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03 16
2008

集団の序列争いと権力闘争

会社の私語と権勢ゲーム

kensei.jpg



 会社の中には朝から晩まで沈黙して、ひと言もしゃべってはならないような雰囲気の会社もある。ぎゃくにみんなが談笑して、会話の輪に入らなければならない職場もある。

 私語禁止の職場もあるし、なんとなくそういう雰囲気になっている職場もあるし、私語し放題で、ムカついている隣の人もいるし、話さなければ孤立を恐れて話しつづける人もいるし、部署ごとに対立が生み出される職場もある。

 職場の苛立つ私語 発言小町
 話さなくていい職場 発言小町
 私語厳禁の職場の方いらっしゃいますか。 発言小町

 集団や空間をどう捉えて、場所や関係をどう維持してゆくかというルールが拮抗しあっているのである。満員電車やエレベーターでは私語を慎むのが基本的なマナーである。そのような沈黙の場所でとなりの人を無視した大きな会話は迷惑である。なぜかというとそれは他者の無視であり、尊重の否定であり、じつはそれは「なわばり行動」の威嚇でもあるのである。だから公共の場所での沈黙が求められるのである。

 私語・会話というのはプライベートなつながりを表示し、権力や権勢をあらわすことでもあり、グループや集団の「内と外」の区分を指し示し、「敵/味方」「われわれ/やつら」という敵対図式を生み出すことでもある。

 学生時代は友達と仲良くすることが「仕事」や「業務」であったため、他者やまわりに影響をおよぼすことに無自覚であったことが多いだろう。「われわれ」の仲良くうまくやることが重要で、まわりの人たちの心や感じ方には無自覚、関係ないといった状態がふつうであったと思われる。隔絶された「自集団」を形成していたのである。教室のおしゃべり・私語は自分たちの「空間」の御し方であって、教室という空間の教師やほかのクラスメートは「空間外」のことであったので、かれらの配慮は問題外であったのである。

 公共の場所や職場というのは、自集団だけではなくて、その空間や職場の処し方も考慮に入れなければならなくなる。空間全体の御し方も意識に入れなければならないのである。その空間はひとつの「全体」をなすようになる。全体を考慮に入れた配慮が必要になってくるのである。

 会社というのは満員電車やエレベーターのような公共空間のふるまいを要求される場所でもある。同時にプライベートの学校や友だちの仲よし集団の形成される私的空間でもありうる。業務や機能主義に徹する冷徹さが求められる場所でもあるし、あるいは楽しさや談笑やつながりが望まれる場所でもある。人それぞれの認識や好み、期待は異なり、また職場の人間関係・集団に求められる規律やルールも違っていて、認識と対処の仕方は人によってかなり異なってくるのである。そこに拮抗やきしみが生まれる。

 会社でみんなが仲良く楽しく連携しておこなわれる仕事が重要だと考える人や集団、またはそんなものは仕事の邪魔で、機能や業務が最優先され、私語は禁物だと見なす人や集団もあるだろう。それらのルールが明確でない職場の場合、それぞれの人が見なす職場の規律が拮抗しあってしまうのである。

 職場で仲良く楽しくやりたいと思う人は、自集団の権力威嚇や内と外の対立に無自覚である。仲良くやりたいだけと主観的には思うのだろうが、職場においては他業務、他部署に属するものが必ずいて、かれらの「仲よしゴッコ」はまわりに「なわばり行動」や自集団の権力威嚇という恐れをまきちらしているのである。私語の多いもの、群れたがる人というのは、無意識にこの戦略を用いている。群れるという数の権勢ゲームで自分の地位や業務を安泰にしたがっているのである。

 そしてその集団に属しない者に「仲間外れ」の恐れを抱かせて、地位を自分より下におこうとしているのである。私語の多い楽しい職場というのはこの「権勢ゲーム」が病のようにひそかに進行しているものである。かれはみんなとわいわい楽しくやりたいと思っているだけだろうが、権勢ゲームでの地位の安定と獲得を狙っているのである。

 この権勢ゲームは集団の内と外の出入が厳しいのだろう。権勢チームのインとアウトこそが権力の源泉なら、かんたんにその力を手放さないだろう。派閥というのは会話で成立するもので、かれにとって私語の交流を欠かさないことはひじょうに重要な仕事になってくる。

