HOME   >>  書評 歴史
01 11
2010

書評 歴史

『大和民族はユダヤ人だった』 ヨセフ・アイデルバーグ


大和民族はユダヤ人だった―イスラエルの失われた十部族 (たまの新書)
ヨセフ・アイデルバーグ

大和民族はユダヤ人だった―イスラエルの失われた十部族 (たまの新書)


 こんな「トンデモ本」を読んでしまってすいません。でもおもしろかったし、興味ひかれるナゾというのはこういういかがわしい本にぬぐいがたく見つけてしまうのはいたしかたがない。

 この本でいちばん驚いたのはヘブライ語と日本語の類似性である。この頻出する類似性にはナゾを解かなければならないなという気持ちにさせられる。『旧約聖書』と『日本書紀』の類似性はある程度は納得した。私はこれらはたんに文化伝播や文化流入で片づけられると思っている。ユダヤ教やキリスト教が古代につたえられていてもなんらおかしくないと思う。

 おかしなワールドになるのはイスラエルの失われた十部族が大和民族の祖先になったというあたりだ。いくら国を追われたからといって日本まで安住の地を見つけにくるか。こういう発想になるのはユダヤ聖典至上主義というか、聖典の痕跡を現実の世界に見つけたいという宗教的願望によるものだろう。聖典の徴候、聖なるものの片鱗をすこしでも見出したいという熱狂が十部族の足跡をどこまでも解明したいという行為に結びつくのだ。「すごいもの」を見出したいという気持ちは聖なるもの、神格化されたものによういに発動しやすい。

 たいして日本人には「進んだ優れたヨーロッパ人」と「遅れた劣ったアジア人」という対比によるコンプレックスを解消してくれる福音になる。遅れて劣ったアジア人では日本人はなかったという優越感をこの物語はあたえてくれるのだ。日本人は先進で優れたヨーロッパのユダヤ人の末裔だったといわれれば、ずいぶん劣等感をなぐさめてくれる。もしこの劣等感がなければ「それがどうした」で終わってしまう話にすぎない。トンデモ本にはこういうあからさまな劣等感の解消があって、それが透けて見える人にはバカにされる原因になる。劣等感の補填はある人には見えなくなる心理的作用があるのだろう。

 大和民族がユダヤ人の末裔だったという説はとても首肯できないが、言葉の類似性とどうして日本の歴史にはユダヤ教やキリスト教の伝播や流入の事実がのこってないのだろうということが気になる。『日本書紀』はもしかして『旧約聖書』が写されたものとこの本からは考えられる。でもこの著者にはユダヤ人の末裔が大和民族だったという説になるのだが。

 神武天皇は種族の長に「アガタヌシ」という称号をあたえたが、ヘブライ語では「アグダ・ナシ」「集団の長」の意味になる。ソロモン王はさいしょのヘブライ寺院をイウスの街、いまのエルサレムに建てたが、イウスは日本では意味が不明の「伊勢」に言葉が似ていないだろうか。そういうと「イエス」でもおかしくない。大和という言葉はいまいち意味がわからないが、ヘブライ語方言では「ヤ・ウマト」つまり「神の民」という意味になる。この本では書かれていないが、聖徳太子はキリストの神話を模したものだという説もある。『旧約聖書』が『日本書紀』に似ているとは思ってもみなかったが、この本で指摘されているのだが、けっこう類似性があり、日本で書記が編纂されるさい、模して書かれたのかもしれない。

 ではどうして日本はユダヤ教やキリスト教の流入を公式に認めてこなかったのだろう。仏教や神道は正式に認められた国教である。またわれわれはどうしてユダヤ教やキリスト教が近代以前に流入してこなかったという説を信じているのだろう。ユダヤ教やキリスト教はあまりにも神道や仏教に同化・統合されてしまったのか、それとも神道や仏教の影響や支持もしくは中国・朝鮮の影響がつよくてヨーロッパ系の宗教は消されてしまったのか。キリスト教は近代以後に日本につたわったと信じられているが、古代から流入していたと考えるのが妥当かもしれない。ユダヤ人が日本に移住したという説は私はとらないが、貿易や文化伝播もしくは間接的流入はあったと思う。

