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03 20
2008

芸術と創作と生計

『近代美術の巨匠たち』 高階 秀爾


近代美術の巨匠たち (岩波現代文庫 文芸 130)近代美術の巨匠たち (岩波現代文庫 文芸 130)
(2008/01/16)
高階 秀爾

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 私はとくべつに絵に興味があるわけでもないし、絵をよく知っているというわけではない。芸術家を、サラリーマンとの対比において捉えたいと思って芸術家の人生を探りたいと思っているだけである。

 芸術家というのは、その人の人生や個性、人称といったものが称揚される職業である。それに対してサラリーマンや勤め人というのは、それらがほぼ認められない商品やサービスを売ったりする世界である。非人称的で、非個性的で、非人間的なものである。

 売られるものは、たとえば床下の材料であったり、窓枠のサッシであったり、道のガードであったり、電柱柱であったり、電気製品のコードであったり、ネジであったりする。つまりまったく「私」の人間性は売られないし、評価もされない市場の世界で雇用を売らなければならないのである。このような市場の世界において、人間性が認められる芸術家の職業はいっしゅの「英雄」であろう。

 私はこのような対比において、芸術家とはなにか、大半が非人称的な世界で生きなければならない企業社会で、私たちの生き方はどのようなものを目指せばいいのかを考えたいと思っている。だから芸術家の人生を探りたいと思っているのである。芸術家は私たちの失われた人格的評価の称賛を得られるゆいいつの「英雄」なのである。

 とか思って芸術家の伝記列伝のような本を読もうと思ったら、げんざいでは芸術家の人生を語った手軽に手に入る本はそうそうない。どうやら芸術家の人生はあまり世人の興味を買っていないらしい。というか、美術に興味がある人や、芸術がどれほど一般の人に認知されているといえば、ほとんど少ないのではないだろうか。一般的な教養レベルの基準といえるTVだけ見るのなら、古典的な芸術というのはほぼ一般の人の興味の範疇にはないのだろう。

 かわりにミュージシャンや俳優、お笑い芸人が、われわれの時代の芸術家――人称的な称号を与えられる存在であって、私たちはかれらの人格や個性や人称が認知される職業に憧れるのである。ゆいいつ人格が称揚される職業ということで、私たちはたいへん憧れるのだが、たいていの人は床下の材料や道路のガードとか、洗面器を売るような職業につかなかければならないのである。芸術家はそのようなわれわれの涙のポジではないかと思うのである。「私の人生が評価される」――私たちはそんな人生に憧れておきながら、おおくの人はそのような評価を浴びられずに日々を暮らさなければならないのである。芸術家はそのことに関してなにかを語りかけてくるのだろうか。

 この本ではモネからはじまって、セザンヌ、ルノワール、モディリアニ、ゴーガン、ピカソ、ロートレックなどがとりあげられている。もちろん上記のような問いをもってこの本を読んでも、その応答を返してくれるわけではない。それぞれ個性ある、生まれや生い立ちまでも紹介されたかれらの人生に、サラリーマンの人生の欠落を埋める材料を見つけるのは容易ではない。売れない、評価されない不遇の人生に、似たような境遇が見つけられるかもしれない。答えは創作するしかないのである。

 一般の人が知っている芸術家の人生といえば、ゴーガンやピカソやゴッホくらいになるのだろうか。ゴーガンは安定した職業を捨てて南の島に移り住み、ピカソは奇矯な芸術的天才、ゴッホは耳を切り捨てたエピソードなどを伝え聞いたりするだろう。私たちはそこに芸術家というふつうの一般人とはかけ離れた天才の存在、別格の人種というものを思い浮かべるのだろう。そしてそこに私たちの陽の当たらない人生との対比を見い出し、ふつう人の安楽と安心を感じるのかもしれない。

 芸術家というのは人称を切り捨てられた企業社会の、人間であることを評価されるひとつの「英雄」である。私たちはその人たちの絵を買ったり、複製品を楽しむことにより、人格を承認されたメルクマールというものを手に入れるのだろう。それは私たちの大半が日々の生活、または生涯から得られないものなのである。芸術は私たちの人生のそのような側面の欠落を補うのである。



03 17
2008

芸術と創作と生計

『異都憧憬 日本人のパリ』 今橋 映子

異都憧憬 日本人のパリ (平凡社ライブラリー)
今橋 映子

異都憧憬 日本人のパリ (平凡社ライブラリー)


 ボヘミアンはどのようなものか、パリの芸術家たちはどのような交遊をもっていたのか等々を知りたいと思って読んだのだが、ちょっと私にはレベルの高い本過ぎたのか、500ページの大著をあまり楽しめなかった。この本は94年度サントリー学芸賞芸術・文学部門をとっていて、評価は高いのだろうけど、私的にはいまいちだった。サントリー学芸賞は選択眼が高くていい本が選ばれていると思うが、学術書の賞ってあまりないな。

「パリに新しく流入してきた工場労働者たちは、搾取され、しばしば解雇され、また不衛生なためコレラなどの病気にかかるような生活を強いられ、いわばパリの下層社会を形成していく。この存在が、一般市民にとっては薄気味悪く、よそ者であり、公安を乱す<危険な階級>となる。そして彼らはこの時代「ボヘミアン」と呼ばれて、社会から落伍者の烙印を押された。つまり彼らはまさに大都会の暗黒を放浪=浮浪するジプシーであったというわけである」



 19世紀に入ってパリには工場労働者が膨大に流入してきて、貧困層をかたちづくった。明治・大正の日本の都市におこったことや、げんざいの中国におこっている「出稼ぎ民工」と同じ状態が1800年代のパリにもおこっていたのである。そのような中に芸術家の卵であるボヘミアンも生まれた。

「~「みんながアーチストになりたがっている」時代について書いている。彼によれば「芸術」とは、「神が去り、王もまたいなくなった」時に、実に折良くあらわれた新しい宗教なのである。そして今の若い、自称「芸術家」たちは、才能などこれっぽっちも無く、ただ「時代からはずれて、別の考え別の風俗で生きたい」という考えにとりつかれている」



「芸術家の地位の急上昇」という伝記叙述の定型は、神々の血統を引く者が、卑賤な身分から出発して、逆境に屈せず勝利への道を歩むという英雄譚に比せられることは明らかである。……「神のごとき芸術家」であろう。……ボヘミアンたちが自分の内なる声、霊感に従って他をかえりみず、制作に没頭するという描写には、まさしく「神のごとき芸術家」という芸術家伝説が内在しているのである」



「社会から見棄てられて貧困のうちに暮らすことこそが天才の宿命なのだという考えが、現代でもわれわれの社会に生きつづけており」、これは「もともと中世の宗教的熱狂の中で、信仰上の英雄に対して社会が要求した禁欲的生活態度と関係があるように思われる」と推定している」