 仲のよい集団というのは、外側の人間にたいしてはひじょうに冷酷で、残酷なものである。新参者はかなり腰を低く下げて入っていかなければならない。また交流の関係も複雑で、会話の流れも隠語のように外部のものには入りにくく、よせつけない。だからこそその集団は権勢を保てるのである。そのような犠牲者を生み出せるから、その集団は強さを誇示もできるのである。

 私はこのような「できあがった」集団の輪に入ってゆくのがかなり苦手であった。だから学生時代、会社での人間関係をうまくやっていけるだろうかと不安だった。就職が恐いというのはこのような規範を恐れてのことだったのだろう。集団での一体感を強制される職場を避けてきたように思う。集団のインとアウトの権勢ゲームにさいしょから尻込みしていたのだろう。といっても無自覚であったが、私なりの権勢ゲームの方法ももっていないわけではなかったのだろうが。

 私はさいしょは人と談笑することを好むが、仕事の負担が増えてきたり、仕事の自覚が増してくると、黙ってすることを好むようになり、私語をムダと思うようなり、他人の私語にムカついてきて、対抗としてますます沈黙することになるから、人と対立したり、嫌われたりするパターンが多い気がする。無視を怒りのメッセージとして用いることが多いから、それとあいまって、無視されたり、嫌われていると思う人が出てきて、結果私は嫌われたり、対立を生み出したりするのである。仕事が増えてきたら私語が嫌いになり、結果つながりや交流を失ってきた私は力をもてないのである。私とのつながりによって権勢をもってきた人にはやはり嫌われるし。
 
 無視は人の自尊心をかなり傷つけるようだし、嫌われているのではないかという恐れをもよわせる。しかし仕事において業務が忙しくなれば、暇な他人などにかまっておれなくなるから仕方がないものである。沈黙の職場というのはこのような恐れを潜在的にたえず味わわせるものである。沈黙の職場は寂しさも感じさせるものである。寂しさは他人の談笑や会話によってよけいに煽られるから、沈黙の職場はますます私語の禁止という規範をその空間に重石のようにのっけるのである。

 沈黙の職場は私語の権勢ゲームのひとつの牽制策でもありうる。私語の多い職場では業務とはべつの権勢ゲームが発動して、会話や交流が仕事の大きな業務になり、仕事に集中できなくなる。孤立を恐れるイスとりゲームに多くの業務量がとられるのである。沈黙の職場はそのようなゲームの抑制策になりうるのだが、同時に寂しさや恐れも味わわせるものである。あまり人間らしいとはいえず、沈黙は負担であるし、このような空間の支配力に人は抵抗したくなるものであるが、空間の沈黙力にはねかえされるのがオチである。
 
 職場というのは人間のパワーゲームの場所でもある。業務をめぐっての、または会話や交流をめぐっての静かな対立がくりひろげられる。そこでのなにが起こっているのか見極めることが大切である。もうすこし考察を深めたいと思うのだが、次回の機会にゆずろう。


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Comment

終わりなきゲーム

我々は、皆、生まれ時から資本主義社会であったから、これが、水や空気のように、自然に、存在しているようにカン違いしている。
そこでは、労働者は、会社勤めをして、終身会社に奉仕し続ける。
もちろん、その報酬はあるのだが・・・
そして、会社は、わき目も降らず(寄り道は一切許されない)ただ、ひたすら、同業者との競争に、明け暮れる。

終わりなき戦いが、展開されている。
しかし、資本主義発生以前の会社には、目的があり、それを達成すると、解散した。もちろん、出資者に、利息をつけて返金し、かつ、従業員には、利益を配分したのだ。
当然、社員達は、金をふところに、それぞれの故郷へ帰るわけだ。

会社は、主に、船舶による、貿易をやっていたのだ。
一航海は、数年に及ぶ。しかし、いずれにせよ、始まりと、終わりがあった。

しかし、近代資本主義社会では、会社は、解散しない。
ただ、走り続けるのだ。
もちろん、一回ごとの目的も、ゴールもない。ただひたすら、利益を求めて、走り続けるのだ。
マルクス経済学でいうところの、「資本の再生産」です。