 さいごにヘブライ語と日本語の類似性をピックアップしたいと思う。

 バレル――見つけ出す
 ばれる――見つけられる

 ダベル――話をする
 だべる――おしゃべりをする

 ハエル――輝く
 映える――てり輝く

 ハヤ――速く、急速に
 はやい――早い

 コール――寒さ
 凍る――氷になる

 カサ――覆う
 かさ――傘

 ナハク――泣く。叫ぶ。
 なく――泣く

 カバラ――人の罪を着る
 かぶる――人の罪を着る、頭などにおおう

 ミカドル――高貴なお方
 みかど――日本の高貴な皇帝

 シャムライ――護衛
 さむらい――侍

 この類似性がヘブライと日本の奥深い関係に信憑性をあたえる。しかも名詞ばかりではなく、動詞もあるのだ。名詞ならたとえばモノが輸入されるさい、冠せられることが考えられるが、動詞はそうとう深く侵入していないとよういにはとりこめないものだろう。日本は明治以降ヨーロッパの言葉をたくさんとりいれたが、やはり名詞がおおかったのではないだろうか。カタカナ用語が街に氾濫しているが、動詞の侵入はすくないように感じられる。ヘブライ語との類似はそれ以上のものを感じさせるのだ。

 とはいっても私は文化の流入はあったと考えるが、ユダヤ人が定住したとまではやはり考えない。こんにち先進の言葉が海外からとりいれられるように古代においても海外の言葉の流入がおこったのだろう。しかしそれにしても深い浸透といわざるをえないが。


比較してみますか
旧約聖書 創世記 (岩波文庫)旧約聖書出エジプト記 (岩波文庫 青 801-2)旧約聖書ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)
現代語訳 日本書紀 (河出文庫)

 日ユ同祖論 ウィキペディア(Wikipedia)


じつはひそかに読みたかったりします。
日本書紀と日本語のユダヤ起源 (超知ライブラリー)聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史―失われた10部族の謎 (Natura‐eye Mysteria)失われた原始キリスト教徒「秦氏」の謎 (ムー・スーパー・ミステリー・ブックス)

驚くほど似ている日本人とユダヤ人 (中経の文庫 え 1-1)古代日本、ユダヤ人渡来伝説日本の中のユダヤ文化―聖書に隠された神道のルーツと極東イスラエルの真相 (ムー・スーパーミステリーブックス)

[超図説] 日本固有文明の謎はユダヤで解ける (超知ライブラリー)日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)

10 10
2009

書評 歴史

『名字の秘密』 多田茂治 金容権


名字の秘密 (宝島社文庫)
多田茂治 金容権

名字の秘密 (宝島社文庫)


 せっかく書評を書いたのにまたもや消えてしまった。さいきんそういうことがおおい。「ま」とか「り」の字だけが入力されてほかは全部消えてしまう。このFC2ブログは書きかけのものを保存してくれるのだが、あたらしいパソコンではなにかの拍子でまちがったキーボードを押すと全部消えてしまう。たまらない。気をとりなおして書きなおす。

 名字の本はいつか読みたいと思っていたが、雑学が満足させられるだけで、いまいち深い追求ができない。ひとつのテーマや謎を掘り進めるタイプの知識ではないので、あまり興味が持続しないと思った。こういう珍姓があるとか、佐藤、鈴木、田中の姓がおおいとか、雑学をあつめるだけでは知識の楽しみはない。

 日本の名字が増えたのは明治からで、江戸時代は名字を名乗れなかったといわれるが、村の「角さん、助さん、おヨネ」だけで通じたのか疑問に思う。日本の名字は歴史上の貴族や武家などの名字がひときわ世間で知られているわけだが、そういう一族や家名はこんにちも綿々とつづいているとしたら、私のような庶民の系譜に連なる無名人はえらい格差を感じるものである。「佐藤」や「後藤」など「藤」のつく名がおおいのは、平安時代から昭和まで権勢をほこった藤原家にあやかりたかったからだといわれる。

 日本の名字の八割は地名からつけられているそうである。「田」や「川」、「山」、「野」などの漢字がおおいというわけだ。名字というのはどこそこに住んでいるだれそれということで、地名が用いられることがおおかったのだろう。

 だけど名字は地名にとどまらず、珍姓はかなりおおく、「壁さん」はいるし、「風呂さん」もいるし、「飴さん」もいるし、「牛さん」もいるように、地名を用いるとはかぎらない。みなさんも珍姓の方となんどか出会ったことを思い出せると思うが、そういう珍姓を背負った人の心情や一家の複雑な心境なんかどんなものだろうと思う。まあ、人を驚かせたり、印象づけたりする楽しみはあるかもしれないが。

