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03 22
2008

書評 心理学

心ではなくて「身体」が感情するのである



 ふつう人は心で感情を感じるものだと思っているが、感情というのは身体で感じられるものである。悲しみや怒りは心の内部でおこると思われているが、身体がつくりだしているものである。感情というのは身体のはたらき、もっとはっきりいえば筋肉の緊張や収縮と考えたほうがいいと思う。

 われわれは感情の抑制や止め方、切り替え方というものを知っているだろうか。人はそれぞれ自分なりの感情の切り替え方というものをつちかってゆくものだと思われるが、さっこんのうつ病の増加などを見ていると、どうも人は感情とのつきあい方に往々にして失敗してしまうようである。(うつ病の増加は私は精神科医やカウンセラーの増加により、つまり供給側が増えたことによるジャッジの厳しさがもたらしたと考えるが)。

 私もけっこう自分の感情とのつきあい方に失敗して、自分でいろいろ考察してみたので、それなりの心のつき合いかたもわきまえてきた。基本的に私は感情は無視や捨てるという方法が功を奏すと考えている。頭の出してくる思考の流れにつきあうのではなくて、ぽんぽんと捨てるのである。悲観的思考とか悲しくさせる思考を捨てるのである。こういう思考の訓練によって、悲しさなどの感情は捨てられる。

 あるいは考え方を書き換えることによって感情を変えるという認知療法などの方法があるが、これは言葉や考え方が感情をつくるという発想が元になっている。言葉が感情をつくるのである。さらに発展させれば、言葉や心は「虚構」であり、「存在しないもの」であり、「実体のない」ものである。つまり存在しないものになにもわずらわされることはない、となる。心とはあるあると思っているが、じつは「ない」もので、考える、思うという行為によって「つくられる」ものなのである。私たちは心を存在しないもの、悲しみも悩みもないものに、一瞬にして、消してしまうことができるのである。

 このようなことは旧ホームページで考察していたが、トランスパーソナル心理学や仏教の瞑想などにたいへん学ぶことが多かったのだが、いまでも身体と感情について考察した本がアマゾンを通してけっこう売れていたりする。増田明の『ボディートーク入門』とか、片山洋次郎の『整体 楽になる技術』などだ。身体と感情の考察についてけっこう知りたい人がいると思って、この稿を書いているしだいだ。

 たとえば増田明『ボディートーク入門』(創元社)にこう書かれている。

・怒りの感情は背中の中央を硬くさせ、刺激を受けた神経が腹を立たせる。猫のけんかと同じである。胸椎八番は胃の神経とつながっている。

・失恋や絶望感は胸椎三番に詰まりをつくる。心臓の腰がきゅっと縮められる。

・借金の悩みは首のつけ根を硬くする。「借金で首が回らない」だ。

・胃の上部が硬くなるのはいらだちである。胃の下部が硬くなればくよくよしている。

・人前で話すとき緊張するのは、腕のつけ根と胸の間の一点である。警戒した動物がぱたっととまるときにはそこが緊張する。



 われわれは身体で感情をつくっている。原始時代に闘ったり、逃げたりするときの筋肉の緊張やゆるみが私たちの感情の起源だと思われる。怒りは肩や腕をいからせて生まれるものであり、恐れや悲しみは胸を守ったりお腹を固くして守ってきたことが由来しているのである。つまりは筋肉の緊張と弛緩のパターンが感情をつくっているのである。

 怒りをいま表現してもらったわかると思うが、手をきつく握りしめ、腕や肩に力を入れ、肩をいからせるのがわかるだろう。体の上半部に力を入れ、パワーを集中させて闘おうとしてるのがわかるだろう。問題はその闘いの瞬間ではなくて、人間は怒りを頭の中で思い浮かべた思考やイメージで持続させられるということだ。つまり闘っている最中ではなくて、思い浮かべられる四六時中、そのような怒りの体勢をとることができるのである。そのような怒りは上半身の強ばった塊りをずっとつくりだし、その固まりのために怒りの感情を容易に誘発しやすいだろうし、さらに固まりつづけた筋肉は肩こりやなんらかの障害や病気をひきおこしやすいだろう。

 恐れや悲しみは胸を腕で丸めるように守り、腹を固く守ろうとした姿勢に由来していると思われる。内臓は弱く、大事な器官であるため、腕や筋肉の緊張で守られる必要があった。それが恐れや悲しみの元であったと思われる。なにかに襲われたときには瞬間にからだを防備するだけでいいが、思考やイメージでいつまでも恐れや悲しみを持続できる人間は、そのような体の前面を固めて守る姿勢をつづけることになる。筋肉で固めた体は血流がとどこおり、栄養素がいき渡らなくなり、障害や病気のもとになるものである。そのような姿勢はすぐに恐れや悲しみを連想的に誘発しやすくなるだろうし、そのような落ち込んだ気分はずっとつづくことになる。感情とは身体のこのような状態によってつくられるのである。

 このようなことがわかったのなら、私たちは感情による身体の状況をコントロールするすべを手に入れたことになる。つまりは筋肉をほぐすということだ。怒りや悲しみがやってきたのなら、かならずどこかの身体や筋肉を固めていることになるから、そこを意識的にゆるめてやる必要があることになる。といっても筋肉の緊張が比較的に自分ではスイッチを入れやすいのだが、やっかいなことに筋肉の弛緩のスイッチを私たちはあまり知らない。だから怒りや悲しみで固まってしまった筋肉はいつまでもゆるめることができずに、私たちはいつまでもその重苦しい感情をひきずってしまうのである。さらには身体に障害をもたらすことになるかもしれない。

 私たちはせいぜいストレッチの効用を手に入れるか、または緊張と弛緩のしくみを知って緊張の後に弛緩がくることを利用するしかないのかもしれない。意識的に感情と身体のこわばりをチェックするということも可能だろう。固まってきていると思ったら、意識的にゆるめればいいのである。

 心理学が興隆して心に注目が集まることは多くなったが、身体の感情のこういう面はまだおざなりにされている気がする。心とは身体であることを忘れないでいただきたいと思う。感情のケアに心を配るだけではなくて、感情の元である筋肉や身体に心のケアに気を配る必要があると思うのである。


