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03 13
2005

国家と文明の優劣論

『司馬遼太郎。人間の大学』 鷲田 小彌太


4569662765司馬遼太郎。人間の大学
鷲田 小彌太
PHP研究所 2004-10-02

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 私は司馬遼太郎の小説はほとんど読んだことがない。だからこの本を読んで司馬遼太郎がなぜこんなに人気をもっているのか、または日本人の歴史観を探られればいいなと思った。

 私はなんとなく司馬遼太郎の本は好きではなかった。もともと歴史モノよりSFのほうが好きだった。歴史はダサいように思えた。

 歴史好きはナショナリズムの香りもしたのだろう。歴史が全否定された未来モノのほうが正義のように思えたのだろう。歴史を愛することは軍国主義につながるキケンなことだ。そういう警戒も歴史を否定した未来主義にはあったのだろう。

 そう、私にとって歴史はナショナリズムなのだ。偉大なもの、優れたものを歴史に見いだそうとすることは、私にとっては禁じられたことなのだ。だからいま歴史を読もうと思っても、批判や警戒心ばかりがわきあがってくるのである。そのタブー視の呪縛はよいことなのか、悪いことなのか、問いなおすことも必要だろう。

 さて、この本はたんじゅんに司馬文学の魅力をたのしませてもらった。合理主義の『国盗り物語』、『花神』大村益二郎の数奇な人生、『坂の上の雲』の国家の上昇期、『新史太閤記』の嫉妬の避け方、『菜の花の沖』のビジネスの平等性――こんな物語だったのかとか、こんなことが語られていたのかとか、なかなか興味をひきつけられるものだった。

 司馬遼太郎は日本の歴史の中からすばらしい人や立派な事績をひきだしてきたわけである。戦争に負けて、アメリカや西洋のコンプレックスに自己否定ばかりおこなわれている時代に、日本人の自信をとりもどす歴史物語を提供したのである。それは高度成長する日本のビジネス社会におおいに歓迎されたわけである。

 でもそんなものでも私の中に教育された軍国主義の警戒が融けるわけでもない。ビジネスの成功や会社中心主義でも否定の目が根づいているものだから、歴史人物の英雄視すら否定されるべきものに思える。誇りや優越心はもってはならないのである。

 よいことなのか、悪いことなのか、いまの私には判断できない。権力や権威を警戒する心性は否定されるべきではないのはとうぜんのことである。ただそれが自分の人生を否定するような方向に加担しているとなったら、反省することも必要だろう。私の中のそのような傾向は健全な知恵なのか、教育された否定なのか、もう少し探る必要があるのだろう。


03 17
2005

国家と文明の優劣論

『日本人と武士道』 スティーヴン・ナッシュ


4758431043日本人と武士道
スティーヴン ナッシュ Stephen Nash 西部 邁
角川春樹事務所 2004-05

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 武士道について書かれた本だと思ったら、九割方は日米貿易摩擦によって書かれた日米関係論のような本だった。「だまされた」と思わなくもないが、まあアメリカ人からみた日本社会批判は読むべきものがあることはある。

 日本はアメリカの真似ばかりしているが、アメリカの欠点をしっかりと見よ、慣習や伝統のような日本にもよいところがあるといった保守主義のようなことがいわれていた。おもには日本社会批判が興味を魅かれた。

 たとえば日本は集団主義でアメリカは個人主義だから、日本は恥だ、アメリカに学べとよくいわれるが、アメリカはかなり画一主義の国なのだといったことがいわれたりする。

 日本では主体性の発揮が理想とされるが、主観的という言葉は侮蔑の言葉である、日本人の主体性とはマスメディアの世論だと皮肉られたりする。日本人の重厚な感情は公的に表現されず、私的生活にくすぶっているのである。

 日本人が日本のことしか見ないのは、「人類愛を訴える世界的宗教」がないからだというのはなるほどと思った。

 「延命への欲望」を絶つことによって、生を充分に享楽することができるという逆説がある、といったことがいわれている。

 それにしてもこの本は80年代のビジネス書のようなもので、『ラストサムライ』が公開されてから文庫になったようで、むりやりかつぎ出されたような本であるのはちょっとあざとい商売に思える。日米貿易摩擦ってそうとう騒がれたが、こんにちはイラク情勢ですっかり姿形を失ってしまって、いったいどこにいってしまったんだろう。


