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03 07
2008

芸術と創作と生計

芸術とは金銭的軽蔑のことか



 いま、ハンス・アビングの『金と芸術――なぜアーティストは貧乏なのか?』(グラムブックス)を読んでいるが、そこに興味深い議論が展開されている。少々混乱した文章しか書けないが、思考の整理のために書くことにしよう。この本では金銭への否定が芸術の価値を生み出すといわれている。金銭への軽蔑が、芸術の無私の奉仕を生み出すというのである。

  
4903341003金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか
ハンス アビング 山本和弘
grambooks 2007-01-01

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 つまり芸術とは金銭への軽蔑のことなのである。なぜアーティストは貧乏であり、そして金銭的価値にこだわらないか、金持ちや資産家に愛好されるのかということがそれで説明できるというものであり、金銭的価値への軽蔑がわれわれの尊敬や畏敬を生み出すということがわかる。

 芸術は金や生活にあくせくしないですむというメッセージを世間に表わすものである。だから芸術のような無用で、贅沢なものが、金持ちや資産家に重宝がられるのである。

 芸術は金儲けへの否定である。だから売れたものは軽蔑される。儲かることを目的にした芸術作品は軽蔑される。多くの人に受け入れられたとしても、売れたものは芸術的に価値が低いというわれわれの認識の構造は、このような条件から導き出されるのである。

 芸術とは宗教的尊厳さをもたらすが、それに接する態度は宗教に近いものがあり、宗教も同じように金銭や世俗への否定的態度をもっているという点で、ともに金銭的軽蔑の価値観を共有しているといえるだろう。

 つまり金銭やマーケットの軽蔑が、われわれに宗教的・芸術的な尊敬や畏敬をもたらすのである。われわれはいかに金銭やマーケットを苦々しく思い、軽蔑しているかということだ。そこからいかに離れた行動や行為におよべるかということが、宗教的位階や芸術的位階を形成しているかと知ることはひとつの驚きである。われわれがどんなに金銭やマーケットに縛られているかということだ。これからの離脱が、われわれの尊敬や威厳を生み出すのである。

 われわれはどうして金銭やマーケットをこれほどまでに軽蔑しているのか。それは金銭マーケットに縛られずに生きられる人間はこの社会にはほとんどいないからだ。われわれは客のためにしたくない仕事をし、したくない奉仕やサービスに駆り出され、客の需要や要求、欲望に縛られつづけなければならない。金もマーケットも、仕事も奉仕も、大嫌いなのである。

 いや、あるいは金儲けや自己の利益を得るための金銭的活動が嫌いなのかもしれない。守銭奴を軽蔑している。金に汚く、貪欲で、いやしく自らの利益のみを追求し、他者を傷つけたり、だしまたり、痛めつけたとしても、自己の利益を図るようなそんな金儲けを軽蔑しているのだろう。その対比としての世俗的価値を否定した宗教や、創造に魂を賭けるような芸術に、われわれは天上の崇高な価値を見い出すのだろう。金銭的価値の否定は、利己心や貪欲さ、ずるがしこさ、いやらしさの対極にあるものである。

 ということで芸術は神聖で聖なるものとなるのである。芸術は金銭的価値を度外視して、みずからの創作熱や情熱に刈られるように創造に没する。かれは金銭的貪欲さや守銭奴的狡猾さから遠く離れたところに魂を傾ける。だから芸術は社会的に尊敬され、畏敬の念で見られるのである。宗教も同じように金銭的・世俗的価値の軽蔑を共有するものである。

 芸術家はなんの見返りももとめていないのではない。金銭的報酬ではなく、認知や名声という外的報酬、精神的収入をもとめて創作活動に邁進するものである。そのような神聖さ、尊敬、個人的満足を得られる見込みが、かれを金銭外の行動に走らせるのである。金銭的報酬を捨てる代わりに、社会的名誉や称賛、尊敬を得ることが選ばれ、そして多くのアーティストはそれらを得られずに終わってしまうものだが、少数の成功者がそれらを勝ち得る。否定した金銭的報酬も得られるかもしれない。芸術家は金銭的に損をとることにより、社会的認知という報酬が得られることを求めるのである。

 われわれはいかに金儲けやマーケットを軽蔑しているかということだ。売れるために客に媚を売り、客の好みやニーズ、欲望をのぞきみて、ひっぱりだし、過剰におだて、欲望にかたちを与える。そんなマーケットを軽蔑しているのだろう。大衆的に売れたものはそのような欲望やニーズの型枠である。そのようなかたちに沿ったものが、貪欲さや利己心、狡猾な金銭欲といったものから遠く離れたところに位置するか。芸術はこれらの位置から遠く離れ、遠心的に離脱しようとし、はるかにエスケープしたところにみずからの安全地帯をつくるのである。いかに芸術が金やマーケットや欲望や大衆を軽蔑しているかということがわかるというものだろう。私たちは金やマーケットから離れたくてたまらないのだが、抜け出せないために、そこから離れた金持ちや芸術家、宗教家は尊敬されるのである。

 われわれは拭いがたく金やマーケットの憎悪や嫌悪の気持ちをもっている。そして無用なもの、不必要なもの、役に立たないものに価値を見い出し、またはヒエラルキーをつくりだす。金儲けとは利己心のことである。利己心を省き、無私や社会正義、奉仕に貢献するものに社会は尊敬の念や畏敬の念を抱く。宗教や芸術、そして学問はこの反動から生まれ、金銭的利己心から遠く離れた度合いによるヒエラルキー的な尊敬や神聖さの称号を得るのである。

 このような図式はまさかつながりがないと思っていた金と芸術・宗教を結びつけて、私は目が啓かれる思いがした。目からうろこの知識であった。われわれはどんなに金とマーケットから離れたがっていると思っていることか、しかしそこから離れないことに歯がゆい気持ちを抱いていることか。神聖なものとされる芸術や宗教が私たちの鏡――涙を流す私たちの姿を見せているとは思っても見なかった。


03 11
2008

芸術と創作と生計

『金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか』 ハンス・アビング

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金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか
(2007/01/01)
ハンス アビング

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 金と芸術について考えた、ほかに類書が見当たらないという点で私の「GREAT BOOKS」におしたいと思う。

 本書では芸術家の多くは貧乏なのになぜ多くの人たちはアーティストになろうとするのかということが問われている。また芸術はなにかということも、経済学的・社会学的に問われていて、この考察もたいへん刺激に富んでいる。

 芸術って崇拝されて頭上に飾られているものだが、いったいそれはなんなのかと問えば、まったくわけのわからないものに化してしまう。われわれは漠然とこれは芸術性が高いだとか、これは商業主義だといって軽蔑したりするが、そのような私たちの価値基準ってなにによって判断されているのだろうか。私たちはどうやら芸術の基準はぼんやりと知っているようなのだが、それがなんなのかよくわからないといったところが正直なところではないだろうか。言葉や概念で明確にその意味を告げることはできないのである。

