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10 22
2019

幻想現実論再読

思考の実在を解く方法――苦しみからの究極の解放

 思考の実在を解くのはほんとうにむづかしい。

 たいていの人はそんなあり方も可能なのかとみじんも思ってみることもなく、きょうも言葉や思考が思い描いた物事に苦しめられている。思考の実在を解いたとき、さまざまな重荷をようやく降ろすことができるだろう。


なぜ思考を手放せないのか

 たいていの人は、自分の思ったこと、考えたことが現実「そのもの」であり、そのとおりに「現実がある」と思いこんでいる。だから、自分の思ったこと、考えたことに脅かされ、怒り、悲しみ、苦難をなめることになる。

 まずは思考以外の認識のありかたを知らない。というか、思考をすることのみ現実は捉えられ、生活や人格は改善され向上され、思考を手放すことは白痴か、盲従だという非難がある。この下には落ちてはならない網があるために、思考しつづけなければならない機構がある。まずはそれを恐れることより、うつや悲観から離れるために、このタブーを手放なすのが先決だと考えたほうがいい。

 もうひとつは、思考こそが「私」であり、思考が「私の中心だ」という思い込みがある。この思考を失えば、自分がなくなると思っている。思考を失うことは恐れなのである。

 だいじょうぶ、思考を捨てたところで、あなたは残る。賢明で思慮深いあなたは失われるわけではない。要所要所に、思考を用いることのできるあなたは残る。思考の「脱同一化」がなされたとき、あなたは感情に振り回されないしずかな自己を手に入れられるはずだ。

 あなたは思考こそが自己の中心であり、大切なものという思いをつちかってきたために、なにをするにも思考のスパークを携えている。何事がおこっても思考はめまぐるしく駆け回り、飛翔し、頭の中は思考でぐるぐるだ。


思考の手放し方

 まずはこの心の習慣を手放さなければならない。そのチェーンのようになった思考の連鎖が断ち切られると、思考もしだいに弱まってくる。それはこれまでの思い込みによる習慣の構築にほかならない。習慣を手放せば、弱まる性質のものである。

 ここからは瞑想やマインドフルネスのテクニックになる。思考を、雲をながめるように判断も捨てる試みもおこなわず、ただ傍観的にながめることが推奨される。その思考に飛び乗らなければ、心象は広がらず、去ってゆくものである。たいていの人はその思考に飛び乗って、その思考から広がるビジョンや心象に支配され、ますます思考の炎に薪をくべる。

 私はこの思考の傍観がなかなかできない人には、むりやり思考を捨てる方法もよいと思っている。強烈に思考の連鎖がおこる人には、傍観などの態度はとれない。思考と心象の連鎖に呑みこまれる。

 むりやり「思考を捨てる」、「思考を止める」、「頭は空っぽだ」と唱えつづけてもいい。ひとつの言葉を唱えつづければ、ほかの思考が入りこむ隙はない。眠るときに羊の数を数えるような頭の熱をしずめる効果もある。私はこの強制策を使うことが多くあった。それで思考は静かになる。


あなたの現実はただひとつの絶対のものか

 私たちは、自分が思ったこと、考えたことが「唯一の現実」だと思うようになっている。自分の思ったこと、感じたことは、なによりも尊重されなければならないと思いこんでいる。それはひとつの考え方や解釈にすぎない、べつの考え方も捉え方もできるという考えが思いもつかない。自分の思いは、自分独自に思ったがゆえに、ほかの解釈はありえないという選択をすることになる。

 自分が思いついた考えや思いは、「絶対的な事実」であり、「揺るがしがたい真実」であり、「覆せない真実」なのだろうか。

 「私はあいつに腹を立てた」、「私は彼の言葉にそうとう傷つけられた」、「彼は私の陰口をいったに違いない」。私はこのように思って、自分のこれからの態度や行動を決める。ちょっと待ってほしい、その「事実」はほんとうに「覆せない真理」なのか、ほかの考え方もできるのではないか、もっといえば判定も判断もしない立場ももてるのではないのか。そうすれば、その後におこる諍いや争いも避けることができるではないか。

 私たちの考えを決める基準は、なにによってもたらされたのか。判断や判定をする基準はどこにあったのか。それは無色透明な中立の立場ではなく、たとえば「私は傷つけられるべきではない」といった基準や、「私は他人からちゃんとした扱いを受けるべきだ」という暗黙の前提が構えていたりする。

 この「人としての最低限の待遇」を求めるがゆえに、私たちはさまざまなことに不満や怒りをもよおすのではないのか。その基準というのも、「ひとつの考え方」にすぎないのではないか。これをもし取り去ったのなら、私は不満や怒りを立ち上げるだろうか。

