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03 26
2008

人生論

二十年もたったなんて信じられない



 年をとると時間が早く感じられるとはよく聞くことである。私も高校を出てからもう二十年もたったなんて、いまだに自分では信じられない。大学を出て今のマンションに住んで二十年近くもたったなんて信じられない。20歳からもう二十年もたったことに私はちっとも実感をもてなくて、二十年という月日の早さと軽さに驚くばかりである。

 みなさんも驚いているようで、自分の年齢の自覚がなくて、外側の時間や物事の変化にただ驚嘆しているといった状態がふつうのようである。

 自分の歳に驚く瞬間 発言小町

 浦島太郎の童話はよくできたもので、われわれの時間の感じ方をいっていたのだとしみじみわかってきた。時間は自分の中では「経って」いないのである。まわりの時間が経っているだけなのである。そして何十年もの年月がたったことにただ驚くだけなのである。時がたつというのはそういうことのようである。

 子どものころは時間が長くて、年をとると時間が早く感じられるとよく聞くことばである。なぜ年をとると時間が早く感じられるのだろうか。ネットで検索してみても、いまいちしっくりくる説明がない。哲学の時間論もこの問いとなかなかつながりがなくて、資料に当たれない。あとから探索してみることにして、いま考えられる要因をいくつかひねり出してみたい。

 子どものころは世界が神秘で謎だらけである。新しいことや新奇さと、好奇心でいっぱいである。出来事や物事があまりにも多くて、感動したり、驚くことがらが多いために、つまり情緒や感無量といった感覚が大きいために、時間が長く感じられたのだと思う。ひとつひとつのことがらが大きかったのである。

 対して、大人になると多くのことは慣れっこのことであったり、わかりきったことであり、べつになんの変哲も変化もないことの連続になる。感覚や情緒の重要性が薄れてしまうため、時間が早くたつように感じられてしまうのである。これは「時間」というよりか、驚きや感動などの感覚の大きさや受容量であるといったほうが近いかもしれない。

 また子どものころは「近視眼的」に物事やできごとにぶつかっている。月日や季節がまいとし同じようにくり返されているという自覚より、全体的な視線が希薄で、できごとやイベントに直接ぶつかっている。すべて「新しい」ことで、同じ季節がまいとしくり返されているといった自覚が薄く、新しい出来事にまいとし出会う。巨視的なモノサシをもたずに直接出来事に出会うために、つまり目の前のことに夢中なため、全体を見る目をもてない。子どものころは自分の足のサイズや服のサイズも成長が早いため自覚できなかったことが多々あったと思う。時間の感覚や把握も希薄だったのである。

 驚きや感動や出来事が大きすぎた、だから時間が長く感じられたという説明は、私の中ではまあしっくりくる。心理的な受容量が大きいということは、時間を長く感じさせるのである。年をとると、驚きや感動や好奇心はどんどん狭まったものになり、小さなものになり、赤錆びたものになる。心理的時間はあっという間に去ってしまうのである。

 これは時間というものより、感動や驚きの心理的量をいっているといったほうが近いと思う。心理的な量が満たされているのである。その感動量が少ないと、時間は細びて、しわがれて、枯渇する。心理的印象が薄れて、時間の感覚は短く感じてしまうのである。

 感動や印象や情緒の受容量が減る、それが子どもと大人の時間の違いを説明するようである。大人になると、世界はもう「開かれていない」のである。「閉じられている」のである。神秘や好奇や謎はもう存在しない。そのために心理的時間は短く感じられるのである。

 いやなときは長く感じられるとよくいわれる。反対に熱中しているときは時がすぐにたつといわれる。では子どものときはいやなことが多かったのか。子どものときはぎゃくのように思う。熱中していることが多かったが、時間は長く感じられた。大人になるとべつに熱中していなくても、時間はあっという間に去ってしまう。そのとき感じる時間の感覚と、ふりかえって感じる時間は、その長さの感覚が違ってくるのだろう。

 大人になるとほんとうに時間が去るのは早くなる。えっ、もう十年たったのか、もう二十年もたったのかと驚くことしきりである。はっきりいって飛び去る月日の感覚がなくなっているといったほうが近いかもしれない。中身のほうは年をとった感覚がほとんどなくて、外的な時間だけがたっているというのが、年をとることの実情かもしれない。40代や50代になっても、自分がそんなに歳になっているなんて実感が薄いまま、人は年をとるものかもしれない。私はいまの自分が40歳になったなんていまだに信じられない。まだ20代半ばのような感覚でいるのである(「あまり年齢感覚のない私。」)。

 月日の感覚の早さは、なにかこの世の拘泥するものが少なくなったということなのかもしれない。記憶や情念や神秘のぶあつさというか、深みというか、そういうものが失われたことによるものなのだろうか。日めくりカレンダーが風で吹き飛ばされるような月日の早さである。過ぎてしまったものはあっという間である。ふりかえってみて、月日の速さにただただ驚かされるばかりなのである。

 もう少し時間について考察したかったが、時間は存在しないという考えと絡めて時間の早さの感覚について問うてみたいと思っていたが、準備不足で、また次回にゆずろうと思う。

