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08 17
2019

人生論

死を思い定めるために――『死者は生きている』 町田 宗鳳



 母の死をどう思い定めたらいいだろうかと、死についての本を読んでいる。

 基本的に私はあの世や輪廻は信じることができないし、死んだら無になるしかないと思うほかないのだが、肉親や親しい人の死に向き合うにあたって、その死生観だけでは満足がいくとは思われない。ましてや、自分が死と向き合うときにこの死生観だけで受け入れることができるのか。

 あの世や死後を寸分でも信じれる地点には私はいない。それでもフィクションであっても、マヤカシであっても、安寧や希望としての死後観をいっさいなきものとして葬り去る世界観をもつだけでいいのかという疑問もある。

 ある意味、無我と自我の補強の段階のちがいに重なるかもしれない。社会を渡るには自我の補強や肯定感が必要である。しかし安らかさや心の安定には、自我をのりこえる無我が必要となってくる。死後観もその段階に応じて摂取されるべきであって、自我の世界観に生きる人には、死後のある世界のほうが安定する。

 自我の世界には、無の世界はあまりにも慰めがないのである。それは無我の考えが染み渡った人にだけ耐えられる死後観ではないだろうか。

 この本の著者は禅の修行をおこなったあと、比較宗教学という学問に携わった人である。学問的規範をあえて破って書かれた本だが、そういう思考法に慣れていない人には、面喰ったり、眉唾と思われる思考法のオンパレードに感じられる。

 けれども、あくまでも母の死という身近な喪失をのりこえる文脈で読むつもりだったので、死後の世界の肯定をすこしでも摂取しようと思ったのだけど、いまは拒否感しか感じられなかった。私も霊魂や輪廻の話はいくらかは読んできた。いまはまったく即物的な思考法が支配的になっているから、まったく受けつけなかった。そのときの気分や心情によって、受け入れられる世界観は、自分の中でも変わってくる。

 著者は禅の世界で長らく暮らしたはずなのに、禅は言葉でつくられる世界の全否定のはずなのに、著者はずいぶんと言葉のフィクションとしての世界を信じていると、私には思える。禅の深い瞑想体験にはそういう世界が垣間見えるのだという立場のようである。私は禅や瞑想を、心理的安定の道具としての使い方しかできておらず、深い瞑想体験に達していないからだということなのだろうか。

 むかしの人の死後の世界観をたくさん摂取したいのである。信じるとか、信じないとかの判定をするためではない。私の心の安寧や安堵のために、この世界観を役立てたいという思いがある。信じなくても、なにかの折にふっと死後の世界の思いがきたせば、自分の心が慰められるかもしれない。シロクロはっきりつけない世界で、私の心を癒してくれるなら、そういう思考法もまったく役立たないわけではない。方便だって、用い方次第という立場に、身をおいてもいいと思っている。

 言葉での世界は、自我での特別視や優越視に力を貸す場面があまりにも多いと思う。あの世のかかわりや経歴に信仰がかかわってくると、自我の特別視に羽をつける場面があまりにも多いと感じられた。死後やあの世のつながりは、自我の特別視にパワーを与えつづける。ある意味、自我の補強に、あの世の物語は与しつづけるように思われさえする。禅者がこれにひっかかるのは、あまりにも禅の基本から外れすぎている。

 私は無の世界と言葉の世界にゆれ動いていて、定点を定められていないということなのだろう。無の世界を信じているが、言葉の世界の慰めも手放すにはまだ早い。まだ思い定まっていないのである。


法然・愚に還る喜び 死を超えて生きる (NHKブックス)山の霊力 改訂新版 日本人の心の故郷 信仰は山にあった死別の悲しみに向き合う─グリーフケアとは何か (講談社現代新書)悲しみに寄り添う―死別と悲哀の心理学死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)


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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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