 芸術書関連をみるとおおくは美学であったり伝記であったり芸術については語るが、社会学的・経済学的に語られることは少ないのである。このツボにみごとに当てはまるのが本書であるが、後半はオランダ政府による芸術支援に多くの章が割かれていて、そこは興味が失われて、たいへん残念なところである。日本では芸術家やアーティストに助成なんかほとんどしていないと思うが、オランダでは芸術に伝統のある国だけあって(レンブラント、フェメール、ゴッホを生んだ国である)助成金がかなり流れているようなのである。日本ではまだ土建産業に助成がおおくおこなわれるのだが。著者はこの芸術支援に経済学者らしく否定的である。

 芸術というのは贅沢品であり、非実用的なものである。だからこそ芸術は重宝がられると著者はいう。つまり芸術は日々の生活や労働にあくせくせずにすむ目印をアピールすることである。世俗や金を抜け出した崇高さに近づける者であることを金持ちや上流階級は見せつけたいのである。ために尊敬は集まるのである。芸術は宗教なき時代の宗教に肩代わりとなって神聖さと崇高性を背負い、世俗からの離脱をこころみるのである。

 芸術は経済への否定である。金銭への否定である。芸術への無私の奉仕はだからこそ、崇高性や神聖さを帯びる。金に飢えたり、金銭にがめつくなることは、そのような芸術の本質にたいする冒涜と否定である。これは金に心配せずにすむ金持ちや上流階級にしか許されない贅沢なのであるが、芸術はそのような金と世俗への否定を本質としてもっているのである。金銭や商業主義の否定が芸術の本質であり、だからこそ上流階級は芸術に入れ上げ、手の届かない庶民は世俗から離れたそれらの崇高性や神聖さに尊敬の念を抱くのである。

 しかしたいていの芸術家やアーティストは貧乏である。副業をもてなければやっていけないし、オランダやヨーロッパでは政府の助成に頼っているし、芸術のマーケットは勝者がすべてを奪う世界でもある。たいがいのアーティストは金に困らない上流階級でなく(出自はそこからが多いが)、貧乏なまま芸術に無私に奉仕しつづけるのである。つまりアーティストは生産者であるよりも、「消費者」であるといったほうがいい。プロであるよりか、「アマチュア」なのである。

 また人々はそのような無私の奉仕に清貧や魂の崇高性に生涯をかけた修行僧や宗教者のような尊敬を抱くのである。かれらは芸術という世俗から脱した活動に属する者として、金銭や世俗にこだわらない貧乏な芸術家という二重の意味で、尊敬の念を抱くのである。

 芸術家の多くは金銭的に恵まれないだろう。そして認められるかわからないし、称賛や名誉がもたらされるかもわからない。かれは一生貧乏で、無名で、認知にも名誉にもまったく縁のない生涯を終えるかもしれない。それでもいつか認められるかもしれない、よい作品ができるかもしれないという内的満足を報酬として得ることができることによって、かれは芸術に奉仕しつづけるのである。それは神や悟りに近づこうとして修行や世俗を断った修行僧とまったく同じ形態をもっている。金銭と世俗の断絶は、世俗と金に追われる庶民から見た崇敬と尊敬を抱くに値する存在である。かれは貧乏でありながらも、上流階級と同じライフスタイルを共有するのである。恵まれた者と恵まれない者は、それぞれ金があり、金がないという生活のレベルは異なるが、同じものを希求することによって、庶民の尊敬を得るのである。

 これで芸術とはなにかと見えてこないだろうか。芸術とは金銭への嫌悪であり、マーケットの否定である。世俗を拒否した崇高さや神聖さである。われわれの欲望はたいていそこに向かう。欲望の渦と化したマーケットからの脱出が芸術の崇高性を思わせるのである。マーケットや大衆に迎合し、売れることをめざし、マーケットや大衆に讃美されることは、芸術のめざすことではないし、芸術はその否定を根底にもつのである。それが芸術の、あるいは宗教の世俗の否定という「ゲーム」なのである。このゲームは経済の、金銭の、労働の、そしてマーケットの強烈なる嫌悪感や否定が、立ち上げるものなのである。

 われわれはいかに経済やマーケットに縛られて生きつつ、そしてそれを嫌悪していることか。芸術とはマーケットや労働にたいする拭いがたい憎しみであり、怒りであり、嫌悪が、それらの無私の奉仕と自己犠牲と生涯の贈与をもたらすのである。われわれはマーケットを憎む。芸術は金のある者、ない者の両極に位置する者たちが、いかにそれらの心配や束縛から離脱しているかというヤセ我慢を顕示し合うゲームでもあるのである。神へといたる苦行なのである。

 芸術も、宗教も、ともに世俗のマーケットに縛られて不安や心配を抱きつつ生きるわれわれの、憎しみや嫌悪の沼地が生みだすものではないだろうか。われわれは金銭とマーケットに縛られ、求めつづけ、焦がれつづけるが、憎み、恨みつづける心も、終生抱きつづけるのである。それが世俗からの離脱をめざす芸術や宗教を生み出すのではないだろうか。芸術家はその世俗からの離脱を図った修行僧である。そしてその生涯を賭したゲームに尊敬が生み出されるのである。



パトロン物語―アートとマネーの不可思議な関係 (角川oneテーマ21) フランスの文化政策―芸術作品の創造と文化的実践 (文化とまちづくり叢書) アメリカの芸術文化政策 (アメリカの財政と福祉国家) 芸術の売り方――劇場を満員にするマーケティング ニューヨーク―芸術家と共存する街 (丸善ライブラリー)
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03 13
2008

芸術と創作と生計

芸術家の人生と下流社会



 さいきん芸術家の人生について学ぼうとしているが、私の問いたいことは、芸術家のように生きられないかということだ。芸術家というのは創作に時間をかける。創作の時間をなによりも大切にするのだが、作品が売れなければたいへん貧乏だ。

 芸術至上主義のため、かれは自分らしさを追究する「下流」社会に属するのではないか。売れない芸術家は「下流階層」といえないだろうか。芸術家は人生において「下流」といえるのだろうか。

 いぜんによく騒がれた「下流社会」という言葉だが、これは金や富のモノサシだけで測った分類法である。金や富の所有でいえば、かれの人生は「下流」である。しかしかれは不幸で、みじめで、つまらない生を生きたといえるだろうか。芸術家にとって創作に生涯を賭すことのできない人生のほうがみじめで、不幸なことではないだろうか。金で得られる「上流」の人生のほうが、かれらにとってみじめで、つまらない人生ではないだろうか。

 この問いは芸術家のみを指しているのではない。こんにちのわれわれは「生産者」や「労働者」であるよりか、「芸術家」や「消費者」として生を送りたがっているのではないかと思う。つまり創作に時間を得ようとする芸術家の人生をわれわれは望んでいるのではないだろうか。

 私が芸術家にこめている範疇は美術のみを指しているのではない。小説を書くことも含めるし、短歌や俳句の創作も含めるし、学問でもそうだし、さまざまな趣味も含めるし、ブログ作成だってそうである。つまり「創作者」、あるいは「趣味」も含めて、その典型例としての芸術家をあつかっているだけである。より濃度の濃い「創作主義」を志向するという意味で芸術家をとりあげているのである。

