男も権力によって賃金奴隷の労働に搾取されているのであって、男性も権力に牛耳られているという苦しみが配慮されていないのが残念に思えた。

 内容の検討については深い興味をひきつけられたわけではないし、手にあまる内容なのでひかえるが、この書物はのこってゆくことになるのだろうか。

 さっこんは若者の恋愛離れや非婚化によって、この本が出たバブル以降に勃興したマスコミによる恋愛至上主義が終焉しようとしている状況になっている。

 女性が低賃金で働かされ、家事を無償でひきうける性別分業は、恋愛至上主義というあだ花を咲かせ、おたがい高負担コストによる恋愛結婚からの逃走や回避をもたらしたようで、あらためてこの偏った性別分業の負担や重荷について、検討しなければならない時期にいたったのだと思う。

 無償家事労働論は70年代に花咲いたようだが、それから三十年、男女は性別分業の役割の重さに耐えきれなくなっている。わたしたちはこの歪みある性別関係において、どのような関係を築いていったらいいのか、もう一度問われているのではないだろうか。



性の政治学母親業の再生産―性差別の心理・社会的基盤母性という神話 (ちくま学芸文庫)性の弁証法―女性解放革命の場合 (1972年)家事労働に賃金を―フェミニズムの新たな展望

01 17
2017

書評 社会学

産業社会で無能力化する個人――『シャドウ・ワーク』 イヴァン・イリイチ

4006031386シャドウ・ワーク
―生活のあり方を問う
(岩波現代文庫)

I. イリイチ Ivan Illich
岩波書店 2006-09-15

by G-Tools


 もっと女性の無償家事労働について語っていると思ったが、ちがった。イリイチが問いつづけたことは産業化における個人の無能力化であったと思うが、産業機構を歴史的に跡づけるような本であった。

 この本は81年に書かれ、日本では82年に翻訳されているが、もっとフェミニズム的な女性のシャドウワークについて語る本だと思っていたが、そういう問いはイリイチのつぎの本『ジェンダー』においてもっと問われていたのだろうか。

 わたしとしては疑問に感じることは、子どもの再生産は国家や社会にとって必要なはずなのに男女の夫婦だけにコストを背負わされ、しかも女性だけが賃金の発生しない家事育児の無償労働になぜ押しこめられてきたのか、あたりの疑問をもったのだが、この本ではそういうことがわかるような本ではない。

 商品経済や貨幣経済がさまざまな領域に入り込んだのに、なぜ夫婦間の家事育児だけは貨幣交換が入り込まなかったのだろうか。男女間の性愛関係は、たとえば恋愛小説や映画、ポルノやアダルト・ビデオによって商品代替されてきたのだが、子どもの再生産だけはなぜ商品・貨幣化されなかったのだろう。それが晩婚化や少子化の原因でもあるのではないか。

 産業や商業は家事や家庭にこもることの魅力をつたえず、キャリアや消費の魅力をつたえ、家事や再生産の魅力をつたえないばかりか、排斥のほうへすすんできたのではないのか。貨幣商業経済が、子どもの再生産を排除する方向へ追いやることに作用してきたのではないのか。

 男が稼ぎ、女が家事をする役割分担は、男にどこまでも賃金労働することを強制し、女性に賃金の支払われない無償労働を強い、ともに極端な男女負担から両性が逃れたがっている。その高コストの性分担をいまこそ問わなければならないのではないのか。

 恋愛至上主義の終焉や若者の恋愛離れ、晩婚化、少子化が危機の目をもって迎え入れられる現在、再生産が貨幣の入り込まれない無償労働と女性に追いやられてきた要因から、探り出すべきではないのか。少子化というのは再生産コストの捉えなおしを要求しているのではないだろうか。

 この本ではネブリハというコロンブスと同じ時代を生き、スペイン女王に文法や母語の統制によって普遍教育を提言した人物が詳細に語られ、いったいなんの本かととまどうところもあったのだが、イリイチの根強い自立と自存にたいする産業のとりこみ・戦争への執念が感じられる本になっている。

 消費は特権ではなく堕落的な仕事ではないのか、学校は学ぶためではなく愚鈍化のためではないのか、消費は苦労ばかりが増え、安らぎが減っているのではないか。産業や商業に依存すればするほど、お客として消費を楽しめば楽しむほど、個人で自分ひとりで生きてゆくこと、やり抜く能力が奪われてゆくのではないか、イリイチの危機感は一貫している。

