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05 04
2010

国家と文明の優劣論

『テルマエ・ロマエ』の文明の優越感にもの申す

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テルマエ・ロマエ I (BEAM COMIX)テルマエ・ロマエ I (BEAM COMIX)
(2009/11/26)
ヤマザキマリ

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 マンガ『テルマエ・ロマエ』はマンガ大賞2010を受賞したベストセラーである。ローマの建築技師が日本の先進的なお風呂文化に学ぶというものである。文明の絶頂期にあったローマ人ですら日本の先端のお風呂事情に劣るということである。

 評価が高かったり、おもしろいという人がたくさんいるのだが、文明の「優越史観」というものが大嫌いなわたしとしてはかなり辛口に疑念を呈さざるをえない。わたしはこの自分たちの時代、文明に無自覚の賞賛や優越を感じるほどキケンなことはないと思っている。それは他者を勝手に自分たちに都合のよいように序列づけ、おとしめ、侮蔑し、足蹴にするからである。

 道を歩いていたら、「おまえたちは劣っている、だから俺たちはおまえを自由にする権利がある」といって蹴られるような身勝手さがある。文明の進歩史観や優越史観というものはそれほどキケンな暴虐をはらむ思想であることに無自覚であるほど恐ろしいことはない。といってもほとんどの人が文明の進歩史観に酔っているものであるが。わたしたちは日々、文明の優越感と進歩史観を洗脳され、教育され、植えつけられている。

 たとえば手塚治虫の『鉄腕アトム』では高度な科学技術という先進イデオロギーのシャワーをうけていたし、『ジャングル大帝』では文明の知識をもった先進の者たちが野蛮な動物たちに文明の利器や技術を教えるというものだった。ちかごろでは村上もとかの『JIN』が現代の先進の医学を劣った江戸時代に教えて、助け出すというものだった。映画『猿の惑星』ではそれがひっくりかえっていて、劣ったサルたちが文明をもち、人間を支配するという逆支配であったが。われわれの社会は現代やこんにちが最高であり、先進であり、頂点であるというイデオロギー、洗脳にみちている。


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 この思想がキケンでも害のあるものではないという思い込みは大きな間違いである。人類史上、最悪、凶悪な歴史や汚点をのこしてきた経緯はこの思想が原点や基盤にあったと考えるほうが妥当だ。高度な文明をもった者たちが劣っていて、野蛮で、未開である人たちを助け、導き、救い出してやらなければならないという「文明の使命感」ほど恐ろしき歴史の軌跡をのこしたものはないといってよい。

 近代ヨーロッパがアフリカ人や黒人を奴隷にし、植民地を支配した歴史にはこの思想があったし、アメリカ大陸のインディアンを虐殺し、追い払った正当性を付与したのはこの思想があったからだ。近代の大日本帝国がアジアを支配し、侵略した根底にあったのはこの先進文明のイデオロギーである。つまり文明の進歩したものたちは未開や劣等なものたちを自由にしてよいという思想なのである。こんなにキケンで身勝手で、危うい思想ほどないといってよい。それでも反省もなしにこの文明イデオロギーはこんにちでももてはやされ、日々更新され、シャワーされつづけているのである。

 『テルマエ・ロマエ』では現代日本の風呂文化が古代ローマより優れていて、先進であると対比され、ローマ人は現代日本にしじゅう教えを乞うという優越感をくすぐられる内容になっている。しかしローマ人はわたしたちとおなじ価値観や発想、感覚をもっていたとほんとうにいえるだろうか。かれらはほんとうに劣っていたのか。わたしたちのモノサシや測り方で通用するものだろうか。わたしたちが優れていて、先進であるというのは私たちの勝手な発想、手前ミソな序列でしかないのではないか。だれか知らない文化や価値観の人にいきなり「おまえたちは劣っている、愚かだ、笑いものだ」とけなされるようなものだ。

 「知るか、ほうっておけ、なにを勝手な序列や優越感にひたっているのか」と憤ることだろう。文明の「優越史観」というものはほかの者たちにとっては「トンデモ思想」であり、「ウルトラ迷惑な思想」なのである。しかし人類の歴史はこの「トンデモ優越感イデオロギー」は暴虐のかぎりを尽くしてきた歴史といってよいだろう。人間というものは自分たちが優れていて、最高で頂点で、ほかの者たちは劣っており、最悪を極めると身勝手な思い込みをもちたい人種であるようだ。自分たち以外はサルであり、野蛮な「土人」であり、未開な「原始人」であると思い込みたいのだ。そうすれば私たちは優越感にひたれるし、ときには暴虐や自分勝手な差別や行動の正当化と免罪符すらあたえられる。

