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08 09
2006

市場経済

お金とは利他行為の強制か


 こないだから漠然と考えてきて、ちっとも考えがまとまらないのだが、お金の利他的側面とはなんなのだろうなと思う。

 私たちは生活してゆくために他人にサービスをしなければならない。パンをつくったり、服をつくったり、あるいはモノを売ったりと。われわれは他人にサービスをおこなわないと、生活をしてゆくことができない。つまりお金は他人への利他的行為の強制があるわけだ。

 アダム・スミスの説明なんかでは個人は私益を追究すれば、神の見えざる手が働いて経済がうまく回るのだと説明されたりするが、私たちは私益よりか、まずは利他的行為をおこなわなければ私益は手に入らないようになっている。他人に食事をつくったり、服を繕ったり、家をつくったりして、はじめて私たちは自分たちの私益に使えるお金を稼げる。他人のために何かをしなければ、私益なんか追求できないようになっている。

 お金はそういうふうに社会の構成員を利他行為に駆り立てる。他人のためになにかサービスをしたり、貢献しないと、この社会では生きてゆけないのである。私がだれかから新鮮な野菜やおいしい米を手に入れるためには、他人の服をつくったり、パンを焼いたり、または家電製品を組み立てたりしなければならない。そのお返しとして、私たちははじめて他人のサービスを手に入れる権利をもてるのである。お金とは利他行為の強制なのである。

 私たちはお金というしくみがなければ、このように他人のためにサービスをしたり、モノをつくったりしただろうか。一日中他人のためになにかのモノをつくったり、サービスをしつづけるようなことはおこなっただろうか。こんなに疲れる、尋常でない行為に人びとは駆り立てられただろうか。

 私たちはほんとうのところ他人のためにサービスや仕事をしたい存在なのだろうか。人の役に立ったり、人のためになにかをしたいと思うような資質をふんだんにもっているものだろうか。人の喜ぶ顔が見たい、人の喜びが自分の喜びだと思えるような善人ばかりで構成された社会なのだろうか。あるいは分業が進みすぎた社会では、自分の仕事によって人の喜ぶ顔がちょくせつ見れるような仕事もずいぶん減った。

 お金とは他人のために生きる人生を余儀なくさせる装置のようなものである。私はこの社会で生きてゆくために他人のサービスにほとんどの時間を費やす。利他行為ばかりおこなう人生である。こんな人生っていったいなんなのだろうと思う。

 もちろん人の役に立ったり、人のためにおこなう行為はすばらしいものである。お金がなければ、この社会の住人は利他行為にあふれた奇蹟のような人たちの集まりに見えただろう。

 私は思ってきた、仕事ばかりの人生や会社に拘束される人生なんていやだ、自分のために生きたい、自分のための時間がもっとほしいと思ってきた。お金や仕事を利他行為とみる側面から見ると、こういう考え方はずいぶん利己主義である。私は利他行為なんてまっぴらだと思っている、非情で薄情で、利己主義な人間なのだろうか。

 他人のために社会のために生きる人生はすばらしいものなんだろうか。自分のために自分の人生を生きるのは、利己的で、冷酷な生き方なのだろうか。私たちは自分のために、自分の喜びのために、他人のサービスに人生をとられるような生き方から降りることは、人間らしくない生き方なのだろうか。

 お金を利他行為だと捉えるのなら、自分のために生きる人生はずいぶん利己的で分が悪い。まるで自分のことばかり、利益ばかり考えている人間に思える。そうなのだろうか。

 お金はすばらしいものだと捉える人はそう多くはないだろう。お金は汚く、下品で、低俗なものと考える人のほうが多いのではないだろうか。お金を社会の利他行為だけで捉えるのは単純化しすぎているし、ほかの側面を排斥しすぎである。お金はむかしから私益や利益をむさぼる意地汚いものだと思われてきた。利他行為の側面から見られることは少なかったように思う。利他行為から見るのは片手落ちというものである。

 お金を利他行為と捉えるのなら、私はずいぶんと利己主義的な人間なのだろう。人のためになにかをしたい、人の喜ぶ顔を見たいといって、仕事にいそしむ人間でない。すこしでも仕事を減らして、自分のための人生、自分のための時間を増やしたいと思っている。私はあまりにも利己主義的な人間なのだろうか。