 名字はご先祖様の考えや発想でつけられ、それなりの歴史や経緯をへてきたと思われるのだが、多くの人はげんざい家系や系譜をたどれなくなっているのではないかと思う。自分の名字の由来も由縁もわからず、ただ名字や漢字の印象から、名前はつけられたのではないかとぼんやり推測するしかないのではないかと思う。田中なら田んぼの中に住んでいたとか、山本なら山のもとに住んでいたとか。そんな漢字からの解釈しかできないとしたら残念なことだが、ほとんどはそういうものかもしれない。ルーツや歴史をさぐれるのなら名字はもっとたのしめるもになるかもしれないし、由緒や伝統のある名字なら歴史を深められるかもしれない。

 人は名字や名前に縛られてその名が示すような人生を歩むか、あるいはまったく関係なく生きるか。「子」のつく女性は優等生になるとかの本が出ていたが、人間は名前に示されたような生き方をするものだろうか。私はなんとなく名前に示された生き方や好みをなぜかなぞっているような気がする。


名字と日本人―先祖からのメッセージ (文春新書) 日本人の苗字―三〇万姓の調査から見えたこと (光文社新書) 苗字の謎が面白いほどわかる本 (中経の文庫) 苗字と名前の歴史 (歴史文化ライブラリー) 知っておきたい日本の名字と家紋 (角川ソフィア文庫 353)
by G-Tools


10 03
2009

書評 歴史

『大阪「駅名」の謎』 谷川彰英


大阪「駅名」の謎-日本のルーツが見えてくる (祥伝社黄金文庫)
谷川彰英

大阪「駅名」の謎-日本のルーツが見えてくる (祥伝社黄金文庫)


 大阪の駅名に興味がある人なんて大阪に住んでいる人しかいないだろう。京都や奈良のように観光地として成立している土地には歴史やロマンを感じて地名に興味をもつ人はいるだろうが、大阪はそういう土地ではない。この本はたぶん大阪人しか読まないだろう。

 しかし大阪は「日本」という国名の由来になった土地である。東大阪に「日下」という地名があって、そこが「日の本」の由来になったという説がある。ヤマト入りしようとした神武天皇がここでナガスネビコに敗れる。日の神の子孫が太陽に向かって闘ったから負けたという。ここが「日出づる国」の日の昇る地点だったのである。

 日本のルーツだといえば大阪の地名も京都や奈良のように格調高くなるのだろうが、大阪は古代史の歴史を感じさせる町ではなく、みごとに庶民や商業の土地にイメージされている。現代に通じる町として、歴史の産物として葬り去られていないよさとして捉えることにしよう。そういう現代の町に古代を発見する驚きが大阪にあるという主張がこの本にはある。

 ある土地に住んでいると聞きなれた地名の意味や歴史を知りたくなるものである。言葉には意味を求めるし、なんらかの理由があるのだろうと推察するようになる。地名は意味がわからなくてもそのまま通り過ぎてしまうものだが、たまに深く知りたくなったとき、このような本があると重宝するというものである。現在しか知らない地名に意味は認められなかったり、漢字で意味を思ったりするが、歴史を知ることによりその意味がわかるようになる。でも後世の人は漢字で意味を探りがちになるのは避けがたいことだが。

 この本は地名ではなく、駅名である。地名より、駅名のほうが触れる機会が多いということなんだろう。

 大阪の駅でふしぎなことは大阪の玄関口、大阪駅が阪急や阪神ではローカルな「梅田駅」であることである。まあ、大阪の中心はべつに「大阪駅」であるわけではないのだから、ローカル名でもいいのかもしれない。「天王寺駅」も近鉄は「阿倍野駅」で、同じ場所の駅なのにどうして駅名が違うのかと思うが、近鉄は四天王寺をすでにめざしていなかったのかもしれない。

 地名はその漢字で意味を探りがちになるが、古代からあった地名の漢字は当て字であるばあいがおおいように思われる。族がよろしくを「夜露死苦」と書くようなもので、古代の人名なんかまさに苦しまぎれの当て字のようだ。その意味を漢字で探ろうとするのは違うのかもしれない。古代朝鮮語やときに人はポリネシア語までもちだして解釈する人もいるが、漢字はあとからかぶさった語だと考えたほうがいいのかもしれない。漢字での地名解釈はムリがありそうに思える。

