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08 02
2019

日常

母が亡くなった

 母が亡くなった。享年80歳。昭和13年の戦前生まれ。令和元年7月16日永眠。

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 ▲帰省でよく帰った、母が見たであろう徳島の吉野川の風景。



 数年前に腎臓を患い、透析をうけていた。まだまだ元気に思えたが、心臓のカテーテルの検査で入院し、緊急に心臓のバイパス手術をおこない、緑膿菌というどこにでもある菌におかされ、さいごは大動脈破裂で亡くなった。

 さいごに会ったのは、亡くなる二日前。横になると苦しいので、座った状態のまま枕をテーブルに乗せて休んでいた。顔色は悪くなく、元気に思えたのだが、その二日後に急変し、病院に駆けつける前に永眠した。お見舞いの果物の缶詰や好きだったカルピス・ウォーターを口にすることができなかった。

 100%治ると検査入院にいどんだが、亡くなる二日前に家の整理とかしたかったと後悔をもらしたが、母は死期を予感していたのだろうか。

 母は70歳ころまで生命保険で働いていて、膝の痛みで辞めて、その後実家でひとり暮らし。子どもは4人姉弟だが、それぞれ独立。膝の痛みで歩くのに困っていたが、自転車には軽々と乗れて、ヘルパーさんにも頼んでいたが、ひとりで暮らすことができていた。

 透析を受ける前に、膝の痛みで生活が困難になっていたのにムリをとおして、家の中がゴミだらけになった状態で、姉の強制で入院。そこから透析をうけることになった。ヘンな虫がわいたゴミを捨てるために、実家までなんども通った。仕事をやめて、まるで生きている張りを失ったような経緯に感じた。透析を受けていても、何年も元気に暮らすことができていたので安心していたが、こんかいの心臓の病気は危険度が違っていたようだ。

 母は、あらためて生きてくれているだけでありがたい存在だったと思う。よぼよぼになっても、生きてさえいてくれれば、亡くなるよりかどんなにありがたいことか。母という当たり前の存在が、いつかいなくなることが、この二度と戻らない時間のうえにとうとうやってきてしまった。

 私は、薄情な息子だった。いろいろ困難をかかえる家庭の事情もあって、反抗期の私は、母が近くにいるだけで不快になり、怒鳴っていた。22歳で家を出て、しばらくはまったく連絡をとらなかった。その後、正月には会うようになり、姉の子どもや弟たちも正月に会して、母の子どもたちが集うことになった。母の実りの季節といえるのだろうか。子どもたちはそれぞれ困難をかかえていて、母との関係や孝行という面ではまったく不足していた子どもたちだったわけだが。

 母は昭和13年に徳島で生まれ、サラリーマンだった大阪の父と結婚した。子どもは姉がひとり、弟が三人の当時でも子だくさんな四人兄弟を授かった。順調な子育ての専業主婦で、父は事業をはじめ、家をもった。母は気性が荒いこともあったのか、険悪な夫婦仲を感じることも多くあった。それが父の事業が失敗し、父は失踪、母や私たちの家族はそれから辛酸をなめることになる。

 家族は生活保護をうけ、マイホームから二間のボロアパートに転落した。専業主婦だった母に子ども四人を養う稼ぎはなかなか手が届くことがなく、子どもだった私たちには生活保護の引け目やみじめさを感じながら、暮らさなければならなかった。中学生だった私は荒れて、母にキツく当たった。そのころなににそんなに怒っていたのかもうわからないが、とにかく母の存在がうっとうしかった。鈍感さや無神経さがとにかくムカついていた。子どもの自立期になかなか関係を切断できなかったのか。