参考文献
ボディートーク入門―体が弾めば心も弾む
増田 明
4422412418

整体 楽になる技術 (ちくま新書)筋肉疲労が病気の原因だった!?―驚異の触手療法疲労回復の本―あなたの心身疲労を気功で癒す

ストレスパワー―プレッシャーが飛躍のバネになる 若桜木虔
ストレスパワー―プレッシャーが飛躍のバネになる

情念論 (岩波文庫 青 613-5)
デカルトの『情念論』は感情の器官での変化を考察していて、いささか古い記述があるが、おもしろい。

▼私の旧ホームページでの考察はこちらから。
 筋肉から感情は解けるか
 書評 身体を知る、筋肉を知るほか



04 09
2008

書評 心理学

「うん○に手を突っ込むのは、手を突っ込んだほうが悪い。」



 発言小町に「嫌いな人と関わった後にすっきりする方法を教えてください」というトビがあって、 ちょうど私も同じような嫌いな人を頭の中で反芻しつづけるクセに陥っていたので、いい解消法をみつけた。チベットのことわざだそうである

 「うん○に手を突っ込むのは、手を突っ込んだほうが悪い。」



 人というのは嫌いな人がいたら、頭の中で裁いたり、文句をいいつづけたり、反論の仕方を唱えつづけたりするものである。それが解決するいい方法と思っているのだが、やっていることはその嫌い人を抱きしめて、キスしつづけて、いやな気分に陥りこんでいることと変わりがない。みずからうん○に手をつっこんでいるわけである。

 嫌いな人がいたら、頭の中からさっさと追い出してしまうこと。その嫌いな人のために、いま、最悪の気分に陥ることは、みずから肥溜めに自分を落とすようなものである。自分が悪いのである。頭の中から葬り去ること。それが嫌いな人のためにいやな気分に陥らないための最善の方法である。

 しかし人は考えることによって解決することが最善の方法だと思っているし、世間もそう教える。したがっていやな人を考えつづけて、考えつづけて、最悪な気分を一日中ひきずりつづけるのである。

 うつ病や憂鬱感も同じようなもので、みずからいやなことやつらいことを考えつづけて、自らうん○に手をつっこんでいるようなものである。基本的にこんにちのわれわれは思考のそのようなコントロール方を学ばない。考えつづけること、反芻しつづけることを推奨される。ために思考を捨てるという方法を知らずに肥溜めに浸かりつづけるのである。それは思考のコントロール法を伝統的に教えていた仏教や禅が世間の知恵として潰えてしまったからだろう。

 私はそのような知恵をつぎの本に学んだ。これらの本に学んだことは考えつづけ、今日あった出来事を反芻しつづける私にたいへんな衝撃を与えた本なので、そのような過ちに陥っている人にぜひとも薦めたいと思っているのである。

リチャード・カールソンの楽天主義セラピー愛と怖れ―愛は怖れをサバ折りにする。どう生きるか、自分の人生! border=マルクス・アウレリウス「自省録」 (講談社学術文庫)

 しかしこのような思考を捨てる方法は、対人間相手にやるとやっかいな問題もないわけではないことに何度か私はぶつかってきた。この方法というのは、他人にとっては「無視」や「存在のないがしろ」にすることなのであって、ぎゃくに相手の逆鱗に触れることがあるようなのである。

 無視や存在のないがしろは人はかなり傷つけるというか、プライドや自尊心を吹き飛ばすようで、ぎゃくに私はかなり嫌われたり、憎まれたりする経験を味わった。自分の思考を捨てるだけと思っていたら、相手への配慮や考慮、または困惑という思慮の配当も失ってしまうわけで、そのようなものを養分としているらしい人間はかなりショックを受けるようである。

 いぜん私は大村英昭の『非行のリアリティ』という本を読んだことがある。

 非行のリアリティ―「普通」の男子の生きづらさ

 学校で劣等視された生徒や教師から無視された生徒が、その名誉挽回のために非行のような騒がしい、目立つ行為をおこなうというのである。人の蔑視や無視に対抗するかたちで、非行青年はますます非行に走り、暴走族のような騒がしい爆音をとどろかせ、迷惑をかけることによって、ないがしろにされた存在の名誉挽回を図ろうとするというのである。

 嫌いな人を無視しようとすると、ときたま人はこのような戦略に及ぶことがある。騒がしくしたり、ますます迷惑をかけて、自分の存在感や不快感をますます昂じさせようとするのである。嫌いな人というのはその嫌いなレッテルというものを跳ね返そうとして、ますます嫌いなレッテル行為を私に及ぼそうとするのである。つまりは「嫌いである」というレッテル貼りに異議申し立てをおこなうわけである。よく近所騒音に不快感を表わしたら、ますます騒音を立てられたというパターンはこのようなメカニズムが働いたのだと思われる。

 「相手にしない」「あなたとはもう縁を切る」という態度表明は、他人からの承認によって自分の存在感・価値を感じる人間にとってはたいそう心が滅入る経験である。ある人から「見放されて」しまったのである。とくにこのような経験を幼少時から受けてきた傷のある人には古傷がうずくのだろう、迷惑をもっとかけたり、いらがらせを増すことによって、なんとか自分の存在感・価値観をとりもどそうとするのである。

 嫌いな人というのは、もしかして不快感や迷惑を人にかけることによって、他人の心に価値や重みをおかせる方法を身につけてしまった人なのかもしれない。それでも無視されたり、ないがしろにされたりする痛みよりマシなのかもしれない。あるいはそれより重要な、人から「なめられたくない」とか、格下におかれたくないという気持ちが優先されてしまうために、人に不快感や迷惑をかけても、その気持ちを優先してしまうのかもしれない。そして無視やないがしろにされてしまうために、またまた他人の心への存在感の攻撃をおこなうのである。つまりすますま不快感をもよおす行為や言動をくりかえすのである。

 嫌いな人を無視する、相手にしないということは、すでにそれだけでも人に対する「攻撃」なのである。無視というのはかなりキツい「攻撃」である。自分の頭の中だけのことがらと思ってはならないのである。それは他人の存在を認めないという最大の攻撃なのである。

 さきに紹介したジャンポルスキーの『愛と怖れ』のなかに「人をとがめず、いっときも判断しない」という言葉が出てくる。過去を一瞬ごとに捨ててゆくことが、「許す」ということなのである。そこまで「聖人君子」のようなことは、やっぱりとても私にはできない。相手にしないという頭の切り替え方は、相手への不快感の表明という攻撃態度もメッセージしている。おかげで相手からの不快感攻撃はますます増してしまうだけかもしれない。