 ところで私は読書のジャンルをひとつのジャンルに縛られるのではなくて、未知のジャンルを追究することが好きである。いったら子どものころの世界に感じた神秘さや謎や、不可解さのドアを探してつづけているようなものである。未知で謎の多い世界は、既知のくりかえしの世界のように時間を早く感じさせない。私は時間の早さに歯止めをかけるような意味で、未知の世界にのりだしてゆくのかもしれない。みなさんも時間を大切にする意味で、つねに未知の世界のドアを開けるよう心がけてはいかがですか。

 
03 24
2008

人生論

幸福になるためのいくつかの条件



 雨崎良未さんのサイト「科学に佇む心と体」で幸福になる条件がいくつか提示されていたので、紹介させてもらうことにする。コピペと引用と注釈だけになってしまうが、サイトの情報は意外と多くの人に知られない可能性があるので、「紹介」の機能は大事にしたいということで許してもらおう。

 世界の幸せ比べ:幸福度の各国間比較
 幸福になる科学的方法
 階級差別とスーパーヒューマン

 まず各国の幸せ国トップ10。

 

 第一位 デンマーク
 第二位 スイス
 第三位 オーストリア
 第四位 アイスランド
 第五位 バハマ
 ……
 23位 アメリカ
 82位 中国
 90位 日本



 北欧がトップに来ていたり、バハマがきていたり、よくわからない。北欧系は各種の調査で上位にきたりするが、いまのところ福祉国家は幸福感に貢献しているということか。覇権国家のアメリカは23位、日本は悲壮な90位。アメリカのような豊かさや自由、覇権国家をめざしても国民が幸福になるとはかぎらない。

 日本は国内総生産(GDP)を最高指標にするのではなくて、ブータンのような「国民総幸福量(GNH)」を基準にするように変えないと、まだまだ落ちるだろう。

 またほかの調査ではこうなっている。

幸福度トップ5:
  ナイジェリア
  メキシコ
  ベネズエラ
  エルサルバドル
  プエルトリコ
 不幸せはロシア、アルメニア、ルーマニア



 中南米がトップにきているのだが、ラテン系の人はやっぱり幸福に感じられるのか。不幸はロシアあたりに集まっているみたいだ。

 幸福につながる10の要因

 ・幸福観を左右する遺伝子
 ・結婚
 ・仲間を大事にする
 ・多くを求めない
 ・善行を誰かに行いなさい
 ・信仰を持つ(信念でもいい)
 ・自分と誰かを比較することを止める
 ・お金をかせげる
 ・上品に老いる
 ・利口でなくてもかまわない



 まあ、基本はお金が稼げるとか結婚とか生活の基盤となるものの確保が大事なんだろう。あとは多くを求めないとか、他人との比較をやめるなどをつけたすことが必要なようである。

 幸せにまつわる3大勘違い

 勘違い その1:病気や障害は不幸なはず
 勘違い その2:子どもがいると幸せなはず
 勘違い その3:金持ちほど幸せなはず



 子供がいるとうつ病の確率が高くなるというのは意外だが、まあ家族のほうが愛憎が深くなるという話があるのだけど、家族をかんたんに否定するのはよくないだろう。金持ちは多くの人の願望であるし、よく豊かさや金は幸せにつながらないと説かれるが、貧乏も不幸なわけで、せいぜい中間をめざすのがよい、でも中流幻想となってしまうのだけど、そのあたりが賢明なのだろう。

 不幸になる秘訣

 不幸になる秘訣の1:変化の多い暮らしをさせられること
 不幸になる秘訣の2:誰かさんより、賢くあろうとすること
 不幸になる秘訣の3:信仰をしないこと



 人間はあまり変化を好まないが、変化するのは世の常だから、どこかに変化しないものをしっかりともつことが必要なようである。人との比較は不幸のエネルギー源である。信仰はいまいちウケないが、心の支えとなるものは必要なようである。

 しあわせになる2大秘訣

 その1:良い人間関係にあること
 その2:お役に立てた感があること



 これはしごくまっとうな基準であろう。人間関係が幸福をつくるし、役に立てたという気持ちは幸福感を増すものである。忘れないでいたい。

 人間を不幸にし、まちがった方向には知らせるものは、人との比較であると思う。子供のときに親からしっかりと他人との比較を洗脳され、すっかり他人との比較・競争に染め上げられた価値観で人を見てしまうようになる。この芽を削ぎ落とすことが幸福感には大事であると私は思う。

 「俗物根性」 『アメリカ人の俗物根性を仔細に大解剖』 ジョセフ・エプスタイン
p.25:俗物性の本質は、他人を「犠牲にして」自分は優れていると感じられるようにすること
p.27:スノッブには基準がひとつしかない。「他人との比較」である。そして比較は当然のことながら競争や張り合いを意味し、ほとんどつねに妬/ねた/みを抱くことになる。
p.114:一般的な定義では、自分のほうが優秀であると思い、多少「注目」されたがっている人をスノッブという。
p.206:俗物主義とは、隣人の個人的な存在を否定するか、認めたとしても自分より劣る地位しか許さないことを指すといっていい。



