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02 16
2008

知識論

『統計数字を疑う』 門倉 貴史


統計数字を疑う なぜ実感とズレるのか?
門倉 貴史

統計数字を疑う なぜ実感とズレるのか?


 統計数字を疑ったことはあるだろうか。あるいは実感と違うなと思ったことはあるだろうか。統計というのはうのみにするのではなくて、複数の角度から疑う必要があるようである。

 この本を読んで信じてきた統計や実感がそうではないかもしれないという感を味わった。つうじょう私は統計をうのみに、もしくは漠然と信じる傾向があるが、さまざまな角度から批判がくわえられる不確実なものであることを知った。

 もしかして数字でこの社会を捉えることなんてじつは不可能なんじゃないかという思いもきざす。世の中なにひとつ確実なことはいえないんだと。

 こういうことはじっさいにデータをあつめて統計をつくったことのある人にはよくわかる経験なんだろう。たとえば絵を描いたり、作文を書いたりして自分はなんてヘタなんだろうと思うことがあるだろうが、統計に限らず、学問や科学においても創作者はいつもそういう懐疑を抱きつづけるものではないだろうか。こういうところからこの世を捉えることがいかに難しいことか知ることができるのではないかと思う。

 この本は一般的な統計をあつかっているのは第二章までで、それ以降は聞いたこともいなような経済指標のデータの話なんかが出てきて、かなり専門的で私にはだいぶつまらなかった。一般的な数字で全ページをついやして、各項目をもっと掘り下げてほしかった。

 みなさんは知っていただろうか、平均初婚年齢の統計というのはそもそも未婚者はふくまれないことを。初婚なのだから当然なのだが、もしふくまれたら年齢はどこーんと落ちるだろう。平均寿命はゼロ歳児の死亡もふくめるからかなり寿命が落ちるわけだが、もし10歳までを除外したら、数値はかなり高くなっていただろう。なんか意図があるのだろうか。

 割れ窓理論は割れた窓を放置しておくと犯罪が増えるという理論だが、私もなるほどと思うのだが、この本では少子化により犯罪をおかしやすい若年人口が減ったことにも要因を求めるべきだとしている。データの因果をそうかんたんに結びつけることはできないのである。

 有効求人倍率が発表されるが、これはハローワークを通しての数字であって、こんにちではネットや情報誌、フリーペーパーなどで求人をみつけるのも多くなった。はたしてこの数字は信頼できるといえるのだろうか。

 統計を疑い出したら、漠然と思い描いていた社会のすがたに目隠しをされたような気分を味わう。世の中数字で捉えられたものと違うかもしれないし、数字で捉えることなんて不可能かもしれない。しかし私たちは数字をほかの角度から疑う必要があるのだろう。不明確で不確実な世の中と向き合うことに我慢して生きるというのが人間の生であり、マスコミや数字で踊らされたり、だまされないために必要な覚悟なのだろう。だから私たちは探究してゆくしかないのである。



データの罠―世論はこうしてつくられる (集英社新書) ダメな議論―論理思考で見抜く (ちくま新書) 行動経済学 経済は「感情」で動いている (光文社新書) 「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ (文春新書) 「あたりまえ」を疑う社会学   質的調査のセン (光文社新書)
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02 16
2008

知識論

小さな世界であったころの認知欲求



 どこかに書かれているのか見つけられなかったが、老荘思想にはむかし小さな世界に住んでいる人たちは世の中の多くを知らず、そのために満足して暮らすことができたといわれている。おおくの情報は、私たちを焦燥や悩み、苦しみの中に放り込むのである。

 その中には認知欲求――名誉や称賛をもとめる心も含まれているだろう。私たちの世界はTVや新聞によって大きく広がり、そのための認知欲求もかなり強大なものになったのではないだろうか。

 太古の日本を想像してほしい。山間に囲まれ、河川にさえぎられ、情報の遮断がおおくあったころの日本では、とうじの人たちはこんにちの私たちのように多くの人に認知されたいという欲求をもっただろうか。せいぜい自分の村や町、あるいは近隣に囲まれる人たちの認知に満足していたのではないだろうか。

 情報は私たちの認知欲求をつりあげ、私たちの欲望を大きなものにする。近隣や村での認知に満足するような性根を許さなくなるのである。情報の世界の広がりは、そのまま私たちの欲望の大きさや根深さも規定するのである。

 太古の人たちはこの日本列島の中で情報をどれだけ伝えられたのだろうか。伝播の媒体はどのようなものをもっていたのだろうか。口コミであるとか、写本の媒体程度であったのだろうか。このころの認知欲求は知らない人の間にまでおよぶことはないので、慎ましいものであったのだろう。

 瓦版や新聞のようなものが生まれたものは江戸期あたりごろだったと思われる。日本全国の情報が知られるにつれ、私たちの認知欲求は日本全国に広がっていったのかもしれない。知らない人にまで認知の欲求がおよぶことはない。もちろん国の君主は諸外国の動向を知っているわけだから、かれらは諸外国への認知への動機を強くもっていたことだろう。情報はそのまま認知への範囲の広がりを規定する。

 ラジオやTVといった伝播の情報媒体は私たちの情報量と認知欲求を革命的に拡大させた。瓦版や新聞のような文字の媒体はこんにちから考えるとそう大きなものではない。読解能力や識字能力が必要であるし、印刷や配布も時間がかかったことだろう。ラジオやTVはそのような読解能力を必要とせずに多くの人達への情報をダイレクトに速効的につたえる。私たちが知りえる情報が、私たちの認知欲求の広がりを大きく広げた。

 明治・大正のころに文学という名士が世間を騒がせた。そのころの文学というのこんにちのワイドショーのタレントのスキャンダルのような役割も担っていて、全国のエリート学生たちの羨望と認知欲求を駆り立てて、おおくの文学志望者をうみだした。かれらは文学者のような憧れの対象になりたかったのである。潜在的にわれわれの認知欲求は文学者のような世界の認められ方に向かい出したのである。

 ラジオとTVの登場は読解能力の必要なしに情報を人々につたえ、ために人々に認められたいという認知欲求は爆発的に広がっただろう。TVの黎明期には国民的スターや国民的野球選手、国民的プロレスラーが生まれた。「国民的」と形容されるような認知の広がりが日本全国に広がったわけである。つまりは国民的に認知される名誉が私たちの前に広がったのである。

 とうぜんのことながら多くの人はそのような名誉とまったく無関係だし、比較の対象や格差が広がったことにより、私たちは多くの失望や無念感を生じざるをえなかっただろう。情報媒体の発達により、ますます私たちの認知のレベルは上り、格差は激しくなり、競争はすさまじいものになり、認知は私たちの手の届かないものになった。それだけ私たちは認知に預かれないあきらめの着地点に降下するのがむずかしくなったことだろう。