03 21
2005

国家と文明の優劣論

『戦国武将 頭の使い方』 小和田 哲男


sen1.jpg戦国武将 頭の使い方―「知恵と知恵の戦い」を読む
小和田 哲男
三笠書房 2001-07

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 この本を読んだのはもちろん戦国武将の活躍を知りたいのでも、仕事に活かそうというのでもない。なぜ経営者やサラリーマンは戦国時代を読むのかという問いからである。

 現代の会社と戦国武将ってそんなに似ているのかと思う。経営戦略や人事戦略には似ているかもしれないが、スケールや殺戮という点ではだいぶ異なる。ヒロイックに戦国武将に重ねるのは浅はかなナルシズムだと思うのだが。小粒で小さなサラリーマンが戦国武将に重ねるさまはあまりにも誇大すぎるというものである。

 歴史というのはまったく現在のことだと思う。歴史に自分たちの姿を投影しようとする。これはナルシズムの生んだ架空物語としかいいようがない。歴史の真実なんか人は必要ないのではないかと思う。

 ひとつ気づいたのは戦国武将は全国に割拠していたわけだから、けっこう地元の郷土愛(パトリオティズム)を満足させられるのではないかということだ。各土地の武将たちは地域の人たちの優越心を満足させるのである。

 戦国武将とはおのれのヒロイズムの幻影なのである。仮面ライダーやウルトラマンとなんら変わりはしないヒーロー願望が歴史像をつくるのである。


03 21
2005

国家と文明の優劣論

『司馬遼太郎と藤沢周平』 佐高 信


4334781543司馬遼太郎と藤沢周平―「歴史と人間」をどう読むか
佐高 信
光文社 2002-05

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 司馬遼太郎は国民作家といわれ、経営者やサラリーマンにいまだに多く読まれ、崇めたてまつられている。私は司馬遼太郎にナショナリスティックなにおいを感じとるし、あまり興味を魅かれたことがない。

 なぜ多く読まれたのだろうか、司馬遼太郎はなにをいっていたのか、ということをいま知りたいと思っている。

 それで批判ならこの人ということで、佐高信のこの本を読んだ。ただ佐高信という人は批判や悪口ばかりいっていてこんな人生が幸福なのかという疑問があるし、批判の基準軸みたいなものはひじょうに薄っぺらだと思っているから、留保したい部分はたくさんある。ただ企業批判をつづけた数少ない人としては称賛に値すると思うが。

 この本の中で司馬が読まれたのは、高度成長期の経営者のエゴイスティックな功利主義に、国民国家の壮大な発展に貢献するという位置づけを与えたからだ、という色川大吉の指摘にいちばん納得した。つまり司馬は経営者の功利主義を国家に寄与するものだと思い込ませたのである。国家のために尽くした日本の偉人は私であるという錯覚を与えたのである。罪深い作家である。

 もうひとつ明記しておきたい部分は、司馬は軍国主義の反省から小説を書きはじめたというが、戦前は戦争によって国民を踏みつぶしていたことようなことが、げんざいの会社によっておこなわれているという認識がスポーンと抜け落ちているという佐高の指摘だ。これはかなり重要な問題だ。

 軍国主義を反省したような人が、なぜそれを会社でおこなっているような経営者に支持されているのか、おかしな話である。色川は本当に反省したのなら、あんなにおめでたい小説なんか書けるわけがないといっている。

 私も会社主義がずっと嫌いだったが、そこに戦前と変わらない軍国主義を見たからだと思う。軍国主義を反省した国民が会社の中で同じようなことをやっている、その根深い不信感が私の会社忌避への感情をつちかっているのだと思う。たぶんそれは増えつづけるフリーターやニートの気持ちの奥底にもあるものだと思われる。

 軍国主義や国家主義がほんとうに終わるのはいつのことだろう。そのときまでは会社や仕事に無条件に邁進することができないように思う。それらに利用されるような仕事や人生とはいったいなんの意味があるのだろうかという意識がぬぐい切れない。

