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11 25
2019

幻想現実論再読

言語が誤って見せる世界――『ギリシア哲学と現代』 藤沢 令夫



 スコット・キロビーの『悟りを生きる』を読んで、神秘思想には言語ラベルをひき剥がす試みが大きな成果をもたらすのではないかと思い、思い出したのが、はるかむかしに読んで感銘してずっとひっかかっていた本書である。

 この本では言語の「主語-述語」という文法が、主語に実体があるという観念をつくりだし、さらには自然知と人間の生き方や倫理の知を切り離したという説がくりひろげられる。言語の構造が、人間にこの世界の認識を独特なものに仕立て上げるのだ。

 神秘思想は言語学から理解できるのではないかと、図書館の言語学の棚をざっと見てみたが、言語学のめざすものと神秘思想のめざすものはあまりにも違いすぎて、参考にはならないと思えた。言語学が、神秘思想に役立つ日常のそぼくな言語ラベル自体をひき剥がすという試みをおこなうわけがないのだ。

 この本は1980年に出されて、いまはもう絶版になっているが、言語が二元論的下絵をつくりだすという壮大な説には、ずいぶんと感銘を受けたことを覚えている。人類の壮大な過ちが一望できるかのような感動を与える書である。フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 』と似ている書物だといえるだろうか。

 言語はこの世界にいかに誤った世界を見せるようになるか。たとえば、「稲妻が光った」という言葉は、稲妻という「実体」があって、光ったという状態が別にあるものなのか。稲妻と光は同じ現象ではないのか。言葉はあたかも稲妻という「実体」を想定させるのである。

 同じように、「私は考えた」「私は見た」「私は歩いた」といった言葉でも、「私」とそれぞれの行為は別のものとして切り分けられるか。「私は見た」にしても、私には景色や視覚が与えられているだけで、見ているときに「私」は見えない。言葉は、「私」という実体や仮想があると思わせる根本の誤謬をふくむのではないのか。

 主語や主体といったものはほんとうにあるのか。神秘思想でいわれるのは、「見るものと見られるものは同じである」といったことや、歩いたり、行為する私がいるのではなく、ただ歩かれたり、行為される状態があるだけだといわれる。言葉には根本的な誤謬や勘違いさせる文法構造があるのではないのか。

 切り分けられないものを切り分け、分断や線を引き、仮想の実体や固体があるように思わせる。たとえば胴体と頭とかかんたんに区切るのだが、当たり前のことだが、胴体と頭を切り離したら、人間はもう生きていられない。雲や煙とかかんたんにいったするが、それはいまも変化しつづける「状態」でしかないわけで、実体や固体として固定されているわけではない。人間だって長いスパンで見れば、変化しつづけ、固定しているわけでもないし、いずれ存在しなくなるものだ。長い目で見れば、雲や煙のように変化しつづける「現象」といえる。

 こういう言語には過ちや仮想をつくりだすという暴露を、言語学がやっていたらいいのにと思ったのだけど、言語学はそういうことには手を出していないようだ。言語が誤って見せる世界。それをていねいに見ていけば、神秘思想家がいうようなワンネスの世界に近づけるのだろうか。

 この本の主な目的は、科学の知と生き方の知が分離した根源を探り、その思想の原初をギリシャ哲学にもとめ、その解決を見いだそうとした書である。すこし難しいが、ずいぶんと目が啓かれる思いがする書である。

 神秘思想の文脈から参考になるかと読みかえしたが、もちろん本書の目的はそうではない。だけど、近いところにある書なのかもしれない。


ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)科学と近代世界 (ホワイトヘッド著作集)偶然と必然―現代生物学の思想的問いかけ言語を生みだす本能(上) (NHKブックス)悟りを生きる ― 非二元へのシンプルなガイド ―(覚醒ブックス)


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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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