 認知の欲求というのは憧れや憧憬が生み出すものである。憧れられる者に私たちは認められたいと思う。憧れが文学者であったら文学で認められたいと思うし、タレントであるのならタレントに認められたいと思うだろう。ぎゃくに憧れない者には認められたいとは思わない。

 私たちは西欧の文化や芸術は崇拝し、憧れるのだが、だから彼らの文化レベルまで認められたいと思うのだが、たとえばアフリカやイスラム、アジア、中南米の人たちに認められたいとは思わないだろう。情報すらも入ってこない。憧れは私たちの情報の出入りさえ規定する。そもそもかれらの文化や芸術など知りたいとも思わないのである。

 明治・大正に西洋に憧れた文化人たちは西洋に認められようとして、文化やインフラを西洋並みにつり上げようとした。戦後の日本人たちはアメリカの大衆文化に憧れてかれらの文化をコピーし、そして認められようとした。ミュージックシーンも同じことで日本で功なりとげたミュージシャンは本場アメリカで認められようとしてアメリカ進出を試みたりしたのだが、多くは失敗に終わった。たとえば日本人が日本のマンガ・アニメに満足して、後進国であるアジアや海外のマンガ・アニメを見たいとは思わないのと似ているだろう。認められたいのは憧れられる対象であって、憧れの範疇に入らないものには認知されたいとは思わないのである。

 憧れられる対象が広まるにつれ、その規模が大きくなるにつれ、私たちの認知欲求は大きなものになり、私たちの焦燥は激しくなり、それにあずかれない無念感は私たちを深く蝕むようになった。認知の欲求は国の原動力でもあり、そして私たちの癒せない傷心でもあるのだろう。

 明治・大正のころには文学者の名誉が私たちの焦燥を生み出した。かれらのようになりたい、かれらのように一挙一足が注目されるようになりたい。私たちの認知はそのような全人格的な注目をめざすのである。それは親への愛の欲求にも似ている。それが社会的に認められたいと移行するのである。おそらくこのような全国的な広がりがラジオやTVの機器の発達をうながしたのだろう。認められたいという全国的な欲求がTVによって広まった。

 かつては文学者が担った認知の欲求はTVの発達により、俳優やミュージシャン、アイドル、タレントやお笑い芸人にうつった。手の届くところにありそうで、かんたんに手に届かないところにある名誉と認知の欲求。TVは私たちのそのような欲求を強め、文学賞の新人賞応募や、マンガ・アニメの興隆、ストリートミュージシャンの出現などの私たちの認知欲求の強さをもたらしたのだろう。それはこんにちのインターネットのブログなどによって格段に広がったわけである。私たちの認知はますます広がりを見せ、そして多くの人たちに認知を認められなければならないと思わせるようになっているのである。

 情報の拡大は私たちの欲望をも拡大させる。私たちは基本的に名誉心の渇望、認知欲求を強くもっているものである。情報媒体の広がりと発達は私たちのそのような欲求の結果であるのだろう。私たちは認められたい。そしてその欲求はますます広がり、しかし認められることはそうかんたんではないし、多くの人がその栄誉に預かれないのはいうまでもないことだ。

 ぎゃくにこのような時代にはいかにそのよう失望に対処するかというセラピーが重要になってくるのではないだろうか。全国的な認知にいたらなくとも十分に幸福で幸せな人生が送れる、そのような処世訓と人生論が必要なのではないだろうか。いたずらに名誉心だけに駆り立てられる人生が最高のものとは限らないのである。名誉を得た人がいつも幸福であったとは限らないのである。

 さいごに『荘子 養生主篇』から引用。

徳は名誉心に向かって流れやすく、知は競争心から生まれ出るものだ。名誉心はたがいを傷つけあうもとになるものであり、知恵は争いの道具になるものだ。だから、この二つのものは凶器である。人間の行いを完成させるようなものでは決してない。




名誉心の解消をうたった偉人たちのアンソロジーと書評です。
 ステイタスの不安を解消するために
 『もうひとつの愛を哲学する』 アラン・ド・ボトン

名誉心の恐れを捨てる私のベスト本

1959078011.jpgマルクス・アウレリウス「自省録」CIMG0001_111112.jpg清貧の思想



02 27
2008

知識論

学問の楽しみ方――自分でつくるということ



 この国では学歴が必死に求められる社会なのに、学問好きな大人がたくさんいるとは思われない。新書は売れるようになったにせよ、高学歴の社会にあるにかかわらず、世間のちまたに学問の話題がのぼるということはめったにない。私の実感では職場や世間では学問の話はご法度という感がする。

 なぜこの国では学問がこんなに切望されるのに学問好きな大人を育てることに失敗したのか。60-70年代にはサルトルやらマルクスらが競って読まれたという話を聞くが、こんにちではドゥルーズやデリダを読むのは一部の特殊な好事家のみである。思想が危険だと思われた反動なのだろうか。

 英語を何年も教えられるに多くの人が英語をしゃべられないように、学問を何年も習っておきながら学問ができる大人はほとんどいない。学術書や思想書がいつもベストセラーになるなんて話は聞いたことがない。基本的にこの国では学問は企業に就職するためのパスポートになっているだけであって、学問自体が求められることはないのである。なぜこんな悲しむべき状況になっているのか。

 私が思うに学校というのは学問の理解や記憶は訓練されるが、学問のやり方や楽しみ方を教えられないからだと思う。学問は与えられるが、楽しむものだともまったく思われていない。苦痛と苦手に彩られて大人になれば学問という「障害物」にはいっさい近づかない状態になっている。

 学問というのは楽しみ方を覚えれば、TVや映画のように楽しめるものだと思う。娯楽や道楽なのだが、楽しみ方を知らないばかりに多くの人は学問を敬遠するのである。

 学問の楽しみ方というのは、謎や疑問を追究する楽しみである。いちど謎や疑問を自分の中でねばり強くもちつづければ、学問の知識はむこうからやってくる。そういう疑問をもちつづければ、あんなにおカタくて、だれが読むのかと思っていた学術書が興味ある、理解しやすいものになってしまうのが不思議である。学問というのは私たちとまったく関わりのない世界のことを語っているのではない。まさに私たちの日常、身のまわりのことを語っているのである。それなのに学問は縁遠い世界の話だと敬遠される。

 けっきょくのところ、私たちが与えられる学問というのは、「完成品」なのである。できあがってしまったものだから、私たちは「消費」するだけである。学問というのは、自分で「つくる」ことである。つくる楽しみを知ってはじめて学問は楽しめるのであって、完成品を与えられたなら学問が楽しめるということはない。