 司馬遼太郎は軍国主義を反省しようとしたのかもしれないが、国家主義という枠組みからは抜け出れなかった。国民を踏みつぶす戦前となんら変わらないしくみを批判するばかりか、おおいに称賛する結果におちいってしまった。第二の敗戦の戦犯である。そして会社の中で若者たちや国民を踏みつぶす都合のよいイデオロギーになってしまった。

 司馬は晩年小説を書くのをやめ、エッセイに専念し、国民作家としてくだらない国を導いたと反省していたようにいわれるが、死後その称賛はますます高まっているように見える。司馬が導いた経済軍国主義の反省が省みられないのなら、若者や庶民はこの国からどんどん離反してゆくことだろう。司馬が反省した同じくびきをたどっているように思えてならない。

 なお、この本は司馬遼太郎が支配者の目線で見るのに対して、藤沢周平は庶民の目から見るからよいといったような浅い批判基準で書かれているが、司馬遼太郎を批判したという点で読むべきものがあると思う。とくに石川好と色川大吉との対談によいものがつまっている。


03 26
2005

国家と文明の優劣論

『こんな「歴史」に誰がした』 渡部 昇一 谷沢 永一


4167411032こんな「歴史」に誰がした―日本史教科書を総点検する
渡部 昇一 谷沢 永一
文藝春秋 2000-02

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 このコンビはなんなのだろうな。歴史には学ぶべきものがあるのだが、日本を美化したり、敵対者を屈折した論理で中傷するときには、トンデモ本の部類に入れざるをえない言い方をする。そこで信用がガタ落ちだ。

 日本の歴史教科書はたしかに暗黒史観やコリア史観といったものに毒されていると思う。しかし過去を暗黒にするのはけっして陰謀ではなくて進歩するための批判であるのだし、コリア史観は反日のためではなく、戦時中の日本人自身の反省があるからとり入れているのだと思うのだが。かれらの中傷は屈折して感情的すぎるのでかれらの人間性自体を疑いたくなる。

 自虐史観は戦後からおこったのではなくて、西洋コンプレックスがなせるものだと思う。進んだものをとり入れようとするときにはどうしても自己反省が必要になる。それはけっして自虐とよばれるものではないと思う。なぜこういう物言いしかできないのか。反省を拒否したら進歩はないし同じ過ちをくりかえすのではないか。

 日本人の歴史の誇りや美点を教えることは大切だと思う。しかしそのおかげで国民は戦時中に痛い目に会ったので警戒するのはとうぜんだろうし、誇りや自慢は向上心を終わらせるだろうし、品性に欠けるように思われる。

 ただやっぱり国民のひどい歴史ばかり教えられるのも現代の限定されたしあわせは感じられるかもしれないが、あまりこの国土で生きてきたことに幸運を感じないだろう。これは現政権の利益にかなう歴史像なのか。歴史はどんな面からも見れるから、まずは執筆者の利益と意図をまず読むことが必要なのだろう。

 歴史というのは現代人の利益や満足、価値観からつくられているものである。こういう歴史の書き方はだれが利益を得て満足するのかという視点をもつことが必要なようである。科学のような主観なしの客観性など歴史や人文社会に求めるのは不可能だとますます思う。

 さてこの本は歴史の読み物としてはなかなか興味魅かれるものがあった。

 教科書は29代の欽明天皇を始祖としているらしい、仏教が入ってきたとき先祖が救われないのは困るから仏は先祖の神の姿として現れてきたという本地垂迹説ができたということ、武士は土地の私有権を永代に守るために名を重んじるモラルができた、明治維新は開国によって密貿易をしていた長州と薩摩の利権が失われることからおこった、などいろいろ楽しめる歴史が読める。


03 29
2005

国家と文明の優劣論

『司馬遼太郎―幕末・近代の歴史観』


4309976158司馬遼太郎―幕末・近代の歴史観
河出書房新社 2001-09

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 こまごまとしたエッセイや評論がのせられていて、べつに読むべきものはない雑誌のように思われた。歯ごたえや手ごたえが感じられないものばかりだった。私が司馬遼太郎ファンではないからかもしれないが。

 私がこの雑誌を読んだのは、司馬はなぜ読まれたのか、どんなおもしろさがあるのか、という問いからだった。司馬遼太郎から日本人の歴史観や歴史好きの理由が探られればいいなというもくろみからである。

