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07 28
2007

人生論

人間の価値観なんて捨ててしまえ。


 私のバイブルの一冊として、櫻木健古の『捨てて強くなる――ひらき直りの人生論』(ワニ文庫)がある。ワニ文庫といえばおもちゃみたいな本を出していて、この本は84年に出て、いまでは絶版でamazonで1円で買える代物である。

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 この本のいっていることは「人間の価値観なんて越えてしまえ。無の世界に遊べ」ということなのだが、私はこういう主張の本でこれ以上の本を読んだことがない。もっとこのエッセンスを知りたいと思っても、同じような内容を語る書物はあると思うのだが、なかなかぴったりの本が見つからないから、私にとってのこれ以上の本はないのである。

「金銭第一主義の人もいれば、地位や名誉をことのほか重視する人もいる。だが、どのみち価値というものは、相対的なものでしかないから、我欲や我執からこれにとらわれると、チッポケな<有>に振りまわされる奴隷となって、<無>をも<絶対>をも見失う結果になる」

「もろもろの相対的な価値を――否定するのではなくて――超えた世界に生きる、すなわち<無>の住人になること」

「貧富貴賎にたいして平気、毀誉褒貶にたいして平気、吉凶禍福にたいして平気、その他のいっさいにたいして平気であれ」

「人間は価値感(観)にとらわれるから、卑小になるのだ。自分はそういうものを超えて、「無価値に」(超価値的に)生きた。だから、世間のモノサシから見れば、「一生を棒に振った男」ということになるだろう。しかし、ほんとうにこれを棒に振っているのは、もろもろの価値に執着している連中ではないのか」

「無価値に生きよ!
 一生を棒に振れ!」

「賢と愚、利口と馬鹿、才能や能力の有無、優劣……そういった価値尺度に、私たちはとらわれすぎているように思われる。そのモノサシで、自分と他人をいたずらに比較して、安心したり、劣等感にとりつかれたりして、心をせせこましいものにしている。"平気"になれないのである」

「<有>にとらわれ、ドーナツの環と穴だけを見つめていれば、小さな違いも大きく見えてこよう。しかし、広大な<無>の世界に出て、そこから眺めて見れは……? 人間おたがい、似たようなもの、ドングリの背くらべ……ということになりはしないか?」

「すなわち、かれらは、他人との比較はいっさいしていないのである。いわば、「人を相手にせず、天を相手として」自分を見、その姿をとらえる。その立脚点から――そこだけから――「われは愚なり」という自覚をなしているのである」

「「おれはダメだ」という式の自嘲や自信喪失、劣等感のたぐいはすべて、「人を相手にする」(自他の優劣を比較する)ココロから生まれるものであり、その裏にはつねに、優越感という小我的な欲望がある。
 一見、自己否定のように見えるこれらの心情は、じつはものすごい(そして醜い)我執から生まれるものだ」



 われわれは人間の価値観だけに生きる。まわりの知人や友人だけの価値観に染まり切る。むこう三軒両隣との優劣や比較だけにこだわる。視野が狭くなって、そういう狭い競争や価値観だけがすべてだと思い込むようになるのである。

 こういう卑小な世界観に凝り固まってしまったら、ときにはそんなせせこましい価値観を笑って、つきとばす必要があるだろう。なんてつまらないことにこだわって、人生をむだに過ごしてきたのだろうと反省すべきである。

 人間の価値観なんて捨ててしまえ。そういう優劣やヒエラルキーにとらわれてしまうと、けっきょくそれだけの人間になってしまう。そしてそれら一喜一憂し、生きるや死ぬかの騒ぎになってしまうのである。はっきりいって、そんな価値観は天や地球からながめれば、ゴミやノミ程度の視点でしかない。そういう視点からものごとや自分をつき落としたとき、自分のせせこましさや卑小さに笑ってしまうしかないだろう。

 人はこういう価値観から抜け出られたときに、ほんとうの成長があるのだと思う。比較や優劣にこだわったり、もだえ苦しんでいるくらいでは、人はなんの進歩も成長もない。世間や社会の価値観を抜け出たところに、人生の豊かさや真実を見い出すべきなのである。