 要はおもちゃでたとえるなら、できあがったおもちゃで楽しむのではなくて、プラモデルを自分でつくる楽しみだということである。完成したおもちゃでも楽しめるが、自分でつくればよりいっそうそれは楽しいものになる。学問というのはじつは自分でつくる楽しみのことである。完成品を得てしまうと楽しめるものではない。未完成の新たにつくりだすものであるからこそ楽しめるのである。

 世の中の知識というのは学者や科学者によって「完成」されたものだとふつうの人は思い込んでいるが、それはまったくウソだ。いまだに世の中は謎だらけであり、わからないことだらけである。わからないこそ学問はされるのであって、もし世の中のすべてがわかっているというのなら学問はなくなってしまう。なぜか世の中学者によってすべて解き明かされていると一般の人は思い込んでいるから(=「完成品」の世界)、学問を自分でつくってみようとも思ってもみないのである。

 完成品を手に入れることと、自分でつくってみる体験はまったく違ったものである。完成品は享受するのみの体験になるが、自分でつくってみることはまったく違った経験と感覚をもたらす。材料を集めてきて、組み立て方を考えて、じっさいに組み立ててゆく。そのすべての経験が興味をひきたてて、完成品を享受する関係とは比べようがないほどそれらの過程に深くコミットメントすることになる。知識とはそのようなことによって深く楽しめるものになるのである。

 学生にとって学問は完成品を探し出して、集めることである。記憶のコレクターであって、自分でつくることではない。だから完成品はよそよそしく、自分のものにはならないし、他人事である。ニーチェもフロイトもたんなる異なる世界の記憶するための道具にしかならない。しかし自分でつくろうとすると、これほどまでに人生の経験と知識をおしえる先人はいないのである。

 自分でつくるということは、その世界を「自分のもの」にするということなのである。そういう意味で完成品を消費するということはひじょうに不幸なことなのである。せっかくの学問が他人事の自分と関係のない出来事になってしまうからである。世の多くの人たちは学問を疎遠なものに感じてしまって、「自分のもの」とすることができないまま、何年もの教育を受けつづけるのである。すべては学問は「完成品」であって、自分でつくるものではないという思い込みがあるからだろう。自分で「つくらない」と、学問もこの世界の謎も私の前に広がらないのである。

 自分でつくるということはこの世に完成された知識や学問などないと知ることである。学者がこの世界の知識を完成させていると思ったら、自分でつくろうとは思わない。完成品を消費・享受するだけである。そもそも自分が知らないということは、「未完成」だらけということである。たとえ学者が「完成」させているとしても、知らない自分にとってはこの世界は未完成でありつづける。未完成の世界だからこそ、自分でつくろうと思うことになる。

 未完成というのは、自分の謎や疑問のことである。謎や疑問はこの世界にぽっかりと開いてしまった未完成な空隙である。そこを埋めようとして、人は学問し、探究しようとして、自分で「つくり」だすのである。それが学問するということであって、完成品のみを口を開けて待っているというものではないのである。

 学問の楽しみ方というのは自分の謎や疑問をずっともちつづけ、自分で解いてゆくことである。自分で問いつづけることによって、学問の世界は開かれる。学者や偉人の完成品と比べることではない。自分が知らないということによって、この世は永久に未完成品でありつづける。自分で完成品をつくろうと思うことによって、この世界は未完成品であることに思い知らされるのである。

 買ってきた魚を食べるだけではなくて、自分で釣りに出かけたら、さてどこに釣りに行こうか、どこが釣れるのか、どのようにしたらよく釣れるのか、いつよく釣れるのか、魚の習性はどのようなものか、と果てしなく楽しみと探究は増えてゆく。学問もそのようなものである。自分でやるということはそれほどまでにこの世界の関わり方を変えるものである。ぜひ自分で学問する楽しみを覚えてほしいものである。学問の楽しみ方を知らないということは、この謎だらけの世界と人生を、他人の「完成品」と「既製品」で生きるという悲しむべきことなのである。


参考文献 多くの人が学問ができないのはまさに「学校化」されたからである。つまり「無知な客」であり、自分でつくらないことを強要されているのだ。

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)
イヴァン・イリイチ
4488006884


03 01
2008

知識論

学問の楽しみ方Ⅱ――学問できない理由



 よく人は学校に行かないと学問できないと思い込んでいるようだが、とんでもない間違いである。むしろ独習したほうがよく学問できると思うし、学問というのは独学の方法を身につけて自ら極めてゆくことである。学校でしか学問ができないと思い込んでいる人はだから、いつまでたっても学問できない。

 学校でしか学問ができないという思い込みは、おおくの人が陥ってしまう制度上の欠陥である。学校があるばかりに学問を学校に任せっぱなしにしてしまう。教師に頼ってみずからの独習の方法を身につけない。だから学校を出てしまったら、さっぱり学問と縁が切れてしまうのである。

 学校というはそもそも「教える偉い人」と「教えられる無知な人」の役割を演じるところである。つまりコックやウェイターの食事をつくったり運んだりする人と、イスに座って食事を待っている人に分けてしまう。学校はこの役割を固定してしまうし、みずからも過剰に演じ、几帳面な方は「無知で愚かな私」を生涯、謙虚に演じてしまうのである。だから学問しない人は、教師の優越性や上位性をきわめて品行方正に守りつづけているということになる。教師の上位性を突き落としてはかわいそうだと、みずからの学習能力を「封印」してしまうのである。そしていつまでも食事が運ばれるまで待つ「客」を演じつづけてしまうのである。

 私は学校で教師に教えられるより、参考書を試験前に読んだほうがよほど役に立つと思っていた。教師は「いらなかった」のである。学術書を年間に100、200冊は読むようになって気づいたのだが、学校というのはたった一冊の教科書を一年も通して読むだけなのである。そんな時間があればはるかにおおくの本を読めるのに、たった一冊の教科書だけ読みつづけるのである。だからいまは学校にいくことがムダに思えて仕方がない。

 大学の授業料は年間100万ほどと恐ろしく高い。一冊の学術書は2、3000円ていどで、文庫となれば1000円ほどだ。この激しい落差はなにかと思う。本は知識を全国へ廉価に流通することを可能にしたのだが、教師というのは全国のうちの一ヶ所、ひとつの時間にしか会うことができない。だから教師にちょくせつ出会う授業料あるいは空間料は高くなるのだが、本の知識は全国津々浦々に同じコピーされたものが出張できるからかなり安くできる。教師個人は「大量生産」できないから、ものすごく高く、非経済で非効率なメディアでありつづけているのだが、それでも学校の威信は高く残っているのである。