 こんにちの日本や西欧の消費社会というのは他人との比較・優劣でなりたっている社会といっていいと思う。それがなくなったら、ベンツも高級住宅も売れなくなってしまう。人間の比較優劣の感情を利用して経済は回っているといっても過言ではない。せめて賢明な人はその渦の流れから切り離されて、安寧な心をもているように比較を遮断したほうがいいだろう。

 幸福の基準や価値観というのは調査によってまちまちで、人によってもいっていることは千差万別で、自分にあてはまらないことも多い。これはあくまでも参照データにするのがいいのだろう。ただ、人がいっている基本条件はおさえておくのがいいとと捉えておきたい。

 
01 03
2008

人生論

男の生き方とは~NHK『こだわり人物伝』から


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 NHKで『知るを楽しむ・こだわり人物伝年始スペシャル 語り継がれる男の条件』という番組を見た。あまりにも破天荒でスケールの大きい人物ばかりが登場して、比較されるのは困るのだが、男としての生きざまをなにがしか考えさせられることがあったので、紹介しておこう。

 開高健はベトナム反戦運動をやっていたのだが、人々になにも伝わっていないことに気づき、のちにアマゾンやアフリカなどの秘境の釣りに熱中することになる。「危機」と「遊び」のつながりを見い出してゆくのである。ベトナム戦争で死の危機に直面して、危機の中に人間の最大の魅力を見い出したのだろうか。

 つぎはマイルス・デイビスだが、ジャズ界の「帝王」の名をほしいままにするのだが、エレキ・ギターやロックが流行るとそれらを貪欲にとり入れてゆき、変貌をとげていった。ある音楽というのは新しいムーヴメントや新しい世代が台頭してくると、つぎの世代にまったく受け入れられなくなり、忘れられてゆくものであるが、マイルス・デイビスはそれを拒否して、ジャズ界の帝王の座もかんたんに捨てて新世代の音楽を採り入れてゆくのである。

 つぎは夏目漱石だが、ここでは『それから』の物語が語られた。主人公の代助は実業家の父の財産で「高等遊民」をしており――いまでいうパラサイト・シングルあるいはニートであるが――事業家である父を軽蔑しているのだが、親友の妻である三千代を奪って結婚したため父から勘当されてしまう。仕事を探して代助はたいへん困ってしまう。

 この漱石の物語をみているといつも現代社会とそっくりの問題を語っていたのだといつも唸らされてしまうのだが、この漱石の時代も社会が上昇気流から下降気流に変わる時代であって、その中の若者の「社会でのロマンのなさ」や「上に上るハングリー精神のなさ」に悩まされている。社会が完成し、目的や目標がなくなったとき、人はどうやって生計を得るのか、あるいは男としてはなにをめざすべきなのかが煩悶されていたと思うのである。いまの時代もそうだろうが。

 さいごはチェ・ゲバラであるが、キューバでカストロの下で社会主義政権の革命を成就させて大臣の地位につくのだが、カストロは小国キューバの生きる道としてソ連の軍門に下る決断をするのだが、ゲバラはそれに納得せず、コンゴやボリビアの革命に身を投じてその生涯を終えるのである。

 漱石の代助以外はあまりにもスケールが大きい人物すぎて、比較する気力も萎えてしまうが、男というものはもともとはそういう冒険や破天荒をのぞむものではないかと思う。礼賛はしないが、サラリーマンのような毎日毎日同じ職場に通って……といった人生をのぞむものではないだろう。

 この人選は危機や変化の中にこそ男の生きる道はあるようなテーマが流れているようで、それはそれでまた危険なことでもある。破壊や危機こそが男の生きる道だといったら、それは戦争や冒険のみの人生を礼賛してしまうことになる。平凡で凡俗でもあるけれど会社勤めの中にも幸福や満足もあるのだというメッセージかないと、いまの世の中を生きてゆくことができないだろう。あまりにも有名人や偉人ばかり見せられると、われわれみたいな小粒な凡人は生きてゆくよすがをなくしてしまうだろう。

 われわれの時代というのは代助の苦悩程度のものである。そして人生の成功パターンがいい会社に入って年金がっぽりが人生の最高目標だとう福祉にぶら下がる人生が礼賛される情けない時代である。紹介された三人はいずれも約束された安住の地を投げ打って危機のなかに自ら身をおくことによって人生の充実を得ようとした。この人選の中にそういうメッセージがこめられているのではないだろうか。


09 02
2007

人生論

『人生は負けたほうが勝っている』 山崎 武也


人生は負けたほうが勝っている―格差社会をスマートに生きる処世術
山崎 武也

人生は負けたほうが勝っている―格差社会をスマートに生きる処世術 (幻冬舎新書 や 1-1)


