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05 15
2008

芸術と創作と生計

『クリエイティブ資本論』 リチャード・フロリダ


クリエイティブ資本論―新たな経済階級の台頭
リチャード・フロリダ

クリエイティブ資本論―新たな経済階級の台頭


 アルヴィン・トフラーが「第三の波」とよび、ダニエル・ベルが「脱工業社会」とよび、ピーター・ドラッカーが「知識労働者」とよび、堺屋太一が「知価革命」とよび、ロバート・ライシュが「シンボリック・アナリスト」とよんだものを、新しい著者は「クリエイティブ・クラス」とよぶ。

 リチャード・フロリダのクリエイティブ本はよく読まれたようであるが、先に翻訳された『クリエイティブ・クラスの世紀』(2007)はビジネス書によくあるようにもう書店では手に入らず、新しく翻訳されたこの本のほうを読んでみた。

 このクラスは先進国の三割を占めるようになり、おもにそれは科学者、技術者、建築家、デザイナー、作家、芸術家などをさすそうだ。都市経済学を専門とする著者はなぜある都市にはクリエイティブ・クラスが集まり、ある都市は没落してゆくのかを考察し、クリエイティブ・クラスに魅力的な都市の要素を抽出してゆく。ボヘミアンのような変人・奇人のたぐいでも寛容な都市にクリエイティビィティは集まるという。

 私はこの手の本は否定的というか、警戒的に読む。トフラーやドラッカー、堺屋太一らが予測したような知識社会とよばれものはたしかにやってきて、このようなブログやインターネットは現実に現出したわけだが、この手の本はまるで「ライフスタイル消費」や「階層消費」、「クリエイティブ消費」といった広告・宣伝を煽っているしか思えないのである。

 「クリエイティブな消費をしろ」「クリエイティブな人格になれ」と消費を煽られているにしか思えないのである。そして「クリエイティブな服」を買って、「クリエイティブな行動」をして、「クリエイティブなライフスタイル」を展開するのである。まるで広告・宣伝に釣られているだけに思えてしまう。

 クリエイティブさを煽られる私は、または知識社会に乗り遅れないようにとあせる私は、現実の職業社会にそのようなものを脅迫的に追い求めるわけだが、もしこのクラスが三割としたらあとの七割はそのような要素とまったく無縁の労働につかなければならない。日常の用途や生活を充足させる仕事が大半であるし、おそらくこれからも大半の人がそのような仕事につかなければならないだろう。

 「クリエイティブ幻想」、あるいは「クリエイティブな青い鳥」を強迫的に求めてといった状態になるのである。そしてここにも、どこにもクリエイティブはないと転職をくりかえし、青い鳥は見つからず、不平不満を若者はかこちつづけるのである。現実にはクリエイティブさは日常にない。クリエイティブは日常では発揮されない。日常の用途や生活を満たす仕事が大半である。

 クリエイティブさに煽られると、高級品やブランドばかり買わされ、豪奢な消費におぼれ、そして仕事はつまらない、輝きや精彩がないと転職ローリングへと転がってゆくのである。「ノーウェア・ランド(どこにもない国」をさまよいつづける夢遊病にかかってしまうのである。

 この手の本は社会経済の分析というよりか、クリエイティブ消費の宣伝広告、クリエイティブさへの煽りや強迫となってしまって、芸術家を夢見て、作家で一山当てることをめざして、音楽で大成功をおさめることを願って、日常や労務がつまらなくて、精彩を欠き、廃墟に見える心象をつくりだしてしまうだけではないのかと思うのである。

 とどのつまり、私もそういうクリエイティブさをもとめ、日常の自分のつける仕事のつまらなさ、くだらなさにながく悶絶してきたからそう思うのである。クリエイティブな仕事につける人は問題ないだろうが、大半の人はそうでない仕事につかなければならないだろう。そうなれば、このクリエイティブ志向は私を責め、苦しめ、いたぶりつづけることになる。クリエイティブさは私を「拷問」する「責め道具」になるわけである。「知識労働」という概念もそうである。

