活字が排除するもの
いまからもう20年前になるだろうか、ワープロという機種があった。それまで雑誌や本の活字は専門の印刷業者でしか印刷できず、ふつうの人は手書きの文字しか書けなかった。それがワープロという機種をつかうと、専門の印刷業者のような活字を自分の手で打つことができるのである。
まるで専門家が文章を書いた完成された作品を見ている気がした。いまはワープロという機種はパソコンのひとつのソフトとしてとりこまれて、ワープロという機種はお目にかかれなくなった。いまはパソコンやブログで当たり前のようにだれもが活字のキーボードを打つようになった。かつて専門業者の専売特許だったものはだれのものにもなったのである。
手書きの文字というのはひとりひとり、かなり個性のあるクセのある文字が書かれるものである。すこし見慣れると、とたんにだれが書いたのかすぐにわかる。性格や個性が文字にあらわれる。書かれた文字はその人が書いた独特のクセから、その人の性格や趣向、雰囲気といったものをかもし出すものである。筆跡心理学といった学問もあって、文字のクセから性格が見とれるとも聞く。
たとえば、私のこの文章はキーボードで打たれているため、私がどのような性格であるとか、どのような人間が書いているのか推測しにくいだろう。
しかしつぎの写真は私がブログの考察のアイデアを書きとめるためのノートに書いた文字である。アイデア帳であるためかなり雑ですばやく書いてあるが(私はていねいな字やきれいな字はあまり書きたくありません(笑))、なんとなく私の人となりや個性が見えてきそうな文字だと思う。この汚い達筆(?)から、多くの人の筆跡を見てきたあたなはどのような性格を想像するだろうか。

手書きの文字というのはこのような個性や人となりをあらわすのである。活字やキーボードはそのような情報や手かがりを排除する。
活字やキーボードは手書きの文字から透ける性格や性向みたいなものを抜きとってしまうのである。そして文字というのは、その言葉が考えられたり、話されたりする場からはぎとられるものである。人が考えているとき、表情や面持ちが他人からは見えるだろうし、考えが話されるとき、どのような表情で、どのような声や雰囲気で話されるかということも見たり聞いたりすることができる。
しかし文字というものをそういうコンテクストをすべて排斥する。表情や顔、しぐさや身振り、場所、ロケーションといったものからすべて抜き去られ、声質や声の内容、その声は明るいのか暗いのか、自信があるのかないのかといったコンテクストもすべて排除されたうえで、文字は抽出される。
文字はどこにでも流通される代わりに、ほかの多くの情報を排斥するのである。一回かぎりの、その場所でしか存在しないものから抜き去られるのである。その場所でしか体験できないものから、文字だけを抽出したから、その言葉は流通できるものになったといえる。
文字というのは人の考えや思いを多くの人につたえるメディアになった。しかしその人の顔や表情や、声音、雰囲気、しゃべり方といった重要な情報をつたえることはできない。もし身近な人がある考え方を披露していたら、顔や表情やその人の性格、声のトーンなどでその考えや内容はもっと判断の材料を与えたことだろう。はっきりいえば、身近な人とかかわる際、その考えや内容より、顔や表情や声音のほうがもっと大事であるといったばあいのほうが多いだろう。「あ〜、この人がまたこんなことをいっているとか」とか性格が透けた上の発言であるから、もっと話されたことへの判断やジャッジは容易なのである。顔や声質により、その考えが立ち上がる性格のクセを見透かしてしまう場合もあるだろう。
文字や言葉というのは、時間や場所といったコンテクストから、言葉だけを抽出したものである。だからこそ、時間と場所を超えた流通を可能にした。おかげでわれわれはアメリカ人やアフリカ人の考えた文章を読むことができるし、二千年前のギリシャ人、ローマ人の書いた文章も読むことができる。しかし私たちはその言葉が考え出され、話された場所で顔や表情や声音を見聞きしながら、その言葉を聞くことはできないのである。
写真もそうである。写真は世界のどこの国でも、あるいは写真が生まれたどの時代の風景も、われわれは見ることができるのだが、音や匂いや風やその場所をじかに感じることはできない。光景や風景だけが切りとられるだけである。マーシャル・マクルーハン風にいうと、「目の延長」だけが切りとられ、「耳の延長」、「鼻の延長」でその風景を感じることはできないのである。流通を可能にするメディアは、ほかの五感の「延長」を排除するのである。空間だけではなく、時間も抜きとるのである。
流通を可能にするメディアというものは、ほかの五感で感じられる情報の多くを排斥するのである。空間や時間から抽出されたものであるからこそ、その「まがいもの」は世界のどこにでも流通するのである。貨幣というものもそうであるかもしれない。貨幣で交換される食べ物や製品は世界のひとつの場所、ひとつの時間にしか存在しないものであるが、貨幣はそのような存在を時空を超えたどこにでも流通する「抽象物」に変換してしまうのである。
文字や言葉はその話された人の顔や性格、場所や時間といったコンテクストを排除されたところから立ち上がる。多くの情報が切りとられ、排除されたところから、その抽象物は流通するのである。いわばそれは大海から釣り上げられた「死した深海魚」のようなものである。その魚は食堂のディスプレイに飾られた魚の「模造品」でしかないのかもしれない。私たちは水というコンテクストから排除された死した魚ばかり見て、生き生きと海で泳ぐ生きた魚とじかに触れることはできなくなったのかもしれない。
流通されるものは画一化や規格化や標準化をこうむる。個性やクセや独自性といった唯一無二性や一時の時間にしか存在しないものやひとつの場所にしか存在しないものの複製をつくりだす。それは大量生産の大量流通、大量消費をひきおこす規格化されたモデルである。類型化され、型枠にはめられた大量生産品となる。手書きの文字はその人一人にしか書けないクセのある文字であるが、活字やキーボードで直されると、すべて規格化された文字に変換される。画一化・規格化は言葉や文字からはじまるのである。
私たちは画一化され、規格化されたメディアや言葉におおく触れ、あまりにも多くの影響をうけたり、依存をしたりしているのだが、時間や場所や個性といったコンテクストから排除された「死した凍結物」であることを忘れないようにしたい。印刷物という大量生産品が生まれる前にはこの世界にはただひとつとして同じものは存在しなかったのである。複製されたものはこの世界にひとつもなかったのである。言葉や文字はその複製品・大量生産品の起源となったのである。
私たちが流通できるものに依存すればするほど、私たちは画一化し・規格化してゆくことになる。私たちは大量生産品のどこにでも、いつでも存在する規格品になるのである。流通されるもののコンテクスト、五感が排除されたものであること――その排除されたコンテクストを想像し、補いながら、その流通されたものに触れたいものである。――というような結語で、この考察は結んでいいのかいまいち疑念が残るが、世界にただひとつしかないコンテクストを大事にしたいものである。
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