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06 24
2013

TV評

『雲の階段』と「ニセモノの人生」の悲劇

B00DGM4JVK雲の階段 DVD-BOX
バップ 2013-10-23

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 『雲の階段』は名作であったと思う。

 「無資格医」がバレないでいつまで医者をつづけられるかという緊迫感で見せるドラマであったが、テーマは医者のニセモノだけではなく、人間の普遍的な生き方まで到達していたと思う。

 このドラマはニセモノの医者だけの話ではなくて、「ニセモノの人生を生きる」ということの意味を問いかけたドラマだったと思う。

 ニセモノの人生って自分には関係ないと思うかもしれないが、人が承認や世間からの評価をのぞんでしまうとニセモノの人生に落ちるかもしれないという危険とたえず隣り合わせになる。人から求められる人間になるとたえず自分の好きなこと、したかったことと葛藤、対立することになる。

 『雲の階段』の三郎は人から求められる医療という行為のなかに自分の情熱を傾けられることを見つけたのだが、それには資格がないというニセモノから逃れられなかった。

 その先には権力や地位という評価の高いものの「雲の階段」があるわけだが、三郎は無資格医がいつバレてもおかしくないという境遇のためにその志向をもつことがなかった。それゆえに権力志向との対立をうきぼりにする構造があった。

 三郎は美琴島で医療を教えられるまでたえず、「自分には価値がない、何者かわからない」といった意味の感じられない人生を生きていた。人から求められるままニセ医者をつづけるうちに、自分にいちばんいらないものは「意志」だと思うようになる。自分の価値や人から求められることを感じるには、自己の放棄――自分以外の何者か――ニセモノになることを選んだのである。

 医療を教えられることによって、自分の価値や存在する意味をあたえられることになって権力の階段も手に入れることになるのだが、それはニセ医者というニセモノの上でしかなかった。

 原作者の渡辺淳一は承認欲や認知欲のすべてをニセモノ、ほんとうの自分ではないといいたかったのかわからない。三郎はそこに自分の生きている価値、情熱の傾ける先を見つけ出しているからだ。しかしそれは「ニセモノ」だった。

 人に認められて価値あることをめざそうとすれば人はニセモノの人生を生きざるをえないのか、それともニセモノのなかにしか情熱を傾けることを見出せなかったと三郎の悲劇を見せたかったのか。あるいは権力の階梯をのぼるということの批判をこめているのか。

 この作品は院長に象徴される権力への志向がニセモノであったり、批判されるものとしてあげられるのだろう。ニセモノがあしたバレてしまうかかもしれない三郎には未来の不安や未来の保証を守る必要がない。それゆえに権威や学閥といった守るものにこだわる必要がない。患者の命を守るより、たいせつなものをもってしまう医者への批判がこめられていた。「雲の階段」という危うい幻はその階梯のことをいっているのだろう。

 三郎をとりまくふたりの女性の名が「アキコ」という同じ名前だが、このふたりはなにをあらわしているのかいまいちわたしにはわからなかった。看護士の明子は医者に情熱を傾ける三郎に魅力を感じ、かれを守り、かれを「待つ存在」である。院長の娘の亜希子は愛にすがる女、三郎がいないと生きていけないという「依存する女」である。渡辺淳一流のふたつの女性タイプの品評会なのだろうか、待つ女がイイというw

 ある意味、世間から期待されるニセモノの人生を生きてしまう者は母親の期待から逃れられない、反抗期をもたない男だともいえる。親や世間からの期待に翻ったことがない。他人より自分をたいせつにしたことがない。他人より自分の意志を選択したときに人はニセモノの人生から離れられるのかもしれない。

 渡辺淳一の原作はいがいに古く82年の出版である。三十年も前の作品である。2006年に韓国でもテレビドラマ化されたということだが。出版当時はどう評価されて、いまどうしてこの作品がドラマ化されたのだろう。名作はうもれていた。

 このドラマはニセ医者という設定を用いながら、承認と自由が対立し、承認のためにほんとうの自分を見失ってニセモノを生きてしまう人生を揶揄した深い内容になっていると思う。あるいは権力志向の部分だけ批判されたものかしれないが。

 またはニセモノのなかにしか自分の価値あるもの、認められるものを見出せなかった男の悲劇を描いたのかもしれない。わたしは承認や価値あるものといった人がめざしてしまうものはすべてニセモノ・マガイモノといったテーマを感じとってしまったのが、世間の価値や承認をすべて否定するまで厭世的になるべきなのだろうか。

 ラストシーンで三郎は病院をうしなってしまう院長に「おまえはおれだ、おれはおまえだ」といわれ、刺されてしまう。これは承認を求め、価値ある人間になろうとして、権力の階梯を志向してしまう人間のサガのことをいったのだと思う。

 さいご三郎は南の島で医者をつづけるシーンが描かれていたのだが、三郎が死の間際に見た夢だったのかしれないね。むかし『人間の証明』とか『砂の器』といった映画に成功の頂点にのぼりつめた男が転落する悲劇が描かれていて、そういう系列の物語を思いだしたね。

 ニセモノの人生を送らないためには、人気や評価といった世間的価値と、自分の好きなもの、価値あるものは違うというしっかりとした自分の嗜好を知っておかなければならないのだろうね。自分を知らない人間は、ニセモノの人生を送ってしまうのである。



雲の階段(長谷川博己)感想とドラマレビュー - ちゃんねるレビュー


4062772078新装版 雲の階段(上) (講談社文庫)
渡辺 淳一
講談社 2013-03-15

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▼映画のなかに「ニセモノの自己」=「いつわりの仮面」を見出す章がある。
4062563096「本当の自分」をどうみつけるか―映画でみる精神分析 (講談社プラスアルファ文庫)
小此木 啓吾
講談社 1998-12

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▼承認欲求と自分らしさは対立するもの。
4062880946「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)
山竹 伸二
講談社 2011-03-18

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▼名誉欲によるニセモノ批判といえばショーペンハウアー。孤独のなかの自由。
4102033017幸福について―人生論 (新潮文庫)
ショーペンハウアー
新潮社 1958-03-12

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03 30
2013

TV評

どうして彼女たちは自尊心を失ったのか―『自虐の詩』と『イグアナの娘』と『やまとなでしこ』から

 映画の『自虐の詩』を見たが、これは自己評価が究極に低い女性が描かれている。低い境遇や運命をあたりまえにうけとめて、自虐のなかにもささいな幸福をみいだすという精神構造ができあがってしまっている。

 このような自尊心の低い女性が描かれた物語では『イグアナの娘』というドラマを思い出した。ここでの女性は母からしいたげられ、すっかり自信と自尊心のない女性に育ってしまっているのだが、自尊心をとりもどすまでの過程が描かれている。

 『やまとなでしこ』というドラマがあったが、この女性は自信満々で高慢に金持ち男性をあさる利己的な女性なのだが、根本には貧乏で自己評価の低さというコンプレックスの反動だったことがわかる。

 これらの三つの物語はいずれも自尊心や自己評価の低い女性がえがかれているのだが、自尊心をとりもどしたり、真の自己にめざめる成長がえがかれている。どうして彼女たちは自己評価を損じて、またどうやってとり戻したのか、そういったことを考えたいと思う。


幸江はなぜ自尊心を壊滅させたのか

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▲人から愛される価値があることが信じられない幸江


 『自虐の詩』の幸江は貧乏なうえ、母に捨てられ、父が犯罪者になってしまうという境遇のなかで自尊心を壊滅的にしてしまう。自分には価値がないという思いにとりつかれ、売春婦にまで身をおとして自己を軽んじる気持ちしかもてなくなってしまう。

 だからイサオに求愛を受けても、自分の愛される価値はないと思い込んでいる幸江には冗談かバカにしているとしか思えない。自己評価の低い人間は、人に愛される、価値を承認されるという対応をうけいれることができない。幸江はここで自殺未遂をおこなってしまうのだが、自己評価の低い自分にたえられなくなったからだろう。これは再生への象徴でもある。

 といってもそののちの幸江は虐げられた女性のままである。イサオは働かないで幸江の仕事で養われているし、ちゃぶ台をひっくり返されつづけてもイサオと別れる気はないし、イサオを立てつづける。幸江がイサオを見放さないのは自己肯定をあたえてくれた唯一の承認者だったからだろう。幸江はイサオに愛されることによってはじめて自己承認を得ることができた。

 マンガでは自虐的な境遇にありながらも幸福や喜びを見出すマゾ的な幸江が多く描かれていたと思うのだが、回想シーンをはさんで幸江は自己評価を上げたはずなのだが、まだ自己評価の低い境遇に甘んじる幸江の現在は終っていない。承認や肯定をほんのわずかに与えられながら、ささやかな幸せに満足する人生が描かれている。

 このマンガは自己評価の低い女性のゆがんだ幸福が笑われる作品だったと思う。映画では幸や不幸なんてないのだという独白がラストに語られる。


イグアナとはなにか

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母から愛されることのなかったリカ


 『イグアナの娘』は母に虐げられることによってすっかり自信のない女性に育ってしまうのだが、自信と自尊心がとりもどされるまでの過程をえがいたドラマである。

 母にはなぜか娘が醜いイグアナに見てしまう。だから娘に冷たく当り、娘のリカは自信と自尊心のない少女に育ってしまう。

 このイグアナというのは劣等感や自尊心のなさを象徴したものだと思う。母には娘がイグアナに見えてしまうというのは母自身の劣等感が投影されたものであり、娘のリカは母の劣等感をそっくりひきついでしまう。醜形恐怖症という説明もあるが、母につらく当られてできた性格が容貌だけに集中するだろうか。

 リカは友だちの励ましや昇という男性の承認を得ることによってじょじょに自信をとり戻してゆく。リカは成績がいいのだが、自信や自尊心はまったくない。存在を母から愛されるという経験をしていないからである。

 自己評価や自尊心には愛されることと、能力が認められることのふたつが必要だといわれる。存在を認められるだけでは肯定感を得られないし、能力だけを認められても自己評価は欠乏する。青島リカのばあいは母の愛の欠如のために自己肯定を得られない。

 『自虐の詩』と『やまとなでしこ』のばあいは貧乏だったために自己肯定感を得られなかった。青島リカは母娘の関係によって自尊心を破損させてしまう。前二者のドラマが能力の欠如をうたったものだとすると、『イグアナの娘』は存在の肯定、愛を得られなかった女性の物語である。

 日本の社会に敷衍すると能力だけが評価される社会に進展しつづけている。貧乏はその能力欠如のしるしである。ドラマの主人公たちは能力を認められようと奮闘するのが多くある形である。能力だけにすすんだ社会を批判するときには、貧乏でも愛があるといったテーマがつくられやすい。青島リカは能力はあっても愛がないという日本社会を象徴するすがたであったかもしれない。