 残念ながらタイトルのように達観した本ではなかった。ふつうのビジネス処世術の本。

 「負けることで勝つ」ような人格的・精神的な悟りのレベルはかつての仏教で深く追究されたのだろう。釈迦は仏教僧に乞食になれといったし、良寛や西行、鴨長明はそういった人間的比較を超えた精神のレベルに達しようとしていたのだろう。風雅や隠遁のなかに人間の勝ち負けを超えた価値観を見い出そうとしていた。

 現代では負けることは恥だし、「下流」であるし、「落ちこぼれ」の「劣等生」であるし、ましてや人格的・精神的に「優れている」といわれることはまずない。そういう世間の眼目もなくなったといっていいだろう。むしろそういった伝統や評価がなくなったほうが恥だと思うのだが。

 世間では勝つことや優れていることが偉い、優れていることだ、評価されることだ、とばかり吹聴されているのだが、負けるほうが偉い、余裕がある、人との比較や競争に心を乱されることもない、自分の人生と平安を得られるという考え方もぜひ頭の片隅においておいてほしいものである。優劣を競わなければならない人生は悲愴である。そして大多数の人はそういう価値観しか知らないのがこれまた悲劇であるが。

 そういった人格的・精神的悟りに達した啓蒙書というものがこんにちまた見つけられること少ない。勝つこと、優れることの脅迫・強制の時代である。むかしの人はそんなに立身出世ばかりを夢見て人生を生きたのか、画一的に人と競うようなことはなかっただろうと思う。「知足安分」の精神は多くの人に安らぎと幸福をもたらしたことだろうし、そもそも比較対象の数すら少なかったと思われる。

 この本では出世や好かれるための負け、妬まれないための負けなどが語られているのだが、いくぶん功利的である。そして残念ながら達観のレベルに達していない。私もてんで達観のレベルに達していないのでぜひこのタイトルの本から学びたいと思ったのだが、学ぶもの少なしであった。

 少し本文から引用。

「見栄を張るのは、自分のあるがままの姿に満足していないことを示している」

「見せびらかしたいと思うのは、一般的に知られていないからであり、したがって大した業績でもないというのと同じだ」

「そもそも、(財産が)「ある」というのは有限であり、限定的である。それに反して、「ない」というのは無限であり、条件によって縛られていない。あらゆる発展の可能性を秘めている」

「何かを知っているということは、その対象となるものを限定的に考えていることでもある。範囲を定めて、そこから外に広がっていこうとしない結果にもなっている」



 私たちは負けることや劣ることの恐れや恥を刷り込まれて生きている。この考えから脱却できれば、多くの人は平穏に満ち足りて生きられるかもしれない。どんな考え方や常識も、その劣等や低位に満足したり恥と思わなければ、大多数の人は健やかに生きられる。それは覚えておくべき思考や考え方の知恵である。

 大多数の世相に足をひっぱられないで生きたいものである。ただそう思っている私は劣等や低位でいることに誇りや自信をもつことは、やっぱりできないでいるのである。


CIMG0001_111112.jpg清貧の思想 (文春文庫)良寛にまなぶ「無い」のゆたかさ (小学館文庫)もうひとつの愛を哲学する―ステイタスの不安


08 02
2007

人生論

『「人間嫌い」のルール』 中島 義道

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「人間嫌い」のルール (PHP新書)「人間嫌い」のルール (PHP新書)
(2007/07/14)
中島 義道

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 中島義道はいい。日本社会のウソっぽさや欺瞞をみごとにえぐり出し、息苦しさや窮屈を感じている人に痛快な風穴を開けてくれるからだ。人とうまく、仲良く、思いやりをもてという強迫観念に苦しんでいる人には福音になるメッセージを与えてくれる。

 もう一点、中島義道のいいところはほんとうの意味で「哲学」していることだろう。日本の哲学は海外の哲学者の思想をなぞることだとされているが、哲学というのはほんとうは日常の何気ないことをとことん考えることだと思う。人間関係であったり、愛であったり、感情であったり、ごくあたりまえのことを考えるのが哲学だと思う。中島義道は本当の意味で「哲学」しているのだと思う。私の知る限りではもうひとりの日本の哲学者は鷲田清一くらしいしか思い浮かばないが。

 中島義道はなぜ人間嫌いになったのか。

「人間が不純だからではない。不道徳だからではない、利己主義だからではない、むしろ(いわゆる)「よいこと」を絶対の自信をもって、温かい眼差しをもって、私に強要するからなのだ。とりわけ共感を、つまり他人が喜んでいるときに喜ぶように、他人が悲しんでいるときに悲しむように、私にたえず強要している」からだ。

「ひとりで生きてはいけない、他人に対する思いやりをもたなくては生きていけない、協調性がなくては生きていけない、そんな自分勝手では生きていけない……という言葉を――祝詞のように――彼らの耳に吹き込むからなのだ」

「日本社会をすっぽり覆っている「みんな一緒主義」、言葉だけの「思いやり主義」「ジコチュー嫌悪社会」が、少なからぬ若者を苦しめ、「もう生きていけない」と思わせ、絶望の淵に追いやっている」



