HOME   >>  レイライン・死と再生
03 18
2013

レイライン・死と再生

民話のようにおもしろい――『マヤ神話―ポポル・ヴフ』 A. レシーノス

4122038847マヤ神話―ポポル・ヴフ (中公文庫BIBLIO)
A. レシーノス原訳
中央公論新社 2001-08-25

by G-Tools


 厳かな創世神話というより、おもしろくて楽しい空想小説といった趣がする物語である。空想や想像が弾んだ楽しい読み物である。民話に近い。

 このマヤ文化の神話とされる『ポポル・ヴフ』という文書はスペイン侵略後の16世紀に、それまで文字の知らなかったマヤ人がローマ字で書いたものとされる。かなり新しいもので、古くからあるマヤ神話のもとのかたちをどれほど留めているか疑問だし、キリスト教の創世神話も模倣されているといわれているので、あたらしく創作されたかもとの疑いはある。

 でもおもしろい物語である。とくに第二部の知恵比べのような神話はそれだけで一冊の読み物となるかのようだ。

 マヤといえば生け贄が思い浮かぶのだが、神がそれを要求したエピソードなどものべられているし、うぬぼれによって殺される神などインディアン文化の特徴なのかなと思ったりする。とにかく殺したり殺されたりするまでの狡知にみちた駆け引きがおもしろい。

 混沌のなかに「はじめて言葉があった」などというのはユダヤ教の創世記の影響がみとめらるのはたしかだ。山の小さな動物や鹿や鳥、「ぴゅーま」や、蛇や蝮を神は創造するのだが、神が満足しない理由がふるっている。

「われらを崇め称えることのできないおまえたちは、いつまでも食餌と住屋を谷間や森に求めているがよい。おまえたちの肉は碾臼にかけられて食べられてしまうだろう」

 神は崇拝する者たちを必要としたのは自律していない存在というか、強制されてするものではないと思うのだが。あるいは外部から強制されたキリスト教を揶揄しているのか。

 泥土でつくった人間はうまくいかず、木でつくった人間は産み増えた。しかしその人間はうつろで崇拝することもなかったので殺された。そのとき土甕も皿もなべも人間に噛みつき、犬にも復讐された。この人間はいまでも子孫がいて、それは猿だというのである。そんなわけで猿は人間に似ていると説明されるのである。猿はとんでもない役回りである。

 太陽がなかった前に太陽のような存在としてうぬぼれたヴクブ・カキシュという神は、それゆえに殺されてしまうと物語るマヤ神話は、出る杭は打たれる的な文化を想像してしまうね。

 第二部では殺す殺されるまでの巧緻な駆け引きが親子二代にわたって語られるのが、これがウィットに飛んでいておもしろい。知恵比べを楽しむような物語である。ここで人間に病気や急死の役割をもつようにされる神が出てくるのだが、病気をつかさどる神というのはそう聞かないな。

 畑の仕事のじゃまをする鹿とうさぎは尻尾だけがつかまえられた。そんなわけでいまでも鹿とうさぎは尻尾が短いのだと説明される。鼠の尻尾は焼いた。だからいまでも鼠の尻尾には毛がないそうな。

 伝言を老婆にたのまれた虱は足のはやい生き物にどんどん食べられてゆくのだが、がまは大蛇に食べられてしまい、だからいまでもがまは蛇に食べられるという。蛇は鷹にのみこまれ、だからいまも鷹に食べられるのである。神話のなかにはものごとの理由や起源がこのように説明される。納得したのかな、子どもだったらね。

 この章で出てくるふたりの若者は父の仇をうつのだが、天に昇り、太陽と月になったという。ほかに敵に殺された者たちも星になったという。この物語に太陽や星になる因果やゆえんがあったのかはハテナかな。

 人間がつくられたのはとうもろこしからとされている。日本ではさしずめ米からつくられたようなものかな。神のように世界をみわたせたのだが、神の嫉妬を買ってしまい、叡智と知恵はうちくだかれるのである。

 トヒールという神は胸と脇をさき、心臓をひっぱりだして生け贄にせよといったそうである。そのようにされることがいやだった部族は火をもらいにいかなかったそうだ。

 太陽があわらわれたとき、神と崇められた「ぴゅーま」も蛇も怪鬼も石に変わってしまった。そのために人間はかれらに食べられなかったし、栄光も得られたといっている。動物崇拝から太陽崇拝の変わり目をいっているのかな。 

 てきとうなところだけをかいつまむ抜粋をおこなったが、このマヤ神話はひじょうに素朴な、おもしろみのある、民話的な創世神話といったらいいのか。神話というより、民話なのかもしれない。

 マヤ文明とかインカ文明というのは外から遺跡ばかりが見られるわけだが、こういう神話を読んで内面から理解したほうが近づけるのかもしれないね。ただこの神話は西欧侵略化のあとだし、古来の神官たちに奉じられていた神話とおなじだったかはわからないね。


マヤ・アステカの神々 (Truth In Fantasy)マヤ文明――密林に栄えた石器文化 (岩波新書)カラー版 インカ帝国―大街道を行く (中公新書)図説マヤ・アステカ神話宗教事典図説 アステカ文明

03 16
2013

レイライン・死と再生

悲劇性のある神話――『ペルシアの神話』 岡田 恵美子

4480329056ペルシアの神話 光と闇のたたかい 世界の神話 (5)
岡田 恵美子
筑摩書房 1982-01

by G-Tools


 中高生あたりを主読者層にした本かな。ペルシャ神話にめぼしいほかの本が見あたらなかったのでこの本を読む。司馬遼太郎だってわかりにくいときは子どもの本を読むとかいっていたねw

 ペルシアは井本英一が日本の宗教民俗を比較する際にもちいた共通項のある民俗なので興味があり、その基礎の神話にふれたいと思っていた。

 『飛鳥とペルシア』においてイザナギとイシュタルの冥界下りに共通項をみいだし、ペルセポリスの有翼円盤に正月飾りを見るといった比較化をおこなっていた。松本清張も古代ペルシアと日本のつながりに興味をもっていたらしいから、ちょっと前にそういうブームがあったのかもね。いまはあまり聞かないのだけど。

 この本を読むと古層の神話が多いというより、王の英雄譚が多く占めていて、わたしの知りたいところと若干ズレがあったのだが、英雄の悲劇は胸の打つところがある物語だった。

 善政をしいたとされるファリードゥーン王の三人の息子に末子の王子に国をつがせ、兄たちにほかの国をつがせたために欲をもった兄たちに弟を殺されてしまう。復讐を誓った父ファリードゥーンはひ孫にその兄弟たちを殺させてしまうのである。この悲劇は胸にせまるものがある。