 どうもさいきんの若者もそういう「病」にかかって転職をくりかえすそうだから、「クリエイティブ災禍」とよべそうである。今日はクリエイティブさという「青い鳥」をもとめてさまよい、またクリエイティブな「裸の王様」がたくさんいるようである。もちろん青い鳥は私になにかの力や機会を与えるかもしれない。しかし地雷を踏みつづけたり、落とし穴に落ち込みつづけるようなら、災厄である。

 クリエイティブの「シーシュポスの神話」、またはハムスターのクリエイティブな滑車を永久に走りつづけないために、私たちはこの「クリエイティブ幻想」というものに要注意しなければならないようである。クリエイティブさは私たちの求めてやまないものかもしれないが、同時に「責め苦」でもあるようである。クリエイティブ幻想には距離と醒めた目と、現実感覚が必要なようである。「渇!」


知識労働を予測した本

第三の波 (中公文庫 M 178-3) アルヴィン・トフラー
第三の波 (中公文庫 M 178-3)
脱工業社会の到来 上―社会予測の一つの試み (1) ダニエル・ベル
脱工業社会の到来 上―社会予測の一つの試み (1)
ドラッカー名著集8 ポスト資本主義社会 (ドラッカー名著集 8)
ドラッカー名著集8 ポスト資本主義社会 (ドラッカー名著集 8)知価革命―工業社会が終わる 知価社会が始まる (PHP文庫)ザ・ワーク・オブ・ネーションズ―21世紀資本主義のイメージ

クリエイティブ・クラスの世紀 Who's Your City?: How the Creative Economy Is Making Where to Live the Most Important Decision of Your Life 未来をつくる資本主義 世界の難問をビジネスは解決できるか [DIPシリーズ] 価値を創る都市へ―文化戦略と創造都市 東京、きのう今日あした (NTT出版ライブラリーレゾナント (043))
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Comment

この本、読んでみました。うえしんさんが危惧している「クリエイティブ災禍」はそれほど心配いらないような気がしました。免疫の弱い、思い込みの激しい若者が読むような本ではないし、危ないのはせいぜい船井理論にすぐにのめりこんで破綻していった一昔前のモノを考えないアンポンタン経営者くらいではないでしょうか、なんちゃって・・・。
「クリエイティブ幻想」だけに限らず「知的幻想」や「セレブ幻想」などは我々世代は陥りやすい罠かもしれません。
今思えば僕も多少そうですが、中沢新一や浅田彰、松岡正剛などといった知識人に憧れ、現実世界と解離してしまい、人生を狂わした友人が高学歴に多いような気がします。
うえしんさんの視点はスタンダードな世界では拝見することの出来ないような刺激的な興奮がありますね。これがブログのいいところですね。

雨宮さん、こんにちは。

この本は400ページあるぶあつい本で、読み終えるのはそうかんたんではなかったでしょう。
クリエイティブ幻想に追われてきた私としてはそう楽しんで読めたわけではないですし。

消費社会というのは人々の憧れを煽り立てて、人々を消費に向かわしめますね。「クリエイティブ幻想」や「個性幻想」、おっしゃるような「知的幻想」、「セレブ幻想」、いまなら「お笑いタレント幻想」みたいなものもあるかもしれません。

マスコミに煽られて私はそうならなければならないと煽り立てられる。することといえば、金で買える「そのような自分」を購入するだけですが。

金でそのような「自分」を買ってゆくのですが、じっさいの自分はそうではない。金で買えるものは「私」ではなくて、ただのモノやブランドであったりします。そのような幻想に私たちはたたきつけられ、殴られつづけているのではないかと思います。

私はこのような「憧憬幻想」の恥ずかしさや痛々しさというものをずっと感じて気がします。でも私の根源のところをずっとつかんでいて、なかなかそのような幻想から離れられない。

消費社会というのは因果なものだという気がします。理想の自分を買いつづけて、でもじっさいの自分はそうではないという気がかり、後ろめたさ、ウソっぽさをずっと感じていなければならない。