 リカが自己肯定感を得てゆく最中にこれまで励ましてくれた親友を失ってしまうことになる。これは自己肯定感を得るのはだれかのサポートだけではなく、自分の力で、自分ひとりの力で立たなければならないというメッセージなのだろう。

 自信と肯定感をリカが得てゆくと母には自分のすがたがイグアナに見えてしまうという転機をむかえる。娘に投影していた劣等感はようやく自身にひき戻され、それが自分のものだったという象徴である。だけど娘の自立を許せない母はさいごには娘を救うようなかたちで死をむかえる。リカ自身にとっては劣等感の消滅を意味するのだろう。

 青島リカは自立や自信をとり戻したあとも自分のすがたがイグアナに見えることには変わりはない。劣等感や自己評価が低くくとも、ともに生きてゆこうということなのだろう。拒絶されるものでなくなったとき、イグアナは受け入れられるものになったのである。


神野桜子を金持ち志向にしたもの

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▲「父ちゃん、ごめん。ウソつかせて」


 自尊心のない女性のなかに『やまとなでしこ』の神野桜子を入れることは違和感があるだろう。高慢で高飛車で功利的に金持ち男性を漁る女性にとてもそんな影がさしていることは認められない。

 しかし彼女をこんな利己的なハンターにしたのは貧乏であるという自己評価の低さである。この自尊心の欠如ゆえに彼女は鎧のような功利性を身につけたのである。心の底には低い傷つけられた自尊心がある。

 ある意味、この女性もひじょうに日本社会や高度成長期以降の経済主義として象徴されているといえないだろうか。貧しい社会から豊かになろうというかけ声のもとで急成長をとげたのだが、自尊心は低いまま、幸福でゆたかな気もちはいつまでも味わえない。愛や心の欠如だけで心は吹きすさぶといった状況と同じである。

 ビジネス的、商業的なハンター性質だけを身につけたのが神野桜子である。愛がまったく欠如しているのである。そうなったのは貧乏という能力の欠如による自尊心の壊滅である。功利的なハンティング性質はその鎧である。

 先ほど自己評価が満足させられるのは能力が認められることと、存在自体が愛されること、承認されることだといった。桜子には能力だけの承認を求めて、存在自体が承認されるという志向性がまったく失われていたわけである。乾いた、がさがさの怜悧な能力の承認欲だけが先鋭化していたのが桜子なのである。それはビジネスに特化した日本社会にもいえることである。

 能力だけが承認されて、存在していること、ただ「ある」ことに承認がなされない日本社会になった。『やまとなでしこ』の桜子は能力だけでは満たされない、存在を承認された満足を得られないことに気づいた女性の象徴ではないか。

 こういった能力が欠如して役にたたないものがなぜ人々に必要なのか、言葉で理解できがたいビジネス特化社会をわれわれは生きている。役に立たないものははじき出せ、じゃまであるという社会である。それゆえにただ在しているだけで承認され、ゆたかさを感じられる気もちはどんどんそぎ落とされてゆく。排除していけばいくほど、われわれはますます不全感、満たされない気持ちを募らせてゆく。

 貧乏でいじめられて泣いていた子供はいまもずっと泣いているということになるだろうか。


自尊心の欠如と回復

 これら三作を整理してみよう。

 能力を欠如したゆえにそれに特化したのが神野桜子。能力の欠如からはいあがれないままだけど、愛の承認を得たのが幸江。いずれも能力の欠如は貧乏というかたちであらわされる。

 愛の欠如ゆえに自尊心をもてない青島リカ。リカは能力はあるのだけど、愛の承認がない。

 幸江は能力の欠如=貧乏なままだか、ささやかな承認を得ることで幸福を感じる。

 桜子は能力志向を断って愛を選ぶ。承認を求めていたのはそういうことではないと悟る。

 リカは母から否定されていた自己肯定感を、友だちや恋人の励ましによってみずからが得てゆく。

 これらの物語は自尊心の欠如から出発している。自尊心や承認を得るかたちはさまざまだけど、自分に必要だったもの、自分に合ったものを見つけてゆく。

 ここでは言及しなかったが、『リッチマン・プアウーマン』の能力のあるカリスマ起業家の日向徹は母から捨てられた子どもである。能力があると母の愛=人々の信頼や承認を得られると思っている。だけど愛の欠如は母の愛でないと埋められないのである。それが母の名を偽名に語った真琴でとり戻されようとする物語である。

 わたしたちはさまざまな欠損感や承認のなさを感じながら暮らしている。自尊心の欠如したすがたはわれわれ自身のすがただろう。だから彼女たちが承認や肯定感を得てゆくとき、とても感動するのである。われわれ自身の欠如を埋めてくれるように思うからだろうか。


▼さがせば無料で見られますけど。
B0011DKCPS自虐の詩 プレミアム・エディション [DVD]
ジェネオン エンタテインメント 2008-03-14

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B00005MIHBイグアナの娘 The Daugther of IGUANA DVD-BOX
萩尾望都
パイオニアLDC 2001-09-07

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B00005HW84やまとなでしこ DVD-BOX
ジェネオン エンタテインメント 2001-03-23

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09 30
2012

TV評

なつかしいテレビドラマをYouTubeで思い出してみよう

 テレビドラマって終わってしまったら、世間から忘れられて、思い出すこともほとんどありませんね。蓄積されたり、いつまでも批評や話題の対象となることはありません。

 動画を見せられるとあのころあんなドラマがあったなとか、あのころはこんなことがあって、こんなことを思っていたなとなつかしく思い出せたりするかもしれません。

 若干、個人の好みで集めているのはいたしかたありません。YouTubeでは思い通りに見つかるわけでありませんでした。また動画の削除は必至なのでご了承ください。



「あすなろ白書」 (1993年)
いちばんなつかしい思いがするドラマかもしれません。石田ひかり、筒井道隆、キムタクなどが出ていましたね。原作者の紫門ふみの時代がありましたね。


「眠れぬ森」 (1998年)
中山美穂のしっとりした情感が落ち着いた雰囲気をつくっていましたね。


「東京ラブストーリー」 (1991年)
トレンディ・ドラマの頂点がこのドラマでしょうか。


「Age,35 ~恋しくて」 (1996年)
このドラマは大好きでスルーするわけにはいきません。紫門ふみの頂点ですね。瀬戸朝香のせつなさ、けなげさがよかった。アンドレ・ギャニオンのせつない挿入曲も好きになりました。


「世界の中心で、愛をさけぶ」 (2004年)
若者がそう病気で亡くなることが多くない時代にちょっと反則ではないかと思いましたが、懐古的な動画がもりあげてくれますね。白いさわやかな制服、いなかの山の景色がじつに絵になりましたね。


「きらきらひかる」 (1998年)
このドラマはミスチルの主題かも加わってノリがよく、内容も深いものがありましたね。


「やまとなでしこ」 (2000年)
「カネ」か「愛」かというテーマは心を打ちましたね。松嶋菜々子の頂点でしょうか。


「イグアナの娘」 (1996年)
忘れられない心理名作ドラマだと思っています。菅野美穂が記憶に刻まれたドラマですね。


「ハーフポテトな俺たち」 (1985年)
トレンディドラマの走りっぽい時代のころのドラマだったかな。レベッカの主題歌。


「理想の結婚」 (1997年)
常盤貴子、ZARDの主題歌、竹野内豊。女の子のためのドラマが多かったですね。


「ADブギ」 (1991年)
浜田雅功が出ていましたね。「女王の教室」の遊川和彦脚本。


「ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ」 (2001年)
野島伸司の脚本ドラマ。


「逢いたい時にあなたはいない」 (1991年)
中山美穂が等身大の女性をあらわす主役としてひとつの時代をつくりましたね。女性のためのドラマが切望されていた。


「誰かが彼女を愛してる」 (1992年)
こちらも中山美穂主演のドラマ。「世界中の誰よりきっと」は大ヒットしましたね。


「卒業」 (1990年)
中山美穂とドリカムで女性のためのドラマ。


「ロング・バケーション」 (1996年)
キムタクと山口智子の主演で、旬の人気者を組み合わせたドラマ。物語より俳優が先にあるドラマですね。


「Love Generation」 (1997年)
恋愛の物語をつくればなんでもウケていた時代にとうとう「愛の世代」というベタなタイトルがあらわれましたね。


「ひとつ屋根の下」 (1993年、1997年)
中国でもヒットして酒井法子が人気者になったということですが、大家族の話がシンパシーを感じさせたのでしょうか。

愛なんていらねえよ、夏 OP (2002年)
なんか冷たいドラマでしたが、愛の欠如ゆえに愛の大切さを訴えた作品だったのでしょうか。愛ばっか。


「白い影」 (2001年)
竹内結子、竹内まりやが旬の時期でしたね。

ORANGE DAYS OP (2004年)
妻夫木聡×柴崎コウ。


「101回目のプロポーズ」 (1991年)
これもトレンディドラマの頂点の作品でしたか。浅野温子と浅野ゆう子がひとつの時代をつくりましたね。


「ふぞろいの林檎たち」 (1983年~1997年)
若者たちのドラマにひとつの転換点をつくったドラマでしたね。


「北の国から」 (1981年~2002年)
少年と少女の現実の成長とドラマの成長を重ね合わせて、国民的ドラマになりましたね。連続ドラマではまったく知らなくて、数年に一回のスペシャル番組で知るようになりましたけど。


「海岸物語」 (1998年)
山下達郎の主題歌がしみますね。奥田瑛二とかオトナのドラマですね。


「恋がしたい 恋がしたい 恋がしたい」 (2001年)
じつに女性のためのタイトル・物語ですね。まっしろな無垢なシャツやワンピースがオープニングに使われることが多かったですね。


「若者のすべて」 (1994年)
見てなかったと思うのですが、ミスチルの人気がぐんぐん上がっていましたね。


「恋ノチカラ」 (2002年)
深津絵里主演の女性のための共感ドラマでしょうか。小田和正主題歌。


「カバチタレ!」 (2001年)
女の子のための物語でしたが、法的な知恵もさずける番組でしたね。常盤貴子、深津絵里。


「高校教師」 (1993年)
教師と生徒の禁断の愛、近親相姦と、野島伸司が古めかしいセンセーショナルの寄せ集めでつくった作品に思えました。


「愛という名のもとに」 (1992年)
浜田省吾のテーマ曲づくしのドラマでした。殿堂入りした鈴木保奈美の名誉席ドラマ?