 不快な思いを消却して、なるべく相手の無視、ないがしろ感を味わわせないようにすること、このふたつがうまくミックスしないと、相手からの異議申し立てを喰らう。無視されたと思った相手はかなりタチの悪い行為におよぶ。存在の挽回は不快感や嫌悪感のうえに積み重ねられると思っているからである。

 許すこと、裁かないこと、とがめないこと――ほんとうにこれは難しいことだけど、対人間関係において必要なことかもしれないな。ひい~、嫌いな人、嫌いなものの対処の仕方というのは、まさしく心の修行だな~。

 
04 15
2008

書評 心理学

『かけがえのない人間』 上田 紀行



かけがえのない人間 (講談社現代新書 1936)
上田 紀行

かけがえのない人間 (講談社現代新書 1936)


 悪くはいいたくないのだが、この本は軽いし、心に響いてこない。ほかの書評にもあったが、底が浅いと書かれていたが、キツイ判定はしたくないのだが、そういわざるをえない。自分でおバカな人生を開陳してくれるのはいいことだと思うが、勘違いとか思い違いとか、浮世離れした性格がうきぼりになるばかりだ。TVでみるこの人は悪い人ではなそうなので、きつくはいいたくはないのだが。

 テーマの「かけがえのない人間」はいいと思う。交換可能で使い捨ての人間であるというテーマはひじょうに今日的である。また「評価が最終目標か」という問いかけもいい。しかしその社会の現実分析や経済の状態を探らずに、いきなり解決やメッセージだけを発せられても、空疎に響くだけである。そういうところが現実感がないというか、リアリティがないというか、軽さや浅さを感じさせるところだと思う。浮世離れした言葉の解決策を発せられても、「現実はなあ~」と首をひねらざるをえない。現実から立ち上がっていないというか、根づいていないのである。読み飛ばしたくなる軽さはそんなことろにあるのかもしれない。

 現実の解析やそこからの解決がてんでめざされていない。それならたんなる「癒しの言葉」や「癒しのアロマテラピー」のシャワーを空疎にふりまかれるだけである。もちろん考え方や言葉が私を癒すし、世界(私の)のありようも変える。しかし社会的・経済的なことを語るのなら、心のみの癒しで解決する問題ではないのである。

 心の問題だけをあつかって、心に響いてくる本はいくらでもある。でもこの本はなぜか軽さや底の浅さを感じさせるのだなあ。やっぱり途中から自分のおバカな人生を語りだし、インドでノイローゼがふっとんだとか、自己啓発セミナーで肋骨を折ったとか、そんなおバカな話をしたからかなあ。信憑性もふっとんでしまったのかな。

 悪く思うつもりはないけど、浮世離れした軽さはこの本のあちこちから漂ってくる。いい言葉や洞察もたくさんあるし、納得する言葉もいっぱいある。でも言葉の風船のような軽さは拭いがたい。厳しくジャッジしたくない性格もこの本と著者にはあるのだけど、ジャッジせざるをえないなあ。

 あまりいいすぎるのはなんだから、鋭い文章をひとつ。

「私たちが「個人的」と誤解しているお金やモノの追求は、それを推し進めれば進めるほど、実は社会システムのほうが個人よりも重要になってしまうのです」



 たしかに私たちが個人的なものと思っているものを追求すればするほど、社会や経済にがんじがらめになっているのではないか。私たちが個人的と思っているものは、じつはしごく社会権力的なものではないのか。これは問いかける必要のある重要なパラドクスかもしれないですね。


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04 25
2008

書評 心理学

他人の関心を削ぎ落とす



 繊細な感覚すぎて、人にはわかりにくい感覚だと思う。これは禅病などの専門的な知識がないとわからない話かもしれない。

 数年前、私は思考を捨てることや瞑想などの訓練をおこなっていた。心の中の思考を捨てて、無思考の瞑想状態をずっと維持させる訓練である。禅や仏教などではこの状態に心の安らぎや不動心が養え、また心のコントロール法も身につくとされるといわれている。

 「無境界」や自然と一体化する感覚を手に入れようとがんばったのだが、おかげで耳の感覚が砥ぎ澄まされてしまって困ったことになってしまっている。「聞き耳」を立てている状態が常態化してしまって、いやに他人の声が耳に入ってくるのである。これはどうもほかの人もその聞き耳を立てた状態がわかるようで、境界や障害がない状態になってしまって、ほかの人をとまどわせている。

 こんな感覚をいってもほかの人はなかなか理解できないだろうし、私は頭がおかしいと思われるだろう(笑)。感覚が砥ぎ澄まされないとわからない感覚なので、その感覚を経験したことがない人はおかしいと思ってしまうのは仕方がないかもしれない。まあ、似たようなたとえをあげてみると、音楽家はクラシック演奏の中からチェロとかバイオリンの音を聞き分けることができるが、ふつうの人にはそんな聞き分けはできないことと似ているのかもしれない。

 これはなにが困るかというと、街ゆく人の見知らぬ人の声はふつうは聞き耳を立てたり、耳をそばだてているということがわからないと思う。だけど私の聞き耳状態ではダイレクトに人の声が入ってきて、聞き耳を立てているということがよくわかるのである。まあ、言葉にもしにくい異常な状態である。街行く見知らぬ人の声に聞き耳が立てられているとわかられて、関係のない人との距離感が保てなくなっているのである。ほんとにこの鋭敏な感覚は人には理解できないだろうと思うが。感覚の「全開状態」がつづいているのである。

 人はふつう他人の声に関して、なんらかの障壁や無関心の壁をもっていると思う。聞こえてしまっているとしても、聞いているか、聞いていないかはわかりにくいと思う。でも私の場合は、ダイレクトに耳の感覚に入ってきて、聞き耳を立てているということが人にわかるようなのである。音の遮断の壁が私にはなくなってしまっているのである。瞑想でそういう状態をめざしていたにせよ、これはひじょうに困った状態である。グループ外や赤の他人の話し声を聞いているとわかられると、都会の無関心の壁が保てないのである。

 この音の「全開状態」に対して、人はふつうなんらかの障害や障壁をもっているのだと思う。それは言葉や思考、あるいは自我といったものが障壁になっているとも考えられるし、他人への無関心ということが障壁をつくっているのかもしれない。私はこの障壁がとりのぞかれてしまった。おかげで他人に気味が悪いと思われてたりして、困っている。なんとかこの感覚の障壁をできないものかと思案してきたものである。