 私もこの気持ちがひじょうによくわかる。とくに集団での共感ゲームが大嫌いだ。そのウソっぽさや演技性がどうも我慢ならないのである。ゲロを吐きたい気分になる。私は二人関係ではよくしゃべるが、三人関係になるととたんに黙りたくなる。

 中島義道もいっている。

「その和気あいあいとした雰囲気は共感ゲームで充たされ、大量の欺瞞が飛び交い、みなどこまでもよい気分でいたいという欲望がグロテスクなほど露出されていて、気持ちが悪いのだ」



 集団で気持ちや感情を共有するのが私はとりわけ嫌いである。集団になるともう行為は演技や功利で満たされ、欺瞞やウソだらけになる。ついでに集団の雰囲気や圧力が私たちを覆いこむ。私個人ではなく、「集団人」として感情し、行為しなければならないとなったら、とたんにその関係性を拒否したくなる。ひたすら同調や共有がめざされる関係が嫌いなのである。

 日本人はひたすら集団の同調や協調を強要する人たちである。集団に統率されない人間をひたすら嫌う。それはたんに管理者が集団で統率するほうが便利で合理的であるからだと思うが、私はそれがまるで幼稚園児のお遊戯に思えてくる。集団のかたまりとしか生きられない日本社会のつまらなさや窮屈さは絶望的だと思う。私は個人としての私の感受性や行為をたいせつにしたいのである。

 日本社会は「みんな一緒主義」を病気のように信仰し、そこに穴や傷をつける行動や言動や感情を徹底的に嫌う。集団の同調行動に逆らう人間はたちまち排斥の憂き目に合う。その恐ろしさに脅えて、多くの人はしたくもない同調や感情の模倣をおこなう。その欺瞞さやウソっぽさ、みずからの不誠実や仮面性に嫌悪や羞恥しながらも、なおうまくそれを演じなければならないのである。

 もういっそ自分の本心をさらして、好きなように生きよう、人間嫌いに生きようとしたのが中島義道である。私はなにもそこまで人間嫌いに徹しなくてもいいじゃないか、テキトーに愛想よくまわりに合わせていればいいじゃないか、ある程度集団欺瞞から逃れてひとりの時間をもてばいいではないかと思わなくもないが、もちろんそれは自分の弱さや人から徹底的に嫌われたり、排斥されたりする恐ろしさも勘案しないわけにはいかないからである。

「……愛情ですって……? こっけいではございませんか。心ですって? 可笑しくはございません? そんなものは権力をもたない人間が、後生大事にしているものですわ」――三島由紀夫『鹿鳴館』



 私はこの本は人間嫌いのススメとして読むほうがいいとは思わない。そんなのは苦しい、イバラの道である。人から嫌われたり、排斥されたりすることの苦しさなんてみずから進んで体験するものではない。

 この本は「人と仲良くしなければならない」「集団で常時行動しなければならない」「みんなと同じ感情や思いやりをもたなければならない」「人とうまくやることができないのは人間失格だ」と思っている人への癒しやセラピーとして読まれるべきだと思う。なにも人格や集団の「優等生」や「完璧」になる必要などないのだ。

 人とうまくいかなくても、嫌われても、仲間外れにされても、友だちがいなくても、充分それでいいんだ、やっていけるんだ、というメッセージとして読むほうが賢明だと思う。たぶん完璧な人格者をめざしている人は薄氷を踏む思いで、絶壁の淵を歩いているような気分で毎日を過ごしていることだろう。中島義道はそんな人生なんてさっさと捨ててしまえばいいんだと身をもって示してくれているのだと思う。「善人」や「いいひと」の欺瞞や偽善さにうんざりしてきた人にはいい薬になることでしょう。



過去に読んだ中島義道の著作

人生を「半分」降りる―哲学的生き方のすすめ (ちくま文庫)人生を「半分」降りる―哲学的生き方のすすめ (ちくま文庫)
(2008/01/09)
中島 義道

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 皮肉で批判的な視線にユーモラスがあり、けっこう楽しませてもらった。有名欲の愚かしさ、善人の弱さ卑怯さ、専門家はタコ焼き屋台なみに人生が狭い、学界の電車並みの席取り競争、勝者は醜い、親は「自分のため」を子に強要する、など洞察力あふれる人間観察に共感をおぼえた。私も明るく楽しい人間関係がたまらなくウソっぽくて嫌いなのだが、会社の中では人間関係を断つこともできない。



ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)
(2003/08)
中島 義道

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 中島義道はエライと思う。人から嫌われることを極度に恐れる世の中にあって、ひとに嫌われる、ひとを嫌うということをとことん考えつめるのはそうだれにでもできるものではない。たいていの人は嫌われていると思ったら、嫌われないように、好かれるようにと「正当」な方向にすすむ。

 これはまちがいだ。そうではなくて、嫌う嫌われる関係の波間にじっといつづけ、それを探求するというのはもっと大事なことだと思う。恐怖に駆られて逃走するだけでは、その恐怖は絶対に根絶されないのである。「貧乏」であれ、「落ちこぼれ」であれ、「負け組」であれ、すべてそうだ。恐怖から大多数の人のように勝者を正当的にめざすと、じつは恐怖を強め、増強したにすぎなくなるのである。

