『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか』 城 繁幸
3年で辞めた若者はどこへ行ったのか―アウトサイダーの時代 (ちくま新書 (708))
城 繁幸

日本の出口のない閉塞状況の元凶は企業社会にあると思っている。おもしろくないのである。生きている楽しさが、企業や仕事の中からまったく生み出されない。日本の社会というのは人生の楽しみや謳歌をまったくつくりだすことができずに、ただの企業労働マシーンとしか機能せず、人々の生きる楽しみ、喜びを抹殺するシステムをずっと継続しつつづけている。「終わりなき日常」「終わりなき生産マシーン」といったものは回転木馬のようにとまることはないのである。だから死にかけの日本社会は経済ともに奈落に落ちるのである。
年功序列のポスト不足で出世はみこめない、正社員の賃金の上昇もおさえられ、長時間労働の滅私奉公はあいかわずつつぎ、中高年の雇用規制の既得権益は、若者をフリーターや派遣といった非正規雇用に追いやり、なんとか自世代の食い逃げのみを画策しようとする。旧来のサラリーマンを守ろうとする労働組合は特権階級となり、ぎゃくに若者の犠牲と搾取のうえに自分たちの権益を守るという皮肉な逆説におちいってしまったのである。
どうやら踏み台にされつづける若者はそのまま中高年のイスやカーペットとなりつづけるか、あるいは反逆や対抗や逃避を試みるか、明瞭な図式ができあがってきたようだ。日本の改革のいちばん重要な根幹というのはこの企業社会の形態、人生観といったものなのだが、日本人は自らこの人生の労働不幸マシーンを改革できるのだろうか。
企業社会やビジネス社会というのはいつも「変わる、変わる」といわれてきたものである。私は基本的に日本社会は変わらないと思っている。この城繁幸の著作では、昭和的価値観を投げ捨てたアウトサイダーの生き方が紹介されていて、社会は変わるとアジられているのだが、おそらく年功序列とか日本の企業社会は根本的に変わらないと思っている。
何度も変わる変わるというビジネス書を読んできて、私はすっかり世の中なんか変わらないんじゃないかと諦観してしまった。むかしのビジネス書を古本で手に入れたりすると、年功序列は古い、これからは能力給の時代だといわれていたりする。その出版年次をみるともう30年前や40年前の本だと知ってがっくりとくる。同じ変わる変わるといわれてちっとも変わっていないことがまた今年も新しいビジネス書によって新しい変化だと唱えられているのである。もう私はビジネス書というか、人間の働き方、組織の形態というのはテコでも動かないものではないかという観念するようになった。
これは新しい変化というよりか、主流の生き方と傍流の生き方の対照でしかないと思う。いつだって年功序列の安定大企業の生きかたは変わらずに主流に位置するのだろう。そして傍流は「新しい生き方」だといって、主流からそれた価値観や生き方を提唱するのだが、主流の生き方は主流の生きかたでありつづけ、変わらずに社会のメインストリームを占めつづけるのだろう。主流の生き方に不満をもったのなら、多数が変わらずとも、自分の生き方は自分自身の責任と自信をもって生きるしかないのである。主流は安定と継続のみを願うものである。
この本の著者の城繁幸は東大卒で富士通の人事マンとして働いてきた一流エリートで、底辺的な地にはうようなフリーター・キャリアを重ねてきた私には、この人の著作に共鳴を感じることは少ない。フリーターに共鳴はあまりもってないだろうし、ニートなんてほぼ理解できない人のようである。共鳴の共通項は「若者」というカテゴリーのみのようである。若者が犠牲になる日本という社会は変えなければ悲惨な未来が待っているという危機感のみが共鳴を誘う。
この人は「企業人間」であって、あまり人情的な社会的共感の要素をもっている人ではない。フリーター本や格差社会論とちょっと違和感を感じる性質はそのよう背景からかもし出されているようである。
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コメント
お久しぶりです
現今の非正規化はひどいものがあると思います。
人権無視というか、搾取や差別がひどいと思います。
平等社会の理念に泥を塗る、つばをはきかけるようなことが平気でまかりとおっていますね。
学校で習ったような民主制とか平等の理念はどんどん経済のなかで流されているようです。
まあ、世の中とはそのようなものかもしれません。
強いものが勝ち、力のあるものが力を得て、そして弱者を従える。
古今東西、世の中はそのようなパワーゲームでつづいてきたのでしょう。
そのような権力の世の中であっても、強いものが弱きものを助け、弱きものが強きものを尊敬するような社会も可能であると思います。
そのよう社会も弱きものは自由に多様に生きられる可能性もあります。
格差社会に落ちてゆくのなら、せめて勝ち組は社会に尊敬される存在になり、負け組は自由に多様に生きられる社会になってほしいものですね。
せめてもの希望ですが。
格差社会は憧れられる勝ち組がつくられるかどうかが、社会に受け入れられる岐路になるのだと思います。
平等社会はみんな平等であるけれども、突出した尊敬される人はなかなか生み出されません。格差社会にそのような効用が出てくるものか、しばらく観察してみるのもいいかもしれませんね。
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大企業の利益は人件費の圧縮(非正規雇用の大量採用)によって支えられています。
非正規雇用の増大は ワーキングプアやネットカフェ難民を生み出した。
非正規雇用とは、いわば使い捨て要員です。
ここには人間らしさや人間の幸福はまるでありません。
我々人間はなんのためにこのような社会を形成しているのか?
人間の幸福のためではないのでしょうか。
経済というシステムは人間の幸福のためになければならない。
使い捨て人間を生み出す社会を容認してはいけません。
低収入で、現在にも将来にも不安定な非正規雇用の増大が、
人間を人間とも思わない社会が、最近の目を背くような犯罪の
増加に繋がっているような気がします。