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01 30
2008

書評 性・恋愛・結婚

『妻はなぜ夫に満足しないのか』 安岡 博之


妻はなぜ夫に満足しないのか―中高年「仮面夫婦」のカルテ (角川oneテーマ21 B 102)
安岡 博之

妻はなぜ夫に満足しないのか―中高年「仮面夫婦」のカルテ (角川oneテーマ21 B 102)


 妻の不満を類型化できれば、男女の過ちに前もって気づくことができるだろうということで読んだ。それぞれ個別の問題であったとしても、同じ男女間の問題が原因かもしれない。
 
 女性は自身の変化について注目してくれることが愛情表現だと思っている。男はお金を稼いで生活を安定させることが愛情表現だと思っている。しかし男は収入の高さが自分の価値だと刷り込まれており、女性でも収入の低い夫には価値がないと思っている。女性はお金もあり、細やかな気配りをできる男を求めるのだが、世の男は稼ぐだけで精いっぱいであり、女性への気配りの余裕がなくなる。それですれ違うのである。あれもこれもムリだと思うのだが、女性にはこのふたつが満足しないとだめみたいである。

女性がもっとも欲しい時に、欲する言葉や行動を察して与えられる男性こそが、女性や妻が理想として、一緒にいたいと思う男性像なのである」



 ――ムリだって。男の価値である稼ぐことに邁進しようとすれば、長時間労働のうえ疲れ果てて家に帰ってきてへとへとになる。さらにそのうえに気遣いの配慮をおこなえというのはムリだろう。男にとって家庭はやすらぎの場であり、好き勝手にできる場所だと思い込んでいる。しかし妻にとっては家庭は「仕事の場」である。働いているそばでごろごろだらだらされていたら、腹が立つ。稼いでくることは当たり前すぎて、もはや男の働きではないのかもしれない。

 子どもが生まれると妻は夫に強い不満をもつ。子供が5歳になるまで女性はほとんど離婚を考えるそうである。家事のうえにさらに育児が加わり、しかも夫は隣でぐうぐう寝ている。自分だけしんどい思いをして夫は手伝ってくれないとなるのだろう。夫は稼いでくることで役割を果たしていると思っているから、家事育児は女性にまかせっぱなしである。男の交換条件は、女性の交換条件とは合致しないのである。どうも家事育児のしんどさの交換も必要なようである。男にしてみれば稼ぐことが家事育児との交換条件だと思っているのだろうが、女性には通用しない。女性は家事育児も夫婦として分担交換してほしいと思っているのである。

 そしてこの不満は子供が大きくなっても溜まりつづけ、夫を手のかかる長男と見なすようになり、家でぐうたらしていると怒声、罵声が飛んでくるようになるそうである。なおかつ収入を低いことをなじられたりしたら――それは家事育児の分担の不満のはけ口かもしれないが――男として立つ瀬がないだろう。

 よく妻は「家庭と仕事どっちが大事?」と聞くそうだが、男にとってはこのふたつは次元が違い、比較にならない。男の価値である稼ぐことに一生懸命になれば、とうぜん家庭にそぞく余力をのこしえない。それでも夫たるもの仕事より家庭を第一に考えないと妻の満足を得られないのである。プライオリティーを家庭におきつつ、なおかつ収入も高ければならない。そんな完璧男がいるものかと思うが、収入の高い男は家事もてきぱきとこなすそうである。仕事のできる男は家事もできるそうである。収入の低い男はプライドのために家ではなにもしない。そして妻の反感を買い、悪循環である。

 妻の不満にはどうも家庭という仕事の交換条件にあるような気がしてくる。男は低収入では男の価値がないと刷り込まれ、妻にもなじられるから、稼ぐことで家事育児の交換条件と見なすようになるだろう。しかし妻にとっては家事育児も交換の対象なのである。子供が生まれると女性はそのほかになにもできなくなるほど忙しくなる。この忙しさを分担することが女性の交換条件だと思っているのだろう。しかし夫にしてみれば、その交換条件は稼ぐことである。家ではお役ごめんでぐうたらしたいと思う。それで妻の憎悪と怨恨を買うみたいである。