「専業主婦の創出は、前例のない性的アパルトヘイトの証しである」とイリイチはいう。お客さんとして無能力化されてゆく危機をこんにちの人は強く意識しているだろうか。

 このお客の立場におかれ、自分一人でやり抜く力の剥奪は、『脱学校の社会』でも語られていて、教育がいかに自分で学んでゆく力を殺してゆくかが身に染みてわかるようになっている。テレビのクイズ番組に喜んでいる人たちは、こういう危機感をまったくもったことがない人たちなのだろう。

 ドラマの『逃げ恥』の無償家事労働の問題提起によって、すぐにこのイリイチの『シャドウ・ワーク』を思い出し、古本屋でも見かけることのなくなったこの書物を手にとったわけだが、そういう問題にかんしてはいまいち適さない書物であった。


脱学校の社会 (現代社会科学叢書)ジェンダー―女と男の世界 (岩波現代選書 (95))家事労働に賃金を―フェミニズムの新たな展望家事労働と資本主義 (〈特装版〉岩波現代選書)


01 12
2017

書評 社会学

少子化、長時間労働の根底にあるもの――『家事労働ハラスメント』 竹信 三恵子

4004314496家事労働ハラスメント――生きづらさの根にあるもの (岩波新書)
竹信 三恵子
岩波書店 2013-10-19

by G-Tools


 『逃げ恥』の「家事労働はなぜ無償なのか」という問いは、70年代にフェミニズム界で議論されたむかしの課題であって、その後どうなったのかという疑問のほうが大きかったのだが、この本では現在の課題のほうがおもにさぐられている。

 女性の家事育児労働が無償なのは、男性の長時間労働問題とも重なっており、女性が家庭に入ると賃金を得られない無職になるから男性は家庭の全収入を稼がざるを得ず、男性が長時間労働にはまってゆく構造とセットである。

 妻が外に働きに出ようとすると夫は家族のために必死にがんばってきた努力を無にされたように憤る場合もある。しかし妻が働くことのおいしさを実感したある男性は、そんながんばりがばかばかしくなり、積極的に家事をするようになった。妻は育児の孤独さを解消でき、夫は強制労働の苦しさから抜け出せたのである。

 男性の家事をすべて妻にまかせられて仕事だけの生活に役割特化した結果、男性の過労死があとをたたなくなったとしたら、このゆがみを訂正し、男性も家事ができる女性的な働き方が標準になるべきなのである。

 非婚化と少子化というのは、結婚育児コストや大黒柱の稼ぎ方にコストがかかりすぎるのを男女ともども忌避してきた結果だとしたら、働き方改革は少子化対策であり、また家事育児は女性の無償労働にコストを押しつけるのではなく、公共や社会自体が担わなければならないコストだと認識される必要がある。

 女性は夫に養われるから賃金が安くてもよいというパート労働の穴は、男性若年者のアルバイトというかたちにも広がってゆき、男性が家族を養えなくてますます少子化促進としての要因になってきたが、このスパイラルから抜け出すには、女性労働が標準になるような働き方の改革がますます急務だと思われる。

 大手電機メーカーに勤める妊婦が朝から深夜二時まで残業をさせられ、また妊婦だから早く帰っていいよと先輩たちにすすめられるような働かせ方が、男女ともどもに課せられている状況は異常である。

 「カネが入る仕事」の過酷化がおこり、雇用失望を生んだ社会はカネ離れ、モノ離れをおこし、カネに依存しない生き方を模索する若者たちも生むようになる。

 妻の家事労働が無償になるのなら、自営業の女性の賃金労働も無償にされてきた例もあると思うのだが、いまでは農家に「家族経営協定」が結ばれ、労働の量化によって賃金がちゃんと支払われる例も増えてきたそうだ。

 著者はシンガポールで働いていたそうだが、この国では移民家事労働者が命綱だそうだ。周辺国との経済力の違いから安価な移民労働者を雇える。フィリピンやインドネシア、スリランカなどからだ。

 しかし家事労働は密室の労働であり、しばしばメイド虐待やパワハラが報道されるそうである。とはいっても著者が家事使用人に好待遇をあたえるとほかの使用人も同等の権利を要求し、雇い主の負担が高まる恐れもあり、著者は「使用者ギルド」の縛りを守るように忠告されたりもする。人を雇うということは加害者にもなることなのである。

