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02 13
2008

芸術と創作と生計

売れなくてもなぜ人は芸術家をめざすのか



 芸術関係でプロになるのはとくに難しい。しかし志望者はあとをたたない。作家志望に画家志望、ミュージシャン志望、タレント志望、または評論家志望、学者志望。

 多くの人が夢見るのだが、多くの人が断念せざるをえない芸術というもの。このマーケットは需要より、供給希望者のほうが多いらしい。需要がどれだけあるのか考えられずに、多くの人がむやみやたらに供給したがる。ニーズも注文もなしに、やたらと生産したがるものが芸術というものらしい。

 それはある意味、人間社会の評価や称賛もそのようなバランスのもとに成り立っているといえるかもしれない。多くの人が評価や称賛をのぞむが、それらの喝采を受ける人はほんのわずか。それでも人は評価や称賛をのぞまざるをえない生き物であるというしかない。

 基本的に芸術の分野において需要や市場はどれほどあるのかと考えられないのだろう。駅前にスーパーは何軒あったらいいとか、美容院とか歯科医は何軒あったら多すぎだとかの感覚がはたらかないのだろう。私はいいもの、価値あるものをもっているとか、つくりたいという気持ちのもとに芸術店は出店されるのである。そして客はこない。そもそも芸術の多くはお客のためにつくられるというよりか、自分のためにつくられるからだろう。客のニーズではないのである。

 憧れがある。称賛がある。あの人のようになりたいと思う。そのような憧れられる対象というものが、不幸なことに少年少女にとっては学校で習う文学者や芸術家であったり、マスコミでひんぱんにあらわれるミュージシャンや俳優であったりするのである。残念なことにうちの父や母ではないし、町の工場で働く人でもないし、サラリーマンでもないし、ショップの店員でもない。

 かんたんになれるものに憧れずに、かんたんになれないものに憧れる。ここから夢や希望は、需要と供給を無視したまったく破天荒な夢物語と化す。つまりは狭き門におおぜいの者が殺到する構図はここからはじまっているのである。憧れはごく少数のものにしか得られないのだが、おおぜいの者がそこをめざしてしまうのである。需要やニーズは無視されて、ただ供給だけが増加するというわけである。

 芸術というものは画家だったら紙と画材、音楽家だったら楽器、作家だったら紙とペンがあればすぐにできるという手軽なものである。すぐに創作はできるものである。芸術は万人に開かれているものである。そして評価や称賛も万人に開かれているものである。だけど芸術家として食っていけたり、評価されるのはごくわずかである。人口なら数万にも届かないのだろう、一億分のである。それでも人は芸術家志望にひかれるのである。

 一般の仕事とくらべてみたらわかるが、企業での仕事というのは組織や集団でおこなわれるもので、個人の名前でおこなわれるのではない。大量生産のなかでだれがやろうが同じものがつくられる。たとえ個人の力量や才能がおおく発揮されようが、個人の名前でその仕事がなされるわけではない。没個性、没集団、没組織に埋没することが求められる。そして私の人となりが評価されたり、売られたりするわけではなくて、あくまでも商品やサービスが売られるだけである。個人性や独自性、顔やその人の唯一性といったものが抹殺されるのである。

 だからこのような時代ではひたすら個人の名前が冠される栄誉が芸術にもとめられるのだろう。つまりたったひとりのかけがえのない存在になりたいのである。世の大半の人々の功績は企業名の下に隠れる。しかし芸術家のみは個人の人となりが評価され、称賛される。私たちがそのような栄誉に向かってつきすすんでしまうのは、個人が評価されない時代の裏返しなのだろう。大量生産、大量規格、大量消費の時代には私たちの生もそれらと同じような大量の生のひとつにしか過ぎないのである。

 私たちはたったひとりのかけがえのない存在、人となりを評価されたい。そしてひとりひとりの個性が際立ったミュージシャンや俳優、画家や作家、科学者や学者になりたいと思うのである。大量の無名の人たちのなかに埋もれたくないのである。

