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12 13
2007

レイライン・死と再生

クリスマスが「性なる夜」になった理由

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 ことしもクリスマスのシーズンがやってきた。キリストの誕生を祝う祭日が、日本ではなぜカップルの「性なる夜」になったのか。てんで信仰のないキリスト教でどうして日本人は厚かましくもキリストの誕生日に酔い、カップルは性交に励むのか。このおかしな謎を解く鍵は、意外に古代日本の世界観および天皇の儀式にあったのである。

 去年もこのテーマについて書いたのだが、ブログは過去の記事がかえりみられることは少ないので、ことしも書くことにしよう。

追記】 結論を先にいっておきます。ひじょうに読みづらい文章だと思いますので。

 クリスマスというのは日本のむかしの冬至祭りがよみがえったもので、古代の日本の人は冬至に一年の太陽は死に、神々の性交によって新しい太陽は生まれると考えていました。冬至は新しい太陽の種付けの日で、古代の天皇および庶民はその日に太陽の種付けをして来年の豊穣や繁栄を祈りました。

 その旧来の冬至の祈りの記憶・無意識が現代のクリスマスによってよみがえったために、禁欲であるはずのクリスマスが日本ではカップルの「性なる夜」になったということです。

 いわば古代の太陽信仰がクリスマスのかたちを借りて復活したということですね。古代の太陽は天皇や神が性交によって生み出すもので、庶民はこの儀礼にならって来年の豊穣や繁栄を祈願しました。現代のカップルがクリスマスに性交にはげむのはこの古代の記憶・慣習を現代によみがえらせたのでしょう。




 謎を解く鍵は季節の太陽にある。それも日本の古代神社や山岳にその根拠はのこされているのである。キリストの誕生日とされる12月25日は冬至から三日後であり、太陽が一年でいちばん弱まる時期である。古代の人はこの日、太陽が死んでから、新たに生まれる日だとした。

 古代日本人は太陽が沈む西の方角に黄泉の国、死者の国を思い描いていた。そして東の山に新しい太陽の生まれる国を思い描いた。太陽は東の山に生まれ、そして西の山もしく海で死ぬのである。そこは聖なる地であり、神の山として祭られたり、あるいは神聖な神社が建てられた。

 古代日本ではこのような神体山や神社仏閣が太陽の季節ごとにのぼったり沈んだりする地に結びつけられていた。冬至や夏至、または春分・秋分の太陽の日の出・日の入りの地点に神体山が鎮座していたり神社は建てられたのである。天皇または巫女はそのような方角を結びつける聖なる場所から、太陽の死と再生を祈念したのである。

 古代の人は太陽は冬至に死に、新たによみがえると考えた。そしてその死と再生を生成させるのは神々の性交である。つまりは太陽や季節は、性交によって生み出されるものなのである。神は、あるいは神と目された天皇は性交によって新たな再生を生み出す。この世界は神々の性交によって生み出されるものなのだ。神である天皇は性交の儀式によって新たな年の世界や太陽または神々を生み出すのである。

 このような性交によって太陽または大地母神といったものが生み出されると考える世界観は世界中で信仰されていた。太陽神が信仰された地域はエジプトや南米、またはひろくユーラシア大陸にひろがっていたのはご存知であろう。太陽がいちばん弱まる冬至はこの世界の根源である太陽の死と新たな再生の日である。したがってこの日は世界中でいちばん重要な日と目されたのである。

 キリストもおそらくは太陽神または大地母神、あるいは穀霊といったものが仮託されて人格されたものだと思われる。殺されて、死んで、新たに復活するキリストの神話は、穀物の収穫と春の芽生えを象っているものだと思われる。あるいは太陽の死と再生であり、またはこの世界、大地の死と再生である。世界中でひろく信仰され、日本でも古代に信仰されていた世界観がこのキリスト教には色濃く刻印されているのである。

