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02 27
2008

知識論

学問の楽しみ方――自分でつくるということ



 この国では学歴が必死に求められる社会なのに、学問好きな大人がたくさんいるとは思われない。新書は売れるようになったにせよ、高学歴の社会にあるにかかわらず、世間のちまたに学問の話題がのぼるということはめったにない。私の実感では職場や世間では学問の話はご法度という感がする。

 なぜこの国では学問がこんなに切望されるのに学問好きな大人を育てることに失敗したのか。60-70年代にはサルトルやらマルクスらが競って読まれたという話を聞くが、こんにちではドゥルーズやデリダを読むのは一部の特殊な好事家のみである。思想が危険だと思われた反動なのだろうか。

 英語を何年も教えられるに多くの人が英語をしゃべられないように、学問を何年も習っておきながら学問ができる大人はほとんどいない。学術書や思想書がいつもベストセラーになるなんて話は聞いたことがない。基本的にこの国では学問は企業に就職するためのパスポートになっているだけであって、学問自体が求められることはないのである。なぜこんな悲しむべき状況になっているのか。

 私が思うに学校というのは学問の理解や記憶は訓練されるが、学問のやり方や楽しみ方を教えられないからだと思う。学問は与えられるが、楽しむものだともまったく思われていない。苦痛と苦手に彩られて大人になれば学問という「障害物」にはいっさい近づかない状態になっている。

 学問というのは楽しみ方を覚えれば、TVや映画のように楽しめるものだと思う。娯楽や道楽なのだが、楽しみ方を知らないばかりに多くの人は学問を敬遠するのである。

 学問の楽しみ方というのは、謎や疑問を追究する楽しみである。いちど謎や疑問を自分の中でねばり強くもちつづければ、学問の知識はむこうからやってくる。そういう疑問をもちつづければ、あんなにおカタくて、だれが読むのかと思っていた学術書が興味ある、理解しやすいものになってしまうのが不思議である。学問というのは私たちとまったく関わりのない世界のことを語っているのではない。まさに私たちの日常、身のまわりのことを語っているのである。それなのに学問は縁遠い世界の話だと敬遠される。

 けっきょくのところ、私たちが与えられる学問というのは、「完成品」なのである。できあがってしまったものだから、私たちは「消費」するだけである。学問というのは、自分で「つくる」ことである。つくる楽しみを知ってはじめて学問は楽しめるのであって、完成品を与えられたなら学問が楽しめるということはない。

 要はおもちゃでたとえるなら、できあがったおもちゃで楽しむのではなくて、プラモデルを自分でつくる楽しみだということである。完成したおもちゃでも楽しめるが、自分でつくればよりいっそうそれは楽しいものになる。学問というのはじつは自分でつくる楽しみのことである。完成品を得てしまうと楽しめるものではない。未完成の新たにつくりだすものであるからこそ楽しめるのである。

 世の中の知識というのは学者や科学者によって「完成」されたものだとふつうの人は思い込んでいるが、それはまったくウソだ。いまだに世の中は謎だらけであり、わからないことだらけである。わからないこそ学問はされるのであって、もし世の中のすべてがわかっているというのなら学問はなくなってしまう。なぜか世の中学者によってすべて解き明かされていると一般の人は思い込んでいるから(=「完成品」の世界)、学問を自分でつくってみようとも思ってもみないのである。

 完成品を手に入れることと、自分でつくってみる体験はまったく違ったものである。完成品は享受するのみの体験になるが、自分でつくってみることはまったく違った経験と感覚をもたらす。材料を集めてきて、組み立て方を考えて、じっさいに組み立ててゆく。そのすべての経験が興味をひきたてて、完成品を享受する関係とは比べようがないほどそれらの過程に深くコミットメントすることになる。知識とはそのようなことによって深く楽しめるものになるのである。

 学生にとって学問は完成品を探し出して、集めることである。記憶のコレクターであって、自分でつくることではない。だから完成品はよそよそしく、自分のものにはならないし、他人事である。ニーチェもフロイトもたんなる異なる世界の記憶するための道具にしかならない。しかし自分でつくろうとすると、これほどまでに人生の経験と知識をおしえる先人はいないのである。

 自分でつくるということは、その世界を「自分のもの」にするということなのである。そういう意味で完成品を消費するということはひじょうに不幸なことなのである。せっかくの学問が他人事の自分と関係のない出来事になってしまうからである。世の多くの人たちは学問を疎遠なものに感じてしまって、「自分のもの」とすることができないまま、何年もの教育を受けつづけるのである。すべては学問は「完成品」であって、自分でつくるものではないという思い込みがあるからだろう。自分で「つくらない」と、学問もこの世界の謎も私の前に広がらないのである。

 自分でつくるということはこの世に完成された知識や学問などないと知ることである。学者がこの世界の知識を完成させていると思ったら、自分でつくろうとは思わない。完成品を消費・享受するだけである。そもそも自分が知らないということは、「未完成」だらけということである。たとえ学者が「完成」させているとしても、知らない自分にとってはこの世界は未完成でありつづける。未完成の世界だからこそ、自分でつくろうと思うことになる。

