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07 31
2005

国家と文明の優劣論

集団優越の神話


 ことしに入って古代史や歴史学、イデオロギー論、植民地主義の歴史と考察してきたのは、集団の優越感についてである。自集団を優越させるために知識や学問はどのように利用されるのか考えたいと思った。つまり知識は自集団を優越させるためにどのように歪んで見せられるのかということを知りたかったのである。

 古代史や歴史を読んでいると、自集団の優越や優秀さばかりを見せつけられている気がしていやになった。個人的に自慢話ばかりする人はきらいだし、優越を見せつけるに人はその劣等さを見てしまうし、優越の陰にはかならず他者への軽蔑の感情がはりついているし、国家的には戦前の優越神話への警戒感があるわけだ。

 そもそも歴史とは「事実」をあらわすよりか、いかに自文化が優れているのかを示すモニュメントに過ぎないのかという懐疑もある。これは客観的な歴史というよりか、戦前の「皇国史観」と大同小異ではないかということだ。

 その優劣序列の暗黙の前提になっているのが、あまり人に意識されることがないみたいだが、「文明」という尺度である。つまりヨーロッパ的な物質文明を最高におく価値観である。この暗黙の至上価値にむかって、歴史の痕跡は前面に押し出されたり、序列づけられたりする。文明の進歩度合いという大前提のもとに歴史は拾い集められてくるわけである。

 歴史はこの大前提の価値観自体を意識したり、問うことがあまりにも少ないのではないかと思う。ヨーロッパ的物質文明が神のように崇拝されて、その善悪が問われることがない。すこしでも物質文明の神に近いものが評価されるのである。あまりにも当たり前の価値観になっているために、その無前提の価値観が忘れ去られているのである。

 物質文明という神は序列をつくりだす。もし劣っていたり、遅れていたり、未開や野蛮であったりすれば、神に近いヨーロッパが侵略や虐殺をおこなってもよいと正当化されたり、「文明化の使命」という美名のもとに支配されたりする。文明度に優越した国は、優越感の果てに世界中を支配し、あるいは暴虐のかぎりを尽くしてもよいと自らを正当化したのである。自集団優越主義の恐ろしさがここにあらわれている。

 植民地主義の時代に科学や知識はそれらの暴虐に貢献したのはいうまでもない。そもそも知識とは優越序列の道具自体ではないのか。ヨーロッパの白人は、アフリカの黒人やアジア・アメリカの黄色人種を劣等人種と見なし、支配や絶滅の正当化に利用された。「文明という優越感」は近代の世界中の大量の人種の殺戮をまねいたのである。

 このような事態にたちいった理由を探るには、根本に戻って、集団はなぜ優越や卓越を目指すのかという問いからはじめなければならないと思う。集団はなぜ競い合い、優越が目指されなければならないのだろうか。人間はなぜ自集団と他集団を区別しなければならないのだろうか。このような集団の競争の理由を探るには戦争論あたりにあるのだろうか。集団はなぜ競い合うのか、そのような考察をおこなった社会心理学の本はないものだろうか。

 いまのところの私の考察はこのあたりくらいまでである。知識や科学がいかに自集団の優越の道具になり下がっているか、このことをしっかりと頭に焼きつけて、これからは知識と対峙したいと思う。なにが科学だと思う。


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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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