「ケイゾク」 (1999年)
こういうマニアックさのドラマはめずらしかった。


「金曜日の妻たちへ」 (1983年~1985年)
主婦の不倫をえがいてブームになりましたが、韓流の先触れという位置づけもできるかな。


「君といた夏」 (1994年)
筒井道隆×瀬戸朝香×ユーミン。


「WITH LOVE」 (1998年)
竹野内豊×MY LITTLE LOVER。ネット恋愛の話なのね。


「ミスチル・ドラマ主題歌」
ミスチルの社会派・心理派の曲がドラマの感傷を深いものにしましたね。


「アフリカの夜」 (1999年)
SPEEDの主題歌だ。


「岸辺のアルバム」 (1977年)
ジャニス・イアンの主題歌が忘れられないですね。


「ナース・ステーション」 (1991年)
菊池桃子主演の軽いドラマでしたけど、ちょっと深い内容もあるのではと思って見てました。


 年代をwikiで調べて打ってみましたけど、90年代のドラマが多かったのね。わたしがそのころに若くて記憶に残るドラマをよく見ていたのか、それともドラマの旬やブームの時代だったでしょうか。

09 21
2012

TV評

『リッチマン、プアウーマン』のカリスマ起業家はなぜ母に捨てられた設定なのか?

 『リッチマン、プアウーマン』はカリスマ・ベンチャー起業家を描いためずらしいドラマである。

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 いちばんのもりあがりは信頼していた共同経営者に裏切られる話だが、この回だけは名作に達するかと思ったけど、わたし個人としては思いをつげられないワンパターンな恋愛話など、雰囲気がいまいち名作にふさわしくなかったと思った。『華麗なる一族』みたいに重厚な雰囲気だったら名作になれたかもね。

 このカリスマ・ベンチャー起業家の物語にはなぜか捨てられた母探しのエピソードがつけくわえられている。石原さとみ(夏井 真琴役)はなぜじつの母の名前を偽名として使ったのだろうか。このエピソードは気まぐれにこういう設定がはさみこまれたのだろうか。

 この物語は「母に愛されたい」という欲求を描いた物語だと思う。それが世間から愛される欲求になったり、恋人に愛されたいという欲求に変わる。自分の存在を認めてほしいという認知欲求について語った物語だと思うのである。根源は「母に愛されたい、認められたい」である。

 とくに母から捨てられた子は存在自体への愛をそそがれず、承認されない生をさずかる。存在が母から承認されないのである。

 そういった欠乏をもった人間は、だれかに愛されたいという大きな欲求をもつにいたるだろう。じつのところ、世間からの愛や名声をのぞむ気もちには巨大な愛の欠如や存在の不承認があるのではないだろうか。だからだれかに認めてもらわないと自分の価値を認められない。母探しというのは「存在の承認」のことではないだろうか。

 石原さとみが母の偽名を使ったのも、彼女が母の愛を象徴または代替する存在としてあらわすためではなかったのか。彼女は母なるものであり、存在をまるごと承認してくれる存在である。

 共同経営者の朝比奈恒介(井浦新)と日向徹(小栗旬)は、夏井真琴(石原さとみ)の愛を争ったのではなくて、母の愛ではなかったのか。あるいは母のように存在自体・全体を承認してくれる存在。

 だから朝比奈は黒子役には不満を感じなかったのに、母をとられた嫉妬から日向徹を策略にはめ、解雇に追い込んでしまう。母の愛=存在の全承認をかけて、争ったのである。

 70年代の少年マンガ・アニメにはごろごろと「みなしご」の物語がある。『タイガーマスク』や『あしたのジョー』、『てんとう虫の歌』、『みなしごハッチ』などがあった。『巨人の星』も母不在であったし、『母をたずねて三千里』、『子連れ狼』もそうだった。母に捨てられた、母のいない物語が多かったのである。

 このころには母=存在の承認のない気もちが人々に蔓延していたのだろうか。おそらくは承認のありかたが、たとえば仕事ができるとか、お金をたくさんもっているとか、勉強ができるだとか、そういう存在自体ではないなにか得意なこと、有益な価値をもたないと承認されないという気もちが強くなっていたのだろう。「役にたたない」と価値がないという時代が高度成長期に襲ってきていたのではないだろうか。

 日向徹も母に存在を承認されなかった「捨てられた=愛されなかった子ども」である。そしてそれがエネルギーとなって巨大な承認欲、ハングリー精神が生まれたのではないだろうか。かれは自分の価値の承認の大きな欠落を背負っているのである。

 世間に認められる人は存在を承認されているのではなくて、存在承認の大きな欠落を抱えるがゆえに世間に認められたいという大きな欲求を抱くのではないのか。じつは存在を承認されなくて「泣いている」のではないのか。

 自分の存在、価値に充足している人間には、大きな認知欲求というのは生まれない。自足しており、満足しているから、他者や世間からの愛を過剰に求めない。世間の承認をほしいというのは、自己の価値欠落と表裏の関係ではないのか。「用途」や「役割」でしか愛されないと思った人間は、なにもしないでも存在を承認するということができない。かれはなにかの行動的な価値で役にたたないと価値がないのである。

 だから『リッチマン、プアウーマン』の日向徹は世間的には認められているが、自己の価値の欠乏に悩まされていたのではないか。母の承認が欠落しているという十字架を子どものときから負っているのである。石原さとみ(夏井真琴)は母の偽名を語った存在としてあらわれるが、それは母の承認をもう一度とりかえすことの象徴ではなかったのか。存在の承認をめぐる物語である。

 日向徹は夏井真琴(石原さとみ)に出会うことによって、社会性のある行動や記憶をもてるようになる。それは自我の不安定が、母の承認によって安定させられたということだろうか。

 母を恋しく思うというのは存在を承認されたいことと同じだと見なすべきかもしれない。母を求めるというのは存在の承認のことである。存在の承認は直接に母に認められたいという方向に向かうかもしれないし、世間に認められたい、恋人に認められたいになるかもしれない。それは自分の存在を認められることである。それをべつの言葉でいうと「愛されたい」ということである。

 谷崎潤一郎の『吉野葛』では亡き母を思うあまり実家の姪をめとった話や母が狐として森に帰っていった信太の森の話が出てくる。母を思うというのは存在の承認のことである。『銀河鉄道999』ではメーテルという存在が母とも恋人ともつかない関係として出てくる。じつは母の思慕ではなくて、存在の承認をめぐっての象徴であったかもしれない。

 『リッチマン、プアウーマン』は母に愛されたい=存在をまるごと承認されたいというテーマをふくんだ物語であったかもしれない。母に捨てられたエピソードは、存在の承認が欠落していることである。そして存在が承認されるということは、愛されること、母に無条件で愛されるということである。

 でも存在を承認されるということはなにごともなしとげないでも無条件で認められるということなので、成功や功なりなしとげたことに向かうなら、それは不幸な欠落をふくむはずである。かれは認められたいためにもっと用途や手段の道具となってゆくだろう。


▼ステータスの欲求を「もうひとつの愛」と喝破した名著
4087734404もうひとつの愛を哲学する ―ステイタスの不安―
アラン・ド・ボトン 安引 宏
集英社 2005-11-04

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03 12
2012

TV評

名作『イグアナの娘』をひさしぶりに見れたので精神分析する

 1996年にテレビドラマ化された『イグアナの娘』は名作だと思う。おりにふれて前から見たかったドラマだが、ネットの動画でふたたび見れる機会にめぐまれたので、ちょっと書いておきたいと思う。

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 ▲鏡に写った自分のイグアナの顔をみて脅えるリカ(菅野美穂)

 こちらで見れるかどうか。なければ「無料動画」で検索してみてください。11話まである。http://www.tudou.com/programs/view/eIH8z6R4ZEQ/

▼You Tubeでごらんになれます。



 自分のすがたがイグアナに見えてしまう女の子の物語である。母には娘がどうしてもイグアナに見えてしまい、冷たくあしらわれることによってすっかり自信のない娘に育ってしまい、自尊心をとりもどすまでの物語である。菅野美穂が主役である。

 劣等感や自尊心の欠如におびえる女の子から、友だちをえたり好きな人に認められたり、自立を勝ちとってゆくさまは感動的である。ダメな女の子から成長した女性になる物語は気持ちを奮い立たせてくれる。わたしにとってはずっと名作ドラマである。

 トラウマ・ドラマの走りである。イグアナというのはもちろん劣等感や自信のなさ、自分をダメだと思う心、自尊心の欠如、母への依存心などの象徴である。イグアナはかたちあるものではなくて、かたちのないものが具体化されたものである。

 これはカエルが王子様になったりするおとぎ話と同じである。たとえば童話でのカエルというのは性的嫌悪の象徴だったりしてその克服がえがかれる。子どものころにはその意味がわからないわけだが。

 『白雪姫』と同じである。『白雪姫』では母からの自立、性的成熟がテーマになっているわけだが、まあ大人になってもそのテーマを知らないかもしれない。

 『氷点』というドラマがあったが、これもまったく『白雪姫』と同じだと思うのだが、殺人者の娘を育てるという設定は、母にとっては娘は死の予告者であり、若さの衰えの恐れの象徴でもあるということである。『イグアナの娘』ではおもに劣等感や自立がテーマになっているのだが。

 母に娘がイグアナに見えてしまうというのは、母自身の劣等感や自尊心の欠如が娘に投影されたものである。娘はその母から精神的虐待をうけて、すっかり自信のない子に育ち、母の劣等感をそっくりうけついでしまう。それは母自身の劣等感である。

 母には娘がイグアナに見えるわけがわからず、つまり自分の劣等感を娘に投影していることに気づかずに、娘を殺そうとしたり、精神的虐待をおこなう。娘が自信や自立を勝ちとってゆくにしたがい、母は自分の顔がイグアナに見え、娘の自立が完璧なものになると死んでしまう。

 つまりこれは娘にとっての劣等感の消滅である。この物語は母が現実のものであるというよりか、娘自身の劣等感が具体的なすがたをあらわしていると見るのがいいのかもしれない。娘が自立したときに母は消滅してしまうのだから。

 母からうけついだ劣等感を認め、劣等感をありのままで生きてゆこうとしたとき、母は自分の顔がイグアナに見え、投影がひきもどされて母は死んでしまう。劣等感は主人公の心の中で消滅してしまうのである。それは抱きしめてともに生きてゆこうとしたとき、克服されるのである。

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 ▲鏡に映った自分のイグアナの顔に「あっかんべー」するリカ。

 精神分析や交流分析では母や親が幼少期から虐待してきたから憎め、抑圧されたその感情を思い出すのだといった話をよく聞くのだが、この虐待する母というのは現実の母ではなくて、内面化された自分を責める心やこき下ろす心が具体化されたものをあらわすのではないだろうか。敵は現実の母ではなくて、わたしの心の中に住みつづけている。

 精神分析や交流分析では過去や幼少期の問題にされ勝ちだが、これは過去の問題ではない。現在の問題であり、現在の心のあり方自体が問われるべきだろう。だから過去の問題としてカン違いされ勝ちな精神分析はわたしは嫌いである。現在の心のあり方自体が問われなければならない。