 未完成というのは、自分の謎や疑問のことである。謎や疑問はこの世界にぽっかりと開いてしまった未完成な空隙である。そこを埋めようとして、人は学問し、探究しようとして、自分で「つくり」だすのである。それが学問するということであって、完成品のみを口を開けて待っているというものではないのである。

 学問の楽しみ方というのは自分の謎や疑問をずっともちつづけ、自分で解いてゆくことである。自分で問いつづけることによって、学問の世界は開かれる。学者や偉人の完成品と比べることではない。自分が知らないということによって、この世は永久に未完成品でありつづける。自分で完成品をつくろうと思うことによって、この世界は未完成品であることに思い知らされるのである。

 買ってきた魚を食べるだけではなくて、自分で釣りに出かけたら、さてどこに釣りに行こうか、どこが釣れるのか、どのようにしたらよく釣れるのか、いつよく釣れるのか、魚の習性はどのようなものか、と果てしなく楽しみと探究は増えてゆく。学問もそのようなものである。自分でやるということはそれほどまでにこの世界の関わり方を変えるものである。ぜひ自分で学問する楽しみを覚えてほしいものである。学問の楽しみ方を知らないということは、この謎だらけの世界と人生を、他人の「完成品」と「既製品」で生きるという悲しむべきことなのである。


参考文献 多くの人が学問ができないのはまさに「学校化」されたからである。つまり「無知な客」であり、自分でつくらないことを強要されているのだ。

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)
イヴァン・イリイチ
4488006884


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うえしんにとってのブログ

おっしゃるとおりだと思います。

だいぶ前に、このブログで「うえしん」に、アナタは、創作は、しないのだろうか?と質問したことがある。
氏の答えは、「やってる暇がない、仕事が忙しい」であった。

最近つくづく思うのだが、「うえしん」のブログが、「うえしんの」リッパな作品だ。そうではないだろうか?
氏は、様々な書評を展開する。それが、彼の、世界への、探求の方法でもある。

自分もブログをやっていて、実感する所がある。それは、一つ一つの記事が、作品であると言うことだ。
もちろん、それは、完成度は、それほど高くないだろう、ある種、草稿のようなモノ、と言えるかも知れない。

ブログの特徴は、完結された作品ではない、という点にあると思う。
それは、日々更新されていくことによって、読者を巻き込みながら、ダイナミックに揺れ動いているのだ。

その波動の中に、「うえしん」が、模索している姿を、読者は、共有していくことができる。
そこが、ブログの、興味深い所でもある。
つまり、思想が生まれ、育っていく様を、まさにその瞬間、瞬間の変化を、共に味合うことが出来る。

「うえしん」は、モノローグを展開しながら、同時に、読者を誘い込もうとしている。
コメントを入れてくる読者の数は、確かに少ない。
しかし、その少ないコメントと、「うえしん」の対話の中にも、読者は、発展していく、今、生まれようとしている思想を、ライブで見ているのだ。

このブログという、新しい表現の方法が、どこまで、深化していくのか、たいへんな興味を持って、私は、氏との対話に、静かな喜びを見出していわけでもある。

探究のためのブログ

水がめ座さん、おはようございます。

こんかいのコメントはひとつの「構築された作品」という感がしますね(笑)。

まさしく私のブログは「探究のためのブログ」であります。私の疑問や謎を探究する過程で読まれる本、考えられること、がつづられています。私にとってのブログとは探究のための手段であります。そして書かないことには、探究されていることすらなりません。書かないと、自分の考えを構築することができません。だから私は謎を解くための方法として書きつづけるわけです。

読者の方がどれだけ私の考えているテーマを共有してくれているかわかりません。どれだけ私の模索している目的を、同時に楽しんでくれているかもわかりません。まあ、殊勝なことをやっていると、あまり相手にされていなくても(笑)、私は自分のために書きつづけるでしょうが。私はこの世界を言葉と分析で知り尽くしたいととり憑かれているのでしょうね。まあ、それがおもしろくてたまらないから、ずっとつづけているわけですが。

私のブログは水がめ座さんのブログのようにコメントは多くありませんね。だいたい私はモノローグ(ひとりごと)の人間であって、ダイアローグ(対話)タイプではありませんね。人と対話することで高めてゆく、レベルを上げてゆくということが苦手なほうですね。自分で考えていることの深度を、人との対話の中でもつことができないなと感じています。

ブログというのはこれまでの出版の流通に乗らないような、たくさんの人たちの無数の頭や思考の数々をおおくの人に知らしめるメディアとなりましたね。こういう言葉や思考の多くはほかの人に知られないで、消えていったのだと思います。そういう意味でネットは人類史の革命であると思います。ネットが生まれたことによって私は幸福な時代にめぐりあえたなと思っています。

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