 人間の科学や学問すらこの見方に貢献や奉仕をしてきたのだから、人間のゆがんだものの見方というものはどうしようもないもののようだ。中立性や客観性のある科学や学問といわれるものもそうなのだから、ずいぶん気をつけなければならないものだ。人文科学といわれるものはこの種のイデオロギーにそまっていると警戒したほうがいいだろう。

 大げさすぎると思うかもしれない。たかが娯楽や文化だというかもしれない。しかしこの文明イデオロギーは人間の歴史の根っこにつながってきた思想や感覚だとわたしは考えている。またもしこの手前勝手な判断やモノサシで自分の優越感や他者の侮蔑や劣等視をつくるのが人間の特徴だと考えるのなら、このプリズム、色メガネをみずから反省することができるようになるだろう。手前勝手なモノサシで優越感にひたる愚かで、キケンな人物になりたくないものである。


▼このテーマでたっぷり考えました。
「文明」という優越感
「高度な文明」という優劣基準
「文明」と差別
序列と差別をうみだす生物学・人類学について
客観的知識とはイデオロギーなのか
カテゴリ「国家と文明の優劣論

文明の優越感がもたらしたもの
侵略の世界史―この500年、白人は世界で何をしてきたか (祥伝社黄金文庫)表象の植民地帝国―近代フランスと人文諸科学帝国意識の解剖学 (SEKAISHISO SEMINAR)南島イデオロギーの発生―柳田国男と植民地主義 (岩波現代文庫)


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08 15
2005

国家と文明の優劣論

『幻想の地誌学』 谷川 渥


44800858151.jpg幻想の地誌学―空想旅行文学渉猟
谷川 渥
筑摩書房 2000-10

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 未知に対する人間の空想力のすごさを楽しめる本である。テーマは島、月、海、地底、砂漠、密林の美女などで、文学作品を中心に人間の想像力を狩猟してみせる。

 月や地底など人間には知ることのできない未知の領域が、さいきんまではたくさんあったのである。ヨーロッパ人はそこを想像力によって埋めたのである。現代になって、あるいは人は大人になるにしたがって、そういう夢見る世界を失ってゆくものである。たまには神秘や闇の世界を思い出したいものである。


08 14
2005

国家と文明の優劣論

『南方に死す』 荒俣 宏


4087482057南方に死す―荒俣宏コレクション
荒俣 宏
集英社 1994-08

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 荒俣宏の興味やテーマは縦横無尽にひろがっているから、いったいなんの本であるかは整理しにくい。西洋が南の島にみた「楽園幻想」をたどる本といったらいいだろうか。荒俣宏は航海誌や旅行記などの博物学にたいへん興味をもっているらしく、そのへんが中心の本なのだろう。

 西洋は16世紀以降の人口楽園づくりに幻滅し、自然状態こそが楽園なのだと思うようになった。ルソーなどの主張である。それを南の島に見つけたのである。自然の果実はとれほうだいに実り、南の島の住人は労働という原罪から解放されており、裸体で姿をあらわした女性は性に放縦であり、まさしく南の島は楽園だったのである。

 南洋の楽園幻想は文明のネガであり、正反対の概念だったわけである。文明に抑圧されたすべてのものが南洋には存在するように思われた。しかし西洋はしだいに南洋を収奪するようになり、原住民を劣等視や差別して酷使するようになり、自国領にくみいれてしまう。

 現代の歴史すら南洋は西洋に発見されてからの歴史が記述されており、はるか昔にかれらが暮らしはじめた歴史はまったく無視されているのである。

 バリやタヒチ、フィジーやハワイはいまでも観光地としての南の楽園としてイメージされている。文明という抑圧の存在しない島と思い込まれている。それは空想の楽園――人が頭の中で勝手に創り出したディズニーランドのようなものでしかないのではないだろうか。


08 13
2005

国家と文明の優劣論

『未開の戦争,現代の戦争』 栗本 英世


4000263730未開の戦争,現代の戦争
栗本 英世
岩波書店 1999-07

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 戦争を考えるなら、やっぱりヨーロッパの戦争より、未開や人類学の戦争から考えたい。集団の争いの原型があらわれていると思うからだ。(発展史観かな~?) 広範な人類の争いを見たいと思うのだが、後進諸国へは強い興味がもてないことが問題である。