 人が学問と縁が切れるのはこのような社会的役割を演じてしまうこともあるし、独学の方法を身につけないこともあるだろう。学術書をつぎつぎと読みたくなる、読みつづけるという習慣のはじめ方を知らないのである。そりゃあ、教科書をごたいそうに一年も通して読んでいたら、ほかの本を読むという習慣も身につかないだろう。

 基本的に独学の方法というのはカタログであると思っている。カタログを読んで魅力ある本を見つけたり、これやあれを読みたいと思うことが、独学の方法だと思う。通販のカタログの商品を見て、あれもこれもほしいと思っている人が、学問になるとそういう方法を身につけられなかったのである。じつにかんたんなことなのであるが、というかおおくの人は広告やカタログによってあれもほしい、これもほしいと思っているのに、その方法を学問や読書に転嫁できなかったのである。学問っていうのはそれだけでいいのである。

 私なんか学術書をつぎつぎと読みたくなるルーツを探ってみると、手塚治虫のマンガを読み漁っていた体験だと気づいたことがある。カタログ本のようなものを見つけて、あれも読みたい、これも読みたいと夢をふくらませたのだが、手塚は古い本も多くて近くの本屋で手に入らないから、小学生だった私は遠くの駅まで自転車で探しに回った。原点はこれなのである。

 また教育の失敗は「空腹」になることを教えなかったことだろう。学問の「空腹」というのは謎や疑問が胃袋を空かすわけだが、教育というのは腹も減っていない子どもに飯をむりやり食わせることである。腹が減っていない子供にむりやり飯を食わせたわけだから、たいがいの子供は学問なんてもう食えないと思ってしまう。謎や疑問という空腹が育たないうちに学問をむりやり食わせても、学問を食べたいとはだれも思わないものである。

 謎と疑問とそれを解きたいという気持ちと、カタログが組み合わされば独学の方法ができる。そうなればひとりでにするすると学術書は読まれてゆくものである。このような方法を身につけられなかったばかりにおおくの人は学問と縁が切れてしまう。

 自分の謎や疑問に思っていることを持続的にもちつづけることが学問ということである。たぶんにおおくの人はそのリンクをつなげられないできたのだろう。「これはなんでだろう」「これはどうしてこうなっているのか」と思っても、その疑問や謎は読書や学問にリンクされないで終わってしまう。自分で解くことがなくなってしまうのである。それは教師や学校の存在があるためであったり、また学術書がそれを満たしてくれると知らなかったり、それらのカタログ本のとっかかりを見つけられなかったり、そもそも読書能力も育っていないからかもしれない。このような方法で自分の疑問が解けるかもしれないと期待することもできなくなってしまっているのである。

 ではなぜ読書の能力は開発されなかったのだろう。たぶんにそれらのリンクが全部切られているのだろう。そもそもこの世界はなんでこうなっているのかという疑問や探究心が、読書に向かうということがなくなっているのだろう。そういう原点が学問なのであるが、そういう気持ちすら育てられなくなっているのだろう。この世界への探究心という原点が、その後の教育とリンクされていないのである。腹が減っていないところに飯を食わされる。自分なりの探究心や方法を見つけられないで、私たちの学問心は無残に断たれてしまうのである。いったら大量生産の教育規格の頭にすげ替えられてしまうために、私たちは世界への探究心をすっかりうしなってしまうのである。

 私も20歳ころまで自分が学問をおもしろいと思うようになるなんて思ってもみなかった。私の世界への探究心はマンガや映画や音楽に向かっていた。言葉や活字で世界をつかむという方法を見い出していなかった。私が学問の方法を身につけたのは小説を書き出してからだった。小説を書くとこれはなんでだろう、これはどうしてこうなっているんだろうと社会の謎や理由を解く必要が出てくる。それで哲学や社会学にその理由を見い出すようになって、すっかり学問のとりことなってしまったわけである。たまたまこういう過程で学問の回路を見い出したのである。

 学問というのは私たちの身近な謎や疑問すべてが学問の研究ジャンルとなるものである。それは私たちにこの世界の謎や生きる術を見い出させるものだと思う。けっして世界の遠くの隔絶された場所のことがらを語っているのではない。学問を楽しめないということはこの世界の謎や不可解さにしじゅう打ちのめされることではないかと私は思うのである。


参考文献 前半の「教える人」と「無知の人」の役割分担はこの本で語られています。

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)
イヴァン・イリイチ
4488006884


03 09
2008

知識論

学問の楽しみ方Ⅲ ~カタログ篇~



 学問のとっかかりというのはよい本とたくさん出会うことだと思う。なにがよい本なのか、読むべき本なのかわからないから、学問をはじめられない。観光地を歩くのに地図がなければ名所にたどりつけないのと同じである。大学にいけば教えてくれるとテーブルで待っているだけでは、料理の楽しみを知ることはないし、食事が運ばれてくることもないのである。

 学問というのはその分野の名著とよばれる本をカタログ的に知ることからはじまる。ある学問分野は過去の名著によってできあがっているといってもいいと思う。そのような蓄積が、社会学や思想や、経済学をつくっているのである。学問は本でできている。その分野の偉大な学者の本によって学問はなりたっているのである。

 カタログはその分野の水先案内人である。そしてその分野の魅力を教えてくれる広告でもある。通販のカタログであの商品がほしいこれもほしいと思うことが、学問の楽しみをつくるのである。もしカタログを知らなければその学問を楽しみたいとか、興味が魅かれるとか、もっと読みたいとかも思わないだろう。知らないものは楽しみようもないし、はじめようもないし、「存在しない」のである。

 学問はほかの商品のように盛んに広告しないから、学校に行けば教師が教えてくれると思って要約は教えてくれるが、その学問を構成している名著と出会うこともないのである。じつは要約や教科書というのはつまらない。教科書というのはどうして死ぬほどつまらなそうに見えるのだろうか。おそらく細切れな要約が、名著とよばれる一本の太い線のような本の楽しみをシュレッダーのように引き裂いてしまうのだろう。名著とよばれる本は意外と楽しいし、説明方法もうまく伝わるように書かれているからその学問の基礎をなしているのだと思われるのである。教科書より、名著をかたっぱしから読んだほうが楽しい。

 学問の名著とよばれる本は新書などでカタログ的に説明されている本が出ている。いまはちくま新書で出ているが、私は中公新書の名著シリーズにだいぶお世話になった。読みべき本を絞ってくれるから、ぎゃくに読書の導入部としてかなり役立つのである。

世界の名著―マキアヴェリからサルトルまで (中公新書 (16))
河野 健二
4121000161

現代社会学の名著 (中公新書)
杉山 光信
4121009304

現代歴史学の名著
樺山 紘一
4121009266

現代経済学の名著 (中公新書)