 女性の無償家事労働は、そのために男性の長時間労働が可能になり、また低賃金労働を可能にしてきた役割分化の落とし穴である。企業や資本主義が女性の家事を無償にできた結果、男性の企業戦士化は可能になり、企業や社会は子どもの再生産というコストを支払わずに産業活動に邁進できた。

 しかしそれが落とし穴となって、少子化や人口激減などの社会の存続すら危ぶまれる危機を迎えるにあたって、女性家事労働は社会全体がコストを担わなければならない問題として浮上してくる。

 男性の奴隷労働は女性の無償労働によって成り立ってきたのであり、男性も無関係ではない。セットであり、わかちがたく結びついている。この機能が社会存続の危機さえ迎える事態にいまつき当たっている。この社会のキツさの根底をあらためて問題視すべきなのだと思う。



結婚と家族のこれから 共働き社会の限界 (光文社新書)仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書)「育休世代」のジレンマ 女性活用はなぜ失敗するのか? (光文社新書)働く女子の運命 ((文春新書))なぜ女性は仕事を辞めるのか: 5155人の軌跡から読み解く (青弓社ライブラリー)


01 04
2017

書評 社会学

『逃げ恥』の無償家事労働に興味をもった方に――『家父長制と資本制』 上野 千鶴子

4006002165家父長制と資本制
―マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫)

上野 千鶴子
岩波書店 2009-05-15

by G-Tools


 『逃げるは恥だが役に立つ』という大人気ドラマは「家事労働はなぜ無償なのか」という問いをつきつけたのだが、ずいぶん古い議論のはずだという記憶だけあった。そういう議論はイリイチの『シャドウ・ワーク』でいわれれており、日本ではすでに82年に翻訳されている本である。

 ということで無償家事労働問題の議論はどうなったかと探る意味でこの本を手にとったのだが、だいたいはこの本でまとめられていると考えてもよいようだ。にしても『逃げ恥』の大人気によってフェミニズムの文献にブームがおこるようにならないことが、マンガ文化圏の限界のように思う。

 田嶋陽子は三十年やってきたことがぜんぜん伝わっていなかったと憤ったそうだが、マンガ文化の興隆はもう哲学議論への回路を遮蔽してしまったのだろうか。

 日本では60年代初めに家事労働論争がおこり、英米、伊でも70年代に大きな論争になったそうだ。が、「家事労働に賃金を!」といった非現実的な要求は80年代に自然消滅したそうである。

 80年代にはすでに家事家電の省力化によって軽減が大きくなっていたし、パートとして働きに出ることも多くなり、社会に出ることは家庭と仕事の二重の自己実現どころか、二重の負担でしかないことに気づいたからだろうか。男のカネと権力をほしがれば、女性の無償奴隷と男の貨幣奴隷の二重苦役を背負うことである。

 この本では理論編と分析編の二部にわかれており、前編で議論の全容、後編でM字曲線などの一般的な社会情勢がのべられる。バブルが崩壊してデフレ時代になる前の90年に出た本である。

 資本主義は家事・育児労働の再生産コストを拒否して、女性と家庭だけに押しつけてきたということだが、企業はいずれ労働力となる子どもの育成コスト、教育コストをなぜ私的領域のコストだけに押しこめることに成功してきたのだろうか。イリイチは教育も労働者になるための労働に他ならないとしてシャドウワークだといったそうだが、卓見である。

 女性にとって蟻地獄であったような無償家事労働によって社会に働きに出てもパートのような低賃金労働に差し置かれるような働き方は、やがて若者や男性のような一家の稼ぎ手も非正規で働かせる蟻地獄に呑みこまれてゆく。

 再生産コストを拒否しつづけたエポックに男女ともども呑みこまれてゆくような形勢をこんにち迎えているわけだ。フェミニズムが問いかけた問題は女性の権利獲得の問題だけではなく、再生産コストをいっさい負担しない資本主義に男女ともども呑みこまれる壮大な落とし穴ではなかったのか。少子化というのは、再生産コストが個人が負担するには重すぎるコストの帰結ではないのか。

 少子化の現在、育児・結婚コストは個人や私的領域だけに閉じ込められるコストでありうるか。企業は人間の再生産コストから逃れて、繁殖増大する後進国へ逃れて、あるいは女性・家庭に押しつけてまぬがれてきたわけだが、この日本という少子化が高度にすすむ日本で存続は可能なのだろうか。

 『逃げ恥』というドラマのおかげで思わず過去のフェミニズム議論に興味をもったわけだが、ドラマの有償の家事労働が愛の成立とどうじに無償労働に転嫁するさまは、まさに自発と強制の貨幣の発生をも垣間見せるわけで、疑問が芋づる式に連なって、もっと古いフェミニズム議論につっこみたくなった。