 中島義道は妻子からとことん嫌われたことにより、嫌うということを徹底的に考えたが、これこそが哲学することだと思う。自分の問題から考えるのが哲学であって、思想界や世間のトピックから考えはじめるのはほんとうの意味では哲学ではない。そんなのは自分のための哲学ではない。人に合わせるための世間話にすぎない。

 私は人から嫌われることをかなり恐れ、人を嫌うことすら抑圧した、他人に従順な奴隷のような人間である。だからこの本の人を嫌う気もちというのがいまいちぴんとこなかった。私は「ひとから嫌われる」という恐れを深く見極めないことには、ほんとうの自分というものを永遠に見出すことができないのだと思う。人から嫌われても気にならない心が必要なんだと思う。



孤独について―生きるのが困難な人々へ (文春文庫)孤独について―生きるのが困難な人々へ (文春文庫)
(2008/11/07)
中島 義道

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 孤独に対する一般論の話を期待するとがっくりする本だが、中島氏の小学校のときの小便もらしの経験とかまったく運動ができなかったこととか、けっこう親近感をもてて笑えた。大なり小なり人は小学生のときこういう気もちはいくぶんか味わっているのだと思う。

 そしてその後、悩みを考え抜くことを通して東大に入学できたのだし、教授にいじめられたことはあっても大学の教授にはなることができたのである。まあ、苦しい人生だが、思考すること哲学することに価値をおくと、悩みの世界は極大化し、自己は超特別な存在になるということである。あと紙一重のところに思考を捨てるラクな道もあるのだが。


「時間」を哲学する (講談社現代新書)「時間」を哲学する (講談社現代新書)
(1996/03/19)
中島 義道

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 過去や時間について考えることは、われわれの悩みや悲しみから解放されるためには、ひじょうに重要な問いである。

 なぜなら、過去こそがわれわれに多くの苦しみをもたらすからだ。

 われわれはふだん過去や時間のことについて疑問に思ったり、過去はどこに行ったのだろうということを問うことはまずない。

 だが、そのような無自覚な姿勢こそが、過去からの牢獄を、わたしたちの身の上につくってしまうのである。

 この本はヨーロッパ哲学の影響のうえに、時間についての考察を進めているが、がぜん、おもしろくなるのは、5章からの「過去はどこへも行かない」からで、過去は「いま」を過ぎれば、すべてどこにも存在しない、一瞬のうちに奈落の底に消えてしまうという捉え方を打ち出しているところである。

 われわれは過去はある、と思っているが、じつは過去はこの地上にはどこにも存在せず、ただわたしの頭のなかにあるだけなのだ。

 頭の中に、過去の等身大のわたしや、経験や行為がおさまってしまうわけなどない。

 このことに気づいた哲学者たち――アウグスチヌス、デカルト、ヒューム、マクタガート、といった人たちは、全身全霊で恐れおののきながら、時間について語っているのである。

 それは同時に過去の呪縛から一瞬にして、解放されることを意味し、過去の非実在性をもっと深く理解すれば、われわれは過去の悔恨や恐れ、不安から、完全に遮断されることになるのである。

 この本はそのことに気づかせてくれた、ひじょうに驚くべき書物である。


カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ (新潮文庫)はこちら。

07 28
2007

人生論

人間の価値観なんて捨ててしまえ。


 私のバイブルの一冊として、櫻木健古の『捨てて強くなる――ひらき直りの人生論』(ワニ文庫)がある。ワニ文庫といえばおもちゃみたいな本を出していて、この本は84年に出て、いまでは絶版でamazonで1円で買える代物である。

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 この本のいっていることは「人間の価値観なんて越えてしまえ。無の世界に遊べ」ということなのだが、私はこういう主張の本でこれ以上の本を読んだことがない。もっとこのエッセンスを知りたいと思っても、同じような内容を語る書物はあると思うのだが、なかなかぴったりの本が見つからないから、私にとってのこれ以上の本はないのである。

「金銭第一主義の人もいれば、地位や名誉をことのほか重視する人もいる。だが、どのみち価値というものは、相対的なものでしかないから、我欲や我執からこれにとらわれると、チッポケな<有>に振りまわされる奴隷となって、<無>をも<絶対>をも見失う結果になる」

「もろもろの相対的な価値を――否定するのではなくて――超えた世界に生きる、すなわち<無>の住人になること」

「貧富貴賎にたいして平気、毀誉褒貶にたいして平気、吉凶禍福にたいして平気、その他のいっさいにたいして平気であれ」

「人間は価値感(観)にとらわれるから、卑小になるのだ。自分はそういうものを超えて、「無価値に」(超価値的に)生きた。だから、世間のモノサシから見れば、「一生を棒に振った男」ということになるだろう。しかし、ほんとうにこれを棒に振っているのは、もろもろの価値に執着している連中ではないのか」