 貧困の中に宗教的禁欲は生まれ、また芸術家伝説も生まれるのかもしれない。それは貧困層の貧困であることの慰めや正当化をあたえる言説でもあるのだろう。魂の浄化をめざしての貧困――崇高さが芸術の貧困に見い出され、そして貧困な庶民に自分たちの境遇の慰めを見い出したのだろう。

「己れに依頼し、己れのために、制作する者は美術家である。他人に支配され、他人のために、制作する者が、職人である。他人の嗜好に投ぜんとして作ったものの中にも、美術品は出来よう。しかし、自ら楽しまんがためにした、趣味ある人の制作は、ことごとく、美術品である」――岩村透



 マーケットや金銭の否定は芸術の条件でもある。しかし逆説として金銭をもとめてやまず、名声をもとめるという矛盾も大きく存在するのが芸術というものである。それはビジネスの目先の損とをとって、長期的な得をとるという戦略なのだろうか。マーケットを否定して、アマチュアだけが芸術だといわれても、かれも金で生活を維持する必要があるわけで、芸術家は野たれ死ぬしかないのだろうか。

「荷風は、芸術家であることを望みながら、銀行員というブルジョア生活を強要されていた典型的な近代人であった。……父の世代との葛藤に悩み、近代のブルジョア社会の一員に組み込まれることを、精神的に拒否し続けた荷風にとって、パリに遊び、そのマージナルなライフ・スタイルに憧れることは、モラトリアムを生き、幸運にも一時的に日本社会から隔離されることであった」



 作家や芸術家は企業社会やサラリーマン社会から抜け出れたわれわれの時代の英雄でもあり、そして荷風の時代でもそのような願望はすでにあったようである。定型的でしゃちほこばった経済-企業活動からの逃走、金銭主義からの脱却が、芸術の運動の存立条件であるとも思えなくもない。芸術は金とマーケットへの反逆であり、しかしそれが逆説的に金とマーケットをつくりだすのである。

「貧乏には大きな救いがあることを発見する――将来というものが消えてしまうのである」――ジョージ・オーウェル



 オーウェルが『パリ・ロンドンどん底生活』のような貧困生活と過重労働の日々を送っていたとは知らなかった。

「ヨーロッパでは貧乏とは、不幸あるいは不運でしかない。ところがアメリカでは、道徳的欠陥を意味し、社会が許さない」



「パリの街には、哲学をもった乞食の精神があって、その臭気があの都会の台所のすみばかりでなく、サロンの天井まで滲みこんでいたが、ブルッセル(ヘルギー)では、この一部屋のきたない天井までも、清浄で、乞食の住むべき精神はない」――金子光晴



「アメリカでは、あらゆる人間が大統領の器であり、常に「成功」するようにとあおりたてられるが、パリでは、「あらゆる人間が潜在的にゼロ」なのである」



 これらの文からパリにおおぜいの芸術家の卵があつまった理由がわかってくるというものである。パリには金銭的モノサシだけではない、存在を許すような雰囲気があったのだろう。こんにちでもヨーロッパは若者のモラトリアム期間にかなり寛容であるということを聞くし。

 日本はどうだろう。かなりガチガチの新卒就職のエスカレーターがあっただけである。死にそうに窒息しそうなビジネス社会の子孫たちは、若者の棄民という状態をへてパリのような風穴を開けてゆくことになるのだろうか。人生や社会を企業とビジネスだけの社会にしてしまったツケは大きい。人生の意味や価値の尊厳や崇高さを破壊しつづけているように思えてならない。


パリ・貧困と街路の詩学―1930年代外国人芸術家たち
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03 13
2008

芸術と創作と生計

芸術家の人生と下流社会



 さいきん芸術家の人生について学ぼうとしているが、私の問いたいことは、芸術家のように生きられないかということだ。芸術家というのは創作に時間をかける。創作の時間をなによりも大切にするのだが、作品が売れなければたいへん貧乏だ。

 芸術至上主義のため、かれは自分らしさを追究する「下流」社会に属するのではないか。売れない芸術家は「下流階層」といえないだろうか。芸術家は人生において「下流」といえるのだろうか。

 いぜんによく騒がれた「下流社会」という言葉だが、これは金や富のモノサシだけで測った分類法である。金や富の所有でいえば、かれの人生は「下流」である。しかしかれは不幸で、みじめで、つまらない生を生きたといえるだろうか。芸術家にとって創作に生涯を賭すことのできない人生のほうがみじめで、不幸なことではないだろうか。金で得られる「上流」の人生のほうが、かれらにとってみじめで、つまらない人生ではないだろうか。

 この問いは芸術家のみを指しているのではない。こんにちのわれわれは「生産者」や「労働者」であるよりか、「芸術家」や「消費者」として生を送りたがっているのではないかと思う。つまり創作に時間を得ようとする芸術家の人生をわれわれは望んでいるのではないだろうか。

 私が芸術家にこめている範疇は美術のみを指しているのではない。小説を書くことも含めるし、短歌や俳句の創作も含めるし、学問でもそうだし、さまざまな趣味も含めるし、ブログ作成だってそうである。つまり「創作者」、あるいは「趣味」も含めて、その典型例としての芸術家をあつかっているだけである。より濃度の濃い「創作主義」を志向するという意味で芸術家をとりあげているのである。

 こんちにのわれわれは「生産者」であることを欲するか。人生を生産に捧げつづける「生産者」であることをのぞむか。われわれは消費者になりたいだろうし、もっといえば「趣味」に生きたいだろうし、創作や創造することをのぞんでいるのではないだろうか。

 「下流社会」のモノサシというのは、金や富のモノサシである。生産から得られる金や所有の結果によるモノサシで順位づけられている。こんにちのわれわれは果たしてこのような序列や順位が幸福や理想のモデルと思っているのだろうか。もし芸術家が創作の時間を確保できずに生産の時間に多くを奪われ、結果、金銭的な富に恵まれようが、かれは幸福で満ち足りた人生を生きたといえるだろうか。かれにとってはとうてい満足のいく人生とは思えない。下流でも貧乏でもいいから、創作に時間を捧げたいと思うだろう。

 こんにちのわれわれは富や所有の満足を追及するよりか、趣味や創作の満足をより望むようになってはいないだろうか。生産とその結果による富や所有が満足の最高基準だとはとても思えない。われわれはいつまで生産による富と所有というモノサシをもちつづけるのだろうか。そのようなモノサシでは売れない芸術家は下流でありつづけるが、生産で富を得る生き方がかれに満足をもたらすとはとうてい思えない。そのような生き方はかれをより不幸につき落とすだろう。

