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03 26
2008

人生論

二十年もたったなんて信じられない



 年をとると時間が早く感じられるとはよく聞くことである。私も高校を出てからもう二十年もたったなんて、いまだに自分では信じられない。大学を出て今のマンションに住んで二十年近くもたったなんて信じられない。20歳からもう二十年もたったことに私はちっとも実感をもてなくて、二十年という月日の早さと軽さに驚くばかりである。

 みなさんも驚いているようで、自分の年齢の自覚がなくて、外側の時間や物事の変化にただ驚嘆しているといった状態がふつうのようである。

 自分の歳に驚く瞬間 発言小町

 浦島太郎の童話はよくできたもので、われわれの時間の感じ方をいっていたのだとしみじみわかってきた。時間は自分の中では「経って」いないのである。まわりの時間が経っているだけなのである。そして何十年もの年月がたったことにただ驚くだけなのである。時がたつというのはそういうことのようである。

 子どものころは時間が長くて、年をとると時間が早く感じられるとよく聞くことばである。なぜ年をとると時間が早く感じられるのだろうか。ネットで検索してみても、いまいちしっくりくる説明がない。哲学の時間論もこの問いとなかなかつながりがなくて、資料に当たれない。あとから探索してみることにして、いま考えられる要因をいくつかひねり出してみたい。

 子どものころは世界が神秘で謎だらけである。新しいことや新奇さと、好奇心でいっぱいである。出来事や物事があまりにも多くて、感動したり、驚くことがらが多いために、つまり情緒や感無量といった感覚が大きいために、時間が長く感じられたのだと思う。ひとつひとつのことがらが大きかったのである。

 対して、大人になると多くのことは慣れっこのことであったり、わかりきったことであり、べつになんの変哲も変化もないことの連続になる。感覚や情緒の重要性が薄れてしまうため、時間が早くたつように感じられてしまうのである。これは「時間」というよりか、驚きや感動などの感覚の大きさや受容量であるといったほうが近いかもしれない。

 また子どものころは「近視眼的」に物事やできごとにぶつかっている。月日や季節がまいとし同じようにくり返されているという自覚より、全体的な視線が希薄で、できごとやイベントに直接ぶつかっている。すべて「新しい」ことで、同じ季節がまいとしくり返されているといった自覚が薄く、新しい出来事にまいとし出会う。巨視的なモノサシをもたずに直接出来事に出会うために、つまり目の前のことに夢中なため、全体を見る目をもてない。子どものころは自分の足のサイズや服のサイズも成長が早いため自覚できなかったことが多々あったと思う。時間の感覚や把握も希薄だったのである。

 驚きや感動や出来事が大きすぎた、だから時間が長く感じられたという説明は、私の中ではまあしっくりくる。心理的な受容量が大きいということは、時間を長く感じさせるのである。年をとると、驚きや感動や好奇心はどんどん狭まったものになり、小さなものになり、赤錆びたものになる。心理的時間はあっという間に去ってしまうのである。

 これは時間というものより、感動や驚きの心理的量をいっているといったほうが近いと思う。心理的な量が満たされているのである。その感動量が少ないと、時間は細びて、しわがれて、枯渇する。心理的印象が薄れて、時間の感覚は短く感じてしまうのである。

 感動や印象や情緒の受容量が減る、それが子どもと大人の時間の違いを説明するようである。大人になると、世界はもう「開かれていない」のである。「閉じられている」のである。神秘や好奇や謎はもう存在しない。そのために心理的時間は短く感じられるのである。

 いやなときは長く感じられるとよくいわれる。反対に熱中しているときは時がすぐにたつといわれる。では子どものときはいやなことが多かったのか。子どものときはぎゃくのように思う。熱中していることが多かったが、時間は長く感じられた。大人になるとべつに熱中していなくても、時間はあっという間に去ってしまう。そのとき感じる時間の感覚と、ふりかえって感じる時間は、その長さの感覚が違ってくるのだろう。

