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01 13
2007

書評 社会学

『持続可能な福祉社会』 広井 良典

持続可能な福祉社会―「もうひとつの日本」の構想
広井 良典

持続可能な福祉社会―「もうひとつの日本」の構想

 61年生まれの若い著者であるからさすがに時代の変化をしっかりと捉えているし、たぶんこの年代あたりの世代から大きな時代の断絶を身をもって感じとっていたのだろう。それ以前の世代はこれからの社会の変化を乗り切ってゆけないのだろう。

 ラディカルな哲学考察もあって、こういう人に国の舵取りをお願いしたいと思うところだが、ベーシック・インカムのような国民に最低限の所得を保障するような、なんでもかんでも福祉でまかなわれる発想はよくないと思う。福祉には「恥」の感覚が必要だと思うし、財源はどうなるのか、ローマ崩壊のようなモラル・ハザードを導かないかと思う。

 この人の唱えている「定常型社会」はひじょうにに重要な概念であるが、つまり需要も成長も頭打ちになったポストモダン社会のことをいっているのだが、どうも社会がすっかり変わってしまったという認識がこの社会には薄いのではないか、というか忘れられていると思う。

 これほど重要な転換が何十年も前からおこっているのに、いままでと変わらない成長経済を期待する国民や政治家たちはいったいなにかと思う。この基本認識が欠如しているために社会はトンネルのような閉塞感に囚われつづけているのだが。

 需要が拡大しないのだから「成長による解決」は赤字を増やすのみだから、これからは労働時間の削減が失業率の減少につながり社会的善になる。働けば働くほど失業率が上る時代なのである。パイが大きくならず、定常化する社会には大きな発想の転換が必要なのだが、その前提である社会の断絶をみんな認識していないから、この社会は転がり落ちるのみなのである。なんでみんな「近代」や「昭和」は終わってしまったということに気づかないのだろう?

 この本で唱えられている人生前半の社会保障という発想もおどろいた。たしかに若者の失業率は10%近くになっており、当たり前に福祉の対象となる老人より相当な危機を迎えているのだが、この世代の福祉が考えられることもなかった。これはたしかに発想の転換が必要であるが、ただ福祉に守られる青年の中から強靭な精神や成長は見込まれるとは思えないし、他人に決められ指示される人生の息苦しさやつまらなさも配慮が足りないな。私はだから福祉が嫌いである。福祉は申し込み制にしてほしい。

 コミュニティ論の章もなかなか心に響くものがあった。日本人はウチには思いやりやいたわりの繊細な心遣いをはたらかせるが、ソトの人となると冷淡で無関心である。戦後の日本人はウチのコミュニティを会社のみにつくりあげてしまったために、街中にまったくつながりのない孤立した個人を数多く生み出した。ホームレスだってその無縁から生まれたといわれる。

 会社のコミュニティからはじかれてしまうと、まったく孤立してしまい、近所の人ともつきあいもなく、孤独死が増えたりするのである。孤立の度合いは先進国でダントツである。日本人はこれからソトの人に対する新たな関係性をつちかわなければならないというのは、まったく同感である。だから会社のコミュニティの価値観だけが突出してしまって、ほかに拮抗する価値観や共同体をもてないのである。私たちは街中のつながりというものを芽吹いてゆく必要性を胸に刻むべきだ。もちろんうっとうしい近所づきあいを乗り越えるものにならないとだれもコミュニティに還りたいとは思わないものであるが。

 私たちは近代という成長の時代を終えてしまい、需要も成長も見込めない時代に突入してしまったのである。問題を成長頼みの解決にゆだねることもできなくなってしまった。大きくならないパイをみんなで分け与えなければならなくなった。そこから労働時間削減やワークシェアリング、そして自由な時間をもつことによる人生の豊かさや人間らしい生き方の無限の可能性が展けてくるのである。若者はその変革待ちのために何年も社会の席を見つけられないのである。

 私が夢に思っていた社会のあり方は、この「定常型社会」という概念のすぐ一歩先にあったのである。私たちはこんな豊かな社会の行く末を目の前に控えておきながら、旧態依然の成長経済の亡霊しか頭に思い描いていないのである。いかに貧困な人たちの集まりであることか。たぶん59年の宮台真司あたりからは新しい時代をつくってゆけるのだろう。いまの45歳前後の人が社会を変えれらるかもしれない。

 村上龍もだれも近代化が終わったことの自覚がない、アナウンスしなければならないと98年にいっていたが、いまも状況は変わらない。この著者にはぜひ「定常型社会」という概念でがんがんとアナウンスしてほしいものである。TVの公共放送機構で宣伝してほしいものである(笑)。たぶん前戦争のような明確な区切りがないからだろう。「戦争」が終わったと知ってはじめて、人は新しい世の中の期待を心に描けたのである。


定常型社会―新しい「豊かさ」の構想 日本の社会保障 社会学入門―人間と社会の未来 ケアを問いなおす―「深層の時間」と高齢化社会 死生観を問いなおす
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成長経済のあと

年々、若者の数が減っていく。
それは、社会が、若者を今までほど、必要としないからだ。
私は、大阪に住んでいるが、通勤電車を見るたびに、感慨を深くする。
私は、段階の世代に属する。だから、昔の京阪電車のラッシュを経験している。
今、関西の私鉄は、阪神電車を除いて、どこも毎年乗客数を減らしている。
つまり、昔の計画で、巨大設備投資をやったが、今、それが遊んでいるのだ。
わが市でも、小学校も、中学校も、幾つかが廃校になっている。その跡地をどうするかという問題がある。
社会資本が、あまっている時代なのだ。
こういう時代に、若者は、何に夢を抱いて、生きて行くのだろうか?
吾らの時代には、共有できる、夢と未来があった。

これを、辛いと感じるか、豊かと取るか?アナタしだいだろうか?

私も大阪に住んでいますが、さいきんは電車に乗らないこともあって、十年二十年前のラッシュから人が減ったという実感はとぼしいのですが、団塊の世代が経験したラッシュとは比べようもないのでしょうね。

電車の乗客数はデータでみるとたしかに減っているのでしょうね。たしかこの2、3年前くらいで日本の人口が減りはじめたというニュースを見ました。大学だって定員割れで、選ばなかったらだれでも入れるようになりましたね。少子化をもろにかぶっている幼稚園の競争なんか熾烈なんでしょうね。

小学校や中学校が廃校なんて信じられないですね。私は新人類世代で中学でクラスが7,8組、40人の学級でした。団塊の世代はもっと多くて、二部制にしたという話も聞きますね。いまはもっと減っているんでしょうね。

若者の夢はたぶん心配ないと思いますよ。私の世代でも経済成長とか富の獲得に人生を賭けるという生き方はもういいやという気持ちはありました。経済成長がなければ、ほかの夢を見い出すはずだと思いますし、期待できないものはほかに譲ると思いますよ。

ただ経済的には非正規であるとかニートであるとか大変でありますが、これはどちらかというと経済に人生を賭けてきた世代の杞憂である部分もあるのではないかと思います。経済に期待をかけれない世代はあまりそのことを重大視しない、あるいはそのようになってほしいと私の願望があります。

私は経済や企業に夢や期待をかけない人生を生きたいとずっと思ってきましたが、世間の主流はこのことに人生を賭ける人がまだまだ多いみたいですね。私はもっとほかの価値観が育ってほしいと思っているのですが、そうならないのが残念でならないです。
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