 地名を探るためにはたぶん古代史を知らなければならないのだろう。古代の豪族名や意味がオトとしてあり、漢字がかぶさり、意味や解釈がそこで変えられ、また現代の変容をへる。正解なんかほんとうのところわかりようがないから、いろいろな解釈がいわれることになる。あきらかに漢字から解釈したなとわかる意味はあまり信用しないほうがいいのだろう。後付け解釈であることがモロわかりである。やっかいなことに古代の文献にもそういう解釈があることであり、地名というのはいつの時代も原初のつけられた意味や由来はすでにわからなくなっているのだろう。オトや言葉は意味を変えながら存続してゆくものと捉えるべきである。


大阪 地名の由来を歩く (ベスト新書) 大阪の教科書―大阪検定公式テキスト 「地名」は語る―珍名・奇名から歴史がわかる (祥伝社黄金文庫 た 16-1) 京都 地名の由来を歩く (ベスト新書) 駅名から日本地図を旅する本 (KAWADE夢文庫)
by G-Tools

11 20
2005

書評 歴史

『古代中国の文明観』 浅野 裕一


4004309441古代中国の文明観―儒家・墨家・道家の論争
浅野 裕一
岩波書店 2005-04

by G-Tools

 文明観をそれぞれ孔子、墨子、老荘の思想に探るという本である。可もなく不可もなく、いまいち魅力にとぼしい本であるかもしれない。文明観は肯定するより、全面的に否定もしくは不安になるような本のほうが興味魅かれると思うんだけどな。

 儒家は大公・貴族に贅沢な格好や奢侈を奨めていたとは驚きである。そうすることによって身分格差が明確になり、社会秩序が維持されるというのである。こんにちの平等主義からすれば鼻持ちならない考え方である。孔子を支持する人はこういう考え方をもっているのか。でも現実の世の中ってこういうものかもしれない。

 儒家は文明を全面肯定し、墨家は肯定のために節約を説き、道家は文明そのものに批判的であった。はるか2500年も前に文明観のひととおりの型が出そろっていたというのは驚きである。やっぱり私は老荘の逆説的思想に脱帽である。

論語 墨子タオ―ヒア・ナウ荘子

10 29
2005

書評 歴史

『女の民俗誌』 宮本 常一


4006030444女の民俗誌
宮本 常一
岩波書店 2001-09

by G-Tools

 宮本常一のいいところは、シンプルに「生きる」ために働かなければならなかった庶民のすがたを見せてくれることである。

 現代は豊かになってフリーターやニート、専業主婦のように働く意味がひじょうに見えにくい時代になった。なんのために働くのすらわからなくなった。そういう時代の対比として、衣食住のためにあけくれなければならなかった昔の日本人の庶民の姿は、本来の働く意味を見せてくれるように思うのである。癒されるのである。

 宮本常一は「生業」に注目した記録者であったと思う。日本の地方に住む人たちはどのように生き、どのような生業で生計を立てていたのか、ほかの地域とどのようにつながっていったのか、といったことを膨大な旅の記録からつむぎ出してくるのである。日本の各地の人たちの生きる姿が手にとるように見えてきそうな気がするのである。

 日本の女性たちも男とともに当たり前のように働き、出稼ぎや奉公に出たり、行商や、ときには海外に売られたりした姿が、この本に記録されている。女性は働き手であり、婚姻も働き手としてもらわれていったという観が強い。専業主婦のような生き方はここからはまったく見えてこないのである。

 宮本常一の姿勢はつぎのような言葉に、私もたいへん共感をおぼえる。「新聞も雑誌もテレビもラジオもすべて事件を追うている。事件だけが話題になる。そしてそこにあらわれたものが世相だと思っているが、実は新聞記事やテレビのニュースにならないところに本当の生活があり、文化があるのではないだろうか」――私もまったく同感である。新聞やニュースは私の問題や生活をなにも教えてくれないのである。

