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03 23
2008

芸術と創作と生計

売れない画家に学ぶこと



  inadakouji.jpg ストリート・アーティストの絵
 

 いつものことだが、私はひとつのテーマを考察するさい、問いが明確ではなく自分でもなにを問うているのかわからなくなり、問いも拡散する。

 こんかいは「芸術と創作と生計」という周辺あたりをテーマにしているらしいのだが、私の考察はいま手に入る書籍に依存することがおおく、こんにちそのテーマが考えられていることは少なく、こんかい早くもテーマが終息しそうな予感が出てきた。

 一本の明確なテーマはおそらく、「売れなくても創作しつづける根性を学ぶ」あたりかもなのしれない。生活のためにつまらない仕事に時間や人生を奪われる私にとって、売れなくとも芸術至上に生きた芸術家の人生に学びたいということなのである。安定や保障が大事な世の中にあって、そんな基準を逆さまにして、自分の創作のほうを優先順位にした芸術家に学ぶことはないのか、というあたりなんだと思う。生活のために不本意な仕事につくことは私の真意ではない、ということなのである。

 一方の道には企業に就職しての安定の道がある。一方の道には自分の才能に賭けて売れない画家の人生を選ぶ道もある。後者の選択をした人たちにその根性を私はいただきたいと思うのである。

 芸術というのは、評価のひじょうに危うい世界だと思う。芸術の評価の明確な基準や範囲といったものはないと思う。ゴッホやピカソやゴーギャンのような過去のだいたい評価が定まった大画家とちがって、こんにち売り出そうとする若手画家に評価が定まることはない。海千山千のものに高い評価を与えられることは少なく、というか選択眼をもった人に出会うことも少ないだろうし、売れることも少ないだろう。売り物になるかすらの基準さえ怪しいのではないだろうか。たとえば路上でテキヤのように絵が売られていたとしても、だれが高い評価を与えたり、高い値段で買ったりするだろうか。

 そもそもこんにち家に絵を飾る趣味をもった人たちはどのくらいいるというのだろう。かなり顧客やマーケットが少ない気がする。ゴッホやピカソなら芸術に興味のない投資目的の売買人が現われて、億単位の値段で買いとってくれるかもしれない。しかし路上のテキヤで売られる絵にそのような値がつくことはないし、売れることもかなり難しいだろう。

 芸術というのは店自体がちゃんとあるかさえ怪しい世界である。コンビニやスーパーとちがって、町のどこにでもいる人たちが顧客になってくれるというわけではない。ひじょうに少ない人だけが顧客になってくれる。また売り物と売り物ではないものの境界はひじょうにあやふやで、それこそ小学生の絵すら同列に並べられる世界である。コンビニに並べられる商品とちがって、商品かそうかでないかの基準はかなり侵食的なものなのである。売り物にならない広大なしろうとの絵も同列にならんでしまう危うい商売の世界が芸術というものなのである。

 企業と商品のような市場世界とちがって、アマとプロ、売り物と売り物ではない境界がひじょうに不明確である。同じ沼地にどろどろしているのが芸術というものである。だからこそこの線引きがひじょうにむづかしい世界に、生産者と消費者という明確な区分のつけにくい世界に、生産より趣味や創作に生きたい私としては学ぶことがあるのではないかと思っているのである。

 画家というのはプロとアマの境界を生きた人たちなのである。さらにいえば、生前ほとんど絵が売れず、プロではなくてアマチュアとして生涯を終わった画家もいることだろう。それでも画家は創作をつづけた。これはこんにちの受け手より送り手になりたがっているこんにちのわれわれの人生のモデル・ケースになるものではないかと思うのである。

 ネットでブログや小説や映像や音楽を発表する人。マンガの同人誌に書いたり、ストリート・ミュージシャンとして街角で歌う人、あるいはカラオケで歌う人。われわれはマスコミの一方的な受け手として戦後の50年ほどを生きてきたのだが、受け手ばかりではなく、送り手になりたくて仕方がなかったのではないかと思う。創作者として世間に評価されたい、知られたい、人生をそのように生きたいと思う人がかなりいたのではないか。ネットは技術が整ったために生まれたのではなくて、われわれの需要や欲望がまさにそのような仕組みを呼び寄せたのである。