 こんちにのわれわれは「生産者」であることを欲するか。人生を生産に捧げつづける「生産者」であることをのぞむか。われわれは消費者になりたいだろうし、もっといえば「趣味」に生きたいだろうし、創作や創造することをのぞんでいるのではないだろうか。

 「下流社会」のモノサシというのは、金や富のモノサシである。生産から得られる金や所有の結果によるモノサシで順位づけられている。こんにちのわれわれは果たしてこのような序列や順位が幸福や理想のモデルと思っているのだろうか。もし芸術家が創作の時間を確保できずに生産の時間に多くを奪われ、結果、金銭的な富に恵まれようが、かれは幸福で満ち足りた人生を生きたといえるだろうか。かれにとってはとうてい満足のいく人生とは思えない。下流でも貧乏でもいいから、創作に時間を捧げたいと思うだろう。

 こんにちのわれわれは富や所有の満足を追及するよりか、趣味や創作の満足をより望むようになってはいないだろうか。生産とその結果による富や所有が満足の最高基準だとはとても思えない。われわれはいつまで生産による富と所有というモノサシをもちつづけるのだろうか。そのようなモノサシでは売れない芸術家は下流でありつづけるが、生産で富を得る生き方がかれに満足をもたらすとはとうてい思えない。そのような生き方はかれをより不幸につき落とすだろう。

 われわれの社会はこのような「芸術家」社会に向かっているのではないだろうか。消費や所有の満足の方向ではなくて、創作や創造の方向である。私たちはそちらのほうがより満足のゆく時代を生きつつあるのではないだろうか。消費や所有が満足やまわりの認知や評価を得られる時代よりか、創作や創造することに満足や認知は得られるのである。マンガの同人誌、ストリート・ミュージシャン、小説の新人賞応募やブログでの小説創作、ゲーム創作、ブログ作成――私たちはこのような創作によって、消費や所有による満足より、認知や喜びを感じるようになっている。消費や所有はだれであっても同じなのである。自分しか創られないもの、自分でしかできないものに、より私たちの認知は向かっているのではないだろうか。金や所有のなかに自己の唯一性はないのである。

 時代はこのように転換しようとしているのに、ネットの爆発的普及はそのようなわれわれの欲求やニーズのあらわれなのに、世間のモノサシはあいかわらず金と富と所有のモノサシである。このモノサシに縛られて、旧来の金と生産の生活に人生を奪われてたいがいの人が満たされない気分を味わわされているのではないだろうか。

 芸術家の人生はこのような生き方の転換を示唆するものではないだろうか。彼が至上としたものは、売れることでも、名誉でも、評価でもなくて、創造の楽しみや喜びではなかったのか。それがかれの人生を豊かなものにしたのではないのか。

 芸術家というのははっきりいってしまえば、たいがいは生産者であるよりか、「消費者」であり、「アマチュア」である。生前に売れたり、評価されることがなく、死後に評価が高まったという芸術家も多い。かれは消費者でありつづけ、アマチュアでありつづけたのである。たとえばゴッホやカフカの名前が浮かんだりするが。

 大量生産、大量消費の時代においては金と所有のモノサシがわれわれの幸不幸や上下流というランクをつくった。しかし芸術・創作の時代においてはそのようなモノサシは役立たないばかりか、不幸なモノサシである。創作至上主義においては、どれだけ自分の喜びや楽しみに費やせたかがかれの幸不幸のモノサシになる。

 これは「自分のために生きる/他人のために生きる」という基準にもあてはまる。大量生産・大量消費の生産者の時代というのは「他人のために生きる」人生である。その結果、かれは金銭と富と、大量の「所有物」を得る。しかしかれは多くの時間を他人のサービスのための生産の時間を生きなければならなかったのである。「自分のためには生きられなかった」。この転換期にあるから、私たちは生産の時間に多くを奪われて不幸になるのではないだろうか。

 ヨーロッパの中世は「暗黒の中世」とよばれる宗教的価値がおかれた時代である。モノの所有や消費に価値がおかれるより、清貧や精神的なものに価値がおかれた時代である。物質主義が衰退していたのである。それゆえにこんにちの物質主義の時代からは「暗黒」とよばれるのである。このような時代に戻ってゆくのではないかと、創造に価値をおくこんにちの趨勢は物語っているのではないだろうか。

 基本的に人間はまわりの人の認知や評価をもとめるものである。金や所有に価値がおかれた時代はそれらをたくさんかき集めた人に認知が集まる。しかし創作や創造に価値がおかれる時代には富や所有は認知や憧れをもたらすとは限らない。それは価値の崩落した人生かもしれないのである。

 芸術家の人生はこれからの時代の生き方を示唆しないだろうか、これがさいきんの私のテーマである。

03 17
2008

芸術と創作と生計

『異都憧憬 日本人のパリ』 今橋 映子

異都憧憬 日本人のパリ (平凡社ライブラリー)
今橋 映子

異都憧憬 日本人のパリ (平凡社ライブラリー)


 ボヘミアンはどのようなものか、パリの芸術家たちはどのような交遊をもっていたのか等々を知りたいと思って読んだのだが、ちょっと私にはレベルの高い本過ぎたのか、500ページの大著をあまり楽しめなかった。この本は94年度サントリー学芸賞芸術・文学部門をとっていて、評価は高いのだろうけど、私的にはいまいちだった。サントリー学芸賞は選択眼が高くていい本が選ばれていると思うが、学術書の賞ってあまりないな。

「パリに新しく流入してきた工場労働者たちは、搾取され、しばしば解雇され、また不衛生なためコレラなどの病気にかかるような生活を強いられ、いわばパリの下層社会を形成していく。この存在が、一般市民にとっては薄気味悪く、よそ者であり、公安を乱す<危険な階級>となる。そして彼らはこの時代「ボヘミアン」と呼ばれて、社会から落伍者の烙印を押された。つまり彼らはまさに大都会の暗黒を放浪=浮浪するジプシーであったというわけである」



 19世紀に入ってパリには工場労働者が膨大に流入してきて、貧困層をかたちづくった。明治・大正の日本の都市におこったことや、げんざいの中国におこっている「出稼ぎ民工」と同じ状態が1800年代のパリにもおこっていたのである。そのような中に芸術家の卵であるボヘミアンも生まれた。

「~「みんながアーチストになりたがっている」時代について書いている。彼によれば「芸術」とは、「神が去り、王もまたいなくなった」時に、実に折良くあらわれた新しい宗教なのである。そして今の若い、自称「芸術家」たちは、才能などこれっぽっちも無く、ただ「時代からはずれて、別の考え別の風俗で生きたい」という考えにとりつかれている」



「芸術家の地位の急上昇」という伝記叙述の定型は、神々の血統を引く者が、卑賤な身分から出発して、逆境に屈せず勝利への道を歩むという英雄譚に比せられることは明らかである。……「神のごとき芸術家」であろう。……ボヘミアンたちが自分の内なる声、霊感に従って他をかえりみず、制作に没頭するという描写には、まさしく「神のごとき芸術家」という芸術家伝説が内在しているのである」



