ジャーナリズムはなぜ被害者意識に凝り固まるのか?
斎藤貴男の『機会不平等』(文春文庫)を読んだが、拡大する不平等に戦慄を感じたというよりか、ジャーナリストってなぜこうも被害者の目線からしかものを見れないのかという違和感が先に立った。
この本はアメリカ流の市場原理主義による階層拡大に対する批判がメインになっている。たしかに悲惨で恐ろしいヴィジョンは現実になろうとしている。それに対する告発や批判は大切なことである。
ただジャーナリズムはなせこうも被害者的な目線ばかりでものを見るのか、少々不快に思った。私の立場としては市場原理の論理性にはかなり納得してきたほうだ。フリードマンやハイエクの見解にはかなり感銘してきた。平等やそのための全体主義はもういやだという気持ちがしている。
でも市場原理がよい世の中をつくるのかはまったくわからない。市場原理を徹底させれば、階級社会がほんとうにくるのかもわからない。市場原理はよいメカニズムをもっていると思うが、その先の結果はまるで見通せていないと思う。ただ不平等な階級社会はぎゃくに国家主義や企業主義ではない自由な生き方が可能になる社会がうまれると楽観はしているが。
だから自由競争社会の悲観論ばかりに視線をもってゆくこの本には少々の違和感を感じたわけだ。不平等や階層化はある程度受け入れるべきだし、そういう社会ではぎゃくに違う価値観や多様な生き方をはぐくめる可能性があるのではないかと私は思っている。平等主義や福祉主義が人々の自由を奪うのである。
平等を正義とした価値観だけで、人々を悲惨な境遇に描いたり、被害者だけにはしてほしくないと思う。平等を正義にすると、そこから外れる人が悲惨で救いようのない存在にされてしまう。
われわれは社会に出ると大なり小なり権力や階層のような存在を如実に、あるいは微妙に知るし、自分の境遇や立場の違いをじょじょに理解し受け入れてゆくものだ。不平等や差別があったとしても、それを受け入れて生きてゆくしかない。これが世の中の現実というものではないか。超えられない、変えられない立場というのは厳然とあるものだし、人々はそんなことを関係なしに自分の境遇を肯定したり、自分の生き方に誇りをもったりするものだ。
しかし平等正義感をもったジャーナリストの手にかかると、われわれは平等から外れた被害者で悲惨な存在になってしまう。当の本人はそんなことをつゆとも思っていなかったり、自分の境遇や立場に甘んじるしかない、または受け入れて自分の生き方を肯定してゆこうとしていることだろう。被害者意識や批判意識だけで世の中を渡ってゆくのは損失とじっさいの被害をこうむるだけである。そんな人生は自分も肯定できないし、楽しめない人生になるだけだ。
ジャーナリストはなぜこうも被害者意識でものを書こうとするのだろう。新聞が人気がないのは被害者意識に凝り固まっているからだろう。思い出せば、ニュースをふりかえってみると被害者ばかりが続出してきた。
大店舗法に対する小売業の苦しさや、労働問題なんかも自らを被害者と規定した人たちが出てくる。マルクス主義や共産党の人たちから見ると、少しでも平等や国家の庇護が与えられないと被害者になってしまう。原爆問題なんかも被害者意識である。部落問題も完全に被害者意識である。
被害者の窮状を訴えることは、「正義の味方」としてのジャーナリズムの面目を保てる。被害者という存在は加害者という「悪」を明確に立てれるから、正義と悪の図式化がかんたんになされてジャーナリストは正義の味方になれる。『水戸黄門』の構造である。被害者というのはジャーナリストが正義の味方になるための必要不可欠の弱者なのである。
その正義の味方というのは国家にケチをつけるばかりで、なんでもかんでも国家に陳情しており、国家に駄々をこねるだけの存在である。ニュースというのは全能の国家に対する「いうことを聞いてくれないから文句をいってやる」の子供みたいなものに写る。ニュースというのは強くてなんでもできる「大きな政府」を必要とする存在なのだろうか。
戦後の政府は多くの役割を担わされて社会主義国家=全体主義国家化してきたから、国家は全能の神のように国民の福祉まで面倒を見る義務も生じた。そこに差別や被害者の救済を担う役割も出てきたわけで、政府は彼らの存在がとても大きなものになり、また癒着も生じたのだろう。被害者であることは利権や利益になったのである。弱者であることが利益であるとはなんと変なしくみなのだろう。
被害者は政府から利益をひきだすための便利なシステムになった。人々の共感や同情もとうぜん手に入れられる。ジャーナリズムもかれらの窮状を訴えれば、正義の味方になれる。こうして国家に対しての被害者続出のなさけない社会ができあがる。
戦後サラリーマンが増えたことも被害者意識の拍車と無関係でもないだろう。責任は自分ではなく、すべて他者にあり、それも国家がすべて悪いと唱えてまかり通るならこんなに楽な世の中はない。すべて責任は自分に帰ってくる自営業と違って、サラリーマンは責任をすべて会社や国家の責任にしても困らない。責任をだれかになすりつけておいたほうがよほど楽である。こうして被害者意識は増殖したのだろう。
被害者になっておれば、棚からぼた餅でうまいことが転がり込んでくるしくみが戦後社会にはあったのだろう。だけど自分を被害者だと規定してしまう生き方はすばらしいあり方だとはとても思えない。他者に責任をもとめる思考法もおそらく自分のためにはならなかっただろう。自分に対する厳しさがまったくなくなってしまう。親のせいばかりにして自立できない子供となんら変わりはない。
ジャーナリズムはこれからも理想に対しての被害者意識を煽ってくることだろう。われわれはいつも平等からこぼれ落ち、階層から転がり落ち、国家の庇護のない悲惨な被害者だと聞かされつづけるだろう。でも私たちはそういう境遇の中でも、人から悲惨だと揶揄されても、その中で生きてゆくしかないのだ。そんなことをものともせず、楽しく肯定的に生きるほうがよほど自分の人生に貢献すると思わないか。被害者意識なんか駅の売店にいっぱい売っているかもしれないが、頼まれても買いたくない。
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