 要はおたがいのしんどさや辛さを思いやって分担することが必要なのだろう。どちらが一方しんどい思いが積み重なると、ブチ切れる。そういうときの怒りというのは職場の分業でもそうだが、人の基本的な怒りの発端となるものである。男は分業を果たしていると思い込んでいるのだが、女性は疲れている目の前でぐうたらしている夫が信じられないのだろう。このすれ違いに気をつけなければならないようである。


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09 20
2007

書評 性・恋愛・結婚

『非常民の民俗文化』 赤松 啓介


非常民の民俗文化―生活民俗と差別昔話 (ちくま学芸文庫)
赤松 啓介

4480089993


 これは学問や民俗学というよりか、おじいちゃんの人生や世間話を聞いているんだという気になる。私たちは祖父や祖母がどのような人生を送ったのか聞くことは少ないし、伝え聞くこともあまりないだろう。そういうおじいちゃんの人生や世間を聞かせてもらっているという本である。

 赤松啓介といえば夜這いだが、老若男女いりみだれてすごかったんだな~とまたしても思う。この夜這いの話にかなり興味ひかれる。順廻りに若衆が娘のもとをまわるムラがあったり、阿弥陀堂や薬師堂などでオコモリして実地に性教育がおこなわれたり、また夜の山中を帰っていると女の夜這いにあったりしたということである。一夫一婦や純愛などの現代からは考えられないほどのひっくり返りっぷりというものである。現代はなぜこうもつまらなくなったのか。

 内容は400ページほどのぶあつい本で、ムラの子どもから女の共同作業、夜這いはもちろんのこと、間引きや尼寺、豪商やスラム街、五十軒長屋と幅広いむかしの人たちの生き方や民俗が伝えられている。もうすこしやわらかかったら、おじいちゃんの世間話そのものである。学問や民俗書と読むのはもったいない。

「金儲けする、立身出世する、これがほんとうの人間だという仮説、規範を作っておいて、これに反抗し、従順でないガキどもは徹底的にしごこうとするのが、臨教審というアホタレがいう自由教育、個性教育だ。こどもを黄金魔や権力魔に仕立て上げることを成功だと思っている民衆、市民、常民のバカともが、そうだ、そうだとわめいている」



 最高にすっきりする言葉だ。こういう金儲けや出世の価値イデオロギーしかつくれなかった日本人を最高になさないと思う。

「どこのムラにも家筋、家柄というような目に見えない階層がある。だいたいは草分け、本家、分家、水呑み、被官という程度……。ムラの開発および起立、定着に関係した家を中心に置き、それから枝分かれ、郎従下人、新規移住というように家格が下がってゆく」



 ムラにこういう階層があったって知ってましたか。これは現在の経済的実力とまったく関係なく、没落していたり、小作人であっても、祭礼のときには最上座に坐ることもあったそうだ。

「大学は出たけれど、まだ生活が安定しないから、結婚は早いというようなバカなことは思いもしなかった。一人前の賃銭を支払うということは、それで結婚してともかく生活できるのを保証したのである」



 たしか団塊の世代とか無職の男であっても結婚やお見合いの話とかがまいこんできたというような話を聞いたことがある。いまはフリーターとかニートの男はまったく相手にされなくなったのだが、むかしは男の将来や可能性が信じられる時代でよかったなと思う。

「私なども、夜這いは夏のほうが盛んなのかと思っていたら、かえって冬の方が盛んで好季節と教えてもらう」



「母と娘、姉と妹がかち合って、大喧嘩をするのも珍しくないらしい」



 夜這いのことである。

「船場あたりの豪商が別宅を建てるようになったのは、古くは大川端、明治になって上町台地、夕陽ヶ丘になどに変わり、大正になると住吉、箕面、宝塚、芦屋、浜寺など郊外へ出る」



