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12 28
2019

セラピー・自己啓発

自己啓発にほかならない――『幸福論』 アラン

  

 はじめてこの本を読んだのは、私が二十代のころ。現代思想や社会学を好み、考えることばかりくり返していた私が、思索ではなく、行動や体操をすすめる哲学者にいぶかしさと当惑を感じたものだった。哲学者のくせに外道とさえ思った。思考を手放すなんて考えもしなかった。

 それから二、三十年後にこの本を読みかえすと、この本はまったく自己啓発を語っていたのだとわかる。アランの本を読んだあと、私はアランとは関係なく、自己啓発やストア哲学の本を読み漁ることになり、ついにはその延長として神秘思想や仏教に学ぶようになった。

 アランは心は他人や出来事の結果ではなく、みずからこそが「創造しているのだ」と転換させた。自己啓発とは、心が創造する原因であり、出来事は結果ではないとひっくりかえした発想をもつハウトゥ本である。ノーマン・ピールやジョセフ・マーフィー、ウェイン・ダイアー、リチャード・カールソン、あるいはナポレポン・ヒルなどが、ときには即席な願望成就を謳いながら、心の発想法をひっくりかえした。

 私たちのたいていは他人が悪い、なにかが悪いと外側に問題と原因を探しつづける。だが、自分の心、言葉こそがそのような考え方を創造していると考えるなら、みずからが怒りや悲しみ、憤懣などを囲っていることになる。私たちはみずからの「心の創造者」であることを忘れて、あるいは知らずに、みずからを煉獄に落とし込むのである。

「不平不満は、地獄への堂々めぐりだ。しかし、その地獄のなかで悪魔であるのはわたしであり、情け容赦なく追い立てているのもわたしなのだ」



「なにかまた不満の種でもあると、夜ばかりか昼も、暇さえあれば、その問題に立ち返る。自分自身の話を、まるで机の上に開いたままにしたひどく暗い小説ででもあるかのように、ふたたび取り上げる。こうして、自分の悲しみのなかにひたりこむ。そして、悲しみを楽しんでいる。忘れることを忘れて、そこにたちもどる。予想しうるかぎりのあらゆる不幸を点検する。要するに、自分の不幸をひっかいているようなものだ。間抜けな人間のやり方だ」



「思考することによって、たちまち人間は自分の不幸や欠乏を倍加する。不安と期待とで身をさいなむ。そのため、肉体は、想像力のいたずらに応じて、ひっきりなしに緊張したり、動揺したり、突進したり、思いとどまったりする」



 心こそが創造者であり、原因であると発想をぎゃくにしないと、われわれは「他人が悪い、あいつをどうにしなければ、報復してやらなければ」と、不快や憤懣の思考をめぐりつづけるはずである。その間に、感情が最悪になり、胃腸や心臓を毒していようが、まったくおかまいなしである。発想をぎゃくにしないと、われわれはこの愚かしい人間の過ちにはずっと気づかないのである。

「それは、想像力にだまされているだけのことなのだ。自分自身をひっかきむしっている人間には、それほど心の深淵もありもしないし、苦悩への嗜癖などもけっしてありはしない。むしろ、原因を知らないために、動揺と焦燥とが互いにからみ合っているのだ。

まずは第一に、できるだけ満ち足りた気持ちでいることが必要だ。第二には、自分の身体そのものを対象とした心配、生命のすべての機能を確実に乱す結果となるような心配を、追い払うことが必要だ」



 アランのこの本が出たのは1925年。それからノーマン・ピールの『積極的考えの力』が出たのが、1952年。こんにちの私たちはアランのいくぶん入り組んだ思考のすじ道より、もっとかんたんで単純な自己啓発のハウトゥ本を手に入れることができる。アランは考察であり、自己啓発は方法である。アランのいわんとしたことは、お手軽に学べるのだ。

 だが、たいていの人は他人が悪い、外界が悪いと追求しつづけて、みずからを苦しみのるつぼに放りこんでおきながら、ほかの方法を知らない。心が創造しているという発想は、科学や客観主義がもっとも嫌う「精神主義」や「うさんくさい自己啓発」なのであって、心のハンドルを知らない人たちはあちこちにクルマをぶつけて、壁が悪い悪いと罵っているのだ。

 私はこのことを知って、三十のときにリチャード・カールソンの『楽天主義セラピー』に出会い、思考を捨てる方法を模索しつづけた。ポジティブ・シンキングの書き換えで足りない、自分のどうしようもなくネガティブや悪い方向に落ちる思考に抗しえなかったのだ。そうして、思考を捨てることを教えつづけてきた思想は、仏教にほかならなかったわけで、ようやく仏教や神秘思想の必要がわかったというしだいである。

 私たちは自然に育つと、外界の出来事や人が悪いから変えなければならないという発想に育つ。その見解や意見を、自分の心が創造しているという面を見いだせないのである。そのまま思考の自家中毒におちいり、みずからさいなんでいても、その思考と感情の最悪な状態から脱しえないのである。心や思考を、距離をおいてながめることはできないのである。

 だが、いまは自己啓発がその転換の方法をテクニックとしてたくさん教えている。自分の心の愚かしい行為に気づいた人は、発想の転換をおこなうことができるようになるだろう。

 しかし現代人は、心が創造しているという考えをたいへんに嫌って、遠ざける。それは宗教や前近代的な因習的思考だと考えている。科学にいる側は、あちらにいってはならないという禁止ロープがはりめぐらされている。おかげで私はたいへんに辛酸をなめる愚かしい生活を三十ころまで過ごしたと思っているのだが。







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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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