 90年代にトラウマやアダルト・チルドレンといった精神分析、交流分析系のことばが流行ったのだが、認知療法やポジティブ・シンキングといった過去を問題とせず、現在の考え方だけを焦点にすえるセラピーも同時に出てきた。わたしもこの立場にくみするので、過去や親の問題と捉え勝ちになってしまう精神分析・交流分析派には懐疑的である。

 過去になにがあろうと、現在の考え方・捉え方自体が問題なのである。そこをカン違いしてはならない。


▼関連リンク
 「童話はどう読むのかのおすすめの本

B00005MIHBイグアナの娘 The Daugther of IGUANA DVD-BOX
萩尾望都
パイオニアLDC 2001-09-07

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4896914228昔話とこころの自立
松居 友
洋泉社 1999-09

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442293287X名作童話の深層 オンデマンド版
氏原 寛
創元社 2010-02

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4566020703昔話の魔力
ブルーノ・ベッテルハイム
評論社 1978-08

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4062560313昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社プラスアルファ文庫)
河合 隼雄
講談社 1994-02-15

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12 10
2011

TV評

『江の謎 姫たちの戦国物語』 武山 憲明

4821153602江の謎 姫たちの戦国物語 (ぶんか社文庫)
武山 憲明
ぶんか社 2010-11

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 大河ドラマの関連本は慣例のようになっているのかたくさん出ている。大河ドラマに感化されてこういう本を読むのは踊らされているようでいやなのだが、やっぱりドラマと史実の違いを知りたくなるのも仕方がないというものだ。

 大河ドラマの関連本によって人はなにを知りたいと思うのか。ドラマの脚色ではなく、じっさいの史実の人物像ということになるだろうか。でも残念なことにドラマになると俳優のイメージでどうしても史実の人物を見てしまうから、史実の人物はイメージやつくられたものなしに想像することはかなりむづかしくなっているといわざるをえないが。

 評価の悪かった『江』はわたしのつぎの二つの興味から見ていた。戦国の勝者と繁殖の勝利者ははたして同じなのかという社会生物学的な興味と、権力が空白になったとき次の権力者はどのように認められ、認定されるのかという権力移譲の問題からだった。

 社会生物学は文化や制度などすべての人間行動を繁殖という結果論から読み解く学問。戦国時代の繁殖の勝利者や系図はまえから知りたいと思っていた。『江』は戦国の姫たちを主役にすえたことからそのヒントが得られると思ったのだ。権力移譲についてはどう権力は認定されるのかというダイナニズムがドラマの進行から垣間見れて興味深かった。フランス・ド・ヴァールの『チンパンジーの政治学』にボス争いをくりひろげる権力奪還の物語が描かれているが、人間でも権力が認定されるのは数々の問題をひきおこすのだ。織田、豊臣、徳川とひきつがれた権力抗争はまさしくボス奪還の権力構造の物語である。

 このドラマは姉妹が敵味方に引き裂かれて殺しあう悲劇を平和へのメッセージとして最大の山場に描きたかった物語だと思うが、じつは権力の空白をどう埋めるか、権力者はどう認定されれば政局が安定するのかという問題も主役にならざるをえなかったと思う。戦国時代はその権力の空白によって戦乱の世になったのだから、平静な世を保つためには突出した権力者とその認定が必要なだったわけだ。平和のメッセージは突出した権力の創出と認定の過程論でもあったのだ。幕府の権力を握るのはだれがいちばんふさわしいのかという問いを投げかけた戦国三代の物語でもあった。

 それにしても時代なのかこのドラマの三姉妹は秀吉にたいして気丈にふるまい、いいたい放題の強い女性たちが描かれているが、女性がコマのように政略結婚に使われていた時代にほんとうにありえたことなのだろうかと思ったが。江にしても秀吉にづけづけとものをいう女性像が描かれていたが、父母亡きあと秀吉に庇護されている立場でそんなことをいえたのだろうか。江は秀吉によって政略結婚のコマとして使われているし、茶も秀吉の側室になっている。いいなりのなすがままの女性であることが戦国女性の真のすがたではなかったのか。

 さてこの本のことだが、さしたる感慨はない。どうしてもドラマの印象が残っているので、史実の人物像を強くすることができない。ドラマの印象をかき消して、より史実の人物像に近づける強い印象を残してくれる本であったらよかったのにと思う。

 この本で強く印象に残ったのは秀吉の権力の継承をめぐるすさまじいほどの残虐さだ。淀に秀吉の子が生れたとき、日本の多くの者はこの出来事は笑うことだとし、関白の実子だと信じるものはいなかったとルイス・フロイスも書いている。表門にそれを揶揄された落書きが書かれ、門番17人を処刑。容疑者をかくまった町人63人が磔。ほかに50人の町人が処刑されている。

 おいの秀次もいいがかりをつけて切腹、妻妾、子女39人を処刑。信長の三男・信孝を死に追いやり、次男・信雄を追放。信長の嫡孫・秀信をかつぎあげて天下人になった。自分の権力を継承するため、突出した権力の保持をほこるためには自分のおいすら殺さなければならなかったわけだ。権力が認定されるとはまわりに権力や継承がすこしでもにおわせるものがあってはならないのである。権力の認定とはそこまで危ういものだったのだ。

 秀吉の母・北政所は家康を「天下の器」と認め、豊臣家は徳川家の一大名でいいと割り切っていたという。豊臣政権は秀吉の一代限りと思っていたそうだ。だが、淀は人質として江戸に下ることもしなかったし、秀頼が大阪城を出て移封していれば豊臣家は存続していたかもしれない。権力をゆずることを潔しとせず、ほかの強い権力があれば権力の継承を正当化されない時代においては滅亡を強いられるしかなったのである。権力の移譲・継承とはいかにデリケートで、むずかしい問題か。

 織田、豊臣、徳川の天下が決まりかけていたころ、身内の権力継承の問題がいちばん危険な領域に入っていったのである。『江』はそのような天下の創造期に身内で血で血を洗うような抗争劇をへなければならない時代をとりあげて、権力の認定がいかにむづかしい問題かということにもスポットを当てることになった。『チンパンジーの政治学』では権力抗争に明け暮れた三頭のうち、一度はボスの座を奪還したNO.2とNO.3のサルはいずれも死んでいる。高い権力の座は平和をもたらすものであるかもしれないが、身内や近いものの血で染まっているのである。


▼文中の関連本
社会生物学の勝利―批判者たちはどこで誤ったかチンパンジーの政治学―猿の権力と性完訳フロイス日本史〈1〉将軍義輝の最期および自由都市堺―織田信長篇(1) (中公文庫)

▼『江』関連本
江の生涯―徳川将軍家御台所の役割 (中公新書)戦国三姉妹  茶々・初・江の数奇な生涯 (角川選書)お江 戦国の姫から徳川の妻へ徳川秀忠とお江 (学研M文庫)徳川秀忠と妻お江―江戸三百年の礎を築いた夫婦の物語 (PHP文庫)

お江と徳川秀忠101の謎 (PHP文庫)もっと知りたい! お江と戦国の女たち (PHP文庫)浅井三姉妹の真実 (新人物往来社文庫)「江」  角川SSC新書  浅井三姉妹と三人の天下人 (角川SSC新書)お江 数奇な運命をたどった戦国の姫 (学研M文庫)

お江 (静山社文庫)お江と戦国武将の妻たち (角川ソフィア文庫)徳川幕府の礎を築いた夫婦 お江と秀忠

11 28
2011

TV評

『江~姫たちの戦国』に見る繁殖の勝利者と権力移譲の問題

414923356X江(ごう) 姫たちの戦国 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
NHK出版
日本放送出版協会 2010-12-18

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4149233578江(ごう) 姫たちの戦国 後編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
NHK出版
NHK出版 2011-05-31

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4149233586江(ごう) 姫たちの戦国 完結編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
NHK出版
NHK出版 2011-09-30

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 『江~姫たちの戦国』はわたしにはめずらしくNHK大河ドラマを最後まで見ていた二度目の作品になった。評判も悪く、視聴率もふるわなかったドラマであるが、わたしはふたつの理由で見ていた。

 ひとつは男の戦国の勝利者は歴史ですぐわかるが、女の子孫をのこすという戦いでは勝利者はだれだったのかという興味。戦国時代は武将同士で女性が婚姻でおくられることが多かったから、戦の敗北者も子孫を残していないとは限らない。これは繁殖戦略を考えた社会生物学とか竹内久美子とかが考えそうなテーマだ。

 もうひとつは権力の空白や移譲はどう行われるかという興味だった。権力というのは将軍や王が突出して存在するのではなく、群雄割拠のなかで権力をもつ者はだれに保証され、認められ、どう受け継がれるかの権力の後ろ盾の面に興味があった。権力はほかにも権力を握れる可能性のある者がたくさんいる中で、ひとりの権力者が選ばれてゆく。そういう権力の空白と移譲の緊迫感・経緯をこのドラマに見ることができたのだ。

 戦国時代は徳川家康が勝利を得たことになっているが、織田信長の子孫がスケートで活躍したように織田家も子孫をのこしてた。男の歴史では戦の勝者が歴史にのこるが、女の繁殖史で見ているとかならずしも敗者が子孫を根絶してしまうとは限らない。敗北しても勝利者側に女性を婚姻でおくり、血や遺伝子をのこしていたかもしれないのだ。男の歴史で敗者になったものはかならずしも血や遺伝子をのこさらないとは限らない。はたして女の繁殖史では戦国の勝者はだれだったのか。わたしは歴史にくわしくないので戦国武将の子孫はだれがのこったのかという興味から、このドラマを見ていたのだった。

 『江』は織田信長の妹の娘たちが主役であり、彼女たちは豊臣秀吉の妻となったり、徳川家康の息子の妻となったりして、織田家の血が本能寺の変でとだえたのではなく、戦国の勝利者の系譜にひきつがれてゆく。織田信長は男の勝利の歴史では消えていったが、織田家の血はとぎれたわけではないのだ。江によって徳川の血のなかにのこされたわけだから、織田家の血・遺伝子も大繁栄をとげたわけだ。

 ところで豊臣の血は兄弟、親類ともにすべて滅びてしまったのだろうか。たとえば親類の女性にのこっていたということはないだろうか。もし血縁者がすべてとだえてしまったとしたら、天下統一をはたしたNO.2だった豊臣秀吉は女の歴史では敗者におちいってしまうことになる。

 このドラマでは戦国の時代において姉妹が敵味方にひきさかれ、戦い合い、殺しあうという悲劇を最大の見せどころとして戦争、闘うことの悲劇や非戦、平和のたいせつさをうたったテーマをもっており、この悲劇の山場を描きたいためにつくられたドラマだったと思う。

