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11 30
2019

幻想現実論再読

あなたの悩みは、何時間前に起こったことですか?

 だれかにいやな言葉を吐きかけられたり、だれかに傷つける言葉をいわなかったかなと後悔したり、私たちは何時間も前、何日も前に起こった事柄をなんども思い出しては、不快になったり、不安になったり、後悔したりしている。

 心には時間がない。きのうの出来事でも、何年前の出来事でも、思い出せば、目の前にあるかのように後悔したり、腹立たしい気分になったり、いま目の前で起こっている事柄のように思い出すことができる。

 過去は永久にこの世から去ってしまった。二度とその出来事、事柄がこの地上にあらわれることはないのに、私たちはそれを思い出しては、激しい感情の動揺を経験する。私たちの悩みのたいていは、そのような過去に起こったことではないのか。

 なぜ過去の終わったことを、私たちの心は、いま目の前にあるかのように思い出すことができるのか。

 思考や言葉は、記憶を頼りにいつまでも過去のことを思い出すことができる。思い出せば、目の前に存在するかのごとく、感情をもよおすことができる。私たちはたいていは、このような思考と記憶の囚人になっている。

 有名な禅僧の川を渡る話があって、女人にふれることが禁止された禅僧が、川を渡れないで困っている女人を背負って、川を渡ったことがある。何時間も歩いた後に、もうひとりの禅僧が悩みつづけて、ついに女人の禁制のことを口に出した。問われた禅僧は女人をとっくに降ろしたのに、おまえはまだ女人を背負っていたのか、といった。

 禅のいま・ここにというのは、過去を背負わないことである。出来事はその出来事とともに終わらせる。しかし私たちは、過去や出来事を反芻し、反省するのがよいことだと思っている。過去に終わってしまった出来事をいつまでも背負いつづける。

 「覆水盆に戻らず」や「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という言葉は、過去は永遠に終わり、二度とこの世に姿をあらわすことはないというこの世界の時間の絶対の法則をいった言葉である。

 私たちはこの時間の絶対の法則を破る。思考や記憶は、時間の絶対の法則を侵犯しつづける試みである。ハナからそのような侵犯することが存在理由だ。

 もう存在しなくなったものを、もう一度心で再生するのが、思考や記憶だ。いわば、ハナから存在しない、実在しないものなのだ。私たちは、その実在しない「仮構」にいつも悩み苦しんでいるのだ。つまり、思考や記憶はもう「亡霊」や「幽霊」のようなものだ。

 終わった過去を反省、反芻することが、成長や精神によいといった考えもあるのだろう。しかし思考や記憶は、私の意志とかかわりなく、勝手に繁盛してゆくものである。それを断ち切ればよいという考えも、禅以外にはあまり耳にすることもない。そして過去の憂鬱や後悔にずっと囚われて、うつ状態までまっしぐらだ。

 その愚かな状態を断ち切るには、過去がこの地上から永久に消えてしまった、奈落の底に呑みこまれたという図を、強くもつことである。過去は強烈にこの瞬間に消滅していってしまう。無になり、二度とこの世に甦ることはない。この図を頭の中に刻印しないかぎり、思考や記憶はなんども頭の中に過去のリピートや想起をくりかえすものである。それこそが、私たちの心の機構というしかない。

 人間にとって過去の反芻こそが「自然」な状態である。過去をまったく断ち切ることは、ぎゃくに「人為」や「気づき」である。その行為が愚かであることに気づかないと、過去の反芻と感情の最悪な隘路は避け得られない。無知であることは、過去の後悔や罪悪感の囚人になることである。

 私たちは思考することがとてもよいことだ、成長に欠かせないという文化の中で生きている。ためにいつまでも過去の後悔や反省から抜け出すことができない。でも長年人間をやっていると、過去を思い出すことがどんなに苦しいことか、数百回、数千回経験したことがあるだろう。このツラい気もちをいつまでも抱えこむことがほんとうに人間の成長につながるのか。なぜ精神の穏やかなこと、のびのびしていることを、成長の土台と見なすことができないのだろうか。

 起こった出来事はいつでもその瞬間に手放してもよい。それはこの世のどこにも存在しない幻、絵空事にこの瞬間になってゆく存在である。そして、私たちはその実在しない「絵空事」に悩まされることがスタンダードになった愚かな存在である。

 私たちはだれひとりとして、この世界の時間の法則から逃れることはできない。過去は猛烈に、過去を奈落の底に呑みこんでゆく。起こった出来事をこの世界に再生することは二度とできないし、死んだ人をよみがえらせることも、起こってしまった出来事をくつがえすこともできない。

 ただ記憶と思考だけがそれをできると信じている。二度とくつがえらないのに、いつまでもくつがえるかのように、過去を頭の中で転がしつづける。過去は二度と帰らないのに、不快と後悔の気分だけをくりかえす。なんのために? 未来の教訓やこれから起こることへの対処としてはわかるだろう。しかし悔恨と後悔のためだけにするのでは、なんの益にもならない。

 過去は永遠に奈落の底に呑みこまれてしまった。過去は二度とよみがえることはない。思考は、この時間の絶対の法則にならうべきなのである。そもそももう変えようのない出来事であり、永久に凍土の中に閉じこめられてしまった。

 過去は永久に手放してよいものである。そのように生きるとき、精神はいまよりもっと身軽に、さっそうと前を向いて歩いてゆくことだろう。この世は、女人を背負った人、家財一式、家までも背負ったような人たちがあふれる世の中である。それで身軽に歩けるのだろうか。思考こそがその重いお荷物である。



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うえしん

Author:うえしん
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