日本の名著―近代の思想 (1962年) (中公新書)
桑原 武夫
B000JAJLAQ

現代政治学の名著 (中公新書)


現代科学論の名著
村上 陽一郎
4121009223

60冊の書物による現代社会論―五つの思想の系譜 (中公新書)
奥井 智之
4121009681

精神分析の名著 - フロイトから土居健郎まで (中公新書)

増補 現代思想のキイ・ワード (ちくま文庫)


わかりたいあなたのための現代思想・入門 (宝島社文庫)



ブックマップ プラス
工作舎
4875022662


 いまは中公新書の名著シリーズはだいぶ手に入れにくくなったのかもしれない。私はとくに奥井智之の『60冊の書物による現代社会論』 (中公新書)に出会ったことが大きい。文学と学問の橋渡しのような紹介をしていて、文学は読んでいるが学術書は読んだことのない私に学術書への興味を大きく育ててくれた。河野健二の『世界の名著』は近代の学問で世界を変えたといわれる本がなべられていて、かたっぱしから読みたいと思わせたものである(「世界の名著を片っぱしから読む」)。中公新書が手に入れにくかったら、ちくま新書のほうが新しくていいかもしれない。

社会学の名著30 (ちくま新書)

経済学の名著30 (ちくま新書)

歴史学の名著30 (ちくま新書)



政治学の名著30 (ちくま新書)

経済学 名著と現代


世界の心理学50の名著 エッセンスを学ぶ

いまこそ読みたい哲学の名著  自分を変える思索のたのしみ (光文社文庫)


日本文化論の名著入門 (角川選書)


精神医学の名著50


大人のための世界の名著 必読書50


大人のための日本の名著 必読書50

入門 哲学の名著


あらすじダイジェスト世界の名作100を読む (幻冬舎文庫)

知らないと恥ずかしい 日本の名作あらすじ200本 (宝島社文庫)

あらすじで読む世界の名著〈No.1〉―世界文学の名作が2時間でわかる! (楽書ブックス)

あらすじで読む日本の名著―近代日本文学の古典が2時間でわかる! (楽書ブックス)


 これらはいわは学問のカタログ本である。通販のカタログのようにあれを読みたいとかこれも読みたいとかの水先案内人となるものである。このようなカタログ本の中から自分の興味あるもの、読みたいものを見つけて、名著とよばれるものを直接読んでゆくことが学問の助けとなるものである。名著とよばれるものは教科書や要約本よりよほど読みやすいし、楽しい。学問の基礎となる名著はたくさんの人に読まれたからこそ学問の基礎となっているのである。

 興味ある学問のカタログ本をひもとけば、もっと読みたい本、知りたいことが増えてくるものである。興味というのは連想的につぎつぎと掘りたいと思わせるものである。これをもっと知りたい、これはなんでだろうと、興味はつぎつぎとつながってゆくものである。学問はいちどやりだしたら切りがない。それほどまでにハマったら楽しいものなのである。ネタが豊富だからそうとう長いあいだ楽しめるものである。

 かつては古い時代に「世界の名著シリーズ」とかが、図鑑のように一家に数冊はならんでいた時代があったのかもしれない。そういう教養書がなければ恥ずかしい時代があったかもしれないし、またはそんな規範は一部の家庭だけにとどまっていたかもしれない。名著シリーズがなければ恥ずかしいという規範や時代はもはや現在にはない。だからこそ世間や他人に強制されずにほんとうに楽しめるといえるかもしれない。あなたも学問の楽しみを密かに掘りつづけてみませんか。

04 19
2008

知識論

活字が排除するもの



 いまからもう20年前になるだろうか、ワープロという機種があった。それまで雑誌や本の活字は専門の印刷業者でしか印刷できず、ふつうの人は手書きの文字しか書けなかった。それがワープロという機種をつかうと、専門の印刷業者のような活字を自分の手で打つことができるのである。

 まるで専門家が文章を書いた完成された作品を見ている気がした。いまはワープロという機種はパソコンのひとつのソフトとしてとりこまれて、ワープロという機種はお目にかかれなくなった。いまはパソコンやブログで当たり前のようにだれもが活字のキーボードを打つようになった。かつて専門業者の専売特許だったものはだれのものにもなったのである。

 手書きの文字というのはひとりひとり、かなり個性のあるクセのある文字が書かれるものである。すこし見慣れると、とたんにだれが書いたのかすぐにわかる。性格や個性が文字にあらわれる。書かれた文字はその人が書いた独特のクセから、その人の性格や趣向、雰囲気といったものをかもし出すものである。筆跡心理学といった学問もあって、文字のクセから性格が見とれるとも聞く。

 たとえば、私のこの文章はキーボードで打たれているため、私がどのような性格であるとか、どのような人間が書いているのか推測しにくいだろう。

 しかしつぎの写真は私がブログの考察のアイデアを書きとめるためのノートに書いた文字である。アイデア帳であるためかなり雑ですばやく書いてあるが(私はていねいな字やきれいな字はあまり書きたくありません(笑))、なんとなく私の人となりや個性が見えてきそうな文字だと思う。この汚い達筆(?)から、多くの人の筆跡を見てきたあたなはどのような性格を想像するだろうか。

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 手書きの文字というのはこのような個性や人となりをあらわすのである。活字やキーボードはそのような情報や手かがりを排除する。

 活字やキーボードは手書きの文字から透ける性格や性向みたいなものを抜きとってしまうのである。そして文字というのは、その言葉が考えられたり、話されたりする場からはぎとられるものである。人が考えているとき、表情や面持ちが他人からは見えるだろうし、考えが話されるとき、どのような表情で、どのような声や雰囲気で話されるかということも見たり聞いたりすることができる。

 しかし文字というものをそういうコンテクストをすべて排斥する。表情や顔、しぐさや身振り、場所、ロケーションといったものからすべて抜き去られ、声質や声の内容、その声は明るいのか暗いのか、自信があるのかないのかといったコンテクストもすべて排除されたうえで、文字は抽出される。

 文字はどこにでも流通される代わりに、ほかの多くの情報を排斥するのである。一回かぎりの、その場所でしか存在しないものから抜き去られるのである。その場所でしか体験できないものから、文字だけを抽出したから、その言葉は流通できるものになったといえる。

 文字というのは人の考えや思いを多くの人につたえるメディアになった。しかしその人の顔や表情や、声音、雰囲気、しゃべり方といった重要な情報をつたえることはできない。もし身近な人がある考え方を披露していたら、顔や表情やその人の性格、声のトーンなどでその考えや内容はもっと判断の材料を与えたことだろう。はっきりいえば、身近な人とかかわる際、その考えや内容より、顔や表情や声音のほうがもっと大事であるといったばあいのほうが多いだろう。「あ~、この人がまたこんなことをいっているとか」とか性格が透けた上の発言であるから、もっと話されたことへの判断やジャッジは容易なのである。顔や声質により、その考えが立ち上がる性格のクセを見透かしてしまう場合もあるだろう。