 また英雄ロスタムのおたがいの名を知らないばかりに息子と闘い合い、息子を殺してしまう物語にも悲劇性がつきまとう。父子、兄弟たちが殺し合いをしてしまう悲劇にペルシアはどうして囚われていたのだろうか。

 白髪に生まれたために父から捨てられ、霊鳥スィームルグに育てられたザールに与えられた知恵問答が象徴性に富むのでここにあげておく。

 第一の問い。「三十本の枝をもつみごとな十二本の木を見た。木はなにを意味しているか」
 第二の問い。「二頭の駿馬を見た。一頭は雪のように白く、他の一頭はタールのように黒い。二頭は輪を描いてたがいに後を追いかけつづけるが、追いつくことはできない。この意味は何か」
 第三の問い。「青草の繁る美しい草地を見た。鋭い鎌をもった男があらわれて、ぬれた草も乾いた草も刈りとった。草にも命はあるもの――しかし泣こうが嘆こうがおかまいなし。これは何か」
 第四の問い。「海上に二本の糸杉がそびえ立っていた。そこには一羽の鳥が巣をかけている。鳥が宿っている方は青々と枝葉を繁らせているが、もう一方は枯れている。なぜか」
 第五の問い。「美しい町がイバラだらけの荒野のかたわらにあった。人びとは美しい町のことは考えず、荒れたイバラの野に家をたてた。ある日、地震がおこり、イバラの野に建てた国はことごとく滅亡してしまった。人びとはこの時になって美しい町のことを思い出した」




 答えを順番に。一問「十二ヶ月と三十日」、二問「夜と昼、たがいにいかにかけようと追いつくことはない」、三問「青草はわれわれ人間で、鎌は時。死の時がやってくれば、若かろうと老人であろうと、泣こうと嘆こうと容赦なく刈りとられる」、四問「鳥は太陽のこと。二本の糸杉は一年の半分。片方に鳥がとまっている春と夏は草木が青々と繁るが、とまっていない方は秋と冬で、草木は枯れている」、五問「美しい町とは永遠の館――あの世のこと。イバラの荒野とは仮の世とよぶ現世。この世にあるうちはあの世を考えない。死はこの世の生涯を一瞬に破壊する。あの世のことを考えておけばよかったと思っても間に合わない」


410MDPn8CGL__SL500_.jpg飛鳥とペルシア―死と再生の構図にみる (小学館創造選書 (76))
井本 英一
小学館 1984-06

by G-Tools


517cnTSUNPL__SL500_AA300_.jpgペルセポリスから飛鳥へ―清張古代史をゆく (新コンパクト・シリーズ)
松本 清張
日本放送出版協会 1988-05

by G-Tools


▼マンガもあるのね。
409133315X西(シナル)の国の物語〜ペルシア神話より〜 (フラワーコミックスアルファ)
諏訪 緑
小学館 2010-07-09

by G-Tools


03 08
2013

レイライン・死と再生

神話にたくされた世界の意味―『ギリシャ神話―付・北欧神話』 山室 静

642e810bb70758104748b1472d73a5fe_C414.jpgギリシャ神話―付・北欧神話 (現代教養文庫)
山室 静
社会思想社 1962-07

by G-Tools


 神話というのはいまはストーリー的感性から興味をもつことが多いのかな。『スター・ウォーズ』だとかマンガだとかゲームのような物語的滋養をもとめてのような回路。

 わたしはレイラインから啓発された古代の自然宗教的世界観から読み解きたいという道すじで神話世界にたどりついた。古代の自然宗教のありようを見てみたいという思いである。ささやかな知識しかもっていないと神話の解釈はそうとうむづかしくて、研究者の解釈にすぐ頼りたくなるね。

 ギリシャ神話よりメソポタミア神話とかエジプト神話に古層の自然信仰が色濃くあらわれていると思うのだが、出版で多いのはやっぱり西欧文明の基礎であるギリシャ神話だね。ギリシャ神話をよく知らなくてもその神の名はあちこちで散見するものである。

 この本では解釈抜きにただ物語が語られているわけだけど、まあストーリー的にはおもしろいものがあるね。世界の生まれ方やありよう、現象や由来が神話的物語によって語られているのがわかる。人々はこの不可解で謎の世界を神話的人物で語ることによって、この世界の意味や解釈を知ろうとしたのだろうね。

 星座の由来を神の物語にたくした語っていたり、ベスビオス火山がいつも火を噴いている理由、冬に花や植物が実らない理由、エコーが声だけになった理由、月桂冠を芸術家にかぶせるようになった理由、エーゲ海の名前の由来、地震がおこる理由。むかしの人は神々の行動の結果、いろいろな現在の状態や現象がおこっているという意味を知ったのだね。

 神話は荒唐無稽な人間の空想力によって世界の意味が満足させられたニセの世界観ともいえるかもしれないが、いくぶんかはこの世界の謎や解釈にせまっているし、人間的心理を写し出す影絵のようになっているのはこんにちの心理学的な神話解釈からもわかるだろう。

 空想物語であるのはまちがいないと思う。だけどその解釈・世界像が人々に共有されたとき、その世界観はリアルで圧倒的な現実感をせまってくるのが人間の認識というものであり、こんにちのわれわれだってだれかが正しい・正解だといっている世界観を空想的に捉えているという点で当時の人たちの認識構造と変わっていないのだ。

 神は空想であったかもしれないが、人々とその像が共有されるとき、それは「現実」のものになる。人々と共有される「存在するもの」になる。人間の言葉というのは存在しないものでも存在すると見なしうるありようを、現在ももっていることは養老孟司や言語学の本を読めばわかるね。言葉や空想はみんなで共有すれば、現実に存在するものになる。

 神話は当時の人々にとって現代のサンタクロースや映画とかマンガのように現実には存在しないものと思われていたのか、それともリアルに存在したと考えたのかは、まあ現代でも神を信じる人やまったく信じない人の世界観の違いにもあらわれているようにその信念の違いによってありようも異なっていたのかもしれないね。神殿や像があることによってそれを信じたり、みんなが信じているから信じるという認識のありかたも人のあり方だしね。

 神話の物語を読むときは意味や解釈がどのようにたくされていたのか教えてくれる読み物に接したほうがいいのだろうね。あるひとりの神にたくされた摸造がなんであるのか、こんにちの感性ではだいぶ読みとりにくいものであると思う。その解釈がわかったとき、古代の人たちの世界にたくした心情の意味もわかってくるのかもしれないね。


▼デュメジルとケレーニイの画像がありません。
神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)神話と意味 (みすずライブラリー)ギリシア・ローマ神話―付インド・北欧神話 (岩波文庫)神話学講義 (角川叢書)北欧神話と伝説 (講談社学術文庫)

