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12 24
2006

レイライン・死と再生

クリスマスと性交と太陽の再生


 2年前に「なぜ聖夜が性夜になったかについての考察」をおこなったが、新たな知見が加わったので訂正しなければならなくなった。

 クリスマスとはキリストの誕生日を祝う日とされているが、それより昔には冬至に太陽の復活を祈るミトラ教の儀式であったのであり、古代日本にもそれと同じような太陽の復活を祈る儀式が性交に仮託されており、ゆえにクリスマスはカップルの性なる夜になったのは先祖がえりともよべるものであったのである。

 正月に初の日の出を見にいく習慣が現代日本にもあるが、それは新しい年の再生した太陽を拝みに行くためである。日本人は現代でも新しい太陽に神秘的なものをみているのであり、また日本の最高神は天照大神であり、つまり太陽信仰が現代でものこっているのである。国旗も日の丸である。

 古代には太陽は冬至の光の弱まった時期に死に、新しく再生すると考えられていた。西の山や海に沈んだときに黄泉の国(死の国)に入り、東の山や海にふたたび甦ると考えられていた。古代エジプトではその間を太陽の舟によって地下の海を運ばれるとされていた。

 このような太陽信仰は古代の世界の各地で信仰されており、その痕跡はエジプトのピラミッドやマヤの太陽神殿、イギリスのニューグランジなどにのこっている。ニューグランジは冬至の太陽の光が奥の石室に届くようになっているのである。

 現代日本でも太陽信仰の痕跡は神社や寺、山岳などを結びつけたレイラインにみることができる。神社や山岳は冬至や春分・秋分、夏至の日の出や日没のラインで結びつけられていたのである。有名なレイラインは「太陽の道」とよばれ、伊勢神宮の古代にあった場所から室生寺、長谷寺をとおり、三輪山、二上山をへて、大鳥大社、淡路島の伊勢の森へと一直線にならぶのである。

 太陽は神であったのであり、光の弱る冬至に死に、新たに甦る。古代の人は太陽の死と再生に生命の死と再生を重ねてみたのであり、生命の豊穣をつかさどるのは性交である。よって太陽の死ぬ時期に新たな生命を性交によって生み出さなければならない。冬至に性交がおこなわれるのは太陽や生命の豊穣を願ってのことなのである。

 初代の神武天皇は三輪山の大物主神と人間の娘から生まれた子を皇后にめとった。よって天皇は神の子孫とされる。古代天皇は太陽の死と再生や、または穀霊の死と豊穣を儀式で祈った。民衆の願いを総括する意味で、天皇は太陽や穀霊の再生をつかさどる存在でなければならなかったのである。

 また天皇自身も死後、神となって再生することを願った。太陽が死んで甦るように、また生命が冬に死に、春に新しく生まれるように、天皇は古墳にそのような願いをこめた。古墳は神となって甦るための再生の子宮だったと考えられるのである。

 冬至は太陽が死に新たに生まれ変わる日である。そのような神聖な日に太陽や生命の復活は願われて性交がおこなわれる。日本の祭りは稲が収穫される秋になって感謝の意味でおこなわれることが多いが、古代には太陽の死と再生を願う儀式が先行してあったと思われるのである。日本の性はかつてはおおらかであり、祭りには性の解放がおこなわれたり、神社には性器をかたどった神体が祀られていたりした。豊穣や再生を願う意味で性は神聖なものであったのである。

 クリスマスにはかつての日本のそんな習慣が甦ったものと考えられるのである。太陽の復活を性交によって願われるのである。そして当のクリスマスも古来には日本のような豊穣を願う性の儀式があったと思われるのである。性が豊穣を願う意味から、季節の死と再生から切り離されて、たんなる快楽や誕生の営みに変わったときに、禁欲と私秘化されるものになったのである。

 クリスマスはもともとキリストの誕生を祝う日ではなかった。冬至の太陽の死と再生を願う儀式であったのである。もしかしてキリストは実在の人物ではなくて、太陽や穀物の死と再生が象徴されて人格化されたものとも考えられるのである。自分の身体の象徴であるパンやぶどう酒を弟子たちに食べさせたのは穀物の秋の実りの象徴ならとうぜんのことであり、復活の話は春に太陽や穀物がふたたびよみがえる季節のサイクルとも重なるのである。

 キリストはわれわれ人間がほかの生命を奪って生きながらえるという罪の意識を癒す存在であったのかもしれない。中南米の古代文明で生け贄が捧げられたのは大地が血を流して食物をあたえてくれたのだから血で贖わなければならないという考えがあったからである。

 このような太陽や穀霊の死と再生の物語は日本でも、また古代の世界中でも信仰されていたものである。そのような古来の慣習がのこっていたからこそクリスマスは受容され、そしてこんにちのカップルの性夜として日本に定着することになったのである。クリスマスとはじつに日本の土着的な慣習なのである。


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Comment

時と空間 - Time And Space -

こんばんは。

日本のクリスマスは商業主義以外の何物でもない!と、僕は思ってましたが・・・意外な話を知って驚きでした。

ふと、日本人は古代ユダヤ人の末裔である、という話を思い出しました(飛躍しすぎでスミマセン)。

「失われた10部族」の伝説。
それは、歴史から忽然と姿を消した部族がやがて復活するという話なんですけどね。

さて、うえしんさんの二年前のコラムを改めて読ませて頂きました。面白いです。

漫画家の水木しげる氏が 『生まれた時から“妖怪”だった』(講談社α文庫) の中でも言ってましたが、「愛」とは一夫一婦制を守る為の方便に過ぎないのではなかろうか、ということを改めて感じましたね。

日本のクリスマス・イブが「聖夜」のカタチを借りた「性夜」になったのも頷けます。
なんせ土着なのですからね。

それにしても、この時期というのは不思議な時期です。
70年間にはシーラカンスが発見されましたし、ついこの間は自然懐妊した雌のオオトカゲが生んだ卵が孵化したりしてますから。

確かに、死と再生の時期ですね。

では、良いお年を。

再生するための性交。

こんちは。たいく~んさん。

たしかにクリスマスは商業主義のなにものでもないように思えますね。

だけど、考えたらキリストの誕生日の前夜にカップルがセックスするとはおかしな話です。神が生まれた日にですよ。それも禁欲を説くキリスト教の神です。

レイラインを調べているうちに日本の天皇は太陽の神と交わることによって神となったというような話が出てきたりしました。冬至は太陽が新しく生まれ変わる日です。

そういう神と交わって太陽の神を生むという天皇の儀式が、一般民衆に降りてきたものが、こんにちのクリスマスのカップルの性夜の基層にあるのではないかと思います。つまりイブの夜は新しい年の太陽の種を植えつける日なんですね。おおいに子作りに励んでくださいといいたいですね(笑)。

こういう基層は商業主義からだけでは見えてこない視点ですね。

「失われた十支族」は知っています。京都の秦氏がユダヤの末裔だといって、ユダヤ教的なものが神社に残るという話がありますね。まあ、キリスト教が奈良時代や縄文後期に入ってきてもなんのおかしなところもないと思いますが、日本人はべつにそんなに西洋人にならなくてもいいと思うんですが(笑)。

死と再生、または性交はむかしの日本人の世界観の要であったと思います。これは世界的に見てもそうみたいです。

新しい年の豊穣や再生を育むために性交がおこなわれる。地図上に痕跡が残るレイラインをたどってゆけば、現代人をも規定する世界観に出会えたのはひとつの喜びでした。

キリストも実在の人物ではなくて、そういう世界的にあった太陽や穀物の死と再生の物語が象徴されて語られたものかもしれませんね。

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