忘れられた日本人日本残酷物語〈1〉貧しき人々のむれ庶民の発見ふるさとの生活

10 24
2005

書評 歴史

『ビゴーが見た日本人』 清水 勲


4061594990ビゴーが見た日本人―諷刺画に描かれた明治
清水 勲
講談社 2001-09

by G-Tools

 講談社学術文庫は、外国人のみた明治前後の日本人の本を何冊か出している。どのような意図があるのだろうか。むかしの日本人を知るため?、それとも失われた日本人をなげくため? 私は失われた日本人の姿を知りたいという感じでこの本を読んだ。

 こっけいな漫画である。風刺のきつい漫画である。日本人が笑われたり、馬鹿にされたりする風刺のほうが多いのだが、日本人の風貌を絶妙に捉えていると思う。こんな日本人の顔ならいまも見たことがある!、といった顔ばかりである。じつにうまい。

 民俗学者の宮本常一は失われゆく日本の庶民の姿を記録したが、ビゴーは日常の庶民の姿を捉えたという点では宮元常一より絶妙に捉えていると思う。

 ▼参考にネットで見つけた絵をあげておく。まあ、こんな感じである。
 bigo2_7011.jpgbigot-saru1.jpgbigot-nichiro1.jpg

 私のいちばんのお気に入りは79ページ、海の杭のうえにしゃがみこみ、頬かむりした情けなそうな漁師の絵である。なんか悲しそうな目をしているのだが、情けなさが笑える。日本人て手ぬぐいを頬かむりしたりするが、なんであんな情けない格好をできるんだろうと思う。

 もう一枚ケッサクなのが95ページ、ワイシャツや革靴、帽子といった洋装をしているのに、下半身はふんどし一丁というダンディーな男の姿である。むかしの日本人はこんな格好を平気でできていたのである。熱帯の島の格好である。いや、これは上っ面は西洋だけど、性慣習的には土俗的だといいたいのでしょうね。

xSBip1MU.jpg

 ビゴーというフランス人は西欧化と土着のものがせめぎあう明治日本人のすがたを絶妙にスケッチしている。というか、えげつない性格や根性が丸出しにされたような、いやらしい顔をじつにうまく描く。顔とはその人の根性そのものであることを思い知らされる。


10 21
2005

書評 歴史

『驕れる白人と闘うための日本近代史』 松原 久子


4163669809驕れる白人と闘うための日本近代史
松原 久子
文藝春秋 2005-08-24

by G-Tools

 1989年にドイツで出版されたという本である。白人の優越感をくつがえすために書かれたということに興味をもって読んだが、内容のほうはたいしておもしろくなかった。

 日本は明治以前に工業化された社会をもっていたから、西欧なみに工業化に成功したのだという本である。というか、こういう主張はあまり自尊心をくすぐるものではない。西欧化のまえに西欧なみの土台をもっていたと後づけ的に説明されても、あのときは負けてなかったと弁明しているだけのようにしか思えない。勝者は西欧であるといっているようなものである。

 西欧人の優越感をくつがえすのなら、近代以前のヨーロッパの後進性をあげつらうことが叶っていると思うし、オリエントの世界を劣等視し、侵略や虐殺をおこなってきた歴史の残虐性を垣間見せたほうが効果があると思う。

 この本は日本経済が世界の頂点に君臨したかのように思われたときに出版されており、その理由を探るために読まれたビジネス書の位置づけができるのかなと思う。

10 08
2005

書評 歴史

『太平洋―開かれた海の歴史』増田 義郎


4087202739太平洋―開かれた海の歴史
増田 義郎
集英社 2004-12

by G-Tools

 海とは太古から開かれた「交通路」だったと私は思っている。だから海の見直しを図った本には興味がある。

 どちらかというと、私は古代のオセアニアにどのように人が住むようになったのかにボリュームを割いてくれればこの本はおもしろくなったと思うのだけど、ていねいに中世や近代まで太平洋の歴史を描いている。

 エクアドルの遺跡から出土した土器は縄文土器に似ているという説はかなり興味がひかれるのだが、それはプロローグにもちいられただけである。またアメリカは西洋人に発見されたといまだにいわれているけど、さいしょに移り住んだのはもちろんオセアニア人やアジア人である。

 もうひとつ興味があったのはオセアニア人がヨーロッパ人にどのように虐げられたのかという話である。個人的にはこの歴史に人間の優越と劣等の問題が色濃く表れているから私は興味があるのだが、そのテーマになにかをつかめたとはいえない。


