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10 14
2019

幻想現実論再読

踏みこんだ表現――『ホームには誰もいない』 ヤン・ケルスショット





 ヤン・ケルスショットという著者は名前も評判も聞いたことはなかったのだが、だいぶわかりやすいよい書であったと思う。

 非二元のムーヴメントがどのような流れになっているのかよく理解していないが、禅に近い感触がある。トニー・パーソンズなどある程度把握して読まないと、まったくとんちんかんの禅問答に聞こえる。

 禅は、言葉や概念の罠にひっかからないように言葉のまわりを迂遠しようとして、よけいにわからなくなるのだが、この著者ヤン・ケルスショットはそれを客観的な言葉で記述しようとする。

 言葉ですがたをあらわしてみれば、それは心霊主義や霊魂主義の個別・分離のない全体ヴァージョンに近いのではないかとさえ思える。「意識」や「気づき」だけがあり、われわれが常識に思う身体にその意識は収まっていないという考え方である。

 うん? 唯心論であって、身体はその外部にあるのではなく、内部にあるイメージにすぎない? 禅や神秘思想がめざしているものは、われわれの常識である身体=世界観が葬り去られる「意識主義」なのか?

「それは、意識を持つ生きとし生けるものすべてが共有している唯一の存在です。別の言い方をすると、一人の見る者がすべての生命体の中にいるということです。禅の百丈懐海は言いました。「私たちは目をもって見るのではなく、仏性をもって見るのだ」

どうすれば本性が見えるだろうか?
その見るという行為を行っているものこそ、私たちの本性である。
――百丈懐海



「気づきを向けているその主体すら手放すことができれば、そこに残るのは存在そのもののみです。生命はただ私たちを通してそれ自体が生きており、私たちはその目撃者であり、存在の中に溶け込み、同じ無限のこの場所、時間のない今の中ですべてを観察しています。この存在が「見えている」間、スペースや時間という概念はすべて消え去り、目撃者と存在は一つになります」



「…私たちが本性を発見すると、私たちは身体そのものではなく、身体の中にいるわけでもなく、身体が「私たち」の中にいることも見えてきます。これは注目すべき点です。読んで理解するのではなく、それを私たち自身で発見すると、まるで宇宙の最遠まで手が届いたような感覚に包まれます」



 禅とか神秘思想はそれがどんなものなのかまで語らないのだが、このヤン・ケルスショットはその状態をもっと客観的に語る。ほかの人は語らないからこそ、わからずに五里霧中の中に放っておかれる気がするのだが、この著者はそれを客観的に記述する。語らないのはそれを一般の人はまた言語と概念の認識でとらえてしまうからだろう。この方法では、またしてもわれわれは言葉のレールの上で虚構の天を駆けてしまうのだろうか。

 言葉で探す探究者はそれの発見者になれない。発見者という分離・個人が消えてなくならないと、それを見ることはできないのである。つまりは言葉や思考、それによって構築される自我にハナからつかめない。言葉に収斂されないものそのものであって、言葉さえ使わなければ、私たちは常日頃からその状態にあるというのが古来からいわれていることである。私たちはすでに悟っているといわれるやつである。

 言葉や思考は分断し、われわれがふだん見慣れている個体と分離の世界に住まわせる。身体の中に意識があり、身体の外に世界があるという常識的な思い込みである。これすらも言葉や概念による思いこみかもしれない。幼児のときには、自分の身体すら把握できずに、ただ感覚だけが通り過ぎる世界を体験していた。身体が私ではないという感覚を、私たちは幼児のときに経験していたのだろうか。

 私たちは大人になるにつれ、「自己中心的だ」とか「憂鬱だ」とかの人格のレッテルに同一化するようになる。ヤン・ケルスショットは、この人格は移りゆくイメージのひとつにすぎないというのだが、私には目が覚める思いがした。人格のレッテルは一瞬のイメージでしかない。それを固定的・永続的にとらえて、自分のイメージとして釘づける私たちのエゴの形成の仕方。言葉が永続的な自己をつくりだすのである。

 この本ではダグラス・ハーディングの実験的手法で、目もない、顔もない状態、こちらがのっぺらぼうで、なにもない透明なスペースであることを理解させようとするのだが、私にはちょっとつかみがたかった。これすらも第三者的な目で見た記憶であったり、思考のレッテルや貼りつけにすぎないのだろうか。私たちは自分の目や顔を直接見ることはできない。記憶や概念でおぎなう。

 もしヤン・ケルスショットにいうように、「こちら側」になにもないとするのなら、「般若心経」の一節が符合することになる。「ここにて形は空虚であり、空虚もまた形である。ここにて目はない、鼻も口も舌もなく、これらの器官の機能もない」。

 いや、第三者が見たらそこにあるのは確実というだろうが、私の感覚はそれをいま、つかむことはできない。私にあるのは感覚や視覚の対象だけである。私たちは、後追いの記憶やだれかの言及、言葉を、この感覚だけの世界にレッテルを貼る。私たちはこの後追いのレッテル貼りをべたべたと世界に貼りつけて、この感覚の世界から疎外されている。

 私たちはとにかく思考を私の中心におき、思考から見える世界をこの世界のすべてだと見なすようになる。私たちはなんにでも同一化できる。言葉や概念でつかむものに、変身できるのだ。通常は身体や思考だけにすんでいるとわれわれは思うだろうが、バッグやクツ、銀行通帳、国家とかいったキテレツなものにも同一化している。概念はなんにでも自己を仮託できるのである。イメージにすぎない「人格」に同一化したように、私たちはとにかく思考行為そのものを「自己そのもの」と思うようになる。身体の分断さえその一種といえるかもしれない。

 私たちは見ている者であり、観察者であり、観照者であり、判断も行為もおこなわない非人格的な透明なスペースである、ヤン・ケルスショットはいう。身体の中にそれはあるのではなく、その中にイメージとしてあるのが身体であるという。感覚が生じる前からそれは存在していたという。

 この世界観を、禅や神秘思想が表立って語ってきたわけではない。もしそれが語られていたのなら、世界論や認識論の論争として立ち上がっていただろう。身体と物質の世界以外の世界観を、われわれはあまり語り聞くことはない。そもそも禅や神秘思想は、世界観や認識論が違う世界をめざしていたのか。言葉や思考を使う世界に呑みこまれれば、たちまち干上がってしまう世界ゆえに語られなかった世界。

 しかしすでに悟っているといわれても、そのままではなにも変わらないのだから、せめて言葉で何がまちがっているのか、なにが認識を遮るのか、教えてくれないと、変わらずに無明のままである。ヤン・ケルスショットはその言葉での表現にぎりぎりにまで、踏みこんだ人だといえるだろう。


▼ヤン・ケルスショット・インタビュー(日本語字幕あり)



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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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