 まるで奴隷の立場を容認するのかといわれそうだが、これは自我を守ろうとするためにおこる思考や感情のありかたを傍観することにつながる。自我を守ろうとするために、さまざまな思考の連鎖と飛翔はおこる。思考はそうやって、「頭の中の自己」を守るために思考の林立や連鎖によって、言葉で立ち上げられた自我を守ろうとするのである。


思考は空想ではないのか

 思い切って、言葉や思考は、「空想」や「想像」でしかないと考えてみるのも、思考の実在を解くのに役に立つ。考えや解釈はただの空想ではないのか。ひとつの考え方や捉え方でしかない。

 それは物体のように外界に存在するわけではない。考えや思考は、頭の中にどのように存在するというのだろう? 私たちはこの実体をいちども見たこともないものを、どうして「現実にある」と思いこめるのだろう? すべて「幻」や「幻想」とよべるべきものではないのか。なぜこれを「動かしがたい現実」と思いこめるのだろう? 私たちが気にするのは、「それは事実か、そうでないか」だけであって、「それ空想じゃない?」といったことや、「それ実在するの?」と疑問に抱くことはない。


過去の実在を疑う

 思考の実在を解く強烈なひとつの方法は、時間が過ぎ去ってしまえば、どこにも存在しなくなるという事実を見ることである。過去は終わってしまえば、どこに行くのだろう? あなたは過去の自分を見たことはあるだろうか、過去のだれかの行いをもう一度見ることはできただろうか? ただの一度も過去を二度と見ることはできない。過去はこの地上から永久に奈落の底に消え去った。

 過去が深淵の底に呑みこまれた様子を実感することが大切である。この実感なくして、思考の実在感を解くことはできない。過去が地上のまったくどこにも存在しなくなったのに、私たちは当たり前のように過去にあったこと、過去の人のおこないを話し合っている。それは地上のどこにも存在しなくなったものなのに、あたかも「目の前にあるかのよう」に私たちは話すことができる。これが大きな誤謬ではないだろうか。私たちは存在しなくなったものを、現実にあるかのように思うことができるのである。

 つまりは、言葉は存在しないものをあたかも実在するかのように思える想像力の道具なのである。「空想」を実在と思える道具なのである。私たちは言葉のこの性質をまったく省みずに、言葉で話したことがあくまでも現実に、目の前にあるかのように捉えている。しまいには、過去の実在が疑われることはなくなる。過去は話せば、思い出せば、現実にあると思われている。過去は永久にこの世界から消え去ったのではないのか?

 過去が存在しなくなったことを思い浮かべれば、言葉で話すことも、現実にはまったく存在しないことが露呈する。言葉は、存在しないものを表す空想の道具なのである。その存在しないものが言葉で表されることによって、現実に存在していると思われるものが山のように存在しているのが、われわれ人間の認識の正体である。このことがわかれば、われわれはどんなに空想の現実にひたされているか、よくわかるようになるだろう。


過去が苦しみの源

 私たちの悩みや問題はたいていは過去から発する。「あの人がこんなことをした、いった」、「昨日、こんないやなことやつらいことがあった」、「昨日の困難を明日までに解決しなければならない」。しかし過去は地球上のどこからも消え去ったのではないのか? この問題を継続されているものは、私たちの記憶や言葉ではないのか。記憶は過去を継続させる。だが、その過去自体は永久に去り、二度とこの世界に立ち現れることはない。それなのに、なぜわれわれは記憶の傷心や困難にきょうも煩わされるのか? 過去が現実のようにある、現在もつづいているようにわれわれは思いこんでいる。

 われわれは記憶や言葉が現実にある、いまも現出していると思いこんでいるだけなのである。過去は奈落の底である。しかし記憶や言葉は、いまも現実のようにあると思いこめる。そのおかげで、過去の傷心や困難はいつまでも終わることはなく、今日も明日の私も煩わせることになるのである。過去は永久に消滅したのに、なぜ現在もそれはあると思いこめるのか? 記憶や言葉が現在もあると思いこめる私たちの性質があるためだというほかない。

 ここから瞑想やマインドフルネスのテクニックが結びつくことになる。記憶の想起や思考の逡巡を断つのが、瞑想のテクニックである。思い出さなければ、考えなければ、それが存在することはない。過去や問題は、思考や過去の回想でしかない。これがなくなれば、問題はなにひとつない。

 この反論として、考えないことは現実逃避や問題から逃げることでしかないという考え方がある。これは社会の問題と、個人の心の問題を切り分けて考えてほしい。社会の問題としては過去の継続は必要かもしれない。だが、困難や悩みをずっと抱えつづける心の習慣をもつ人は心安らげる時間はあるだろうか。思考を手放せば、その困難はない。

 批判のとおりにしじゅう思考を使っておれば、その悩みと感情の責め苦をずっと背負うことになる。思考さえ捨てれば、その苦しみはないのである。批判に忠実なたいていの人は感情的な苦しみをいつまでもひきずっているのが、現状なのである。