 大阪の人しかわからないだろうが、たしかにこれらの地名には現在でも高級住宅街の名が残っているところもある。箕面や宝塚、芦屋などは阪急電鉄がつくりだしたものであるが。

「~船場方言の難しさであった。……船場と本町とではもう違うらしい。船場にいわせると道修町など一人前の商人でなく、場違いモンである。心斎橋も船場には入れてもらえず、千日前、難波となると下の下らしい。堂島、北浜は本町系と思うが、本町にいわせると迷惑だそうである。船場がA1、本町がA2、新町がB1、堀江がB2というあたりが公平らしい」



 これはてっきり商売の格だと思ったのだが、方言の違いらしい。商売の格だとしたら、心斎橋や難波が下になるというのがおもしろいね。船場で私も働いたことがあるが、いまはもう船場商人という粋や独特さなんててんでありませんでしたね。

「貧民窟から細民街へ、そしてスラム街へ、その名称も変化してきたわけだが、この名称の変化は、また実態の変化と照応していると思う。おおまかにいえば明治の軽工業発達とともに都市に集中してきて脱落した人たちの群居が「貧民窟」であり、大正の重工業発展に吸収されてきた人たちが脱落して形成されたのが「細民街」である。スラム街は昭和になってから、経済恐慌のあおりで集積された離脱の人たちで、それぞれの時代と社会相をもっているだろう」



 これはわかりやすい解説である。そして現代では高度成長の日雇い労働者たちが大阪では西成や河川、公園などに青テントを張って暮らしているのである。

「古代や中世では、男女の相互関係は極めて流動的で、かつ多様性をもっていたことが、文献や物語の類でも明らかである。もともと流動的であり、多様性をもつのを本質とする男と女との関係を、国家的管理のために法律をもって固定し、「家」の枠にはめて支配しようとしたのが結婚制度であり、その極端な定型化が一夫一婦制であった」



 赤松啓介はおおくのムラの男女関係や自身の経験から、男女の関係が一夫一婦制に収まり切らないことを知り尽くしていたのだと思う。私たちの時代はかれらの目から見るとなんて堅苦しくてつまらなくて禁欲的に見えることだろう。「性は思想である」とたしか伏見憲明がいっていたと思うが、たしかにそのとおりだ。

「「夜這い」が田舎でも盛んになるのは、徳川時代の後期初、享保ぐらいからで、つまり近世商業経済が農村へ侵入し、男たちの出稼ぎや離村が激増してからだ」



 なるほどムラの男女の比率が変わることにより夜這いは盛んになったということだ。比率が変わるところに男女の営みも変わるのである。赤松啓介は女性の社会進出によって男女の関係がまたもや変わるだろうと予測している。

 たった数件の引用だけでは伝えきれない豊かな内容をこの本はもっているのだが、もしひと昔前のおじいちゃん、おばあちゃんがどのような人生を送ったのかを知りたいと思ったら、この本を手にとるといいだろう。ちょっと底辺や荒くれ者たちの人生が多いのだが、現代の人はあまり階層や底辺といったものの現実感はつかみにくいのではないかと思う。「一億層中流」の時代をへたあとでは、階層の意味はだいぶ変わったというか、見えなくなったのだと思う。

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08 30
2007

書評 性・恋愛・結婚

『ひとを愛することができない』 中島 義道


ひとを愛することができない マイナスのナルシスの告白 (角川文庫)
KADOKAWA / 角川書店 (2014-02-10)
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 中島義道は自分の経験や体験から自前の哲学をくりひろげる。これこそがほんとうに哲学するという意味だと私も思うのだが、この本はあまりにも自分の家族、親夫婦の愛と憎しみを語りすぎていて、この家族の形態を人に聞かせる価値はあるのか、この形態が普遍的価値をもつのか、少々倦んだ気持ちになった。

