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05 21
2008

書評 心理学

『自閉症―私とあなたが成り立つまで』 熊谷 高幸


自閉症―私とあなたが成り立つまで
熊谷 高幸

自閉症―私とあなたが成り立つまで


 このような自閉症の本を読んだのは、特殊な話であるが、数年前に私は心や感情のコントロールを手に入れるために瞑想の訓練をおこなっていたのだが、耳の感覚が鋭敏になってしまい、他人の声にいつも「聞き耳」を立てているような状態になってしまったからである。言葉でいってもわかりにくい感覚であるが、いっしょの場にいる「会話関係の外」にいる人たちの声も耳に入りすぎて、困っている。

 他人の会話や他人の関心への感覚が鋭敏に強くなりすぎているのである。ふつう人は他人の声や会話は聞こえていても、遮断や関心外におくことができるものだが、私の耳は瞑想の訓練のせいでこの障壁がどうも弱くなったようである。

 困っているところで気づいたのだが、自閉症の子どもというのは他人に関心をもたないし、他人の存在を気にかけないという特徴がある。もしかして私に必要な失われた機能というのは、この他人へ無関心への障壁ではないかとあたりをつけて、自閉症の本を読んでみたわけである。

 私の悩みにこの症状が効くかはわからないが、自閉症というのは人間の発達成長の不思議さを教えるものであるし、なによりも人間と時間、または言葉という人間存在の根源をうきぼりにする症例を呈していることに驚かざるを得ない。分裂症あるいは統合失調症の症例のような哲学的問いを発せざるを得ない特徴をもっているのである。

 自閉症の子どもは早くに言葉を発することがあるのだが、ある時期から失われてしまう。ふつうの子どももそのような危機をへて、言葉の発達段階をとげてゆくようである。語彙が増加するのはちょうど動詞を覚える時期と重なる。動詞というのは「もの」の世界ではなく、「こと」を表わす世界である。「ワンワン・キタ」「リンゴ・オチタ」のように時間的変化、出来事をあらわすものである。

 さっきまであったのに「いま・ここ」にないもの、またはさっきまでなくて「いま・ここ」にあらわれたもの、動詞はそのような時間の変化の中の存在・非存在をあらわす。言葉が必要なのはまさに「いま・ここ」にない時間をあらわすときではないだろうか。時間的な不在の中で言葉は必要となり、生まれたのである。自閉症はこの時間の感覚を育てるのに失敗するのである。

 自閉症の子どもは時間的な変化の中で動くものに対応するのが苦手で、動かない、いつまでも待っているような機械や文字が好きである。時間の中で動いたり、変化したりするものに対応できないのである。とらえどころがなく、一義的でないものに困難をきたし、たとえばふつうの子どもでも多義的な存在である「ママ」より、一義的な限られた存在である「パパ」のほうが呼称が早いこともあるようである。

 自閉症の子どもは他人の心を読めなかったりするが、おじいちゃんにファミコンをもらうと、「オジイチャンニ ファミコン アゲタ」と表現したりするし、「ヒロクンヲ タタイタ」というと、ぎゃくにヒロ君にたたかれていたりする。

 私たちは世界の中心にあるのに、自分の姿が見えない。過去を思い出すにしても、思い出しているいまの自分を見失うと、現在という時間は失われてしまう。自閉症の子どもはときに「透明人間」のように他人のお菓子をとったり、会議中の部屋でTVを見出したりと、あたかも自分の存在がないようにふるまう。時間の中に存在する「自分」という存在あるいは虚像をつくりだすことに失敗してしまって、まるで自分が「存在しない」かのようである。つまりは時間の中の「私」をすっぽりと欠落しているのである。

 「自分」や「私」というのは時間のなかで捉える「自己像」といっていいかもしれない。時間の感覚を捉えそこなった子どもは、時間の中で計画したり行動したりすることに失敗し、時間のなかで予測したり把握したりする他人の心も読めず、そして時間の中で生まれる「自分」という存在をつくることにも失敗してしまうのかもしれない。自閉症あるいは人間の「自我」の発達段階というのは、この時間の把握にこそあるものかもしれない。

 時間の把握からこぼれ落ちてしまった子どもたちは、捉えようのない変化のある世界の中で、心の中で時間的な自己を育てることに失敗し、自分を見失い、そして時間的な他者を見失い、対応能力を失い、そのような恐怖の世界で自閉症特有のこだわりやルーティン行動に固着してゆくのかもしれない。

 かれらが陥った陥穽はひじょうに哲学的な世界であり、そして人間が成長し、言葉と時間の文化のなかに入ってゆく際に必要な通過儀礼なのだろう。時間の把握につまづいた子どもたちは、自己や他者の存在を失ってゆくのである。言葉と時間と私という三つ揃いの関係が、私たち人間をつくってゆくのである。


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Comment

何故かこのブログを見るのが日課になってしまいました。面白いうえに、何となくうえしんさんの関心事と僕のそれがとても共通していて、不思議な気分になります。
自閉症は僕の周りにはあまりいないようなので、あれこれ薀蓄を述べることは出来ないのですが、ちょうどおじいちゃんが痴呆になっており、僕の顔を見ても、「あなたは誰?」ということが多くなりました。
人が誰だか分からない、ということは自分が誰かわからない、つまりデカルトのいう「自分」はないのかもしれません。
自分の自覚を失ったら即、もう自分ではない、というのではなく、またこれが新しい自分じゃないかな、と思ったりします。
自分が誰だか分からなくてもそのわからないおじいちゃんが僕のおじいちゃんなのだ、と思うようになりました。
「自閉」している自己もまた自己のような気がします。

雨宮さん、こんにちは。

私の関心というのは社会でどう生きるか、社会とはどのようなものか、といったあたりだと思いますので、そのような関心領域が重なるのかもしれませんね。

おじいちゃんはだれだかわからないというそうですが、なるほど、自分がだれかわからならなくなるということと同じというのは鋭いですね。

言葉であれ、自己であれ、除外してゆくものが対象といえますね。あれではない、これではないと除外してゆくことによって、それを指し示せます。

自閉症はどうも時間の把握の失敗に端緒がありそうですね。非在のものを指し示す必要から言葉が生まれ、時間観念と自己概念はそこで積み重ねられてゆくと思われるのですが、自閉症は過去と記憶、それを見ている現在の自分という関係把握に失敗して、他者の心や行動の把握も失敗するようですね。

過去というのは思い出しているときにはそれは現在になりますね。おそらくその過去を過去と把握できずに現在と把握してしまう症例が自閉症にあるようです。現在の私という結束点を構築できないようですね。そんなあたりからいろいな問題が生まれてくるのでしょう。

自閉症の時間感覚、および時間と自己の関係をもっと考察しないと理解が深まらないのですが、私事にいろいろなことがあり、考察が深められるかは運次第になりそうですね。。

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