 人は自然に外界の関心にたいして、的を合わせたり絞ったりする機能をもっているのだと思う。それは自然につちかわれてゆくものだと思われるが、私はヘタな瞑想技術を身につけてしまったために、そういうコントロール技法を(無意識のと思われるが)どこかで失ってしまったと思うのである。この技法はどうやったら手に入るのだろう。

 私はおそらく外界や他人の動向に関心の敷居がもともと高いほうだったのだろう。他人への関心意識がかなり高いのである。ちょっと内向的であったり、自閉気味の他人への無関心な人を見ていると、私はなかなかそういう「内にこもる」ことや「他人に無関心」という状態をもっていないのではないかと思う。他人への関心も「全開状態」になっていて、障壁が少ないのである。

 この他人への関心の強さも、私のヘタな大衆社会論の読書により、ヘンな方向に磨かれてしまったように思う。大衆社会論は大衆の画一化や同調化への批判や侮蔑に満ちた言説をくりひろげていて、私はそのような説に影響をうけて、ことさら同調化や群れることに対する拒否や警戒を強くもつようになったのである。つまりは集団に属するか、集団から外れるか――仲間と仲間外れということに異常な関心をもつようになってしまったのである。私はそういうことばかりに関心が向くようになっている。他人の動向、集団の内と外ばかりに関心の「全開状態」が向かってしまうのである。

 この関心の「全開状態」にたいして、関心を遮断し、閉ざす方法というのは、極端なことをいえば、「自閉症」に学ぶことができるのではないかと気づいた。自閉症というのは他人とのコミュニケーション能力や共感能力が低く、感覚を自分に閉ざし、遮断しているといえる。かれらがどうやってそういう傾向を身につけてしまったのかと知れば、私の感覚の遮断法に用いられるかもしれない。苦労なさってきた人に対して不謹慎といえば不謹慎な話であるが。

 DSM-Ⅵ:自閉症の診断基準 新大塚榎本クリニック

 要は他人への関心を削ぎ落とす、絞るということである。私は他人の動向やありように強く関心をもつようになってしまっている。いつも他人が関心の的である。他人に関心を示さない自閉症とかなり逆の状態である。(でも孤独や趣味を好む私は自閉気味の性向もなかなか色濃いのであるが)。自閉症の子どもはどのようにその傾向をつちかってゆくのだろうか。

 自閉症の新しい理論 白石 勧

お化け屋敷のなかで生まれて、たった一人で生きているようなものです。まわりは恐いものだらけです。自閉症の子どもは、ひとりで恐怖の世界をサバイバルしています。

見るもの、聞くもの、触るもの、すべてが恐いのです。恐いものだらけでは耐えられません。そこで、恐いものを無視するために感覚を遮断したり、自己刺激を繰り返して世界からの刺激を遮断しようとします。

定型の子どもは、良好な母子関係によって安心をえます。自閉症の子どもは、母子関係では安心をえられないので、物事の規則性や同一性によって安心をえようとします。



 自閉症の子どもは外界の不安から外界への関心の遮断――とくに他人への関心の遮断の技術を身につけてゆくようである。人間というのは自分で関心や感覚の遮断や解放の技能をもっているようなのである。私の場合はヘタな瞑想技術により、そのような遮断技術をどこかで落としてきてしまったようなのである。関心の遮断や的を絞る機能を私はとりもどさなければならないのである。瞑想では「無境界」の状態がよいとされたのだが、他人との感覚の障壁がなくなるようでは、たいへん困るのである。

 他人への関心をなくす――むろん他人に気を配ったり、配慮することは好ましいことである。しかしときには遮断したり、無関心をよそおう技能も必要なときもある。動向を気にかけられすぎる他人は不快である。ヘタな瞑想技術によって、その自閉の技能をどこかに置き忘れてしまった私はその感覚の遮断をもう一度意識的にとりもどさなければならなくなったわけである、とほほ。そういう感覚というのはたぶん言葉や意志によって、人間はつくってきたものだと思われる。言葉や意思によって感覚の遮断や解放はできるものなんだろうか。私はぜひとも他人への関心の遮断という技法をとりもどさなければならないようなのである。


自閉症だったわたしへ (新潮文庫)自閉症を克服する―行動分析で子どもの人生が変わる自閉症スペクトル―親と専門家のためのガイドブック自閉症の心の世界―認知心理学からのアプローチ

05 21
2008

書評 心理学

『自閉症―私とあなたが成り立つまで』 熊谷 高幸


自閉症―私とあなたが成り立つまで
熊谷 高幸

自閉症―私とあなたが成り立つまで


 このような自閉症の本を読んだのは、特殊な話であるが、数年前に私は心や感情のコントロールを手に入れるために瞑想の訓練をおこなっていたのだが、耳の感覚が鋭敏になってしまい、他人の声にいつも「聞き耳」を立てているような状態になってしまったからである。言葉でいってもわかりにくい感覚であるが、いっしょの場にいる「会話関係の外」にいる人たちの声も耳に入りすぎて、困っている。

 他人の会話や他人の関心への感覚が鋭敏に強くなりすぎているのである。ふつう人は他人の声や会話は聞こえていても、遮断や関心外におくことができるものだが、私の耳は瞑想の訓練のせいでこの障壁がどうも弱くなったようである。

 困っているところで気づいたのだが、自閉症の子どもというのは他人に関心をもたないし、他人の存在を気にかけないという特徴がある。もしかして私に必要な失われた機能というのは、この他人へ無関心への障壁ではないかとあたりをつけて、自閉症の本を読んでみたわけである。

 私の悩みにこの症状が効くかはわからないが、自閉症というのは人間の発達成長の不思議さを教えるものであるし、なによりも人間と時間、または言葉という人間存在の根源をうきぼりにする症例を呈していることに驚かざるを得ない。分裂症あるいは統合失調症の症例のような哲学的問いを発せざるを得ない特徴をもっているのである。

 自閉症の子どもは早くに言葉を発することがあるのだが、ある時期から失われてしまう。ふつうの子どももそのような危機をへて、言葉の発達段階をとげてゆくようである。語彙が増加するのはちょうど動詞を覚える時期と重なる。動詞というのは「もの」の世界ではなく、「こと」を表わす世界である。「ワンワン・キタ」「リンゴ・オチタ」のように時間的変化、出来事をあらわすものである。