 大人になるとほんとうに時間が去るのは早くなる。えっ、もう十年たったのか、もう二十年もたったのかと驚くことしきりである。はっきりいって飛び去る月日の感覚がなくなっているといったほうが近いかもしれない。中身のほうは年をとった感覚がほとんどなくて、外的な時間だけがたっているというのが、年をとることの実情かもしれない。40代や50代になっても、自分がそんなに歳になっているなんて実感が薄いまま、人は年をとるものかもしれない。私はいまの自分が40歳になったなんていまだに信じられない。まだ20代半ばのような感覚でいるのである(「あまり年齢感覚のない私。」)。

 月日の感覚の早さは、なにかこの世の拘泥するものが少なくなったということなのかもしれない。記憶や情念や神秘のぶあつさというか、深みというか、そういうものが失われたことによるものなのだろうか。日めくりカレンダーが風で吹き飛ばされるような月日の早さである。過ぎてしまったものはあっという間である。ふりかえってみて、月日の速さにただただ驚かされるばかりなのである。

 もう少し時間について考察したかったが、時間は存在しないという考えと絡めて時間の早さの感覚について問うてみたいと思っていたが、準備不足で、また次回にゆずろうと思う。

 ところで私は読書のジャンルをひとつのジャンルに縛られるのではなくて、未知のジャンルを追究することが好きである。いったら子どものころの世界に感じた神秘さや謎や、不可解さのドアを探してつづけているようなものである。未知で謎の多い世界は、既知のくりかえしの世界のように時間を早く感じさせない。私は時間の早さに歯止めをかけるような意味で、未知の世界にのりだしてゆくのかもしれない。みなさんも時間を大切にする意味で、つねに未知の世界のドアを開けるよう心がけてはいかがですか。

 
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戒厳令

今晩は。

1987~88年頃といえば、激動の時代であったと思い出されます。

昭和が終わり、平成に入ったわけですが、世界では天安門事件、東欧革命、そしてベルリンの壁崩壊という大事件が(まるで連鎖反応するかのように)起きました。

何で日本はこんなに平和なんだろう...という思いがありましたね。

そういえば、以前、うえしんさんは住み慣れた郊外を離れる経緯をエッセーに書かれていましたよね。
大阪の事はよく存じ上げませんが、東京の郊外というのも様々な意味で住み辛いです。

ピンクフロイドの“The Wall” という曲がありました。
精神の壁、時の壁を取り払いたいものです。

とりあえず...
http://jp.youtube.com/watch?v=0SlKA2Rgq20

たいく~んさん、こんにちは。

20年前といえば世界は大きく音を立てて変動していたのに、日本はその変化に気づかずにバブルのこの世の春を謳歌していましたね。社会主義の潮流がまったく終わってしまったということの意味を理解せず、いまごろようやく市場主義でなきゃダメだと規制緩和で血を流しつづけるといったことになっていますね。

もうあれから二十年もたったのかという感慨はまったくないですが、子どものころの二十年前はなんて大昔なのか、テレビで見るむかしの画像はものすごく昔のことに思えたのですが、二十から二十年たつと自分の中ではちっともそんな感じがしないのが不思議というか、それが大人になってからの月日の感じ方だとあらためて知ったということわけですね。

いまの子どもはバブルのときのころをなんて大昔なんだ、きっと白黒のテレビを見ていたんだとか、旧石器時代のように大昔(笑)だったんだ、と思ったりするのでしょうね。いや~、時間のたち方、感じ方というものは恐ろしいものですね。子どものときは時間を無限に感じられるから、十年二十年前を大昔と感じるのでしょうね。

時間を歌った歌といえば、マイク&メカニクスとアランパーソンズの曲が私には印象深いです。生きている間に後悔を残したくないものです。

The Living Years - Mike and the Mechanics
http://jp.youtube.com/watch?v=NqQM-HoFeEk

TIME - The Alan Parsons Project
http://jp.youtube.com/watch?v=QJi2t5IXFZA&feature=related


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