 司馬のいくつかの特徴としては代表作が高度成長期に書かれ、読まれたということ。『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』はまさしくこの時代である。日本のすばらしき、美しき人物を描き、上り調子のサラリーマンを鼓舞したのである。

 ヒーローや英雄を描き人気を博したのであって、彼の執筆動機である愚かな国の原因の解明から読まれたわけではない。理想をたくした人物を描いたがゆえに彼の執筆動機はみごとに外れたのである。

 司馬遼太郎はイデオロギーや思想が大嫌いだったことがこの雑誌のあちこちからわかった。これはおそらく日本人の歴史好きにも通じるところがあり、思想が嫌いがゆえに歴史の人物から国家や社会を語ろうとするのだろうと私は思った。歴史人物で思想をおこなうのが日本人の特徴なのだろう。

 司馬はこの国が愚かになってゆく昭和の時代を小説にしなかったそうだが、楽天的に読まれる英雄像をつくったがゆえに国民作家となったのだろうが、愚かさの原因を提示しなかったという点で彼は失敗のわだちを埋めることはできなかったといえるのではないだろうか。


04 02
2005

国家と文明の優劣論

『「歴史」はいかに語られるか』 成田 龍一


4140019131“歴史”はいかに語られるか―1930年代「国民の物語」批判
成田 龍一
日本放送出版協会 2001-04

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 たいへんに難しい本であった。繊細すぎるというか、些細すぎることがメインに語られていて、読みとりくにいのである。ただ火野葦平の戦争記やハンセン病や貧困者を語ったルポタージュは読ませるものがあった。

 この本は1930年代の総動員体制にむかう時代に、女性や子ども、貧困者、病者といった「二流の国民」たちを自発的に共同体に組み込んで、あらたな「われわれ」を立ち上げるさまを拾いあげた本ということになるだろうか。

 そこには当事者の想いが抹殺され、兵隊や医師、教師の一方的な読み方や語り方が強制される構造があり、著者はそのさまを繊細に執拗あぶり出してゆき、これには読ませるものがあった。「正義」や「善」が弱者や悪者を一方的に「悪」にしてゆくさまに似ており、正義漢の一方的なまなざしに思わず唸らされるところがあった。

 文筆を専門としない広範な人々を書き出すこと――これが総動員体制の共同体意識に必要だったということである。均一な「日本人」という物語に回収されてゆくわけである。

 このことと歴史を問いかけたと思われるこの本がどう結びつくのかよくわからない。歴史というのは当事者の内面を排除した国民の物語にすぎないということをいいたいのか。なぜこの本はルポタージュの著者のまなざしを追ってゆくのか、読んでいる途中よくわからなかったが、排他的な共同性の回避をめざしているわけなのか。私にとっては判然としない書物であったのである。


04 04
2005

国家と文明の優劣論

『日韓いがみあいの精神分析』 岸田 秀 金 両基


4122040418日韓いがみあいの精神分析
岸田 秀 金 両基
中央公論新社 2002-06

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 新聞やニュースが不毛な論争をくりかえしているからあまり関わりたくない話題だったのが、歴史とは何かという文脈で知りたくなったので、岸田秀の分析を読みたいと思った。

 目をそむけてきた話題だったので勉強することはたくさんあった。国家の関係に精神分析をあてはめればトンデモ本に近いものに感じられるが、岸田秀はけっこう歴史に造詣が深いことに感服した。

 日本のアイデンティティは朝鮮半島の影響を否定することにあり、韓国は日本に文化をあたえたことがアイデンティティになっており、おたがいの価値の否定がアイデンティティの根拠になっているから関係が厄介になるという。

 そのうえさらに日本は西洋に劣等感を抱いたからその補償として自分より劣等の存在を見つけようとして韓国やアジアを差別するようになった。

 国家というのは他国の比較において、あるいは優劣を競うためだけに存在しているように思える。それ自体が存在の根拠ともいえそうである。自国の歴史が優劣感情の温床になるのは当たり前のことなのである。優劣が測られる歴史というのは、ほんとうに史実を現されるのか、かなり疑問に思う。

 日本が建国されたのは白村江で敗北して唐・新羅連合軍が日本列島に攻めてくる脅威からはじまったのだという。外敵の脅威がなければ国家のアイデンティティは必要ないのである。それいらい元寇や西洋列強が攻めてくるたび、日本は強烈なパワーアップや中央集権を必要としてきたのである。