 さっきまであったのに「いま・ここ」にないもの、またはさっきまでなくて「いま・ここ」にあらわれたもの、動詞はそのような時間の変化の中の存在・非存在をあらわす。言葉が必要なのはまさに「いま・ここ」にない時間をあらわすときではないだろうか。時間的な不在の中で言葉は必要となり、生まれたのである。自閉症はこの時間の感覚を育てるのに失敗するのである。

 自閉症の子どもは時間的な変化の中で動くものに対応するのが苦手で、動かない、いつまでも待っているような機械や文字が好きである。時間の中で動いたり、変化したりするものに対応できないのである。とらえどころがなく、一義的でないものに困難をきたし、たとえばふつうの子どもでも多義的な存在である「ママ」より、一義的な限られた存在である「パパ」のほうが呼称が早いこともあるようである。

 自閉症の子どもは他人の心を読めなかったりするが、おじいちゃんにファミコンをもらうと、「オジイチャンニ ファミコン アゲタ」と表現したりするし、「ヒロクンヲ タタイタ」というと、ぎゃくにヒロ君にたたかれていたりする。

 私たちは世界の中心にあるのに、自分の姿が見えない。過去を思い出すにしても、思い出しているいまの自分を見失うと、現在という時間は失われてしまう。自閉症の子どもはときに「透明人間」のように他人のお菓子をとったり、会議中の部屋でTVを見出したりと、あたかも自分の存在がないようにふるまう。時間の中に存在する「自分」という存在あるいは虚像をつくりだすことに失敗してしまって、まるで自分が「存在しない」かのようである。つまりは時間の中の「私」をすっぽりと欠落しているのである。

 「自分」や「私」というのは時間のなかで捉える「自己像」といっていいかもしれない。時間の感覚を捉えそこなった子どもは、時間の中で計画したり行動したりすることに失敗し、時間のなかで予測したり把握したりする他人の心も読めず、そして時間の中で生まれる「自分」という存在をつくることにも失敗してしまうのかもしれない。自閉症あるいは人間の「自我」の発達段階というのは、この時間の把握にこそあるものかもしれない。

 時間の把握からこぼれ落ちてしまった子どもたちは、捉えようのない変化のある世界の中で、心の中で時間的な自己を育てることに失敗し、自分を見失い、そして時間的な他者を見失い、対応能力を失い、そのような恐怖の世界で自閉症特有のこだわりやルーティン行動に固着してゆくのかもしれない。

 かれらが陥った陥穽はひじょうに哲学的な世界であり、そして人間が成長し、言葉と時間の文化のなかに入ってゆく際に必要な通過儀礼なのだろう。時間の把握につまづいた子どもたちは、自己や他者の存在を失ってゆくのである。言葉と時間と私という三つ揃いの関係が、私たち人間をつくってゆくのである。


自閉症からのメッセージ (講談社現代新書) 自閉症の関係発達臨床 感覚と運動の高次化からみた子ども理解 「こころ」の本質とは何か (ちくま新書) おっちょこちょいにつけるクスリ 家族の想い編―ADHDなど発達障害のある子の本当の支援
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06 24
2008

書評 心理学

『自己主張が楽にできる本』 石原 加受子


自己主張が楽にできる本―相手を恐れず言いたいことを言うために
石原 加受子

自己主張が楽にできる本―相手を恐れず言いたいことを言うために


 エポック・メーキングな本になると思ったが、いまいちこの方法を自分に定着することができなそうでそこがひじょうに残念である。

 この本では「あいつがどうした~、こうした~」という不平不満ばかりになっている「他者中心の意識」から、自分の意志や感情を見つめるようになると、傷つけたり嫌われることを怖れて主張できなかった自分の意見や意志をあらわすことができるようになると謳っている。

 なるほど他人の顔色をうかがったり、他人を傷つけることを怖れて、自分の意見や気持ちをなにひとつ言えなくなるのは、自分の気持ちや意志より、他人の感情ばかり気づかっているからだというのはたしかにわかる。他人への不平不満も他者中心の意識ばかりになっている。他人に腹をたてつづけるのというのは他者が主体となり、他者の奴隷となった状態である。われわれの「主体」というのはじつは自分ではなくて、このように「他者」になっていることが多いのではないだろうか。他人にふりまわされつづけて、自分の気持ちや思いが「主」にならないのである。「私」とよばれるものはじつはこのような「他者」が中心になり、私の心や感情は「他者」にぶら下がっているといえないだろうか。

 だからそのような「他者中心の意識」をやめて、「自分中心の意識」に切り替えよう、そうすれば怖れたり気づかったりしてなにもいえなかった気持ちや思いを告げられるようになるというのである。

 私たちはほんとうに「他者中心の意識」で生きていると思う。「あいつがどうした~、こうした~」、「あいつがムカつく」、「あいつはどうにかならないか」「なんであいつはあんなことをするのか」といった他人の動向や不平不満ばかり抱えているものである。まったく「他人の奴隷」である。他人を批判したり、裁いたり、ときには支配しようとしているのだが、まったく他者に支配され、ふりまわされつづけている。他人を奴隷にしようとして、自分が他人の奴隷となる。

 しかし結果を気にしなかったり、支配・被支配の関係を捨て去ったら、自分の意志や感情に目を向けられる、自分の気持ちや感情をラクに主張できるようになるというのは、なにかいまひとつひっかかりがないのである。「あいつが~、あいつが~」という気持ちから、「私は――どう思うのか」「私は――どうしたいのか」という自分の意識に焦点を合わせれば、うまくいくというのは、自分の意識の流れをふだん意識していない者にとっては、なかなか定着しにくい意識のありようだと思うのである。まずは自分の意識がどんなに他者中心になっており、自分で満たされた意識とはどのようなものかという境界が引かれないと、なかなか自分の意識の中にそのような方向性を刻み込みにくいと思うのである。エポック・メーキングになりそうでならないというのはその障害があるからである。

 本の中から語ってもらうことにしよう。

「私は、「自分を中心にして、自分の気持ちや感情に焦点を当て、相手の態度や表情に目を向けないで欲しい」ということと、「相手の怖い態度は単に恐怖でそうやっているのだ」ということの二点をアドバイスした。そして、こうつけ加えた。「相手を責めるような言葉を使うと、あなたの主張に耳を傾けてくれるどころか、権力闘争になってしまいます。くれぐれも怒りの感情に発展しないよう、自分の気持ちや感情を中心にした言葉で喋って欲しいと思います」