 ちゃんと普遍の愛や憎しみにつながっているのならえんえんと親夫婦の愛と憎しみを描くのには価値があると思うのだが、そうでないのなら、一家族の愛と憎しみの歴史を赤の他人が読みつづける価値はあるものか懐疑に思った。

 中島義道は自分のことや家族のことにものすごく執着している。執着することにより悩みを広げ、そしてまたそのことによって思索の深みを増そうとしているかのようだ。家族のありかたや愛のありかたに執着するがためにどこまでも苦悩を広げ、傷を深めているようだ。

 私なんて家族の過去やつながりなんてあっさりと捨ててしまっている。過去の家族のことなんて必要ないし、どうでもいい。中島義道が親夫婦の愛や憎しみ、家族のありようをえんえんと覚えつづけ、憎み、苦悩し、書きつづけるさまは、私には信じられない。そんな過去なんて捨ててしまえばいいじゃないかと私は思うのだが、だから私はこの本の家族の経験談は普遍的価値がないのなら読む価値がないように思えたのである。

 この親夫婦は「愛せない夫」に「愛してくれ」という妻がえんえんと憎しみをぶつける話が主軸になっているのだが、家族ってそんなに愛がどうのこうと悩みつづけるのがふつうなんだろうか。私の親夫婦もけっこう憎しみ合っていたりしたが、家族が愛だのどうだのこうだのと奮闘することはまったくなかった。愛なんて恥ずかしい、わが家族にそぐわない、薄い空気のような絆で結ばれるのが家族であった。中島義道の家族のような愛の強迫観念が襲いつづけるファミリーってそんなに多いものなんだろうか。

 個人的な家族に歴史には倦んだが、まあ愛の考察はなかなか鋭いものがある思った。ただ、私は愛がどうのこうのと深く悩む性質はない。愛という言葉には冷淡かもしれないし、しぜんに人を好きになったり、親切になったりして、べつにその程度でなんの問題もないと思っている。愛の基準がさっぱりしているから、中島義道の家族のように愛の問題で深く争う価値がさっぱりわからない。

 愛についての感銘した考察を引用。

「とくに性愛の場合、あらゆる人が自分の恋人に魅力を感ずるにちがいないという感じにとらえられる。カントが正確に見てとったように、ほかのすべての人が「彼(彼女)は魅力的である」という判断を下すように「要求」するのである」

「より多く愛している者は、いかにしても相手を失いたくないという一点で、すでに敗者である。より少なく愛している者は、相手をいつ失ってもいいという一点で、すでに明らかな勝者である」

「愛とは何か。自己から脱出しようとする欲求。人間は崇拝する動物である。崇拝するとは、自己を犠牲にし、自己を売淫に付すことだ。だからすべての愛は売淫である」――ボードレール

「愛されていないと自覚した者は、不思議な転落の仕方を選ぶ。自滅していく道を選ぶのである」「夫の狼狽ぶりに彼が自分を愛していないことのさらなる確証を得て、わが身を針で刺しつづける。自分をさらにみじめにすることによって、夫をさらにさらに責める理由を見いだす。この醜い復讐劇によって、ますます夫が自分から離れていくことを知りながら、やめることができない」

「「愛」とか「やさしさ」とか「平和」とか「協力」とか「国際貢献」といった、一見誰も異議を唱えることのできないような厳かな言葉で、わたしたちは、わたしたちの自由を、人権を、ソフトで口当たりのいい「服従」の鎖に繋がれてしまう」――落合恵子

「他人が無性に怖いので、私は他人に愛されよう、気に入られようと必死の努力をするが、その結果そのひとから愛され、気に入られると、今度はたいへんな重荷を感ずるのである」



 まあ、私は愛という言葉にそんなにこだわらない人間である。中島義道のファミリーは愛という言葉に鎖や強制や拷問のような関係を強要したみたいである。愛の崇拝ファミリーであって、そんなものを崇拝すれば、ぎゃくにそれは拷問や強迫に化してしまう。

