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04 06
2008

芸術と創作と生計

サービスはどこからお金になるのか



 私はなぜかモノを左から右に運ぶ責任のない仕事を好んできた。それはたぶん私の仕事に対してお金をもらう自信がないということなのだろう。たとえば創造的な仕事をするとしたら、自分の仕事はお金をもらう価値に値するのか、そのような不安がつきまとう。商品としての価値はあるのか。だから責任をダイレクトにかむる仕事を避けてきたように思うのである。

 さいきん部屋のエアコンがつぶれて、大家にいって新しいエアコンに換えてもらった。お年を召した二人の方が手際よくエアコンをとりかえてくれたが、このサービスにいくらかかるのか知らないが、私にもできなくもない作業にお金はしっかりととられる。

 家を建てたり、車をつくったり、家電をつくったりすることは、しろうとにはかんたんにはできない。時間も材料のとりよせも熟練も必要だし、ふつうはモノに対してお金を払うのには抵抗がない。モノを買うことに対して、どこからお金を払わなければならないのかという疑問はそうわかない。

 農作物は一年あるいはある一定の時間と工夫と手間をかけなければ育たないし、しっかりとしたモノであるから、お金を払うことに納得する。しかし農作物を荒らす動物にとっては、私有と自然のものとの区別はない。「これは私のものだ」といわれても、動物には「私有」の概念がないのだから、土に生える食べ物を食べてどこが悪いのかとなる。

 私たちは栽培と輸送にお金を払っているのであって、農作物が自然に育つことにはお金を払っているわけではないし、そのことにお金がとれるわけがない。農作物は極端なことをいえば、「これは私のものだ」と主張し柵で囲えば、自分のものとなり、お金がとれるものになるといえるものである。

 土地もおかしなものである。私も賃貸マンションに二十年近くも住んでいるが、こんなに長く住みつづけて家賃も払いつづけているのに、ずっと私の持ち物にならない。ひじょうにヘンで、不公平な感じがする。なぜ土地は「だれかのもの」であるのだろうか。土地はなぜ「買われる」ものなのか。たんに強奪とか私有権とか、先住権とかそんな強者の権力で押しつけられている気がする。弱者は強者の権力のうえで借りたり、住んだりしなければならないのである。

 お金を払うことにひじょうに際どい商売といえば、習いものの教室なんかそうである。ピアノとかそろばんとか、習字とか子どものころに習ったりしたのだが、こういう教える商売というのはひじょうにお金の発生が微妙な部分がある。お金を払う価値はどこから発生するのか。たとえば知り合いにピアノのうまい人がいて、かれからタダで教えてもらうのとどこに違いがあるのか。塾で講師に教えてもらうのと、親や知人親戚の頭のいい人にタダで教えてもらうのとなにが違うのか。近くにそのような人がいなかったり、時間がなかったりして、塾の講師に私たちは依頼する。タダで教えてもらうことと、お金を払って教えてもらうことは、紙一重である。

 カウンセリングや精神診療なんてもっと微妙である。ただ話を聞くだけである。専門知識があるからといっても、ふつうに人と話していることになんの違いもない。お金を払うことに価値があるのか、ひじょうに際どい商売である。私なんて精神科医の知識なんて本でわかるのにと思うのだが、人はこの本で理解しようとする手間をなんだかカットしたがるというか、知識のアクセスを知らないだけという気がする。

 占い師なんてもっとヤバイだろう。教師や医者は権威ある専門知識を習得したというお墨付きを文部省なり厚生労働省からいただいているはずたという安心がある。占い師はなんの権威もない、疑わしい知識を売る。マユツバものもたくさん混じっているだろう。もし私が知識をもっていたとしても、とてもそんなことにお金をとる自信はない。まずは知識があったとしても、私にはパフォーマンスや演技、自信あるふるまいといったものが、こなせないだろう。

 商売やサービスというのは、お金を払う根拠や区別がひじょうに微妙なものでなりたっているものである。どこから商品の価値があるのか。どこからお金を払う根拠が発生するのか。もちろんお客がこんなのにお金を払う価値がないと思えばサービスにかからなければいいだけだが、私たちは慣習や前例もしくは商売だからといってお金を払ってしまうということがふつうなのではないか。

 お金を払うことに微妙なものといえば、文学やマンガ、音楽もそうなのである。つうじょうは本やCDというパッケージで売られているため、抵抗なくお金を払える。モノであれば仕方がない。しかしたとえばマンガの立ち読みなんかお金を払わずに一冊まるごと読めるし、音楽もただで街中やラジオ、TVで聴くことができる。情報や知識に対しては、お金の発生はひじょうに微妙なのである。ある意味、空気や水と同じようなものである。むかし芸能の民は囲いや劇場で演ることによってお金を払わない人を閉め出してお金をとれたのである。

 作り手側から見れば、どこから文学や音楽は商品になるのか、お金をとれるのか、その区別はひじょうにあいまいである。出版社や雑誌、音楽業界が判断し、これは商品であると厳選評価してくれたから、商品であるということになるのだろう。しかしインターネットが出現してから、またそのような境界がひじょうにあいまいになった。しろうとでも文学、マンガ、音楽はいくらでも発表できるようになったし、著作物の文章のコピーや音楽のダウンロードもタダでかなり可能になった。占い師やカウンセリング、習い事のようなお金の境界の危うい世界になったのである。もとからこの情報産業というものは境界がかなり危ういものであったのだが。

 商品か、商品でないか、その区別はかなり危ういものなった。コピーやダウンロードも容易なため、お金を払わずにタダで著作物を手に入れられることも多くなった。出版社や音楽業界があったためやパッケージ化のおかげで助かっていた境界が、またもやこんどは大きくふくらんであいまいな区別のひきにくいものになったのである。文学や音楽は宣伝で無料に知らせる必要もあるわけで、そのおかげもあって、もっと境界はあやふやなものになった。

 お金をとれるか、とれないか。私たちはお金を払う気になるか、それとも払わないでいたいか。それは強者や著作権者の都合で決まるものなのか、それともお客の払いたいという気持ちから決まってゆくものだろうか。もちろん人間の歴史をみればわかるように強者や強奪者、権力者の論理で決まってきたものであり、お客は払う価値がないと思うものにブーイングを鳴らしたり、二度とくるかと抵抗してきたものである。サービスの基本はまずは「義を売って利は後から」といわれるが、このあいまいな業界もいつか門戸が閉じられるときがくるのだろう。

 私は自分のサービスや仕事に対してなかなか自信をもてない。お客に払う価値のあるサービスを提供できるか心もとなくたまらない。医者のように生死にかかわる仕事なんて責任が重くてとてもできないと思ったりする。自分は書くことが好きで、そのような仕事にかかわりたいとつねづね思ってきたのだが、自分の書くものがお金を払われる価値のあるものなのか、評価できるものなのか、商品として成立するのかいつも自信がなかった。商品としての基準はどこからなのだろうか。

 たぶん商売の基本はお客に喜んでもらってお金を払う価値があったと思わせることなのだろうから、そのような目を養うということが必要なんだろう。そのような目を自分でもちえないということは、とりもなおさず、自分の創作物にそのような基準がない、そのような目で見えていないということを意味するので、私の創作物は残念ながらお客に提供する価値のあるものというよりか、趣味や娯楽の創作物にしか達していないということなのだろう。おそまつ。

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