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11 17
2019

幻想現実論再読

群を抜いた明晰な書――『悟りを生きる』 スコット・キロビー

悟りを生きる ― 非二元へのシンプルなガイド ―(覚醒ブックス)
スコット・キロビー
ナチュラルスピリット (2018-07-13)



 あまりにも感銘したので、いちど読了後、間髪入れずに再読したほどの好著。さいしょの気づきという重要部分が私にはどうもつかみかねて。

 スコット・キロビーはネットでも評判にもほとんどなっていないようだし、聞いたこともないし、YouTubeの動画でもたいして再生されていないようだが、この本のように明瞭で明確な説明能力は、ほかの本には見いだせない明晰さを感じた。

 非二元や神秘思想に興味ある方はぜひ手にとっていただきたい。ただアプローチとしては、瞑想を重視しない方向なので、抽象的でつかみにくいタイプをさいしょからつきつけられる書物となるかもしれない。

 私としてはいちばん知りたい重要なことは、物体が独立してべつべつに存在しているという認識をくつがえす説明をいちばん理解したいと思った。キロビーは物体は、思考や概念にほからないと喝破する。その説明もひどくやさしいのだが、う~ん、それでも私はしっかりと実感できたとはいいがたい。

「ところが思考がなければ、そこには独立した物体は存在しません。そもそも、あなたがあなたの目で見ていると信じている物体はすべて概念なのです。部屋の中の色、光、影、形などの基本的な要素でさえも、概念や印象です。…思考がある時にだけそれぞれのもの(それに関する説明的特徴をまとった)が個別に現れるのです」



 同様に他から独立して存在する「私」などいないとなんども説明されるのだが、このような自己の中心があるような思い込みをつくるのは、思考にほからないという。思考が言葉のラベルを貼ることによって、個別にべつべつに切り離された物体や身体があるように思いこむようになるというのが、キロビーの主張である。

 キロビーはさまざまな現われ=思考、感情、感覚、状態、体験に思考のラベルを貼ることによって独立したものが存在するかのような思い込みが生まれることを見いださせてゆくのだが、この人は言語学的なアプローチが強いのだと気づかせた。

 遠いむかしに、藤沢令夫の『ギリシア哲学と現代』という本に、言葉には主語と述語の文法があるために、述語にはあたかも主語という「実体」があるように見せかけるのだという批判に感銘したことがある。藤沢はこのような二元論的下絵が科学的認識にはあると批判するのだが、非二元というのはまさに二元論批判だ。この本を思い出せるほどキロビーは言語学的アプローチが強いことをうかがわせる。

 それと大事なのは、この世を現われては消える一時的な現われの世界だと見なすことである。キロビーはこの刹那的時間論をしっかりと実感しているからこそ、思考であれ、感情であれ、ひどい体験であれ、現われは消える現われに、拘泥しなくてすむ態度をもてるはずである。この一事をしっかりと実感できないと、キロビーの方法はかなり弱いものになると思う。

 私たちは自己の中心が独立してあって、思考や感情、体験や状態を、変えたり、無力化したり、管理したり、思い通りにしたり、取り除いたり、逃げたりしようとする。あるがままやそのままであることを肯定も受容もできない。その否定や拒否こそが、自己が独立してあるという存在感を強めるはたらきである。これはあらゆることに顔を出す基本的なことであって、思考や自我のこのはたらきを見抜けないと、私たちは自己の物語や幻想から抜け出すことはできない。

 キロビーは明確に時間の抵抗が、自我をつくりだしていることを表明している。過去の抵抗が後悔や不満をつくり、未来の抵抗が不安のない世界を夢想し、現在の抵抗がいま起きていることの否定をもたらすという指摘をしている。われわれは否定し、抵抗することによって、思考や自我を強化し、その流れや物語をえんえんとくりかえす。ものごとから切り離され、コントロールする主体は、そうやって生み出され、教化されつづける。あるがままの抵抗こそが、自我や思考の正体である。

 振り子運動の指摘もなかなか刺さったのだが、私たちは悟りやめざすものを安らかで、やわらいだ至福な状態だと見なしがちである。それを選別し、選びとるのも、思考のはたらきにほからないのであって、またしても思考のワナにはめられていることを気づかせる。良い気分、悪い気分を選別し、選びとるのも、思考なのであって、私たちは悟りや安らかな心をめざして、またしても思考に絡み取られている。良い・悪いの言葉のラベルを貼らずに、それも現れて消える一時的な思考にほかならないことに気づく。キロビーは、思考のない気づきの状態をそのように見なす。

 同じようにクリシュナムルティもよく受動的な態度をすすめたのだが、思考や意志をたいせつにしてきた私たちはこれがいちばんむずかしい。勢い瞑想でむりに思考を取り除いたり、なくそうとする。これこそが、またしても思考のはたらきにほからないのだが、キロビーもさいしょからそのような同じ姿勢をすすめるので、たいそうむずかしい。しかしこれこそが、独立した私が存在すると思いこむ原初なのであって、これを見抜かなければ同じ思考の過ちに囚われつづけるのだろう。

 キロビーはさまざまなものに、「変えたり、取り除こうとしたり、思い通りにしようとする」という言葉をくりかえし使う。まさにこのコントロールし、抵抗する主体こそが、私の中心という存在をつくりだしてゆく運動そのものにほかならないわけだ。あるがままを抵抗することによってこそ、「自我」は永続的な存在を強化でき、「私の物語、幻想」はつづいてゆくのだ。この自覚や、見抜くことこそ、私たちが解放され、自由になる根本であるのだろう。

 もっと的確で正確な言葉を選りだしたいのだが、私にはまだまだ足りない気持ちが残る。みなさんにはぜひスコット・キロビーの著作にじかに当たっていただきたい。これほどまでに明晰、明瞭な本はほかに出会ったことがない。



▼動画はたくさんあります(日本語訳はありません)



ギリシア哲学と現代―世界観のありかた (岩波新書 黄版 126)夢へと目覚める(覚醒ブックス)今、永遠であること(覚醒ブックス)すでに目覚めている(覚醒ブックス)言語が違えば、世界も違って見えるわけ


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