 われわれの社会はこのような「芸術家」社会に向かっているのではないだろうか。消費や所有の満足の方向ではなくて、創作や創造の方向である。私たちはそちらのほうがより満足のゆく時代を生きつつあるのではないだろうか。消費や所有が満足やまわりの認知や評価を得られる時代よりか、創作や創造することに満足や認知は得られるのである。マンガの同人誌、ストリート・ミュージシャン、小説の新人賞応募やブログでの小説創作、ゲーム創作、ブログ作成――私たちはこのような創作によって、消費や所有による満足より、認知や喜びを感じるようになっている。消費や所有はだれであっても同じなのである。自分しか創られないもの、自分でしかできないものに、より私たちの認知は向かっているのではないだろうか。金や所有のなかに自己の唯一性はないのである。

 時代はこのように転換しようとしているのに、ネットの爆発的普及はそのようなわれわれの欲求やニーズのあらわれなのに、世間のモノサシはあいかわらず金と富と所有のモノサシである。このモノサシに縛られて、旧来の金と生産の生活に人生を奪われてたいがいの人が満たされない気分を味わわされているのではないだろうか。

 芸術家の人生はこのような生き方の転換を示唆するものではないだろうか。彼が至上としたものは、売れることでも、名誉でも、評価でもなくて、創造の楽しみや喜びではなかったのか。それがかれの人生を豊かなものにしたのではないのか。

 芸術家というのははっきりいってしまえば、たいがいは生産者であるよりか、「消費者」であり、「アマチュア」である。生前に売れたり、評価されることがなく、死後に評価が高まったという芸術家も多い。かれは消費者でありつづけ、アマチュアでありつづけたのである。たとえばゴッホやカフカの名前が浮かんだりするが。

 大量生産、大量消費の時代においては金と所有のモノサシがわれわれの幸不幸や上下流というランクをつくった。しかし芸術・創作の時代においてはそのようなモノサシは役立たないばかりか、不幸なモノサシである。創作至上主義においては、どれだけ自分の喜びや楽しみに費やせたかがかれの幸不幸のモノサシになる。

 これは「自分のために生きる/他人のために生きる」という基準にもあてはまる。大量生産・大量消費の生産者の時代というのは「他人のために生きる」人生である。その結果、かれは金銭と富と、大量の「所有物」を得る。しかしかれは多くの時間を他人のサービスのための生産の時間を生きなければならなかったのである。「自分のためには生きられなかった」。この転換期にあるから、私たちは生産の時間に多くを奪われて不幸になるのではないだろうか。

 ヨーロッパの中世は「暗黒の中世」とよばれる宗教的価値がおかれた時代である。モノの所有や消費に価値がおかれるより、清貧や精神的なものに価値がおかれた時代である。物質主義が衰退していたのである。それゆえにこんにちの物質主義の時代からは「暗黒」とよばれるのである。このような時代に戻ってゆくのではないかと、創造に価値をおくこんにちの趨勢は物語っているのではないだろうか。

 基本的に人間はまわりの人の認知や評価をもとめるものである。金や所有に価値がおかれた時代はそれらをたくさんかき集めた人に認知が集まる。しかし創作や創造に価値がおかれる時代には富や所有は認知や憧れをもたらすとは限らない。それは価値の崩落した人生かもしれないのである。

 芸術家の人生はこれからの時代の生き方を示唆しないだろうか、これがさいきんの私のテーマである。

03 11
2008

芸術と創作と生計

『金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか』 ハンス・アビング

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金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか
(2007/01/01)
ハンス アビング

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 金と芸術について考えた、ほかに類書が見当たらないという点で私の「GREAT BOOKS」におしたいと思う。

 本書では芸術家の多くは貧乏なのになぜ多くの人たちはアーティストになろうとするのかということが問われている。また芸術はなにかということも、経済学的・社会学的に問われていて、この考察もたいへん刺激に富んでいる。

 芸術って崇拝されて頭上に飾られているものだが、いったいそれはなんなのかと問えば、まったくわけのわからないものに化してしまう。われわれは漠然とこれは芸術性が高いだとか、これは商業主義だといって軽蔑したりするが、そのような私たちの価値基準ってなにによって判断されているのだろうか。私たちはどうやら芸術の基準はぼんやりと知っているようなのだが、それがなんなのかよくわからないといったところが正直なところではないだろうか。言葉や概念で明確にその意味を告げることはできないのである。

 芸術書関連をみるとおおくは美学であったり伝記であったり芸術については語るが、社会学的・経済学的に語られることは少ないのである。このツボにみごとに当てはまるのが本書であるが、後半はオランダ政府による芸術支援に多くの章が割かれていて、そこは興味が失われて、たいへん残念なところである。日本では芸術家やアーティストに助成なんかほとんどしていないと思うが、オランダでは芸術に伝統のある国だけあって(レンブラント、フェメール、ゴッホを生んだ国である)助成金がかなり流れているようなのである。日本ではまだ土建産業に助成がおおくおこなわれるのだが。著者はこの芸術支援に経済学者らしく否定的である。

 芸術というのは贅沢品であり、非実用的なものである。だからこそ芸術は重宝がられると著者はいう。つまり芸術は日々の生活や労働にあくせくせずにすむ目印をアピールすることである。世俗や金を抜け出した崇高さに近づける者であることを金持ちや上流階級は見せつけたいのである。ために尊敬は集まるのである。芸術は宗教なき時代の宗教に肩代わりとなって神聖さと崇高性を背負い、世俗からの離脱をこころみるのである。

 芸術は経済への否定である。金銭への否定である。芸術への無私の奉仕はだからこそ、崇高性や神聖さを帯びる。金に飢えたり、金銭にがめつくなることは、そのような芸術の本質にたいする冒涜と否定である。これは金に心配せずにすむ金持ちや上流階級にしか許されない贅沢なのであるが、芸術はそのような金と世俗への否定を本質としてもっているのである。金銭や商業主義の否定が芸術の本質であり、だからこそ上流階級は芸術に入れ上げ、手の届かない庶民は世俗から離れたそれらの崇高性や神聖さに尊敬の念を抱くのである。

 しかしたいていの芸術家やアーティストは貧乏である。副業をもてなければやっていけないし、オランダやヨーロッパでは政府の助成に頼っているし、芸術のマーケットは勝者がすべてを奪う世界でもある。たいがいのアーティストは金に困らない上流階級でなく(出自はそこからが多いが)、貧乏なまま芸術に無私に奉仕しつづけるのである。つまりアーティストは生産者であるよりも、「消費者」であるといったほうがいい。プロであるよりか、「アマチュア」なのである。

 また人々はそのような無私の奉仕に清貧や魂の崇高性に生涯をかけた修行僧や宗教者のような尊敬を抱くのである。かれらは芸術という世俗から脱した活動に属する者として、金銭や世俗にこだわらない貧乏な芸術家という二重の意味で、尊敬の念を抱くのである。