「社会から見棄てられて貧困のうちに暮らすことこそが天才の宿命なのだという考えが、現代でもわれわれの社会に生きつづけており」、これは「もともと中世の宗教的熱狂の中で、信仰上の英雄に対して社会が要求した禁欲的生活態度と関係があるように思われる」と推定している」



 貧困の中に宗教的禁欲は生まれ、また芸術家伝説も生まれるのかもしれない。それは貧困層の貧困であることの慰めや正当化をあたえる言説でもあるのだろう。魂の浄化をめざしての貧困――崇高さが芸術の貧困に見い出され、そして貧困な庶民に自分たちの境遇の慰めを見い出したのだろう。

「己れに依頼し、己れのために、制作する者は美術家である。他人に支配され、他人のために、制作する者が、職人である。他人の嗜好に投ぜんとして作ったものの中にも、美術品は出来よう。しかし、自ら楽しまんがためにした、趣味ある人の制作は、ことごとく、美術品である」――岩村透



 マーケットや金銭の否定は芸術の条件でもある。しかし逆説として金銭をもとめてやまず、名声をもとめるという矛盾も大きく存在するのが芸術というものである。それはビジネスの目先の損とをとって、長期的な得をとるという戦略なのだろうか。マーケットを否定して、アマチュアだけが芸術だといわれても、かれも金で生活を維持する必要があるわけで、芸術家は野たれ死ぬしかないのだろうか。

「荷風は、芸術家であることを望みながら、銀行員というブルジョア生活を強要されていた典型的な近代人であった。……父の世代との葛藤に悩み、近代のブルジョア社会の一員に組み込まれることを、精神的に拒否し続けた荷風にとって、パリに遊び、そのマージナルなライフ・スタイルに憧れることは、モラトリアムを生き、幸運にも一時的に日本社会から隔離されることであった」



 作家や芸術家は企業社会やサラリーマン社会から抜け出れたわれわれの時代の英雄でもあり、そして荷風の時代でもそのような願望はすでにあったようである。定型的でしゃちほこばった経済-企業活動からの逃走、金銭主義からの脱却が、芸術の運動の存立条件であるとも思えなくもない。芸術は金とマーケットへの反逆であり、しかしそれが逆説的に金とマーケットをつくりだすのである。

「貧乏には大きな救いがあることを発見する――将来というものが消えてしまうのである」――ジョージ・オーウェル



 オーウェルが『パリ・ロンドンどん底生活』のような貧困生活と過重労働の日々を送っていたとは知らなかった。

「ヨーロッパでは貧乏とは、不幸あるいは不運でしかない。ところがアメリカでは、道徳的欠陥を意味し、社会が許さない」



「パリの街には、哲学をもった乞食の精神があって、その臭気があの都会の台所のすみばかりでなく、サロンの天井まで滲みこんでいたが、ブルッセル(ヘルギー)では、この一部屋のきたない天井までも、清浄で、乞食の住むべき精神はない」――金子光晴



「アメリカでは、あらゆる人間が大統領の器であり、常に「成功」するようにとあおりたてられるが、パリでは、「あらゆる人間が潜在的にゼロ」なのである」



 これらの文からパリにおおぜいの芸術家の卵があつまった理由がわかってくるというものである。パリには金銭的モノサシだけではない、存在を許すような雰囲気があったのだろう。こんにちでもヨーロッパは若者のモラトリアム期間にかなり寛容であるということを聞くし。

 日本はどうだろう。かなりガチガチの新卒就職のエスカレーターがあっただけである。死にそうに窒息しそうなビジネス社会の子孫たちは、若者の棄民という状態をへてパリのような風穴を開けてゆくことになるのだろうか。人生や社会を企業とビジネスだけの社会にしてしまったツケは大きい。人生の意味や価値の尊厳や崇高さを破壊しつづけているように思えてならない。


パリ・貧困と街路の詩学―1930年代外国人芸術家たち
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03 20
2008

芸術と創作と生計

『近代美術の巨匠たち』 高階 秀爾


近代美術の巨匠たち (岩波現代文庫 文芸 130)近代美術の巨匠たち (岩波現代文庫 文芸 130)
(2008/01/16)
高階 秀爾

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 私はとくべつに絵に興味があるわけでもないし、絵をよく知っているというわけではない。芸術家を、サラリーマンとの対比において捉えたいと思って芸術家の人生を探りたいと思っているだけである。

 芸術家というのは、その人の人生や個性、人称といったものが称揚される職業である。それに対してサラリーマンや勤め人というのは、それらがほぼ認められない商品やサービスを売ったりする世界である。非人称的で、非個性的で、非人間的なものである。

 売られるものは、たとえば床下の材料であったり、窓枠のサッシであったり、道のガードであったり、電柱柱であったり、電気製品のコードであったり、ネジであったりする。つまりまったく「私」の人間性は売られないし、評価もされない市場の世界で雇用を売らなければならないのである。このような市場の世界において、人間性が認められる芸術家の職業はいっしゅの「英雄」であろう。

 私はこのような対比において、芸術家とはなにか、大半が非人称的な世界で生きなければならない企業社会で、私たちの生き方はどのようなものを目指せばいいのかを考えたいと思っている。だから芸術家の人生を探りたいと思っているのである。芸術家は私たちの失われた人格的評価の称賛を得られるゆいいつの「英雄」なのである。

 とか思って芸術家の伝記列伝のような本を読もうと思ったら、げんざいでは芸術家の人生を語った手軽に手に入る本はそうそうない。どうやら芸術家の人生はあまり世人の興味を買っていないらしい。というか、美術に興味がある人や、芸術がどれほど一般の人に認知されているといえば、ほとんど少ないのではないだろうか。一般的な教養レベルの基準といえるTVだけ見るのなら、古典的な芸術というのはほぼ一般の人の興味の範疇にはないのだろう。

 かわりにミュージシャンや俳優、お笑い芸人が、われわれの時代の芸術家――人称的な称号を与えられる存在であって、私たちはかれらの人格や個性や人称が認知される職業に憧れるのである。ゆいいつ人格が称揚される職業ということで、私たちはたいへん憧れるのだが、たいていの人は床下の材料や道路のガードとか、洗面器を売るような職業につかなかければならないのである。芸術家はそのようなわれわれの涙のポジではないかと思うのである。「私の人生が評価される」――私たちはそんな人生に憧れておきながら、おおくの人はそのような評価を浴びられずに日々を暮らさなければならないのである。芸術家はそのことに関してなにかを語りかけてくるのだろうか。

 この本ではモネからはじまって、セザンヌ、ルノワール、モディリアニ、ゴーガン、ピカソ、ロートレックなどがとりあげられている。もちろん上記のような問いをもってこの本を読んでも、その応答を返してくれるわけではない。それぞれ個性ある、生まれや生い立ちまでも紹介されたかれらの人生に、サラリーマンの人生の欠落を埋める材料を見つけるのは容易ではない。売れない、評価されない不遇の人生に、似たような境遇が見つけられるかもしれない。答えは創作するしかないのである。