 著者によると戦争にはふたつのイメージの原型がある。始原状態の人間は戦争を常態としていたホッブス的人間観と、文明の害悪に染まっていない無垢で平和的な高貴な野蛮人というルソー的人間観である。人類学はそのふたつの類型にあてはまることになる。

 本書は未開民族のいろいろな戦争の形態がのべられたり、人類学の成果があげられりたりしているのだが、私自身の興味のなさから少しばかりの参考になった本という位置づけになるだろう。私自身は集団はなぜ争い合うのか、もしくは集団内の闘争はなぜひきおこされるのか、ということを考えたかったのである。

 現代の戦争は約九割が第三世界で生じており、約4500万人が死亡した。85年以降は国家間ではなく、国家内の戦争なのである。ルワンダの94年の内戦では50万~100万人の市民が殺戮され、スーダンでは93年の内戦で犠牲者は200万人に達したという。私たちやマスコミは西欧のほうばかり目を向けているから、世界の現状というものをかなり偏ってしか見ていないのではないかと思った。


08 07
2005

国家と文明の優劣論

『人はなぜ戦うのか』 松木 武彦


4062582139人はなぜ戦うのか―考古学からみた戦争
松木 武彦
講談社 2001-05

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 「人はなぜ戦うのか」という本というより、古代日本はどのような戦争の変遷をへてきたかという本である。だから哲学者が考えるような原理・原則の本ではない。私はもちろん哲学者が考えるような戦争原因論を読みたかったのだが、古代史をすこしかじったことがあるので、そっちのほうの興味からもこの本を読んだ。

 考古学からいろいろなことがわかると感心した。著者は農耕社会が不作のリスクが大きいがゆえに戦争がはじまったと見る。また、古代の倭国家は各地に近畿と同等の古墳がつくられたことから、強力な中央集権がかたちづくられたのではなく、各地の英雄が倭の政権を擁立したと見る。なるほどである。独裁権力が成ったのなら、巨大な古墳など各地につくらせなかっただろう。

 著者は戦争の発生メカニズムには二つの視点があるという。人口と資源の関係であり、あとひとつは地位と名誉、理念のコンセンサスである。経済と名誉のこのふたつが絡まり合って、戦争を生みだしているといえるだろう。


08 06
2005

国家と文明の優劣論

『異文化への視線』 佐々木 英昭編


CIMG00011114.jpg異文化への視線―新しい比較文学のために
佐々木 英昭
名古屋大学出版会 1996-03

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 私は西洋がいかにみずからを優越したものとして思い上がり、他国家や他民族を見下したかということを知りたかった。他集団への差別意識がどのようなものか、えぐり出す本を探していたわけである。

 そういう意味ではこの本は参考にはなったが、政治的恐ろしさを喚起させてくれるものではなかった。優越意識は侵略や支配や虐殺をもたらしてきたのであり、たんなる優越感のみに還元できるものではないのである。

 この本はさまざまな文学者をとおして西洋コンプレックスや西洋崇拝、あるいは西洋の他者蔑視などをとりあげていて、バラエティー豊かな異文化への視線を見ることができる。島崎藤村、徳富蘆花、ラフカディオ・ハーン、夏目漱石、またはエドガー・アラン・ポウ、ジュール・ヴェルヌ、T.S.エリオット、ディドロ、モンテーニュ、などかとりあげられている。

 自集団というのはたえず他集団への劣等感にとらわれたり、優越感をもって蔑視したり、序列意識にとらわれているものである。西洋からサルと同等にまなざされるをえなかった日本人は西洋化をめざし、反転してアジアを蔑視するまなざしを手に入れた。集団や国家はこのような比較序列から自由になる道はないものだろうかと思う。

 あと、気づいたことは、科学も西洋中心主義そのものにほかならないということである。真理や普遍性を主張する科学も、西洋の帝国主義に染め上げられているのである。科学も西洋帝国主義であるという視点はしっかりともつべきだと思う。


08 02
2005

国家と文明の優劣論

『大英帝国のアジア・イメージ』 東田 雅博


4623026175大英帝国のアジア・イメージ
東田 雅博
ミネルヴァ書房 1996-03

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 私としては「文明のリーダー」を自認した国の放漫さや思い上がりをもっとえぐり出してほしかったのだけど、この本はそういうことに関してはおとなしめだったので、あまり期待以上の収穫はなかった。