終わりは、倒産か、解散しかないが、一般的には、倒産である。
しかも、会社は、法律によって、法人格があたえられている。
つまり、人間に、限りなく似たものとして、取り扱われるのだ。

そして、社員は、この正体不明の、法人のために、滅私奉公が期待される。その見返りは、わずかではあるが、存在する。

これは、極めて非人道的な制度であるが、歴史上のいかなる、生産方式よりも、効率よく、経済的富を産出する。

しかも、一端この制度が確立されると、なんびとと言えども、このシステムから降りることは、出来ないルールだ。
あらゆる私的時間は、経済的富の産出に、向けられなければならない。
わずかに、個人の再生産のために必要な時間だけが、許される。

しかも、恐るべきことに、この社会には、目的も、ゴールもない。
ただ、ひたすら、走るのだ。
問答無用である。

これが、今、生きている、われわれの社会である。
誰でも、疑問を抱くのは、まったく当然だろう。


水がめ座さん、こんばんわ。

株式会社はオランダの船舶会社の保険からはじまったのでしたね。
大航海時代の先駆けに船運はリスクが大きいということで、会社以外の他者が出資するという株式会社が発生したんですね。儲けは出資者に返された。

われわれは会社や貨幣、市場の奴隷ですね。逃げられない。そういう社会の分配システムをもたないと、分業社会や分配をたすけるシステムをもたない。そうして貨幣の奴隷とならざるを得ないわけですね。ひたすら利益や利潤が求められ、他者に奉仕することで、私も奉仕してもらうというシステムの中で生きてゆかざるを得ない。

新製品や商品が毎年毎年生み出されますね。たいして違いのない新商品や、機能がアップしたとされる新製品、意味も価値もないけどさも大きな価値があるかのように宣伝される新作に飛びつく私たち。私たちはこのようなことをつづけないかぎり、食糧やインフラを分配できないのですね。

分業のための機械、社会システムのための歯車、貨幣流通のための創造者や機能手段にならないと、われわれは生きてゆけないのですね。

終わりなきゲームですね。そこでたくさんお金を儲けた人や、お金をうまく回す方法をみつけた経済学者に称賛が集まる。あまり人生の価値や意味は深く考えられることはないようですね。

貨幣とはなんなのか、そのシステムから抜け出す方法はないのか、トライしてもかんたんに答えは見い出せませんが、粘り強く問い直してゆくしかないのでしょうね。

古い記事ですが

こんにちは
こんな感じで見えない、形のないもの
だけど、問題視し、解決しなければ
ならないものに、このように言葉で
形を与えて、ネットに公開することは
善い事だと思いますし、また自分も
とても慰められました。

「なわばり行動」という言葉は、
とくにこの問題の根元というか、すべて
だと言いきってもいいくらい、
このような問題の中心にいる人々のことを
正確に表していると私は思います。

あるいは、そういう行動になやまされて
ここでこうやって書きこむ私の行動も
それで言い表されるのかとも思います
けどね。

でも
権勢ゲームというなじみのない語句と
ともに、ほかの人には通じにくい
伝わりにくいですね。

集団生活や、社会の中で、自分がとっている
行動の大半が、なわばり行動であるという
自覚は、誰も持っていないしまた、
他人(や自分)のそんな行動を「なわばり行動」だと
説明する人、教えてくれる先生も
いませんでしたからね。

ましてそれが誰かを脅威に貶めている
など、想像の範囲外、
せいぜい、「私語はいけませんよ」
うるさい大人に禁じられていること
を自分がやっている程度の認識
なのではないでしょうか?

でも、この言葉で持って人の行動を、
発言を見ると、わらっちゃうぐらい、
ピタリピタリと、当て嵌まってしまいます。
大当たりなんじゃないですか?

AKBのメンバーがほかのメンバーに
チューするのも、相手のことが好きなのではなく、そうやって、自分のなわばりを
広げている、確保しているのだと
(相手を自分のなわばりに取り込む、
あるいは、相手のなわばりに自分を
融合させている)
思います。余計でしたか?