 わたしが興味をもっていたのは社会生物学的なものからで、この学問は繁殖戦略から人間や社会、文化を読み解こうとするジャンルである。すべての帰結を繁殖戦略から読み解こうとする学問は、えてして社会や文化の原因から繁殖をまったく考慮に入れないほかの人文学からは虚をつかれる問いをもっている。男の歴史ではなく、女の歴史といっていいかもしれない。信長の姉の娘たちという主役はその格好の題材をもたらした。

 もうひとつの興味は権力移譲の問題で、権力が空白になると権力者はどうやって、だれに選ばれ、まわりに保証されるのかという問題だった。信長が暗殺されたとき、秀吉・豊臣が権力を握っているとき、家康は権力をどうやって奪還したのかという権力空白・移譲の問題にこの『江』は興味深い経緯を提出していたと思う。

 わたしは歴史をくわしく知らないのでこのドラマによって織田、豊臣、徳川の三人は同じ織田勢力のひとりにすぎなかったことを知った。織田家がすでに天下統一の基礎をもっていたことになる。あとは家来たちの勢力・権力取り決めの戦い・内紛だったようだ。

 権力の空白は明智光秀が信長を暗殺したとき、秀吉が死去したあとの徳川との葛藤などで露わになるのだが、権力はそれまでの権力者の席が空くと、つぎの権力者の信認はだれに、どうやって与えられるのかという間隙は多くの問題・葛藤を生み出すようだ。

 そもそも戦国時代自体、室町政権の崩壊によって生じた権力の空白において多くの武将に争われたものだ。そしてふしぎなことに武将たちの戦国時代に天皇は争いに加わることもなく、超越した存在として君臨していたようだ。秀吉や家康も天皇から関白や征夷大将軍などの位を与えられているのだ。権力はどうしてこのようなふたつの系統の権力を温存できたのかふしぎなことに思える。

 権力はどうやって、だれに信認されれば、その権力の座に着くことが認められるのか。戦国時代はその権力の座を承認されることができなかったから、多くの武将によって戦で勝負をつけなければならなかったのではないか。権力の承認が不在だったから、戦はおこったのではないか。

 ドラマ『江』では戦を終わらせ、太平の世をつくりだすためには犠牲もやむをえないという決断を秀忠もおこなう。権力の承認というのはほかに権力の強さを競える相手がいては頂点の権力を保持できないのである。太平の世を築くとは特権的な権力をだれかが握ることだったのだ。

 この作品は姉妹が敵味方にわかれて戦い合う悲劇の戦国の世を描いて平和をメッセージしたわけだが、その平和が崩壊したのは権力の空白、不在によっておこったわけだから、この作品の問いは権力の空白はどう埋められるかということも大きなテーマになっていなければならなかったわけだ。

 戦国時代自体が権力の空白・不在により戦がおこり、多くの血が流されたのだから、戦国時代のテーマはどうすれば安定した突出した権力は承認されるかということだったのだ。それが群雄割拠の戦乱の時代を生み出したのだ。この作品の根底をなしているのは権力はどう承認されるのかということでもあったのだ。

 秀忠は戦国の世を終わらせるために妻の江の姉・茶々や豊臣家を根絶させる決断をおこなった。ゆるぎない独裁の権力をつくるにはほかの強大な権力をもつ者がいては果たすことができなかったのだ。この考えは戦国の世に散っていった人たちはその絶大な権力のために犠牲にならなければならなかったということを正当化させる考えにもつながるが。戦国の世は権力の承認を取り決めることができなかったから、多くの血が流されたのである。太平の世を実現するためには絶大な権力の正統性がどうしても必要になるものなのだろうか。


▼社会生物学の入門書に(竹内久美子はトンデモという話もありますが)
女は男の指を見る (新潮新書)遺伝子が解く!美人の身体 (文春文庫)遺伝子が解く!その愛は、損か、得か (文春文庫)遺伝子が解く!愛と性の「なぜ」 (文春文庫)草食男子0.95の壁―動物行動学的オトコ選び

▼江の史実関連書(大河ドラマ本はたくさん出るのですね)
江の生涯―徳川将軍家御台所の役割 (中公新書)戦国三姉妹  茶々・初・江の数奇な生涯 (角川選書)お江 戦国の姫から徳川の妻へ徳川秀忠とお江 (学研M文庫)徳川秀忠と妻お江―江戸三百年の礎を築いた夫婦の物語 (PHP文庫)

お江と徳川秀忠101の謎 (PHP文庫)もっと知りたい! お江と戦国の女たち (PHP文庫)浅井三姉妹の真実 (新人物往来社文庫)「江」  角川SSC新書  浅井三姉妹と三人の天下人 (角川SSC新書)お江 数奇な運命をたどった戦国の姫 (学研M文庫)

お江 (静山社文庫)お江と戦国武将の妻たち (角川ソフィア文庫)徳川幕府の礎を築いた夫婦 お江と秀忠

06 21
2010

TV評

なつかしのテレビ・ドラマ40年史

 なつかしのテレビ・ドラマをならべて社会の変遷を考えてみました。70年代以降のテレビ・ドラマの流れを見てみて、なにが変わったのか、なにが違ってきたのか、社会の流れを考えてみたいと思います。

 ドラマは時代や社会を写し出すのでしょうか。ある時代の流行っていたものがいまも流行るとは限りませんし、あのとき受けたものがこんにち受けるとは限りません。そういう意味でドラマは時代を映しているのかもしれません。社会はなにを失い、なにが変わってきたのでしょうか。ドラマの流れから時代は見えてくるでしょうか。

 長々とつづいてしまいますので、「長すぎて読めない」のでご注意と覚悟を。


刑事ドラマの興隆

太陽にほえろ!  1978  DVD-BOXIGメン’75 FOREVER VOL.1 [DVD]特捜最前線1st&ベストエピソードDVD

70年代は国民的な刑事ドラマが流行った時期でした。戦後の混乱期をへて犯罪率も高かったですから、社会は刑事モノによって社会の規範や道徳を学習する必要があったのかもしれません。『太陽にほえろ!』なんて犯人を追いつめることに胸の高鳴りを感じたのですが、刑事に同化することのよって犯罪の抑制心を学んだのかもしれません。それにしてもデカはみんな殉職していきましたが、なにを意味していたのでしょう。仕事に殉職することが男の生きがいと思う刷り込みだったのでしょうか。「仕事で死ね!」はまるで「戦争やお国のために死ね!」となんら変わりはないと思うのですが。人情モノも多かった気がしますが、こんにちの犯罪報道で犯罪者に同情の目を見ることはありませんね。


アンチ・ヒーロー

木枯し紋次郎 DVD-BOX I子連れ狼 第一巻 DVD-BOX新必殺仕事人 VOL.1 [DVD]

『木枯らし紋次郎』や『子連れ狼』は社会からはぐれた一匹狼でした。こんにちの社会ではほとんど評価されない孤立がもてはやされたり、仲間はずれが評価される時代があったのですね。こんなヒーローはこんにち受けることはたぶんないのでしょうね。空気を読んで体育会系で集団主義で恋愛にのめりこむ人たちがもてはやされるばかりですね。『必殺仕事人』も社会の恨みを晴らすというこんにちでは考えもできない不穏な内容をあつかっており、社会はますます安全に平和にそして不自由になっているのでしょうね。こんにちこそこんなヒーローが必要なんだと思います、反社会的で、孤立的で、反権力な人たちが―。


熱血学園もの

ゆうひが丘の総理大臣 DVD-BOX1われら青春! DVD-BOX飛び出せ!青春 Vol.1 [Blu-ray]俺たちの旅 VOL.1 [DVD]

70年代は熱血学園ものが流行った時代でもありました。クソまじめに青春をして、鳥肌のたつ情熱を傾ける時代でした。そのあと若者はすっかりシラケ切り、政治にも哲学にも興味をもたずにマンガや消費に明け暮れる私事化の時代に入ってゆくわけですね。政治や教養に希望が描けなくなったから、学園やスポーツに情熱が賭けられたのかもしれませんね。のちの『俺たちの旅』のような元祖プータローたちがあらわれるのはさいしょからふくまれていたのでしょうか。これらのドラマは団塊の世代が見ていたのでしょうか。政治や希望の季節はここで終わりを告げられていたのかもしれませんね。


松田優作とショーケンのカッコよさ

探偵物語 VOL.1 [DVD]俺たちの勲章 DVD-BOX太陽にほえろ! ジーパン刑事編I DVD-BOX傷だらけの天使 Vol.1 [DVD]

松田優作やショーケン(萩原健一)のカッコよさに憧れた人も多かったと思います。松田優作はそれまで『殺人遊戯』など非情な凶悪犯を演じていたのですが、『探偵物語』でコミカルでジョークを吹きまくるカッコよさを見せつけました。ショーケンの牛乳を飲みながらソーセージをほおばる姿が忘れられないと思いますし、水谷豊の「アニキ~」という声も忘れられませんね。メディアがカッコイイ男を提示できた時代があったのかもしれませんが、こんにちメディアがそんな男性像を提示できているとは思えません。お笑いタレントがカッコイイという媚びて一般受けする男が理想なんでしょうか。


■「赤いシリーズ」と親の悔恨

赤い疑惑 DVD BOX赤い運命 DVD BOX赤い衝撃 DVD BOX

一連の赤いシリーズが大ブームになりましたが、リヴァイバルを見て『赤い疑惑』には親の悔恨があると思いました。輝かしい未来を約束できなくなった親の悔しさです。ときは受験戦争が加熱し、高校進学率が90パーセントをこえましたから、親の子どもに教育費をかけてやれない悲しみがこれらにシリーズにこめられていたのではないかと思いました。親の視点からのドラマですね。

 山口百恵は自立と男にたよらない強い女を歌っていましたが、共演者の三浦友和と結婚し、専業主婦として芸能界にカムバックすることはありませんでした。結婚でドラマと現実をすりあわせてくれたことでファンの要望に応えましたが、自立した進んだオンナにはなりませんでした。自立したオンナは松田聖子の登場を待たなけれならなかったのでしょう。もっとも松田聖子は田原俊彦とか郷ひろみのロマンスを完遂してくれませんでしたが。


男親と娘たちと家族をつくること

パパと呼ばないで DVD-BOX I池中玄太80キロDVD-BOX Iおくさまは18歳 コンプリートDVD-BOX(上巻)

「チー坊」という声だけはよく覚えているのですが、『パパと呼ばないで』は亡くなった姉の娘をひきとる男のドタバタを描いたドラマでした。『池中玄太80キロ』も亡くなった妻のかわりに三人娘をひとりで育てなければならなくなった男を描いていますから、似ているのかもしれません。親の視点で書かれたドラマが多かったのですね。ドラマの受け手は親や大人と想定されていたのでしょう。こんにちのロリコン疑惑社会でチー坊のような少女を愛する話は受容されるか疑わしいですね。