 私たちは無名の中の没個性の集団のなかで、なんとか自分の顔や才能を際たださせようとするのだが、芸術家のマーケットというのはひじょうに小さく、また大きく評価される人は少数であり、多くの人が評価されようと芸術の道をめざしても、才能を発掘したり、先買いしたり、見い出したりしようとする人はさらに少ない。基本的に人はすでに評価され、人気ある芸術家の作品を買い、見たり聴いたりしたいものである。だから星の数ほどの志望者は流れ星のようにはかなく夜空を落ちてゆくのである。

 芸術のマーケットはひじょうに小さい。そして多くの人がそのマーケットにつめかけ、評価され、売れたいと願う。多くの人がマーケットで食えず、マーケットにすら入れず、そして芸術の夢だけを抱きつづける。

 30歳の区切りまで芸術家をめざそうとする若者は多いだろう。マーケットで食えるようになるのが目標であるが、私たちの社会は金や経済の価値で優劣が測られる社会である。単一的に金や経済で評価される社会である。芸術の価値観も金やセールスで評価される世の中である。芸術は売れなければ、買われなければ、価値はないのである。創造する喜びや創作する楽しさで評価される社会ではない。

 しかし私たちの時代は創造に価値をおく風潮が増しつつある。マーケットで売れなかろうが、つくる楽しみ、創造する喜びに価値を見い出す時代になりつつある。芸術志望者はお金やセールスではなく、創造自体に喜びを見い出すのである。

 金やセールスではなく、自分の喜びや楽しみに評価が得られる社会はこないものだろうか。金や売り上げでしか測られない人たちには永久に理解できないだろうが、創造にはそれらでは得がたい魅力があるものである。そのようなはりあいを見つけたとしても、私たちの社会はなんでも金で評価が測られる社会である。

 創作至上主義、芸術至上主義の価値観で、堂々と生きられないものだろうか。マーケットで金を得られなくとも、創造に至上の価値をおく生き方が貫かれないものだろうか。金と売り上げでしか評価されない社会は、私たちの生も金銭結果主義でしか測れない卑小で矮小化された人生しか生きられないと思うのである。私たちは金で評価されるより、それらを度外視した芸術至上主義で生きられないものだろうかと思う。私たちは没個性で稼いだ金より、個性ある人格として認められる人生のほうが価値があると思うようになっているのではないだろうか。


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Comment

人がよろこぶから……。

人が見てよろこび、聞いてよろこび、読んでよろこぶから、金にならなくても構わないんじゃない?

持ちあげられてよろこび、ひれ伏されてよろこぶのとちがうもの。

貴兄のブログも、日頃考えてもないことを考えさせてくれるから楽しいのと同じです。

ゲイジュツ(ゲイジュツという専門職があるとすれば)とビジネスは水と油、いずれ分離して、それぞれのありかに戻っていく、と思います。

無作為-Lack of intension

今晩は。
最終段落の内容に共感を覚えました。

日本人の職業観にはプロ、アマという区別は無かったと僕は思うんですよね。
「専門家」と「職人」という相反する2つの存在があっただけなのでは。
僕は職人の姿勢に憧れますね。

さて、ゲイジツというとニューヨークのソーホーが思い浮かびます(行ったことはないですけど)。
感じたことを「声にして出す」ことは表現の最たるものの1つでしょう。
残念ながら東京では無理ですね(苦笑)。

でも、日本人は「愛でる」という才能を持っているんですよね。
隣人とは草であり、虫であり、月であったわけです。

うえしんさんは既に作家だと思いますよ。

僕は旅をしてメシを食いたいなぁ。
これこそ矛盾の最たるものですけどね。

とりあえず今夜は泉谷しげるの曲に身をまかせながら、眠ろうと思います。

「春夏秋冬」
http://www.youtube.com/watch?v=LRKgPGRk1GA&feature=related

Good night.