 文字や言葉というのは、時間や場所といったコンテクストから、言葉だけを抽出したものである。だからこそ、時間と場所を超えた流通を可能にした。おかげでわれわれはアメリカ人やアフリカ人の考えた文章を読むことができるし、二千年前のギリシャ人、ローマ人の書いた文章も読むことができる。しかし私たちはその言葉が考え出され、話された場所で顔や表情や声音を見聞きしながら、その言葉を聞くことはできないのである。

 写真もそうである。写真は世界のどこの国でも、あるいは写真が生まれたどの時代の風景も、われわれは見ることができるのだが、音や匂いや風やその場所をじかに感じることはできない。光景や風景だけが切りとられるだけである。マーシャル・マクルーハン風にいうと、「目の延長」だけが切りとられ、「耳の延長」、「鼻の延長」でその風景を感じることはできないのである。流通を可能にするメディアは、ほかの五感の「延長」を排除するのである。空間だけではなく、時間も抜きとるのである。

 流通を可能にするメディアというものは、ほかの五感で感じられる情報の多くを排斥するのである。空間や時間から抽出されたものであるからこそ、その「まがいもの」は世界のどこにでも流通するのである。貨幣というものもそうであるかもしれない。貨幣で交換される食べ物や製品は世界のひとつの場所、ひとつの時間にしか存在しないものであるが、貨幣はそのような存在を時空を超えたどこにでも流通する「抽象物」に変換してしまうのである。

 文字や言葉はその話された人の顔や性格、場所や時間といったコンテクストを排除されたところから立ち上がる。多くの情報が切りとられ、排除されたところから、その抽象物は流通するのである。いわばそれは大海から釣り上げられた「死した深海魚」のようなものである。その魚は食堂のディスプレイに飾られた魚の「模造品」でしかないのかもしれない。私たちは水というコンテクストから排除された死した魚ばかり見て、生き生きと海で泳ぐ生きた魚とじかに触れることはできなくなったのかもしれない。

 流通されるものは画一化や規格化や標準化をこうむる。個性やクセや独自性といった唯一無二性や一時の時間にしか存在しないものやひとつの場所にしか存在しないものの複製をつくりだす。それは大量生産の大量流通、大量消費をひきおこす規格化されたモデルである。類型化され、型枠にはめられた大量生産品となる。手書きの文字はその人一人にしか書けないクセのある文字であるが、活字やキーボードで直されると、すべて規格化された文字に変換される。画一化・規格化は言葉や文字からはじまるのである。

 私たちは画一化され、規格化されたメディアや言葉におおく触れ、あまりにも多くの影響をうけたり、依存をしたりしているのだが、時間や場所や個性といったコンテクストから排除された「死した凍結物」であることを忘れないようにしたい。印刷物という大量生産品が生まれる前にはこの世界にはただひとつとして同じものは存在しなかったのである。複製されたものはこの世界にひとつもなかったのである。言葉や文字はその複製品・大量生産品の起源となったのである。

 私たちが流通できるものに依存すればするほど、私たちは画一化し・規格化してゆくことになる。私たちは大量生産品のどこにでも、いつでも存在する規格品になるのである。流通されるもののコンテクスト、五感が排除されたものであること――その排除されたコンテクストを想像し、補いながら、その流通されたものに触れたいものである。――というような結語で、この考察は結んでいいのかいまいち疑念が残るが、世界にただひとつしかないコンテクストを大事にしたいものである。

関連書
メディア論―人間の拡張の諸相声の文化と文字の文化「識字」の構造―思考を抑圧する文字文化読み書き能力のイデオロギーをあばく―多様な価値の共存のために

01 01
2009

知識論

「わからない」私と「説明できる」人たち



 正月からグチみたいなまとまりのない変なエッセイになってしまった。ことしもよろしくお願いします。

 2009年は日本経済や雇用はどうなってゆくのだろうと考えたいのだが、経済について私はわからないことばかりだ。アメリカ金融危機が日本に与えた影響や、雇用はどこまで失われてゆくのか、そういった疑問を知りたいと思うのだが、私の疑問に直接答えてくれる媒体はない。世の中の知識というのは私の疑問に直接答えてくれるかたちで転がっているわけではない。またべつの文脈で知識は説明されているから、私の疑問はいっこうに晴れることがない。

 どうして雇用は賃下げ傾向がつづいているのか、あるいは低価格競争は労賃を下げ続けるが内需の拡大に貢献するしくみはできないものか、といったことを考えたいと思っても、答えはどこにも転がっていない。私は本を探してその答えに近い知識をなんとか探そうとする。日本経済についての本というのはそういう文脈で書かれた本は少なくて、これからどうなるのか、どうすればいいのか、といった本が多いようで、私の疑問を解いてくれない。

 私の知識との関わり方というのは自分の思いついた疑問を解いてゆくという方法をとる。そういう疑問を解いてゆくことに楽しみを見出す。基本的に「世の中はわからないことだらけだ」という姿勢で知識を吸収する。そしてわからないことだらけだという姿勢のまま、いっこうに記憶を蓄積せず、知識を整理せず、世の中はこういうものだ、こうすればいいといった知識が育たないまま、その場所を去ってゆくのである。

 きのうは朝生テレビを見ていた。雇用危機についてがテーマで、非正規労働組合系と、経済アナリスト系と、政治家系という三つの集まりで議論されていた。株主主義が日本の雇用をおかしくしたといった説明がなされていたように思うが、そういう流れを田原総一郎がパネリストから引き出す手腕はなかなかおもしろかった。堀紘一郎や水野和夫などが派遣切りにおちいった経済の流れを説明して、政治はどうするのかといった流れになっていた。雨宮処凛や湯浅誠がそういう流れにおとなしくなっていて、高専のワケのわからない哲学者が流れをブチ壊していた。まあ、4時くらいに寝てしまっていた。

 テレビのコメンテーターというのは、「説明できる人たち」である。「世の中はこうなっていて、こういうことだ」と説明できる人たちである。世の中を「わかっている」人たちである。世の中を「知っている」人たちである。私は世の中をとても説明できないし、世の中はこういうものだという確信をいつももてないでいる。

 それに比べてテレビのコメンテーターは世の中を「わかっている」し、「知っている」のだろう。私はそんな立場はとてもとれないと思うのだが、コメンテーターは世の中を知っており、説明できるというスタンスでないと、テレビ局からお呼びがかかることはないのだろう。