『おくさは18歳』は結婚した教師と生徒がそれを秘密にして学園生活をおくるという物語でした。性のタブーを破ることを衝撃的なものとして受けとられてきましたが、性のタブーはどうして公共では隠蔽されるものだったのでしょう。性は公共では共有されない私秘的なものとされてきたのですが、それが「解禁」されるごとに大きな話題を得てマスコミは儲けてきました。禁止の強いものと解禁の落差で性はいつでもマーケットになるのでしょうね。


社会派の作品たち

白い巨塔 [DVD]不毛地帯 [DVD]人間の証明 デジタル・リマスター版 [DVD]砂の器 デジタルリマスター 2005 [DVD]野性の証明 [DVD]

『白い巨塔』や田宮二郎といった人がブームになっていましたね。『白い巨塔』や『不毛地帯』などがリバイバル・ドラマ化されていましたが、80年代のトレンディ・ドラマをへて社会派のドラマに帰ろうとしたときにお手本とされなければならなかった作品がこれらのドラマだったのかもしれません。ドラマは恋愛モノ一色にそまったおかげで、社会を描けずに松本清張の軌跡をたどることで復興をとげているのかもしれません。

映画であった『人間の証明』や『砂の器』もドラマ化されましたが、わたしはぜひとも『野生の証明』もドラマ化してほしかったのですが、テーマが自衛隊や殺人などいまの世の中にはハードすぎたのでしょうか。原作やドラマでは地方都市の権力が描かれていましたから、そちらのほうに重点をおけばよかったのかもしれません。『野生の証明』は社会派ドラマでありながら、薬師丸ひろ子のアイドル的側面で見る若者もふえたので、社会派からアイドルの時代の分岐点的映画だったのかもしれません。


大マジメな虚構をわらうこととドラマNG集

大映テレビ ドラマシリーズ スチュワーデス物語 DVD-BOX 前編大映テレビ ドラマシリーズ ヤヌスの鏡 前編 [DVD]大映テレビ ドラマシリーズ 不良少女とよばれて 後編 [DVD]

堀ちえみの『スチュワーデス物語』が大ヒットしました。大マジメにやっている出演者を大笑いするという、真剣さを笑うというズレた見方がされました。ドラマや物語はしょせん虚構やつくりごとにすぎないから大マジメにひたるなという分別が生まれていたのかもしれません。ドラマのNG集が流行っていきますが、ドラマがパロディ化されて虚構は虚構にすぎないという成熟した醒めた目も視聴者は獲得してゆきました。マジメさや真剣さは笑われました。重くて、深くて、真剣な社会派ドラマは敬遠されて、ちゃらちゃら軽いショーやムードが社会を席巻していきました。バブルの道を開いたのでしょうね。漫才ブームがやってきたのもこのころだったと思います。


■『金八先生』は子どもにウケていたのか

3年B組金八先生 第1シリーズ 初回限定BOXセット [DVD]熱中時代教師編 II Vol.1 [Blu-ray]

校内暴力を背景に『金八先生』は大流行りでした。当の学生たちは見ていたか疑わしく思いますが、真剣さやマジメさを捨てていてカッコよくなかったからですが、親世代が見ていたのでしょうか。不良学生が道徳や規律を説くドラマを見るとは思えません。『熱中時代』の独特のいいまわしで人気だった水谷豊の教師役も話題になりましたね。戒めや縛りを若者に向けるようなドラマが当の本人たちに好評をもって受け入れられたと思いません。


恋愛ドラマとトレンディ・ドラマの幕開け

ふぞろいの林檎たち DVD-BOX金曜日の妻たちへ DVD-BOX男女7人夏物語 DVD-BOX

ドラマは社会派やオトナの時期を終えて、恋愛やトレンディ・ドラマのほうに変わっていきました。視聴者は若者や女性だけにターゲットが絞られていったのでしょう。オトナの男たちは除外され、以後ドラマやマーケットは若者と女性だけのものになってゆきます。社会は社会問題や政治を忘れ、ただ恋愛と消費にうつつに抜かすバブルの日々に入ってゆきます。

『ふぞろいの林檎たち』なんか好きだったのですが、三流大学生の悩みや問題を描いていました。それがのちのトレンディ・ドラマになると恋愛しか描かなくなり、対象は女性だけのものになりました。80年代は女性の消費の時代だったといえますが、それにしても恋愛物語だけに社会がそめられるものかと思いますが。わたしもよく見ていたのですが、やはり片目で顔をおおいたくなりながらも見ていました。

『金曜日の妻たち』は不倫を描いたドラマで、主題歌も大ヒットしました。『男女7人夏物語』は明石屋さんまと大竹しのぶのコンビで以後の恋愛路線は決定的になったのかもしれません。


女性のための時代

東京ラブストーリー DVD BOXあすなろ白書 DVD-BOX35.jpg

『東京ラブ・ストーリー』でトレンディ・ドラマの時代が本格的にやってきました。原作のマンガ家の紫門ふみが恋愛の教祖といわれるようになりました。男やオトナはなにを見ていたのでしょうか。仕方なくオンナの恋愛物語にあきれながらつきあっていたのか、バブルの投資や土地ころがしでそれどころではなかったのかもしれません。オンナと消費が一大躍進した時代でした。

わたしは『あすなろ物語』も好きでしたし、『Age,35』の切ない物語も大好きでした。恋愛や消費をバカにして醒めた目ももちながら、けっこう一面では好きな面がありました。ただ世の中恋愛一色になれば男は違うと思いますし、そればっかりでは食傷してしまうでしょう。バブルに恋愛と女が大流行りしたのはカネがある時代には女が浮かれて女の世界を押しつけるという見本を見せたのかもしれません。


バブリーな時代

フジテレビ開局50周年記念DVD 抱きしめたい! DVD BOXフジテレビ開局50周年記念DVD 愛しあってるかい! DVD-BOX101回目のプロポーズ [DVD]

浅野温子と浅野ゆうこがトレンディ・ドラマの顔としてW浅野といわれましたね。世はバブル、高級品とおしゃれなライフスタイルがもてはやされた時代ですね。「記号」や「ステータス」としての消費が大流行でした。この時代のことはいまからはなにもいいたくありませんし、真剣にも語りたくありません。わたしは嫌いな時代でした。


等身大としての中山美穂

フジテレビ開局50周年記念 『君の瞳に恋してる!』DVD-BOXおいしい関係 [DVD]フジテレビ開局50周年記念 『すてきな片想い』DVD-BOX眠れる森 DVD-BOX

中山美穂が等身大の女性としてかずかずの恋愛物語を編み出したり、歌もカラオケで女性たちに支持されました。ヤンキーな女性からしっとりとした大人の女性に脱皮してゆきましたね。女性の恋愛の時代であり、ほかの男やオトナはなにを思ってこの時代のドラマを見ていたのでしょうか。音楽も若者や十代だけのマーケットだけになり、女子高生ブームがやってきて、大人たちは少々疎外感を感じながらもほかのものや仕事に楽しみを求めたのかもしれません。やれやれ、マスコミなんて見てられないと離れていったのかもしれません。


時代に逆行するドラマ

北の国から 87 初恋 [DVD]北の国から 89 帰郷 [DVD]北の国から 95 秘密 [DVD]おしん 完全版 少女編 [DVD]おしん 完全版 青春編 - 山形・東京 [DVD]

『北の国から』は東京から北海道に移住した一家のまったくトレンディではない物語でしたが、兄と妹の青春物語も重ねて描かれましたから、多くの人に支持されました。あのテーマ曲を聞くと泣けてきますね。バブル前夜にある女性の苦労人生をえがいて『おしん』は世界的大ヒットを記録しました。時代をまったく逆行するドラマがなぜと思ったのですが、日本が経済的に世界に注目される中で日本の成功物語として受容されたのかもしれません。


脚本家・野島伸司

愛という名のもとに DVD-BOX高校教師 DVD BOXストロベリー・オンザ・ショートケーキ 1 [DVD]薔薇のない花屋 ディレクターズ・カット版 DVD-BOX

野島伸司のドラマも数多くヒットしましたね。『家なき子』とか『ひとつ屋根の下』とか大ブームでした。劇中で使われた古い曲もリバイバル・ヒットしするというおまけつきでした。『高校教師』とか『人間失格』とかショッキングなテーマで釣ろうとした作品はいまいち作為が透けて見えましたし、古典的な物語をなぜいまごろ復活させるのかという意外性で勝負した脚本家だったのかもしれません。いやみったらしい説教くさい作品も鼻につきました。ナチュラルさや自然さがはじめからない人工的な作為の作家なのかもしれません。


キムタク人気

ロングバケーション [DVD]ビューティフルライフ~ふたりでいた日々~ DVD-BOXHERO DVD-BOX リニューアルパッケージ版プライド DVD-BOX華麗なる一族 DVD-BOX

キムタクのドラマってわたしはそのナルシス性がかなりいやなのですが、視聴率があるようにけっこう支持している人がいるのでしょうね。わたしにはカッコイイとか、憧れるとかほとんどないのですが、女性からの視点ではカッコイイのですかね。若い男もカッコイイと思うのでしょうかね。わたしにはカッコつけのナルシスしか見えないのですが、ナチュラルにカッコイイのでしょうかね。テーマや内容には見るものがないと思えますが。


心理学ブームと猟奇殺人

イグアナの娘 The Daugther of IGUANA DVD-BOX真昼の月 DVD-BOX沙粧妙子 最後の事件+帰還の挨拶(SPドラマ)DVDコンプリートBOX 全5巻

世はこころの時代といわれ、心理学や猟奇犯罪者の心理に興味をもつ人がふえ、トラウマもののドラマなどいくつかつくられました。『イグアナの娘』は傑作だったと思いますが、母は娘がイグアナに見え、娘は自分がイグアナに見えるという象徴を描いたすばらしい作品でした。彼女はその魔法を解いたとき、母親は自分がイグアナに見えるようになったという見事なラストで終わりましたね。『真昼の月』はレイプされた女性のトラウマを描き、『沙粧妙子』は猟奇殺人の心理を描きました。心理学に興味をもつ人がふえることはいいことだと思いますが、それが一般に広がるとどうしてこういう方向にいってしまうのと思えました。


好評ドラマ

踊る大捜査線(1) [DVD]ショムニ FINAL DVD-BOXのだめカンタービレ DVD-BOX (6枚組)

『踊る大捜査線』は警察の組織をコミカルに描き、好評でしたね。『ショムニ』もOLの豪快な生き方を描いて楽しめましたね。『のだめカンタービレ』はクラシックの楽しみ方を教えてくれる意外に楽しい作品でしたね。