「無価値に生きよ!
 一生を棒に振れ!」

「賢と愚、利口と馬鹿、才能や能力の有無、優劣……そういった価値尺度に、私たちはとらわれすぎているように思われる。そのモノサシで、自分と他人をいたずらに比較して、安心したり、劣等感にとりつかれたりして、心をせせこましいものにしている。"平気"になれないのである」

「<有>にとらわれ、ドーナツの環と穴だけを見つめていれば、小さな違いも大きく見えてこよう。しかし、広大な<無>の世界に出て、そこから眺めて見れは……? 人間おたがい、似たようなもの、ドングリの背くらべ……ということになりはしないか?」

「すなわち、かれらは、他人との比較はいっさいしていないのである。いわば、「人を相手にせず、天を相手として」自分を見、その姿をとらえる。その立脚点から――そこだけから――「われは愚なり」という自覚をなしているのである」

「「おれはダメだ」という式の自嘲や自信喪失、劣等感のたぐいはすべて、「人を相手にする」(自他の優劣を比較する)ココロから生まれるものであり、その裏にはつねに、優越感という小我的な欲望がある。
 一見、自己否定のように見えるこれらの心情は、じつはものすごい(そして醜い)我執から生まれるものだ」



 われわれは人間の価値観だけに生きる。まわりの知人や友人だけの価値観に染まり切る。むこう三軒両隣との優劣や比較だけにこだわる。視野が狭くなって、そういう狭い競争や価値観だけがすべてだと思い込むようになるのである。

 こういう卑小な世界観に凝り固まってしまったら、ときにはそんなせせこましい価値観を笑って、つきとばす必要があるだろう。なんてつまらないことにこだわって、人生をむだに過ごしてきたのだろうと反省すべきである。

 人間の価値観なんて捨ててしまえ。そういう優劣やヒエラルキーにとらわれてしまうと、けっきょくそれだけの人間になってしまう。そしてそれら一喜一憂し、生きるや死ぬかの騒ぎになってしまうのである。はっきりいって、そんな価値観は天や地球からながめれば、ゴミやノミ程度の視点でしかない。そういう視点からものごとや自分をつき落としたとき、自分のせせこましさや卑小さに笑ってしまうしかないだろう。

 人はこういう価値観から抜け出られたときに、ほんとうの成長があるのだと思う。比較や優劣にこだわったり、もだえ苦しんでいるくらいでは、人はなんの進歩も成長もない。世間や社会の価値観を抜け出たところに、人生の豊かさや真実を見い出すべきなのである。

 もし世間の価値観――たとえば金持ちや大企業、学歴などの優劣・ヒラエルキーに圧倒されたとき、私たちはこの視点を思い出すべきなのである。はたしてヒエラルキーの頂点にいる人たちは競争や優劣の価値観に囚われた操り人形、卑小な存在ではないかと疑ってみるべきなのである。そういうヒエラルキーを外した彼らは立派で平穏でおだやかな心をもっているのだろうか。私たちはこういう価値観のないところに安心と成長を見い出せるのではないだろうかと思う。

 この本は私の知恵のバイブルとしていつも心の片隅においておきたい本なのだが、ひとつ疑問が解けないことがある。この本に出てくる「無の達人」のほとんどが「偉人や有名人」であることだ。偉人や有名人であるからこそ、かれらの無価値な生き方も賞賛されるのではないかと。

 はたしてわれわれは街中で見るなんの価値も賞賛もされないような人たちに「人間の価値観を超え出た」ものを見いだすことができるだろうか。かれらは「脱俗」の栄誉が与えられべきものなのか。偉人でなければ、「無の達人」の称号はつかないのか。

 かれらの心の内面を推し量ることはできない。かれらが人間の価値観を超え出ていたり、安心安穏の心をもっているかはわからない。ただヒエラルキーや優劣のそぶりや演出の構えをもっているかはわかる。かれらは社会の価値観の役割をみずから演じているかそうでないかはわかるものである。かれらもヒエラルキーの頂点にいる人と同じようにヒエラルキーの劣位の役割をみずから負いかぶさっているのかもしれないのである。いわば社会の価値観を背負い、みずからが演じているのである。かれも社会の犠牲者――ふたつの両端の道化者かもしれない。

 人間が偉さや優越の気持ちをとるさることは並大抵のことではないと思う。だれだってあの人には負けたくないとか、あいつだけには負けたくない、カッコイイ姿を見せたい、ミジメでブザマな格好を見せたくないと思うものである。そんな心をはたして捨てられるだろうか。

 私たちが人間の価値観やヒエラルキーを否定するときは、自分の負けたり劣ったりしているときのいいわけや慰めに使われがちになるだろう。世間の価値否定は自己肯定の裏返しに使われるのである。人間はそこまで自分の偉さや優越にしがみつきたいものである。しかし負けたり劣ったりしたからこそ価値観や優劣を捨てられるポジションに立てるのであり、成功者はなかなか捨てられないだろうし、そもそもそんな必要すら感じられないだろう。

 人間の価値観など捨ててしまいたいものである。そうすればつまらない悩みやこだわりともおさらばできるだろう。そんなものは人生のムダである。比較や優劣のないところに自分の生きる道を見い出せるかもしれないと私は思うのである。




