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03 01
2008

知識論

学問の楽しみ方Ⅱ――学問できない理由



 よく人は学校に行かないと学問できないと思い込んでいるようだが、とんでもない間違いである。むしろ独習したほうがよく学問できると思うし、学問というのは独学の方法を身につけて自ら極めてゆくことである。学校でしか学問ができないと思い込んでいる人はだから、いつまでたっても学問できない。

 学校でしか学問ができないという思い込みは、おおくの人が陥ってしまう制度上の欠陥である。学校があるばかりに学問を学校に任せっぱなしにしてしまう。教師に頼ってみずからの独習の方法を身につけない。だから学校を出てしまったら、さっぱり学問と縁が切れてしまうのである。

 学校というはそもそも「教える偉い人」と「教えられる無知な人」の役割を演じるところである。つまりコックやウェイターの食事をつくったり運んだりする人と、イスに座って食事を待っている人に分けてしまう。学校はこの役割を固定してしまうし、みずからも過剰に演じ、几帳面な方は「無知で愚かな私」を生涯、謙虚に演じてしまうのである。だから学問しない人は、教師の優越性や上位性をきわめて品行方正に守りつづけているということになる。教師の上位性を突き落としてはかわいそうだと、みずからの学習能力を「封印」してしまうのである。そしていつまでも食事が運ばれるまで待つ「客」を演じつづけてしまうのである。

 私は学校で教師に教えられるより、参考書を試験前に読んだほうがよほど役に立つと思っていた。教師は「いらなかった」のである。学術書を年間に100、200冊は読むようになって気づいたのだが、学校というのはたった一冊の教科書を一年も通して読むだけなのである。そんな時間があればはるかにおおくの本を読めるのに、たった一冊の教科書だけ読みつづけるのである。だからいまは学校にいくことがムダに思えて仕方がない。

 大学の授業料は年間100万ほどと恐ろしく高い。一冊の学術書は2、3000円ていどで、文庫となれば1000円ほどだ。この激しい落差はなにかと思う。本は知識を全国へ廉価に流通することを可能にしたのだが、教師というのは全国のうちの一ヶ所、ひとつの時間にしか会うことができない。だから教師にちょくせつ出会う授業料あるいは空間料は高くなるのだが、本の知識は全国津々浦々に同じコピーされたものが出張できるからかなり安くできる。教師個人は「大量生産」できないから、ものすごく高く、非経済で非効率なメディアでありつづけているのだが、それでも学校の威信は高く残っているのである。

 人が学問と縁が切れるのはこのような社会的役割を演じてしまうこともあるし、独学の方法を身につけないこともあるだろう。学術書をつぎつぎと読みたくなる、読みつづけるという習慣のはじめ方を知らないのである。そりゃあ、教科書をごたいそうに一年も通して読んでいたら、ほかの本を読むという習慣も身につかないだろう。

 基本的に独学の方法というのはカタログであると思っている。カタログを読んで魅力ある本を見つけたり、これやあれを読みたいと思うことが、独学の方法だと思う。通販のカタログの商品を見て、あれもこれもほしいと思っている人が、学問になるとそういう方法を身につけられなかったのである。じつにかんたんなことなのであるが、というかおおくの人は広告やカタログによってあれもほしい、これもほしいと思っているのに、その方法を学問や読書に転嫁できなかったのである。学問っていうのはそれだけでいいのである。

 私なんか学術書をつぎつぎと読みたくなるルーツを探ってみると、手塚治虫のマンガを読み漁っていた体験だと気づいたことがある。カタログ本のようなものを見つけて、あれも読みたい、これも読みたいと夢をふくらませたのだが、手塚は古い本も多くて近くの本屋で手に入らないから、小学生だった私は遠くの駅まで自転車で探しに回った。原点はこれなのである。

 また教育の失敗は「空腹」になることを教えなかったことだろう。学問の「空腹」というのは謎や疑問が胃袋を空かすわけだが、教育というのは腹も減っていない子どもに飯をむりやり食わせることである。腹が減っていない子供にむりやり飯を食わせたわけだから、たいがいの子供は学問なんてもう食えないと思ってしまう。謎や疑問という空腹が育たないうちに学問をむりやり食わせても、学問を食べたいとはだれも思わないものである。

 謎と疑問とそれを解きたいという気持ちと、カタログが組み合わされば独学の方法ができる。そうなればひとりでにするすると学術書は読まれてゆくものである。このような方法を身につけられなかったばかりにおおくの人は学問と縁が切れてしまう。

 自分の謎や疑問に思っていることを持続的にもちつづけることが学問ということである。たぶんにおおくの人はそのリンクをつなげられないできたのだろう。「これはなんでだろう」「これはどうしてこうなっているのか」と思っても、その疑問や謎は読書や学問にリンクされないで終わってしまう。自分で解くことがなくなってしまうのである。それは教師や学校の存在があるためであったり、また学術書がそれを満たしてくれると知らなかったり、それらのカタログ本のとっかかりを見つけられなかったり、そもそも読書能力も育っていないからかもしれない。このような方法で自分の疑問が解けるかもしれないと期待することもできなくなってしまっているのである。