03 04
2013

レイライン・死と再生

禁欲倫理の政治学―『ねむり姫の謎』 浜本 隆志

4061494627ねむり姫の謎―糸つむぎ部屋の性愛史 (講談社現代新書)
浜本 隆志
講談社 1999-07

by G-Tools


 『ねむり姫』に隠された糸つむぎ部屋の習俗を暴き出すという本でなかなかおもしろかった。ある意味、日本の民衆の夜這いとか奔放な性を暴き出すという究明に似ていて、現代のわれわれは性的な習俗がいかに隠され、抑圧されているかということがわかるかのようである。

 こんにちの『ねむり姫』というのは糸巻き棒にささって眠りについてしまうという話になっているのだが、どうして眠りについてしまうのかいまいちわからない。グリム童話とかペロー童話より古い型の原型を見てみると王女が眠っているあいだに王子は性交して、妊娠してしまうという話になっていたりする。でもこれは王女が大地だとしたら眠りは冬であって、王子はそのあいだに春の種子をうえつけたとしたら、なにもインモラルな話ではないね。

 グリム童話などなぜ性的場面がカットされたり、ゆがめさせられたかというともちろん子ども向けということもあったが、カルヴァン派のピューリタリズム行動原理というものが植えつけられる必要があったのだろう。

 その場の快楽原則ではなくて、禁欲的、先延ばし的倫理といったもので、ブルジョア的価値観や工業的倫理が醸成される必要があったのだろう。性的な隠蔽とは禁欲であり、すぐに快楽におぼれない抑制的な勤勉倫理が当時、めざされていたのではないだろうか。性的な快楽が野放しにされているような環境では、工業的な行動原理も植えつけられないということだろうか。

 農業社会では性は農耕と同一視されており、農耕の収穫や豊穣をねがうなら、人々も性的な活動によって生命や神々の繁盛をうながさなければならないという考えがあった。禁欲は収穫減をねがうようなものだから、禁止されるものであった。庶民の農業倫理というものはそういう感覚のうえに打ち立てられていたので、禁欲や抑制とほどとおいものだろう。

 『ねむり姫』はほんらいは性的な場面も描写した大人のものであったのが、子ども向けの性的場面がカットされた行儀のよいものに改変された。そういうカットされた性的な意味合い、また糸つむぎ部屋に隠された民衆の奔放な性や生活が暴きだされてゆくのが本書である。

 糸つむぎ部屋というのは日本の「若者宿」にも似ていて、男女が知り合う場でもあったし、どんちゃん騒ぎがおこなわれたり、ときには性的な場面になることもあった。公的な権力はたえずこの糸つむぎ部屋を風紀紊乱の罪で禁止・弾圧するのだが、民衆たちは自分たちのムラの倫理を守ろうとした。明治の風紀弾圧とおなじようなことがヨーロッパでもおこっていたわけだ。

 カルヴァン派の禁欲やブルジョアの工業的価値観と農村の倫理や価値観が衝突するような場面で、グリム童話の『ねむり姫』は生まれてきたのだろう。それは快楽をいますぐ満たす倫理ではなくて、快楽を禁欲して先延ばしにする工業倫理である。『ねむり姫』の改変にはそのような歴史の曲がり角が刻印されているのではないだろうか。

 性の倫理というのは工業社会と農業社会の性倫理の政治闘争がおこってきた場所ではないだろうか。こんにちのわれわれは工業社会の勤勉と禁欲の性倫理をおしえこまれていて、性的な意味合いが隠されて意味のわからない『グリム童話』を聞いて育つというわけである。

 童話の中にも勤勉と禁欲か、それとも快楽原理かという政治の綱引きがまぶしこまれているということである。


性の歴史プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)9784480025579.jpg33821.jpg大地・農耕・女性

02 26
2013

レイライン・死と再生

おとぎ話は史実か、自然宗教か―『桃太郎と邪馬台国』 前田 晴人

4061497375桃太郎と邪馬台国 (講談社現代新書)
前田 晴人
講談社 2004-09-18

by G-Tools


 まあまあ、おもしろかったかな。おとぎ話のなかから史実を読みとろうという志向の本で、さいしょの一寸法師と住吉神話の説はいちばん納得したが、つぎの桃太郎と吉備国、浦島太郎と丹後半島になるにしたがい、魅力と説得力をうしなった本かな。

 わたしはおとぎ話に古層の自然信仰を読みとりたいという気持ちが強いのだが、この著者はあくまでも史実が混入した物語だ、史実が読みとられるという立場。

 おとぎ話はそれぞれの土地の由来としてつたわるばあいが多いのだが、まずはおとぎ話がつたわってその場所に落としこまれたのか、それとも土地の史実があってのちに一般的なおとぎ話として流通するようになったか、どちらなのかと思う。たとえば浦島伝説というのはあちこちにあるもので、丹後半島に発祥するものととらえていいものだろうか。

 第一章の「一寸法師と住吉」はいちばんおもしろくて、納得されるものだった。一寸法師って古い『御伽草子』によると難波の里で住吉に参ったおかげで生まれた子であるそうだ。由来が住吉大社の物語だったのね。

 この物語が生まれた由縁はじつは住吉大社の霊験の喧伝であったというのが著者の推理。住吉に参れば立派な子どもが生まれ、高貴な姫君にめぐまれ、金銀財宝を手にし、王朝貴族の一員になれるという効用がこめられた住吉大明神の宣伝ストーリーだったと。ありそうな話だね。

 それと住吉神の系図と景行天皇から仲哀天皇、神功皇后の系図が重ねられたものではないかという推理も興味深いね。神の宣託を無視した仲哀天皇は殺されてしまい、神功皇后の腹の子応神天皇が新羅国を統治することになる。この託宣をくだしたのは住吉大明神であり、応神が航路をゆくのは椀にのった一寸法師のエピソードとおなじではないかという。たしかに住吉大社の神には神功皇后がそえられているね。

 応神天皇は仁徳天皇と同体であるという説がとなえられていて、仁徳天皇こそさいしょの始祖王という説もある。それまでの天皇は架空の神。住吉大社がなぜか重んじられている理由はそんなところにあるのかな。

 第三章では桃太郎と吉備国が検討されている。著者は吉備の鬼伝説、温羅伝説の原型は、王権への反乱と抵抗をくりかえしていた吉備国を、王権がおさえこみ鎮祭するという意図をもってつくられた神話だとしている。
 
 わたしはまた例のごとくレイラインをもちだしてくるのだが、吉備津神社と鬼城山はどうもレイラインでつながっていたらしい。太陽の夏至と冬至のラインがぴったり重なるのがこの地のナゾなんだな。