私たちの大いなる錯誤

 私たちは物事が起こった結果、悲しんだり、怒ったり、不幸がひきおこされると考えている。だが、現実は自分たちの考え方がそれに悲哀や怒りの感情をもよわせるのである。なんの意味づけも判断もしないものに、私たちは悲しむことも怒ることもできない。

 私たちが出来事に意味や判断をほどこすがゆえに、それは悲哀や憤懣になる。それはひとつの「創作」や「フィクション」といえるものである。私たちは物事にたいして「創作」しているという自覚をもたない。思いや考えは、私の意志とは無関係に去来すると思っているからだ。創作の意図がないものは、自然なものであり、創られたものではないと思う。

 自然に考えが降ってくるから、それはただひとつの現実とよべるのか。その考えというのは、過去の私の考え方であったり、親や世間から与えられたり、だれかから教わった思考方法かもしれない。そうやって過去に学んだ思考法が、出来事に由来して、降ってくるように思われているだけだ。創作は過去になされた。そのようなフィクションを絶対の現実だとわれわれは思いこんでいるのである。

 そして、フィクションは現実に存在するものだろうか? 小説や映画を思い出してほしい。現実には存在しない物語に、われわれは泣いたり、怒ったり、あたかも現実にあるかのように反応することができる。物語は、現実には強烈に実在しないことを、しっかりと思い描いてみてほしい。物語は、現実には空っぽである。

 われわれの現実や日常も、あたかもフィクションのように現実を捉えているだけなのである。考え方や捉え方というのは、あくまでもひとつの認識方法であって、どこにも「実在」するものではない。考え方なんてどこにも「存在」しない。

 過去は奈落の底のように消滅してしまうことを思い出してほしい。考え方や思いというものも、その奈落の底のように「実在」しないものである。ぽっかりと開いた大きな穴のように、なにも存在しない。考え方や思いなんて、この地上のどこにも実在したことがないのである。私たちがそれを「現実にある」と思いこんでいるだけなのである。そしてその現実に苦しんだり、悩んだりするのが、私たちの人生のありかたなのである。


実在しないものをあたかも実在のごとく

 われわれの人生は、現実に存在しないものをあたかも実在するかのごとくに思いこむ誤謬に満ちあふれている。

 言葉や思考を使うようになって、その性能や可能性に夢中になるあまり、それが現実に存在するのか、実在するのかという次元を忘れてしまうのである。そして言葉でつくられた「実在しない」フィクションや考え方に、人生の業火に焼かれるのである。

 おまけに思考は、自分の意志とかかわりなく始終幕なしに頭の中に噴出し、駆け巡る。もはや幕が下りることはないフィクションをずっと見つづけているのである。フィクションは頭の中でずっと創られつづける。創作者は脳の自動機能であって、思考は勝手に噴出するがゆえに、もはや自分が考え方の創作者である自覚をもてない。そうして思考のフィクションが現実にあるとずっと思いこみつづける人生を送るのである。

 言葉や思考がなければ、私たちはほとんど悩み苦しむ事はない。過去は強烈に奈落の底に落ちこんでしまい、二度と現れることはない。それは今もこの瞬間、過去は奈落の底に呑みこまれてゆき、つぎつぎと過去の深淵に崩れ去ってゆく。一瞬も時がとどまることはない。そのことを忘れて、言葉は、記憶は、過去を再生しようとするのだが、現実の過去は猛烈に「無」に帰してしまった。われわれが言葉や記憶で、過去はあると思いこんでいるだけなのである。

 私たちは、言葉によって、記憶によって、想像力によって、現実には実在しない世界を創りつづける。そしてその仮構の世界で悩み苦しみ、嘆き哀れむ。じっさいにはそんな世界はまったく実在しない無、空虚、巨大な深淵である。空っぽの底なし沼、無である。

 それを理解したとき、私たちは思考が実在しないという理解で、もう一度自分の身の回りのことを見回すことができるのである。あれもこれも実在しないものだった。実在しないものに振り回され、嘆き苦しんでいたことを理解するのである。私たちは日常に巨大な穴を、のっぺらぼうの深淵を抱えこんでいる。その巨大な穴に気づいたとき、私たちの悲しみは、嘆きは、苦しみは、すべてその穴に呑みこまれて、消えてなくなるのである。

 私たちは考えること、思考することがよいことだという常識や考えに慣れ親しんできた。しかしその弊害や害悪もしっかりと把握したうえで、言葉とのつきあい方を考えるべきなのだろう。思考をいったんお預けしたうえで、安らぎや安寧をとり戻したほうがよさそうだ。思考が不幸の製造機械になりすぎているのである。



▼もっと深く知りたい方には、自著をごらんください。



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