「相手を主体に考えてしまうと主張することが怖くなってしまう」



「自分の主張をとおすことだけを考えないで、自分の気持ちや感情を大事にするために表現するという、そのプロセスを大切にすることを第一の目標にしてほしいの。

主張することがとてつもなく高いハードルに見えて恐れを感じるのは、プロセスではなく結果を重視し過ぎるためである」



「自分の言い分を認めさせようという考えを捨てて、自分のために表現するプロセスことが大事なのだという気持ちでいれば、結果はそれほど重要ではないと思えるようになるだろう。相手に勝つという目標さえ捨てれば、断られたらどうしようという恐れも半減するに違いない」



彼らが滑らかな言葉で語り出したのは、支配・被支配の意識を捨て去ったからだ。「人にどう思われるか」という恐れが消えたら、あとは自分の頭の中で交わされる会話を言葉にするだけでよかったのである」



「本来、自己表現・自己主張するということは、他者と争って何が何でも自分の主張をとおすことではない。自分の意識の中でつくりだされたものを表現することである」



 私は主張ができるようになるということより、この他者中心の意識というありようのほうが強い関心を魅かれた。私たちはたぶん他者にばかり注意を向けている。そして自分の感情や思いをないがしろにしているのである。他者が意識の主体となり、自分の感情は無視される。私たちは「自分中心の意識」のあり方に変えなければならないのではないだろうか。通常は「自己チュー」は最低だと思われるのだが、私たちは自分中心というよりか、「他人中心」の意識ばかりになっているのではないかと思う。他人が大事だから、他人が中心になっているから私たちは他人とトラブルを起こすのではないだろうか。

 自分の意識の中から他者への関心・興味をそぎ落とすのだ。そして自分の意志や感情に焦点を合わせる。そうして自分らしさやあるがままでいられるようになるのではないだろうか。「他人が~、他人が~」と思うようになるから、私たちは自分を表現することも主張することもできなくなるのである。自分の思いや感情に目を向ける、それが大事なようである。

 こういう「他者/自己」中心の意識というものは重要だと思うので、この手の本か、この著者のほかの著作に注目したいのだが、「腑に落ちる」知識に出会えるかどうかは、いまのところわからない。エポック・メーキングな本になってほしいものである。


▼著者のサイト
 心理相談研究所 オールイズワン (「ダイエットにやせた」ふうの広告になっていて残念なサイトですね)

▼お、しまった、文庫本で出ているではないですか。たぶん同じ本だと思いますが、ソンした。
 自己主張がラクにできる本―ありのままの思いを上手に伝える (サンマーク文庫 G- 106)

人間関係に奇跡を起こす83の方法―やり方ひとつで天国・地獄 彼女がいつも人から愛される理由―「自分が心地よい人間関係」の作り方 自分を好きになる―ため息を元気に変える7か条 (小学館文庫) 願いがかなう人になるシンプルな方法―「好き嫌い」で生きていいんだ! お詫びの心と技術が面白いほど身につく本―知りたいことがすぐわかる (知りたいことがすぐわかる)
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10 30
2008

書評 心理学

『強い自信がみなぎる本』 植西 聡


強い自信がみなぎる本 (成美文庫)強い自信がみなぎる本 (成美文庫)
(2003/04)
植西 聡

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 自己啓発書やポジティヴ本といったものをどう思うだろうか。私は自信をとりもどしたり、不安に襲われるときには栄養補給源になっていいと思っているのだが、自分の中にもこんな本バカらしいと思う気持ちもある。強引な前向きさはカルト宗教的な恐ろしさもふくまれると見る向きもあり、ナポレオンヒルとかマーフィーとか「思うだけで願いが叶う」といった本はまるでだれでも明日に金持ちになれるといっているようものだとバカにする向きもあると思う。

 これは心に対するふたつの見かたの相克だと思う。心はものごとがおこった結果を捉えるものなのか(写像理論といっていいか)、それとも心は感情や結果をつくる原因なのか、という心の見かたである。たいていの人は心は何らかの出来事や事実の結果おこるものだと考える。自己啓発や論理療法などのような心理学は心は結果ではなくて、感情や結果をつくる原因だと見なす。思っていることは起点であり、それが結果をもらたす。だから自己啓発はサギ的なまでのポジティヴ論を煽るのである。私は心は原因だと思っているから、前向きさを注入する意味で自己啓発は役に立つと思っている。

 人の心は放っておいたら、悲しさやつらさや不安に転がり落ちてゆくものだと思う。疑ったり、不可能であると思ったり、否定ばかりに傾く。たぶんそれが安全地帯なのだからと思う。行動や挑戦をしなければ、危険な目にも恥ずかしい目にも会わないですむ。安全で守られた人生を送れる。しかしそれではなにひとつ喜びも楽しみも、可能性も得られない。安全さはいつか自分を縛るオリになるのである。私はこういう自分を縛る安全さのオリや、否定や悲しみにみちびく心のつらさに出会うことが多かったから、自己啓発やポジティヴ論の栄養補給はおおいに必要だと思ってきたのである。でもそういう資本注入はいつしか否定や悲しみの中に沈みこんでゆくものであるが。

 自分の中でとりわけ自信が欠けていると思う。行動や挑戦ができないのである。なんでだろうと思う。否定や懐疑、悲しみの重りや、すべり台コースが、頭の中にあまりにも発達しすぎているのだろう。行動や挑戦の資本注入をおこないたいとこの本を手にとる。自己啓発はだいぶ読んできたから、同じようなことをいっていると、なかなか効用がなくなっている。麻薬や薬のように免疫ができて、効き目が弱くなってくるのである。あとは心になんども言い聞かせて、暗示効果を狙うしかないのだろう。暗示が「私」をつくり、感情や行動の結果をもたらすのである。私たちは「人生脚本」を演じているのである。

「過去のことを吹っ切るための行動はひとつしかないんですね。それは、新しい喜び、新しい生きがいを見つけ出す、ということなんですね」



とにかく実際に行動してみなければ、何も学ぶことがないのです。
失敗を恐れて何もしない。そういう人に「自信」は生まれません。たくさんの失敗をする。そのことによって、多くのことを学んでゆく。そうしていくうちに、自分への自信、仕事への自信は、少しずつ育っていくのです。



あるボクシングの選手がいっていました。対戦相手が決まる。試合日程が決まる。それからは寝ても覚めても、不安の日々の連続だというのです。
不思議なことに、いざ試合となってリングに上れば、そんな不安は一瞬のうちに吹き飛んでしまうというのです。リングの上に立てばもう「どうしよう、どうしよう」などと考えている暇などなくなってしまうからです。