 戦後の終身婚や一夫一婦制は愛というもろい感情を基盤において生涯を拘束したためにこのような愛の拷問ファミリーが生まれてしまったのかもしれない。家族というのはもとは労働集団であったのであり、生産集団であると考えたほうがいいのかもしれない。愛だの恋だので生涯を男女の拘束としてしまうと、拷問ファミリーが生まれてしまうのかもしれない。わたしたちの感情というのははかないものであり、移り気なものであり、長くはつづかないものである。愛ゆえの憎しみに転化する関係には陥りたくないものである。

「人間嫌い」のルール (PHP新書 468) 悪について (岩波新書) 哲学者というならず者がいる ひとを“嫌う”ということ (角川文庫) カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ (新潮文庫)


09 17
2006

書評 性・恋愛・結婚

『おんなの浮気』 堀江 珠喜


おんなの浮気
堀江 珠喜

おんなの浮気

 なにか漠然とおもしろいかもと思って買ってしまったが、たいしておもしろくもなく、啓発されるところもなかった。

 雑誌の延長のようなエッセイがつづくだけの新書である。データで分析するなどの学問をほとんどしていない。この著者は文学研究なのか、ほとんど社会学的視線がない。だから浮気したいかな、してもいいかな、とさまよっているような文章で、そんな自己や世間の風潮をつきなはして冷静に客観的にながめる視点がない。これは社会学者に料理してほしい題材だろう。

 一婦一夫制と人間の生態はしっかり合致するのかといった論考あたりならよかったかも。雑誌のような扇情的な文章なんて読みたいとも思わない。自己を客観的に見たり、世間の風潮を反省するような視点が得られないと、学問をした気にもなれないし、得るものもない。

 これは新書で出される本ではないと思うのだが、おんなの浮気ごころはおいしいかもと買ってしまう私も私である。この著者はまえに『人妻の研究』(ちくま新書)という本も出していて、男の煽情ワードを煽る戦略本を出しているようである。こんかいは新書の体裁だからつい買ってしまったが、この本はエロ小説の棚におくか、主婦向けの棚においてほしい。


思想としての全共闘世代 これも経済学だ! バイオポリティクス―人体を管理するとはどういうことか 江戸の性愛術 悪魔のささやき
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02 01
2006

書評 性・恋愛・結婚

『婚姻覚書』 瀬川清子


4061597450婚姻覚書
瀬川 清子
講談社 2006-01

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 私たちはどうしてむかしの結婚を知らないのだろう。祖父母や先祖がどのような結婚をしたのかさっぱり知らない。むかしの結婚に学ぶものなどなにもないほど、私たちは恋愛結婚によって進歩したのだろうか。むかしの結婚によいところや感嘆するところはなかったのだろうか。

 ご先祖の結婚の息づかいや喜怒哀楽がつたわってくるような本ならよかったのだが、残念ながらこの本は読みづらかったり、ご先祖を尊敬するという気もちにまではいたらなかった。宮本常一や赤松啓介が書いたくれたらおもしろかったかもしれない。たぶん感情移入ができそうな苦労や情緒が描かれていなかったからだろう。

 むかしの家族というのは労働組織と考えたほうがしっくりくるようである。だから結婚もためしてみて家風が合わなければ女中のように給金をわたして里に返したようである。大昔の婿入婚は娘の労働力を惜しむことからおこったようである。結婚とは労働力の移動のようなものだったのである。

 現代の結婚は労働力というよりか、おたがいの恋愛感情によって結びつくため、きわめて危うい関係になってしまった。人の好悪だけで結びつく関係はあってもなかってもたいしたことない。労働力として結婚させられたほうが、恋愛感情という細い糸で結びつく関係より、座りはよかったのかもしれない。