このような幻想――「裸の王様」といってもいいのでしょう――からきっぱりと離れることのできるような心理的考察に出会いたいものです。私たちは消費の憧れからきっぱりと離れられないものなんでしょうかね。

思うのですが、「○○幻想」というのは我々が生きていくためには多少は必要なのかもしれなせんね。
またどこかで「裸の王様」を自分だけは裸でないと思いながら、求めているような気もします。そこからきっぱりと離れられる心理的考察って何でしょうね?それを求めてまた新たな幻想を垣間見ているのかもしれませんね。
消費は自分が自分であると言うことの確認の方便として最も便利なツールですかね、とくに考えることが面倒くさい人たちにとっては・・・・。
僕のようなクールで、妙に冷めた、軽薄な人間からすると幻想もまた便利なツールになるのまも。
すみません、ヘソマガリなコメントで・・・・。

たしかに今日は「個性神話」とか「クリエイティブ幻想」というものが、この消費社会で生きる人生の牽引役になっていますね。
消費社会の人生の最大の楽しみ、喜びがそのような「カッコイイ私」、「優れた私」をショッピングセンターで買うことになっていますね。

冷戦時代、ソ連とアメリカはそれぞれの国家の繁栄ぶりを消費の華やかさや充実ぶりを世界にアピールしながら闘い合っていたわけですが、日本人はアメリカの消費社会のぴかぴかした繁栄ぶりに魅かれて今日の消費社会をつくったということがいえますね。

私たちの最大の楽しみ、喜びであるわけですが、やはり懐疑や裂け目が私たちにきざさないということはないと思います。
高校時代、ファッションに凝った友達はいつもなんで服に魅かれるんだろうと疑問をぼんやりともっていましたし。
楽しみながらも、やはりなにか違うんではないか、人生の目標や充実はほんとにここにあるのかという懐疑や疑問は、よりよく生きるために必要な問いであると思いますね。

できれば消費の「優越幻想」といったものはこれからも分析していきたいものですね。

No title

「知価革命」の話は確か堺屋太一のエッセイで読んで知ったのだが、ものごとをブランディング化して付加価値を高めるというビジネス戦略としては、なるほどとうなずけるし、今後製造業の現場が新興国に移っていくであろう中、日本が世界の中で生き残っていくには必要な戦略ではあるだろう。しかしそれに踊らされる日本人は多かったと思う。
日本は欧州のような階級社会ではない。ルイヴィトンなどのブランドものを持つ階級はおそらくアッパーミドルとよばれるクラスと思われるが、日本では低所得者用の団地に住むような人達も持っていたりする。欧州人から見れば信じられないのかもしれないが、グループメンタリティに支配された日本人はみんなと同じようなブランドの品を持っていないと心が満たされないのかもしれない。個人の勝手ではあるが、年収300万円台の人達の選択としては良いとは思えない。バランスが悪いのだ。また服や飾り物は一流でも、中身がそれについていくのには2、3世代かかるものなのではなかろうか。
車にしても男が軽自動車に乗るのは恥ずかしいという風潮もある。これも個人の勝手だが低収入者がローンで高い車を買う必要もないと思うのだ。
それでも最近の若者達の中で足るを知るというか、先の価値観とは違った若者達が出てきた。最近の若者は車に乗らないというが、これだけ鉄道網が充実した日本国である。なくても生きていける。今まで自家用車の所有率が異常に高かっただけのことではなかろうか?車は購入費だけでなく、免許、保険、税金、整備費、ガソリン、駐車場代などかなり金がかかる。低所得の若者が無理することもないのだ。
この新しい感覚の若者達はいう。「ブランドものではなくても良いものは沢山ある。」と。それはブランドものを追いかける生き方よりも別の生き方も沢山あるということなのだろう。
バブルをしらない若者達とか草食系とかいわれる世代だが、目の前の人参に興奮しない冷静な若者が出てきたともいえる。単に携帯電話代やネット代とかの新しい出費にお金を使わなければならないからかもしれないが。
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