 したがってこの日本にキリスト教が入ってきたとき、日本の神話と同じ要素をもつ太陽の死と再生が日本人の心によみがえったとしてもなんら不思議はない。そしておそらくは日本の穀物の収穫の豊穣や再生の願いはしばしば性的放縦として許容されてきたものである。性交がこの世の豊かさや実りを約束するのである。むかしの日本人はこのような観念のもとに性的放縦に勤しんだのである。

 クリスマスあるいは冬至とは新たな年の収穫や太陽、または大地の種つけや豊穣を願う祈念の日である。それは再生や豊穣は性交によってもたらされるものである。古代日本の天皇はこのようなことを願い、そして日本の庶民も性的放縦によってそれを願ってきたことだろう。

 つまりはこの世界の死と再生が性交によって願われる日なのである。クリスマスは外来のキリスト教がやってきたものというよりか、古代から信仰されていた日本の太陽あるいは穀物、大地の死と再生の世界観がよみがえったものといえるのである。したがって日本のカップルはクリスマスにおおいに性交に励むのである。

 これはもともと日本にもあったものである。キリスト教もその太陽や大地の死と再生の世界観が語られたものであり、日本と共通の神話を根底で語っており、したがって太古からある日本古来の信仰を再現しているに過ぎないのである。同じ共有されていた物語がキリスト教という新たな装いでやってきたから知らなかっただけであり、同じ物語の土台は西洋でも日本でも太古から信仰されてきたものなのである。

 私たち日本人は古代日本人が信仰していた太陽や大地の死と再生を、外来のクリスマスにおいて性交によって願うのである。西洋のキリスト教は性をはげしく抑圧する時代が長かったが、日本においては性的放縦や容認は長く現代に近くまでつづいており、したがって「性なる夜」はクリスマスに容易に復活したのだろう。

 私たちはキリスト教というヨーロッパのパッケージにだまされているが、古来からある太陽や大地の死と再生の信仰をクリスマスの夜に再演するのである。カップルは新しい年の太陽や大地をこの日に種つけ、または新たに生み出そうとして性交するのである。世界は性交によって豊穣に豊かに生み出されるのである。


関連記事
 クリスマスと性交と太陽の再生
 古代レイライン探索
 太陽の死と再生と性交

参考文献 私の書評にリンクしています。
 宮元健次『神社の系譜』 文春新書
 大和岩雄『天照大神と前方後円墳の謎』 六興出版
 吉村貞司『原初の太陽神と固有歴』 六興出版
 井本英一『飛鳥とペルシア』 小学館
 吉田敦彦『不死と性の神話』 青土社
 宮田登『王権と日和見』 吉川弘文館
 エリアーデ『豊穣と再生』 せりか書房
 クラップ『天と王とシャーマン』 出版文化社


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Comment

私は、30年来のクリスト者だ。
最近は、教会へも行かず、聖書も読まなくなってしまったが。

さて、イエスの誕生日であるが、これは、聖書の中に出てこない。すくなくとも、12月25日ではないことは、確かである。
なぜなら、主の降誕を知らせるために、天使が屋外で寝ていた、羊飼たちに現れるという場面が聖書にある、そこから類推して、夏場であろう。
冬は、羊飼い達は、屋外で寝ることはない。

また、モミの木とイエスの間にも、何の関係もない。イエスの生まれた地方には、モミの木はない。

イエスの生誕日が12月25日になったのは、冬至と、イエスの死と復活を重ね合わせたものだろう。
そういう意味では、太陽とイエスを同一視する考え方が、教会儀式の中に入り込んできたのだ。
これらの考え方は、キリスト教が、ヨーロッパに広がるに連れて、現地の土着宗教と融合、あるいは、キリスト教が、積極的に、原始的な信仰をくみ上げ、キリスト教的意味づけを行ったためである。