 温羅(うら)伝承はこのレイラインのたとえではないかと思う。貢船や婦女子を略奪する温羅を退治するためにイサセリヒノミコトは楯築山に石楯を立てて、交戦したが、弓矢はいつも敵方の矢と噛み合わさって海中に落ちた。矢喰宮はその矢を祀っている。二矢を一時に放ち、温羅の左目にささり、その血潮は流水のごとくほとばしった。血吸川はその跡である。温羅は鯉となってのがれたが、ミコトは鵜となって噛み揚げた。そこは鯉喰宮とよばれた。

okayamarei.jpg
岡山レイライン

 吉備津彦神社から夏至の日没には鬼城山があり、経山から冬至の日の出は吉備津神社からのぼる。矢がかみ合って落ちた矢喰宮はその中間にある。吉備津神社から夏至の日の出は吉備津彦神社からのぼり、そのぎゃくに冬至の日没は吉備津神社にしずむ。

 これは太陽信仰をかたった物語であり、鬼というのは冬季の衰退であり、夏季のパワーをあらわすものだったのだろう。吉備の桃太郎というのは古層には太陽のパワーと減退をかたどった物語があったと思われる。この伝承には古代の自然信仰が語られているのであり、史実をみいだそうとするのはムリがある気がする。

 桃太郎の猿・雉・犬は西方の方位、申酉戌を対応させているらしい。滝沢馬琴は西は金気殺伐をつかさどるといっているから、冬の鬼の邪気をそれらで追い払うということなんだろうか。春の方位のほうが強そうだが。

 第四章では浦島太郎と丹後半島が検討されているが、この章はいちばん納得性がないように感じる。浦島太郎伝説はふるくからあった伝承の型があって、そのいわれを丹後半島のあちこちに落とし込んだように思うのだが。丹後半島から浦島伝説がひろがっていったわけではないだろう。

 わたしはおとぎ話に史実や政治の話が語られていたと見るより、古層の自然信仰からの話を読み込みたいと思う。

 なお著者は堺の工業高校の教師をしており、そのかたわらに歴史研究を発表していたらしいね。堺に由縁があるわたしとしては親近感を感じるね。いまは大学の講師もしているのかな。


「お伽草子」謎解き紀行―伝説に秘められた古代史の真実 (学研M文庫)鬼の日本史 上―福は内、鬼は外?新訂版 桃太郎の母 (講談社学術文庫)桃太郎はニートだった! 日本昔話は人生の大ヒント (講談社プラスアルファ新書)日本の昔話 (角川ソフィア文庫)

鬼ノ城と吉備津神社—「桃太郎の舞台」を科学する (シリーズ『岡山学』)日本のまつろわぬ民鬼の研究 (ちくま文庫)丹後半島歴史紀行―浦島太郎伝説探訪住吉信仰―いのちの根源、海の神

02 19
2013

レイライン・死と再生

大地母神と穀物神から読み解きたい―『「世界の神々」がよくわかる本』 東 ゆみこ監修

4569665519「世界の神々」がよくわかる本 ゼウス・アポロンからシヴァ、ギルガメシュまで (PHP文庫)
東 ゆみこ 監修
造事務所 著
PHP研究所 2005-12-02

by G-Tools


 わたしのいまの興味は太陽神や豊穣神の死と再生の世界観なのだが、その接合部分となる性風俗についてさぐったあと、こんどは世界の神話にスライドしてみようと思いいたった。原始宗教、古代自然宗教の解釈から神話を読みとることができるのではないかという推察だ。民話も心理学的解釈ではなくて、自然宗教で解きたいのだけどね。

 世界の神話についての廉価な文庫本はそう充実しているわけではなくて、散発的に出ている程度のようだ。学問的な解釈本から先に読まないとまったく意味もわからない気がしないわけでもないが、まずは内容と物語りも知らないとならないということでPHP文庫のこの本にめぼしをつけた。

 神話というのはゲームやマンガに親和性があるようで、この本に出ているイラストなんてゲーム的な世界だね。世界神話というのは物語的興味から近寄られることが多いようだね。「スター・ウォーズ」とかジョセフ・キャンベルの接近などは小耳にはさむね。

 原始宗教的解釈から世界神話に近づいた人はだれだろうね。吉田敦彦なんて自然宗教と神話が結びついた人のようですでに二冊ほど読んだ。中沢新一もそういうことをやっているようだね。海外ではだれなのだろう。

 この本では七つの世界神話から神のキャラがそれぞれのべられている本で、まるでゲームの登場人物のような紹介。それでも七つの世界神話がかんたんにのべられているので、ざっくり神話をとらえるにはお手軽だね。そういう世界神話を横断して紹介する廉価な入門書があまりないよう。

 わたしの興味はメソポタミア神話がいちばん強いかな。井本英一によりペルシャと日本習俗の共通性を教えられたからかな。エジプト神話は太陽信仰が強かったので日本神話とかなり共通性があると思うので、エジプト神話には多く学ぶことがあるかな。西洋文化の教養としてはギリシャ神話がいちばん流入しているわけだが、古代自然宗教の痕跡をあまり残していないのではないかとすこし興味はうすい。インド神話は神の名前がそれぞれ日本名を与えられているように、かなり流入しているのね。

 それぞれの神話には大地母神や穀物神というものが存在していて、これが古代の世界観の要になると思うのだけど、それが主役でなければないほど新しい神話になるということかな。

 ギリシャでは穀物母神はデメテル。大地の女神はガイア。豊穣の神はアフロディーテとされるが、エロスの要素が強い。ハデスは冥府の王だが、花を咲かせるペルセポネというデメテルの娘を冥府につれさってしまう。怒ったデメテルは穀物の仕事を放棄して地上は荒廃してしまう。ペルセポネを地上にもどすさい、冥府のザクロを食べさせたために一年の三分の一を冥府ですごさなければならない身になってしまう。冬に花や穀物がならないことを説明しているのだろうね。

 北欧神話では大地の女神はフィヨルギンで、豊穣の女神はフリッグ。ケルト神話では大母神はダヌとよばれ、ダヌの乳房というふたつの丘がある。太陽神はブリジッド。インド神話では農業の神はラクシュミーとよばれ、日本では吉祥天女とよばれている。太陽神はスーリヤ。

 メソポタミア神話では豊穣の女神はイシュタルであり、この神の名(「ミュリッタ」ともよばれた)においてバビロニアのイシュタル神殿で、女性は見知らぬ男に生涯にいちど抱かれる義務を負った。イシュタルは冥界に下りてゆくさい、ひとつひとつ身につけていたものを脱いでいき、祭事で読まれたそれはストリップショーのようなものだったといわれている。冥界に監禁されたせいで地上ではあらゆる生殖活動が停止してしまっため、身代わりになった愛人ドゥムジは半年だけ地上に帰ることを許された。作物のサイクルと符合していて、冬の不毛の理由を説明したものだろう。先ほどのギリシャ神話と似ているね。