夜這いの民俗学・夜這いの性愛論明治大正史〈世相篇〉性の民俗誌

01 23
2006

書評 性・恋愛・結婚

『超少子化』 鈴木りえこ


4087200434超少子化―危機に立つ日本社会
鈴木 りえこ
集英社 2000-07

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 結婚もしたくないし、子どももほしくないという社会はもうそれだけで異常である。人生の目的はシンプルに子孫を継承することだと思う。それなのに先進国は軒並み少子化に直面し、それだけで異常な世界に住んでいるんだと思う。私自身もちっとも結婚が魅力に思わないし、子どもの必要性もそう感じない。先進国はいちばん重要なことが欠落した社会なのだろう。

 少子化の原因はこの本の中でもおおくの事柄に目配りされているが、いちばんの根本の原因はなんなのかわからなくなる。途上国の人口爆発が見せるように、貧困とか経済の困難があっても子どもが次々に生まれてしまうようなエネルギーが、先進国には失われてしまっているのだろう。要は後先なんか考えていたら子どもなんか生めないのである。

 日本の若い男は妻子を養う経済的負担を嫌ってフリーターやニートとして逃げ出し、女性はなんで女だけで家事や育児を背負わなければならないのかと消費やキャリアに逃げ込む。みんなこのハードな経済社会にへとへとなのである。これ以上しんどいことは背負いたくない。若者たちは人生のストライキをおこなっているのである。

 もうみんな経済に特化した社会なんてたまらないと思っているのである。結婚や子育ては金がかかりすぎてしんどいし、老後の保険としての子どもの役割は、福祉国家なみに期待されていない。どうもいまの社会システムのすべてが子育て拒否の方向に向かわしめるようである。貨幣経済なんて交換可能なものばかりに人の魅力をひっぱるから、交換できない生命の継承という最重要事が見捨てておかれるのである。

 少子化の対策というのはやっぱり身も心もどっぷりつかってしまった経済至上主義からの脱却しかないのだと思う。金と会社しかない世の中の価値観を捨ててしまうほかない。子どもが減るという事態から、われわれはどんな異常な社会に住んでいるのかとわかるはずである。異常な社会というのは金のために会社にしがみつくわれわれ自身がつくりだしているのである。

 少子化対策としても、企業に人権を奪われる男の人生は解放されなければならないのである。社会に男が帰ってきたとき、女性の家事・育児の負担は減ることになるだろう。根本は男の人生が企業に奪われることである。国は金か、子供か、どちらをとるつもりなのだろう。


01 21
2006

書評 性・恋愛・結婚

『明治の結婚 明治の離婚』 湯沢 雍彦

404703388X明治の結婚 明治の離婚―家庭内ジェンダーの原点
湯沢 雍彦
角川学芸出版 2005-12

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 明治の離婚率は2.6%から3.6%の高い水準にあり、1%台の昭和の離婚率よりはるかに大きかった。時代は進歩すると考えられている私たちにとって、この逆進歩はなんなのだろう。世界一の離婚先進国であったのである。

 結婚は長くつづけなければならないという認識が乏しかったり、いつ別れても構わない、長つづきするのはむしろ例外だと、階層に関わりなく考えられていたようである。

 地域で見れば東北のほうが離婚率が高く、巨大な家族の前に嫁は労働力と期待されており、親族と相性が悪ければかんたんに離縁された。離婚はたんなる転職であり、離婚を恥とも残念ともまったく思わない人たちがふつうであり、良家でも離婚しないのは偶然の幸いといわれたほどだ。つまりは「終身婚」の誓いなどまったく持ち合わせていなかったのである。

 明治31年に離婚率は二割以上も激減した。家父長的な民法の発布と、それにともなう届出を出さない内縁婚が全国に二割ほどもいたそうであるから、国家の家繁栄の考え方が離婚率をおさえてゆくことになったようである。

 上層階級の結婚は攻略結婚であり、妻と感情や愛情を交えることは論外であり、それは妾とのあいだで満たされるものと考えるものも多かったのである。世間では一夫多妻制は容認されており、おそらくは最近まで男にそのような意識は強かったのではないかと思う。恋愛結婚などを大マジメに信仰する者たちだけが、一夫一婦の誓いを固く守ってきたのだろう。