07 27
2007

人生論

賞賛されるより、無価値のほうが偉い。


 「賞賛商品」でわれわれは自分の価値を補給する。世の中で賞賛されたもの、売れたもの、ベストセラー、ブランドといわれるモノを買うことによって、私は賞賛される人間であるかのように思い込む。

 いわば賞賛の代替品を手に入れるわけだ。私たちはその商品の実質や本質にはあまり興味がないのだろう。世の中から評価され、賞賛されたモノであるということで、その意味を買いとるのである。賞賛されたモノを身にまとうことによって、私は「賞賛された者」となる。

 私たちはベストセラー本を、多くの人が感動したから読むのではない。賞賛された本を読むことによって、私は賞賛される人間になれたかのように思い込めるからである。人気の映画やトップセールスのCDを観たり買ったりするのは、その内容がいいからというよりか、賞賛されたモノを見たり聴いたりすることによって自分も賞賛された人間になったかのように思えるからである。

 世の人々は賞賛がほしくてたまらないのである。そして商品や消費はその賞賛を得られるように、消費者やお客に回されるのである。

 私たちは賞賛や評価がないと、自分が無価値であり、意味のない存在に思えてしまう。存在する価値のない人間に思えてしまう。いてもいなくてもどうでもいいような人間はなりたくない。

 そして私は人から賞賛され評価される人間になろうとするのだが、ふつうの人が多大な評価を得ることなんてまずは不可能である。かわりに賞賛されたモノを買うことによって、私の価値観を補強することができるのである。私たち凡人は貨幣で賞賛商品を代替的に買うのである。

 私たちはたえられない、自分が無価値で、意味のない存在であることが。だれからも必要とされず、愛されず、評価されず、意味もなし、存在している存在していないかも分からない、そんな存在にはなりたくないと思う。

 お金があれば、もっとたくさんの賞賛を買える。りっぱな家に高級車、ブランド品の服やバッグ、そして美術品や知識や学歴の数々。私たちは賞賛そのものよりも、賞賛されるものをいくらでも買える金というものに多くの賞賛を期待して、来る日も来る日も金持ちになることを夢見るのである。

 金で買えるものは賞賛を見た目ではっきりと表わす。こんなにはっきりとわかりやすいものはない。豪華で豪勢なものは賞賛を明確に表わす。私たちはそんなはっきりと目に見える賞賛に圧倒されて、私ももっと賞賛品がほしいと思うのである。

 私はそんな価値を捨てられる人のほうが偉いと思っている。人からの賞賛を欲さない人のほうが勝っていると思う。

 賞賛なんてものは気まぐれな一時の感情であるし、不変であるわけがないし、賞賛されるモノはたえず変わってゆくし、モノはすぐに古びてボロは剥がれるし、永久的に賞賛を保持することなんて不可能である。したがってそういう永久に得られないものをはじめからあきらめたり、引き下げたりした人のほうがよっぽど賢いと思っている。

 だけど私たちは恐ろしいのである、自分が無意味や無価値であり、人からちっとも評価されたり賞賛されないことが。そんなふうに見られることは自分がこなごなに砕け散ってしまうような恐ろしいことに思えてしまうのである。

 この恐怖とセットとなった賞賛欲や認知欲といったものはなんだろう。私たちの心はなぜこのタコのスミのような感情や欲望を吐きつづけるのだろう。本能的なものはいくらかあるかもしれないが、多くは人工物だろう。社会化されるにしたがい、私たちの心はそのように創造・製作されてゆくのである。商業や知識などによる社会の要請によるものだろう。

 私たちの心の創造物はできるだけ剥がしてやるべきである。私の心は自由でもないし、思う存分に生きられるわけでもないし、自分の人生ではなく社会の価値のうえを生きるだけの存在になってしまうからだ。心に内面化された社会化の自我を剥がすことが、私たちの自由であり、解放であるといえるだろう。

 人や社会から無価値であり、無意味であり、存在している価値のない人間であることをめざせばいいのである。賞賛や価値をめざすべきではない。それは社会の奴隷や社会の規格品になることである。私たちはその要請を几帳面に生きるわけだが、この要請には距離をおき、相対化できるようになり、客観視できることが、われわれの生を自由にするのである。

 人や社会から無意味であり、無価値であると思われることを期待したほうが自由に生きられる。私たちは人からの賞賛を求めてしまうがゆえに不自由になり、社会に拘束された存在になるのである。

 私たちは無意味で無価値な存在になれるだろうか。私は賞賛や評価の価値というものをできるだけ外してゆきたいとは思っている。しかしこのブログによる考察も、自分が無価値でないというメッセージのなにものでもない。私はてんで無意味で無価値の存在にはなり切れていないのである。賞賛を求める気持ちがしっかりとここに刻印されている。私はこの気持ちを外せたときにもっと自由に生きられるようになるのだろう。


無価値になるための本。
CIMG0001_111112.jpg清貧の思想 (文春文庫)良寛にまなぶ「無い」のゆたかさ (小学館文庫)寒山拾得―座右版

プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

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