 一般の人が知っている芸術家の人生といえば、ゴーガンやピカソやゴッホくらいになるのだろうか。ゴーガンは安定した職業を捨てて南の島に移り住み、ピカソは奇矯な芸術的天才、ゴッホは耳を切り捨てたエピソードなどを伝え聞いたりするだろう。私たちはそこに芸術家というふつうの一般人とはかけ離れた天才の存在、別格の人種というものを思い浮かべるのだろう。そしてそこに私たちの陽の当たらない人生との対比を見い出し、ふつう人の安楽と安心を感じるのかもしれない。

 芸術家というのは人称を切り捨てられた企業社会の、人間であることを評価されるひとつの「英雄」である。私たちはその人たちの絵を買ったり、複製品を楽しむことにより、人格を承認されたメルクマールというものを手に入れるのだろう。それは私たちの大半が日々の生活、または生涯から得られないものなのである。芸術は私たちの人生のそのような側面の欠落を補うのである。



03 22
2008

芸術と創作と生計

芸術家と聖職者的禁欲



 芸術は宗教に似ているといわれる。宗教や王権が去ったのち、芸術家がその衣鉢をついだといわれる。聖性や崇高なものは、こんにちの芸術家にもとめられる。

 世間は芸術家に聖職者的禁欲をもとめる。聖職者のように禁欲的で修業僧的な態度から、偉大な芸術作品が生まれるとみなされている。聖職者が世俗から隔絶した修道院で禁欲的に修行したように、芸術家はそのような態度によって魂に触れた創作や神へといたる芸術が生み出されるといわれる。芸術はかつての宗教的特性をひきついでいるのである。

 なぜ芸術は聖職者的な禁欲をもとめられるのだろうか。かれは神への悟りや宗教的世界への接近をめざしているのではない。あくまでも芸術作品を創作するのである。しかしその態度には芸術を至上とした、禁欲的で修業的な態度がもとめられるのである。魂に触れたり、偉大な創作をなすには、神へと至る道に通底した修業的態度が求められるのである。

 禁欲や無私の態度がもとめられるのは芸術家や宗教者にかぎったものではない。政治家や支配階級、教師や医者にもそのような態度がもとめられる。かれらは禁欲的で自己犠牲的で、無私の奉仕的態度でないと、世間から叩かれ、尊敬や崇拝の念がえられないのである。利己的で、貪欲で、エゴまる出しの「聖職者」たちは、世間から徹底的に忌み嫌われるのである。まるで通常の人間ではない崇高な精神をもっていないと、かれらはそのような地位につくことを許されないのである。

 欲望や利己主義を捨て去った禁欲的態度、自己犠牲的態度がもとめられるのが芸術というものであり、こんにちの政治家や医者や教師である。もしかれらが利己的・欲望的なふるまいを表出すれば、たちまちその座からひきずり降ろされる。社会の上層に位置するものたちは、宗教的態度をもとめられるのである。

 宗教者は奇異なほどまでに自己犠牲、自己滅却の生活や修行をおこなうものである。世俗から隔絶し、家族をもたず、禁欲的に修行に明け暮れる。それはまるで生物の本能からいえば、自殺にひとしい行為とさえいえる。欲望や利己主義を断ち切ることが修行にもとめられるものである。それはわれわれが聖職者的な職業や上層階級にもとめる禁欲的・自己犠牲的態度で同じようなものである。宗教と上層階級は、その禁欲的・無私的態度により、われわれの尊敬や服従の地位を手に入れるのである。もし貪欲な利己主義的態度をかれらがもっているのが露見すれば、たちまちその座からひきずり降ろされる。禁欲的・修行的態度というのはそれらの特権を手に入れるための回路・約束ともいえるのだろうか。

 芸術は欲望的なものであってはならない。大衆迎合的なものは芸術とは見なされない。売れるものは芸術ではない。マーケットの受けを狙ったものやマーケティングによる創作物は芸術的なものとは見なされない。芸術はあくまでも大衆から隔絶した、禁欲的で魂の内奥から生み出されたものでないとならない。それは欲望的・利己的・大衆的なものであってはならないのである。無私や自己滅却、禁欲のなかにそれはあるとされるのである。そしてその中から生み出されたものが好評を博し、芸術的といわれ、高額な値段でとりひきされたり、売れたりするのである。欲望的ではなく、非欲望的なものをへて、創作物は評価され、売れるのである。

 芸術家にはそのような禁欲的・修業的態度がもとめられるのである。無私や自己犠牲、奉仕的な精神を得たところに崇高な芸術作品は生み出されるとされる。社会の支配階級にもそのような態度が求められ、自己犠牲的な態度で社会に貢献することがもとめられる。われわれから奪ったり、はきどったり、盗むような態度の上層階級はたちまち信頼を失ってしまうのである。そのような禁欲的態度はかつては聖職者や修行僧が宗教集団として示していたが、こんにちでは芸術家や教師、医者などにもとめられている。芸術のための自己犠牲・禁欲的態度が、上層階級にもとめられる態度と通底し、あるいはその態度としての「芸術商品」が市場で売られ、買われるのかもしれない。

 宗教者は社会的自殺といえる行為をおこなう。世間から隔絶し、家族を拒否し、欲望と自我を滅却しようとする。そのことにより神へと至る道に近づき、社会の尊敬と上層的地位を得る。利己的で貪欲な上層階級は社会から拒絶される。自己犠牲的で、禁欲的な上層階級がもとめられるのである。宗教がそのような信認を失いだしたころ、芸術家が禁欲的、無私的な態度の後株を担うようなかたちになった。つまり禁欲的・自己犠牲的な精神が、芸術品として購入できるようになったのである。社会で尊敬される禁欲的態度も、われわれの時代においては「商品」として購入されるのである。


03 23
2008

芸術と創作と生計

売れない画家に学ぶこと



  inadakouji.jpg ストリート・アーティストの絵
 

 いつものことだが、私はひとつのテーマを考察するさい、問いが明確ではなく自分でもなにを問うているのかわからなくなり、問いも拡散する。

 こんかいは「芸術と創作と生計」という周辺あたりをテーマにしているらしいのだが、私の考察はいま手に入る書籍に依存することがおおく、こんにちそのテーマが考えられていることは少なく、こんかい早くもテーマが終息しそうな予感が出てきた。

 一本の明確なテーマはおそらく、「売れなくても創作しつづける根性を学ぶ」あたりかもなのしれない。生活のためにつまらない仕事に時間や人生を奪われる私にとって、売れなくとも芸術至上に生きた芸術家の人生に学びたいということなのである。安定や保障が大事な世の中にあって、そんな基準を逆さまにして、自分の創作のほうを優先順位にした芸術家に学ぶことはないのか、というあたりなんだと思う。生活のために不本意な仕事につくことは私の真意ではない、ということなのである。

 一方の道には企業に就職しての安定の道がある。一方の道には自分の才能に賭けて売れない画家の人生を選ぶ道もある。後者の選択をした人たちにその根性を私はいただきたいと思うのである。