 樋口一葉の『十三夜』という作品に身分違いの結婚に嘆く話が出てくる。父親から諭されるのだが、夫からずいぶん恩を受けているのだから親兄弟のためにがまんしてくれ、離婚して家を出ても子と会えなくなり、同じ不運に泣くのなら妻として大泣きに泣けといわれる。彼女は自分が死んだつもりで子を守る覚悟を決めるのである。たぶんに女性はいまでもこういう境遇で暮らしているのだと思う。

 著者によると明治の結婚の研究書はほとんど存在しないそうである。われわれも明治の結婚の話を聞かないし、じいちゃんばあちゃんがどのような結婚生活を送ったかも知らない。われわれはただ見合い結婚が減り、恋愛結婚が増えたグラフを誇らしげに見せられるだけである。むかしに学ぶことはなにひとつないといいたげである。

 明治の結婚は慣習が二人を結婚させた。年頃の男女がいれば、まわりの者たちが恋愛感情なしでも結婚させた。結婚は生活手段の一つにすぎないのであり、義務であったのである。恋愛結婚強迫の現代はその原点を忘れているのではないかと思う。

 なおこの本はちょっとおカタくて、読みすすめるのはしんどかったかもしれない。

 ▼家族をめぐる変容
 恋愛結婚は何をもたらしたか家族というリスクCIMG0001_211.jpg「家族」と「幸福」の戦後史―郊外の夢と現実

01 13
2006

書評 性・恋愛・結婚

『結婚しません。』 遙洋子

4062749610結婚しません。
遙 洋子
講談社 2005-01

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 TVでみる遙洋子は怒りっぽいようであるが、悪い人ではないという印象だ。フェミニズムを日常の生活や感覚から紹介しており、自然で、しっかりした本になっている。

 おもに家事労働の無賃労働や奉仕に怒りをあらわにしているが、学者に関する意見は私も同意見だ。「なんだ、私が感じていたことは、皆が研究対象にしていたんだ」ということである。学問はじつに日常のことを研究しているから、私もひきつけられるのである。そして問題はここから探らなければならないと思うのである。それなのになぜニュースが社会の共通問題になるのか? 最重要問題を隠蔽するためか。

 「個々の女性には、自分が個人的に関係する男性だけから抑圧を受けているかのように、つまり抑圧は私事のように見える」。この一文からフェミニズムははじまると思うのだが、どうなのだろう、テキをつくる人生はあまりよいものとは思えない。

 「フェミニズムは一種のイデオロギー、つまり利害や視点に制約された偏向した思想である」――上野千鶴子

 遙洋子は男のつらさなんて一生わからないと切り捨てた。男も同じように企業社会に抑圧されていることに思いをいたらせないとたぶんフェミニズムは自分の利害を主張するだけの思想に終わる。企業社会に人生を奪われると思う男の私は、女は三食昼寝つきでいいなあとイヤミをいいたくなるのだが、やはり両性はたがいの傷みを理解しあう必要があるのだろう。自分の利益だけを追求するのはオトナではないし、学問でもない。

 ▼結婚・家族・恋愛について
「非婚」のすすめ女は結婚すべきではない―選択の時代の新シングル感覚kindaikazoku1.jpgセブン・ラブ・アディクション―なぜ失恋はクセになるのか

01 12
2006

書評 性・恋愛・結婚

『なぜフェミニズムは没落したのか』 荷宮和子

4121501594なぜフェミニズムは没落したのか
荷宮 和子
中央公論新社 2004-12

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 ひどい本と出会ってしまった。いや、ひどい著者というべきか。これはトンデモ著者である。偏見と思い込みにこりかたまった思考にぎくっとさせられる。なんでこんなトンデモ思考が事実だと思い込めるのか頭を抱えたくなる。