 農耕の神はマルドゥク。メソポタミアでは太陽より、月の神であるシンのほうが重視されていた。月の満ち欠けによって時を刻み、暦の王だったのである。

 エジプト神話では太陽神ラーが最高の神とされていて、太陽信仰がひときわさかんな文明だった。ラーは昼のあいだは天空を旅し、夜は地底の川を船で移動する。また夜になると天空の女神ヌトにのみこまれ、また翌朝生み出される。死と再生の世界観が色濃く残っているのはエジプト神話だ。フンコロガシのケプリが神とされたのは、糞の中から再生するからであり、玉をころがすすがたが太陽を動かしているすがたに見られたからだ。

 オシリスは農業の神であったが、死者の世界の神となった。穀物は一度冬に死に絶えても、春にふたたびよみがえる。死は恐れられることではなくて、魂の不滅が信じられていたエジプトでは死は再生につながる道であった。ミンは雨の神であり、豊穣と生殖力をつかさどる神であり、男根を屹立させていたという。エジプト神話って日本の神話や民俗を説明するのにいちばん近い気がするのだけど。

 神話というの自然の世界のなりたちやありようを擬人化もしくは動物や神によってたとえられた物語だと思う。物語によって自然が説明されている。自然の現象は神という概念、あるいは超自然物の存在なくして説明することができなかったのだろうね。

 神話は自然がどう捉えられていたか、どう生成するものかと説明された物語だったのだろうね。コスモロジー(宇宙観)だね。どういう意味でその神は捉えられていたのか知りたいね。神のありかたは人々の規範やルールになったのだから、神のありかたを知ることは人々の儀礼や習俗の意味も捉えられることになるね。


不死と性の神話豊穣と不死の神話太陽の神話と祭り人類最古の哲学 カイエ・ソバージュ(1) (講談社選書メチエ)神話と民俗のかたち

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)女神の神話学―処女母神の誕生 (平凡社選書 (197))北欧神話と伝説 (講談社学術文庫)オリエント神話エジプト神話

ホモ・ネカーンス―古代ギリシアの犠牲儀礼と神話女神 -生ける自然の母-     イメージの博物誌 30死と豊穣の民俗文化 (日本歴史民俗叢書)シュメル神話の世界―粘土板に刻まれた最古のロマン (中公新書)ケルト神話と中世騎士物語―「他界」への旅と冒険 (中公新書)

02 13
2013

レイライン・死と再生

「生殖は死や病気の反対物」―『日本人の性と習俗』 F.S.クラウス

日本人の性と習俗―民俗学上の考察 (1978年)
F.S.クラウス
桃源社 1978-01

by G-Tools


 1907年、明治40年に初版が出版された日本の性風俗に関する本である。日本にいちどもおとずれたことのない南スラブ族(バルカン半島周辺の民族)を研究する民俗学者が日本の性についての本を書くようになったのは、スラブの森の霊と日本の花祭りの共通性に気づいたからだという。

 わたしがこの本に注目したのは日本の性習俗を考察する上で欠かせない植物崇拝と性器崇拝をちゃんと考察しているからである。日本の放縦な性風俗はこの自然宗教を欠かして理解することはできないと思う。

 わたしは古い桃源社版(78年刊)の古本を手に入れたが、学生が辞書からそのまま訳したようなひどい直訳調の翻訳なので、読むさいには河出文庫版のほうがいいかもしれない(いずれも絶版)。江戸の枕絵が多く収録されているそう。翻訳がひどいからか、それともクラウスが日本のことをよく理解していないからか、よく理解しかねる文章に出会う。ぎゃくに外側からの日本のまなざしの意外性にも多く出会える。

51e1XMygYYL__SL500_AA300_.jpg名著絵題 性風俗の日本史 (河出文庫)
フリードリヒ・S. クラウス 風俗原典研究会
河出書房新社 1988-11

by G-Tools


 1907年といえば、日本が日露戦争で勝ったあとであり、西洋にも日本の存在がすでに轟いていたころだろう。文明国かもしれないし、だけど日本におとずれた西洋人は、日本の混浴や裸でいても羞恥のない国民性に驚き、楽園を夢見たり、性観念の弱い日本に憤りを感じていたりした。でも南スラブやポーランドでも女性でも夏に家や畑で一糸まとわぬすがたで労働するとクラウスも書いていたりするのだけど。

 幕末・明治ころまでにのこっていた混浴や裸にかんする羞恥心のなさはもう現代の日本人すらもすっかりと知らないものになっているのだが、中野明が『裸はいつから恥ずかしくなったか』という問いを立てたように、クラウスも明治の時点でこのような慣習に疑問をいだいたのだろう。それを植物崇拝や性器崇拝にその源をさぐるほうが正しいのだろう。

 日本ではむかし人間は植物の後裔であり、ふたたび樹木か、ほかの植物に舞い戻るとされていた。死ねば、自分が出てきた植物や樹に舞いもどる。だからこの魂がもとの古巣にたやすくもどれるように、人びとは墓に花や木を植えるといわれている。スラブには死者が墓からもどって近親者の血を吸うという吸血鬼信仰があるが、日本でも盆に死者が帰ってくるのであり、そうたいして変わらない信仰をもっていたことになる。

 日本ではむかし道や十字路、畑などに男根のかたちをした石棒や神体を立てた。性器のかたちのした自然物や造形物に生殖を押し進める霊がこのなかにやどり、畑のみのりはこの霊の恩寵に左右されていると考えるようになった。この霊を崇めるために畑や牧場で性行為をおこなった。

 男根の神はムラの境や境界などに立てられるようになり、それは「賽の神」とよばれるようになった。悪疫をおいはらうものとされた。なぜなら、「生殖は病気や死の反対物」だからである。だから世界中どこでも陰部を露出して悪霊をおいはらうようなことをやっている。日本神話のアメノウズメが性器を露出するのもそのような意味があるのでしょうね。

 性器崇拝や性信仰についての本はざっと調べてみると昭和の終りころまでしか出版されてなくて、こんにち人々の興味をまったく失うようになっている。幕末や明治までのこっていた混浴や裸でいることの習慣がこんにちの人にまったく奇異に思われるように、その根本にあった性信仰も断絶されてゆくのでしょうね。残るのは性の道徳がてんでなかったむかしの日本人の堕落や未開の奔放性だけと思われるようになるのでしょうね。(ネットにはございますが。「性神博物館」)

 試験婚はドイツでもわがオーストリアでも地方でいたるところでおこなわれているとクラウスはいっている。南スラブでは春と秋に、若者は両親、村全体、隣近所の同意をえて乱婚をおこなう。若い人は輪になって踊り、下半身を挑発的に動かし、わいせつな二行か、四行の歌をうたう。農民と都市民の道徳観念はかなり違っていたようで農民は男根の神を崇拝していても、江戸時代の都市民にとってもそれは不快にうつるということがあったようだ。