ちなみに、北欧のプロテスタントは、クリスマスツリーを嫌う人も多い。これ、彼らの、原始的なギーの祭りとの、混同を避けたいとするからだ。

神が最初に人類に与えた命令は、『産めよ、殖やせよ、地に満ちよ』であるから、性に対する禁忌は、本来的なものではない。
これらは、聖パウロの性質に由来する。

聖パウロは、キリスト教の立役者であり、プロパガンダである。
彼の功罪を考えると、あまりにも、イエスの教えを曲解し、自分流の宗教を作ってい点で、キリスト教至上、最悪の人物と言うほかない。

しかし、現在見られる、ローマカトリック、プロテスタントは、ことごとく、このパウロの土台の上に、立てられている。

さて、我が国のキリスト教であるが、この季節になると、様々な英語人たちから、私のところへ、問い合わせが来る。
ようするに、日本のクリスマスについて教えてくれと、言ってくるのだ。

非常に答えにくい質問である。
長々とわが国の特殊事情を書いても、理解されるどころか、反発される恐れのほうが強いのだ。

とくに彼らはアニミズムに、馴染みがない。そこが、困るのだ。無意識的に、先進国は、みなキリスト教文化圏だと思い込んでいる。
その上、一神教、絶対優位の考え方が、しみこんでいるのだ。

その点、最近は、若者を中心として、日本文化が欧米で受けている。彼らも徐々に変化しつつあるのは、それなりに感じている。
アニメや漫画、日本映画の影響は、けっこうあるのだ。

おおいに、奮闘して欲しい。







水がめ座さん、こんにちは。
クリスト者としてこの見解をどう捉えられるのか興味がありました。

こんにちのキリスト像はすっかり人格化してしまっていますが、私は実在しなかったと考えられるのではないかと思っています。

太陽神や穀霊、大地母神の信仰がリニューアルされたものではないかと思っています。この冬至によって太陽や大地が新たに生まれるという信仰は世界中にひろがっていて、ヨーロッパもご他聞にもれません。イギリスのニューグランジやストーンヘンジ、あいるはモンサンミシェルといった遺跡や教会は太陽信仰に関わりがあると考えれます。

キリストが自身の肉と血であるパンとワインを弟子たちに与えたのは、これは大地が自分の身から成る穀物や食べ物を与えることを象徴しているのだと思います。

南米インカやアステカで神々に残虐な生け贄が捧げられたのは、大地や穀物はそのように傷つけられ、殺されているから、人間も同じように見返りを与えなければならないという考え方にもとづいていると思われます。日本の神話にも自分の身体から食べ物を出して汚いといって殺され、またもや身体から穀物や食べ物をたくさん芽吹かせたという奇妙な神が出てきますが、これは大地の実りを語っているのだと思います。

キリストの復活は穀物が秋になって殺され、収穫されたのち、春になってよみがえる季節のサイクルを象徴しているのだと思います。じつはキリストは季節の巡りやサイクルを象徴した存在ではないかと私は思うわけです。世界はこの太陽の死と復活、あるいは大地=穀物の死と再生に、人々は多くの崇拝や畏敬の念を捧げてきたのではないでしょうか。

このような信仰は古代日本にもあり、性交が豊穣や再生を推進するがゆえに古来の日本では性的放縦が認められていたのだと思います。天皇も新嘗祭や大嘗祭ではそのような祈念をこめて性交をかたどるような儀式を、たしか行うと私は記憶しています。

日本人は太古の儀式をこんにちクリスマスに復活させているのだと思います。新しい年の太陽、または穀物、大地母神を種つけるわけですね。日本では盆踊りのように収穫の秋に性的解放がおこなわれて、豊穣が願われるイメージが大きいですが。クリスマスは太陽の死と復活を日本にふたたびもちこんだわけですね。

アニミズムや大地母神のようなとうの昔に去ってしまったと思われる信仰は根強くわれわれの世界観や信仰に残っているのではないでしょうか。この世界が太陽の強さや弱さ、季節によって大地の実りや収穫をもたらすのは、何千年何万年たっても変わるものではありません。そういった意味で現代人も太古と変わらないパラダイムの中に生きているのではないでしょうか。