 芸術家の多くは金銭的に恵まれないだろう。そして認められるかわからないし、称賛や名誉がもたらされるかもわからない。かれは一生貧乏で、無名で、認知にも名誉にもまったく縁のない生涯を終えるかもしれない。それでもいつか認められるかもしれない、よい作品ができるかもしれないという内的満足を報酬として得ることができることによって、かれは芸術に奉仕しつづけるのである。それは神や悟りに近づこうとして修行や世俗を断った修行僧とまったく同じ形態をもっている。金銭と世俗の断絶は、世俗と金に追われる庶民から見た崇敬と尊敬を抱くに値する存在である。かれは貧乏でありながらも、上流階級と同じライフスタイルを共有するのである。恵まれた者と恵まれない者は、それぞれ金があり、金がないという生活のレベルは異なるが、同じものを希求することによって、庶民の尊敬を得るのである。

 これで芸術とはなにかと見えてこないだろうか。芸術とは金銭への嫌悪であり、マーケットの否定である。世俗を拒否した崇高さや神聖さである。われわれの欲望はたいていそこに向かう。欲望の渦と化したマーケットからの脱出が芸術の崇高性を思わせるのである。マーケットや大衆に迎合し、売れることをめざし、マーケットや大衆に讃美されることは、芸術のめざすことではないし、芸術はその否定を根底にもつのである。それが芸術の、あるいは宗教の世俗の否定という「ゲーム」なのである。このゲームは経済の、金銭の、労働の、そしてマーケットの強烈なる嫌悪感や否定が、立ち上げるものなのである。

 われわれはいかに経済やマーケットに縛られて生きつつ、そしてそれを嫌悪していることか。芸術とはマーケットや労働にたいする拭いがたい憎しみであり、怒りであり、嫌悪が、それらの無私の奉仕と自己犠牲と生涯の贈与をもたらすのである。われわれはマーケットを憎む。芸術は金のある者、ない者の両極に位置する者たちが、いかにそれらの心配や束縛から離脱しているかというヤセ我慢を顕示し合うゲームでもあるのである。神へといたる苦行なのである。

 芸術も、宗教も、ともに世俗のマーケットに縛られて不安や心配を抱きつつ生きるわれわれの、憎しみや嫌悪の沼地が生みだすものではないだろうか。われわれは金銭とマーケットに縛られ、求めつづけ、焦がれつづけるが、憎み、恨みつづける心も、終生抱きつづけるのである。それが世俗からの離脱をめざす芸術や宗教を生み出すのではないだろうか。芸術家はその世俗からの離脱を図った修行僧である。そしてその生涯を賭したゲームに尊敬が生み出されるのである。



パトロン物語―アートとマネーの不可思議な関係 (角川oneテーマ21) フランスの文化政策―芸術作品の創造と文化的実践 (文化とまちづくり叢書) アメリカの芸術文化政策 (アメリカの財政と福祉国家) 芸術の売り方――劇場を満員にするマーケティング ニューヨーク―芸術家と共存する街 (丸善ライブラリー)
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03 07
2008

芸術と創作と生計

芸術とは金銭的軽蔑のことか



 いま、ハンス・アビングの『金と芸術――なぜアーティストは貧乏なのか?』(グラムブックス)を読んでいるが、そこに興味深い議論が展開されている。少々混乱した文章しか書けないが、思考の整理のために書くことにしよう。この本では金銭への否定が芸術の価値を生み出すといわれている。金銭への軽蔑が、芸術の無私の奉仕を生み出すというのである。

  
4903341003金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか
ハンス アビング 山本和弘
grambooks 2007-01-01

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 つまり芸術とは金銭への軽蔑のことなのである。なぜアーティストは貧乏であり、そして金銭的価値にこだわらないか、金持ちや資産家に愛好されるのかということがそれで説明できるというものであり、金銭的価値への軽蔑がわれわれの尊敬や畏敬を生み出すということがわかる。

 芸術は金や生活にあくせくしないですむというメッセージを世間に表わすものである。だから芸術のような無用で、贅沢なものが、金持ちや資産家に重宝がられるのである。

 芸術は金儲けへの否定である。だから売れたものは軽蔑される。儲かることを目的にした芸術作品は軽蔑される。多くの人に受け入れられたとしても、売れたものは芸術的に価値が低いというわれわれの認識の構造は、このような条件から導き出されるのである。

 芸術とは宗教的尊厳さをもたらすが、それに接する態度は宗教に近いものがあり、宗教も同じように金銭や世俗への否定的態度をもっているという点で、ともに金銭的軽蔑の価値観を共有しているといえるだろう。

 つまり金銭やマーケットの軽蔑が、われわれに宗教的・芸術的な尊敬や畏敬をもたらすのである。われわれはいかに金銭やマーケットを苦々しく思い、軽蔑しているかということだ。そこからいかに離れた行動や行為におよべるかということが、宗教的位階や芸術的位階を形成しているかと知ることはひとつの驚きである。われわれがどんなに金銭やマーケットに縛られているかということだ。これからの離脱が、われわれの尊敬や威厳を生み出すのである。

 われわれはどうして金銭やマーケットをこれほどまでに軽蔑しているのか。それは金銭マーケットに縛られずに生きられる人間はこの社会にはほとんどいないからだ。われわれは客のためにしたくない仕事をし、したくない奉仕やサービスに駆り出され、客の需要や要求、欲望に縛られつづけなければならない。金もマーケットも、仕事も奉仕も、大嫌いなのである。

 いや、あるいは金儲けや自己の利益を得るための金銭的活動が嫌いなのかもしれない。守銭奴を軽蔑している。金に汚く、貪欲で、いやしく自らの利益のみを追求し、他者を傷つけたり、だしまたり、痛めつけたとしても、自己の利益を図るようなそんな金儲けを軽蔑しているのだろう。その対比としての世俗的価値を否定した宗教や、創造に魂を賭けるような芸術に、われわれは天上の崇高な価値を見い出すのだろう。金銭的価値の否定は、利己心や貪欲さ、ずるがしこさ、いやらしさの対極にあるものである。

 ということで芸術は神聖で聖なるものとなるのである。芸術は金銭的価値を度外視して、みずからの創作熱や情熱に刈られるように創造に没する。かれは金銭的貪欲さや守銭奴的狡猾さから遠く離れたところに魂を傾ける。だから芸術は社会的に尊敬され、畏敬の念で見られるのである。宗教も同じように金銭的・世俗的価値の軽蔑を共有するものである。

 芸術家はなんの見返りももとめていないのではない。金銭的報酬ではなく、認知や名声という外的報酬、精神的収入をもとめて創作活動に邁進するものである。そのような神聖さ、尊敬、個人的満足を得られる見込みが、かれを金銭外の行動に走らせるのである。金銭的報酬を捨てる代わりに、社会的名誉や称賛、尊敬を得ることが選ばれ、そして多くのアーティストはそれらを得られずに終わってしまうものだが、少数の成功者がそれらを勝ち得る。否定した金銭的報酬も得られるかもしれない。芸術家は金銭的に損をとることにより、社会的認知という報酬が得られることを求めるのである。