 しかし『逃げ恥』ドラマのヒットが世間でフェミニズムの眠りを覚ましたという声は聞かない。


ダラ・コスタの古本が一万超え。
家事労働に賃金を―フェミニズムの新たな展望シャドウ・ワーク―生活のあり方を問う (岩波現代文庫)愛の労働家事労働と資本主義 (〈特装版〉岩波現代選書)逃げるは恥だが役に立つ(1) (Kissコミックス)


12 09
2016

書評 社会学

国が健康をいいだしたら――『大日本「健康」帝国』 林 信吾 葛岡 智恭

4582854818大日本「健康」帝国
―あなたの身体は誰のものか (平凡社新書)

林 信吾 葛岡 智恭
平凡社 2009-08

by G-Tools


 国が健康推進のキャンペーンを張りだしたらいかに危険かを説くために、現在と戦時中の施策をならべて見せた著作である。

 メタボ検診という言葉はもう聞かなくなったが、健康ブームというのがあったり、嫌煙権が世をおおっていたり、福祉にあずかる人を憎むという流れはいまもつづいていると思う。これはもともと厚労省や国がいいだした健康キャンペーンに端を発するのではないだろうか。

 国が国民の健康をいいだしたのは、もともと医療費削減のもくろみがある。増大する一方の医療費を削減するために、国民への健康予防の意識を高める施策やキャンペーンがつぎつぎと打たれる。

 国が健康を心配してくれるのだからありがたいではすまなくて、それは同時に健康でない人や福祉にあずかる人たちへの風当たりが強くなることが問題なのである。高齢者や障害者を白い目で見る風潮を生み出してしまう。国が音頭をとるものは、そうでない人たちへの排斥へと目が向かうことが危険なのである。

 厚生省というのは、もともと戦時下に兵役検査に合格するものが半数ほどにしかならなかったために、国民の健康状態を兵役に適するために生まれたものである。国民を兵士にするための省だったのである。

 特定検診では血圧の基準が最高で130、最低で85とされているが、事前調査で八、九割の人が引っかかるというデータもある。

 嫌煙権がずいぶん主張されているが、厚労省が数値目標のキャンペーンを掲げてはじまったものである。1965年には男性の82%が喫煙者だったのだが、この世代の高齢者はいまも長生きしており、これは「ジャパニーズ・パラドックス」とよばれている。

 旗を振っている厚労省や国の背景や意図を知っておかなければならない。

 WHOの声もよくひきあいに出されるが、98年には劣生種の排除を目的とした産児制限政策をとった政治家も就任したことがある。健康を推進することは命の次元に抵触することになり、とおくには優生思想の影がしのびこみやすいのである。

 医療費、福祉費削減の流れには、だれかの命を軽んじる、排斥するという裏面も生じやすいひじょうにデリケートな領域である。健康という言葉がうかびあがらせる背面には、そうでない人への批判や排斥の気運も同時につれてくる。

 国が健康をいいだしたら、命の価値はおとしめられてゆく、といった警戒をもたなければならないのかもしれない。大げさではなくて、国の優等生や先取りしたがる人はたくさんいるようで、恐ろしいことなのである。


健康帝国ナチス (草思社文庫)健康ブームを読み解く (青弓社ライブラリー)健康の社会史―養生、衛生から健康増進へ優生学と人間社会 (講談社現代新書)相模原事件とヘイトクライム (岩波ブックレット)

11 18
2016

書評 社会学

身体はだれのもの?――『「健康」の日本史』 北沢 一利

4582850685「健康」の日本史 (平凡社新書)
北沢 一利
平凡社 2000-12

by G-Tools


 問題意識が醸成されないままに先走りすぎて読んでも、実のなるものを得られない。健康をもっとおぞましきもの、恐ろしきものという認識でもないと、健康の誕生をとりあげた本は、なかなか深く追求しようという気にもならない。

 これは学校の勉強でもいえて、興味や問題意識のないものに関して記憶序列を競われるのだから、知識は味気のないゴムのように疎遠になって結果的に読書からも学問からも遠ざかる。それで知能序列を決められるのだから、学校は学問嫌いの製造所となるわけだ。

 この本では西洋の「健康」概念が輸入されて、それまでの江戸時代の「身」意識とどう違うのか、どのような要請からその概念がとりいれられていったのか、違いを鋭く峻別する目で精査されてゆく。