私は新約聖書や創世記は読んでおりますし、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』は愛読書でありますし、シレジウス瞑想集やエックハルトの教えなど興味深く読ませてもらいました。この根幹にある神秘思想、悟りの思想といったものは仏教や禅の悟りとなんら変わりはない、通底しているものだという思いを強くもつのですが、キリスト教も日本の神道も死と再生という世界観を根底に共通してもっているのではないかと私は思っています。

キリスト伝説

うえしん殿、まず最初に、キリスト教成立の過程を研究し、のち、その歴史的発展を調べる。さらに、中世とルネッサンス、そして近代におけるキリスト教、帝国主義とキリスト教これを、ぜひ押さえて欲しいですね。
もちろん、神秘主義キリストもあれば、錬金術との関係、異端、そして、近代科学の誕生とカソリック、すべて重要です。

ほとんどの方は、出来合いの、ヨーロッパ化されたキリスト教しか知りません。これでは、キリスト教の本質が、分かりにくい。

もしタイムマシーンがあって、今の熱心なクリスト者を、歴史上のイエスの時代に連れて行き、実際のイエスに会わせたら。おそらく、ほとんどのクリスト者は、幻滅のあまり、棄教するでしょう。
私は、そう考えています。

つまり、我々は聖書と教会、教義を通じて、伝説の、作り上げられたイエス像に感動し、洗礼を受け、信仰告白を通じて、クリスト者になった。
それが、実際のイエスを見れば、一瞬にして、伝説は、幻滅へと変化するだろう。
そう思いますね。

聖書は、基本的に、イエスが神の子であることを、信じ、それを証するために、信者達によって書かれたものであり、その解釈権は、カソリックが持っております。
現在の聖書は、ローマカソリックが編集したものです。当然、解釈や著作権(もし、それがあるとすれば)はカソリックに所属します。
私は、カソリックではありません。

したがって、現存する聖書を通じて、うかがい知るしか、イエスへの理性的接近はありえないのです。
もちろん、神秘的解釈を否定するわけでは、ありません。

さて、このイエスの誕生日でありますが、もともと聖書には書かれてありません。
それは、あたり前なのです。
なぜなら、信者達は、世の終わりが、もうまもなく来て、イエスの再臨があると、信じているわけですから、そんな切迫した状況で、誰もイエスの誕生日になんか、関心はないのです。
もう、まもなく、世は、終わるのですから・・・

それが、残念ながら、世の終わりは、やってこず、またイエスの再臨もない。そんな状況が二千年もつづいているのですから、クリスト者たちは、ああでもない、こうでもないと、議論を始めたのです。

ここに、神学が生まれたのです。

もちろん、科学も実は、カソッリクから生まれたと言っても、過言ではありません。
最近のアホで、無知な科学者は、教会=反科学、科学=真理の探究、という、ばかげた公式をふりまわしております。
近代科学の最大のパトロンは、ローマカソリックであったのを、お忘れですね。

ガリレオと教会ですら、本質的に、対立状態にあったのではないのです。
あれは、政治的失敗と、偶然の結果です。
もし、ガリレオがもう少し、政治的にうまくたちまわっておれば、地動説は教会の正式教義になったかも、知れないのです。

さらに、パウロとイエスの、決定的な違いを知る必要があります。
現在のキリスト教は、パウロ教といってもマチガイありません。
真の、イエスは、現在知られているものとは、そうとう違います。

長くなりますので、また、コメントします。






水がめ座さん、こんにちは。

もちろん私はキリスト教信者の方のようなキリスト教に関する教養をもっておりません。おそらく水がめ座さんのキリスト教理解に太刀打ちできないと思います。

そもそも信仰というものがどういうものか分からないといったほうが近いと思います。知識を得ることとや本を読むことと、信仰はどう違うのかもわかりません。

キリスト教というものは聖書至上主義というか、聖書以外の解釈から離れたら異端ということになるのでしょうか。科学というものは今日の学説を否定することから出発するといって過言ではないと思いますが、こういう態度は信仰では否定されるのでしょうか。