労働者のありったけさん、こんばんわ。

芸術は人がよろこんでくるからというのもありますが、基本は自分が創作するのが楽しいからという理由がまずさいしょにくるんじゃないかと思います。

つくったり、歌ったり、描くのが好きだから、芸術を創造するのだと思います。その自分の楽しいという気持ちが、観客に楽しさや感動を共有させるのだと思います。

マーケットで売れようとすると、まず他人が喜ぶ、興味があるものをつくろうとして、結果、創作者の楽しみやつくりたいものから離れてゆくことになります。

客の喜びのツボにはまる人はますます磨きをかけられるでしょうが、純文学系の人なんか自分の興味の赴くまま、あるいは苦悩やナルシスばかりに目が向いてしまって、ますますお客にそっぽを向かれる(笑)というパターンがあると思います。

後者はマーケットに乗らなくなって、しかしメシは食わなければなりませんね。芸術はマーケットか、自分かという矛盾にいつもさいなまされるのでしょうね。

芸術とビジネスが分離してしまえば、創作者は時間も生計も立てられなくなりますね。芸術と金は難しい問題だと思います。

ホームレスとのHPとブログかんばってくださいね。ゾラの『ジェルミナール』に興味がひかれましたので、記憶しておきたいと思います。

たいく~んさん、こんばんわ。

なるほどプロとアマの区別がなかったですか。
プロはお金を稼いでメシを食えるけど、アマはメシが食えないとなるんでしょうかね。でも稼げる作品がよいものとは限らないのが芸術の難しさでありますが。

金で測れるものが至上のものであるという価値観に覆われた社会はやっぱり間違っていると思いますね。金を稼ぐ人間が立派であるという価値観の社会もまた悲しいものがありますね。人間ってマーケットのためだけに生きているとは思われないのですが。

ニューヨークのソーホーはいまはどうなっているんでしょうかね。芸術家は食えないからけっこう貧民のたまり場になってたりしたら残念ですね。。 そういえばネットが登場するころにはソーホーを在宅勤務の意味でつかっていましたが、みんな会社で働かなくてもよいという予測があったりしましたが、まだまだ夢の時代はきていないようですね。

日本には草や虫、月などを愛でる伝統がありましたね。現代ではそんなの一銭もならないっていって、一蹴されるような時代になりましたね。それだけ人間の価値観がマーケットと金だけになってしまったということですね。人間の価値観が金だけで一元化される世の中はつまらないですね。

旅をしてメシを食うのは不可能ですね(笑)。旅行記でメシが食えたらいいんですけどね。松尾芭蕉みたいに詩を描くとか(笑)。

泉谷しげるの『春夏秋冬』は私も好きなほうです。冷め切った歌詞が感動ですね。とくに「愛のない人に会う~、人のために良かれと思い~」というところがぐっときますね。

それでは私のほうは動画のほうに出ていた私の好きなハマショーの旅での迷いを歌った「Midnight Blue Train」を紹介したいと思います。私はいつもこの歌詞を聴いて感動しています(笑)。
http://jp.youtube.com/watch?v=IbHNFUDe3Z0

ハマショーとなるとファンですからまた一曲紹介したくなります(笑)。『家路』という曲ですが、これも人生という旅を歌っているのでしょう。「気づけば、道しるべのない道にひとり~」というところでぐっときます。
http://jp.youtube.com/watch?v=grXuiXMFK5I

創作と経済?

この記事もおもしろかったです。ごぶさたしています。
現代社会では、お金をもうけるために市場調査をしたり、
「売れなければカス」という理論で動いているわけですよね。

でもすでに名の通った方たちなんて、「売れるものと本物は別だ」ってことをあちらこちらでおっしゃっていますね。

また
>創作至上主義、芸術至上主義の価値観で堂々と生きる
ということは、すでに実践されている人がたくさんいて、
>金と売り上げでしか評価されない社会
に関しては無関心の方も多いのではないかと思います。

>喝采を意識している人は、純粋に創作する喜びに浸ってはないのではないかな。
現在、「才能のある売れそうな芸術家」は、現代社会の中で売れて、お金と名声を手にしていけばいいのだろうと思うし、実際にそうだし。
需要より供給が圧倒的なら需要を伸ばす教育や宣伝もあってもいいですよね。