「これは自分が、自分の力で作り上げた人生だ。間違いなく、これは自分の人生だ」といえるようなものができあがった時、初めて生きていくことへの大きな自信が生まれるのです」



 私たちはいままでの自分がつくりだしてきた思考や感情の流れの「奴隷」や「反覆機械」になるものである。否定や不安や悲しみの反覆機械になって、そこから一歩も出れなくなる。人生が私を打ちのめすと思っていても、打ちのめすのは自分のそういう考え方、思考の回路なのである。いきづまったと思ったのなら、新しい思考の回路や感情の線路をつくってやらなければならない。むかしの回線を壊すのが自己啓発であったり、瞑想であったりするのである。「自分の奴隷」になっている人にはこのような栄養素が必要なのである。世間や親の奴隷になっている人も同様である。

 なお、なにかに悩んだときは心理学を読むより、自己啓発書やハゥトゥ本を読むほうがいいと思う。理由を知るより、どうすればうまくいくかを知りたいかが大事だからである。心理学は悩みや探究の迷宮に落とし込んでしまう。人が知りたいのは理由や事実より、解決法なのである。心理学はどうもそういう目的を迷宮の中で忘れさせるようである。


自信と行動のセラピー
不安を自信に変える練習帳 (集英社be文庫 うC 72)自信をもてないあなたへ―自分でできる認知行動療法自信を育てる心理学―「自己評価」入門

行動してみることで人生は開ける―まず、できることから、やってみる (PHP文庫)すごい「実行力」 (知的生きかた文庫 い 53-1)行動することが生きることである―生き方についての343の知恵 (集英社文庫)

09 12
2009

書評 心理学

『やっと中年になったから、』 足立 則夫


やっと中年になったから、―41人の「ミドルからの出発」 (日経ビジネス人文庫)やっと中年になったから、―41人の「ミドルからの出発」 (日経ビジネス人文庫)
(2001/05)
足立 則夫

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 41歳になって社会を出てからもう20年もたったのに、なにも得ていないという気持ちや徒労感におそわれた。私の好きなことややってきたことに意味も価値もないのではないかという底ふかい価値の剥落に遭遇した。失業期間中だったということもあり、よりその気持ちはふかく私をおそったが、仕事をみつけたらその感はすこしおさまった。

 中年の危機というのだろうか。人生に意味も価値もないという剥落した気持ちにとらわれた。20年というふたまわりの年月をなにも得ずにすごしてしまったという衝撃はイタいものだった。なにかこの感覚をおさめる本はないかと探していたら、このような本を見つけた。

 中高年にたっしてから再出発や転換をおこなった有名、無名な人たちのエピソードがたくさんとりあげられていて、なかなか奮起させられる本であった。

 不満があるとしたら、マスコミや世間に登場するような成功した人たちは、私のような浮上の見込みがない人間にとって参考にもならず、いやな気持ちが先にたつので、できれば無名の人たちの再出発だけにしぼってほしかった。こういう本はもちろん成功人のエピソードをのせないと話にならないのだが、顕著な成功者は気持ちをなえさせる。市井のなんでもない人の奮起に自分を重ねられるほうがいい。

 有名どころではもちろん55歳から日本の測量をはじめた伊能忠敬がとりあげられており、シュバイツァー、シュリーマン、与謝蕪村、フィリップ・アリエス、鴨長明、森有正などが登場する。やっぱりこういう本は有名人が登場しないと話にならないな。でも明確な成功者って成功してるがゆえに成功したみたいな論理があるから、どうも奮起の材料にとぼしい気がする。

 中年から再出発する人というのはとつぜん再転換したように見えるが、じょじょに積み重ねてきたり、専門的知識をためこんできたものがあって、はじめて転身するようだ。とつぜん変われたのではなくて、そういう積み重ねがないと転身はできないのだろう。

 私は知識が好きだから、50歳からの民俗学者・吉野裕子、46歳に『子供の誕生』を著した日曜歴史家だったフィリップ・アリエスに希望を感じた。失業期間中に私は自分の好きな知識がお金や実利的なものにてんで貢献していないというイタイ認識につきささられた。稼ぎにならない知識は価値がないのではないかという思いにとらわれたが、この認識も整理する必要があるのだろう。

 中高年からいくらでも再出発できる、人生はいくらでもデザインできる、どんな生き方も可能だという展望があれば、中高年でも萎縮せずに生きていけるだろう。そういう再チャレンジやあらたな出発、やりなおしが可能でないと、中高年にたっしって俺の人生は失敗だ、なにも得られなかったという決定打の十字架を背負ってしまうことになる。この感覚の人生の重みは中高年の気持ちをえらく萎えさせる。

 中高年の男性の自殺者がかなりおおくなっているが、こういう人生の壁にブチあたったのだろうか。経済苦や病苦がおおいのだろうが、日本の労働者市場は中高年にどんどん厳しくなってゆくことと関係があるのだろう。めげたり、挫折したりしないで、希望や平常心をもって生きていってほしいものである。社会の評価がどうであろうと、生き抜いてやる、俺は人生を全うするのだという強い気持ちをもってほしいものである。社会もしくみもそういう中高年の壁をなくしてゆく努力をしないと、中高年のつらさは重くのしかかったままなのだろう。


中年期とこころの危機 (NHKブックス)中年クライシス (朝日文芸文庫)中年から「いい人生」をつくる生きかた (ワニ文庫)

11 27
2009

書評 心理学

『大人の心に効く童話セラピー』 アラン・B・チネン


大人の心に効く童話セラピー―お姫さまと王子さまが中年になっても幸せでいるために (ハヤカワ文庫 NF 337)
アラン・B・チネン

大人の心に効く童話セラピー―お姫さまと王子さまが中年になっても幸せでいるために (ハヤカワ文庫 NF 337)


 40歳をこえて人生のサイクルがひとめぐりしたのを感じて、「私はなにも得ていない」という落ち込みを経験した。これが中年クライシスというのかと慄然とした。このような落ち込みとどのように闘い、融和していったらいいのか知恵を欲した。

 子ども向けと思われている童話にも中年の課題をかたった中年童話というものがあり、物語だけでは意味がわからない話がおおく、解釈をあたえてくれる本書のような本はたいへんにありがたい。深い洞察や含蓄が中年童話につまっていることにあらためて気づかされる。もう一度読み返して心に刻みたいよい本である。