 だがわれわれの社会というのは企業社会であり、生産者の社会であり、多くの時間を生産や労働に捧げなければならない社会である。創作や趣味に時間をかける人生は許されていない。世間の評価も、金や所有や社会保障で人生が測られる時代である。金のない人生は「負け組」であり、「負け犬」なのである。

 売れない芸術家はそのような価値観にNOをつきつけるだろう。富や所有や保障よりか、創作や芸術のほうが大事なのである。売れたり、富をおおくもつことはもちろん願うだろうが、そのために犠牲を多く払うのなら、かれは負け犬や貧乏を選びとるだろう。

 受け手から送り手の時代の転換期に、売れない芸術家の人生はモデル・ケースになるのではないかという考察が、おそらくは私のこんかいのテーマであると思う。芸術至上主義、創作至上主義のような価値観で生きられないか、富や所有のために労働に人生を奪われるなんていやだ、といったあたりがテーマであるように思う。社会の、私の価値観をひっくり返せないかをひそかにもくろんでいるわけだ。売れなくても、創作をつづけた芸術家に学びたいというわけである。

 アマチュアの時代、価値観を切り開く必要があるのではないかということで、その先人としての売れない芸術家に学ぶことはないかといったことが今回のテーマであるが、芸術関係の書棚を見てもこんにちそのような問いがおおく発せられているわけではない。ということで文献の数に依存する私の考察は早くも暗礁にのりあげる可能性も出てきた。まあ、それでもいいだろう。未解決の問題がのこるのなら、私の考察の楽しみもまたひきのばされたということなのだから。


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Comment

↓のスレッドの534-535がこの記事と関係があるのではと思い、挙げておきます。
「51歳、新宿のフーテン族でした。」
http://www.heiwaboke.net/2ch/unkar02.php/bubble6.2ch.net/cafe50/1071310939

追記:
私には現在の拝金主義者もプレカリアートも芸術蔑視という点では同じに見えます。「ビジネスには・闘争には不要」と余裕が無くなると彼らが真っ先に切り捨てるのが芸術や歌舞音曲の楽しみですから(パレードで音楽を流すのは娯楽ではなく威嚇ですね)。そして「これが現実だから仕方ない」と切り捨てる際に呟きながら、侮蔑していたはずの先行世代と同じ道を行くわけですね。
以上の理由で私は餓死してもプレカリアートやあなたとは共闘しません。
訣別の際これだけ書いておきます。

うううん、ちょっとわからないですね。。

拝金主義者やプレカリアートがかならずしも芸術を切り捨てるとは限らないと思うんですが。ビジネスや闘争をしているときにはそのような次元・ジャンルと関わりない事柄をしているのでとうぜんなのであって。。

なんか怒らせてしまったのかもしれませんが、すいません。。

のちに気づきました。
fryingpanさん、すいません。

スレッドの534-535のコメントを読めということなんですね。
フーテンのスレッドとこの記事になんの関係があるのか?と気づきませんでした。申し訳ない。

実業家と芸術家は水と油ということなんですね。
芸術家で成功しているやつは実業家でもあるということなんですね。

この問題は私の中ではまだ未整理で、自分の中でもしっかりと区切りがつけられていない難問でもあります。

売れない芸術が高級で、売れた芸術が低級とはけっしていえないと思いますし、芸術を志す人の中でさいしょから売れないことをめざす人はそういないと思いますしね。

これは多数受けして商業ベースに乗るか、少数のクロウト受けを狙うかという問題でもあるんでしょうか。

この問題はいろいろな要素が絡まって、ひじょうにとぎほぐしにくい問題であると思います。

私のほうではまだ解が出ないというしかないです。

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