それ以外の人たちは、もうかなり違う次元に行ってしまってませんか。
日本よりは海外の方がもっと特別な技術者や芸術家に対しての尊敬の念が深い印象がありますが、日本もそんな社会だったらいいとお思いなのでしょうか。意図を読みきれていないかもしれませんので。ごめんなさい。
そのほうが確かにいいなぁ。とは思います。海外のこと知らないけど。

マリカさん、こんばんわ。

音楽や映画は売り上げ至上主義になっているようなところがありますね。売れたからいい音楽だ、いい映画だみたいな。

マリカさんがおっしゃるように需要を伸ばす教育や宣伝がたしかに必要なんでしょうね。売れたからいいものだという信念は、あまりにも識別能力がなさすぎですね。まあ、もちろんなにがしかの判断材料にはなりますが、最大公約的に売れたものが、私個人にとってのベストになるとはとても思えません。いまの自分にとっていちばん必要なものが、みんなに売れたものとは限らないと思います。

私は音楽はベスト10とかお世話になりましたが、本はまったくベストセラーなんか相手にしていません。自分がいま読みたい本はいまベストセラーになっている本と当たることはほとんどありません。本は自分の趣味・嗜好で選びやすいですが、音楽はそれを聴かないと選別する機会がないので、ベスト10のような機会が必要だったのだと思います。

「売れるものと本物は別だ」ということばはよく聞きますが、どうも私はそのことばはあまり好きではありません。なんていうか、「本物」ってそんなものあるのか、と思ってしまいます。けっきょくは、自分個人にとってよかった/よくないが、大切な基準ではないかと思います。あまり他人の評価とすりあわせても意味がないんじゃないかとも時に思ったりします。

「喝采を意識している人は、純粋に創作する喜びに浸ってはないのではないかな。」――これはいいことばですね。芸術というのは評価や喝采より、創作する楽しみがあればいいのであって、あまり評価なんて関係ないのかもしれません。評価を気にしだすと迎合的になり、週刊誌やワイドショー、またはネットの話題記事のような扇情的・好奇的なものに走りがちになりますし、売り上げを気にしだすと、一般受けするものばかり探すようになるのでしょうね。でもそれでメシを食う創作者はそうならざるをえないのでしょうが。

この記事にはあまりにもおおくのことがらをつめこみすぎて、私自身もいったいなにをいわんとしているのかよくわからなくなっていますが(泣)、たぶんに創作と評価の相克みたいなものを書こうとしたのでしょうか(笑)。多面的な問題をごっちゃにしすぎていますね。

まあ、経済的な価値観より、芸術的な価値観で生きるような人生がこれから求められるんじゃないかということでも語っているのかなとも思ったりします。すいません、はっきりしなくて。のちの記事でもっと詰めたいと思っております。

参考になります

ちょいと

すいませんが、「作者」と「作品」の社会的評価をごっちゃにしてるだけなんじゃないかと思いました。



■作者を評価するにあたり、楽しんで作りたいものを作ってる作者は、多くの人に良い印象を持って迎えられてます
真面目な宮崎駿や黒沢明なんかも尊敬されてますよね
■作品を評価するにあたり大ざっぱに見て「多く売れた作品=多くの人から良いと価値判断されたもの」であり
「少なく売れた作品=少ない人から良いと価値判断されたもの」だと思います
商業作品であれば、どうあがいても社会的評価と金銭の結び付きを避ける事は出来ないと思います

「売れない中にも良いものはある」と言うのは、誰にとって良いものなんでしょうか。
大衆にとって良いものなら、単に宣伝不足かなと思います。

申し訳ない。区分けされる意味がわかりません。このようにわたしの中では区分けされていないのでしょうね。

この記事は評価されることのマーケットの少なさをネガティブに捉えすぎている感がありますね。

承認されることは人の大きな目標であっても、芸術家として評価されるマーケットは少ない。人に評価されることの希少性を嘆いているだけの記事かもしれません。

絵画系のって自己表現の為にやる物じゃないの?
賞賛は欲しいだろうけどそれ以前に自分の中にあるものを表現しないと気が気でない人がやるものだと思う
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プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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神秘思想は怪しくて、オカルトだというイメージがあると思う。

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