 だけど、わたしにはまだ問題意識が強く醸成されていなかったので、先走りすぎた本になってしまった。

「不健康は国に対してすまないし、社会的にも不道徳である。愛国心のない人であるといっても差し支えないと思う。自分の健康に注意して、絶対病気にかからないようにするのが国家社会に対しての義務である」



 ラジオ体操導入にさいしてこのように発言する人がいたのだが、国家に必要な健康、国家に必要な身体としての要請があらわれてくると、たちまち危険なフェーズに突入する。

 身体は、「だれのものか」。

 この身体が自分のものから、国家や社会のものになると自他未分化がおこり、どこまでも要請や強制が侵犯する関係がたちあがり、危険な領域に入ってゆくと思う。身体や命は自分のものではなく、国家や社会のもの。そのような認識がたちあがったとき、身体の外部強制性は、個人の意思や尊重をいともかんたんになぎ倒してゆく。その危険な領域を、健康概念は宿しているのだと思う。

 西洋式砲術が入ってきたとき、個人の誇りを大事にしてきた武士は、個人をなくし、集団の規律が大事な砲術的な体操をうけいれることができなかった。集団で同調する砲術や体操は、町人や農民のほうが適していた。そのために徴兵制において集団秩序を教える体操は適していたということである。

 近代は「身体」概念が輸入されるわけだが、それに先立つ江戸時代の「身」概念では、「気」をめぐらせたり、「気」を減らさないことが大事であった。だから散歩や労働は、苦痛や苦労以外のなにものでもなかった。「身体」概念は外から内から負担をかけることによって、筋肉や身体が鍛えられてゆくという考えをもっていた。そのような心身意識の違いがこの本で説かれている。

 身体が「国家のもの」とされたときの危機意識をもっと醸成しないと、響いてこない本かもしれない。戦争と国家の関連付けにおいて、健康概念は意味をなすのかもしれない。



健康帝国ナチス (草思社文庫)大日本「健康」帝国―あなたの身体は誰のものか (平凡社新書)健康ブームを読み解く (青弓社ライブラリー)健康ブームを問う (岩波新書)健康の社会史―養生、衛生から健康増進へ

11 09
2016

書評 社会学

健康義務化はこわい――『健康不安社会を生きる』 飯島 裕一

4004312116健康不安社会を生きる (岩波新書)
飯島 裕一
岩波書店 2009-10-21

by G-Tools


 相模原障害者殺傷事件や、自己責任の透析患者は死ねのような発言から、人の命を軽視する風潮が生まれてきているのではないかという懸念から読む。

 先に『健康帝国ナチス』や『大日本健康帝国』といった本を読みたかったのだが、古本で見つけたこの本を。

 新聞連載の専門家数人のインタビューだから内容は浅く、一冊の本を読んだほうがとてもためになる。こういう断片的な記事は読んでも読まなくてもたいして変わりはせず、一冊のテーマで本を読むことが問題意識の醸成になる。

 健康の義務化は、

「健康を自認する人たちは、病気や障害を負った人に後ろ指を指し、「不健康な者がいるから健康なわれわれまで不利益をこうむる」と非難する、そんないがみ合う社会になりかねません」



 と指摘されているように、健康の優良化は、逆にそうでない人の非難、排斥をもたらす。その行き過ぎた先にはすでに歴史的に真のあたりにしてきたナチスのよる障害者抹殺や優生思想という黒い歴史がある。

 健康だけをめざすのだから手放しにすばらしくて終わり、という話にはならない。健康には対極の病気や障害を差別する思想とぬぐいがたくセットなのであって、義務や強迫になればなるほど、障害者差別はひどくなり、亢進して、排斥運動となってゆく。内面で追い込まれたものは、外部での標的を見つけるのが人間の心の作用だ。

 わたしは健康は放任派なので、病気が怖いと恐れさせるようなTVは見ないし、からだにいいとされる健康食品やヒット商品にはまったく無縁である。この本にはそのようなうさんくさい情報に対するための情報リテラシーの項目もある。健康情報は、情報リテラシーの問題なのである。

 ニセ科学にだまされるのは、理科教育に興味関心をそだてることをせず、暗記知識に終わってきた日本の教育に問題を感じる指摘もある。学校を出ていっさい学問から遠のくなら、教育を失敗してきたといえる。疑うことや検証することもおぼえてこなかったので、科学の信頼だけを植え付けられてきたので、ころりとニセ科学にだまされる。