まったく私には信仰というものの意味がわからないもので申し訳ありません。信仰者にとってこの記事のようなキリスト=大地母神は外道なのでしょうか。このような解釈は許されないものなんでしょうか。

私はアニミズムや原始宗教といったものを進歩史観にあてはめて未開や未発達のものとする考えをあまりもちません。それらの世界観には感心させられますし、豊かな世界観をもっていたのだと思います。

科学が絶対だなんていう考えはこんにちのポストモダンの洗練をうけていますから、ひとつの解釈や言語ゲームにすぎないと基本的に認識しています。ガリレオは神の精密な世界を実証するために宇宙の機械論的認識を探究したのだと思っています。べつに優劣や進歩を競うつもりでこの記事を書いたわけではありません。私は大地母神の世界観が残っているとするのなら、すばらしいことだと思っています。こんにちの環境破壊的な技術観を打ち倒す認識に近いものがあるものですから。

なにを議論していいのかわからなくてすいません。

ウィキペディアのクリスマスの項目にはこのように書かれています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9

「クリスマスの習慣は、もともと太陽神崇拝などキリスト教以前の宗教に由来しており、聖書に由来しない。」

「12月25日の生誕祭は、遅くとも345年には西方教会で始まった。 ミトラ教の冬至の祭を引用したものではないかと言われている。」

新興宗教のキリスト教はもともとあった太陽信仰や冬至の祭に重ねることによって、信仰の広がりを大きくしていったのではないかと思います。もともとは大地母神や太陽信仰の土台のうえにキリスト教がのっかったわけですが、私にはキリスト教はこの神話と同じものを語っているように思われます。

議論の土台が違うかもしれませんが、どうもすいません。信仰というものはこういう推測を基本的にうけつけないものなんでしょうか。

理性的信仰?

信仰というのは、いってみれば、男が、ある女にホレルような心理状態です。
他人から見れば、バカバカしいが、本人は、夢中です。そして、何がそうさせているのか、本人にも分からない。こういった状態に近い。

それが、全世界で普遍的に見られることから推測して、人間の魂の本質が、そもそも、宗教的にできているのだ、と考えられます。
ただ、近代に入って、魂を理性的に捕らえなおす(可能、不可能は別として)機運が起こってきた。
その点で、近代の信仰は、質的に異なってきていると思います。ただ、そういう潮流に、反対する信者が多いのも事実です。

その原始的信仰への回帰運動が、現在アメリカで物議をかもしている、原理主義キリスト教です。これは、かなり危険な精神運動です。

さて、イエス=地母神、ですが、もともとキリスト教は、ユダヤ教から派生的に誕生したもので、したがって、ユダヤ教の資質を受け継いでいます。
ユダヤ教の特徴は、徹底した「男性原理」と、「一神教」です。
これ、心理的に言っても、そうとう異常な宗教です。

これが、ギリシア・ローマ世界へと広がっていく。さらに、ヨーロッパへ入って、ゲルマンを改宗させる。その拡張の過程で、異質な宗教との出会いがある。というか、キリスト教の方が、あまりに異常・異質すぎるのですが・・・
キリスト教(異常な宗教)が、普遍的宗教・アニミズムを征服していく過程でもあります。

その中で、様々な妥協が行われる。もともと、キリスト教は、きわめて素朴な宗教で、とくに教義と言われるほどのものもなかったのです。もちろん、儀式すらなかった。
それが、対立する他宗教との間で、あるものは、キリスト教の中に取り込まれていく、またあるものは、異端として、排斥される。
その一つが、聖母です。

この聖母という考え方は、素朴なカタチで、全世界で見られるものです。作物=大地=母=収穫=性交、と言った一連のイメージを形作っている。
とうぜん、イエスの活躍した時代にも存在した。が、イエス自身によって、その考え方は、否定された。
イエスを神の子とあがめる民衆のなかから、「神の子を、産んだ母は、聖母である」と声が上る。それを、イエスはしりぞける。
つまり、血による結合ではなく、霊による兄弟姉妹こそが、尊いと言う。