 ではなぜ読書の能力は開発されなかったのだろう。たぶんにそれらのリンクが全部切られているのだろう。そもそもこの世界はなんでこうなっているのかという疑問や探究心が、読書に向かうということがなくなっているのだろう。そういう原点が学問なのであるが、そういう気持ちすら育てられなくなっているのだろう。この世界への探究心という原点が、その後の教育とリンクされていないのである。腹が減っていないところに飯を食わされる。自分なりの探究心や方法を見つけられないで、私たちの学問心は無残に断たれてしまうのである。いったら大量生産の教育規格の頭にすげ替えられてしまうために、私たちは世界への探究心をすっかりうしなってしまうのである。

 私も20歳ころまで自分が学問をおもしろいと思うようになるなんて思ってもみなかった。私の世界への探究心はマンガや映画や音楽に向かっていた。言葉や活字で世界をつかむという方法を見い出していなかった。私が学問の方法を身につけたのは小説を書き出してからだった。小説を書くとこれはなんでだろう、これはどうしてこうなっているんだろうと社会の謎や理由を解く必要が出てくる。それで哲学や社会学にその理由を見い出すようになって、すっかり学問のとりことなってしまったわけである。たまたまこういう過程で学問の回路を見い出したのである。

 学問というのは私たちの身近な謎や疑問すべてが学問の研究ジャンルとなるものである。それは私たちにこの世界の謎や生きる術を見い出させるものだと思う。けっして世界の遠くの隔絶された場所のことがらを語っているのではない。学問を楽しめないということはこの世界の謎や不可解さにしじゅう打ちのめされることではないかと私は思うのである。


参考文献 前半の「教える人」と「無知の人」の役割分担はこの本で語られています。

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)
イヴァン・イリイチ
4488006884


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Comment

こんにちは。

私も学校の授業のあり方には、ずっと疑問を感じてきました。わたしも、下手な講義を聴くより自分で学術書を読んでいましたし、浪人時代も予備校に一切通わず、一人で問題集を解いていました。

しかし、本当に素晴らしい講義をする方もいます。書物では紙幅の関係で繰り返しがなされませんが、講義においては基礎(入門的な簡単な事項という意味ではなく)を徹底的に繰り返し強調されて、私の思考の土台を築いてくれた教授もいます。

素晴らしい書物と、素晴らしい講義と、素晴らしい議論と、目・耳・口を最大限にバランスよく使ってこそ学問の素晴らしさを実感できるのではないかと思うのです。

あと、学問というと非常に受動的になる人が多いのは事実ですが、ある程度の詰め込み教育は仕方ないのだと思います。学問の初歩における基本的事項は理屈抜きに覚えなければ前に進めません。問題は詰め込まれたくない者にまで無理やり詰め込むことだと思います。

こんにちは。bobbyさん。

もちろんすばらしい授業や、興味ある教え方をする教師や、おもしろい授業もあったと思います。

でも私のいいたかったことは、学校を出てからの学問のことをいっています。学校を出てから、教師のいなくなった大人たちは果たして学問するかというと、たいていの人は学問しなくなるのではないでしょうか。

えっ、オトナにまでなって学問する必要があるのかとか(笑)、教師がいないのにどうやって学問するのかと思う人が大半でしょう。学問なんてハタチまでの、子供や青年のうちにするものだと大方の人は思い込んでいるのではないでしょうか。

学問というのは人間や社会や経済、歴史を研究するもので、これは私たちが日常や社会の中で生きてゆく上で助けになる知識やよりよい生き方の探究になるものです。学問というのはそういう生きてゆくうえでの知恵を助けるものです。生きてゆくってことは生涯学んでゆくことだと思います。

しかしこの国では学校を卒業してしまったら自分で学問するってことがなくなりますね。私はそのような学問の楽しみを伝えたいと思って、この文章を書いたわけです。

学問は生涯私に楽しみと生きてゆくうえでの知恵をもたらすものだということを私はいいかったわけです。その方法が上記の文章なわけです。

学校を出た後、教師なきあと、学ぶのは自分ひとりしかいません。知恵を授けてくれるのは学者の本だけです。ということで、自分ひとりで学問する方法をみずから学ばなければならないというわけですね。大人のほうが人生や社会を知ってきたわけですから、学問はもっと身近な楽しみになれると私は思っています。


こんにちは。

ちょっと誤解をしていたようです・・・。

大人になると、ほとんどの人が学問しなくなる現実は、私も悲しく思います。

哲学・法学・経済学・・・学問をしないことで損をしていることにすら気づかない人が大半でしょうね。

机上の空論だと安直に切り捨てる者ほど、学問の何たるかをそもそも理解していないのだと思います。もしくは、抽象性と具体性の間を行き来する能力の欠如を自ら示しているのだと思います。

bobbyさん、こんにちは。

ニュースとか情報番組は好きで見ている人は多いと思うんですが、その先にある学問となると手を出す人はだいぶ少なくなると思います。ニュースとか情報番組の内容というのは、もうすでに学問のようなものです。あと一歩のところで学問です。学問って娯楽で、情報番組とほとんど変わらないと思っています。ワイドショーですら学問になると思います。

あと一歩のところで学問できるはずなんだと思いますが、多くの人はそこまで手を出そうとしないんでしょうね。興味とか疑問の持続力と、それを読書につなげる方法論をしっかり教育されなかったんでしょうね。

まさに英語を何年も習って英語が話せないように、何年も学問を習っていて、ちっとも学問ができない大人に育ってしまうんでしょう。

学問は娯楽や趣味です。その楽しみが多くの人にわかってもらえればいいですね。
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