 中年の課題でいちばん気にかかったのは魔法の喪失や若々しい理想との決別といったものだろう。おとぎ話では主人公は敵や悪と闘い、数々の冒険をくりひろげる。自分は強く、ただしく、おおくのことをなしとげる、たくさんのものを得られるという根拠のない希望や夢をいだいているものだ。しかし中年になると数多くの現実の壁につきあたり、おおくのものも得られないし、自分がちっぽけな存在にしかすぎなかったという衝撃の事実と出会わなければならなくなる。

 魔法というのはこのような根拠のない自信や希望のようなもので、それをもっているために青年や若者は世に出ていけるのだし、不安や自信のなさものりこえていける。若者は根拠のない自信や誇大な自己をもっていると非難する本を読んだことがあるが、誇大な自己をもっているからこそ若者は社会に出て、わたってゆくことができるという心の防備や機能にあらためて気づかされる。

 それが他人の侮蔑や衝突をひきおこせば問題になるが、この防備があるからこそ若者は夢や希望をうしなわずに生きていけるのだ。社会や他人、親に対する怒りも無力な若者を支える心の柱となる機能をそなえているということが中年童話からわかるのである。魔法をうしなうということは現実とむきあい、青年の夢や希望をなくしてゆくということだが、成熟するというのはこの喪失とどうむきあってゆくのかという課題とのつきあい方だといえるだろう。

 中年童話にはしばしば男が女の格好をし、女がおとぎ話の男の子のように冒険や悪とたたかう話が出てくる。著者はそれは子どもや若者時代に男らしさや女らしさをもとめ、自分のなかで抑圧してきたそれぞれの男性性、女性性のとりもどしをうたっているのだと解釈している。中年では一方の性の特性を追求してきた欠落面をおぎなうことが課題になるのである。

 男は男らしく、権力や地位を追い求める生き方を奨励されるのだが、いっぽうでは女性のように親密さ、人間関係、感情をそぎ落とされるため、このとりもどしが中年ころに意識される。女も抑圧されてきた男性性、冒険や強さ、戦いといった男性的要素をとりもどす試みがおこなわれるのである。男や女というのは社会的な役割や象徴なのであって、本質ではないのである。

 たとえば男は男らしさを追い求めるさい、母親やそれにまつわる依存や親密さの欲求まで拒否する。男っぽさをめざすということは女の特性と思われている属性までもすべて拒絶するということだ。このような洞察は、男の若者がなぜ硬派になったり、依存性を拒否するのかという種明かしを教えてもらった気がする。それは女らしさの拒絶なのである。

 中年になるということはさまざまな若者の夢や理想、希望、または認識のありかたとどう折り合いをつけ、融和してゆくかという課題や成長をともなうということなのだろう。善や悪に対する多元的な目をつけたり、理想的な考え方から現実的な考えにおちつき、あるいは抽象的な知識から実際的で経験をへた知識にうつりかわってゆく。自分のことばかり達成しようとしていた青年は子どもを守る生殖性を発揮することがもとめられ、社会でも責任や役割をせおわされる。自分の自立や力の限界といったものにも気づき、それもうけいれていかなければならない。

 この本はおとぎ話から目を醒めたとき、人はどう生きていったらいいのかという含蓄や洞察をたくさんあたえてくれる。私的にはやっぱり自分の限界や無力さとどうつきあえばいいのかということがいちばん気になる課題である。無根拠で現実的でもないおとぎ話の希望や夢は私を守ってきてくれたのだろうが、中年では限界や現実がむきだしになりはじめる。そのときにどうやって限界をうけいれ、落ち込みや攻撃から身をかわせばいいのだろうか。たいそうショックな認識であるが、過去に誇大な妄想があったのだと知ることで、ぎゃくに緩和されるかもしれない。おとぎ話が守ってくれた認識は脱皮していかなければならないということだろうか。


▼童話の解釈っていいですね。ワケのわからない童話の意味をよみといてくれますね。一時期、私もたくさん読みました。
熟年のための童話セラピー―「末永く幸せに」暮らすヒント (ハヤカワ文庫NF)昔話の深層―ユング心理学とグリム童話 (講談社プラスアルファ文庫)昔話とこころの自立

昔話の魔力眠れる森の美女にさよならのキスを―メルヘンと女性の社会神話 (ポテンティア叢書)


12 03
2009

書評 心理学

『童謡の謎』 合田道人


童謡の謎―案外、知らずに歌ってた (祥伝社黄金文庫)
合田道人

童謡の謎―案外、知らずに歌ってた (祥伝社黄金文庫)


 童謡というのは多くの人が子どものころに聞いた覚えがあるもので、解釈や意味がべつにあれば興味がわく。童謡にはそんな深い意味も解釈もないのだと多くの人は通りすぎるものだが、もしもっとほかに深い意味があるのだとしたら、教えてもらいたいものである。

 たしかに「かごめ」はなにを歌っているのかと不思議な歌だし、「赤とんぼ」は「おわれてみたのはいつの日か」の「おわれて」はなにに追われたのだろうかと不思議な曲だ。「五木の子守唄」なんていまもミュージシャンに歌われたりするが、なにが大人をひきつけるんだろうと思う。

 この本はシンガーソングライター、音楽プロデューサーの書いたものであり、続本がつぎつぎと出されたようにけっこうヒットしたようだが、ちょっと雑学レベルにとどまっていて、アカデミーなレベルの深みに達していないようで、そこがちょっと不満かもしれない。子どもの童話と思われているものもフロイト派やユング派の心理学者や歴史学者がたくさん入り乱れて豊穣な解釈に迫っている。童謡にも可能なはずである。いや、どんなたわいもないものと思われているものにこそ学問の入り込む価値のあるものだといえるだろう。

 童謡というのは意味もわからずに聞いたり、歌っていたりしたものだ。大人の目線からふたたび聞きなおしてみると、深い洞察や解釈が可能であったことに気づく。童話だって同様だ。こういうものに深い意味を掘り起こす能力こそ学問や知力というものだろう。

▼いや~、癒されますね。泣けてくるものもありますね。むじゃきだった子ども時代を思い出します。意味を考えて聞いてみてください。















童謡の謎〈2〉―案外、知らずに歌ってた (祥伝社黄金文庫) 童謡なぞとき―こんなに深い意味だった (祥伝社黄金文庫) 本当は戦争の歌だった童謡の謎 (CD付き) こんなに深い意味だった童謡の謎〈3〉 謎とき名作童謡の誕生 (平凡社新書)
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