 専門家や学者というのはほんとうに世の中のことを知っているのだろうか。「説明できる」や「わかっている」と胸をはっていえるのだろうか。わからないことや知らないこと、説明できないことはどうやってかわしているのだろうかと思う。私なんてこういう説明でいいのか、こういう説明ですべてを解明できたといえるのかといつも自分に疑問を思うのだが、コメンテーターはもちろんそういうスタンスで説明することはできない。

 この人たちは説明することや教えることをはじめから訓練してきた人なのだろう。わからないことや疑問に思うことをとりあえずは脇において、説明できることに徹してきたのだろう。説明や教えることに頭を整理する方法を学んできて、そういう立場からものをいう。

 専門家や教師というのは世の中を知っている、わかっているというスタンスで説明する。わかっていなければ説明できない。まわりの者たちもそういうわかっているという立場で適切に説明・答えてくれる専門家を期待する。さらには専門家には「どうすればいいか」という答えも期待する。「どうすればいいのか」の答えをもたない専門家は隅に追いやられる。「わかる」と声を大きくする専門家が多くの人の信認を得ることになる。

 ドラッカーはむかし経済学者は「わからない」と答えるのが常だったという。しかし1929年の大恐慌から「私はわかる」というようになったという。「こうすればいい」とか「こうするべきだ」という明確な処方箋を描く経済学者が、大恐慌に苦しむ時代にはとうぜん求められる。そして「こうだ」という世の中を明確に知っていて、「こうすべきだ」という明確な処方箋を描く学者に信認が集まることになる。「私はわからない」といったかつての謙虚な経済学者の時代にもはや戻ることはできない。

 専門家の意見を聞いているとたいていはみんな違うことをいっていて、議論は違う。専門家というのはふつうはみんないっていることがマチマチで、統一見解やたったひとつの正解というものは通常はもたないものである。「みんな私が正しくて、あいつは間違っている」となるのが学者の世界でも、あるいはちまたの意見の集約でもそうなるのがふつうというものである。一枚岩のように統一見解やたったひとつの解しかないと思っている人たちは専門家以外の人たちか、素人だけである。世の中、たくさんの「わかっている」人たちの分だけ、「わかっている」考え方と世界があるだけである。

 まあ、私はわからないという姿勢は大事だと思う。わからないと思うからこそ、疑問や不明なところは追究されて、疑問に付されて、再検討される。わかってしまっていると思い込むと、疑問に付されることはないし、新しい探求がなされなくなる。わからない現実をむりやり理論に押し込めようとすることもおこるだろう。理論という不確かなものに現実をあてはめてゆく転倒もおこるだろう。

 私の場合はわからないというスタンスは保ちながらも、「説明する」「どうすればいいのか」といった頭の整理の方法もとりいれていったほうがいいのだと思う。というか、「説明できる」「わかる」という境地にはなかなか達しえないのだが、「説明できる」という方面への技能も磨きたいなと思う。

02 04
2009

知識論

ネットで拾った思想家の画像放出



 私のマイピクチャにけっこう思想家の画像が貯まっています。思想家の画像をUPしてみたいと思います。新しいところでまだ教科書にのっていないようなマイナーな思想家のほうを選んだのですが、もう教科書に載っているのでしょうか。偉人って教科書に載っている一枚の写真によって印象が決まってしまいますね。

 こういう思想家のお顔を拝んだところでどうなるということはないのですが、「賢さ」のご利益が得られるかもしれませんし(笑)、偉人の顔をながめて発奮してみるのもオツでしょうし、なんらかの役に立つかもしれません(笑)。あやかりましょう。

al1.jpg     再生産について―イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置マルクスのために (平凡社ライブラリー)
アルチュセールですね。「国家のイデオロギー装置」などの分析をおこないましたね。妻を殺したとかの晩年を迎えましたね。

bachelard.jpg     空間の詩学 (ちくま学芸文庫)夢想の詩学 (ちくま学芸文庫)
バシュラール。『空と夢』などの近づきがたい思想を展開しましたね。鬚面はいかにも哲学者といった面立ちをしていますね。

bo_20090204171045.jpg     不可能な交換完全犯罪
ボードリヤール。消費の記号論を展開して、消費社会論の新たな地平を開きました。

camus.jpg     異邦人 (新潮文庫)シーシュポスの神話 (新潮文庫)
カミュ。『異邦人』などの文学を描きました。とうじサルトルと大人気だったそうですね。

dazai3.jpg     斜陽・人間失格・桜桃・走れメロス 外七篇 (文春文庫)晩年 (新潮文庫)
太宰治直筆の色紙のようですね。

hei.jpg     存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)形而上学入門 (平凡社ライブラリー)
ハイデガー。悪人顔に見えるのですが。。。

lyotard.jpg     非人間的なもの―時間についての講話 (叢書・ウニベルシタス)ニーチェは、今日? (ちくま学芸文庫)
「大きな物語」の終焉を説いたリオタール。そのあとの社会はどこにいったらいいのでしょうね。

maugham.jpg     月と六ペンス (岩波文庫)人間の絆〈上〉 (岩波文庫)
これは『月と六ペンス』のサマセット・モーム? なぜか穏やかそうな印象をもっていたのですが。

friedman.jpg     選択の自由―自立社会への挑戦 (日経ビジネス人文庫)資本主義と自由 (日経BPクラシックス)
市場主義者のフリードマンはこれから評価がどうなってゆくのでしょうか。悪の権化になってゆくのでしょうか。

gl4.jpg     注目すべき人々との出会いグルジェフの残影 (文春文庫)
神秘思想家のグルジェフ。神秘思想家は陽の当たる評価はなされないのでしょうかね。

fruedp.jpg     精神分析入門 (上巻) (新潮文庫)自我論集 (ちくま学芸文庫)
年をとったフロイトはよく見ることはあるのですが。若かりし時のフロイトのようですね。

mc.jpg     メディア論―人間の拡張の諸相メディアはマッサージである
マクルーハンのメディア論=身体の拡張論には驚かされました。

merleau.jpg     心身の合一―マールブランシュとビランとベルクソンにおける (ちくま学芸文庫)弁証法の冒険
メルロ=ポンティの現象学は私には歯が立ちませんでした。


02 08
2009

知識論

ネットで拾った思想家の画像放出PARTⅡ~偉人編



 ネットで拾った思想家の画像放出

 第一弾はマイナーな新しい思想家を放出したのでこんかいはできるだけ「偉人編」をめざしたいと思います。

 べつに好評をいただいた記事ではないのですが、思想家に憧れたり、その人の本を読みたいと思ったり、知の最高峰にふれたいという気持ちが私にはありました。その思想家を読んで偉くなったのか、立派になれたのか、堅実になれたかということはふれたくない(笑)と思いますが、思想家を祭り上げたいという気持ちはいまもあります。偉大なる知の遺産に感謝ということで。