 われわれはいかに金儲けやマーケットを軽蔑しているかということだ。売れるために客に媚を売り、客の好みやニーズ、欲望をのぞきみて、ひっぱりだし、過剰におだて、欲望にかたちを与える。そんなマーケットを軽蔑しているのだろう。大衆的に売れたものはそのような欲望やニーズの型枠である。そのようなかたちに沿ったものが、貪欲さや利己心、狡猾な金銭欲といったものから遠く離れたところに位置するか。芸術はこれらの位置から遠く離れ、遠心的に離脱しようとし、はるかにエスケープしたところにみずからの安全地帯をつくるのである。いかに芸術が金やマーケットや欲望や大衆を軽蔑しているかということがわかるというものだろう。私たちは金やマーケットから離れたくてたまらないのだが、抜け出せないために、そこから離れた金持ちや芸術家、宗教家は尊敬されるのである。

 われわれは拭いがたく金やマーケットの憎悪や嫌悪の気持ちをもっている。そして無用なもの、不必要なもの、役に立たないものに価値を見い出し、またはヒエラルキーをつくりだす。金儲けとは利己心のことである。利己心を省き、無私や社会正義、奉仕に貢献するものに社会は尊敬の念や畏敬の念を抱く。宗教や芸術、そして学問はこの反動から生まれ、金銭的利己心から遠く離れた度合いによるヒエラルキー的な尊敬や神聖さの称号を得るのである。

 このような図式はまさかつながりがないと思っていた金と芸術・宗教を結びつけて、私は目が啓かれる思いがした。目からうろこの知識であった。われわれはどんなに金とマーケットから離れたがっていると思っていることか、しかしそこから離れないことに歯がゆい気持ちを抱いていることか。神聖なものとされる芸術や宗教が私たちの鏡――涙を流す私たちの姿を見せているとは思っても見なかった。


03 04
2008

芸術と創作と生計

『巨匠に教わる絵画の見かた』 視覚デザイン研究所


巨匠に教わる絵画の見かた
視覚デザイン研究所

巨匠に教わる絵画の見かた


 芸術家の人生って経済的モノサシを度外視したところがあると思う。こんにちの格差社会や下流社会といわれるすべて金銭的モノサシに収斂される風潮とまったく別世界に生きていると思う。サラリーマンや社会保障や年金、社会的地位といったものと違った価値観で生きていると思う。

 自分らしく生きようとすると「下流」だといわれる今日、芸術家の人生に学ぶことはないだろうか。カネと企業だけの価値観になってしまったこの世の中に芸術家のような価値観で生きることはできないだろうか。カネでしか測れなくなった世の中は芸術家の人生観こそを学ぶべきではないのか。

 こんにちの若者は自分の趣味やクリエイティヴなことで生きたいと思っている。しかし企業や経済というのは他人や社会へのサービスや労働で生きなければならない社会である。自分のために生きることができない。私たちはそこで人生の焦燥感や空虚感を味わう。自分のために、自分の創作のために、自分の時間を生きようとした芸術家こそ、われわれがめざしたいと思っている生き方ではないのか。

 というようなテーマをもって、芸術家の人生に学びたいと私は思っているのだが、その前に芸術家たちはどのような作品を描いてきたのかひととおり知っておかないと芸術家の人生はなかなか理解しがたい。ということで、年代別に各画家の見方を教えてくれるカラー絵画がたっぷり載せられたこの本を手にとった。

 絵画というのはよくわからない。こんちにはTVや写真や映画があるわけだから、絵画以外の魅力的な媒体に触れることが多いから、なおさら絵画の魅力というのはわかりにくい。高値でとりひきされたり、芸術的に評価されたり、世界的に称賛を得ていたりしても、なんかピンとこない。どうして絵画ひとつにこんな評価が集まったり、高く売れたり、また価値があるのか、私はよくわからない。芸術的と評される絵画がどうしてよいのか、という見え方も私のセンスとまったく別のところにあるようである。はっきりいえば、芸術的な評価というのは、私のまったく手の届かないところにある。

 私がざっと見るレベルでは「なんとなくこの絵はいいなあ」とか「なんとなく好きだなあ」とか「あんまり好きでないな」くらいである。まあ、それでもよいだろう。そういう見方でいいと開き直って見るほうが健全というものだろう。

 画家といえば、まったくの門外漢でも聞こえてくる画家というのはダ・ヴィンチやモネやゴッホ、ピカソやダリといった名前である。名前や絵はよく聞いたり見たりするのだけど、それがなぜ芸術的に評価されたり、いい絵といわれたりするのか、よくわからないといった感がするものである。芸術という「額縁」はどこか遠くにありそうである。

 この本ではルネサンスやバロック、ロココ、ロマン主義、印象主義、象徴主義などの年代別・画家別に紹介されているのだが、まあ、私が思ったのは「いいなあ」とか「あんまり好きでないなあ」ていどである。私の好みのほうの絵としてはリアリズムのほうが好きだが、現代美術というのはどんどん抽象化してまったく意味のわからない方向に進んでいるみたいだ。写真や動画が出てきたのだからリアリズムが追究できなくなったのかもしれないが、そこまでひねくれることはないだろうというほど、意味のわからない絵画になっているのは残念である。難解な現代思想みたいなものである。

 あまり書評してもろくな言葉が出てこないのでこのへんで打ち止めにしておこう(笑)。なお、なんとなく気に入ったなあという画を四枚ほど載せておこう。期せずして女性の裸体が多くなったが、まあこれも「ゲイジュツ」というものである。


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モネ 印象、日の出――印象主義のこのようにあわく塗りたくった絵っていいですね。

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フェルメール 青衣の女――かすかな淡さが浸透するような魅力をもっていますね。

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ワイエス クリスティーナの世界 大草原に置き去りにされて、我が家に焦がれるといった悲しさがにじみでていますね。しかしこれはどういう状況を語っているのでしょうね。

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ブーシェ ディアナの水浴――ふくよかさがいいですね。

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ルノワール 大水浴図――裸婦の美しさや艶やかさに魅入られますね。

 ただのオヤジかよ。


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02 28
2008

芸術と創作と生計

『売文生活』 日垣 隆


4480062238売文生活 (ちくま新書)
日垣 隆
筑摩書房 2005-03-08

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 作家やライターがどのくらいの収入を得いていたのかを赤裸々に開陳した本で、興味深々で読めた。ただしそこから考察や洞察の深みに導いてくれるような本ではなくて、「他人の給料はいくらか」のようなのぞき見的な本にとどまるように思う。それと違和感がひとつ残ったのは漱石などの文豪とこんにちのライターの原稿料をいっしょに並べていることで、なにかいまひとつしっくりこなかった。並列できないものがある気がした。