 ヨーロッパの先進国というのは自分たちの文明を最高なものとみなし、アフリカやアメリカ先住民、アジアの民族や文化を徹底的に蔑視した。ヨーロッパの人文科学というのはその思い上がりと蔑視のプロパガンダのなにものでもない。人類学や進化論はヨーロッパ文明や民族を頂点に置く捉え方を無前提に根底にすえているものである。私はそのような知識の自文化中心主義を探りたかったのである。

 この本はヴィクトリア時代のイギリスの総合雑誌の言説を探っており、それはたいへんな労作業だったと思うが、論者によってはさまざな意見があるので、統一した見解を見ることができないのでもどかしい思いをした。

 インド、中国、日本がどのように語られてきたかということがのべられているのだが、インドや中国はたいそう蔑視されているのに、日本はかなり評価が高かった。西洋化の優等生だったということ、なびかないインドや中国にたいする憤りの反動だったそうである。

 文明の中心から離れたヨーロッパが世界史の中心に躍り出たとき、ヨーロッパは他文明を見おろすという放漫さを味わった。科学や知識もみずからを頂点に置き、他文明を劣位に置くという序列をせっせとつむぎつづけた。

 ヨーロッパの超越性を真に受けた日本人もその「教典」をありがたく受けとったのはいうまでもない。私たちはそろそろ知識の「帝国主義的」性質というものをしっかりと見抜くべきではないだろうか。

 知識は真理ではない。自己の優越性の証明のことである。


07 31
2005

国家と文明の優劣論

集団優越の神話


 ことしに入って古代史や歴史学、イデオロギー論、植民地主義の歴史と考察してきたのは、集団の優越感についてである。自集団を優越させるために知識や学問はどのように利用されるのか考えたいと思った。つまり知識は自集団を優越させるためにどのように歪んで見せられるのかということを知りたかったのである。

 古代史や歴史を読んでいると、自集団の優越や優秀さばかりを見せつけられている気がしていやになった。個人的に自慢話ばかりする人はきらいだし、優越を見せつけるに人はその劣等さを見てしまうし、優越の陰にはかならず他者への軽蔑の感情がはりついているし、国家的には戦前の優越神話への警戒感があるわけだ。

 そもそも歴史とは「事実」をあらわすよりか、いかに自文化が優れているのかを示すモニュメントに過ぎないのかという懐疑もある。これは客観的な歴史というよりか、戦前の「皇国史観」と大同小異ではないかということだ。

 その優劣序列の暗黙の前提になっているのが、あまり人に意識されることがないみたいだが、「文明」という尺度である。つまりヨーロッパ的な物質文明を最高におく価値観である。この暗黙の至上価値にむかって、歴史の痕跡は前面に押し出されたり、序列づけられたりする。文明の進歩度合いという大前提のもとに歴史は拾い集められてくるわけである。

 歴史はこの大前提の価値観自体を意識したり、問うことがあまりにも少ないのではないかと思う。ヨーロッパ的物質文明が神のように崇拝されて、その善悪が問われることがない。すこしでも物質文明の神に近いものが評価されるのである。あまりにも当たり前の価値観になっているために、その無前提の価値観が忘れ去られているのである。

 物質文明という神は序列をつくりだす。もし劣っていたり、遅れていたり、未開や野蛮であったりすれば、神に近いヨーロッパが侵略や虐殺をおこなってもよいと正当化されたり、「文明化の使命」という美名のもとに支配されたりする。文明度に優越した国は、優越感の果てに世界中を支配し、あるいは暴虐のかぎりを尽くしてもよいと自らを正当化したのである。自集団優越主義の恐ろしさがここにあらわれている。

 植民地主義の時代に科学や知識はそれらの暴虐に貢献したのはいうまでもない。そもそも知識とは優越序列の道具自体ではないのか。ヨーロッパの白人は、アフリカの黒人やアジア・アメリカの黄色人種を劣等人種と見なし、支配や絶滅の正当化に利用された。「文明という優越感」は近代の世界中の大量の人種の殺戮をまねいたのである。

 このような事態にたちいった理由を探るには、根本に戻って、集団はなぜ優越や卓越を目指すのかという問いからはじめなければならないと思う。集団はなぜ競い合い、優越が目指されなければならないのだろうか。人間はなぜ自集団と他集団を区別しなければならないのだろうか。このような集団の競争の理由を探るには戦争論あたりにあるのだろうか。集団はなぜ競い合うのか、そのような考察をおこなった社会心理学の本はないものだろうか。