 結婚式の晩にも乱婚がおこなわれていたようだ。花嫁が若い夫と初夜をおくるまえに、新郎の若い友だちと結婚式の主賓が順に花嫁と関係していたそうだ。この風習はユーゴ、ルーマニア西部、ボスニアの十二ヶ所で確認できたとクラウスはしるしている。これは略奪婚か、略奪婚のふりをしたものだという。豊穣の神は性の独占をゆるさないのである。

 日本の田舎では死者がおとずれる祭日・ボンが、七月の大麦がみのったときにおこなわれるが、死者のために道を明るくし、ムギコガシの輪舞がおこなわれる。この晩には村人の自由が許される。娘に愛人がいないと両親は男をやとってやったという。結婚すると慈悲の女神カンノンのために初夜に村につぐないをしたという。古代バビロンやユダヤ人はアスタルテの女神のために操を捨てたが、日本でもおこなわれており、スラブでものこっていたのである。

 こういう風習は純潔や貞操を守る現代人からは理解できないわけだが、豊穣の神とともに生きた農耕民にとってはリアルな世界だったのでしょうね。実りや収穫がもたらされるのは神々の旺盛な性の繁殖力なのであって、だから人間も神のその交合に参加し、実りや収穫がよりいっそうもたらされるように神に性の捧げものをしなければならない。

 純潔や貞操を守り独占物にすることは、実りの神に来年の収穫をごく少ないもの、飢餓や枯渇をまねいてくれといっているようなものだったのでしょうね。そういう原理を理解できなくなっている現代人はますます地方や農民の祈りや願いを実りなきものにしてゆくのでしょうね。


▼このリンクはわすれないでおこう。
福助もダルマも天狗もルーツは男根!? 身の回りに隠れた性器崇拝


4791758579日本人の性生活
フリートリッヒ・S. クラウス Friedrich S. Krauss
青土社 2000-11

by G-Tools


02 07
2013

レイライン・死と再生

豊穣な性の古代自然宗教とはどのようなものだったか

 古代の自然宗教には無節制で放縦な性の慣習やルールがあったようなのだが、それはどのようなものだったのか。内実や理由がよくわかるシューバルトの『宗教とエロス』の第二章「創造の歓喜」から引用したい。

 古代の性慣習は現代の純潔と貞操の性観念のネガや対比に思えてきて、その違いからうきぼりにされることがたくさんあるように思う。

BK0020-300x300.jpg宗教とエロス (叢書・ウニベルシタス)
ヴァルター・シューバルト
法政大学出版局 1975-01

by G-Tools


「畑地の作物の豊穣とすべての植物類の繁茂のためには、人間たちも少なくともある一定の時期には可能なかぎり無節制の媾合を営むのが効果的であり、またそうすることが必要なのだと考えざるをえない。人間は性を通じて、いわば万象の統治に参与するのである」



 この古代宗教のキーポイントは作物や獲物の豊穣と人間の性行為の同一視である。それらの豊穣と再生をもたらすのは神々の交合である。神々の多産をもたらすためには人間も性行為をいっそう励まなければならないという考えがあったようである。

「母神宗教の人間は性交において力のかぎり奮励することが愛の神を喜ばせ、力づけ、彼らの好意を呼び起こすことができると信じている。性行為はこの時以来神または母なる大地に清新な活力を補給するための奉納という意味をもつようになる」



 性行為は淫乱で俗悪なものというマイナス・イメージをもたらすものではなく、それ自体が人類の生命の糧となる食物をもたらす起源となるものというプラスのイメージをもっていた。性をさかんにしないと食物の枯渇と飢餓がもたらされるなら、人は必死に性に励むのはとうぜんのことである。

 ondaBlog1.jpg
 ▲飛鳥の豊穣の祭り「おんだ祭」

「この宗教の基底をなしているのは、世界は宇宙の根源的諸力の初夜の交わりのなかから生まれた、とする考えである。それ故、エロスこそ万物の本質なのである。この宗教は根本的にエロス的な性格のものであり、いうなれば性そのものの宗教である。愛の神々は生殖と出産の原理を人間の形姿において神格化したものであり、産出行為それ自体の象徴形態である。彼らは人間の性愛関係の擁護神である」



 古代の人々は穀物や動物の命の再生や繁栄だけに性を見たのではなく、この世界や宇宙の無機物までに拡大解釈した。太陽や月、星のような天体も神々の性交によって生み出されると考えた。性交は宇宙的ひろがりをもつ聖なる創生の源泉だったのである。

 img_1500365_65224546_3.jpg
 ▲豊穣の女神アルテミス

「この宗教においては犯罪人とは禁欲者、貞潔な者、律儀者、性的不能者のことである。この宗教の最も敬神的な人物、偉大なる聖女とは、痛飲乱舞しつつ奔放無碍の性欲に身を委ねるディオニュソス的な女性のことであり、ルターをしていわしめれば「極悪の売女」のことである」



 近代やキリスト教の性道徳とはまるで逆で正反対の性観念を、この古代豊穣神話はもたざるをえなかった。穀物や獲物の繁栄は性交によってもたらされるのであり、さかんに性交をおこなうことは自らの食物の糧をふやすことであった。ゆえに性の禁欲・貞潔は食物の枯渇や飢餓をもたらすものに等しかった。しかしキリスト教によって豊穣の女神は淫乱で貞操観念のない悪女・魔女に零落するのである。

「全民衆の歓呼と注視の前で行われる遊女と情夫の公開の性交は(それは今日でもインドネシアで行われている)祭儀の頂点をなすものであり、放縦無制約の集団混交が開始される合図であった。五日間にわたって夫婦間や友人間の拘束が取り払われる。ミュリッタの権利、すなわちすべての女が任意の男を、すべての男が任意の女を求めることを許される権利、を侵害する一切の国家的、社会的な制約が取り除かれる」



 集団による乱交は日本でも歌垣や祭りの日に特別におこなわれた記録や外聞ものこっている。それはこんにち考えるような性的堕落や性道徳の崩壊ではなくて、神に捧げる豊穣や繁栄の祈願だった。人間の性的放縦は食物の糧の大小に直結していたのである。

「純潔はディオソニュス的女性の最高の恥辱である。それ故女性は愛の男神たちに犠牲として捧げられる。処女たちは神殿のなかで祭司もしくは他国の国の男に身を捧げることによって生娘という汚名を濯いでもらう」



 食物の豊穣や繁栄は豊穣の神のさかんな性行為によってもたらされると考えるなら、人間もその行為に参加することによって神々の多産に協力しなければならない。そのように考える人たちの中にあって、純潔や貞操は食物の枯渇や飢餓をねがうようなものだろう。