血=母、それに対して、霊=父、この関係に重きを置く。
そのキリスト教がローマ世界に広がると、そこでは、聖母の考え方が強い。最初、聖母は異端であるとしていたが、やむえず、これを取り入れた。
それが、イエスの母、マリアが聖母となった理由です。
しかし、それでは、教義上の矛盾を生じる。この対立を収拾するために、マリア聖母は、大天使より、上の位であるが、神よりは下と決めた。

これによって、イエス・男性原理を守りつつ、妥協的に、聖母の考え方をキリスト教の取り込んだのです。
水と油の融合ですね。
したがって、イエス=大地母神、まで行くと、これは、異端と認定されるのです。

ただ、実際には、ヨーロッパのカソリックの教会に行くと、(私は、行ったことはない)祭壇の正面には、イエス、その脇に、一段低い位置に、聖母マリアを置くのだが、民衆の中には、子供のいない夫婦が、聖母マリア像の前に、子供を授かるようにと、お供え物を置いたりしているそうです。
ココまで行きますと、日本と変わりませんね。

特に、カソリックは、非常に現実的な政策を取ります。大胆な妥協もやります。それに比して、プロテスタントは、精神的に純化を求めるあまり、狂信的です。

あとは、また、次回。
聖書絶対主義、について書きます。

水がめ座さん、ありがとうございます。

宗教と恋愛の類似性をあげられた冷静さにはおそれいります。

私はまったく感覚的に神や霊魂を信じられないタチのようです。でも変性意識状態や霊魂、生まれ変わりの実証的な本はやたらと読んだ時期もありましたが。変性意識の宇宙との一体感を神との出会いというのなら、なんとなくわかるのですが、人格的な神といったものがどうしてもわかりません。なぜ神は人間の姿形をしなければならないのか疑問に感じてしまいます。宇宙の神なら地球上の生物であるものなのかなという気がします。

聖母マリアはたしかに地母神の性格を刻印された存在であると思います。これはイエス自身によって否定されたのですか。

マリアは処女懐胎の聖なる部分が強調されがちですが、日本の神話にも似たような存在が出てきます。ホトを織物の棒によってついて死んだ稚日女命わかひるめのみこと(日本書紀では天照大神)や、トイレで用を足していると神の矢がホトにつききささって懐妊するという話。前者は神として再生し、後者は処女懐胎によって神の子を生むわけですね。聖母マリアが神の子を生む構造と似ていますね。

つまりは神の子は処女懐胎によって生まれなければならないわけですね。同時にこれは神になるための死と再生の物語でもあります。死んで神になる。または天照大神はこのあとに有名な岩戸隠れをおこないます。つまりは太陽神は死ぬ。冬至の死と再生を語っているわけですね。これらの説は同一のものを語っている、性交によって新しい年、太陽、地母神が生まれるということではないかと思うのです。

マリアは日本では子授けの神として崇められているということですが、太古の神話によると、地母神は性交によって生まれたり、豊穣を育むと考えられていました。日本では岩の割れ目や洞窟など(つまり女性器の象徴ですが)から豊穣や再生、または誕生が育まれると考えられていました。いまでもそのような聖所で子授けの念が祈られたりします。

性器崇拝や性的崇拝の寛容の度が大きかった日本では性的放縦は豊穣や収穫を祈る神への捧げものでありました。したがって地母神というものは淫乱でありました。もしマリアが地母神の性格をもっていたとするのなら、この豊穣のための淫乱さと処女懐胎という聖なるイメージとしての激しい葛藤を経なければならなかったのでしょう。どうやってこのイメージの変換がおこなわれて成功したのかはまだ私は理解していませんが。

大地は母のイメージで語られることが多いのですが、エジプトでは逆になってしまた。大地の種子を育てる川を男性の精子にみたてて、天の女神ヌートは夫のうえにまたがり、子を授けるということです。かならずしも大地は母である必要がなく、男であったこともあるわけですね。モーセはそこから出エジプトをおこなったわけですが。ちなみにヌート神は夜に月や夜空を生み、朝になるとふたたび子宮に回収したという忙しい神であったようです。