さて

セクハラ、パワハラ、など、
名前という形を与えられることで、
傷を負った側が、徐々に傷を癒し
巻き返し、立ち直るチャンスが
増えてきたのと同様、
この問題も、いつまでも
「なにも悪いことなどしていない
正しいことをしているとさえ言える
人々」がやられっぱなし、我慢
しっぱなしではなく、普通に
安楽に生きていける世の中を
作るべく、こういう言葉の闘いを
していくこと、とても大事なことかと
思いますし、
私は私の「なわばり」で、
それを行っていこうと思います。

そんなときには、
ここで読んだことが、
大いに参考(パクリネタ)になることかと
思います。

もちろん、私の解釈と語彙で
やらせてもらいます。

といいますか、
この話題で、
これを記した時期から今までの
間のことてなにかありましたら
書いて発表してください。
無理にとはいいませんが。

こんなの書いて出してもらって
私は少し助かりました。
ありがとうございます!

それじゃ。

世の中、「正しい」か「正しくないか」で見ていたら衝突しつづけると思います。

競われているのは序列の確認だと思います。集団のなわばりも集団の序列を競っているのではないと思います。

押しつけてくる序列の順位に不満を抱けば、闘争はいつまでも終わらず、ハラを見せてしっぽを巻いて逃げれば闘争は終息するのではないでしょうか。

序列の競争というのは犬の社会やチンパンジーの社会でもおこなわれて、そういう動物行動学の本を読めば、人間もおなじことをやっているんだなとよくわかります。

平穏な日々を送りたいか、ケンカしてでも勝ちたいかと思う気持ちによって、その後の選択を決められるのがいいのではないでしょうか。

返信ありがとうございます。

ありがとうございます。
貴方ご自身が、現在どのスタンスを
選ばれているのかはわかりませんが
それを知りたくもありますが
自分にあてはめて参考にさせて
もらいます。

競争自体は健全なこと、
悪くないこと、「正しい」ことかもしれません。

私が問題にしているのは、
肝心なことは

オリンピックではタイムや技能。
激戦区ではラーメンの「味」
などなど、TPOによって
競争する題材というものがあって、

それが会社では、外貨の獲得に
伴う業務の具合または成果
以外ありえなく、

社内での、業務以外の、
しかし勤務時間内での
人間関係上のなわばりの獲得(確認?
いずれにしろ、こちらの印象は一つですね。)は、
それとはまったく無関係なものであり、
そもそも、人が会社に行く
目的とも関係がないにも
関わらず、

会社本来の目的、会社で
本来参加者が競うべき
物ごとを脅かす場面が
在ること、
です。

私の「闘い」とは、

会社に参加する本来の目的を
みなが再認識すること、

自分の様々な行いが、
「なわばり行動」だと知ること、

会社のような空間で自分のなわばりを
主張することは、他者のなわばりを
圧迫する暴力行為だと理解すること。

というようなことを、一般に広めることです。

そのために、なにが自分にやれるか、
やるかというビジョンはなにも
ありませんが、

少なくともこれは、
「ストレス社会」を大々的に改善し
昨今はやりの「絆」をうたい文句
やハリボテじゃない「本物」にして、
うつ病や引きこもり、自殺者を減らし
明るい日本の未来を実現する上で
おそらく、一番大事なことだと
思っています。
よ?

(今までは、やられる側が、たんに「嘆く」ことですら
好き勝手にやり散らかしている人々よりも
厳しい目で見られる、そんな歪んだ風潮が
強かったように思います。)

「闘い」とは書きましたが
これは、なわばりの捕り合い、
ではありませんし、また
彼らに対する
攻撃や侵略でももちろんありません。
完全なる防御です。
こちらは元から、そして、
このようなことを推し進めたとしても
彼らのなわばりをおかしません。
また、犯したことには絶対になりません。
必要以上に自分のなわばりを主張することで
周囲の仕事仲間を苦しめている人を
本来の、ご自分のラインまで、
戻ってもらうまでのことなのです。
勝手にドアをこじ開けて入ってきた
押し込み強盗に、自宅に帰ってもらう
だけのことなのです。

これは誰に向かって、というわけでは
ないのですが、一応、
貴方に理解して欲しいなと
思ったので書いてみましたよ。

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プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

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