02 27
2005

書評 歴史

『戦国の知将 強者の論理』 鈴木 亨


tisho1.gif戦国の知将 強者の論理
鈴木 亨
三笠書房 2004-08-22

by G-Tools

私は戦国武将とか時代劇にはまったく興味をもてなかった。むしろサラリーマンが戦国武将に自分たちの姿を重ねる姿はなさけないと思っていた。サラリーマン文化というものが大嫌いだったのだ。

 だからこの本は人は戦国武将になにを求めるのかという視点から読まれた。サラリーマンや現代人は戦国武将に自分のどのような欲望を投影しているのだろうか。

 まあ、たしかにサラリーマンと共通しているところはあるのだろう、人を使ったり、賞罰をあたえたり、戦術や戦略を練ったりと。歴史の人物から学ぶことはあるのだろう。

 私は武勇や人の上に立ったり、人を使ったりすることになんの興味ももてなかったから、戦国時代には興味をもてなかった。歴史というのは自分たちの価値観が色濃く投影されるものだ。というより自分たちの価値観でしか歴史は見えない。いいや、自分たちの価値観が歴史の一部を浮上させるのだ。これが事実の歴史といえるのだろうか。

 現代サラリーマンの立身出世の欲望として戦国時代は伝承の闇からあらわれた。司馬遼太郎は戦国時代が日本でゆいいつ実力主義の時代だから評価するのだといっていた。

 私はサラリーマンのような卑小で奴隷的な存在が、死を賭した戦国武将と比べられるわけがないと思うのだが、戦国ヒーローはその卑小さを自覚したうえでの願望だと思うことにしよう。


02 22
2005

書評 歴史

『歴史から何を学ぶべきか』 小和田 哲男


owada11.jpg歴史から何を学ぶべきか―教養としての「日本史」の読み方
小和田 哲男
三笠書房 2004-10

by G-Tools

 なかなかいい本だった。歴史の誤った思いこみにおちいらないために読んでおきたい本である。

 私は歴史があまり好きではないからすぐ疑いやこんなわけないだろうかとか、英雄史観や天下人史観とかにすぐ反発したくなるし、結果からの歴史とか正義が勝つみたいな歴史とかに疑いの目をもちたくなる。

 歴史にすなおにのめりこめるタイプではないので、とくにサラリーマンがこじつけるような戦国武勇伝みたいなものが好きではなかったから、現代人の好みや欲望によってゆがめられる歴史というものにもかなり警戒してしまう。だから歴史の懐疑論や認識論はまえから読みたかったのだが、あんがいこういう本はないのだな。

 歴史好きの人にとってはこういう歴史を疑う本ってなかなか手にとりにくいのではないだろうか。戦国武将や維新志士とか、太古の日本人とか、歴史のおもしろさやロマンにすぐにのめりこめる人にはことさら読んでほしい本である。でもなんらかの疑いや疑問をもたないとなかなかこういう本には目が向かないものだが。

 この本ではたとえば歴史から教訓を学ぶべきだといわれるが、昔におこったことを現代にまったくあてはめるのは危険があると後醍醐天皇の例をあげながら説明されていたりする。教訓を学ぼうとする性急さからは信長の奇襲作戦のように創作された歴史も生まれてくることを警告している。

 歴史というのはたいてい勝利者側から書かれるから敗者の事実さえ消されてしまうだろうし、英雄や偉人のみが歴史をつくり、庶民やその他の人たちはまったく何の意味もなく生まれて死んできたという印象を生み出すし、英雄はますます天才化され神格化されることになってしまう。

 歴史にもしもの視点を導入することで見えてくることがあることも教えられる。信長が本願寺・一向一揆をはげしく屈服させていなかったら、武家政権や公家政権ではないまったく新しい百姓政権や寺家政権が生まれる可能性があったことが見えてくる。

 歴史教科書はそのときの通説や定説をもとに書かれているから十年二十年たてばそれらは屍と化すことが少なくないといっている。「通説は書き換えられるためにある」といってもよいかもしれないのである。

 私はあまり歴史が好きではなかったが、ぎゃくに戦国武将や維新志士たちの物語にのめりこめる人たちを羨ましく思ったりする。どうやったら興味をもったり、好きになれたりするのだろうと思う。歴史に疑うことも必要だが、やはり人間の歴史の宝庫なのだから学ぶべきことが多くあるのは疑いないことである。


google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top