 母には姉妹が数人いて、子どものころは母の実家の徳島に帰省して、よく姉妹に遊んでもらった。経済的に困ったときに、たくさん支援してくれたのも姉妹だった。くわしくはわからないし、聞くこともなかったのだが、姉妹の支援がなかったら、私たち家族は生きてゆくことができなかっただろう。晩年にふと図書館の返却日にすぐには返さなくてもよいという話になり、なにいってるのかと思ったのだが、これは母の借金の重みにたえかねての考えがつちかわれていたのだろう。

 母と仲たがいすると、私たちに母の味方や援護としてお灸をすえるのが、姉妹だった。母は姉妹の共同体に守られて、その中で生きていたのだろう。晩年には姉妹と旅行にいくことも多く、母はしんどくなかったら、また道後温泉とかいきたいと語っていた。

 母は高度成長期の専業主婦とサラリーマンの時代の夢をいだいて、生きてゆきたかったのだろう。安定と福祉の夢だけを、そういう生活の拘束をきらった私になんども説いた。私はぎゃくに不安定な、安定のない生活のほうを好んだ。先が見えたり、何十年も会社に拘束される人生がたまらなくいやだった。

 父も高度成長期の波に乗り、事業の夢を見たのだが、破たんし、母と家族をのこして失踪してしまった。生計の糧をえる用途をもたなかった母には、青天霹靂のことだっただろう。専業主婦の夢が、思わぬかたちで挫折してしまい、とつぜんにシングルマザーとして生きなければならなくなった人生だった。夢の負債が大きすぎて、維持することができなかった人生だった。

 家を出て、ほぼ三十年、母とは正月に一度くらい会うだけの関係になっていた。姉の子どもが小さいときに、家族の集いはいちばんあたたかくなったことだろう。子どもには迷惑をかけたくないと、少ない年金だけでひとり暮らしてくれた。子どもたちが独立した後は、保険の仕事だけが支えだったのだろう。会社での旅行の写真がたくさん残されている。仕事を70歳でやめて、人生の張りを失ったのか、透析をうけるまでに腎臓が悪化した。心臓の血管のつまりが見つかり、血管もぼろぼろになっていたのだろう、心臓のバイパス手術に耐えられる体力を、もう持てなかったようだ。

 母がいつかこの世からいなくなる時がくる。わかっていたことだが、もう二度と後戻りできないその時間がとうとう巡ってくることになってしまった。死後、旅装束の衣装を着て、あの世での通貨を携えられた。あの世での信仰をもうもてない姉弟だが、そのような物語がやさしい慰撫を感じさせることもわかった。私的にはただ存在がなくなってしまった、時間の狭間において、二度と帰らない時間の波間に消滅してしまったという感が強い。

 母よ、おつかれさまでした。困難や苦しみも大きかっただろうが、子孫を残すことができただけでも人生は実りあるものだったのでしょうね。



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Comment

お悔やみ申し上げます。

お母様のご冥福をお祈りします。

「人から必要とされないと生きている価値がない」となぜ考えるのか
他者に承認されるしか自分の価値がないのではない
等を読ませていただきとても救われました、ありがとうございます。

お悔やみ申し上げます

うえしんさん

御母堂のご冥福をお祈り致します。
以前電子書籍を買う際に一度コメントさせて頂いたものです。

私も母子家庭で、父親の記憶はありません。
今は金融機関に勤めている関係で、生保販売の女性と携わることが多くあります。彼女たちの多くはシングルマザーです。辛いこともあるのでしょうが、いつも自分の前では明るく振る舞って下さいます。高層ビルにあるデスクに向かうより、彼女たちとの他愛もない会話に生を感じるのは気のせいではないのかも知れません。
最近うえしんさんは死生に関する評論が多いですね。とても興味深いのですが、現在の与党一強体制を克服し、政権交代可能な二大政党制をもう一度築くにはどうすれば良いのかを私は考えています。分断社会が蔓延し、弱者が更なる弱者を叩き安心感を得ようとする困難な時流になっているように感じます。井手英策氏の書籍に関する書評が拝見出来ればとても幸せだなあと思っています。応援しております。
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プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

 

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