 そこにはストックホルム症候群のような攻撃者との同一視がはたらくから、模倣と差別がおこなわれるというわけである。

 国家や歴史というのは他国との優劣基準でしかない――これは個人の自我も同様であって、われわれはこの愚かな優劣を競い合うという関係からどのようにしたら逃れうるのだろうか。個人の自我なら無我という宗教的方法があるが、国家にそれができるものだろうか。


04 07
2005

国家と文明の優劣論

『時代小説の読みどころ』 縄田 一男


4043671016時代小説の読みどころ―傑作・力作徹底案内
縄田 一男
角川書店 2002-10

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 私は時代小説をまったく読んだことがない。時代劇もほとんど見たことがない。『木枯らし紋次郎』と『必殺仕事人』くらいである。時代劇というだけで興味がなくなる。

 そういう私がこの本を読んだのは、日本人の歴史観が時代小説にあらわれているのではないかと思ったからである。歴史ファンというのは教科書や学術書より、時代小説の登場人物から歴史を認識しているのではないかと思う。日本人の歴史観というのは人物によってつくられているのではないか。

 日本人の歴史観をさぐるという意味合いでこの本を読んだわけである。ほうほう、なるほど、日本人は歴史のこういう人物や物語に興味をもってきたのかと、なにも知らない私は感心したわけである。

 捕物帳が流行ったり、ニヒルな剣豪や忍者ものが流行ったり、ビジネスマンに読まれる戦国・維新モノが注目されたり、股旅ものがブームになったりした。いずれも流行した時代背景からその理由を探り出すことができるだろう。

 ヒーロー像も時代により変遷しており、この本では覇者3代や武蔵、忠臣蔵、次郎長と忠治、新撰組なとがとりあげられていて、その変遷は時代の求めているものを写しているのだろう。

 私は歴史にあまり興味をもたない。もったとしても社会や経済にかんしてであって、人物にではない。多くの歴史ファンは物語に登場する歴史人物から歴史に興味をもつのではないだろうか。

 それは現在に存在しないカリスマを求めての探究のように思える。歴史ファンやビジネスマンはカリスマたる存在がことのほか好きなようである。カリスマのように評価され、認知される歴史人物のようになりたい――歴史ファンはそのよう希求をもっているのではないだろうか。

 かれらの人物評や自我像はいつも結果から見られるだろう。自分自身も歴史の人物のように捉えているのではないだろうか。それは自分を縛る拘束着にならないかと思わなくはないが、杞憂に過ぎないというものだろう。ただ、かれはヒロイズムに染まった人生観をもつことだろう。


04 10
2005

国家と文明の優劣論

『歴史小説に学ぶ』 会田 雄次 江坂 彰 青木 茂


CIMG0002_11112.jpg歴史小説に学ぶ
会田 雄次 江坂 彰 青木 茂
プレジデント社 1995-02

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 雑誌『プレジンデント』にのせられた歴史小説評をまとめたもの。やっぱり歴史小説はビジネスマンに読まれているのである。歴史ものにビジネスを読みとることはそんなに可能なのか。

 この本では津本陽『下天は夢か』、山岡荘八『徳川家康』、池波正太郎『真田太平記』、子母沢寛『父子鷹』、司馬遼太郎『坂の上の雲』、水上勉『一休』など歴史小説の有名なものがとりあげられている。

 私はやはり歴史ものには色を失うような興味しかもてないのだが、『真田太平記』の領民に慕われた信之にはげしく感動し、無頼の姿を子どもに教えた『父子鷹』に興味をもったくらいだ。歴史小説って読んでおくほうがいいのか。

 ヨーロッパでは歴史が昨日のことにように生活の中に生きているのだが、日本は戦後、生活の中から歴史がなくなってしまった、だから歴史小説が読まれるのだと会田雄次が指摘していた。なるほど、歴史の生活からの断絶が、歴史ファンを生み出しているのだな。

 あとひとつ思ったのは、日本の歴史人物は小説なり伝記でとりあげられるが、外国の歴史人物はほとんど紹介されないのは気になるところだ。そもそも外国にこんなヒーローものがたくさん生み出されているのかすら疑問に思える。こんな狭いナショナリズムでOKなのか。

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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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