 文筆業というのは受注産業であって、注文がなければいっさい仕事も収入も断たれる。雑誌や出版社、または読者の要望・注文ひとつにかかっている。もしそれがとだえたら、生活してゆくことはできない。文筆業はひじょうに危うい綱渡りの仕事なのであるが、次のような文章を読むと、私も一山当てたいと色めきたってしまう。

「たとえば1500円の単行本の場合、最多の印税率10%を適用しますと、1万部で印税150万円、100万部なら1億5000万円です。……その直後(村上龍が芥川賞を受賞後)、『限りなく透明に近いブルー』は130万部、印税にして1億5600万円前後が銀行口座に振り込まれました」



 たった一本の筆でこんな莫大な金を稼げるのなら、作家業というのはすごい魔力をもつ博打・ギャンブルといってしまいたくなる。もちろんものすごく低い確率のギャンブルなわけであるが。

 漱石の時代は作家では食えず、大学の職を辞するには朝日新聞に同等の年棒を約束されないと作家業に専念することができなかった。漱石が亡くなったとき、まわりの者は遺族を心配したものだが、死後漱石の本は売れ出したのである。

 その後円本ブームや婦人雑誌の発展にともない、流行作家の収入は暴騰した。作家という漢字は「家」を「作る」のであって、「成金」のようなその人気ぶりの代名詞だったのだろう。

 壇一雄は『火宅の人』のなかで収入を月収5、60万から120、130万といっている。警官や公務員の初任給が6000円から9000円のあいだの時代に、作家はひと月にこんなにも稼いでいたのである。家を四軒も持っていて、まさしく作家稼業は「家作り」だったのである。こんにち作家がこんな破格な収入を得ているとは思われず、たぶんにメジャリーガーの年棒やハリウッドの俳優、プロゴルファーの賞金王みたいな稼ぎっぷりだったのだろう。ラジオやTVができる前、活字メディアがその人気と金のすべてをかっさらていたのである。

 時代は下り、世の物価は上るのに原稿料は上らず、筒井康隆と立花隆の台所事情が紹介されているのだが、立花隆のこんな言葉に複雑な気持ちになった。

「大変なんですよ、今、ほんとに。去年の暮れに出した『インターネットはグローバル・ブレイン』も、カミさんに「今、うち、ほんとにたいへんなのよ」って言われて、突貫工事で一ヶ月ぐらいで作って出したんですよ」



 私もこの本はよく本屋で見たものだが、そういう台所事情から書かれていたと思ったら、著者にとってはこの本のカバーはまさしくマンガみたいに「$$$\\\\」って見えていたんだろうなと思う。金のために書かれた本はその欲が透けて見える気がするのだが、これに生活がかかっている者にとってはそんなことはいってられないのである。注文商品に生計をゆだねるということはそういうことなのである。立花隆は猫ビルの所有権を手放したそうである。

 作家の吉村昭は原稿依頼がとだえ、妻も作家であるから家計費のために少女小説を描き、自分の小説を描けないことにいらだっていた。したかなく勤めに出るのだが、妻の直木賞受賞を機にようやく務めから解放されるのである。

 島田雅彦は日本文芸家協会3000人弱の会員がいるが、生活できる作家は5%に満たないだろうといっている。作家は年間500人ほど誕生するのだが、生き残るのは3人から5人といわれる。厳しい世界なのである。

 一本いくらの原稿料から作品や文章を見ていると、その質や内容と違ったありようが見えてくる。お金の計算と家計と、金への欲望が塗り込められているように思えたりする。できれば作品とそのようなカネの計算と切り離して考えたくなるものだが、不可分なものなのだろう。生活がかかっているのである。作品と生計費を切り離して考えるのは、書かれたものを美化しすぎというものだろう。う~ん、深く考えられないな~。


どっからでもかかって来い!―売文生活日記 知的ストレッチ入門―すいすい読める書けるアイデアが出る 世間のウソ (新潮新書) いい加減にしろよ〈笑〉 現代日本の問題集 (講談社現代新書)
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02 24
2008

芸術と創作と生計

『高学歴ワーキングプア』 水月 昭道


高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)
水月 昭道

高学歴ワーキングプア  「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)


 大学院にいっても教員になれず、30歳や40歳になるまで非常勤講師や塾の講師、コンビニのバイトや肉体労働で食いつなぐ高学歴エリートが増えているという告発本であるが、ちょっと厳しめのことをいうと、これはわかり切ったことではなかったのかと思う。

 大学なんて世間にはそう多くないし、さらに教員の道は狭まるし、少子化で大学は減ることがいぜんから予想されていたし、研究や学問の(とくに人文の)一般的な需要・客層がそう多くあるとは思えない。若者の就職難と文部科学省の旗振りと大学院増加があいまって、厳しい就職前線を逃れた若者が大学院に流入したかもしれないが、ここはハナからパイの少ない場所であり、さらに過酷な柵に逃れてしまったというしかない。

 文部科学省と大学の陰謀のような恨み節が聞かれるのだが、たしかに学校は就職先のあっせんを約束するものでなければならないだろうが、資格講座やある種の職業専門学校のようなところに絶対的な就職の約束を期待することができないように、かれらの商業的な利益を考えると就職先がなくてもそれを伏せて募集するのが学校というものであり、世間というものだろう。世の中をもっと疑ってかかるべきだったのだろう。

 もちろんこのような未来をかんたんに予測できた文科省と大学の責任は問われるべきだろうし、詐欺まがいのことをおこなった彼らにはなんらかの政策をおこなうことが求められてしかるべきだろう。「大学院に行っても食いブチはありませんよ」というメッセージをはっきりとつたえるべきだろう。文学青年ならぬ「学問青年崩れ」になってもそれでも希望にかけたい人は「いらっしゃい~」という道に限定すべきなのである。

 私はこのような大学院生のバイトに出会ったことがないから、まだむかしのどこにでもいたパンク青年フリーターのようにはちまたにはあふれていないのだろう。塾講師に関わりのある人はよく見かける話なのかもしれないが。それにしても30歳ほどまで授業料を払って大学院にいつづけられる恵まれた経済環境にいることが羨ましいというか、世間の常識では信じられないことだろう。親の金がないから高校や大学を出たら早く働かなければならないというのがだいたいは世間の常識というものではないのか。

 研究や学問の人生は羨ましいものかもしれない。もしかして作家の競争なみに厳しい確率かもしれないな。というか、客も需要もないだろう。学問の(とくに人文系の)知識が商売として求められることは、一般の世間ではないと思う。学歴資格を得るためだけの興味のない学生を大学に囲って聞かせるか、出版で世間の好事家に読ませるくらいしか需要はないと思う。