 芸術というのは、評価のひじょうに危うい世界だと思う。芸術の評価の明確な基準や範囲といったものはないと思う。ゴッホやピカソやゴーギャンのような過去のだいたい評価が定まった大画家とちがって、こんにち売り出そうとする若手画家に評価が定まることはない。海千山千のものに高い評価を与えられることは少なく、というか選択眼をもった人に出会うことも少ないだろうし、売れることも少ないだろう。売り物になるかすらの基準さえ怪しいのではないだろうか。たとえば路上でテキヤのように絵が売られていたとしても、だれが高い評価を与えたり、高い値段で買ったりするだろうか。

 そもそもこんにち家に絵を飾る趣味をもった人たちはどのくらいいるというのだろう。かなり顧客やマーケットが少ない気がする。ゴッホやピカソなら芸術に興味のない投資目的の売買人が現われて、億単位の値段で買いとってくれるかもしれない。しかし路上のテキヤで売られる絵にそのような値がつくことはないし、売れることもかなり難しいだろう。

 芸術というのは店自体がちゃんとあるかさえ怪しい世界である。コンビニやスーパーとちがって、町のどこにでもいる人たちが顧客になってくれるというわけではない。ひじょうに少ない人だけが顧客になってくれる。また売り物と売り物ではないものの境界はひじょうにあやふやで、それこそ小学生の絵すら同列に並べられる世界である。コンビニに並べられる商品とちがって、商品かそうかでないかの基準はかなり侵食的なものなのである。売り物にならない広大なしろうとの絵も同列にならんでしまう危うい商売の世界が芸術というものなのである。

 企業と商品のような市場世界とちがって、アマとプロ、売り物と売り物ではない境界がひじょうに不明確である。同じ沼地にどろどろしているのが芸術というものである。だからこそこの線引きがひじょうにむづかしい世界に、生産者と消費者という明確な区分のつけにくい世界に、生産より趣味や創作に生きたい私としては学ぶことがあるのではないかと思っているのである。

 画家というのはプロとアマの境界を生きた人たちなのである。さらにいえば、生前ほとんど絵が売れず、プロではなくてアマチュアとして生涯を終わった画家もいることだろう。それでも画家は創作をつづけた。これはこんにちの受け手より送り手になりたがっているこんにちのわれわれの人生のモデル・ケースになるものではないかと思うのである。

 ネットでブログや小説や映像や音楽を発表する人。マンガの同人誌に書いたり、ストリート・ミュージシャンとして街角で歌う人、あるいはカラオケで歌う人。われわれはマスコミの一方的な受け手として戦後の50年ほどを生きてきたのだが、受け手ばかりではなく、送り手になりたくて仕方がなかったのではないかと思う。創作者として世間に評価されたい、知られたい、人生をそのように生きたいと思う人がかなりいたのではないか。ネットは技術が整ったために生まれたのではなくて、われわれの需要や欲望がまさにそのような仕組みを呼び寄せたのである。

 だがわれわれの社会というのは企業社会であり、生産者の社会であり、多くの時間を生産や労働に捧げなければならない社会である。創作や趣味に時間をかける人生は許されていない。世間の評価も、金や所有や社会保障で人生が測られる時代である。金のない人生は「負け組」であり、「負け犬」なのである。

 売れない芸術家はそのような価値観にNOをつきつけるだろう。富や所有や保障よりか、創作や芸術のほうが大事なのである。売れたり、富をおおくもつことはもちろん願うだろうが、そのために犠牲を多く払うのなら、かれは負け犬や貧乏を選びとるだろう。

 受け手から送り手の時代の転換期に、売れない芸術家の人生はモデル・ケースになるのではないかという考察が、おそらくは私のこんかいのテーマであると思う。芸術至上主義、創作至上主義のような価値観で生きられないか、富や所有のために労働に人生を奪われるなんていやだ、といったあたりがテーマであるように思う。社会の、私の価値観をひっくり返せないかをひそかにもくろんでいるわけだ。売れなくても、創作をつづけた芸術家に学びたいというわけである。

 アマチュアの時代、価値観を切り開く必要があるのではないかということで、その先人としての売れない芸術家に学ぶことはないかといったことが今回のテーマであるが、芸術関係の書棚を見てもこんにちそのような問いがおおく発せられているわけではない。ということで文献の数に依存する私の考察は早くも暗礁にのりあげる可能性も出てきた。まあ、それでもいいだろう。未解決の問題がのこるのなら、私の考察の楽しみもまたひきのばされたということなのだから。


03 30
2008

芸術と創作と生計

『月と六ペンス』 サマセット・モーム


月と六ペンス (新潮文庫)月と六ペンス (新潮文庫)
(1959/09)
サマセット・モーム、中野 好夫 他

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 サマセット・モームは私の好きな作家である。『月と六ペンス』の世俗の批判と、『人間の絆』の青春漂流にはえらく勉強させてもらった。だいたい20年ぶりにこの本を再読した。

 さいきん芸術と世俗のようなテーマで本を読んでいるので、ちょうどモームのこの本がぴったりだと思い、読みかえした。世俗への小気味よい批判はあいかわらず胸のすく思いがしたし、芸術や創造にとり憑かれた男の狂気には読ませるものがあった。モームは読ませるのがうまいのである。『人間の絆』もかなり長いが、飽きさせないのである。人間洞察の鋭さを自慢げに出しているところなんかはちょっとかな、と思ったりするが、20年前の私はこのような洞察に私の哲学好きな心が目覚めさせられたのである。

 周知の事だと思うが、この作品はポール・ゴーギャンの人生に啓発して書かれたものである。じっさいのゴーギャンと作品のストリックランドがどれほど同じで違うのかよく知らないが(こちらのページなど参考に)、この作品では徹底的に他人に対して冷酷な人間像が描かれている。創造に憑かれた人間は世俗の価値に拘泥しないためにそのような人間に見えることをモームは描いたのだと思う。人間の友好や愛に価値をおかない人間にはそのように見えるのである。

「なんてけちな了簡なんだろうねえ、女ってやつは! 愛だ。朝から晩まで愛だ。男が行ってしまえば、それはほかの女が欲しいからだと、そうとしか考えられないんだからねえ。いったい今度のようなことをだよ、たかが女のためにやるなんて、僕をそんな馬鹿な人間だと、君、考えてるのかね?」



「女というやつは、恋愛する以外なに一つ能がない。だからこそ、やつらは、恋愛というものを、途方もない高みに祭り上げてしまう。まるで人生のすべてであるようかのように言いやがる。事実は、なに鼻糞ほどの一部分にしかすぎないのだ。……だが、恋愛というのは、あれは病気さ。女というやつは、僕の快楽の道具にしきゃすぎないんだ。それが、やれ協力者だの、半身だの、人生の伴侶だのと言い出すから、僕は我慢ができないんだ」