 思想家とか文学者ってあまり写真やお顔を拝めることがありませんし、よく見る一枚の写真によって印象が決まってほかの顔を知らないということがよくありますからね。

ni.gif    ツァラトゥストラ (中公文庫)道徳の系譜 (岩波文庫)

ニーチェって狂気っぽい横顔ばかり見ていたので、こんな顔をしていたのか!って感じです。

freud2.jpg    エロス論集 (ちくま学芸文庫)幻想の未来/文化への不満 (光文社古典新訳文庫)
このような横顔の写真を見せられると、フロイトもニーチェを意識していたのかと思いたくなりますが、当時の写真は横顔ブームだったのかもしれませんね。

tol.jpg    光あるうち光の中を歩め (新潮文庫)人生論 (角川文庫)
トルストイ。こんにちの作家はこんなに鬚面でいかにも賢者という格好はしなくなりましたね。

shake2.jpg    ハムレット (新潮文庫)ロミオとジュリエット (新潮文庫)
シェークスピアのお顔ってあまり拝んだことがないのですが、こちらでOKなんですか。

sartre.jpg    嘔吐存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)
サルトルはいっとき大人気だったのですが、かなり忘れられていきましたね。

rousseau_20090207183430.jpg    人間不平等起源論 (光文社古典新訳文庫)社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)
ジャン・ジャック・ルソーはおきれいな肖像画がのこっているのですね。

leibniz.jpg    モナドロジー・形而上学叙説 (中公クラシックス)論理学 (ライプニッツ著作集)
ライプニッツ。モナド論(単子論)で理工系のほうで知られているのかな。

jung1.jpg    自我と無意識 (レグルス文庫)元型論
ユングって正統的な学者か、オカルトな学者か評価は分かれるのでしょうね。

image18191.gif    精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200))法の哲学〈1〉 (中公クラシックス)
ヘーゲル。じつに恐ろしそうな顔をしていますね。

husserl.jpg    ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)
ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)
フーサール。近代合理主義の批判は忘れられません。

hemingway1.jpg    日はまた昇る (新潮文庫)武器よさらば (新潮文庫)
ヘミングウェイ。生き方がいかにもダンディというか、「男」として生きましたね。

goethe2.jpg    ファウスト〈第一部〉 (岩波文庫)ゲーテ格言集 (新潮文庫)
ゲーテの顔ってあまり見たことがないのですが、この人?

dos.jpg    カラマーゾフの兄弟 上   新潮文庫 ト 1-9罪と罰 (上巻) (新潮文庫)
ドストエフスキーの深さはどうにも私にはわかりませんでしたが。というより名前でだれがだれかわからなくなりましたが(笑)。

dazai8.jpg    グッド・バイ (新潮文庫)晩年 (新潮文庫)
学生の頃からポーズをとる太宰治。自意識というものと格闘したのでしょうね。

chekhov1.jpg    可愛い女(ひと)・犬を連れた奥さん―他一編 (岩波文庫)かもめ・ワーニャ伯父さん (新潮文庫)
チェーホフ。りりしいハンサムですね。私はあまり読みませんでしたが。

040229_03.jpg    日本的霊性 (岩波文庫)無心ということ (角川ソフィア文庫)
世界的な禅者として名を馳せた鈴木大拙ですが、名前がいまいち轟くことはありませんね。

tanizaki4.jpg    春琴抄 (新潮文庫)痴人の愛 (新潮文庫)
谷崎潤一郎の若かりしときの顔は知りませんでした。

witt.jpg    論理哲学論考 (岩波文庫)ウィトゲンシュタイン・セレクション (平凡社ライブラリー)
ウィトゲンシュタイン。合理主義や論理主義からの転回がなかなか忘れられませんね。

09 17
2009

知識論

『学者のウソ』 掛谷英紀


学者のウソ [ソフトバンク新書]
掛谷英紀

学者のウソ [ソフトバンク新書]


 なんか理系の著者が書いたものだからつまらないのかと思っていたが、時事問題のウソばかりとりあげているから、いまいち興味や関心がひかれなかったのだと後になって気づいた。

 学問というものは時事問題におぼれたり、ニュースのトピックばかり追うのは学問としては深いものではないと思ってしまう。世間や時事問題から離れて、脱俗、脱時代性に沈静するのが学問の王道だと思っているから、時事問題ばかり追うこの本は学問として深いものを追求しているように思えなかった。

 いつの時代も通用したり、底流を流れているものをつかまえるのが学問というものだと思う。時事問題から学者のウソを暴いたって、ニュースのウソを暴いているだけで学問のウソの本質を問題にしているように思えない。これは「学者のウソ」というよりか、「ニュースや時事問題にかかわる人のウソ」といったほうが近いのではないか。時事問題に踊っているようでは、あぶくや泡のように昨日今日に忘れられてしまうトピックとともに消えてゆくだけである。学問というのは時事問題の波間に踊ってはいけないのである。

 まあ、各論は鋭いし、切り込む論理はひじょうに説得性のあるものが多いのだが、私はぎゃくにそんなに厳しくいわなくてもいいじゃないかとか、人間の知能や行動、考えに完璧や完全を求めすぎているのではないかと思った。批判が鋭すぎたら、人間の知能や行動は完璧であるわけがないと思ってしまう。理系的な非情な厳しさを感じるとことも多々あり、知や行動の完璧さを想定しすぎているようにも感じられた。

 学者のウソというから、私は社会学や哲学方面からの切り込み方を期待していた。欲望であるとか、権力、権威の問題、支配や被支配、あるいは書物や学者の批判や洞察である。学問や書物の世界にひたれる批判本ではなく、時事批判である。この違和感はいかんともしがたかった。

 もうすこしこの本に書かれた内容を検討したかったのだが、労働者の時間がない身としてはこれで切り上げることにする。この本は時事問題と理系の本であって、私のような社会学、哲学方面を好む者にとってはいまいち満足を得られなかったということである。

 学者、学問批判の本といえば、つぎのような本がいいのかもしれない。

インテレクチュアルズ―知の巨人の実像に迫る (講談社学術文庫)フロイト先生のウソ (文春文庫)表象の植民地帝国―近代フランスと人文諸科学
「心の専門家」はいらない (新書y)脱学校の社会 (現代社会科学叢書)南島イデオロギーの発生―柳田国男と植民地主義 (岩波現代文庫)


議論のウソ (講談社現代新書) 論より詭弁 反論理的思考のすすめ (光文社新書) メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 (光文社新書) ニュースの読み方使い方 (新潮文庫) 論争と「詭弁」―レトリックのための弁明 (丸善ライブラリー)
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