 学問というのはひじょうに需要の少ない、どちらかといえば道楽や趣味に属するものではないのかと思う。商業的にあまり成り立つ商売ではない。これは金をもらってというよりか、払ってするものではないかと思うのである。学問が現代に求められたのは、学歴が企業社会に入るためのパスポートになってしまったから、たまたまサラリーマン予備軍が知識の証書を必要としただけであって、学問がほんとうにほしい人というのは少数のごくわずかな奇特な人しかいないのではないかと思う。世間のたいていの人にとっては学問や知識はたんなる通過口のパスポートにしかすぎない。そのような世間の需要を理解しないで、学問をめざしても食いブチは稼げないだろう。

 ちなみに私はどうやら学問が好きらしいと気づいたのは20歳を過ぎてからで、したがって大学教授になりたいとか大学院にいこうなどと大それた夢をもったことがない。フリーターや肉体労働をしているうちに「もう趣味でいいや」と思うようになっており、これは明らかに自分の趣味や趣向であって人が聞きたくなくとも要望しなくてもいいと感じているし、自分が楽しくて知りたいだけなのでそれでいいと思っている。

 ただし、生計を立てるためにつまらない仕事に時間と人生を奪われることは堪えがたく、自分の好きなことでなんらかの稼ぎを得られないかとしじゅう策をめぐらすのだが、世間の標準的な働き方に呑みこまれるしかない人生の焦燥にムチ打たれつづけている。

 さて話をもとにもどして大学院でそうとうに高度な学問の修練や訓練をくぐりぬけたエリートたちをワーキングプアやフリーターとして世間に放置したままであるのは社会の損失だろう。なんらかの道はないものだろうか。カルチャーセンターのようなところで学問塾を開くとか、マーケット調査会社を開くとか、その道の専門を生かせないものだろうと思う。この著者は民間に就職するなどという発想はハナからなかったようだが、高度な修養を得た人たちはたとえ世間に放っぽり出されてもなんらかの才能や独創を発揮させて道を開いてゆくと期待できるのではないかと私は思ったりするのだが。


リンク 当事者とおぼしき書評と「ポスドク問題」の検索上位からランダムに。
 ネットにはさすがに当事者の声やポスドク問題のページが多くありますね。

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02 20
2008

芸術と創作と生計

『パトロン物語』 海野 弘


パトロン物語―アートとマネーの不可思議な関係 (角川oneテーマ21)
海野 弘

パトロン物語―アートとマネーの不可思議な関係 (角川oneテーマ21)


 私はまったく絵を理解しないし、鑑賞の趣味もない。ただ、芸術家はどうやって生計を立ててきたかという興味からこの本を読んだ。すこし美術史を勉強したくなった。

 こんにちの社会は「一億総クリエイターの時代」といわれるように芸術家志向の時代である。「芸術化社会」や「アーティスト時代」といっていいかもしれない。若者はそのような未来を夢見るのだが、多くの若者は夢をあきらめ、金と経済の社会に入ってゆかざるを得ず、そして不幸になる。

 こんにちこの価値観を逆転しなければならないのではないか。カネより、「芸術至上主義」の価値観に転倒したほうがわれわれは幸せになれるのではないか。あるいは「創作至上主義」もしくは「趣味至上主義」である。フリーターやニートも経済的基準からだけ測られるが、もしこのような「芸術・趣味」至上主義の観点からみれば、違った様相が見えてくるのではないか。

 そういう意味で芸術家がどうやって生計を立ててきたかを調べることは、将来の道しるべになるかもしれない。まあ、だいたいはこういう目論見のもとにアートとマネーの関係をのべたこの本を手にとった。

 前述のとおり私はまったく美術史の教養をもたないものだからこの本の多くを理解できたわけではない。貴族や宮廷のパトロンの時代から、近代美術のパトロンやアメリカの富豪のパトロンの時代などがおもに語られている。

 宮廷から放り出された芸術家は市場の中で生きざるを得ず、画商や蒐集家や富豪の世話にならなければならなくなる。モダンアートはアメリカのビッグファイブとよばれる富豪――モーガン、カーネギー、フリック、メロン、ロックフェラーといった人たちに美術館とももに育てられる。貴族階級が没落し、金に均された社会になると、ブルジョアジーは美術品を収集することで貴族的な価値観や尊重を手に入れようとしたのである。こんにちは企業がメセナといった名で美術パトロンになろうとしている。

 パトロンというのは、いうならばお客の大「お得意」さんである。消費者である。あまりにも大量に飼い付ける客さんであるが。私は芸術家の生計のほうに興味があったのでこの本は違う面を語っているわけだが、まあそういう書はそうないのでいたしかたがない。

 私の美術史の知識といえば、文学でかじった話――ヘミングウェイが1920年代のパリでガートルード・スタインの世話になった話とか、サマセット・モームのゴーギャンがモデルになった『月と六ペンス』くらいしか知らない。ガートルード・スタインってヘンな存在だと思っていたら、この本では文学と美術のパトロンのような存在であったと書かれていて、つながった。『月と六ペンス』は世俗――妻や家庭を捨てて芸術に憑かれる話で私は好きだ。

 芸術というのは創作者だけではなく、買う者、所持する者がいなければ成り立たない。しかも美術は資産や投機の対象としても用いられるフシギな存在である。カネか芸術かの紛争もかなり壮絶である。カネでしか測れない金持ちの手で生きざるを得ない芸術家もそうとうに苦しいものがあると思う。しかし芸術家も霞を食って生きるわけにはゆかないし、多くの芸術志望者はそのために夢をあきらめてカネと経済の企業に入ってゆかなければならない。「一億総クリエイター」の時代とはこのような苦悶が多くの人に共有される時代かもしれないのである。芸術のパトロンを知ることはこれからの時代を占うことであるかもしれないのである。


金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか 芸術の売り方――劇場を満員にするマーケティング 芸術立国論 (集英社新書) 芸術起業論 進化するアートマネージメント
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02 17
2008

芸術と創作と生計

『作家の誕生』 猪瀬 直樹

4022731486作家の誕生 (朝日新書48)
猪瀬 直樹
朝日新聞社 2007-06-13

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 かなりよかった。猪瀬直樹といえば、道路公団民営化の不機嫌な口ぶりや東京都副知事の政治的な顔が思い浮かぶが、この本ではもうひとつのライフワークとよべる文学論をおこなっている。この本は2001年にNHK人間講座でやっていたテキストを大幅加筆したものである。

 猪瀬直樹はこの本で作家という職業の成立史を書きたかったのだといっている。作家を神聖視する文学史ではなく、市場や経済に生きる戦略家・商売者としての文学者を描こうとしたのである。私もこの試みにはまったく興味を魅かれる。