バブル終焉後のドラマ

やまとなでしこ DVD-BOX世界の中心で、愛をさけぶ <完全版> DVD-BOX僕と彼女と彼女の生きる道 [DVD]プロポーズ大作戦 DVD-BOX

『やまとなでしこ』はお金でしか男を値踏みできない女がさいごは貧乏な男でもかまわないと結ばれるいい作品でしたね。松嶋奈々子は女優として「上がり」になった数少ない女優だと思いますが、鈴木保奈美や竹内結子とともに殿堂入りしたと考えます。『世界の中心で、愛をさけぶ 』はかつてのお約束、虚構をマジに受けとってはならないというルールを、主人公の死によって破ったと思います。はじめから死ぬのがわかっている主人公を描けば泣くに決まっていますが、その折り込みをこめた作品は卑怯というかルール違反な気がします。『僕と彼女と彼女の生きる道』は妻が出ていった仕事一筋の男が娘をひとりで育てなければならなくなった怒りと心が変わってゆくさまを描いたわたしの大好きな作品ですが、トレンディドラマのブームが去っていいドラマが生まれる時代がきたと思いました。『プロポーズ大作戦』も切ないいいドラマでしたね。


韓流ブーム

冬のソナタ スタンダードBOX [DVD]天国の階段 DVD-BOX 1

韓流ブームというのがやってきて、『冬のソナタ』や『天国の階段』など数多くの韓国ドラマが流入することになりました。中年女性がブームの火付け役になったというイメージですが、恋愛ものが多いという印象を受けるのですが、どうして若い女性ではなくて中年女性だったのでしょう。アメリカやヨーロッパなどの先進国でもなく、後進国である韓国からどうしてドラマ流入がおこったのでしょうか。メロドラマ不足に韓国ドラマがあてはまったということでしょうか。ドラマは社会派に帰ってほしいと思っているわたしはあまり韓国ドラマに魅かれることはないのでよく見ていません。


社会派ドラマの再帰

女王の教室 DVD-BOX砂の器 DVD-BOXハゲタカ DVD-BOX

『女王の教室』も『ハゲタカ』も近年まれに見る傑作だったと思います。『女王の教室』は理不尽な権力や階層を教師自身が体現化した見事なテーマをもっていたと思います。『ハゲタカ』もカネと経済に翻弄される男の悲劇や悲哀を描いていて、役者たちの怪演が真に迫っていたと思います。ホリエモンがモデルになったという浅い部分もなきにしもあらずですが。『砂の器』も父と子の放浪シーンが美しい日本の風景を背景に流されつづけてドラマの頂点を見た気がするのですが、トレンディドラマのブームが去ってやっとまともなドラマがつくられるようになったと思いました。

        ■

 以上、ながながとこの四十年ほどのドラマについて考えてみましたが、暗くて深刻なドラマの時代から、軽薄で上っ面な恋愛ドラマのときをへて、ふたたびドラマはどこをめざそうかと模索しているのではないかと思います。松本清張のドラマブームなどはトレンディドラマで草木が一掃された社会派の下地をとりもどす試みに思えます。社会のムードや空気もそのような傾向をへて、堅実で安定したものを模索しているのかもしれませんね。

 トレンディドラマやバブルの時代はろくでもない時代だったといまから思うのですが、若い女性たちはこの世の春を謳歌していたのかもしれません。投資や土地ころがしで儲けたおっさんたちもうはうはだったかもしれませんが。

 ドラマの視聴者の年齢やターゲットが下がってきたのも特徴を感じました。オトナが見るものから、若い恋愛を中心に考える世代にターゲットが絞られていた気がします。若者マーケット向けにドラマや音楽は向いていましたね。テレビはだいたい60年代生まれの新人類世代の成長・目線に照準が合わされていたのではないかと思います。いまでいうアラフォーの世代ですね。かれらはマスコミの作為や戦略によく乗ってくれた世代なのでしょう。いまの若い世代が消費しないとしたら、かれらの愚かさを学習したよい結果なのかもしれません。

 わたしはドラマはトレンディドラマではない、堅実で深刻な社会の現実を描く社会派ドラマであってほしいと思いますが、まあドラマにそれを期待するというのはムリというものでしょう。ドラマはエンターテイメントでありますし、学問のように社会を描けるわけではありません。ほどほどの期待とリラックスしたエンターテイメントを提供してくれる物語であればいいのでしょう。


参考にしたかった本
テレビドラマのメッセージ―社会心理学的分析家族の肖像 ホームドラマとメロドラマ(日本映画史叢書 7)ホームドラマよどこへ行く―ブラウン管に映し出された家族の変遷とその背景「家族」イメージの誕生―日本映画にみる「ホームドラマ」の形成


懐かしのトレンディドラマ大全―80~90’s創世期から黄金期、転換期までテレビドラマベスト・テン10年史 1997‐2006もう一度見たい!ドラマ100本 ’90年代編テレビドラマを「読む」―映像の中の日本人論TVドラマ ここがロケ地だ!!

05 07
2010

TV評

『八日目の蝉』はなぜ泣けるのか

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■映画をごらんになった方へ

 こちらは2010年に映画に先がけて放送されたNHKドラマの感想エッセイです。主演は檀れいと北乃きいで、すこし違和感はあると思いますが、おなじ角田光代原作の映像化なので、内容は共通するものです。ドラマのほうが希和子目線で全六回たっぷり描かれたので、こちらのほうが泣けたのですが。

 ドラマはNHKオンデマンドで全六回、有料で見られます。お金のない方はこちらでもごらんになれますね。「八日目の蝉 ドラマ動画



 NHKでやっていた角田光代原作の『八日目の蝉』は泣けた。最終回はもう涙なしでは見られなかった。角田光代の最高傑作という評判だったが、これはたしかに名作である。NHKのホ-ムページでダイジェスト動画が見れるが、全六回をまたしても涙を流しながら見入ってしまった。

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 しかしこの作品はなにをいっているのか、いったいどういう意味なのかわからない。母の愛や子どものかわいらしさが情緒的に訴えられるから泣ける作品なのだが、主人公の檀れいは不倫相手の子どもを誘拐して育てる「犯罪者」である。それなのにどうして思いっきり「犯罪者」檀れいに共感してしまうのだろうか。新聞記事で見ると、「なんてひどい女だ」としか思わない犯罪者である。事件に接するわたしたちの想像力、共感の欠如を思い知らされる。

 これは失恋物語だと思う。失う愛が描かれているから泣けるのだ。親の愛がいつか奪われてしまう、失うもの、危ういものと知られているから、よけいに涙を誘う。親の愛というものはあたりまえすぎてあまり描かれないと思うが、他人の子を誘拐することによって、母の愛がうきぼりにされたのだ。音楽がまた悲しみと喪失感にあふれており、情感をもりあげる。

 作品のおもなメッセージは男の不倫や身勝手さを叩いているのだろうか。不倫の子をおろすのに失敗して主人公の女性は子の産めないからだになってしまう。不倫相手の妻にも「がらんどう」となじられ、女は衝動的に生後半年の子を誘拐してしまう。殺すのではなく、育てることを決意し、愛も感じる。母として生きることを決意するのである。

 自分の子どもだけではなく、ほかの子どもでも女は愛を感じることができるということか。母の愛は自分の子どもだけに育つものではないのである。しかし坂井真紀が演じる女は子どもの親権を夫にとられて、自分の腹を痛めてはいない後妻をなじる。ちかくにいた檀れいの母の資格を刺すのである。この物語はさまざまな母が出てきて、育児ノイローゼで子を殺した母、ゴミ屋敷の寂しい女など、ひとすじ縄ではいかない。

 小豆島で娘と暮した檀れいは母としての幸せの中で生きるのだが、終わりはとつぜんやってきた。8年の懲役を喰らう。娘は檀れいをすっかり母として慕い、母をけなげにかばう娘として育つのだが、とつぜんにほんとうの母と家族のもとに暮すことになってもしっくりこない。関西弁をしゃべる娘に嫌悪感を母はしめす。そして大人に成長した娘は誘拐した檀れいと同じように不倫の子を宿すのである。不倫に走った父とその母に二世代にわたって復讐がされるというか、呪われるような未来を導くのである。子どもは檀れいの愛をうけた子どもになっていたのである。

 成長した娘、北乃きいは檀れいのことをもう憶えていない。過去の忌まわしい記憶として忘れようとしている。しかい檀れいと同じように不倫の子を宿す。まるで檀れいへの思いを忘れていないかのようである。それにしても彼女はじつの母になぜ復讐のような仕打ちをおこなうのだろうか。「大好きな母」「ほんとうの母のように慕っていた檀」を悪くいうじつの母への憎しみ、そして檀を誘拐へと駆り立てた母の容赦ない攻撃の言葉、が絡まりあって北乃きいは母への復讐をおこなったのかもしれない。不倫は女が悪いのではない、弱い女をもてあそぶ男が悪いというのだろうか。しかしこのドラマでは男はメインテーマから外れているかのようだが。

 檀れいは五歳まで娘を育て、つかまって刑務所に入れられ、娘との幸福な日々を引き裂かれる。それはまるでほんとうの母娘の絆もこの年齢ころにひとつの親離れの時期をへて、社会や友だちの輪の中に子どもが去ってゆくことを象徴しているかのようだ。子どもは親のものから社会や友達へと軸足と気持ちをうつしてゆくのである。母と子の幸福で蜜月な関係はそこで終わりをつげるのである。

 この物語は誘拐という個別の事件をとりあつかっているにみえて、母親と子どもの普遍的な関係をあぶりだしたのだろう。母親はかわいい子どもをどこかから授かって、いつかは失う。個別から童話のように普遍性を獲得した物語だといえるだろう。

 成長した娘が逃亡先の小豆島にもどってきて檀と出会っても、娘は目をそらすのである。母はどんなに子を慕おうと、子どもがあのころのように母を慕うことはないということを象徴している気がした。母はいつか報われない愛の仕打ちをうける、そんなメッセージがこもっているような気がした。

 男のわたしでもこのドラマは泣けた。娘、子どもへの愛というものの悲しみはじゅうぶんに感じられた。女性だけしかわからないテーマではない。わたしは家庭や子どもと縁のない人生をおくりそうだが、子どもがかわいいという感覚は二十代ころまでまったく感じず、子どもがほしいという気持ちがほぼわからなかったのだが、三十代終わり四十ちかくになってようやく感じられるようになった。小さいものへの愛や守りたい気持ちといったらいいか。ペットへの愛と近いといえば実もふたもないが、おそらく小さいものの驚異やはかなさからくるものに近いのだろう。自分にとって得られない、失われたものだからこそ、よけいに気持ちがわかるのかもしれない。

