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03 22
2008

芸術と創作と生計

芸術家と聖職者的禁欲



 芸術は宗教に似ているといわれる。宗教や王権が去ったのち、芸術家がその衣鉢をついだといわれる。聖性や崇高なものは、こんにちの芸術家にもとめられる。

 世間は芸術家に聖職者的禁欲をもとめる。聖職者のように禁欲的で修業僧的な態度から、偉大な芸術作品が生まれるとみなされている。聖職者が世俗から隔絶した修道院で禁欲的に修行したように、芸術家はそのような態度によって魂に触れた創作や神へといたる芸術が生み出されるといわれる。芸術はかつての宗教的特性をひきついでいるのである。

 なぜ芸術は聖職者的な禁欲をもとめられるのだろうか。かれは神への悟りや宗教的世界への接近をめざしているのではない。あくまでも芸術作品を創作するのである。しかしその態度には芸術を至上とした、禁欲的で修業的な態度がもとめられるのである。魂に触れたり、偉大な創作をなすには、神へと至る道に通底した修業的態度が求められるのである。

 禁欲や無私の態度がもとめられるのは芸術家や宗教者にかぎったものではない。政治家や支配階級、教師や医者にもそのような態度がもとめられる。かれらは禁欲的で自己犠牲的で、無私の奉仕的態度でないと、世間から叩かれ、尊敬や崇拝の念がえられないのである。利己的で、貪欲で、エゴまる出しの「聖職者」たちは、世間から徹底的に忌み嫌われるのである。まるで通常の人間ではない崇高な精神をもっていないと、かれらはそのような地位につくことを許されないのである。

 欲望や利己主義を捨て去った禁欲的態度、自己犠牲的態度がもとめられるのが芸術というものであり、こんにちの政治家や医者や教師である。もしかれらが利己的・欲望的なふるまいを表出すれば、たちまちその座からひきずり降ろされる。社会の上層に位置するものたちは、宗教的態度をもとめられるのである。

 宗教者は奇異なほどまでに自己犠牲、自己滅却の生活や修行をおこなうものである。世俗から隔絶し、家族をもたず、禁欲的に修行に明け暮れる。それはまるで生物の本能からいえば、自殺にひとしい行為とさえいえる。欲望や利己主義を断ち切ることが修行にもとめられるものである。それはわれわれが聖職者的な職業や上層階級にもとめる禁欲的・自己犠牲的態度で同じようなものである。宗教と上層階級は、その禁欲的・無私的態度により、われわれの尊敬や服従の地位を手に入れるのである。もし貪欲な利己主義的態度をかれらがもっているのが露見すれば、たちまちその座からひきずり降ろされる。禁欲的・修行的態度というのはそれらの特権を手に入れるための回路・約束ともいえるのだろうか。

 芸術は欲望的なものであってはならない。大衆迎合的なものは芸術とは見なされない。売れるものは芸術ではない。マーケットの受けを狙ったものやマーケティングによる創作物は芸術的なものとは見なされない。芸術はあくまでも大衆から隔絶した、禁欲的で魂の内奥から生み出されたものでないとならない。それは欲望的・利己的・大衆的なものであってはならないのである。無私や自己滅却、禁欲のなかにそれはあるとされるのである。そしてその中から生み出されたものが好評を博し、芸術的といわれ、高額な値段でとりひきされたり、売れたりするのである。欲望的ではなく、非欲望的なものをへて、創作物は評価され、売れるのである。

 芸術家にはそのような禁欲的・修業的態度がもとめられるのである。無私や自己犠牲、奉仕的な精神を得たところに崇高な芸術作品は生み出されるとされる。社会の支配階級にもそのような態度が求められ、自己犠牲的な態度で社会に貢献することがもとめられる。われわれから奪ったり、はきどったり、盗むような態度の上層階級はたちまち信頼を失ってしまうのである。そのような禁欲的態度はかつては聖職者や修行僧が宗教集団として示していたが、こんにちでは芸術家や教師、医者などにもとめられている。芸術のための自己犠牲・禁欲的態度が、上層階級にもとめられる態度と通底し、あるいはその態度としての「芸術商品」が市場で売られ、買われるのかもしれない。

 宗教者は社会的自殺といえる行為をおこなう。世間から隔絶し、家族を拒否し、欲望と自我を滅却しようとする。そのことにより神へと至る道に近づき、社会の尊敬と上層的地位を得る。利己的で貪欲な上層階級は社会から拒絶される。自己犠牲的で、禁欲的な上層階級がもとめられるのである。宗教がそのような信認を失いだしたころ、芸術家が禁欲的、無私的な態度の後株を担うようなかたちになった。つまり禁欲的・自己犠牲的な精神が、芸術品として購入できるようになったのである。社会で尊敬される禁欲的態度も、われわれの時代においては「商品」として購入されるのである。


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Comment

禁欲は芸術か?

うえしんさん
必ずしも、禁欲が、芸術家の必須ではないでしょう。
もちろん、そういう創作態度の芸術家もいた、それは、確かだ。

その一方で、「細雪」を書いた、谷崎潤一郎の私生活、これは、どう見ても、禁欲的ではない。それどころか、愛欲の中に、溺れた生活をしていた。

その他の分野でも、音楽家、歌手でも、派手な私生活で、大衆の興味をそそっていた芸術家は、大勢おりますよ。
ピカソも、チャップリンも、女好きで、有名でした。

トルストイの、女遊びも有名で、あちこちに愛人と、隠し子をもっていたそうだ。
晩年は、細君とうまくいかず、最後は、家出し、名もなきロシアの駅で、野垂れ死にしましたがね。

水がめ座さん、こんばんわ。
おっしゃるとおりです。ぐうの音も出ませんね(笑)。

ヨーロッパの修道院などの聖職者はかなり性的には厳しかったと思いますが、芸術家は人生や生活においてはそのような態度をひきつかず、芸術の創作においてのみ禁欲的態度や無我的な態度がもとめられたと限定しなおすべきなのでしょう。

芸術家の人生はゴッホであるとかピカソであるように「狂気」がもとめられたともいえますね。文学者はどちらかといえば、人生の淵に立つことを題材にすることが多くて、奇矯さや極端な人生を歩むことが多いですね。人間離れした破天荒さがもとめられる。

チャップリンは映画制作においてそうとう厳しかったと聞いております。また谷崎潤一郎も文章にはひじょうなこだわりをもっておられたようですね。創作においては禁欲的態度、いえ完璧主義的な態度をもっていたといえますね。人生においては享楽的であるのは、欲望を煽る資本主義社会のなせる技でしょうか。

芸術家は芸術至上主義の精神で創作に挑んだと思われます。聖職者のような態度は創作においてもとめられるのでしょうね。このような自己犠牲的態度、無私の奉仕的態度が上層階級にもとめられるということが、今回の題材でした。

ちょっと前提が破綻しそうですが、われわれは社会の上部に立つ人たちに清廉潔白な人格を期待するものではないでしょうか。芸術はその創作においてそのような無私の態度で創作するということで、高級だと見なされるということですね。まあ、イメージとしての上層階級のキップというわけですね。
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