 しかもはじめの一章に80年代の価値観をプレイバックしていて、それだけで私はゲロを吐いて本を投げ出したくなった。私は80年代の解毒剤として老荘や隠遁者などの中国思想を必死に学びとったのに、この人はあいかわらず80年代バブリー恐竜女である。時間が止まっていたのか、反省能力がないのか、あるいは女性はいまだにバブル的価値に生きているのか。「私は違う女よ」という話ばかり聞かされた。

 二章からはだいぶマトモになって林真理子が女性にウケた理由を説明していて、これはこれで納得できた。自分で稼いだお金で好きなことをしたり、女性が成功しても幸せな日常生活を送ることができる、といったことを体現していたからそうである。女性の不自由さやルサンチマンは謙虚に聞くべきであると思った。

 マトモなのか~と思いはじめたら、また偏見と思い込みの文章に出会い、がくーと信用を落としてしまう。どうしてこんな偏見と思い込みの人が本を出せるのか恐ろしくなる。岩月謙司に近い感じだ。客観性やコンセンサスの欠如である。もうこの本と著者のことは忘れることにしよう。うんそうしよう。

 ▼バブルの解毒剤に
清貧の思想CIMG00031111.jpg菜根譚342081011.jpg

01 08
2006

書評 性・恋愛・結婚

『性と結婚の民族学』 和田正平

CIMG0001_11113.jpg性と結婚の民族学
和田 正平
同朋舎 1988-05

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 結婚とはなにかと考えると、世界の民族の結婚をダイジェスト的に知るのが参考になると思うのだが、さっこんの本屋にはあまりそういう本はない。晩婚化を反映して結婚について考える人が減ったからだろうか。この本はかろうじて古本屋で見つけた。

 この本では一夫一婦制とかなりかけはなれた結婚制度が紹介されている。一妻多夫制、亡霊結婚、女性婚である。

 一妻多夫はだいたい兄弟や父子に妻が共有される制度、亡霊結婚は跡継ぎのない死者のために結婚する制度、女性婚とは不妊の女性が結婚した女性に夫の子どもを生ませるためにおこなうものである。話がかなりややこしく、この本は学術的であるため、定義がかなり混乱してくれるので、正確にはいいあてていないかもしれないが、それほどややこしいのである。

 一夫一婦制があたりまえとして凝り固まった頭にはかなり混乱する話で、学術的にも厳密すぎるので、この本はだいぶ退屈なところをふくんでいた。キワモノ結婚をおもしろおかしくマンガで紹介するような本のほうがおもしろかったのかも。それは性と結婚の未来形を垣間見せるものでもあるだろう。

 たとえばもし一妻多夫制が許される社会だったら、『タッチ』のカッちゃんタッちゃん南の関係はどうなっていたんだろうと考えることができるし、『キャンディキャンディ』なら(古い!)、アンソニーとテリィと結婚してうはうはだっただろう。亡霊結婚がOKだったら映画『ゴースト』の主人公は結婚していたか(意味は違うが)。人間の社会とはさまざまな結婚制度の可能性があり、また恋愛感情も違ってくるのである。

 アラブ人とアフリカ人の土着思想には、女性を油断ならない性の「つわ者」と見ている向きがあり、アラブ人は貞操と禁欲を強制し、アフリカ人は公認された性交渉のカテゴリーを設定して(!)性的発散を可能にしたりしている。

 これらの関係に自分をあてはめてみると、いったいどういうふうに感じ、どんなふうにふるまっていたんだろうなと思う。それが人類学の役に立つ使い方だろう。晩婚に進む日本の結婚制度になんらかの方策を示唆するかもしれないのである。一夫多妻制などの形態を知りたくなった。あと、結婚とは名や家を存続させるために必死に保険をかけているんだなと思った。

タッチ (1)キャンディ・キャンディ (1)  講談社コミックスなかよし (222巻)ゴースト ニューヨークの幻恋愛は少女マンガで教わった

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