「婚約した娘たちはそのことによって愛の神々の機嫌を損じることがないように、一定期間神殿のなかで、要求するすべての男たちに身を委ねるべきものとされるからである。つまり、処女を娶って自分一人の所有物にしようとする男は、彼女が遊女としての女性の天職に背くことがないよう、結婚に先立ってこれをすべての男たちに提供しなければならないのである」



 豊穣の神はひとりの人間に占有されることを好ましく思わず、怒りを買うものと思っていたようだ。ゆえに婚約者は神殿や仲人、司祭などに性を捧げる義務をおこなわなければならなかった。性というのは神と共有され、神が来年の豊穣と再生を約束するために奉納のようなものだった。

 t02200464_0237050011829591935.jpg
 ▲シュメールの豊穣の女神イナンナ(イシュタル)

「結婚は性愛に対する宗教上の掟を斥けるものであるために、多産の女神への贖罪が必要とされる。結婚の権利は婚前の万人に対する春の提供によって買い取られる。新婦は遊女としての女性の職務を十分に果たすことによって彼女の結婚の意図、つまり一人の男の排他的独占物になろうとする意図の償いをするのである。従って、売春の義務を拒む女性は世人の侮蔑を蒙らねばならない」



 こんにちの一夫一婦制、貞操、私有観念からは理解もできないことだと思うが、根底には性が豊穣と繁栄をもたらす考えがあるゆえに、独占は神の掟に反するものだったのである。

「未婚の娘たちからも同様に売春の負担を取り除くために、ついに神殿侍女(ヒエロドゥーレ)または神殿娼婦と呼ばれる特別な階級が形成されることとなった。彼女たちは全女性の負債を一身に背負いこみ、愛の女神の好意が変わりなく全女性の上に注がれるよう職務に専念した。それ故、彼女たちは最高の尊敬を受ける身分であった」



 最古の職業は売春だといわれるが、古代には神との交合や交換をおこなう聖なる職業だったのであり、こんにちのように差別される職業としてあったのではない。日本でも遊女は神社や天皇に近しいものであったし、零落は遅かったのではないだろうか。

「売春を一夫一婦制の結果とみなす考え方は現代人が犯す無数の短慮のうちの一例にすぎない。事実はまさに逆であって、売春こそ結婚制度の前提条件だったのである。神殿侍女という特別な階級が存在したればこそ、世俗の制度としての結婚制度は愛の神々の意志に逆らって形成され、確立されえたのである。神に捧げられた遊女たちこそはじめて貞潔な既婚婦人の出現を可能にしたのであって、貞潔な結婚生活がその不本意な結果として(世俗における)売春を招来したのではない」



 神に捧げる神聖侍女があったこそ貞操な一夫一婦制が生まれたのであり、この制度は神聖売春のネガとしてあるのだという。

「性愛の交わりは生命産出の最深の源泉としてそれ自体神聖なのであり、同時にまた、天地開闢の宇宙的初夜――世界創造の神秘――がそこで反復される象徴的行為であるが故に神聖なのである」



 宇宙や天の創造も神々の性交によってもたらされると考えられていたのである。神々の聖婚は冬至や夏至の特別な日におこなわれると考えられており、それゆえに季節の節目には性的行為を象徴した儀式や祭りなどがおこなわれるのである。

 hathor-dendera-123.jpg
 ▲エジプトのヌート神は夫のゲプと交わり、太陽と星々を生む天の神とされていた。

「こうした風習の基底をなしているのは、女性の産出行為と母なる大地のそれは同一不可分の事象であるとみなす考え方である。人間の交接はそれ以来、ディオソニュス神の生殖意欲と力能を刺激しようとする請願のための供犠という意味をもつようになる」



 大地の生命や穀物をもたらす力は神々の交合によっておこなわれ、人間もこれに参加することによって来年の豊穣と再生がさかんになると思われていた。

 600px-VenusWillendorf.jpg
 ▲豊穣と多産をあらわすオーストリアの「ヴィレンドルフのヴィーナス」

「この祭りはこれら二神の神々が多産であるように、そして人々に豊穣な収穫を授けてくれるようにと祈願して奉祝されるのである。そしてこの祈願が成就されるためには特に集団媾合の密儀が効験を現すものとされ、祭りはこの密儀をもって頂点に達する。この宗派そのものが信者に対して、少なくともこの祭りの期間中できるかぎり頻繁に、かつできるかぎり多くの相手と交接することを要求しているのである」



 集団乱交は豊穣と再生をもたらす神聖な神への捧げもの、刺激するものだと思われていたのである。キリスト教やこんにちの禁欲・貞操の道徳からは考えられないことだが、性が収穫や再生と切り離されて考えられるようになったからだろう。

「彼らは、性的奮励によって植物の生長と五穀の豊穣をもたらす力を喜ばせ活気づけうるものと信じており、性と生殖の力を存分に発揮するとき、あたかも自分が神の血縁者、否、神の同格者でさえあるかのように感じることができるのである」



 神々の交合に参加することは象徴的なかたちで天皇の儀式にのこっていたり、祭りや神的儀式のなかに象徴的にのこっているものである。古代自然宗教は絶滅・消滅したのではなく、さまざまなかたちでこんにちものこっている。


02 03
2013

レイライン・死と再生

なぜ宗教は性を嫌悪するのでしょうね―『宗教とエロス』 ヴァルター・シューバルト

BK0020-300x300.jpg宗教とエロス (叢書・ウニベルシタス)
ヴァルター・シューバルト
法政大学出版局 1975-01

by G-Tools


 宗教というのはどうして禁欲や性嫌悪におちいってしまうのだろう。生命の存続と繁栄をもたらす性がどうして否定されるのだろう。

 こういった疑問はもっていたのだが、古代には豊穣の祈願として性が肯定され、放縦すら神的なものとして崇められた時代があったことを知るにつれ、疑問はますますふくらんだ。

 このシューバルトの『宗教とエロス』という本にはたしかにそのような問いが発せられている。第二章の「創造の歓喜」の章では古代の性的放縦が崇めたてられた自然宗教の概要や内実がのべられていて、わたしの知りたいことを満足させる内容だった。

 ただつづく章は神や信仰心のないわたしには深い理解をもたらすものではなかった。第九章ではキリスト教の禁欲主義が考えられているが、ややこしすぎることもあって深い納得性をもたなかった。精神的なことばかり考えられて、たとえば貨幣経済とか私有関係のこととか物質的な条件で説明されなかったことも、わたしの納得をひきださなかったひとつの要因かな。まあ、宗教を深く知らないことが最大の要因だろう。

 さいしょのボタンのかけ違いは生命の誕生に歓喜を感じる自然宗教と、そこに神の全一から引き離された悲劇を見るかの違いだったとシューバルトはいう。生命の誕生に根源的創造の悲劇を救済の宗教は見るわけだから、性にかかわるものを断罪するようになる。

