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04 05
2008

芸術と創作と生計

クリエイターはなぜサービス残業だらけなのか



 漫画家のさかもと未明が産経ニュースでこういっていた。【めざましカフェ】「漫画家・さかもと未明 勤勉さが世界を席巻」 2008/3/26

 だって漫画って、信じられないくらいもうからない商売なんですよ。1ページにあれだけの絵をいれますから、とにかく時間がかかる。その時間に世間で当然の対価を払っていたら出版社も漫画家も経営が破綻(はたん)しますから、私たちの業界の人たちはみな、驚くくらい劣悪な条件で働くのが当たり前です。公務員の方が先日サービス残業うんぬんとおっしゃっていましたが、私たちは生活全部がサービス残業。当然、普通には暮らせません。富をなすのは一部の人で、ほとんどの漫画家はアパート住まいで一生を終えます。結婚する余裕のない場合も多い。それでも私たちは何度も編集者とやりとりをし、日の目をみない原稿を山ほどかき、命を削って原稿をかくわけです。



 サービス残業や長時間労働、薄給というのは、漫画家やクリエイティヴな業界、アニメーターなどで聞かれることである。クリエイティヴな世界は華々しい反面、労働基準的にはかなりハードというか、壮絶な労働が多いようである。

 なぜかを考えてみる。まずは基本に企業に雇用される労働とちがって、漫画や絵画、音楽などは契約的な労働からはじまるというよりか、趣味や娯楽の延長としてある。賃金の対価としての労働を提供する関係というよりか、趣味や好きなことをして対価を得るという関係になっている。したがって長時間労働とかサービス残業の観念があまりない。

 売られるのは創作品である。労働時間をいくらかけようが、精魂込めてつくろうが、軽くラフにつくろうが、値段が同じこともありうる。たいして企業に雇用される場合はだいたいは労働時間が売られる。労働者は商品としての対価を得るのではなくて、労働時間を売る。労働者はできあがった商品を売るのではなくて、その時間にできうる仕事を売る。時間内はまるごと人間が買われるわけだが、クリエイターは時間内の労働を売るのではなくて、できあがった作品を売る。したがって時間内においてはなにをしようが自由である。時間と場所に拘束される感が雇用者よりはゆるいのである。

 漫画家のようなクリエイターはできあがった商品を要求される。習熟への期間は、企業においては教習される時間も収入が得られるのに対し、クリエイターはぜんぶ自分もちである。しかも習熟の度合いの測られ方は一定ではないし、熟練度はいくらでも切りがないし、またどんなに習熟しようと評価が絶対になされるとは限らない。人気やマーケットの評価の変化にも翻弄される。かれはマーケットにはじめから完成品を要求されるのだが、企業のようにだれかが教えてくれるというわけではない。自分で学ばなければならないのである。

 趣味や好きなことの延長としての商品であるから、たとえプロになれなくても、プロになって売れなくても、採算度外視の奉仕がおこなわれる。企業の雇用のようにある時間拘束されれば絶対的に給与が支払わなければならないという契約がおこなわれない。どんなに多くの時間を費やそうが、どんなに精魂込めてつくられようが、ボツになって対価が支払われないということも多くある。まったくの無賃労働、報われない奉仕のみの場合もおおいのである。

 それが企業との雇用契約におこなわれれば、労働違反、賃金不払いとして罰則の対象になる。しかしクリエイターの作品は賃金が支払われないばかりか、まったく買い手がつかない場合もある。支払われるアテのない対価にたいして創作労働がおこなわれる場合も多々あるのである。

 ゆえにふつうの企業なら、サービス残業、長時間残業、薄給もしくは賃金不払いの違法労働となることがあたりまえにまかり通ることになるわけだ。できあがった商品に対してのみ対価が支払われ、労働時間や拘束時間に対価が支払われるわけではない。したがって労働条件はどこまで劣悪になる。そもそも時間で換算し、契約された時間と法律で決められた時間を守らなければならない、その時間をはみ出すと残業代や法律違反だという規律をつくることもできない。対価が支払われるのは作品のみに対してだからである。

 時間で拘束される雇用者に対して、クリエイターは時間拘束でない分、自由である。なにをしていようが、いつからやり出そうが、自由である。しかし作品ができなければ、あるいは売れなければ、まったく対価が発生することはない。拘束時間で対価が支払われないということは自由であるが、ぎゃくにいえば、完成するまでどこまで時間に縛られることも意味する。生活全部がサービス残業だというのはそういうことである。雇用者のように勤務時間を過ぎれば、残業規制がかかり、割り増し残業代がつくというわけではないのである。

 近代の社会は工場勤務によって時間単位を売る労働形態が主流になった。出来高制で雇用されることもあったが、おおくは時間給制である。いくらつくったからとか、質のよい作品をつくったから、といって対価が支払われるわけではないのである。時間を売ることによって、近代人はたいへんに拘束の多い不自由な人生を送ることになった。自由になるのは勤務外時間と休日だけである。

 対してクリエイターは作品のみを売るために時間や規則からは自由だが、時間制勤務から見るとサービス残業や規制違反の労働条件がまかり通ることになる。そのような概念がない代わりに、時間に対価が支払われず、時間拘束はぎゃくに無法なものになってしまうのである。

 どのような労働形態、商品形態を売るかによって、われわれの社会の行動規則や支配される思考形態というのも異なってくる。近代雇用者は時間を売ることによって自分の時間を失い、そして時間外を守られるが、事実上はないのごとしになった。売られた時間に自由はないし、人生の大半もそのような状態になり、あるいは感じられる。

 作品を売るクリエイターは時間に拘束されない分、自由であるが、ぎゃくに時間は無法に奉仕させられる。作品に生活が拘束される労働形態に収斂するのである。時間規則労働から見れば、無法状態がまかり通るのである。そして費やした労働時間に時間給が支払われるわけではないし、どれだけ多くの時間をつぎ込もうが、まったくの無収入もありうるのである。クリエイターの作品に時間の労働対価は支払われないのである。

 時間を売ってそれ以外は自由の雇用者と、作品を売って時間は自由だが、時間の対価は支払われないクリエイター。時間の観念や発想の根本も変わってくるだろう。時間を売る労働者は、クリエイターの労働状態を不幸と見るか、幸せと見るか。好きなこと、趣味の延長で仕事ができていいなと見るか、それとも好きなこと・趣味の奴隷・犠牲者だと見るか。時間労働者は労働時間から切り離された「なにもでもない」自由な時間――わずかばかりなものであるが――にささやかな安らぎを見るか。クリエイターは好きなもののために生活と時間と、ほかの労働者のような時間で得られる対価を失い、法定労働時間をはるかに超えてしまうのである。好きなことはもしかして「労働」の観念から抜け出し、そして違法労働という観念もなくなり、かれは幸せなのだろうか。


さかもと未明の著作
他力本願美容道―ほんとうは誰にも教えたくない!恋する虎の巻 (幻冬舎文庫)さかもと未明が教える 女のキモチ―レディコミにみる女のエッチ・男のエッチ殿方、しっかりなさいませ!

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