 商業として作家を読みとくことによって、かれらのセールス・プロモーション、つまり作家の脱神話化が見えてくるからだ。文学者は作品だけではなく、人生をも「作品」として世間の話題にのぼる宣伝材料として供さなければならなかった。こんにちのワイドショーのようなものである。この戦略から作家の人生を読みとくべきなのである。

 もうひとつの試みとして猪瀬直樹はなぜ自分は作家になったのかという尽きせぬ問いかけのためにこの本を書いたといっているが、政治家として安定してきたかのような猪瀬直樹が「自分探し」のテーマをいまだにもっているとは意外に思えた。かつての文学青年が食わなければならなかった悪戦苦闘が鮮明に見えるという猪瀬直樹は、こんにちのフリーターや自分探しの若者のアイデンティティを共有しているのである。

 これは文学という認知方法が発生した近代の社会史である。なぜ文学のような承認の方法が文学青年、さらには近代の日本に発生したのかという問いかけでもある。つまり彼らとこんにちのわれわれはなぜ文学のような認知の方法が必要になったのかという探究でもある。猪瀬直樹はそれを近代の文学史を商業的に読み解くことによってなそうとするのだが、どこか舌足らずで、メッセージが語られないところがあるのだが、それはたぶん社会学や心理学の読解方法をもたないからではないかと思った。学問的な分析がなされずに材料だけがぽんぽんと供されるのである。それはすこし残念なところであるが。

 筆は明治34年の雑誌の投稿女学生からはじまり、漱石の弟子・森田草平と女子大の高級官僚の娘・平塚らいてうの心中未遂事件が各紙を賑わせたあたりを語ってゆく。こんにちの芸能界のスキャンダルのようなものが発生していたのである。

 菊池寛が『真珠夫人』を発表し、舞台化され、読者の熱狂をひきおこした。島田清次郎『地上』、賀川豊彦『死線を越えて』のベストセラーが生まれる。菊池や芥川の時代には雑誌の原稿料を糧にする作家、島清や賀川のような巨額な印税を手にする者もあらわれた。菊池寛は『文藝春秋』などの新雑誌をつきつぎと創刊、不安定な文筆業の経済的基盤を確保しようとしたのである。

 井伏鱒二は東京には文士志望の文学青年が二万人いると見積もっていた。川端康成や大宅壮一はそういうなかの投稿少年であった。大正十年に新潮社から『世界文学全集』が刊行され、ゾラの『ナナ』は百版を越す売れ行きだった。『社会問題講座』が五万もの予約をうけた。改造社は『現代日本文学全集』を出し、25万の予約読者を獲得した。全集の刊行により貧しかった作家たちは高額所得者になるチャンスを自覚するのである。出版市場の拡大により仲間内の評判より売れ行きが文士の評価の基準となった。

 芥川龍之介は全集売り込みの講演のため各地に駆り出され、広告塔の役割をにない、過労を昂じていた。そんな芥川に憧れた太宰治は心中未遂事件をなんどもくり返しながら、文学ではなく文壇での執念を燃やし、玉川上水心中事件で『人間失格』と『斜陽』が大ベストセラーとなるのである。ちなみに太宰は「若いモンが将来の年金がどうのこうのと話をするのが、僕は不愉快だ。年金なんて考えるな。生きていたら儲けものなんだからくらいの気持ちになればよいのに」と語っている。情けない。

 三島由紀夫はもち込みを再三おこなった編集者から「作品をろくに書いていないのに本ばかり出したがる。文壇に早く出たい下心なんだな」と思われる。『仮面の告白』は半年間泣かず飛ばずだったが、年末の読売新聞の文学ベストスリーに選ばれて世に知られるようになった。三島はメディアの寵児となり、当代一の流行作家となった。そして自己演出の極限に命を絶った。

 この本でとりあげられているのは、文学青年だった作家はいかに売れるか、文学青年はいかに文壇や世間に認知されるかという戦略論や商業史でもある。主役はマーケットであり、そして世間の認知市場でもある。作家は雑誌や単行本という媒体をつかって、マーケットや世間の認知をもとめたのである。

 作家というものはプロとアマの境界をさまよっているようなものだ。アマチュアである文学青年はいかに文壇や世間に認められるかを画策しなければならないし、作家として本を出しても売れたり評価されるとは限らないし、メシが確実に食えるわけでもない。フリーターや浪人のような、あるいはたえず自分が評価され、注目を浴びなければならないという重責をも背負う。つねに自分とは何者であるか、世間からどのような自己像が期待されているか模索しなければならない。つまり人生そのものが「労働商品」なのである。

 このような偶像に憧れた文学青年たちは作家の人生往路を模倣するのである。かれらは人生そのものがマスコミの「商品」であり、「広告」である。こんにちのワイドショーのスキャンダルのような「商品」になったこともあった。世間の若者たちはこのような文士に憧れ、そして文士をめざし文学青年になったり、世間をさまよった。こんにちの若者の「自分探し」や「夢追いフリーター」として生きなければならなかったのである。

 私たちはなぜこのようなマスコミの主役たちに憧れる心性をつくりだしてしまうのだろう。あるいはマスコミに憧れをつくってしまう社会の構造とはなんなのかと問うたほうがいいのかもしれない。若者はマスコミのリーダーに憧れ、自分探しにさまよう。かれらの承認や評価のかたちを模索して、さまよってしまうのである。私たちの憧れる人というのは、マーケットのたんなる踊り子ではないのか。称賛される者はたんにマーケットのピエロ、道化者ではないのか。作家の商業史を読み解くというのは、このような懐疑があるからではないのかと思う。

 文学の商業史というのは人間の自己演出の戦略を醜く暴くことでもある。他人に見せる像というものの自覚や意図を白日にさらすことでもある。自己演出は策略や戦略として悟られたなら、興ざめや愛想をつかされたりする。本心からの行為がもとめられる。作家というのはその神聖化によって本心からの思いや行為がつたえられていると思われているのかもしれないが、人間というものは本心すらも作為をおこなえると考えてよいのではないかと思う。

 私たちはこのむじゃ気に信じられている自己演出、マスコミに演出される「理想の自己像」というものを相対化する必要があるのではないかと思う。そのような崇拝像をもとめて、私たちはふらふらと彷徨せざるをえないのである。マスコミに演出された理想像を脱骨化することが私たちのひきよせられる「自分探し」のひとつの解答を見せるのではないかと私は思うのである。そもそも他人に操られ、踊らされた人生なんて送りたくないだろう。



空気と戦争 (文春新書 583) ピカレスク―太宰治伝 (文春文庫 い 17-13) 二宮金次郎はなぜ薪を背負っているのか?―人口減少社会の成長戦略 (文春文庫 い 17-14) マガジン青春譜―川端康成と大宅壮一 (文春文庫) 日本人はなぜ戦争をしたか―昭和16年夏の敗戦 (日本の近代 猪瀬直樹著作集)
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世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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