 自然宗教の性は豊穣と再生をもたらすものだから、性的放縦はおおいにすすめられ、神聖なものとして崇めたてられた。この性賛歌の宗教がどうして衰退・断罪させられていったのかがわたしの疑問である。

 日本では比較的ながく江戸時代ころまではそのような性信仰の宗教は生き残っていたのだが、明治の西洋化によって表面上はほぼ根絶させられた。西洋では早くにキリスト教によって断罪させられてきた歴史がある。でも日本でも仏教は性否定と性嫌悪の歴史をもってきたのだけど。

 純潔を守れば人類は死に絶えてしまうのではないかという疑問にアウグスティヌスは「それだけ一層すみやかに神の国は実現され、この世の終わりは早められるだろうに」と答えている。

 宗教には世界否定や世界嫌悪がふくまれているのである。仏教もおなじようにこの世や俗世、肉体を嫌悪し、涅槃に入ることをすすめられるので、この世を否定する意味で俗世に執着させる女性や性を否定した。

 宗教というのはこの世を否定して神の国に入ることをすすめる世界嫌悪をもっている。女性や性はこの世にひきとめるものであって、だから性否定や女性蔑視はもたらされた。

 シューバルトは男性原理と女性原理、男権制と女権制の対比をこの性的嫌悪の歴史に見ているのだが、性を賛歌した創造の歓喜の自然宗教は女権制において育まれたと見る。だから男性は主導権を握るために性をおとしめ、女性蔑視を推進し、権力を握ったのだということがいわれている。性や女体にひきつけられたままでは女権にかしづくままだということだろうか。

 自然を征服・制御するという意味でも、禁欲は力を発揮する。本能のまま欲望のままにおもむいたなら、自然に操られたままである。制服・制御するためには自然から距離をおき、客観視し、操られないようにしなければならない。自然に打ち克つために男は禁欲を必要とし、性や女性を遠ざけ、侮蔑しなければならなかったのだろうか。女性の追放は男性の復讐だったのだろうか。

 シューバルトはキリスト教のエロス敵視によって、現代の合理主義や個人主義、人間存在の客体化がもたらされたという。エロスは市民根性や組織化する法的思考、生の客体化のもっとも猛烈な敵対者だという。だから市民文化は性恐怖にとりつかれているという。予測・制御できないものは、文化や文明の敵なのである。

 キリスト教のような救済の宗教は、個別化の原悲劇からはじまるという。完全化へともどり、全なるものを求め、個別化の根源苦を克服することが、救済の宗教の目的である。エロスには個別化を癒し、一体化し、融合し、全一にもどる力をもっているのだが、宗教はエロスを否定しつづけるのである。あるいは市民社会か。

 頭がこんがらがって要領よくまとめられないので、このへんにしておこう。禁欲の思想には男女の権力や個別化の人類の道、自然と文明など、いろいろ絡まっているようである。自然を制御・コントロールしようとした脳化・文明化をテーマとした養老孟司の問題意識に近づいてくるものがあるかもね。


▼禁欲思想ってあまり問われていないのね。
キリスト教とセックス戦争―西洋における女性観念の構造 (ポテンティア叢書)シヴァとディオニュソス 自然とエロスの宗教 (芸術人類学叢書)カトリック教会と性の歴史バロックの聖女―聖性と魔性のゆらぎ唯脳論 (ちくま学芸文庫)

母権制序説 (ちくま学芸文庫)母権論―古代世界の女性支配に関する研究 その宗教的および法的本質〈1〉男性同盟と母権制神話―カール・シュミットとドイツの宿命 (叢書・ウニベルシタス)無境界―自己成長のセラピー論自然の死―科学革命と女・エコロジー

01 19
2013

レイライン・死と再生

敵は全面的に悪だという「怪獣ごっこ」だね―『一神教の闇』 安田 喜憲

4480063315一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)
安田 喜憲
筑摩書房 2006-11

by G-Tools


 なんだかなあ。一神教が全面的な悪で、アニミズムが全面的な善のような単純な切りとり方には、あきれるほどの稚拙さを感じたな。自文化中心主義の欠点ももろに出ているし。まるで「スター・ウォーズ」や子どもの怪獣番組みたいな単純な善悪二元論の世界をこれでもかも見せつけられた気分。

 一神教が「力と闘争の文明」で、アニミズムが「美と慈悲の文明」。あまりにも単純化しすぎだろ。

 環境破壊の時代には生命や自然を尊び、慈しむアニミズムの世界観を復権せよというメッセージはしごくまっとうなことだと思う。だけど一神教が破壊や殺戮だけをもたらすような単純な切りとり方はできないと思う。

 スケールの大きい文明論には単純化や要素を切りとる簡素化は必要だと思うのだけど、例外や相違点をあまりにも切り去りすぎていると思う。こんな単純な二元論は首肯できない。

 この単純な二元論がなければ、環境考古学という学問は学ぶことが大きいだろうし、参考になることも多いだろう。基本ラインはもっともなことをいっているのだと思う。だけど敵は全面的な悪だという「怪獣ごっこ」を前面に見せつけられたら、この本全体の信頼性もうしなう。

 わたしは古代宗教やアニミズムの世界になぜかひきつけられているのだが、この世界が善だとか、信仰しているという意味でしらべているのではない。ただ単純にこの世界観のことを知りたい、謎を解いてゆく過程で論理がきちっとパズルのように解ける楽しさを味わっているだけだ。

 この世界観を復権せよとか、もう一度信仰せよという主張ももっていない。世界観のロマンを味わっているだけである。ある意味、聖なるものとか崇高なものがなくなった現代合理世界で、そのような価値の高低のある世界をどこか憧憬しているのかもしれない。

 わたしの問いとして豊穣と多淫の世界観がどうして禁欲的で抑制的に変わったのかという疑問をもつにいたった。その変節の答えとして、安田喜憲のいくつかの著作にヒントがありそうな気がした。『蛇と十字架』や『大地母神の時代』などの著作にわたしの問いに近いものを得られるかもしれないと見当をつけた。

 それでこの本を読んでみたのだが、このイデオロギーにはあまりうなづけるものを見つけられなかった。でも前記の著作はいちおう当ってみる気だけど。

 この安田喜憲の主張は宮崎駿の「もののけ姫」のアニミズム世界に近いものかもしれない。しかし敵は全面的に悪という主張はまったくうけいれることができない。まるで小学生のような悪は問答無用で徹底的につぶしてもよいという独善的世界である。これは一神教のように「おぞましい」世界ではないのか。


龍の文明・太陽の文明 (PHP新書)縄文文明の発見―驚異の三内丸山遺跡森を守る文明・支配する文明 (PHP新書)文明の環境史観 (中公叢書)気候変動の文明史    NTT出版ライブラリーレゾナント006

google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top