 人の役に立ちたいといって、他人のサービスにほとんどの時間を捧げつくすような人生がほんとうに良い人生なのだろうか。そう思えることがすぱらしいことなのだろうか。お金を利他行為の強制だと捉える視点からそういう疑問がわいてきたのであった。


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Comment

エゴイストは、社会の片隅で生きる

こんばんは。
読み応えのあるエッセイで、いろいろ考えさせられましたね。

お金との関係をいかに良好に築いていくか、これは本当に難しいと、僕は常々感じています。
追いかければ逃げられ、距離を置けば少しだけ寄ってくる・・・。
なんだか女性のようですねぇ。

まぁ、それは置いといて、ひとつの例え話なのですが、今日日、お金とはボクシングにおける「ポイント」 に似ている気がするんですよ。

ボクサーは次の2つのタイプに大別できるでしょうか。

①KO勝ちを狙う者
②作戦に基づき、判定に持ち込む者

言うまでも無く、積極的に倒しにいく者が賞賛されるべきだと僕は思います。

KO決着であれば、ポイントは無効になります。

結局、ポイントは、試合の過程において、どちらが優勢かを判断する為の材料に過ぎないわけです(ボクシングファンの方には怒られそうですが)。

お金も同じではないかと僕は思うのです。
大金持ちになることが最終目的ではない。
もがきながらも、自分の人生をいかに前向きに生きたかが大事なのではないかと。

7、8年前にたまたまサマージャンボを買ったことがありました。
100の位が0と1の違いで、僕は1億円を逃しました。
「成功」 とは宝くじに当たったようなものではなかろうか・・・(かなり強引ですが)。

明日自分に何が起こるかは誰もわからない。
とすれば、成功の方程式など幻想でしかないわけで。

アインシュタイが言ったように、地味な人生でいいのかもしれませんね。

では。

お金を道徳的にどう捉えるか。


たいく~んさん、ありがとうございます。

人の役に立つことは善でありますが、人のためのサービスに生きる人生ってなんだろうと思います。他人のために自分の時間をもてない矛盾。倫理的にいえば利己主義は悪でありますが、人のためばかりに生きる人生も生きがいはあるのかって、悩んでます。仕事やお金って利他主義の善なのでしょうか。

ところで一億円は残念でしたね(笑)。
たったひとつの数字の違いによって大金持ちとそうでない差が出てくるのが、お金というものですね(笑)。

まあ、宝くじというのは「夢を買っている」ようなものですね。「楽しい想像力」を買っているんですね。「逃した魚は大きい」の夢は、釣れた魚よりずっと心にのこるものですね。

金持ちになるのはもちろん目的ではありませんね。
そりゃあ、つまらない。過程を楽しめないと、人生は何のおもしろみもないものになるに違いないと思います。

ただマーフィーとか金持ち本によると、自分は金持ちだという気持ちでいることが、お金を引き寄せるといっています(笑)。金持ちのようにふるまえと。

お金というのは道徳観や罪悪感のために、私たちは貧乏な善人であるという立場をみずから選択するのかもしれませんね。お金の利己主義的または謙遜的態度が、お金が集まってくるのに歯止めをかけるのかもしれませんね。お金持ちは悪で貪欲であるという無意識の罪悪視がお金を遠ざけるという点もあるのかもしれませんね。

お金とは自分がどのような道徳的人間になりたいのかと密接に関係があるようです。あるいはお金をどう道徳的に捉えるかということですね。悪か、善か、どちらかで捉えることによって、お金のあるなしは決まってゆくみたいですね。

またお金は社会との関係――お金をどう捉えるかという考え方によって、自分と社会との関係を決定してゆきますよね。お金を悪いことだと捉えると、社会関係も肯定的に捉えられなくて、ひきこもりがちになるでしょうね。

お金に対する考え方というのは自分の社会の捉え方であって、同時にそれは自分と社会との関係も決めてしまうみたいですね。できれば肯定して祝福できる金銭観をもちたいですね。

お金を嫌っていたら、とうぜんお金は集まってきませんね。



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プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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