 もし世間の価値観――たとえば金持ちや大企業、学歴などの優劣・ヒラエルキーに圧倒されたとき、私たちはこの視点を思い出すべきなのである。はたしてヒエラルキーの頂点にいる人たちは競争や優劣の価値観に囚われた操り人形、卑小な存在ではないかと疑ってみるべきなのである。そういうヒエラルキーを外した彼らは立派で平穏でおだやかな心をもっているのだろうか。私たちはこういう価値観のないところに安心と成長を見い出せるのではないだろうかと思う。

 この本は私の知恵のバイブルとしていつも心の片隅においておきたい本なのだが、ひとつ疑問が解けないことがある。この本に出てくる「無の達人」のほとんどが「偉人や有名人」であることだ。偉人や有名人であるからこそ、かれらの無価値な生き方も賞賛されるのではないかと。

 はたしてわれわれは街中で見るなんの価値も賞賛もされないような人たちに「人間の価値観を超え出た」ものを見いだすことができるだろうか。かれらは「脱俗」の栄誉が与えられべきものなのか。偉人でなければ、「無の達人」の称号はつかないのか。

 かれらの心の内面を推し量ることはできない。かれらが人間の価値観を超え出ていたり、安心安穏の心をもっているかはわからない。ただヒエラルキーや優劣のそぶりや演出の構えをもっているかはわかる。かれらは社会の価値観の役割をみずから演じているかそうでないかはわかるものである。かれらもヒエラルキーの頂点にいる人と同じようにヒエラルキーの劣位の役割をみずから負いかぶさっているのかもしれないのである。いわば社会の価値観を背負い、みずからが演じているのである。かれも社会の犠牲者――ふたつの両端の道化者かもしれない。

 人間が偉さや優越の気持ちをとるさることは並大抵のことではないと思う。だれだってあの人には負けたくないとか、あいつだけには負けたくない、カッコイイ姿を見せたい、ミジメでブザマな格好を見せたくないと思うものである。そんな心をはたして捨てられるだろうか。

 私たちが人間の価値観やヒエラルキーを否定するときは、自分の負けたり劣ったりしているときのいいわけや慰めに使われがちになるだろう。世間の価値否定は自己肯定の裏返しに使われるのである。人間はそこまで自分の偉さや優越にしがみつきたいものである。しかし負けたり劣ったりしたからこそ価値観や優劣を捨てられるポジションに立てるのであり、成功者はなかなか捨てられないだろうし、そもそもそんな必要すら感じられないだろう。

 人間の価値観など捨ててしまいたいものである。そうすればつまらない悩みやこだわりともおさらばできるだろう。そんなものは人生のムダである。比較や優劣のないところに自分の生きる道を見い出せるかもしれないと私は思うのである。




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Comment

無人島

無人島で一人生きるなら、
他人との比較に振り回されることもなく、

純粋に自分がどうやって生きていくか
ということだけを考えるはずです。

そういう境地になりたいですね。

古畑さん、こんにちは。

人間って暗示や言葉でいいづけることに影響されることが多いと思います。
「今日はいい日だな」とか「悪いことばかり起きる」と考えていたら、気分もじっさいに起こることもそのままになったりします。

考えたり、いったりすることがそのままその人の「現実」になります。
人間なんて自分の考えの「暗示」にかかっているようなものです。

じゃあ、その暗示をいいように使えばいいわけで、比較や序列を気にしないで生きるといったらそのとおりのことを自分でできるものだと思います。
もちろん暗示が弱かったり、まだ懐疑や根拠が薄いなと自分で信じられなかったりしたら、その暗示はどんどん崩れてゆきます。

自分をだますことがうまい人が幸福なのかもしれません。
もちろんだますといっても、ほかの人との整合性が悪くなると、その暗示が崩壊の危機に立たされますので、他者との衝突が起こらない暗示の修繕も必要となってくるということです。

うまく自分に暗示をかけてみましょう。それが「現実」というものです。
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