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01 01
2008

書評 社会学

『スポーツニュースは恐い』 森田 浩之


4140882328スポーツニュースは恐い―刷り込まれる〈日本人〉(生活人新書)
森田 浩之
日本放送出版協会 2007-09

by G-Tools



 いい本であった。無意識に刷り込まれるスポーツニュースのメッセージを読み解いたメディア・リテラシーの本で、この手の本を読むといつもメディアは「こんなことを語っていたのか」と感心させられる。

 無意識にぼーっと見ているTVだからこそ言葉で明確に語られると、そのメッセージをはじめて気づかされることになる。だから言葉で語ったメディア・リテラシーの本を読むことは重要な体験だと思うのである。言葉で語られるまでその知識は存在しないのである。

 数年前、Jリーグとかワールドカップで日本中が異様にわきたった時があった。「ぷちナショナリズム」と危ぶまれた声もあった。日本中がワールドカップの勝敗に一喜一憂したという感もあったが、私はまったくカヤの外で、身近な職場でもけっこう見なかった人も多かったのではないかと思う。

 ちなみに私はスポーツはまったく見なくて、女子マラソンくらいしか見ない。野球はあの喧騒とかパッチ姿を見るとすぐにチャンネルを変えたくなるし、Jリーグなんてそもそもはじめからカヤの外だ。オリンピックを見ようと努力するんだが、つまらなくてすぐやめてしまう。スポーツを嫌悪しているというより、もう「存在しない」も同然の状態である。

 職場では野球を語るオヤジの層がいて、もう下の世代には共有できない話題だと理解してきているし、Jリーグ世代はこの話題はみんなで共有できると意気こんで話すが、じつは通じない。みんなに通じ、共有でき、なおかつ強制できるスポーツの話題というのはもう存在しなくなったのではないかと思う。だからワールドカップで全国民が盛り上がった、という話を聞いてもどこの話だと思うし、ぷちナショナリズムと危ぶむ声もカヤの外である。メディアのコミュニティ性とかナショナリズムの効力というのはだいぶ弱体化しているのではないかと思う。

 この本では「スポーツニュースに向けるオヤジな目線」とか「人間関係に細かい」とか、「日本人メジャーリーグが背負わされる物語」とか、「ワールドカップでつくられた日本人」とかがあぶり出されていて、なかなかおもしろい。

 女性は「速く、高く、強く」なってはいけなかった。そのために女子選手は女としての役割、谷亮子のような母としての役割、男が支えての勝利、高橋尚子と監督のような擬似親子関係が強調されたりする。なるほど、女子選手に与えられる役割を注意して見る視点を与えられた。

 日本人メジャーリーガーに背負わされる物語もおもしろい。日本は落ち着いて帰ってくる場所として描かれ、アメリカは試練の場所であり、日本人メジャーリーガーはたえず日本食以外の食べ物に慣れるかとか、英会話はできるかと聞かれる。かれらは「われわれ日本人」の共通性を確認できる存在なのである。なおイチローはそういう枠をこえてしまったので、日本人の物語を背負わされることはないそうだ。

 世界中の刷り込まれる「国民」もおもしろかった。アルゼンチンのサッカーは1920年代に強さや持久力のサッカーからテクニックとファンタジーのサッカーに変わった。それでは労働、規律、努力といったそれまでの国民のアイデンティティと拮抗してしまう。そしてアルゼンチン国民はアリとキリギリスでいったら、キリギリスになる国民性を選んでしまうのである。

 イギリスの国民性づくりの大衆紙もすごい。サッカーのひとつの試合に先の二度の世界大戦を同列に記事の中に並びたててしまう。ドイツと戦うときなんかそれは強烈になるし、イギリスの凋落もあいまって激しさを増す。まさに「世界大戦」をサッカーで闘うのである。

 ヨーロッパでは国民性のステレオタイプがあるが、ヨーロッパ北部や南部の国民たちは貼られたマイナスのレッテルをそうではないと思っている。どうやらそのステレオタイプは中部(イギリス、ドイツ、フランス)がつくっているらしい。それは「どれだけ仕事ができるか」という基準でつくられているらしい。「われわれは仕事ができるが、かれらは怠けている」というステレオタイプを貼りつけるのである。これは日本人の国民性にもついてもまったく当てはまるだろう。

 ワールドカップの日本人の国民性の分析がとくにおもしろかったし、重要な指摘をたくさんふくんでいると思う。ワールドカップは夜中におこなわれて勝手に「寝不足の人が増える」と決め付けられているし、「列島が沸き立った」とてわれるが、まったくカヤの外の人もかなり大勢いるのだ。たぶんこれはサッカーというよりか、国民を代表するTVというメディアの自負ではないかと思う。

 いつも日本は世界を基準にする。世界は遠いとか、届かなかったとか。世界にいつも日本は評価され、世界の背中を追いつづける。日本は世界の基準から逸脱した劣等生だ。この漠然とした世界をもつために日本人はいつも努力や勤勉、不足感を感じさせられるのではないだろうか。「理想」と「現実」である。日本は組織力が強みだとかいつもいわれるが、それはほんとうのことか、他国と比較して検討した根拠はあるのか。組織力は身体能力と対比され、それは「文明と未開」の二分法を当てはめられるのである。

 サッカーを語るとき、日本人論や国民性が頻出することになる。個性がない、優等生、責任を負う個人がいない、自由が苦手だ、とたいして検証も論証もされない漠然としたイメージが語られる。技術や戦術が語られるのではなくて、国民性がいつの間にか投影されるのである。アホらしいといえばアホらしいが、そのような国民性の投影がないと、スポーツはわれわれの熱狂できる国民的ゲームとならないのだろう。

 この書はいろいろ問題や洞察をふくむ指摘がなされていて、けっこうおもしろかったのではないかと思う。ナショナリズムや「日本国民性」はここで刷り込まれるのである。じつに単純で明快な根拠のないステレオタイプが刷り込まれるわけだが、われわれはこうやって日本国民としてのアイデンティティを漠然と育てるのだろう。なんか情けないステレオタイプである。

 そしてわれわれの国民性といわれるものはたいがい他国も共有していて、たとえば単純に終身雇用とか集団主義といわれる日本の国民性も他国にあって、他国にはないと思われているそれらを他国に見い出すと驚いたりする。「有」か「無」かの単純な二分法におちいってしまうのである。工業化、先進化している国々のあいだにおいてそんなに単純な二分法はありえない。人間の根本的なものや基本的なものはだいたい他国にも共有されていると考えたほうがいい。そういう意味で単純な自国性というのは警戒したほうがいいようだ。

 勉強になる本である。わかりやすく書かれているし、読みやすくもある。自分のメディア・リテラシーを試す意味でも読まれるのもいいと思う。


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