「つまり、彼女こそは、女というものは他人の金で生きるもの、そんなことは当たり前だという、いわば奥様階級まるだしの本能を具えた女だったのだ」



 じつに男が出て行ったらほかに女をつくったのに違いないのだと疑う世間の下劣さをモームは小気味良くあげつらっていて、私もえらく共鳴する。女や家庭や安定が第一のような価値観なんて、つまらないのである。私もそれが最高の価値なんて思ってやしないし、個人としての女や人間にそんなに楽しみがあると思わない。どうも世間ではそのような「宗教」がいちばんだと思っているようだが。安部公房の『砂の女』にもそのような批判がこめられていて、おかげで私は家庭をもたない人生を歩んでいるわけだが、公房の『砂の女』は砂に閉じ込められた人生に満足を覚えてゆくのである。

「僕は言ってるじゃないか、描かないじゃいられないんだと。自分でもどうにもならなんだ。水に落ちた人間は、泳ぎが巧かろうと拙かろうと、そんなこと言っておられるか。なんとかして助からなければ、溺れ死ぬばかりだ」



「普通、生活の楽しみだとか、美しさだとか呼ばれる事物に対して、彼はいっさい無頓着だったのだ。金銭にはてんで興味がないし、名声にもまたそうだ。たいていの人間ならば、まず好い加減のところで世間と妥協してしまうのだが、その妥協の誘惑にさえ、彼は厳として打ち勝った。……彼の場合は、てんではじめからそういった誘惑がない。妥協の可能性などということは、最初から彼の頭には浮かんでこないのだ」



「……やっぱり馬鹿なことをしたもんだと言いたいねえ。自分の一生をこんなふうに台なしにしてしまうなんて、意味ないよ、君」
だが、果してエイブラハムは一生を台なしにしてしまったろうか? 本当に自分のしたいことをするということ、自分自身に満足し、自分でもいちばん幸福だと思う生活をおくること、それが果たして一生を台なしにすることだろうか? それとも一万ポンドの年収と美人の細君とをもち、一流の外科医になること、それが成功なのだろうか? 思うにそれは、彼が果して人生の意味をなんと考えるか、あるいはまた社会といい、個人というものの要求をどう考えるか、それらによって決まるのではあるまいか?」



「あのストリックランドを捉えていた情熱は、いわば美の創造という情熱だった。それは彼に一刻の平安を与えない。絶えまなくあちこち揺すぶりつづけていたのだ。いわば神のようなノスタルジアに付き纏われた、永遠の巡礼者だったとでもいおうか。彼の内なる美の鬼は、冷酷無比だった」



 芸術や創造にとり憑かれた男と、女や家庭との見事な対比が描かれていて、この世間の価値観に拘泥しなかった、見事にその価値観を無視しつづけた男の生涯が、私たちに当たり前の人生コースに再考をうながせるのである。男だったら、世間の価値観なんか捨ててしまいたいとは一度は思うんじゃないだろうか。世間のモノサシなんてどうでもいいと思う瞬間が訪れる男は、幸運なのかもしれない。そこまで賭けられる人生の大切なものを見つけられたからである。このように考えると世間のモノサシや価値観で測られる成功や階層なんてクソみたいなものである。ストリックランドは生涯を賭けた作品すら最期に燃やしてしまうのである。


ポール・ゴーギャンの作品(私にはそのよさがよくわからないんですけど(笑))

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サマセット・モームの作品 『人間の絆』はおすすめですね。
人間の絆〈上〉 (岩波文庫)読書案内―世界文学 (岩波文庫)サミング・アップ (岩波文庫 赤 254-10)劇場 (新潮文庫)

04 02
2008

芸術と創作と生計

『画家と自画像』 田中 英道


画家と自画像―描かれた西洋の精神 (講談社学術文庫)
田中 英道

画家と自画像―描かれた西洋の精神 (講談社学術文庫)


 期待していなかったが、意外におもしろかった。自画像とはたんに自分の顔を描くだけだと思っていたが、さまざまな感情や思想をこめることができる。この本を読んでいると自画像ひとつにそこまで深い情報をこめられるのかと少々驚いて楽しめた。類書があればまた読んでみたいと思わせたし、再読に値する本かもしれない。

 画といえばむかしは宗教画が多かったのだが、画家はその聖なる瞬間に群衆のひとりや観衆のひとりとして描かれていたりした。脇でこちらをひとり見つめていたり、群衆にまぎれてひとり目線がこちらを向いていたりした。客観的・批判的な目でそれらを眺める視点を画家をもっていたのである。

 しかしキリストや聖者の顔に自分の顔をしのばせるような、ときには聖者の集まりに自分を登場させたりして、画家は聖者と同一化するような時代もあらわれたのである。

 自画像の中にはりっばな、高貴で、威厳のある哲学者・宗教者のような風貌が描かれることが多いが、じっさいはむさくるしく、醜かったという例もあるようである。ダ・ヴィンチとかデューラーなんかはりっぱな自画像がよく見られるが、ほかのデッサンをみるとじっさいはもうちょっと体裁の上らない風貌をしていたようなこともあったようである。

 自画像を多く描いた画家といえば、レンブラントであるが、じつに表情豊かな、驚く、笑える自画像をたくさん描いている。結婚したてに描いた「幸福な夫妻」、「乞食姿の自画像」、「叫ぶ自画像」、妻ににらまれて脅える「サスキアと一緒の自画像」、破算で心労した自画像、そして狡猾でえげつない顔をした「笑う自画像」。じつにヴァラエティー豊かな人生の変遷をそのときの自画像で描いているのである。「笑う自画像」についてこう書かれている。

 03rembrant2.jpg 「笑う自画像」 レンブラント


「この姿ほど、私たちを打つものはない。……死に近い老人が、苦しむその自分を認知する自己を保持していること、それがわれわれを打つのである。ここには、「神」のもとに行くという確信による心の平穏さもない。ただこうして生きてきた自分を笑う精神があるだけである。

その自己を笑う精神こそ、自己を救うものである。それは肉体即精神、という現代人の考え方、生き方を批判するものである。自己の他人に対する権力を望み、自分の力をふるうことを生き甲斐とする近代人たちの、「自由」の名を借りた権力欲に対し、それが滑稽なものであり何の意味もない、と語る精神のありかを教える。ここでは敗残者は、むしろ現実の破産者ではない。そうした自己を認識できない人間こそ、敗残者となるのである」



 「自己の他人に対する権力を望み、自分の力をふるうことを生き甲斐とする近代人たち」――この言葉はひじょうに深い。そう、われわれは暗黙には他人への権力欲を人生の最大の目標としているかもしれないのである。それを「自由」という名のもとで。このような自己を笑う客観性を保つことこそが、現代人に課せられた人生をよりよく生きるための課題なのかもしれない。

 かつての西洋人は神とともにあり、威厳や安定をもてたが、現代はただ「個人」として、不安な存在として、ひとり世界に対峙している。現代の画家はそのよう「個人」としての自分を描くしかなくなったのである。

 いや、意外におもしろい本だった。自画像から西洋の精神をここまでくみとれるとは思わなかった。願わくば、もうすこし単純に類型化したかたちでその精神の流れを理解しやすかったらよかったのにと思う。自分を見つめるという行為は多くのことを私たちに教えるのである。


