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03 25
2006

市場経済

権利や正義という「悪徳」

 モノは売れなくなれば値段を下げざるを得ない。それによって私たち消費者は安い商品を手に入れられる。百円ショップの登場によって私たちはずいぶん恩恵をうけた。土地はバブル崩壊以後下がりつづけているが、私のマンションの家賃はすえおかれたままだ。

 不況も15年もつづけば、労働の消費者たる会社は労働者の値段を下げたいとおもうだろう。しかしモノはかんたんに値下げをできるが、労働者となるとかんたんではない。

 解雇は困難だし、労働争議の歴史があるし、政府や世論は人間の権利や道徳をもちだしてくる。よって既正社員はすえおき、これから労働市場に参入する若者や女性の賃金を下げたり、非正規雇用で対応することになる。つまりは賃下げできない保護された既正社員が犠牲者を産出中なのである。

 市場でモノの値段が下がったからといって、モノ自身は文句はいわないし、保障や保護と叫ぶこともない。人間はそうではない。保障や保護を人間の権利や道徳として要求する。労働力もまたひとつの市場の商品だという覚悟がない。福祉を期待された国家は値段の機能がはたらかない。

 ウォルター・ブロックの『不道徳教育』のなかに「学問の自由」を叫ぶ大学教授の話が出てくる。それは顧客の意向を無視して、自分のやりたいことをする自由のことである。もし「配管の自由」というものがあれば、水道管を好き勝手につなげてよい権利になるし、タクシーやウェイターの自由があれば、客はどこに運ばれるか、なにを飲まされるか、不明だという恐ろしいことになる(笑)。

 人間というのはなにかに特権や権利を認めて、それを市場原理から例外的にはずして、供給者がエラい、守らなければならない、尊厳だと主張する向きがあるようである。ぱっと思い浮かぶのでも出版文化を守るための定価制とか、医療や教育の神聖化などがある。

 それは「お客様は神様ではなくて、オレたちにひれふせろ」というわけである。「オレたちはエラいことをやっているのだから、客はオレたちのいうことを聞いて、オレたちのいいなりになるべきだ」ということなのである。配管やタクシー、ウェイターの自由まで主張されるようになると、客はおちおち他人のサービスを受けられなくなる。自由原理を理想とする経済学者はこういう供給者のギルド化にいつも阻まれたきたわけである。

 客を守るより、供給者はいつの世も政治的に強く、市場原理をぶっつぶしてきた。犠牲はたとえば労働市場からしめだされた若者や女性というかたちをとったり、売れない本なのに文化的という理由で高い値段で買わされたり、医療や教育において私たちののぞまないサービスをうけさせられたり、エラそーにされたりと、代償はどこかで高く支払わなければならないのである。

 基本的に衰退産業や落ち目なものほど政治的に守られる。市場で食えないからこそ、政治力が必要になるのだ。落ち目な芸能人が政治的に守られて毎日つまらないテレビを見せられるのはたまらないだろう。衰退した自動車メーカーのポンコツ車に乗らなければならなのは苦痛だろう。政治的に守られた飛行機に乗るなんてもっとヤバイだろう。老人は労働市場で食えないから年金が用立てられるのである。

 神聖な職業や人間の尊厳は守られなければならないと人はいうだろう。しかし政治に守られたものはどこかに犠牲をしわよせし、腐敗した態度と見当違いのサービスを無鉄砲に生み出すようになる。市場は退場や値下げのしくみがあるからこそ、うまく働くのである。守られたものはほんらいなら安い値段だったものが高価格になり、どこかで犠牲をせっせと生み出しているのである。

 人間の権利や尊厳、福祉といったものはクセモノである。正義や道徳といったものは、どこかでまちがったものを生み出す。社会主義は道徳的であったが、権力者の独裁を生んだ。正義や道徳ってどうも正義でも道徳でもないなぁ。なんでだろう?

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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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