キリスト教はこのような性的世界観をかなり厳しく抑圧していったのだと思います。大地母神のイメージは淫乱から処女懐胎へとがらりと変えられたわけですね。キリスト教は大地母神の崇拝から性的要素をすっかり消しとってしまった存在といえるかもしれませんね。

性への激しい禁欲がこの二千年の世界宗教のいちじるしい特徴でもあったわけで、この断絶はなぜおこり、なぜ必要だったのでしょうね。淫乱な大地母神はすっかり地上から追い出されたしまったわけです。

キリストはそれらへのアンチテーゼであったのでしょうか、それともオブラートにつつまれソフィスケートされたそれらの化身であったのでしょうか。

信仰、実在、禁欲

禁欲について、ですが、イエス自身は、禁欲とまったく無縁な生き方をしておりました。
酒飲みで、大飯ぐらいであったことは、聖書に書かれています。
その上、平気で身分の低い女とも、率直に会話をしたりして、まわりの者をあわてさせたりもしています。
また、あれほど愛を説いた人が、女を愛さなかったとは、考えにくいでしょう。

禁欲は後の、信者や、聖職者たちによって、求道的生き方として現れてきます。
ただ、修道院の最大の欠点は、禁欲ゆえ、次の世代を再生産することができないのです。あたりまえですけど。
禁欲の意味は、この世的なものを否定したいとう要求の、具体的な現われでしょう。

信仰の心理は、自分よりも気高いものがあり、その存在を前にして、畏敬の念にうたれるーこういった状態のことです。
日本風に言えば、「何か知らないが、ただ、そのありがたさに、涙がこぼれる」そんな、感覚でしょうか。

変性意識と神秘体験は、ほとんど同じものだと思います。
クリスト者にも、神秘家はいくらでもおります。また、私自身も、何度か神秘体験をしています。
あれは、甘美なものですが、神秘体験だけを追い求めるのは、邪道だと思います。
しかし、信仰なしで、神秘体験も、十分可能だと考えます。

ちなみに、禅の修業のときも、「狐つき」は、邪道とされております。
神秘体験は、その程度のものです。

やはり大事なのは、理性によって、信仰を把握することだと思います。
そうでないと、単なる、狂信とか、その程度の話です。

真夏のサンタクロース、降臨

こんにちは。
徐々に寒さが厳しくなってきましたね。

ジャパナイズされたクリスマスへの考古学的考察は、謎解きの要素も存分に含まれていて、読んでいて面白かったです。

イヴの日に性交することは日本古来の太陽信仰に根付くものであった・・・
これは現代においては斬新ですね。
ロマンがあります。

あと、どうでしょう。
日本では「元旦には家族揃って・・・」という家庭がまだまだ多いと僕は思うんですね。

恋人よりも親兄弟や親類との絆を優先しなくてはならない!?

クリスマスは親に邪魔されない年末のひと時。
平和ボケ、欲ボケした日本で大受けしたのも頷けます。

でも、本場ヨーロッパの静かなクリスマスとは大きな乖離がありますね。
これは経済が沈めば、廃れると思います。

やはり、楽しみというものは与えられるものではなく、自ら生み出すものなのでしょうね。

それでは、また。

水がめ座さん、こんにちは。

キリストはけっこう享楽的に生きたのですね。どちらかというと、禁欲的なイメージをもっていたのですが。

キリスト教は愛を説く宗教でありながら、性的な禁欲を説く、ねじれをもった宗教ですね。どこの宗教も求道者は禁欲に傾き勝ちですね。なんで生物学的な繁栄を禁止するような教えを説くのか、なぜそんな宗教が栄えるのか、不思議なものですね。

まったく推測ですが、豊穣や再生の信仰はぽんぽん親の分からない子を生んで困ったことになったのではないかと思います。それで産児制限たる禁欲の宗教が説かれるようになったとか。