自画像の美術史 500の自画像
by G-Tools

04 05
2008

芸術と創作と生計

クリエイターはなぜサービス残業だらけなのか



 漫画家のさかもと未明が産経ニュースでこういっていた。【めざましカフェ】「漫画家・さかもと未明 勤勉さが世界を席巻」 2008/3/26

 だって漫画って、信じられないくらいもうからない商売なんですよ。1ページにあれだけの絵をいれますから、とにかく時間がかかる。その時間に世間で当然の対価を払っていたら出版社も漫画家も経営が破綻(はたん)しますから、私たちの業界の人たちはみな、驚くくらい劣悪な条件で働くのが当たり前です。公務員の方が先日サービス残業うんぬんとおっしゃっていましたが、私たちは生活全部がサービス残業。当然、普通には暮らせません。富をなすのは一部の人で、ほとんどの漫画家はアパート住まいで一生を終えます。結婚する余裕のない場合も多い。それでも私たちは何度も編集者とやりとりをし、日の目をみない原稿を山ほどかき、命を削って原稿をかくわけです。



 サービス残業や長時間労働、薄給というのは、漫画家やクリエイティヴな業界、アニメーターなどで聞かれることである。クリエイティヴな世界は華々しい反面、労働基準的にはかなりハードというか、壮絶な労働が多いようである。

 なぜかを考えてみる。まずは基本に企業に雇用される労働とちがって、漫画や絵画、音楽などは契約的な労働からはじまるというよりか、趣味や娯楽の延長としてある。賃金の対価としての労働を提供する関係というよりか、趣味や好きなことをして対価を得るという関係になっている。したがって長時間労働とかサービス残業の観念があまりない。

 売られるのは創作品である。労働時間をいくらかけようが、精魂込めてつくろうが、軽くラフにつくろうが、値段が同じこともありうる。たいして企業に雇用される場合はだいたいは労働時間が売られる。労働者は商品としての対価を得るのではなくて、労働時間を売る。労働者はできあがった商品を売るのではなくて、その時間にできうる仕事を売る。時間内はまるごと人間が買われるわけだが、クリエイターは時間内の労働を売るのではなくて、できあがった作品を売る。したがって時間内においてはなにをしようが自由である。時間と場所に拘束される感が雇用者よりはゆるいのである。

 漫画家のようなクリエイターはできあがった商品を要求される。習熟への期間は、企業においては教習される時間も収入が得られるのに対し、クリエイターはぜんぶ自分もちである。しかも習熟の度合いの測られ方は一定ではないし、熟練度はいくらでも切りがないし、またどんなに習熟しようと評価が絶対になされるとは限らない。人気やマーケットの評価の変化にも翻弄される。かれはマーケットにはじめから完成品を要求されるのだが、企業のようにだれかが教えてくれるというわけではない。自分で学ばなければならないのである。

 趣味や好きなことの延長としての商品であるから、たとえプロになれなくても、プロになって売れなくても、採算度外視の奉仕がおこなわれる。企業の雇用のようにある時間拘束されれば絶対的に給与が支払わなければならないという契約がおこなわれない。どんなに多くの時間を費やそうが、どんなに精魂込めてつくられようが、ボツになって対価が支払われないということも多くある。まったくの無賃労働、報われない奉仕のみの場合もおおいのである。

 それが企業との雇用契約におこなわれれば、労働違反、賃金不払いとして罰則の対象になる。しかしクリエイターの作品は賃金が支払われないばかりか、まったく買い手がつかない場合もある。支払われるアテのない対価にたいして創作労働がおこなわれる場合も多々あるのである。

 ゆえにふつうの企業なら、サービス残業、長時間残業、薄給もしくは賃金不払いの違法労働となることがあたりまえにまかり通ることになるわけだ。できあがった商品に対してのみ対価が支払われ、労働時間や拘束時間に対価が支払われるわけではない。したがって労働条件はどこまで劣悪になる。そもそも時間で換算し、契約された時間と法律で決められた時間を守らなければならない、その時間をはみ出すと残業代や法律違反だという規律をつくることもできない。対価が支払われるのは作品のみに対してだからである。

 時間で拘束される雇用者に対して、クリエイターは時間拘束でない分、自由である。なにをしていようが、いつからやり出そうが、自由である。しかし作品ができなければ、あるいは売れなければ、まったく対価が発生することはない。拘束時間で対価が支払われないということは自由であるが、ぎゃくにいえば、完成するまでどこまで時間に縛られることも意味する。生活全部がサービス残業だというのはそういうことである。雇用者のように勤務時間を過ぎれば、残業規制がかかり、割り増し残業代がつくというわけではないのである。

 近代の社会は工場勤務によって時間単位を売る労働形態が主流になった。出来高制で雇用されることもあったが、おおくは時間給制である。いくらつくったからとか、質のよい作品をつくったから、といって対価が支払われるわけではないのである。時間を売ることによって、近代人はたいへんに拘束の多い不自由な人生を送ることになった。自由になるのは勤務外時間と休日だけである。

 対してクリエイターは作品のみを売るために時間や規則からは自由だが、時間制勤務から見るとサービス残業や規制違反の労働条件がまかり通ることになる。そのような概念がない代わりに、時間に対価が支払われず、時間拘束はぎゃくに無法なものになってしまうのである。

 どのような労働形態、商品形態を売るかによって、われわれの社会の行動規則や支配される思考形態というのも異なってくる。近代雇用者は時間を売ることによって自分の時間を失い、そして時間外を守られるが、事実上はないのごとしになった。売られた時間に自由はないし、人生の大半もそのような状態になり、あるいは感じられる。

 作品を売るクリエイターは時間に拘束されない分、自由であるが、ぎゃくに時間は無法に奉仕させられる。作品に生活が拘束される労働形態に収斂するのである。時間規則労働から見れば、無法状態がまかり通るのである。そして費やした労働時間に時間給が支払われるわけではないし、どれだけ多くの時間をつぎ込もうが、まったくの無収入もありうるのである。クリエイターの作品に時間の労働対価は支払われないのである。

 時間を売ってそれ以外は自由の雇用者と、作品を売って時間は自由だが、時間の対価は支払われないクリエイター。時間の観念や発想の根本も変わってくるだろう。時間を売る労働者は、クリエイターの労働状態を不幸と見るか、幸せと見るか。好きなこと、趣味の延長で仕事ができていいなと見るか、それとも好きなこと・趣味の奴隷・犠牲者だと見るか。時間労働者は労働時間から切り離された「なにもでもない」自由な時間――わずかばかりなものであるが――にささやかな安らぎを見るか。クリエイターは好きなもののために生活と時間と、ほかの労働者のような時間で得られる対価を失い、法定労働時間をはるかに超えてしまうのである。好きなことはもしかして「労働」の観念から抜け出し、そして違法労働という観念もなくなり、かれは幸せなのだろうか。


さかもと未明の著作
他力本願美容道―ほんとうは誰にも教えたくない!恋する虎の巻 (幻冬舎文庫)さかもと未明が教える 女のキモチ―レディコミにみる女のエッチ・男のエッチ殿方、しっかりなさいませ!

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