 いまのところの私の考察はこのあたりくらいまでである。知識や科学がいかに自集団の優越の道具になり下がっているか、このことをしっかりと頭に焼きつけて、これからは知識と対峙したいと思う。なにが科学だと思う。


07 25
2005

国家と文明の優劣論

『人種概念の普遍性を問う』 竹沢 泰子


4409530305人種概念の普遍性を問う―西洋的パラダイムを超えて
竹沢 泰子
人文書院 2005-02

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 がっしりしていて、分厚いこの本は、所有するだけで高級感がもてる本にしあがっている。といっても、しっかりと頭に入れられなければ何の役にも立たないのだが。

 500ページを越すこの本は読むのにだいぶ時間がかかった。まったく興味がないのでも、またとくべつに衝撃をあたえた一文にも出会わなかった。人種についての本がげんざいではかなり少なくなっており、いきなりこのような大部な著を読まなければならなかったわけである。あまりにも多くの事柄に言及されており、頭の中で整理するのがむずかしいというものだ。

 私は人種差別にとくべつの問題意識や危機感をもっているわけでもない。科学がそのような差別的言説にどのように利用されてきたかを知りたかっただけである。つまり科学の政治学である。

 科学が客観的・中立的立場を逸脱して、集団差別や序列に偏向するような知識をつくりだしてしまうことに、警戒感をもって読んだわけである。つまりは科学も自文化中心主義や自民族優越主義から逃れられないのかという問いである。

 科学者たちは他民族の頭骨のサイズをせっせと測ったりして彼らを劣位に序列づけたりしたのである。科学というのは人類の優劣序列を正当化するために存在するのかと思ってしまう。

 この本はさまざまな学会からの論文があつめられている。ヨーロッパや北米の人種、近代日本の人種、中国やインドの人種概念、また生物学による人種概念などかなり包括的な報告書となっている。

 「人種差別の本質は、集団的な差別であり、人種はそのための標識として使用されているにすぎない」――問題は人種ではなくて、集団への差別観にあるのだろう。集団が争い合うという恐怖がなくならないかぎり、新たな差別標識は再生産されるというものである。


07 18
2005

国家と文明の優劣論

『侵略の世界史』 清水 馨八郎


308935951.jpg侵略の世界史―この500年、白人は世界で何をしてきたか
清水 馨八郎
祥伝社 2001-11

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 文庫では西欧500年の植民地時代をあつかった本はこの一冊くらいしかみあたらないので私の「GREAT BOOK」に推薦します。日本びいきの論理には閉口するところも多いのだが、西欧文明の残虐さや非道さを500年スパンで全体的に紹介した本がなかなかないので、この本はたいへんに参考になり、一気に読んだ。

 もう西欧文明はひどいというしかない。この歴史はなんだと思う。西欧は近代の500年の間に約一億人のインディアンを虐殺もしくは伝染病などで滅ぼし、黒人を奴隷として約一億人を酷使し、そして世界中を思いのまま勝手に侵略、征服、領有化したのである。

 現代の世界もしくは日本の近代はこういう世界情勢から見ないとなにも見えないと思う。はっきりいえば、西欧暴虐の時代はまだつづいているのであり、現在進行中である。この植民地時代のつづきとして現代を見なければならない。

 西欧文明を「善」や「崇拝」として見る見方は支配的だが、「悪」や「残虐非道」として見る視点もぜったいに必要だと思う。先進文明は高度な文明を達成したばかりではなく、高度な大量殺戮や侵略をおこなってきたのである。これは強力な文明に不可避的に付随するものなのだろうかと思う。

 日本は白人支配にたちむかった唯一の有色人種として讃えられることもできるが、そういう対立だけで文明の無条件讃美をおこなったままでは西欧文明の非道さのわだちを踏むことになるだけである。先進文明と呼ばれる者たちがこの500年世界中でくりひろげてきた残虐非道の数々を、文明を讃美するわれわれは忘れるべきではないのである。

 なんだか植民地支配の時代の重要さが忘れられている気がする。現代社会もしくは文明を考えるためにもこの時代はものすごく重要だと思うんだけどな。日本の大東亜戦争や植民地時代、げんざいのイスラム情勢はこの時代から見るとよく見えると思う。


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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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