う~ん、あるいは宗教層の支配者は欲や世俗を断った存在であってほしい、庶民に危険な存在であってほしくないという願望が求道者を禁欲に駆り立てたのか。あるいは欲をコントロールする人間を尊ぶのが宗教というものだからでしょうか。なんでなんでしょうね。

信仰についてですが、無宗教の人間は畏敬や尊敬する気高い存在をもちませんよね。したがってひじょうに世俗にまみれた志の低い人間になりがちですね。対象を畏敬する、もしくは何らかの感情をもつということは、それらの感情をもった人間になるということですね。つまり自分もそのような人間になる。人間を気高く保つひとつの方法が信仰といえるかもしれませんね。無宗教の低い欲や金にまみれた日本人と比べれば、一目瞭然ですね。。

神秘体験は宗教の最大目的と思っていましたが、違うんですね。禅なんかはひたすら言葉や概念を落としてゆきますから、それしか目的がないように思えますが。

気高きものに畏怖する、そういった感情は、自然や世界を制御できると考える人間中心のこんにちの世界で必要なものかもしれませんね。

たいく~んさん、こんにちは。

冬至の復活を願っての性交は世界的におこなわれていたみたいですね。太陽や大地は神々の性交によって生まれる。神の子孫たる天皇がその儀式をおこない、古代の天皇は神んだ後の復活を祈って大地の子宮たる古墳にその願いをこめたと思われます。

そして下の民衆にその習慣がおりていったのだと思います。夜這いなんかはその系譜とか思ったりします。

なぜキリスト教のクリスマスにその記憶がよみがえったのかは定かではありませんが、冬に太陽が死ぬから再生や復活を願わなければならないという太古のDNAが血を騒がせたのでしょうか(笑)。

それにしても冬至から一週間後がなぜ新年になったのでしょうかね。太陽が死んでから、新たな再生の太陽が一月一日に生まれるからでしょうか。こんにちでも新年に初日の出を拝みに行く習慣が日本にはありますね。クリスマスに種付けして、一週間後の一月一日に生まれるということでしょうか(笑)。キリストは太陽神であるというよりか、穀霊神の要素を帯びていますが、処刑されて三日後によみがえっていますね。このラグがよくわかりませんが。

クリスマスはカップルでひそかに子作りに励んで、正月にはファミリーで誕生を祝う、よくできた儀式になっていると思います。

キリストは実在の人物ではなく、死と再生のモチーフが語られたものではないかという考え方は、ウィキペディアの「死と再生の神々」でも指摘されています。日本でも古来、死と再生の儀式や祭をおこなってきたのがわかっていますから、これは世界的に信仰されていたのでしょうね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E3%81%A8%E5%86%8D%E7%94%9F%E3%81%AE%E7%A5%9E

この謎解きはなかなかおもしろかったですよ。神社や神体山の冬至や秋分の日のつながりを調べていったら、意外にも世界的にひろがりのあった死と再生の神話につながっていきました。キリスト教はこのモチーフを語ったものではないかという推測もそこで成り立たました。知識の楽しみとはこういうものが醍醐味だというものです。

あとはフレイザーの『金枝篇』がどうもこのことを語っているらしいので、いつか挑戦してみたいと思います。

ちなみに私はクリスマスはまったくふつうの日としてスルーします。キリストを信じるわけではないし、太古の呪術を願えるわけではないし。ことしは太陽の死と再生、というか季節の巡る来るこの世界に感謝を捧げましょうか。


どうも~

長門裕之さんの今朝のコメント
俺は何かを待っている。生涯で失いたくないものを失う時間を待っているんです。
いま動いているのは、人工呼吸器で自発的な呼吸ができない中で、心臓を動かすためにいろんなことを行っているが、 現状はどんどん、どんどん、それを待っているのがつらい。
ものすごい無情を感じる、そんなバカなことはありえない。

これは痛いほど分かる 心に突き刺さる言葉だ
考えたくも無い

ご冥福をお祈りします


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