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08 25
2019

人生論

死生観の焼け跡から――『日本人は死んだらどこへ行くのか』 鎌田 東二



 「死んだらお終いだ、無になる」という死生観しかもってないと、父母や伴侶の死、またはいずれ死すべき自分の死についての安堵や安心をもてるだろうか。

 葬儀も直葬やゼロ葬、自然葬がふえて、あの世や死後の生も、信仰がガタ崩れである。「お墓に私はいません」という「千の風になって」がヒットする世相である。家族や親類とのつながりも薄れて、無縁社会が信仰なき社会を直撃する。

 この空っぽの死生観をうめるために、なにを満たすべきなのか。とりあえずは古来の日本人の死生観にその糸を求めるしかない。死んだら「どこか」という場所にいくのか、それとも無になる世界観で、どうやって慰めや安心をもつことができるのだろうか。

 この本を読む限り、私が知りたいのは庶民の死生観であって、古事記や怨霊伝説のような政治史にあらわれる死生観ではなかったようだ。この本は半ばから政治史における死生観が紙幅を満たしている。民俗学の死生観がよかった、それも現代よりの。

 私自身をなにを、どう知ったら満足するのかわかっていない。従来のような死後の世界の信仰や、墓に魂が宿る世界観が崩壊したあとに、どのような死生観がいちばんしっくりくるのか、それを庶民の考えのうえから実地に拾ってゆきたいだけかもしれない。エリアーデのようなアニミズム原始世界観に戻るのが、いちばん納得を根底から立てかけるように思えるのだが。

 心理学のグリーフケアという個人の心理面に着目した世界観だけで、われわれは死後の安心をもつことができるだろうか。やっぱり世界観の関連においての位置づけを、われわれは求めてしまうのではないだろうか。これは言葉の上でのフィクションの慰めとしかならないということは、承知のうえである。けれどもわれわれはそのフィクションの上に安寧を築くしかないのである。

 形式や儀式をそのまま受け入れて、だれかの死と立ち会うこともできる。それで自分の番がきたときに、それで納得できるだろうか。母の死をきっかけに、私自身の死生観を組み立てなければならないと思うのである。



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