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01 03
2020

幻想現実論再読

太古から語られているもの――『世界の名著 バラモン教典』

 2020年、あけましておめでとうございます。
 本記事が2020年のさいしょの投稿になります。




 非二元・アドヴァイダを読んでいると、これはブラフマンやアートマンのバラモン教やヒンドゥー教ではないのかと気づいた。非二元の探究でつぎに読むものが見いだせず、とりあえずは『ウパニシャッド』や『バガヴァッド・ギーター』を読みかえすことにした。


 『ウパニシャッド』

 『ウパニシャッド』は仏教がおこった年代とおなじくらいから成立し(紀元前五世紀)、紀元前二世紀には現在のかたちになったとされる。仏教と同時代なので、ものすごく古いというわけではない。

 ブラフマンやアートマンで語られる言葉が、禅と共通しているところが見受けられたりする。引用することくらいしか、この書には語れないな。

「見ることの背後にある見る主体を、あなたは見ることはできない。聞くことの背後にある聞く主体を、あなたは聞くことはできない。思考の背後にある思考者を、あなたは思考することができない。認識の背後にある認識者を、あなたは認識することができない。この(見・聞・思考・認識の主体としての)あなたのアートマンが万物に内在しているのである」



 見る者を見ることはできない。対象は私ではない。禅や神秘思想でも聞かれる言葉が、バラモン教典でも聞かれる。

「この身体内の洞窟に潜む、アートマンを見出し、確認した人は、万物の創造者。――彼はいっさいをつくり出すから。世界は彼のものである。否、彼は世界そのものである。

…それを知る人々は不死となり、他の者はまさしく苦に至る。

…この世において何物も、多様に存在しないとは、ただの思考力によってのみ、考察されるべきである。
この世において、(万物を)、多様であるかにみなす者、彼は死から死に至る。
この滅びることのない恒久のものは、
全一的にのみ観察されるべきである」



 身体の内奥にひそむものが全世界にあまねくいきわたっており、あなたはそれであるというブラフマンの決まり文句がここでも語られる。バラモン教、ヒンドゥー教は外側に向けるのだが、仏教は外に向けることはない。

「聡明な者(アートマン)は生まれもせず、また死にもしない。これはいずこから来たのでもなく、まただれかになったこともない。この太古以来のものは、不生、恒常、永遠であって、たとえ身体が傷つけられても傷つけられはしない。…これは殺しもせず殺されもしない。

…原子よりもさらに小さく、大きいものよりもさらに大きいアートマンは、この世の被造物の胸奥におかれている。

…(アートマンは)すわっていながら遠くにおもむき、臥していながらあらゆるところに至る。歓喜でも非歓喜でもあるその神を、わたし以外のだれが知ることができようか。

身体のなかにあって身体なく、不安定なもののなかにあって安定している。

このアートマンは教えによって得られない。知性によっても、聖典をひろく学ぶことによっても。これ(アートマン、すなわち神)が選ぶ人によってのみ、それは得られる」



 ブラフマンのつかみがたい性質を語った節である。言葉ではつかめない、超越している。道・タオと通じる考え方である。

「独立自存の神は外側に向けて孔(感覚器官)をあけた。したがって、人は外部に向かって見るが、内部のアートマンを見ない。ある賢者は、不死を求めて、眼を(外界から)ひるがえし、(外界とは)反対の方向にアートマンを観察した。
愚かな人々は外に向かうさまざまな欲望のあとを追う。

…人が、形・味・香り・音・触感、そしてまた性愛を知るのは、そのよすが(であるアートマン)によってこそなのである。(アートマンが身体から抜け出したときには、)この世に何が残されよう。これこそまさしくそれである」



 身体の内部になにがあるのだろう。「私」は身体の中にいるのだろうか。ヒュームが語ったのは、感覚の束や思考といったもののみである。さらにはラジニーシにはなにもないじゃないか、無しかないではないかという。無が偏在していようと、私はなにをつかめるというのだろうか。


 『バガヴァッド・ギーター』

 『バガヴァッド・ギーター』は叙事詩『マハーバーラタ』全十八巻のうちの第六巻の一部を抜粋したものである。紀元一世紀に原形が成立したとされる。ここでもブラフマン(聖バガヴァッド・クリシュナ)のありようがかなり示されている。

 この中公バックスに訳されているものは、戦闘や冗長な部分は省かれているから、だいぶ小さなかたちになっている。

「非顕現の形相をもつわたしによって、この世界は満たされている。一切万物はわたしのなかに内在するが、わたしはそれらのなかには存在しない。
かといって、万物はわたしのなかに内在しない。…わたしの本体は万物を支え、万物の創造者であるが、本来、万物のなかには存在しない。
あたかもいたるところに吹く強力な風が、つねに虚空のなかに存在するように、一切万物はわたしのなかに内在すると知れ」



 万物はわたしのなかに内在し、わたしはそれらのなかには存在しないという。またわたしのなかには内在しないと矛盾したことをいう。言葉で言い表されて、その言葉がまた否定される。ブラフマンは語ろうとして、語れない状態である。

「はじめがなく、中間がなく、終わりがなく、無限の力をもち、無限の腕をもつ、日月を眼とし、火炎をあげる祭火を口とし、自己の光明をもってこの世界を熱するおん身を、わたしは見ます。
なぜなら、天と地のあいだのこの空間、およびあらゆる方角は、おん身によって満たされていますから」



 時間と空間を超越し、あらゆるものに満たされて遍在されているもの。それはどういう状態なのだろうか、どういうことなのだろうか。

「知られるべきもの、すなわちそれを知れば不死を得ることのできるものを、わたしは述べよう。それははじめがなく、最高のブラフマンであり、有とも無ともよばれないものである。
それ(知られるべきもの、ブラフマン)は、あらゆる方向に手を足をもち、あらゆる方向に眼と頭と口をもち、あらゆる方向に耳をもち、あらゆる方向に耳をもち、またすべてを包んで、この世界に存在している。
それは、すべての感覚器官の性質をもつかにみえて、しかもすべての感覚器官をもたず、執着を離れ、すべてを保持し、成分をもたず、しかも成分を享受する。
それは万物の外にあり、また内にあり、不動であり、また(身体と結合して)動く。微細であるために認識されず、遠方にあると同時にまた近くにある」



 この万物にひろがったものが、身体の内奥にもあるというのがブラフマン=アートマンなのであって、それを知ろうとするのがバラモン教である。しかしそれを見ることも、知ることもできないともいわれる。まことに形容されるものは、近づくことのできないものである。これを求めたインドや宗教のなしがたさがこんにちにも残されている。




 このほか中公バックスには、『ヨーガ根本聖典』とシャンカラの『不二一元論』も訳されている。とりたてて大きな感銘も、銘記することも感じられなかった。シャンカラは『識別の宝玉』がいちばんブラフマンのことを語っていると思う。

 その他にもバラモン教典がいくつか訳されているのだが、あまり得ることがなかったので、今回は再読せず。






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プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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