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01 26
2020

幻想現実論再読

禅風なアドヴァイダ――『絶対なるものの息』 ムージ

  

 ムージはプンジャジの弟子で、ということはラマナ・マハラシのアドヴァイダ(不二一元論)の系譜である。現代インド人の覚者ならヒンドゥー教なのだが、それはあまり表立っていわれない。

 ムージの本名はアンソニー・ムー・ヤングで、原著はこの本名で出ている。ジャマイカ出身で、ロンドンで40年以上暮らし、インドのプンジャジの弟子になる。ガンガジのような西洋人がインド風の名前を名乗るようなものか。

 この本は禅風の本人のイラストもはさまれていて、禅を感じさせる書物になっている。

 文章に銘記したい一節があるような文を書くタイプの本ではなく、全体でメッセージをつかめという本になっている。私は銘記しておきたい文章に出会いたいタイプだから、全体的なものをつかむのが苦手である。

 「あなたはそれである」――ゆえに努力や外側をさがそうとするなというメッセージをおもに語っていると思われる。私は外側に知識を漁りに行って、なかなか源流や「在ること」の意味をつかみかねるので、このタイプの教えが身につかない。なにもしなければ過ちをもった目でしかながめられないのだが、外をさがすのも禁止とされれば、どこへも行けないではないかといいたくなる。

 「真我」や「私は在る」といった言葉は、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラシの系譜を感じさせる言葉である。

 いちばん響いた言葉はつぎの一節である。

「マインドの書く記事はいつも過去のことであり、真実のイメージであって、決して真実そのものではありません」



 言葉や記憶というのは、それ自身であることは永遠にないのであり、いつもわれわれはこれをつかみにいって、「ほんとうのもの」「真実」をつかむことはない。それは「実在」しない頭の中のイメージにすぎないのである。この違いに気づかないと、私たちはずっと頭の中の夢の中で暮らすことになる。夢が実在を帯びた世界にとりこまれるだけなのである。

「あなたは神の存在を信じることはできますが、真実の存在を「信じる」ことはできません。あなたにできるのは、真我で「在る」ことだけです」



 言葉と「ただ在ること」の違い。言葉やイメージをつかみに行くな。

「自分と命は別のもの、自分というものがあり命というものがある、という考えが人類の精神の奥深くに根を下ろしています。
…あなたが生、命なのです」



 自分と命は分けることができない。命を切り離してしまうと、私は生きていない。言葉はいつも自分と身体や命といった別のものに分けてしまう。切り離して存在できるわけがないのだ。それをどの方向に展望していっても、同じ図式が広がることだろう。身体と世界、目と見えるもの、手と感覚されたもの――言葉やイメージに頼るな。言葉のないただ在るだけの存在に戻れ。





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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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