 この本はインタビューされた専門家の著作を読まないとまったくためにならない本だな。



健康帝国ナチス (草思社文庫)大日本「健康」帝国―あなたの身体は誰のものか (平凡社新書)健康不安の社会学―健康社会のパラドックス (SEKAISHISO SEMINAR)健康の社会史―養生、衛生から健康増進へフードファディズム―メディアに惑わされない食生活 (シリーズCura)

03 16
2016

書評 社会学

「なんちゃってミニマリスト」――『ぼくたちに、もうモノは必要ない。 』 佐々木 典士

4847093461ぼくたちに、もうモノは必要ない。
- 断捨離からミニマリストへ -

佐々木 典士
ワニブックス 2015-06-12

by G-Tools


 ミニマリストがどの段階にいるか読んでみた。

 若者の消費離れや断捨離・片付け本ブームの流れの中で、ミニマリストはどこに向かうのか。

 16万部売れた本書は、そのへんの気分を伝えてくれるだろう。

 まあ、本書はモノとどうつき合うか、われわれはなぜモノを貯め込んできたのかという疑問を抱かせる本だと思う。

 基本的にモノをもたないことは貧乏だ、みじめだ、哀れだという価値観が絶対になっている時代に疑問を抱いたことがない。ミニマリストはそのことについての根本的な疑問と懐疑を投げつけてくれる。

 モノにたいする価値観やわれわれの態度はこんなものだったと反省と自覚をうながしてくれる傾聴にあたいするものはたくさんあったのだが、まだモノにたいする態度だけの段階であるようである。

 ミニマリズムは手段であり、序章であると告げているように、その先のいちばん大事なものが抜け落ちている。

 ヒッピーカルチャーやニューエイジの歴史はほぼ視野にないようだし、それこそ日本の伝統であった持たない文化、脱俗の仏教僧の歴史がまったく削げ落ちている。

 ミニマリストはぜんぜん新しいものではなくて、古くて伝統的なものに戻ってゆくということに言及すらない。ディオゲネスやヘンリーソローは知っているようだが。

 堺屋太一が85年に予測していたのだが、知識・情報社会とよばれる未来の社会は、物質に価値をおかず、ひたすら精神や知識に価値をおく中世のような社会に戻ってゆくといったパースペクティブの線上で、ミニマリストは理解されるべきなのである。

 そういった意味で、著者は小池龍之介にふれて瞑想をはじめたといっているように、その先の精神革命の要素をまるでもっていない。ただ物質消費からのさよならを告げているだけである。

 本の巻頭にはまるでファッション雑誌のようなモノをおかない部屋の写真が載せられている。インテリア・ファッションのひとつにすぎないと宣言しているかのようだ。いや、めざすところはそこじゃないでしょ?の世界である。

 ということでこの本は、「なんちゃってミニマリスト」の称号を与えられても仕方がない。

 その先の本題というのは、持たない精神世界の「むかし」「伝統」に戻ることにほかならない。

 近代の物質文化消費の歴史がひと息をついて、西欧・日本が物質に魅了・導入された時代は終焉をむかえ、しばらくは文明の停滞期・後退期に入るということではないだろうか。

 もう物質文明の「重荷」を背負うことに魅力が減じ、精神や知識に価値をおかれるインド精神社会のような道を歩もうとしているのではないだろうか。

 物質の価値をおく基準からすれば、貧しく、なにもなく、哀れで悲惨で、暗黒な社会である。しかし精神や知識の面においては、頂点をめざす精神が花開いていた時代。日本は物質文明に飽きて、そういった時代に戻ってゆくのかもしれない。

 ミニマリストはそういった時代の曲がり角のふしめをつくりだす存在になるだろうか。それともたんにインテリア・ファッションのひとつとして物質消費のブームをつくりだすに終わるか。

 カウンターカルチャーやニューエイジの歴史、日本の仏教僧の歴史をもういちど勉強し直しましょう。なんで過去の歴史がぶっちりと千切れているのか。



 ■ミニマリストの古典本10冊を紹介します。持たない生き方なんてぜんぜん新しくない

知価革命―工業社会が終わる 知価社会が始まる (PHP文庫)日本の隠遁者たち (ちくま新書)清貧の思想 (文春文庫)素朴と無垢の精神史―ヨーロッパの心を求めて (講談社現代新書)ニューエイジの歴史と現在―地上の楽園を求めて (角川選書)宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)

プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
FC2カウンター

Page Top