 わたしがこういう母の愛といったテーマにまるで興味がなかったのもあるが、ドラマでこのテーマがとりあげられることは少なかったように思う。いまどうして母の愛なのだろうか。これまでの社会は消費を煽る社会であって、家庭や育児に価値をおく社会ではなかった。女性は家庭や育児に閉じこもる人生よりか、社会に出て消費や自己実現を図らなければならないという洗礼をうけてきた。社会は子どもを生み、育てるということにまるで価値をおかなかったし、人生のカッコイイ目標からかけはなれていた。しかし晩婚化や少子化によって、「うしなわれた」という気持ちが芽生えてきたから、このような物語があらわれたのではないかとわたしは思うのである。「うしなわれて、はじめてそのよさに気づく」ということである。


 【追記

  映画をなんどか見ると、親子の絆より、生命のすばらしさ、この世界のすばらしさを継承することの賛美に思えるようになった。無条件で生命や生まれた来たことを承認することの賛美。

 また、誘拐犯の母と実の母の関係は、童話の解釈にあるようにおなじ実の母のふたつの姿を象徴していると捉えることもできると思えるようになった。無条件で生まれたことを承認してくれる母と、条件つき、能力でないと承認してくれなくなった母の解離。「八日目の蝉」はそういった普遍的な解釈が可能になる要素がたくさんつまった名作に思えた。



▼テレビ版(わたしはテレビ版のほうが好きです)
B003U6E2T6八日目の蝉 DVD-BOX
NHKエンタープライズ 2010-09-24

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▼映画版
B005CZ7M72八日目の蝉 通常版 [DVD]
アミューズソフトエンタテインメント 2011-10-28

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▼『八日目の蝉』は角田光代の原作とちょっと違うようだから、原作のほうも読めたらいいなと思う。
八日目の蝉 (中公文庫)
中央公論新社 (2012-12-19)
売り上げランキング: 3,651



      *

 同じ時期に『MOTHER』という子の誘拐という同じテーマのドラマが放送されていて、パクリではないかと思ったのだが、こちらは虐待される子を救い出すという設定になっている。『八日目の蝉』のように泣けるドラマではないようだが、捨てられた子がその主人公だという設定は複雑なドラマを感じさせる。テーマを探れたらいいなと思う。

 子どもについてはカリール・ジブランのいい詩があるので載せておきます。子どもは自分のこどもではあるが、自分のものではないということである。

あなたの子は、あなたの子ではありません。
自らを保つこと、それが生命の願望。そこから生まれた息子や娘、それがあなたの子なのです。
あなたを通してやって来ますが、あなたからではなく、あなたと一緒にいますが、それでいてあなたのものではないのです。
子に愛を注ぐがよい。でも考えは別です。
子には子の考えがあるからです。
あなたの家に子の体を住まわせるがよい。でもその魂は別です。子の魂は明日の家に住んでいて、あなたは夢のなかにでも、そこには立ち入れないのです。
子のようになろうと努めるがよい。でも、子をあなたのようにしようとしてはいけません。
なぜなら、生命は後へは戻らず、昨日と一緒に留まってもいません。
あなたは弓です。その弓から、子は生きた矢となって放たれて行きます。射手は無窮の道程にある的を見ながら、力強くあなたを引きしぼるのです。かれの矢が早く遠くに飛んでいくために。
あの射手に引きしぼられるとは、何と有難いことではありませんか。
なぜなら、射手が、飛んで行く矢を愛しているなら、留まっている弓をも愛しているのですから。


カリール・ジブラン「子供について」: マダムNの覚書から引用させてもらいました。


▼テーマ曲 童神 ~私の宝物~/城南海 この曲でなんども泣かされました。

04 12
2010

TV評

『わが家の歴史』とはアンチ昭和的家族か



 三谷幸喜の『わが家の歴史』をみた。昭和2年から昭和39年までを描いた大河ドラマで、三日連続放送でスケールの大きさや歴史の中の家族や人物を描いた設定はたいへん好ましく思うし、この状況やドラマにいつまでもつかりたい気持ちにさせるものだが、感動や感激はより少なかったと思う。

 とうじの有名人や歴史的人物がつぎつぎに出てくるのだが、ご都合主義的にかれらがあらわれ、必然性がほとんど感じられなかった。物語のリアリティーや納得が感じられなくて、三谷幸喜は物語をなめていると思う。おもしろさや楽しさのために話をひろいあつめて、つめあわせで見せる。どうしてもかれらが出てこなければならない必然性なんかさっぱりないのだ。三谷幸喜はふざけすぎて、いつもこういうご都合主義で物語をつくるのだが、物語のウソやつくりごと感をいかにドラマから消すかということがドラマ創作の基本という気がするのだが。

 昭和の典型的な家族の物語を出すと思っていたら、柴崎コウは愛人だし、佐藤浩市はクラブの社長だし、西田敏行の父親は事業に失敗ばかりするダメ親父だし、家族はアカの他人である佐藤浩市の経済力に頼りつづけるヒモ状態の家族である。典型的な昭和の家族、サラリーマンの家族を描いた物語ではないのである。なぜ三谷はこの家族を昭和の歴史にもってきたのだろうか。感情移入や親近感はここで断ち切られたように思う。ウラの歴史であって、ふつうなら日陰といわれる人たちの物語であり、正規の歴史ではないのである。

 三谷幸喜のインタビューでは鎌倉時代の源頼朝に嫁いだ北条政子の家族を模したということらしいが、なぜそれを昭和の歴史に重ねるのだろう。まあ、三谷は昭和の典型的な家族のイメージ、肖像を壊したかったのかもしれない。昭和というのは画一や均一のイメージで家族や人がとらえられた時代だ。人が郷愁するのは共通的な家族イメージがあれば便利なのだが、ほんとうの人の人生やありかたはさまざまで、多種多様なものだ。典型イメージというのは人のさまざまな生き方、人生をひとつのステレオ・タイプにむりやり押し込めてしまうところがある。典型イメージの狭い箱に人生が押し込められるほど人の生は単純ではなかったということをいいたかったのかもしれない。

 昭和の典型的な家族像の破壊だ。それは多種多様な人生の肯定である。おもえば昭和の人生コースというのはじつに狭隘な生き方を強要したものである。夫がサラリーマンとして家にお金をいれ、妻が専業主婦として家を守り、子どもの成長を見守る。そういった中流階級の人生は人の多様で、自由な生き方を許さなかったのである。いわば国営の人生であり、社会主義的人生だといえるかもしれない。大量生産の規格品的な生き方を昭和は強要したのである。

 ならば、そんな人生なんていらない、昭和はもっと多様で日陰の人生もあったのだとこれから格差社会や多様な人生がひらけてくるこんにち、規格品的でない昭和の人生をあらわすことで、画一的イメージを払拭したかったのかもしれない。アンチ昭和的生き方だ。テレビやメディアがつくってきた典型的昭和の家族像の否定だ。このドラマは『Always-三丁目の夕日』の典型的な昭和家族の否定を狙ったのかもしれない。だとするのなら、感情的な共感は少なかったが、三谷幸喜の狙いは鋭いといわざるをえない。

 佐藤浩市はクラブ経営のやり手として博多から東京進出をはたすのだが、志半ばでガンで急死してしまう。長澤まさみは金持ち一家の娘だが、松本潤との結婚を姉が愛人であるという理由で親に破談されてしまう。いっしょに縁談から逃げてきたのに船の難破により、彼女は記憶をうしない、ストリッパーの人生を生きてしまうことになる。かれらの人生はなにをあらわしているのだろう。金持ちは没落してしまう、不幸になってしまう、幸福な人生を生きられないということなんだろうか。かれらはなにを失敗し、なにが欠けていたのだろうか。西田敏行は自分が博多を追われることになった象のおもちゃを見ながら、つっぷして死んでしまう。なにかカネや仕事に生きた昭和の生き方の批判や否定のように思えるが、そのようなメッセージがふくまれていたのだろうか。

 八女家の長男は東大でロケット工学、次男はふらふらと職を転々としてばかり、一家の幼なじみつるちゃんも有名人や歴史的事件にであうご都合主義的な動きをして流転の人生をおくる。典型的なサラリーマンがひとりも出てこない。まあ、これはふつうのサラリーマン人生はおもしろい題材になりえない、物語として使えないくらいの意味しかないのだろう。次女の堀北真希は出版社につとめ、遠藤周作や美輪明宏と出会ったり、書けない文学青年と結婚する。おもしろいキャラだった。次女は手塚治虫のアシスタントになる。柴崎コウの初恋の相手は社会主義思想や政治運動に傾き、だけどなにに怒っているかわからなくなる。男はデキる男よりか、ダメ男ばかり出てくる。

 昭和の有名人や大きな事件がつぎつぎと出てくるのだが、こちらにあてはめるかたちで人物が動かされるから、どうしてもご都合主義的なつくりものの感がいなめなかった。このドラマでは有名人のつながりを名誉や自慢と思うエピソードに満ちているのだが、自分自身に魅力や存在感がなければなんの価値もないことはまちがってはならないだろう。

 柴崎コウの愛人の人生に共感できたわけでも、彼女の人生や主体性という点でも幸福には思えなかった。柴崎コウはけっして主人公としての輝きがあったり、幸福な人生を歩んだとは見えないのである。賛歌や応援でもなかったと思う。昭和に生きた人生はけっして幸福でも輝いていたわけでもない、典型的な昭和的な生き方をした人ばかりではなかったとこのドラマではいいたかったのかもしれない。

 昭和の前向きに生きた高度成長の郷愁を描いた『Always-三丁目の夕日』のアンチ・ドラマとしてこの作品は描かれたのかもしれない。わたしも成長が終わった1970年代や昭和40-50年代の公害や光化学スモッグとかも知っているから、昭和の時代が肯定や郷愁の一面ではとれえられないということに賛成である。郷愁よりぎゃくにひどかった時代だったと思う人も多かったのではないかと思う。

 もうひとつテレビは昭和を郷愁しながら終わってゆくのがいいのかもしれない。テレビの全盛期や絶頂は昭和で終わってしまったと考えるべきなのかもしれない。いまは全盛期の残りカスや惰性でつづいているだけだけだ。テレビは昭和とともに終わってしまったのだ。国民とテレビが同一であった時代は終わってしまった。テレビは昭和やレトロを郷愁し、懐かしみながら、オールドメディアとして役割を終えてゆくのがいいのかもしれない。


昭和ノスタルジー (たくさん出てるいるのですね)
ALWAYS 三丁目の夕日 通常版 [DVD]ALWAYS 続・三丁目の夕日[DVD通常版]

宮本常一の写真に読む失われた昭和宮本常一が撮った昭和の情景 上巻東京のちょっと昔―30年前の下町風景昭和―失われた風景・人情写真でよむ昭和モダンの風景―1935年‐1940年

東京1950年代―長野重一写真集昭和こども図鑑―20年代、30年代、40年代の昭和こども誌東京下町100年のアーカイブス―明治・大正・昭和の写真記録家族の昭和昭和が明るかった頃 (文春文庫)

プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

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